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プロフィール
コメント数 202
性別 女性
自己紹介 閲覧&良票を入れて頂いた皆様ありがとうございます(*^-^*)
良票を頂けると励みになります!作品に対する意外なヨミと、読んでいて楽しいレビューを心がけています。楽しんでいただければ幸いです☆

ジャンルを問わず鑑賞していますが、ホラーを観るときは手で目を覆って指の隙間から観ますw

★好きな俳優★
M.ファスベンダー、E.マクレガー、J.ロウ、D.クレイグ、O.ブルーム、ジョナサン・リース=マイヤーズ・・・・・はい、そうです。イギリス俳優好きですw
さらには、ドナルド・サザーランド、S.ブシェミ、M.フリーマン、フランコ・ネロ、B.ウィリス、H.ジャックマン、C.イーストウッド、女性では、ユマ・サーマン、M.ジョヴォビッチ、C.セロン、A.セイフライド・・・などが好きです。

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1.  スター・ウォーズ/フォースの覚醒 《ネタバレ》 
ルーカスが無名時代SWを作る際、映画会社に「給料はいらないから、続編を全てを作らせてくれる確約をくれ」と言ったほど、彼の頭で作り上げられたストーリーは完全なものであり、彼が愛し、伝えたかった物語だ。  つまりEPは1~6をもって幕を下ろしたわけで、今さら「フォースの覚醒」といわれても、無理やり覚醒させるなよと、「寝た子を起こすなよ」と、思うわけである。  ディズニーの手に堕ちた今作は、”差別撤廃”をポリシーとするディズニーによって、マイノリティーである”女”と”黒人”をドまんなかに据えられた。  しかしだ。 私は人種差別主義者ではないが、SWは白人男子が主役のジュブナイルでなくてはならないと断言する。  4~6の幕開けとなる4でルークが主役だったように。 1~3の幕開けとなる1でアナキンが主役だったように。 周囲の思慮深い大人達に囲まれて、自らの宿命に従って時に戸惑いながらも成長していく少年や青年の物語でなくてはならない。  今回のような、すっかり成人の、女性と黒人。これはもうSWではない。  またSWには”イケメン枠”が必ずあるべきだ。  3~6では「キャンディキャンディ」(たとえが古くてすみません)の、まろやかイケメンのアンソニーにあたるのがルークであり、不良系イケメンのテリーにあたるのがハンソロである。 王道2タイプのイケメンがセットされていた。  1~3では、ユアンマグレガー、熟男リーアムニーソン、青年期のアナキン。いろいろなタイプのイケメンがセットされていた。  しかし今作ではメインキャラにイケメン枠がなく、パっとしない男ばかりである。  また”イケメン枠”と同時に”姫枠”も必須だ。  3~6ではレイア姫。 1~3ではアミダラ女王。  「強い女」がウケると勘違いされている現代だが、姫を守るイケメン男という構図はSWの”形式美”といってもいいほど重要なものである。  現在のディズニーは、ウォルト時代の「白雪姫」「眠れる森の美女」といった、姫とそれを救うイケメンという構図を「古い!」と切り捨ててばかり。  だから昨今のディズニー映画では、姫が登場しても男まさりでイケメンの活躍に期待しないタイプが多い。 カエル女も、ラプンツェルも、アナ雪も、ヒロイン達は男の活躍をさしおいて、むしろ男をリードしちゃってる。  SWは、時代が変われど、姫と彼女を助けるイケメンという古きよき夢物語を具現化することで、人々の心に「あぁ何かなつかしい。何か落ち着く」というノスタルジーをかきたててくれるのだ。  ジェダイ・ナイト(=騎士)というワードもそれを象徴している。 実際ルーカスは「子供に聞かせるおとぎ話として作ったのがSWのきっかけ」と語っている通り、SWは騎士と姫を軸に愛と冒険が繰り広げられるおとぎ話であるべきなのだ。  対するディズニー版SWは、各所にSWらしさを散りばめてはいるものの、”白人少年のジュブナイル”や”姫とそれを守るイケメン”という枠を超え、不文律を冒してしまった。既にアウト。 さらに「今後は同性愛キャラも否定しない」と、公の場でエイブラハムはシレっと言い放っていたので今後は一層SW本来の軌道から外れていくのだろう。  結論をいえばディズニーは  [SWの世界観が面白いからそういうSF作りたいけどパクリだと言われたくないんでカネにものいわせてルーカスから権利を買い取り堂々と合法的にパクリ映画を作ります♪]  ということであり  [パクリ映画を作るにあたっては白人少年ジュブナイルとか姫とそれを守るイケメンという枠はとっぱらって我々のポリシーである差別反対の象徴でもある”女”と”黒人”を前面に出してまいります♪]  ということである。  そしてその”女”。姫どころかゴミ集め屋・・って、ディズニー映画「ウォーリー」の設定のリサイクルかよ。  制作ドキュメンタリーも見たが「CGでは砂粒一つの表現にこだわってより現実感を出した」と何かのチーフが自慢げに言ったけど、大事なのはやはりストーリーなのだ。 4は、どんなに古臭いチープな特撮であっても、何度見ても引き込まれる。 こうして幾つもの大事な事を忘れた今作は、当然アカデミー賞主要6部門どれひとつかすりもしなかった。  最後にBB-8について。 あの動きがムダに多くてクルクル回転する映像で目を疲れさせるだけの雪だるま、ほんとダサイ。監督のデザインらしいですが、大失敗。  名前もあの雪だるま型を意識してBとか8を使ったのだろうが、「BBクリーム」や「チョコラBB」とかの製品名とかぶってるから、名前までダサイ。
[試写会(字幕)] 1点(2016-01-19 22:13:51)(良:9票)
2.  シックス・センス 《ネタバレ》 
この映画で起きる色々なエピソードには「後悔」というキーワードがあてはまる。 それも、死のあとにも残るほどの後悔。  マルコムが成仏せずこの世に幽霊としてとどまったのも、仕事人間だったために妻との疎遠な関係を後悔していることや、 ヴィンセントを救えなかったこと(彼も幽霊が見えていた子供であったが、それをマルコムに理解してもらえないまま病気として解決とされてしまったことを苦に自殺してしまった)などが、彼の死後も心残りだったからである。  台所に出た傷だらけのおばさんは、夫のDVで苦しんで自殺したのだろう。 夫への恨みが消えないまま、こんな男と結婚してしまったことへの深い後悔が残っているのである。  毒殺された少女も、自分の死の真相を父親に知らせ、妹まで義理母に殺されかねない(お通夜で「妹さんも体悪いそうで」という会話から察し)のを阻止したかったが、それができないまま死んでしまった後悔があったから幽霊となってとどまっているのだ。  そんな中、後悔を心に残す霊と出会うたび、彼らの後悔を解決していくのがコール少年。  幽霊にとって、この世に残した人への思いを託せる頼れるメッセンジャーだ。   でもコール少年の一番の功績は、見知らぬ幽霊たちではない。 母親の母親(コール少年の祖母)のメッセンジャーとなり、祖母が母親に伝えられないまま死んであの世でずっと後悔していた思いを、母親に伝えたこと。  「ケンカしたあと、険悪な空気になってあなたは私がダンスの発表会には来ないと思ってたとおもうけど、実はちゃんとこっそり見に行っていたのよと伝えてほしい」  「お墓の前であなたが私にした質問した答えは、”YES”(「私を愛していた?」という質問だと察し)だと伝えてほしい」・・・  そうです、よくあることですよね、家族間で、心の中では思っていても言葉にして伝えていなくて、伝わっていないこと。  私はここで号泣した。 今思い出すだけで泣ける。。。。  私は鑑賞当時、中1の娘がいたが、この頃の娘は反抗的になりもするし、きまずい母娘関係になったりもする。 でも愛しているし、いつだって心配している。。。 それを娘はちゃんと分かっているだろうか?それをあらためて考えさせるシーンだった。  この場面が出てきたとき、背後でノンキにスマホをいじっていた娘に「私はあなたのことが大好きだよ」と泣きながら言ってしまった。 (娘は目がテン…)  あなたは、もし今亡くなってしまうとしたら、思い残すことはないか?  後悔することはないか?  思いを伝えるべき相手にきちんと思いを伝えられているか?  あらためて自問して、もしあれば、早めにそれをできるだけ解決していくといいのだと思う。  ”今ある命、人生をいかに、大切にして生きていくか”  この「シックスセンス」はただのサスペンス・ホラーでもトリッキーなどんでん返し映画でもなく、  『今ある命、大切に生きてください』  という静かなメッセージが込められた、深い作品だと私は受けとめた。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2016-09-09 10:11:16)(良:7票)
3.  リメンバー・ミー(2017) 《ネタバレ》 
「ありきたり」?「先が読める」?「子供向け」? …この映画の表層しか見えない人は不運である。  この映画のメイン・メッセージは  ”あなたはこの世で今、人に愛される生き方をしていますか?”  これ1つ。  皆 自分を振り返れば、自己中心的で、人を傷つけ、陥れ、騙し・・少なからず人に愛されない事をしてきたはず。 そして、そうされた人達は加害者を嫌悪し、縁が切れれば記憶からも消されていく。  この映画で描かれる死生観  <この世で忘れ去られたら あの世でFinal Death(最後の死)を迎える=あとかたもなく消える>  が与える「自分を見つめ直し 与えられた一生を人に愛される日々で送ってみては?」という人生ヒントを 映画を通して受け取れるかどうか? それがこの映画への評価の分かれ目だろう。   ヘクターは音楽も家族も大事にした人。(音楽の為に家を出たが、ココへの歌を手紙で何度も送り続け、最後は家に戻り家族の為に音楽を続ける道を選んだ事から分かる。)  このキャラはディズニーのスタッフ達が自分達そのものとして、家族や自分を支えてくれた人達への感謝と自負を込め作ったのだろう。スタッフ達は仕事に忙殺され家族との時間をすり減らせている。 でも仕事か家庭かで一方しか選ばないのではなく、両方大切にする彼ら。 オスカー受賞者はよくスピーチで「私を支えてくれた父(母)に感謝」「私を支えてくれた妻(夫)と子供達に感謝」と語る。まさにそれこそ”仕事と家庭どちらも大切にする事”が可能である事を示している。  きっとスタッフ達も 仕事が忙しくても家族へSNSで連絡したり繋がりを保つ事を忘れない。夢の為に娘の傍にいられなくても、歌を手紙と共に贈り続けたヘクターのように。 家族に愛され、そして創作者として人々にも愛され続け、忘れ去られる事がないヘクターは、ディズニーのスタッフそのものだ。  「君達も、家庭か仕事(夢)か?ではなく、愛と工夫があればどちらも大切にできるよ。家族にも家族以外にも、自己中心的になって傷つけたり騙したりするのはやめて愛する事を始めてみては?」  この映画は子供だけでなく、大人にこそ心の奥深くに語りかけてくる作品だ。   ちなみにママイメルダはヘクターを決して嫌っていてはいない。ママココが本の間に彼からの手紙と写真をとっておけた事で分かる。本当に憎んでたら、彼が娘に手紙を出しても、娘に渡さず破り捨てていたはず。怒りにまかせ破り捨てた彼の顔写真も、娘が拾ってとっておこうと見つけ次第燃やしていたはず。でもそれをせず彼が娘の元に戻る事を本当は願っていた。そして彼女自身も自分の元に戻ってきてくれる事を本当は願い続けていた。  二人の愛ゆえに手紙が残り、そのおかげで、あの世で彼が消えかけたままミゲルがこの世に戻った後、手紙(歌を記した日付が、ニセ歌手が名曲の数々を発表した日付より前なので、ヘクターが真の作曲者だと分かる証拠)により、ヘクターが真の作曲者として、家族だけでなく町中の人々に語り継がれ、あの世で消える事もないというハッピーエンドになめらかに繋がる。この流れがなんとも美しい。  さらにいえばママイメルダとママココからの愛により顔写真も現存し、祭壇に飾ることができたからこそ、ヘクターが死者の日にこの世へ行けるという、すぐさま追撃のハッピーエンド。  あれほど父に逢いたがっていたママココが彼を忘れるわけはないのに、彼が消えかけるという展開を<ママココの死期が迫っているから>という自然な形で描きつつ、死の間際にミゲルのギターと歌により彼女が覚醒し、ママココが家族達にようやくヘクターの物語を心置きなくカミングアウトできる幸せを経て死ぬという人生のハッピーエンドの末、あの世ではようやく家族3人が再会という、最後の数分でイッキにたたみかけてくるママココ視点の見事なハッピーエンドへの持ち込み方も完璧ではないか。  そしてミゲル視点でも、家族への愛情と夢(音楽)のどちらかではなく、両方を実現できるようになったという、これでもかこれでもか!というハッピーエンドの連打。完全にノックアウトだった。   ところで私はミゲルの先祖がヘクターだとは全く読めなかったが、中2の娘は、ヘクターが<最後の死>を迎えかけた友の為にギターで弾き語る場面で「あ、ヘクターが先祖だなって読めた」なんて、ニヤニヤと得意顔で言ったので「だったら鑑賞代の半分しか楽しめなかったんだねぇ~」なんて嫌味を言うと  「でも、ミゲルがこの世に戻る直前、消えかけているヘクターに初めて『パパヘクター!』って言ったとき、号泣した」  ・・・・やっぱりディズニー、おそるべし。
[試写会(字幕)] 10点(2018-03-29 10:22:47)(良:5票)
4.  A.I. 《ネタバレ》 
マイ号泣映画10選に入る最高傑作。  相当昔見たが、当時「イマイチ」と思った記憶があり、デイヴィッドが海底で観覧車で封印された所で「なんて暗くて重くて寂しい展開なんだ・・・」と、絶望感を抱きつつ見るのをやめていた。 (そしてあの暗くて救いようのない場面から想像して、バッドエンドだと思い込んでいた)唯一、ジュードのロボぶりがイケてた事だけは好印象だったのだけど。  あれから十数年。何も期待もせず「まぁジュードロボをまた楽しむつもりで」と見始めたところ…あれ?なんで?面白すぎる!  多分私、昔見た時には母性が不足ぎみだったのだ。でも母となり可愛い息子がいる今の自分が見ると、母の気持ちもデイヴィッドの気持ちも全て分り感情移入できるではないか。  デイヴィッドを愛している母の葛藤(デイヴィッドをイジメる実息子だが実息子だから大事にしないといけない。返品すべきだと言って譲らない夫も拒めない)も痛いほどわかる。  故障したデイヴィッドを修理中、立ち会った母が彼の手を心配そうな顏で握っていたが、一瞬手を離してその場を離れ、セリフなしで何ともいえない表情をする。 以前見たとき私は「機械部分丸見えな息子のボディを目の当たりにして、やっぱりなんだかんだ言ってもメカの息子だとリアルに感じて気分が悪くなったか」と思っていた。 でもあれは「メカなのに、ナゼこんなにも心配で傍にいてあげたいと私は思うの?私はメカ息子を心から愛してしまっているの!?」と、自分の中にあるメカ息子への愛に自分自身でも戸惑っている、そんな場面なのだと今ならわかる。  (再び戻りメカ息子の手をギュっと握る様子が縦モザイクのガラスを通して写っている印象的な場面を見逃すな!そして、その手を嫉妬の目で見つめるマーティンの表情も。)  肝心のストーリーだが、ハーレイ君のあどけないブルーアイズのせいで感情移入しまくり、海底に沈む遊園地でブルーフェアリーとご対面したあたりから涙が止まらない。  宇宙人が”複製するには体の一部が必要”という所で、デイヴィッドの傍にいたテディがあの髪の毛を出す場面でも号泣。 一日限りの母親復活でナレーターが「母は、夫もマーティンもいない中でとてもリラックスしてデイヴィッドといた」と話したときも号泣(やっぱり、夫やマーティンの手前、メカ息子と親密にはできなかったのだねと)。  そして母がデイヴィッドを抱きながら「ずっと愛していたのよ」と、2000年前には言えなかったことを、当時も愛していた(でも夫やマーティンの手前、素直に言えなかった)ことを伝えた所でまた号泣。  なんと、ハッピーエンドだったとは!  (ちなみに、母によるメカ息子への愛の告白は「I do love you.I have always loved you.」となっていますが、ここ、I love you (大好きよ)じゃなくI do love you (めちゃめちゃ大好きよ)と、高校時代の英文法の時間に習った”強調のdo”が挿入されてるのがミソです。  で、続くI have always loved youは、昔まだ同居してたときに夫や息子の手前言えなかったけど心の中ではあの時からずっと愛していて今もそうなのだよ、という現在完了形を使った愛情深いセリフであることもミソです。 (しかもデイヴィッドを抱き寄せて頬をくっつけ、耳元で囁く…ずっと心に秘めてきたことを打ち明けるように)  ついでにですが、DVDではメカ息子の一夜限りの復活を果たした母への最初の一声が「I found you」で、そのとき字幕では「やっと見つけた」ってなってましたけど、あれは訳ミス。 まだ同居してたとき母親が彼をクローゼットに閉じ込めたあとに罪悪感にかられて開けたときに息子に言った、かくれんぼに見せかけたセリフ「I found you(みーつけた)」の伏線の回収場面なんですね。そこ大事ですね。   ストーリーのテーマは、いたってシンプルな「愛」。それを近未来の、さらにはその後の2000年後で人類は滅亡し宇宙人が来ちゃう時代なんて相当ブっとんだ時空のシチュエーションでも、観るものにとって違和感なく入れる世界観として描ききっている。  2000年先まで描くのは冗長とか、そういう意見も多いが、いやいや、先ほどの母親復活で親子の愛情を確かめ合う号泣場面でもあるし、2000年後こそメリルストリープ様が声を演じるブルーフェアリーや、ベンキングスレー殿下が声を演じる宇宙人スペシャリストの声を聴く価値もある部分ですよ。   ちなみにジュードロウの”首を横に一回カックンしたらミュージックスタート!”は多分、マイケルジャクソンへのオマージュ。
[DVD(字幕)] 10点(2015-06-24 11:27:52)(良:4票)
5.  メッセージ 《ネタバレ》 
あの宇宙人たちは未来が分かり、3000年後に自分たちの星がえらい目に遭うから、地球人に助けてもらいたいので、 今のうちに地球人に”武器”を与える。  その武器とは抽象画みたいな墨文字。  それが読解できるようになると、未来が分かるというシステムらしい。    「さぁ人類の皆さん!ぜひ我々の言語をマスターして、その力で無事3000年後まで生き延びてくださいね♪」    かくしてあの言語の解読に成功したヒロインは、未来が見えるようになりましたとさ。 めでたしめでたし・・・ってなんじゃそらああああああッ!!!!!   つまらない。 いやほんとつまらない。ツッコミどころ満載。   特にあの宇宙人のタコ。ふざけてる。なめてる。  墨出して一緒にお話ししましょとか、もうコレってギャグの領域。   ヘプタポッドだと? 7本足で、ヘプタは7を意味するからヘプタポッドっていうのは、オクトが8を意味するから8本足のタコがオクトパスっていうのっぽくて面白いでしょみたいな、タコ偏愛主義者の自己満足なムードがイライラする。   そもそも未来が分かる言語を人類が理解できるようになったら、ヘプタポッド語の参考書とかドリルが出てバンバン売れちゃうだろうし、 カルチャーセンターで”ヘプタポッド語講座”で教えたりして世界中の人々が未来が見えるようになっちゃったら、占い師は全員廃業でしょう。    宇宙人どもは未来危機に陥る自分たちを助けて欲しいから地球人に未来予知能力を与えたけれど、 人類にとっちゃぁ、よそ者の宇宙人のことより 未来予測を使って金儲けに走るだけに決まってる、っていう未来を読めないのかこの宇宙人ども。  ヒロイン以外のジェレミーとウィティカにも、きっと何か後ですごい働きするって期待してたんですけど、特に何もなく。 存在感も薄い。  それこそジェレミーは「28週後・・・」での滅私的な活躍に涙しましたし、ウィティカは「パニックルーム」みたいな、優しい黒人を演じさせたら光るしで、この二人が軍人側として登場するなら、絶対、ヒロインを守って何かやってくれるぞ、と、タコに失望した自分は彼らに望みを託して期待をしていたのですが、最後まで特に、何もなく。   全体的に静かな雰囲気ですが、静かすぎて  「あなた、何を期待していたんですか?宇宙人とのファーストコンタクトの話しだと思ってたんですか?言語読解のプロセスで魅せる映画だと思ってたんですか?これは、もっと内省的な作品なんですよ・・・フッ」  って言われたようで、イライラする。  未来を知ったヒロインが、ジェレミーと結婚してもいずれ離婚することも、子供が生まれてもいずれ病死してしまうことも分かったうえで、あえてその未来を受け入れるという姿を見せ  「ヒロインのこの選択すごいでしょ、あなたにはできる?考えてみてよ。どうなの?え?」   っていうのが、この映画が言いたかったコトなわけですが、彼女の決断すごいでしょ、なかなかできるもんじゃないでしょ、というこれみよがしな主張も、それと価値観を同じにする人たちでなければ共感できない主張。     いや、私だったら、あえて別離ルートなど選択せず、 別のひとと結婚して、健康な子供を産んで孫まで抱きたいと思いますがね。   実際にもう生まれてきてしまった後ならば、誕生後に余命を知ってしまっても、生まれてきた以上は腕に抱く子に愛着が芽生え育っていくから、生んだことを後悔しないけれど まだ頭の中に見える未来図の映像としてでしか見えていない子供に愛着は生まれないだろう。  実際におなかに9ヶ月宿して苦しんで産み落として、この腕に抱き触れ合ったわけではないので、特に思い入れは生まれないはずだ。  そのあたりの女の思考回路を分かっていない、でも女の思考を分かってるつもりでいる、母性を神聖視しすぎちゃってる男の原作者が勝手にイメージし、提示する”母性”は、まったくリアルではなく、妄想と虚像でしかない。   淡々としたSF映画で思い出すのは「ガタカ」で、あちらは相当お気に入りだが「メッセージ」は思わせぶりなだけで説得力もなく、トリッキーなパズル構成とスノッブなところだけがハナにつく。  ヒロインの娘の名前がハナだけにね。
[CS・衛星(字幕)] 2点(2018-02-21 11:47:05)(良:4票)
6.  ものすごくうるさくて、ありえないほど近い 《ネタバレ》 
強い絆で結ばれていた父が9.11で亡くなり、その父との絆を強く求めて、父の遺品だと思われたカギで開けられる場所を必死で探す精神障害の少年。  そういうスタートを切ったのであれば、この物語は、少年がカギを開ける場所に到達し、その場所に、少年の心に光を照らす何かがあって、ハッピーエンドで終わるべきではないだろうか?  しかし。  必死にカギの場所とそこにある父の影を探し続けてきた少年の前につきつけられた答えは、   「その鍵は、見知らぬオッサンの父親の貸金庫を開ける鍵」  ということだった。  結局、この物語で”感動”をもたらすエンディングとして提示されたエピソードは  カギで父が遺したステキな何かを発見して少年の「あの時、父からの電話に出られなかった後悔をクリアしたい。お父さんとの失われた8分を取り戻したい」という思いが成就することではなかった。  精神障害の息子とイマイチ深く関われていなかった母親が、息子のカギ穴探しの旅がスムーズにいくように密かに根回し活動をし、 後日「エッ、オカンが裏で支えてくれてたん?」と知った息子が母と和解するということであり、それによって心がクリアになった息子が9.11のトラウマを乗り越え、父に誘導されても乗れなかったブランコに乗れましたとさ、めでたしめでたしということであった。  確かに、”謎のカギ”や”冒険”という、けっこう小説では使われがちなテーマは、一歩使いかたを間違えると、よくありがちなパターンになって「オチ読めたし、つまんねー」と、否定されやすい。  父親からの息子への手紙とか、生まれたばかりの息子を抱く父とか、そういうテッパンのアイテムが カギで開けた箱に入ってたら、それはそれで評価ダダ下がりだっただろう。  だからあえて、カギの先にあるものと父親をリンクさせるという真正面からの真っ向勝負に出なかったのでは?  しかしながら、カギの先を探している過程で意外にも祖父との距離が縮まりました、とか、カギの先を探すサポートをしてくれた母親と和解できました、という、サイドストーリーを持ちだして  「はい、実はこっちが感動エピソードなのでした。意外でしょ?えへ、なかなか面白いプロットでしょ?」  と、やってやったぞ感に満たされてストーリーを書いていたとしたら、非常にタチが悪い。  貸金庫の話も煮詰めないまま突然終わらせ、そのカギの持ち主が離婚したはずの妻となぜかヨリ戻してるワンシーンを意味もなく見せ、祖父の死んだ息子や孫への気持ちもよくわからないまま「はい終了」で、誰が感動できるというのだろう?   (この映画にガマンならないので、あの開いた貸金庫には100億ドルの金塊が遺されていて、それに目がくらんだ元妻が遺産狙いで「やっぱりまた夫婦に戻りましょう」と色目を使ってカギの持ち主の男とモトサヤに持ち込んだに違いないと、いぢわるな解釈してやる。)  相撲の勝ち方で批判を浴びていた白鵬にたとえるならば 「勝てばいい」とばかりに、まっこう勝負に出ず、立会いの変化によって、ふいをつかれた相手を倒すという勝ち方と同じではないか。  この映画は、「はっけよーいのこった!」の声で立ち上がり相手に向かって突進するそぶりを見せて、ひょいと身をかわし、相手を「おっとっと!」って土俵際まで勢いづいたまま行ってしまったその背後から背中をポンと押して「はい、勝ちました」と言っている様な映画ではないか。  どうりで、ゴールデングローブ賞、全米映画俳優組合賞でも かすりもせず、アカデミー賞では作品賞&”しゃべらないオジイチャン”が助演男優賞でノミネートされただけで、オスカーは渡っていない。  9.11、精神障害、謎のカギ、探検・・・なんて、ずうずうしく並べて、いかにも「みんな、感動してくれ!」って感じなところとか、かえって毛嫌いされたのに違いない。  しかも「オスカーをくれ!」といわんばかりに、主人公にオスカーとか名づけている時点で、もうアウト。(実際そのつもりで名づけたかどうかは知らないが)  とにもかくにも、9.11と精神障害の少年という、最強のヒューマン映画臭を漂わせながら、カギという誰もが興味を強く惹かれる思わせぶりなアイテムをチラつかせてきたくせに、カギでまっこう勝負をしてこない、本当に卑怯な物語である。
[DVD(字幕)] 1点(2017-12-15 13:22:30)(笑:1票) (良:3票)
7.  ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー 《ネタバレ》 
スターウォーズのイメージを二字熟語で表せば「快活」とか「爽快」である。  それに対しローグワンは暗く、重く、そして最後は全員死亡って、シェイクスピアの「ハムレット」か。  スターウォーズはそっち路線ではない。  EP3ではアナキンがダークサイドに堕ちてしまったので、ある意味悲劇だが、死んでないし、それに悪役誕生というある意味物語展開上、必要な悲劇要素だった。  アミダラ姫は死んだが、2人の重要キャラを産み、自ら名づけたあとの昇天であるがゆえ、それは安らかな死でもあった。  それに対してローグワンでの登場人物全員死亡は、救いがない。  当然、新キャラはEP4にはいないので、いたら困る、だから殺してしまえ、それは分かる。  だが、そんなことをしてまで、むりやり3と5の間の話をこねくりまわす絶対的必要性があったのかどうかと、どう考えてもスターウォーズブランドに乗っかりたい気持ちと、EP6で終わったあとにEP7で寝た子を起こすようなことをしたうえに失敗までしたので、だったら安全圏の3と4の間の話ならどうよという、調子のよすぎる動機しか見当たらない。  スターウォーズ1~6までを愛するものとしては、ローグワンの背景に見えるご都合主義は、ルーカスの一連のシリーズに対する侮辱にしか思えず、エンドロールをうつろな目で眺めながら嫌悪感しか沸かなかった。   こんなふうに主要人物がひとり死に、二人死に・・・と、どんどん死んでいく展開は、どっかの山奥の山荘で殺人鬼に追われて一人死に、二人死に・・・っていうB級ホラー映画にしか思えない。
[映画館(字幕)] 1点(2016-12-30 09:25:55)(良:3票)
8.  ハウルの動く城 《ネタバレ》 
「内容が理解不能」という趣旨の批判も多い作品だが、宮崎はそもそも内容など重視していない人であることを忘れてはならない。 以前NHKスペシャル「終わらない人~宮崎駿」の中で彼は  「ストーリーなんてどうでもいい。場面を見て『あ~すばらしい』って。それがいい映画だから。自分が好きだった映画はみんなそうだったから」と発言していたが、「ハウルの動く城」はまさにその通りである。  ”印象的なシーン”を数珠つなぎにした作品、それが「ハウルの動く城」。 それはまるで、ガンコおやじがいとなむ、メニューや価格が決まっていない独善的な料理屋のようなものだ。 その店の方向性やガンコおやじとソリが合わない客がいたとしても、その店の価値、存在意義そのものに何の変わりはない。  しかしあえて言おう。私はストーリー的にもこの映画が大好きである。 メッセージ性もある。それは  「自己肯定観って大事」ということ。  否定的な人達の意見として多いのが ”なぜソフィーは老婆になったり若返ったりするのか?”だが  彼女はそもそも<老婆になる呪い>にかけられたのではなく<自己否定している時に老婆になる呪い>をかけられたということを理解しなくては。  ケバい母親や、モテモテの姉が登場する意味が分からないという批判もあるが、彼女達は 「ハデな服装なんて私には合わない」「私なんてどうせモテない」というソフィーの自己否定感をより際立たせるために、対比として登場していることを理解しなくては。 (だからこそ、鑑賞者が「ソフィーって母や姉と大違いの劣等感の塊なんだな」と理解した後は、彼女達は用済みであり、後半には一度も出てこないのである)  そしてソフィーが老婆になったり若返ったりする理由は <自己肯定観が強まる時や、眠っていて自己否定の意識そのものを本人が感じていない時だけ若返り、自己否定観が強まると老婆になる>なのである。  もっと細かく言えば、自己肯定には<素直に恋をしている時>という事も含まれる。  サリマンの前でハウルをかばう時や、「未来で待っててー」等、全力でハウルを意識しているときだけ若返るのはそれが理由だ。 ハウルがソフィーに花畑を見せた時にも若返るのは、男から花を贈られて素直にときめいている証拠。 しかし直後に「ソフィーはきれいだよ!」とハウルが言った途端、老婆に戻ってしまう。(「私、どうせきれいじゃないし」という自己否定が出た証拠)  中盤で若返りと老婆が頻繁に繰り返されたのは、自己肯定観の不安定さの証拠であり、後半になったらほぼずっと若返りしていたのは、自己肯定観がしっかり根付いてきたという証拠である。   ハウルの存在も、ソフィーが自己肯定観を育てていく上で必要不可欠。最初はぎこちなく関わっていたマルクルやカルシファーも、彼女の揺れ動く自己肯定観とのせめぎあいの中で、次第に心を通わせていくのは微笑ましい。 カブも、終盤で壊れ行くハウルの城のブレーキ役として役割を果たす上で、脇役ながら重要キャラであるが、彼の魔法が解けるためにも、ソフィーの自己肯定観が必要だったことを思えば、ソフィーが自己肯定観を得たことで  【みんな、ハッピーエンド】となり、実に上手にまとめあげられたストーリーである。  また、カブが王子に戻ることは、ソフィーの自己肯定観が自分自身だけでなく、周囲をも助ける力になるという事を示している。   このエピソードは、我々が自己肯定観をもっともつべきだし、それが自分だけでなく周囲の力にもなるというメッセージだ。  ちなみに突然90歳になったソフィーがあっさり状況を受け入れるのは不自然だという批判もあるが、彼女はそもそも、恋するトキメキも若々しい快活さもない、おばあちゃんみたいな性格であるのだから「ちょっとやそっとのことには驚かない」のは当然なのである。  ソフィーは、老婆になってもすぐに気持ちを切り替え世捨て人になる自分を「年をとるメリットだ」みたく感じているが、老婆になる呪いはあくまでも、見た目だけで、性格は若いソフィーのまま。 私は老婆までは行っていないが、少なくとも10代だった頃よりあきらかにハラが座っていて、ちょっとやそっとのことでは大騒ぎしない(そういうことにパワーを使うのは無駄と悟っている)ので、ソフィーの落ち着きっぷりに何も不自然さを感じない。  批判者は、そこに注意しつつ再鑑賞してみは?
[CS・衛星(邦画)] 9点(2017-07-21 08:46:39)(良:3票)
9.  グレイテスト・ショーマン 《ネタバレ》 
映画の主人公が、すべて善人とは限らない。バーナムとてしかりで、最初からバーナムを  ”見世物小屋をサーカスにしただけの、結局はフリークスを利用して金儲けをした男”  つまり、クズ野郎として鑑賞すれば  「よーし、クズ野郎の顛末を見てやろうじゃねえか!」  と、潔ぎよい気持ちで見ることができるだろう。  英国でバーナムが女王に謁見した際のパーティーに、一緒に参加したがっていたフリークスたちを追い出してドアをバタンと閉じて締め出した場面など  「おお!これぞまさにクズ男の真骨頂!」  と拍手すらしたくなるはずだ。  ところで、心に刺さる映画に必ずあるものの一つに主人公の”心の葛藤”があるが、主人公はそのクズっぷりにふさわしく、今作ではこの”心の葛藤”が見事なまでにズボっと抜け落ちている。  たとえば同じくフリークスを扱った映画「エレファント・マン」では、ジョン・メリックを見世物小屋から病院に引き取った医師は、彼のためを思って上流社会の人たちとの交流を彼に薦め、実際ジョンもつかの間の幸せの時を味わっていたが ある日医師は、暗い部屋で妻に「僕は、ジョンを利用していただけかもしれない。偽善なのか。僕は最低な男なんじゃないか」と、心の葛藤を打ち明ける。 この場面がもし「エレファントマン」になかったら?心に刺さる映画にはなりえなかっただろう。  もう一例挙げるなら「シンドラーのリスト」。この映画では、単に金儲けのために安いユダヤ人を雇っただけなのに、結果的にユダヤ人をホロコースト送りから救い出すことになった事に、主人公が気づかされるにつれ、心の葛藤を抱く描写画面が何度も出てくる。  どちらも「私がしていることは善か?偽善か?」と、心の葛藤で悩む姿があってこそ作品として心を揺さぶるのだ。  しかしバーナムは、フリークスを雇っている事についての心の葛藤は一切ない。  お悩みは  「上流階級に認められてぇえ~~!」  であり  「妻子を幸せにしてやれる世帯主になりてえぇえ~~!!」  だけなのである。  フリークスも、美人  オペラ歌手も、彼にとってはそうしたお悩み解決のためのツールでしかない。  サーカスのテントが火事で焼失した後、フリークス達が「ここが私達の家なんだ!再建してくれ!」とバーナムに懇願したが、その時点でもバーナムの頭の中心にあるのは  「妻子を幸せにするカッコいい世帯主になりてえぇ~~!!」  だ。  再建はフリークスのためではなく、フリークスに対する義理を果たして、さっさと家族関係を再建したいだけなのである。  テントを再建したら即フィリップに全部まる投げし、ゾウさんに乗ってド派手な演出で家族の元にゴー!とか、クズ男は、実に、最後の最後までクズなのである。なんとも痛快なクズ物語!  そして、そんなクズなストーリーを華やかに彩るのが、素晴らしい音楽とダンス!!  何を隠そう、ザック・エフロンが大好きな私である。 「ハイスクールミュージカル」シリーズや「ヘアスプレー」では、ピッチピチの彼の歌と踊りに心沸き立ち「将来このまま、もっとのびる!」と期待していたのに、その後のびるどころか全く話題作に恵まれず、すっかり落ち込んでいた矢先に、久々にミュージカル映画で登壇!  やはりザックは歌い踊ってこそ輝く俳優だと改めて思った。 バーでの「The Other Side」といい、ゼンデイヤとの「Rewrite The Stars」といい、期待以上の素晴らしさ。20代の頃より、声もずっと太く、ついでに顔と体も太くなっていたが、やはりオーラは健在だ。  そしてゼンデイヤといえば、娘が昔見ていたディズニーチャンネルのティーン向けドラマ「シェキラ!」に出ていたこともあり、彼女にも親近感も持ちながら楽しむこともできた。  ぶっちゃけ、ストーリーはクズいし、予告でサーカスシーンがてんこ盛りだからシルクドュソレイユみたいなエンタメが楽しめるかと期待したのに、迫力あるサーカス場面の割合はめちゃくちゃ少ない(予告編の場面がほぼすべてw)しで、評価できる部分が少なくて0点を付けたいところだけど、ザックの復活を祝して3点献上。  あと、アカデミー賞にノミネートされ舞台でのパフォーマンスの場まで作ってもらっていたのにオスカーを逃したキアラ・セトルの「This is Me」も、私にはそこまでグサっとは刺さらなかった。  たぶん、彼女が歌っている最中ずーっと心の中で  「そんなにヒゲがイヤなら、剃っちゃえばいいじゃん・・・」  って思って気が散っていたせい。
[映画館(字幕)] 3点(2018-03-08 11:01:38)(笑:1票) (良:2票)
10.  ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅
あれだけ動員数がありながらこのレビュー数の少なさは「ハリポタブランドならとりあえず見るか」という、だましのきく観客がほとんどだったからだろう。  結論からいえば、この作品はハリポタの”まずかったところ”を踏襲、いやむしろレベルをさらに下がった作品であった。  JKローリングの手法は、第一章のイントロダクションでは【目新しいものを台に並べて叩き売りした内容にさえすればOK】とする所。  でもストーリ-は実は稚拙で中身がカラッポ。 どこかで見聞きした、単純すぎる勧善懲悪。(オチが最初から分かる)  でもファンタジーというナンデモアリなジャンルがゆえに、それまで人々が見聞きしたことのない架空の物(組み分け帽子、動く階段、みぞの鏡、架空のスポーツ等)をズラズラダラダラとこれでもかこれでもかと垂れ流しっぱなし続けることで、目くらましのように、何か傑作のように錯覚させるのがJKローリングのやり方だ。  その目くらましから覚めた人達が、ハリポタシリーズの回を重ねるたびに生まれ、ハリポタ脱退者が増加。結果的にシリーズ8作品の国内興行成績は分かりやすいほどに右肩下がりをして終わった。  けして子役が大人になってしまったことだけが人気が落ちた理由ではない。 第一章でしつこいほど見せまくった”お話のイントロダクション的な珍しいもの”で客をひきつけるのには成功したが、2章以降は”イントロダクション的珍しいものの叩き売り”がなくなり、代わりにストーリーのほうで勝負をかける段階で、見事に失敗してきたからだ。   第一章ではバレなかったストーリーのからっぽさ加減が、2章以降でむきだしになって露呈したからなのである。  実際、「ファンタビが面白かった」と喜ぶ人達が挙げる良かったところが<かわいい動物たち>だの<コレコレなダレソレ>だの、登場する動物や人間がどういうものだったかにばかり終始している。 ストーリーも<ハラハラする><ワクワクドキドキする>という感情表現ばかりで、ストーリーそのものがどう面白かったかの説明ができないのは当然。  ものめずらしいものを見てハラハラドキドキ・・・なら見世物小屋と変わりない。   ちなみに私はファンタジーは嫌いなのではなく、たとえば「ロードオブザリング」シリーズは絶賛だ。 あのシリーズは、しっかりとストーリーをねりあげたうえで、話を進める中で少しづつ上手に”珍しい架空のもの”を見せている。 ストーリーが根幹としてしっかりしているからこそ、3作目がアカデミー賞史上初のファンタジー作品での<作品賞>でオスカーを得たのである。 (その他の部門含め11部門でオスカー取得は史上3作目の最多部門受賞) これぞホンモノの見るに値するファンタジーの作品である。  一方のJKローリンズは人気があるだけの目くらましがうまい稚拙な大衆作家に過ぎない。 (たとえるなら、パサパサで甘ったるいスポンジに、表側だけ豪華なクリームデコレーションとフルーツを盛っただけの安くて不味いケーキだ)  そんなわけで、ただでさえ稚拙なストーリーを”珍しい架空のもの”で隠してごまかすお話を書くJKローリングが、何を血迷ったかファンタビではいきなり脚本を書くのだから、この映画が駄作になるのはもう分かっていたとはいえる。  それでもあえて鑑賞したが、予想は的中。 ハリポタ第一章同様、これでもかこれでもかと、CGで架空の動物をあれやこれやとダラダラと登場させて観客を目くらましする手法で、実は中身がカラッポな内容を何かスゴイ作品に見せかけているだけであった。  私は子供の頃、つがいのハムスターが産んだ赤ちゃんを含めて10匹くらいのハムスターを1つのケージで飼っていたのだが、ある晩うっかり扉にカギをしめわすれ、一夜にして全員逃亡してしまったことがあった。 その時、ハムスターをつかまえるためにリビングにエサをまいておびきよせたり、本棚の中に棒を突っ込んで追い込んだりしていてイライラしながらグッタリした記憶があるが、ファンタビを見終わった後はまさにその時の気分に似ている。  ファンタビは全部で3作品作られるそうだが、ハリポタを下回る興行成績となり2作目以降はガーンと右肩下がりになることは間違いないと確信させる第一章であった。   最後に、主人公は魔法のカバンを持ち歩き、そのカバンにカバン以上のサイズのものが出入りする設定について。 そういう不思議カバンと、そのカバンを主人公のトレードマークにしていることそのものが「この設定おもしろでしょ!?」と押し付けがましい。  名作「メリーポピンズ」のメリーが持ち歩いていろんなものを取り出す魔法のカバンの二番せんじでしょうに。
[映画館(字幕)] 1点(2016-11-29 13:01:33)(良:3票)
11.  ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド 《ネタバレ》 
リックとクリフの、日常会話的な特に緊迫感もないダラダラとしたやりとりが延々と続き、 クリフがヒッピーの牧場でグダグダしているあたりで、  「これっていつまでこういうテンションのままなんだよ…」  と思い、途中放棄しそうになって一時中断。  (タランティーノ作品は結構好きなほうなので、。どうでもよさそうなグダグダ話は慣れてはいるのですが…苦笑)   「でも放棄する前に、みんなの評価はどうなのか見ておこう?」  と、こちらで感想を拝見。 すると、シャロン・テート事件を知っておくべきとのご意見多数。 それならばと、いったんその事件について調べてから、あらためて続きを鑑賞することに…。   するとまぁあら不思議!  ただのキレイなねーちゃんだと思っていただけのシャロンの一挙手一投足に  「あぁ、間もなく惨殺されるのに、何も知らず可哀そうに…」と、いい感じに気持ちが入り始めたではないか。  シャロンが自分が出ている映画を見て、自分の登場シーンの会場のウケ具合にうれしそうにしたり、 夫のために「テス」の初版本を本屋で買うという、なんということもない場面さえ、シャロン・テート事件を知っておくと、すべて  「あぁ、間もなく殺されちゃうのに…」  と、どんなシーンでも感情移入。    そして、運命の時間へのカウントダウン開始!! (めっちゃ気持ち入る笑)  シャロン・テートとお友達セレブご一行のホームパーティーの様子と、 場末のダイナーで飯を喰らってダべってるリック&クリフの行動が、交互にテンポよく映し出されていくのが小気味いい。   このあたりからは、まばたき一つできないほど一気にグワーっと引き込まれた。   「あぁ…いよいよ惨殺始まるよ…タランティーノ仕立ての、血みどろグチャグチャのマーゴット・ロビーを見ることになるよ…」   ところがどっこいのタランティーノ笑  まさかの”家違い”で、ポランスキー・ハウスのお隣さん、リックのおうちにポランスキー宅を襲うつもりのヒッピーがやってくる笑   そして、ヒッピーにやられるどころか、LSD漬けの葉っぱでラリったクリフが、愛犬と共に、やつらを血みどろグチャグチャにするわ、リックは気が狂ったヒッピーを火炎放射器でこんがりローストにしちゃうわ…   史実を軽やかに変え、伏線回収も鮮やかな、最高にウケる見せ場を持ってきてくれました笑  ”落ち目の俳優と、連れのスタントマンの物語”  ”シャロン・テート事件を扱った映画”  という2つのヒントだけ観客に与えつつ  ”シャロン・テート事件”は”落ち目の俳優と連れのスタントマン”によってなかったことになるという、ストーリー上の大どんでん返しではなく  「当然、シャロンは殺される」という観客の思い込みをひっくり返す、変化球的な大どんでん返しで来るとは…タランティーノってやつはまったく…笑    (wikiの映画説明でも、”シャロン・テート事件を背景に”という、この映画では彼女は事件に遭わないという肝の部分までは分からないぼんやりとした説明の書き方の理由が、この壮大な大どんでん返しのネタバレ回避のためだと後で合点)  タランティーノ監督の代表作のひとつ「イングロリアス・バスターズ」では、”ナチスに恨みを持つヒロインが映画館でヒトラーを焼き殺す”という、史実と異なるヒトラー惨殺の見せ場を作ったくらいなので、今作の”シャロン・テートの隣人宅に間違って押し入った犯人たちが逆に惨殺される”という脚本も、問題なくスムーズに楽しめた。    「イングロリアス・バスターズ」に出演したブラピと「ジャンゴ~繋がれざる者」に出演したレオのW主演の今作。 それぞれの出演作では、ワルを殺す見せ場をメラメラと燃え上がる炎(前者は劇場、後者は邸宅)で演出していましたが、今作でもばっちり火炎放射器でメラメラと印象的な場面を作ったわけですね。   そして最後に訪れるシーンも秀逸。 リックがポランスキー邸に遊びに来ていたシャロンの男友達としゃべっている時に、シャロンがゲートについているインターホンで、普通にリックと話し始め、一緒に飲みましょうとゲート内に招き入れて、玄関前で抱擁…。  もし、あの日、カルト集団の殺人グループがポランスキー邸ではなく家違いで隣に押し入っていたら…?  もし、あの日、間違って押し入った家で待ち構えていたのが、筋肉隆々のスタントマンの体育会系男子(しかも葉っぱでラリってる)と、あのおっかない犬と、火炎放射器プレイヤーだったら…?  そういう想いが胸をめぐらずにはいられない、感傷的にさせるラストシーンだった。
[インターネット(字幕)] 8点(2020-09-09 15:19:57)(良:3票)
12.  ミスト 《ネタバレ》 
中盤で、カルト的ではあるにせよ”神の御心のままに”生きて、銃殺されたおばさん。  それに対して、殺人や自殺(自殺ほう助も含む?)を禁じたキリスト教の神の教えにそむき、大事な息子を早まって殺してしまい、打ちひしがれた主人公のおじさん。  映画のラストは、原作にはない内容だということで、このオチについては、監督らの考えが入っているとはいえ、原作者キングは絶賛したという。  ということは、キングは宗教というものを、心から信じているというよりは、客観的な見方で「信じすぎても、信じなさすぎても。どちらにしても、いい結果を生み出さないかもね」というドライな価値観を持っているのではないだろうか。   原作のラストは、ラジオから流れる放送を聴いてそこで語られていた避難所(安全かどうかは読者の想像次第)に向かうという場面で終わるそうで、その場所の名前は”HOPE(ホープ。希望)”。  でも当初は名前をはっきりつけておらず、ファンから抗議があって書き換えたそうで、どちらかというと、ファンが”希望”を抱かせるオチを望んでいたのでしかたなく合わせたということだったのかもしれない。  (「ショーシャンクの空に」もキーワードがhopeでしたからね)   そういえば「ミスト」の原作発表後に作られている  『危険な状況下でラジオ放送で語られる<安全地帯>は安全じゃない』  という法則をはじめて作ったのはひょっとしたら「ミスト」の原作かもしれませんね。    いずれにせよ私がこの後味の悪い映画を何度もついつい見てしまうのは、スーパーという閉ざされた場所で繰り広げられるシチュエーションスリラーとしての面白さにつきる。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2017-06-19 17:51:11)(良:3票)
13.  ブタがいた教室 《ネタバレ》 
レニーゼルヴィガーとユアンマクレガーが出ている「ミスポター」でのワンシーン。レニー扮するポターが、田園地帯を散策中、牛の世話をしていた農夫にたずねる。「この牛は、なんて言う名前なの?」それに対して彼は答える「家畜に名前はつけません。殺すときかわいそうになるのでね」・・・・・・つまり、これが「ブタのいた教室」が0点である理由の全てなのである。  この教師は、子供達にブタにPちゃんという名前をつけさせてしまった時点で  ”生き物を食べるために育てる=家畜”    ”生き物をかわいがるために育てる=ペット”  の違いが分かっていない愚かな教師だ。 育ててから子供達で食べるかどうか決めさせるのであるなら、スタート時点で名前をつけず、「家畜」「ペット」の境界をニュートラルにする必要がある。しかし、すでに名前をつけて「ペット」に分類させたブタを、最終的に食べるかどうか決めさせるなんていう行為は「育てたブタを食べるかどうか?」ではなく「かわいがったペットを食べるかどうか?」と子供たちに迫る愚行なのである。  いわば「戦地で食べモノがなくなったら、死にかけの戦友を食べるかどうか?」という議論をするようなものだ。われわれとて、ペットとして飼っていた動物は食べたくもないはず。  そんな意味不明で議論のテーマにもならないことを、おおまじめな顔で議論し、見当外れの意見がとびかう教室。空いた口がふさがらないのである。  食物連鎖のピラミッドは自然の摂理。それにしがたい、生きるために上の階層が下の階層の生物の命を奪うことには罪はない。 罪があるのは、生きるため以外、すなわち装飾のために毛皮とるために殺すとか、ハンティングのような娯楽のため殺すことだ。教師が教えるべきことは、そのことであって、「生きるために動物を殺すことはアリかナシか?」ではない。人間はほかの生き物と違い「感情論」を持つ生き物であるがゆえに、生き物を殺す葛藤が生まれる。でも大事なのは、食物連鎖という自然の摂理に従い下層の生き物の命をいただき、その食べ物に感謝すること、そして、食べモノを粗末にしないことであることを伝えることが教師の役目だ。  それを伝えたうえで、毛皮はぎの現場の映像資料を見せ、食物としてでなく装飾目的で動物達が糞尿と病気が蔓延する劣悪な環境で大量に育てられ生きたままこん棒で殴ったり感電して失神させられ生きたまま泣き声をあげようが容赦なく皮をはがされ、まだムシの息で生きたままの皮をはがれた動物達の山が食べられることなく積み上げられ廃棄されている場面をしっかりと目に焼きつかせることも教師の役目だ。  子供達の母親世代には、毛皮の現状も知らずダウンジャケットのフードのフチにリアルファーがくっついているのを何の意識もなく購入して「きれいでしょ」くらいの気持ちで着用している。そうした親が子供に毛皮の罪を教えることは期待できないのなら、学校で教えるしかないだろう。  名前をつけてペットとして飼育したブタを食べるかどうかなんていう意味のない議論をするより、学校のウサギ小屋にいるウサギを教室に運び込んで「みなさんの着ている上着を飾るために、このウサギを生きたまま殴って気絶させて皮をはいで、みんなの上着に縫い付けるかどうか議論しましょう」と、毛皮の真実を教えるほうがよっぽど、命の重みを学ばせることができたのではないか?    最後にひとつ。  ディズニーピクサーの「モンスターズインク」で、外来の汚染生物であり危険な存在と認識されている”人間”の女の子。マイクはその子をどうやってモンスターの世界から追い出すか、それまでの間彼女をどう隠すか、を必死で考えているのに、マイクの親友サリーはその子に<ブー>という名前を付けてしまう。それを知ったマイクは叫ぶ  「名前なんてつけたら、愛着わいちゃうでしょ!」  そう。だから私は言いたい。   「ブタにPちゃんなんて名前つけたら、愛着わいちゃうでしょ!」
[地上波(邦画)] 0点(2014-08-04 15:37:46)(良:3票)
14.  劇場版 鬼滅の刃 無限列車編
これは「君の名は。」のような単なるブームとか現象とかいうものではなく、「千と千尋」のようなジブリ全盛期のブランド的価値とかいうものでもない。  シンプルに”内容が実に良い”。   キメツはあらゆる人間を共感させる。  映画を見る前に見たアニメ26話で気づいただけでも、  ◆職場でパワハラに悩む会社員や派遣社員やフリーター ◆DVやモラハラで苦しむ主婦 ◆親に虐げられたり、離れ離れになってしまった子ども、 ◆自分の才能を信じて夢に向かいながらも葛藤するアーティストの卵   などなど、あらゆる世代を共感させるキャラとストーリーが詰め込まれている。  首や血が飛ぶ表現が批判されがちだが、実はそれほど狂暴な存在として描かれている鬼が、人間時代はとんでもなく悲しくせつないエピソードを持っており、そのコントラストを強くするためにあると考える。  頭ごなしに、「残酷描写ノドコガイインデスカ」と否定し退けるのは間違っていますよ。   また善悪両方の世界が厳格な”ランクづけ社会”になっていて、学生も社会人も感情移入しやすい。  そしてこの映画では、本来の主人公タンジロウではなく、タンジロウの上司(鬼退治会社の幹部)の、レンゴクさんという熱い男が主人公になっている。  そして映画でもアニメの各話同様、”過去エピソード”が涙を誘う。 やっぱり何歳になっても、男はお母さんが好きだよねぇ…。  アニメ版ほどえぐい流血もないし、”強いものに生まれた者は弱いものを守るもの”っていうシンプルで分かりやすいメッセージで、子供にも見せてあげてOKだと感じる。  (『アメリカンスナイパー』に「人間は3種類。狼と羊と番犬だ」というセリフがあるけれど、レンゴクさんはまさに番犬。)   ところで。  世間がずっと前からキメツキメツと騒いでいたころ、40代の私は「また、ワンピースとかナルトとかそういうジャンプ系の一過性のブームでしょ笑」と、見向きもしなかった。  アニオタの娘(JK)も、グロい表現(首飛ぶ、血しぶき上がる)があるらしいとのことで、敬遠していた。   しかし、そんな娘も友達に原作を貸されて読んだらあっという間にハマったらしく、娘の影響で私もアニメを見たら、食わず嫌いだった自分を恥じた。  敵である鬼も、もともとは人間。 いわゆる血液感染で鬼になってしまうのだ。 (鬼にさせちゃうのは、鬼のトップであるキブツジ ムザン)  なので、どんなにひどい鬼も、その過去エピソードが明かされると「あぁ…そうだったんだ…」と涙を誘う。  実はここがキメツの醍醐味だ。 戦うだけ戦って、敵が死んだ後で、敵のせつない過去を見せる手法は、スターウォーズ形式(EP4~6からの、1~3)と名付けたい。  (ただし、今回の映画ではアカザの過去エピソードはおあずけ。 私は劇場版を見た後、原作で彼の過去を知ったので、「そうか…彼がドーンって大地を踏むとああなるのは、そういう理由だったのか…」とかいくつも過去とリンクする彼の容姿や技に気づかされ、「じゃぁもう一度見てそれを確認しなくちゃ…」と思っているところです。  ということで、今回はアカザではなくレンゴクさんの過去エピソードにて泣いてください。)   ちなみにアニメや原作を見なくても、最低限これだけおさえておいて、ネットでビジュアルだけ確認しておけば、映画を見てもついていけると思う。↓  ●メインキャラ  ・タンジロウ(努力家。鬼になった妹を人間に戻すために、鬼退治の組織”鬼殺隊”に入った新入社員。) ・ゼンイツ(極度の臆病者。失神してから夢遊病者みたいに戦い出す。タンジロウの同期。) ・イノスケ(好戦的。承認欲求強め。イノシシに育てられたので、イノシシの被り物をしているタンジロウの同期。)   ●サブキャラ ・ねずこ(タンジロウの妹。鬼化したが特別変異で人を食わずにタンジロウと共に鬼の超人的パワーで鬼退治を手伝う。) ・レンゴク(鬼退治の組織の9人いる幹部”柱”の1人でタンジロウの上司。今回の映画の主役。)  ●敵キャラ  ・アカザ(鬼軍団の12人いる幹部”十二鬼月(じゅうにきづき)”の3位ランクの鬼。) ・エンム(”十二鬼月”の下位ランクだが、ムザンに気に入られパワーアップする血を与えられての今回が初参戦。柱とタンジロウを殺して、上位ランクに昇進するのが夢。)   ※鬼は太陽を浴びると死んじゃうので、ねずこは日中は箱に入れられてタンジロウが背負って移動している。
[映画館(邦画)] 10点(2020-11-03 12:14:14)(良:3票)
15.  ベイマックス 《ネタバレ》 
ベイマックスが自分がこの世から消えるのを承知でヒロを生かすために身を滅ぼすシーンで、次女(小6)が号泣していたが、私はそれほどでもなかった。  ベイマックスって、かわいいが、しょせんロボットやんという冷めた心があったのかも。   ベイマックスのする事なすことはすべて、ヒロの兄がディスクに書き込んだプログラムによる作動でしかないし、優しさやスキンシップも大切なひとを失った人のケアの仕方をパソコン経由で自主バージョンアップしたり、つまり、ヒロにみせるすべての言動は、ベイマックスの感情ではなく”感情風”なのだと思うと「面白~い」とはおもえても「泣けるぅぅぅ」とまではいかない。   あと日本語ではベイマックスはケアした後に「あなたは大丈夫ですか?」と聞くのだけど(そしてケアした相手が「大丈夫だよ」と言うとミッションコンプリートになって充電用ケースに戻るのだけど)英語で視聴すると、ベイマックスは「Are you satisfied?(あなたは満足しましたか?」って聞き、ヒロが「I'm satisfied」と言うとミッションコンプリートとなる。   私の場合、その”満足”っていうワードが、CMでよくある「顧客満足度ナンバー1!」みたいな、サービス業者みたいな感じで、どうも安っぽく、企業的なノリのベイマックスに感情移入することに違和感があったのもあるだろう。   使用後のご感想は1から10で言うとどれに該当しますか? アンケートのご協力ありがとうございます。 今後の顧客サービス向上のためこのデータを利用させていただきます。的な。  ベイマックスはいったん滅ぶものの最後の場面では、ヒロを救うために放った自分の”ロボ手”にハードディスクを握らせてあって、ヒロがベイマックスの外側を作り直して、そのハードディスクを入れて、はいベイマックス復活♪みたいになっちゃったのも、少ししらける。  「ローマの休日」のアン王女と新聞記者が、最後はそのまま駆け落ちして二人の愛をまっとうしちゃったみたいなストーリーを見せられたような気分だ。   ピクサーは、「インサイド・ヘッド」でリンボンを、命を賭して友を救うという泣けるキャラを投入する勇気があるのだから、ベイマックスを復活させないという筋書きの選択肢は不可能ではなかったと思う。  リンボンはサブキャラだから消してもいいけど、ベイマックスはメインキャラだから消せないという判断だったのだろうが、結果としては私は復活前提で消えたベイマックスでは泣けず、二度と戻れないのを覚悟で消えたリンボンは毎度見るたびに号泣、である。  それに「リメンバーミー」でもほら。。。(ネタバレになるので自重)  ベイマックスはベイマックスが主人公のようでいて、実際の原語タイトルは「Big Hero 6」なのだから、あくまでもベイマックスは主人公ヒロの相棒であって、どうしても途中で抹殺しちゃいけないキャラではないはず。  命は1回きりだからこそ、身を滅ぼして誰かを救うことに価値があり、人を感動させるものではないだろうか?   そして、あれだけ泣いた次女だが、見終わったら 「でもヒロたちは仮面男をやっつけるのにあんな面倒なパワースーツとかベイマックスのバージョンアップするより、マイクロボットを倍の数作って対抗すればよかったじゃんね?」と、これまた冷めたことを言っていた。  私としては、キャラハンの娘を危険にさらし、キャラハン教授を鬼に変え、ヒロの兄が巻き添え爆死する状況を作った、そのそもそもの大凶源クレイが、結局そんな大打撃受けないまま終了しているところに”これでいいのか”感がいっぱいである。  とはいえ、全体としては無難にまとめたダイナミックな映像。  結局ディズニーピクサーはどんな話でもこういうアクション的要素はどこかにすべりこませてくるので、チカラワザで7点をつけさせられた感はいなめないが。  最後に。ゴーゴー・トマゴという名前が「キルビル」のゴーゴー・ユウバリを彷彿させたのだが、英語圏ではゴーゴー・ナントカっていう名前がけっこうあるのだろうか?
[DVD(吹替)] 7点(2015-12-02 12:11:03)(良:2票)
16.  ヘアスプレー(2007) 《ネタバレ》 
この映画では「コニー・コリンズショー」は最後、黒人と白人が一緒に踊り白人至上主義のヴェルマはクビになって追放!メデタシメデタシ!なエンド。  でもこのショーのモデルになっていた実在の60年代の番組「バディ・ディーンショー」(映画同様2時間ワクで週6日放送されていた大人気番組)では司会者が黒人に対する差別化廃止を訴えたとたん番組が打ち切られたという真逆のバッドエンドだったのだ。  2枚組DVDの特典disc2をぜひ見てほしいのだが、オリジナル版を作ったジョンウォーターズが、その司会者を中心とした出演者(当時は高校生。今はおじいちゃん&おばあちゃん)の同窓会(そんなものがあったとは)で、その番組の不幸な顛末を聞いてこの作品のストーリーを思いついたそうな。  なるほど、それを思えば、社会的マイノリティを描かせたらピカイチのジョンが「美男美女がウケるティーンの番組でもし、チビデブが支持されていたら?」「黒人差別を廃止できず強制終了された番組がもし、黒人差別を廃止を受け入れていたら?」・・・といった、マイノリティーのポジティブな”if”を映画の中で現実化させたらさぞかし痛快になる。   ということで生まれたこのステキなストーリーだが、オリジナル版はB級味こってりだったので<知る人ぞ知る>な作品だったところ、後に舞台でミュージカル化されて知名度がアップ、そしてその<多くの人が知る>ミュージカル舞台版を映像化した今作は、ユニークな物語に実力派ベテラン俳優団と若手新人団が見事に融合した傑作だ。 しかも舞台版よりも多くの曲が追加され、躍動的なダンスシーンのオンパレード。それはアダム・シャンクマン監督が以前はダンサーで振付師でもあったことから来るそうで。とにかく痛快で”動的”な作品なのである。  かくして大量のダンス&歌が詰め込まれていたわけだが、私はまだまだ、あと5曲くらい増やしてくれてもまったく飽きないくらい。ゴスペル、ロック、モータウン、R&B、ラテン、ビッグバンドジャズなどなど・・・カラフルなケーキやお惣菜が食べ放題のように次々と目の前に並べられているような気分になる。  ジョントラヴォルタは、ママ役のオファーが来た時「女装した男じゃなくて本当の女に見えるようにメイクして」と条件をつけてOKしたそう。そういえばウォーターズのオリジナル版では、ディヴァインがママ役をやっていて、それはもう「ピンクフラミンゴのドラァグ・クイーンのまんまやないか!マツコデラックスやないか!」という見た目だったのだが(私的にはちょっとそれはカルト臭がして苦手だった)、この作品のジョントラは、オネエではなく、見事に女性になっていた。その身振り手振りやちょっとした表情も見事に女。やっぱり演技力最高ですね。   ザックエフロンのようなディズニーチャンネルあがりのイケメン若造俳優は私が最も苦手とする部類なのだが、この映画のあの額部分にフックがついているみたいなヘアスタイルといい、何かとウィンクしてくるヤサ男っぷりが素晴らしく、この作品を見てザックが好きになって、思わず「ハイスクールミュージカル」をずいぶんブームが去って今さらの時期に見てしまったくらいだった。  ラティファ女王も余裕の貫録。彼女は終盤あたりで「I know where I've been」という黒人差別についてシヴィアに歌い上げるゴスペルを披露するのだけど、他の曲がすべてアップテンポかミディアムな中で唯一スロー、そして他の曲がすべてオチャラケ系であるのに対してマジメ系・・・という点で、よりいっそう見るものはこのナンバーに心がフォーカスされるのではないでしょうか?  美魔女ミシェルもまた余裕の貫録&美しさ。49歳であのミス・ボルチモア時代の思い出シーンはすごいとしかいいようがない。  ウォーケンは動きが少ない分、細い表情の演技がとても素晴らしい。私は、ジョントラママに家を追い出されて店で寝ていたところにトレイシーがやってきて家のカギを彼に見せたとき「おぬし、やるよのう」みたいな表情をする彼が好きですよ。あと、ジョントラママがフリンジドレスで踊ってデカ尻をウォーケンに向けてブルンブルン振った時に「うっぉーうちの嫁タマンネー!」って表情で口に手をやるとことろも。彼のあの、サラリとした顔だからこそできる、絶妙な顔ワザではないかと。  そして私は「良い演技をするので好き」な黒人俳優は何人かいましたが「デートしたい」と思う黒人俳優はいませんでした。が、この映画のシーウィードには、ヤられました。ブラックベリーの味をお試し希望。
[DVD(字幕)] 10点(2015-06-16 11:15:02)(良:2票)
17.  鑑定士と顔のない依頼人 《ネタバレ》 
ヴァージルはビリーの画家としての才能を否定しつつも、オークションに出品された名画をビリーに安価で落札させた上で買い取り、自らのコレクションを増やしていく。このシステムで沢山集めた女性の肖像画コレクション。それらは、そのビリーを主犯格としたヴァージルと関わる数名のキャラによってあっさりと奪われる。  しかし犯人ビリーは名画が欲しかったわけではない。名画を売り払い大金がほしかったわけでもない。単に”自分の画家としての才能をヴァージルに認めさせたかった”だけなのだ。ここ大事。  そして彼の期待どおり、実際ヴァージルは彼を認める事となる。それはかつて「才能ないよ」といったそのビリーが描いたただのサギ用アイテム”クレアの母親の肖像”(クレアにそっくり)を、ヴァージルが家を売り払っても手放さず、ずっと大事にするほど愛でる事になったことで証明される。  「ビリー天才!」と口にしたわけではない。でも彼の絵が手放せなかった事は、クレアへの思いが前提にあるとしても、彼女を描いた絵が彼の心に訴えかけ、魅了するものである以上、結果的にそうした絵を描いたビリーの才能を認めてる事になるのだから。  見終わった直後は「ヴァージルは皆に裏切られ名画も持ってかれ何も残ってないわ。救いのない悲惨なエンド」と思った。  だが、いや、待てよ。この映画の英タイトルは「the best offer」(最良の出品物)。  とすれば?そう、女の肖像画に囲まれて精神的自慰に浸って、生身の女に恋を抱くことすらなかった、ましてやその肌に手袋を外して触れることもなかった”二次元萌え”のオッサンが一生に一度の恋を味わえたのだ。  それがたとえウソだとしても、あの時の高揚館・・・花束やドレスやメイク品や指輪を、愛する人を想いながら選ぶ時のときめき・・彼女の自分への思いが愛なのかどうなのかヤキモキする感覚・・他に好きな人いるんじゃないのって嫉妬心に燃える感覚、そしてメイクラブした時のあの頭のてっぺんからツマサキまでジワ~ンとする感覚、やっぱり彼女はボクが好きだった!と実感しプロポーズ作戦大成功した時の感激・・・そうした数々の【恋でしか得られないモノ】は、金で何でも手に入れてきた彼が唯一手に入れられなかったもの。これをを得たことは、たとえウソだとしても、そんなバラ色の体験を与えてくれたクレアは、彼にとって  <the best offer>(最良の出品物)  だったのだという結論に到達できよう。  ヴァージルはクレアというニセモノの恋心を持った出品物を見てbid(入札)し、最終的に手に入れた。 ヤフオクでニセモノのヴィトンバッグを買っちゃった人のように、彼女の恋心がニセモノだと後で分かったが、手にしていた間は最高の思いができたのだ。(何百枚の名画の女は、彼に感動は与えることはできても、恋する者だけが得られるこれだけの感情を与えてはくれないのだ!)   年月が経つほどにヴァージルにとっては、彼女が彼を本当に好きかどうだったかなんて、もはや関係なくなっていったのかもしれない。相手が自分を好きだったかではなく、どれだけ自分が相手のことを愛したか。そこが、一生に一度の恋の重要ポイントであることもある。最高の恋愛ってのは、なにも両思いでなくてもいい。片思いでも振られた恋でもいい。いかに深く愛せたかが重要なのだ。  彼は絵を全部持ってかれた後も金はまだあった。引っ越し先の立地(観光名所広場のそば)や内装をオーダーでする余裕などを見れば分かる。まだ”2次元萌え”オッサンであれば改めてまた名画の女性を集め直していただろう。  しかし彼は、ビリーによるサギ絵(ヴァージルにとっては事実上クレアの肖像画)1枚だけで良かった。100年価値を認められ続ける名画の女どもより、二度と会えない思い出の女性のほうが彼にとって100年の恋だったのである。いってみれば  ”2次元萌え専門だったキモヲタおやじが3次元の美女との恋に目覚めちゃってリア充  ~もうあの頃には戻れないボク~”  といったコピーでもつけたくなるような映画である。絵画、オークション・・・といった崇高な世界が舞台になってるから気品あふれる雰囲気の中で進んでいく話だが、要はそういうことだ。(いい意味で)    『適当な恋の3つや4つはしても、心に深く残り続ける一生に一度の恋をしたことのないまま死ぬ人間もたくさんいる中で、金で買えない、プレシャスな恋。それを手に入れたヴァージルは、実は幸せものなんだよ(さぁ、あなたも一生に一度の恋をしましょうか?)』っていうのが、この「the best offer」という映画のメッセージなんじゃないかな。
[DVD(字幕)] 10点(2015-06-14 15:19:19)(良:2票)
18.  96時間 レクイエム
リーアムニーソンの娘が想定外妊娠。   彼女はそれをニーソンに黙っていて一人で悩んでいるが、刑事に追われるニーソンと学校のトイレで落ち合った際、個室トイレの中で突如ニーソンに妊娠を告白。   ニーソンはそんな娘を抱きしめるが、体育会系とーちゃんの脳内に、「妊娠した女性の体は気づかうべき」という思考回路はない。   母殺しの真犯人をつかまえようと、悪徳ロシア人のアジトに乗り込む際に、胎児の状態が不安定な妊娠初期の娘を同行させ、アジトの地下駐車場でニーソンとの通信係にさせるという、危険きわまりない仕事をさせるのである。母体のメンタルが胎児に与える影響など、体育会系とーちゃんにとってはおかまいなしだ。   さらに、そんな危険な状態においたものだから当然の流れで娘は真犯人に誘拐される。   するとニーソンは娘を人質にして小型ジェットで逃亡をはかろうとする真犯人を阻止しようと、ポルシェで飛行場の滑走路にツっ込み、車輪走行を始めて離陸態勢の飛行機にポルシェごと真横からヒット!  車輪を破壊し、ドカーン!! ! はらばい状態で急ブレーキがかかった飛行機は炎をあげながらガゴゴゴゴゴゴゴ・・・とぐるんぐるん回転しまくる。   ヤッタ!という表情のニーソン。しかし、娘のおなかの赤ん坊も、遠心力で胎内でぐるんぐるんはじき飛ばされているであろうことは、体育会系とーちゃんには想像することは不可能だ。  逃亡は阻止できたものの、胴体着陸の衝撃で、外部からの精神的&肉体的衝撃は避けねばならないデリケートな妊娠初期の妊婦はジェット機の中で座席からスっとび、真犯人にバシバシぶたれたり、銃をつきつけられる事態に。   娘が妊娠していることなど、娘を助けることだけを考えている熱血体育系パパの脳みそからは、完全にはじき飛ばされているのである。    かくして精神的・肉体的にもヨレヨレになった娘であるが、無事最後の場面では海辺で娘とニーソンは妊娠について話し合う。しかし。   「ママは殺されてしまったけど、今おまえのおなかの中にいるのはママのDNAが入っているわけだ。  つまり、唯一ママがいたことを存在する証明だよ。 だからパパはおまえにぜひ産んでほしい。 きっとその子はママの生まれ変わりだから。」   くらいのことを言ってほしかったが   実際は   「パパは寝ないで考えたんだが・・ ・・・       この件はおまえたちに任せるッ!!」       やっぱり熱血体育会系元CIAパパは、そのキャラクターどおり”家庭人”ではないということが立証された本作であった。
[CS・衛星(字幕)] 4点(2015-11-18 12:23:24)(笑:1票) (良:1票)
19.  ローマの休日 《ネタバレ》 
これまで、この映画を  「プリンセスの逃避行物語」  「王女と記者の身分違いロマンス」あるいは  「アン王女の成長ストーリー」  だと思っていた。でも、昨日あらためて見て、気づいた。 この映画はそんな軽いものではなく、全世界の人々が抱いている人生観そのものに訴えかけるものなのだ。。  アン王女は、それまでの窮屈な生活に耐え切れず、夢を叶えるべくローマ市外へ飛び出した。 ジェラード食べ歩き、カフェで飲食し、タバコを吸い、美容院でお好みのヘアスタイルにして 無免許運転でベスパをすっ飛ばし、船上パーティーでダンス…。  彼女がやってみたかったことは、ことごとく叶えることができて、彼女はそれで満足したはずだった。  彼女がやりたかったことが、それだけなのであれば、心おきなく王女生活に戻れるはずだった。  だが、思いがけずジョーを愛してしまう。 それは、彼女がこっそり街へ抜け出してしたかった夢のリストにはなかったこと。  そう、彼女がやってみたかったことは、食べ歩きや船上パーティ...のような娯楽だと思っていたのに、 実は自分が恋した相手とずっと幸せに暮らすことだったのだと、ジョーと川辺でキスをして彼の部屋に戻ってから気づくのですね。  私は今までそこまで深く考えずに見ていて、ジョーとの恋はジェラードや船上パーティーと同じカテゴリーの”彼女が体験した非日常”の1つとしてカウントしていたのだが、それはとんでもないミスだった。  ジェラードや船上パーティーなどの自由行動は、これからの未来、王女として戻って彼女の人生の中になくてもそれはそれであきらめはつけられるレベル。 でもジョーとの恋は、あきらめつかない・・・。  ”自由気ままに楽しいことをする”じゃなく”たった一人の愛する人と共に過ごす”ことこそが、彼女にとって本物の夢だった。 そしてようやくつかみかけたその本物の夢は、彼女が手離さなきゃいけないもの。これ以上に苦しいことがあるだろうか?  彼の部屋に戻っての会話。アン王女「何か食事作りましょうか?」ジョー「台所ないんだ。食材もない。いつも外食さ」 アン王女「それでいいの?」・・・その後にジョーが言うセリフに、全てが集約されていて、心がしめつけられた。  「Well, life isn't always what one likes・・・is it? 」 (人生っていうのはいつも、望みどおりにならないもの・・・そうだろう?)  その言葉を受けてアン王女も「そうね・・・」と答える。  「人生が望みどおりにならないだろう?」  というセリフは、独り身のジョーの心情だけでなく、アン王女のその時の「愛するひとと結婚してご飯を作ってあげたいのにできない」という心情でもあり、 そして、この映画を見ている人達が常に、日々心に抱いている心情でもあるだろう。  何十回も見てきたこの映画。実はこのセリフがナンバーワンの名ゼリフではないだろうか?  あなたもきっとこの映画を見たら、人生思い通りにいかない自分の姿をアン&ジョーに重ねて、共感することマチガイナシ。
[CS・衛星(字幕)] 10点(2016-05-05 20:37:18)(良:2票)
20.  日本のいちばん長い日(2015)
監督がこの映画公開にあたってのインタビューで、昭和天皇のことを  「監督という最高権力者でも宣伝部が作るポスターに口出しできないのと同じなんですよ」  と言っていて驚愕した。 命の生死を判断する国家権力者と、映画監督と、同じ土俵に上げるのは、戦争で亡くなった方々への冒涜行為だと思う。             「若い世代は戦争を学ぶ事を放棄している部分がある」とも言っていたが、それで作ったのが、ハーバート・ビックスの『昭和天皇』に対しての反論映画というわけで、自慰映画というふうにしか見えなかった。    本気で若い世代に戦争を学ぶことを放棄させないために映画を作るなら、天皇養護論の映画を作るのではなく、もっと戦時中に、食糧が日本から供給されず外地で戦友を食べないと生き残れないほどの状況になったガダルカナル島の映画や、食糧を女子供に食べられて減らないように女子供に自殺を強要したトラック諸島の映画、あるいは兵士が沖縄人の隠れていた壕を奪って沖縄人を追い出したり壕の中で赤ちゃんが泣くと米兵に気づかれるので親に赤ちゃんを殺害させたり、13歳からの少年たちをゲリラ兵として強制徴兵したり、現地の女子供や年寄りには爆弾を背負わせてヤリだけもたせてアメリカの戦車の下にもぐりこむ”斬り込み”という名の特攻を強要していた…そんな沖縄戦といった、本当の戦争の真実を描いてみたらどうなんだと思う。  天皇を国民の好感度の高い本木氏にやらせたのもあざとく、作品全体に「監督の自己満足」の一言に尽きる映画。
[映画館(邦画)] 1点(2015-08-18 20:12:22)(良:2票)

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