1. 神の道化師、フランチェスコ
説教もあってセリフの多い映画なんだけど、サイレント映画見てるような気になる。画面の感じがそうなのか。水の音や、ライ病患者(ハンセン氏病ってよぶと歴史的な厚みが感じられず、ここではこっちを使わせて)のカランカランとたてる音など、トーキーならではの効果が随所にあるんだけど、サイレンとタッチなんだな。画面の組み立てのせいなのか。対象だけを素直に捉えて、凝ったことをしないと決めているよう。単純者ジョバンニ老人が出てくるとさらにいい。彼とジネプロとの、純朴を画に描いたような中世コンビ。宗教が権威を持ってくると、原点へ・単純へ戻りたがる傾向を持つんだけど、フランチェスコってそうなんでしょう。その体現がこの二人。単純はまた独善に傾きたがり、種が乱れ飛ぶ中で完全なる喜びについて実験する話も他人に迷惑を掛けるわけで、単純と独善は紙一重なの。その延長には魔女狩りもあるわけだが、この映画は単純が単純として輝くギリギリのところを捕まえている。修道女が訪れるシーンの野の晴れ具合・広さの感じなんかいいですな。迎えに行くほうをずっと見せてて、切り替えして向こうに木が一本立ってる緩やかな斜面をやってくる四人の修道女になるの。一番張りつめるのは、ライ病患者に会うシーン。カランカランという音がなにやら幽玄と言うか。疎外者であり異端者であり、しかしキリスト教をキリスト教たらしめている核になっている素材、と納得させられるシークエンスであったが、能の世界と通じ合ってもいるような。でラストぐるぐる回って倒れた方角へ、布教にそれぞれ歩いていく。この教団について何か説明しようという感じではなく、いい連中だ、と作者が思っているその気持ちが、観客として見ててやはりいい気持ちになる。すがすがしさ。この複雑になった世界で単純さを求めることは、ある意味必死であり、かつそれを成せればすがすがしい。青空の中の雲、雲、雲。 [映画館(字幕)] 9点(2013-12-13 10:14:24) |
2. カルメン故郷に帰る
皮相な社会風刺になりかねないところを、主人公の明るさが救っている。「新しいもの」に飛びついて分かったふりをする当時の世相を笑いつつ、その新しいものも切り捨てない。木下さん、ストリップがはやる風潮を愉快には思ってなさそうだが、少なくとも青年を盲目にする戦争よりはいい、と自分の中であれこれ計量しているよう。軸はストリップと佐野周二の歌という当時の文化状況の対比、あれ木下忠司お得意のマイナー調で(たとえば『喜びも悲しみも幾歳月』のテーマ、お~いら岬の~灯台守りは~)、「青葉の笛」とか「水師営の会見」とか短調唱歌で育った世代の「いい歌」なんだな。この陰々滅々ぶりは皮肉な効果を狙ったんじゃなく、あれが当時の「芸術的で真面目ないい歌」だと思って聞くべきなんだろう、「軽薄な」ストリップの対比として。そういう構想で作られつつも、映像としては青空の下の若い娘たちの輝きが圧倒してしまうところが映画の面白さだ。そっくり時代の記録として残った(そうか、盲目の青年だけが彼女らの肢体を見られないわけで、だから陰々滅々な歌の作曲者なのか?)。喜劇としては、三好栄子の怪演が記憶に残る『純情す』のほうがキレが良かったと思うが、この牧歌劇のほのぼの(とりわけ娘が裸で踊るお父さんの苦衷とそれへの周囲の慰め)も味わいあります。 [CS・衛星(邦画)] 7点(2013-01-02 09:36:50) |
3. 街燈
旗照夫のシャンソンが流れて始まる。落とした定期券から、銀座のブティックをめぐる人間模様の話へ広がり、合い間に学生小沢昭一が笑いをとっていく。銀座の記録としては、火の見やぐらから火事を発見するシーンがあった(火事のシーンは、特殊技術がなかったせいか消防法がうるさくなかったのか、結構迫力)。まだ靴みがきの子どもがいた(みがくシャッシャッという音がドラムの、あれ何て言うの、さきっぽが金属の小さなほうきみたいになってるヤツ、あの音になっていく)。中原早苗のことを子どもたちがパン助みたいな格好だと言った。昭和30年代前半はまだまだ濃く“戦後”であったのだ。そして銀座という街が、単なる背景でなく、こういう人間模様を織りなすのに適した場所であったのだなあ。 [映画館(邦画)] 6点(2009-09-02 11:57:38) |
4. 貸間あり
主人公は周囲に重宝がられることの心地よさに安住してしまい、隣人たちのしたたかさに利用されていく。そういう主人公を聖人化せず、映画はちゃんと彼をも裁く姿勢を取っているところがいい。だから人情長屋ものにはならず、人々の間にあるヒンヤリしたものを描いているわけだ。それにしてもこの脇役陣の豪華さはどうだろう。掛け持ち妾をやっている乙羽信子の別れの儀式のおかしさ。益田喜頓もまだ後年の“いいおじいさん”になってなくて、悪意あふれる陰湿な人物を演じる、それがまた似合っている。アァァいう妻を持つ骨董屋の渡辺篤。密造酒の清川虹子が室内で体操するシーンの迫力。酒場でトマトジュースのおかわりを頼む加藤武。そしてもちろん隣人たちのしたたかさを代表する受験生小沢昭一…。なんて豪勢なんだ。 [映画館(邦画)] 7点(2009-02-26 12:11:26) |
5. 壁あつき部屋
BC級戦犯の話。浜田寅彦って、単純な表現しかできない俳優と思っていたが、この映画では、とりわけ後半、素晴らしかった。申し訳ない。小沢栄太郎が「卑屈」とか「傲慢」を一対一対応で演じているのに対し、浜田はあらゆることを「思いつめる」人間を演じ、思いつめていながら、そこでは集中と茫然とが同居している。言葉で単純に表わせない心の状態を、体で表現する名演だったと思う。信欣三の壁にポコポコと穴が開く場もいい。あつい壁に穴が開いてもその向こうには自由ではなく罪が待ち伏せている、という追い詰められた感じ。戦争指導者もつまりは犠牲者だった、という現在もある粗雑な思考は、こんな頃からもうあったのだな(公開は56年だが製作されたのは53年)。 [映画館(邦画)] 7点(2008-10-08 12:11:42) |
6. 鍵(1959)
心理ゲームに焦点が当てられた原作に比べ、これはややマジになってしまっているのではないか。たとえば仲代達矢が現像して、ややっこれは、と目を剥いて驚くのはどうだろう。あれがあると全く無関係にポラロイドカメラを提供したことになり、ゲームの幅が狭まってしまう。表と裏とを際限なくひっくり返し続けるような、本心を見せない陰気な遊びの味わいが薄れた。竹林のざわめき、瓦屋根、不意のストップモーション、暗い部屋、横からの光による影、といった崑お得意のショットには堪能。長調と短調を同時に鳴らしているような、芥川也寸志の音楽。 [映画館(邦画)] 7点(2007-12-14 12:22:59)(良:1票) |
7. 顔のない眼
《ネタバレ》 モーリス・ジャールのおどけたワルツが、ヒロインの住む子供部屋に似合う。仮面の娘が暮らす部屋は、そのまま人形の部屋だ。マスクによって表情をうかがえないフランス人形。彼女がこの手術をどう思っているのかすらうかがえない。ラストでふらふらと外界に出ていく主人公、やや前傾で左手を伸ばし加減の姿勢って、これまだ人間ではなくマネキン人形ですね。父親の人形だった彼女が、人形のまま逃げていくその姿が哀れだが、これってどこか人形浄瑠璃に通じているような。 [映画館(字幕)] 6点(2007-12-01 12:22:21) |