Menu
 > レビュワー
 > やましんの巻 さんの口コミ一覧
やましんの巻さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 731
性別
自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


…………………………………………………


人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


…………………………………………………

表示切替メニュー
レビュー関連 レビュー表示
レビュー表示(投票数)
その他レビュー表示
その他投稿関連 名セリフ・名シーン・小ネタ表示
キャスト・スタッフ名言表示
あらすじ・プロフィール表示
統計関連 製作国別レビュー統計
年代別レビュー統計
好みチェック 好みが近いレビュワー一覧
好みが近いレビュワーより抜粋したお勧め作品一覧
要望関連 作品新規登録 / 変更 要望表示
人物新規登録 / 変更 要望表示
(登録済)作品新規登録表示
(登録済)人物新規登録表示
予約データ 表示
評価順12
投稿日付順12
変更日付順12
>> カレンダー表示
>> 通常表示
1.  桐島、部活やめるってよ 《ネタバレ》 
神木隆之介クン扮する映画部の高校生と仲間たちは、ジョージ・A・ロメロ(!)のような「ゾンビ映画」を撮ろうとしている。そして撮影機材は、今どき珍しい「シングル8」の8ミリカメラ。その時、ぼくたちはただちにもう1本の「ハリウッド映画」を想起しないだろうか。そう、スピルバーグが製作したあの『スーパーエイト』でも、少年たちは「スーパー8」の8ミリカメラで、ロメロのような「ゾンビ映画」を撮ろうとしていたのだった。  それは、それぞれの作品にとって取るに足りない些細なことかもしれない。けれど、スクールカースト上位の生徒たちに端から無視され、せいぜい嘲笑の対象でしかない彼ら最下層のオタク映画部員にとって、「ゾンビ」とは自分たち自身の鏡像なのだ。そう、片田舎で鬱屈した日々をおくる『スーパーエイト』の、ブルーカラーな少年少女たちがまさにそうだったように(だから主人公の少年は、エイリアンと「理解」し合えたのだった)。  そしてロメロのゾンビ映画が、人間たちの「生存闘争劇」からついに人間とゾンビの「階級闘争劇」へと至ったように、映画『桐島』もまた学校屋上における「ゾンビたちの反乱(!)」でクライマックスを迎える。もちろんそれで、学校内の何が変わるというワケでもない。明日からも映画部員たちは、相変わらず無視され嘲笑されるだけだろう。しかし、中心人物のひとりである野球部のイケメンだけは、神木クンにカメラを向けられ、「俺はいいんだよ。俺はいいって」と涙ぐむ時、確実に知ったはずだ。自分(たち)の方こそが彼らに“負けた”ことを。  高校生たちのリアルな日常と心情を描いた群像劇のようで、ここにあるのは各階層[カースト]に位置する者たちの、その「位相」ばかりだ。ある階層とある階層との“あいだ”にある決定的なずれと断絶。それが、しだいに動揺し衝突することのなかに産まれるダイナミズムこそ、この映画を、悲劇でも喜劇でもない真に「劇的」なるものにしている。彼らがどんな「人間」かじゃなく、彼らの「立ち位置=場所」が“不在の主人公”を前に揺らぎ崩れていくさまと、逆に“揺るがない”ことの強さと輝きを放ち出すオタク映画少年たちの姿を鮮明にしていくのだ。その光景は、奇妙で、残酷で、滑稽で、けれど何と感動的なことか。  ・・・そう、あの野球部イケメンの涙にナミダしない奴らなど、ゾンビに喰われてしまえ!
[映画館(邦画)] 10点(2012-08-24 11:22:42)(良:5票)
2.  喜劇 駅前温泉 《ネタバレ》 
森繁と伴淳が、全編にわたって丁々発止と渡り合う。しかもそこに、三木のり平やフランキー堺がからみ、淡島千景や淡路恵子、池内淳子(若いのに、何という艶っぽさ!)、そして実におちゃっぴいな司葉子らのキレイどころが華を添え、森光子や沢村貞子、菅井きんなどの名女優が脇をしめる。いやはや、これほどまでに贅沢なキャストの映画が、クレイジーキャッツ主演作の“添え物”として2本立て公開だったとは! この事実だけでも、当時の日本映画の凄さ豊かさが実感できるというものだ。   撮影所内に組まれた室内セットでの撮影を中心に、時折はさみ込まれる屋外ロケシーンのみずみずしさ。当時でも「田舎」だったろうその山あいの温泉街のたたずまいからは、単なる郷愁や“古くささ”といったものとはちがう“匂い”が漂ってくる。それは、菅井きんと幼い娘が扮する「乞食母子」の存在に象徴される、1960年代前半の「昭和」という時代の“貧しさ”であり、それでも人と人とが“情”によってつながり得た時代の風景であり、匂いであるだろう。  そして久松静児という監督は、常にそういった時代の“貧しさ”や人々の“情”というものを見つめ、丁寧に映像へとすくい取りながら映画を撮ってきたのだった。一方で「三助コンクール」なる場面のようなドタバタ風の味付けをはさみながら、また一方で、夏木陽介演じる青年のごとく若い世代への“判断停止”ぶりをあからさまにしながら(古い価値観にとらわれないというより、ここでの彼は単なる傍若無人で無神経な、若大将ならぬ“バカ大将”でしかない)、変貌しつつある時代への哀惜と諦観をにじませてしまう。それが、本来なら他愛なくも明朗な人情喜劇でしかないはずの本作に、どこかそれ以上の陰影を与えることになったのだと思う(・・・結婚して旅立つ娘・司葉子を乗せた汽車と、それを遠くから見送る森繁のラスト場面など、そこにあるのは単なる感傷というよりもっと深い諦観と「悲しみ」だ・・・)。  それを、いかにも「保守的」な後ろ向きの郷愁に過ぎないというのは、たぶん正しい。また、これが歴史に残る名作でも何でもなく、むしろ歴史に埋もれてしまうたぐいの映画であるだろうことも承知している。けれど、それでもやっぱりこの映画と、そういう映画の作り手としての久松静児監督を、ぼくはこれからもつつましく愛し続けるだろう。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2009-11-25 12:16:56)
3.  紀元前1万年 《ネタバレ》 
神話や伝説なんかに接する時、往々にしてその「語り」の飛躍ぶりやご都合主義、デタラメさに驚かされる。そこでは人と動物が対等にコトバを交わし、何年もの時間がひと言で片付けられたりする。そして語り手(とは、その神話なり伝説を産んだ「集団的(無)意識」の具現化した存在=声に他ならないんだけれど)の思惑や気分(!)により、平気で展開や細部が変更・改変されることも常のことだ。でも、だからこそその「語り」は現代のような、緻密さと物語の整合性、テーマに汲々とした「神経症」的な息苦しさから解放された、あるすがすがしさや味わいがあるのだと思う。  オマー・シャリフの「語り」で物語が進行する『紀元前1万年』は、何よりも先ず、そうした「神話的・伝説的」な叙述[ナラティヴ]を映像化する試みとしてぼくは見た。というかこれは、最新のCG技術やらテクノロジーを駆使しつつ、しかし徹底して「現代的」な物語の叙述から身を離そうとする映画以外の何物でもないのじゃないか。だからこそ登場人物の「内面」やら心理的葛藤なんぞは、あっさりとナレーションで語られる程度なのだし(・・・例えばペーターゼン監督の『トロイ』は、登場人物たちの内面に寄りすぎたその「現代的」な演出ゆえに魅力を欠いたのだ、とすら言ってしまいたい)、死んだヒロインの“蘇生”場面にしても、あくまでそういった「語り」の要請に忠実だったゆえなのだ。すべてに成功している映画だとは思わないけれど(人々を支配する神のごとき存在がWASP風の「白人」だったというオチの、いささか安易な寓意性はむしろ不要だろう・・・)、その“大胆さ”こそ本作を真に興味深い作品にしているのではあるまいか。  そう、エメリッヒ監督の映画は、これまでもそのどこか反=時代的な「語り」のおおらかさこそが魅力なのだった(まあ、それを「バカバカしさ」ととる向きもあるんだが)。本作は、そういった「語り」そのものに監督自身がのめりこんでいるかのようだ。それゆえ、彼の映画としてはあまりに“作家性(!)”がオモテに出すぎた感がなくもない。が、「神経症」めいた映画にどこかイヤ気をさしていた観客にとって、これほど映画ごころを慰撫され、ホッとできる作品もないだろう。  エメリッヒ、やはり断固支持!
[映画館(字幕)] 8点(2008-06-03 16:03:59)(良:2票)
4.  キング・コング(2005)
ピーター・ジャクソンが、どれだけオリジナルの『キング・コング』とそのキャラクターを愛しているかを、ぼくもまた決して疑うものじゃない。それはこのリメイク作品においても、全編から、ディテールの隅々から伝わってくる。例えば、コングの住む断崖に散らばる巨大な骨や頭蓋骨。それを画面にさりげなく見せることで、コングが、家族や仲間の死に耐えたまったくの“独りぼっち”であることを観客に示す。それゆえ、彼がアンという「相手」を得たことの喜びを、何があっても彼女を守ろうとすることを、ぼくたちは素直に納得できるのだ。  しかし、人間であるアンもまたこの巨大な「怪物」に“愛”を、そういって言い過ぎならば“愛しさ”を抱く時、この映画はオリジナル版の〈美女と野獣〉の寓話性を失ってしまい、単なる「メロドラマ」に陥ってしまったのではないか。コングが、彼女の前ですねたり強がったりする表情やしぐさは、確かに素晴らしくチャーミングだ。ぼくもまたそんなコングを愛さずにはいられない。しかし、コングがそうやって「人間的」に描かれれば描かれるほど、これは“異形の者の悲恋もの”に過ぎなくなってしまう(…クライマックスで、エンパイアステートビルにアンとともに逃げ登る本作のコングは、まるでエスメラルダを伴ってノートルダム寺院の尖塔に登るカジモドのようだ。そう、これはむしろ『ノートルダム・ド・パリ』のリメイクといった方がふさわしいのではあるまいか…)  もちろん、メロドラマだから悪いと言ってるんじゃない。でも、決して相容れない美女(=人間)であるからこそ、彼女に魅せられ身を滅ぼす野獣(=コング)の物語は、「神話」へと昇華されたのではなかっただろうか。だのに今回のコングは、たとえ死ぬとはいえ十分に愛され、何と幸せ者かと思ってしまう。しかもその“愛”が、自分に忠実で無償の愛情を注いでくれる「ペット(!)」に向けられたものではないと、誰に断言できるだろう…。  オリジナルで、最後まで恐怖の悲鳴をあげ続けたフェイ・レイのヒロイン。コングを決して「人間」とも「ペット」とも思わなかった彼女の方が、どれだけ“誠実”だったことかとぼくは思う。もちろん、そんなのは不当なイチャモンだと言われればそれまでだ。しかしなぜかこの映画には、そんな文句を投げかけたくなってしまう。…ごめんよ、ピーター・ジャクソン。
[映画館(字幕)] 6点(2006-02-03 16:37:58)(良:3票)
5.  キリコの風景
昔、失恋(笑)の痛手を抱え、函館で半年ほど暮らしたことがある。今思っても、温泉と、旨いサカナと、競馬場&競輪場がコンパクトにまとまったあの街は、「天国」だったなぁ…。 といった函館の空気感が、実に巧みに映像化されていることにまず好感大。小生同様この街が“大好き”らしい森田芳光の脚本によるシュールな世界を、これが初監督(だっけ?)の明石知幸は、あくまで日常的リアリズムで映像化しようとしている。そのシナリオと演出の緊張関係が画面から伝わってくるあたりも、実にスリリングです。 奇妙な精神的連帯を生きる3人の男たちが、どこか抽象的な、“地に足が着いていない”存在なら、そんな男どもが執着する小林聡美ふんするヒロインの、何ともアッケラカンとした“現実的生活感”あふれるドスコイぶりという対照の妙も、見事だと思うなぁ。 う~ん、やっぱり好きだなぁ。この映画。失恋して函館に行ったことのある人なら、きっと気に入っていただけるハズです(…そんな奇特な方がどれくらいいるのか、知らないけど)。
8点(2004-07-14 21:12:36)
6.  キル・ビル Vol.2
その過剰なまでの「趣味性」や「遊び」ばかりが語られるタランティーノだけど、彼の最も本質的な「才能」は、常に役者たちを“輝かせる”ところにあるのだと思う。彼の映画では、トラボルタやロバート・フォスター、パム・グリアーなど「あの人は今」みたいな“過去”の役者をこれまでも見事に再生させてきた。というか、それぞれのスターとしての魅力を最大限に引き出し、あるいはあらためて発見することに成功してきた。今回も、特にこの『vol 2』におけるデヴィッド・キャラダインやダリル・ハンナ(その怪演は、ハッキリ言ってユマ・サーマンすらも食った)、マイケル・マドセンといった面々を、一見コミックすれすれの設定や描写のなかにあっても、驚くほど「映画」そのものとして画面に定着させている。タランティーノは、彼なり彼女なりの持つ個性や魅力を、演じさせるキャラクターに“同化”させることにおいて天才的な演出家なのだ。だから、どんなに荒唐無稽な映像世界にあっても、人物たちは確固たる「リアリティ」(「リアル」ではなく、だ)を持ってぼくたち観客に感情移入をせまる。というか、感情をわしづかみにする。…繰り返そう、映像遊びに凝ったただのオタク監督のようで、その実この男は役者の魅力にこそ映画の“本質”を置く、その意味で最も正統的(!)な「演出家」なのである、と。その1点において、ぼくはこの映画(とタランティーノ)を支持したい。
8点(2004-05-19 21:30:58)(良:1票)
7.  驚異の透明人間 《ネタバレ》 
上映時間は、たった60分たらず。まるでテレビの『トワイライト・ゾーン』あたりの1エピソードじゃないか…と思わされたりもする、すべてにチープな典型的B級SFスリラーには違いない。けれど、おそらく最低の予算をしか与えられなかっただろうこの映画には、その一方で実に“豊かな”としか形容し得ない充実感が随所にみなぎっている。たとえば、冒頭で主人公が刑務所を脱獄するくだり。最低限のセット(壁、監視塔の見張り台部分のみ!)を宵闇でカバーし、サーチライトによる光と闇のコントラストだけで見事に「刑務所」をシンボリックに表現してみせるあたりの鮮やかさはどうだ! そしてこの、金庫破りのプロである主人公が透明人間にされるのだけれど、その実験室の扉は、いかにも「放射性物質」を扱っているのだとわかるよう、分厚い鉛製になっている。そんな細部ひとつで、画面にリアリティがうまれることを、この映画の作り手は熟知している。さらにもうひとつ、主人公が実験室の別の部屋に行こうとして、計画の首謀者の軍人に「その部屋には入るな!」と制止される。それだけで、何の変哲もないはずの閉ざされたドアが、「この向こうには何が…」というサスペンスを醸し出すんである! ラストは、ほとんどロバート・アルドリッチの怪作『キッスで殺せ』を想わせる“核爆発(!)”により、ジ・エンド。いや、その爆発の後に、人間の透明化を実現した共産圏からの亡命科学者が科学と核の暴走の脅威を(カメラ目線で!)説くのだった。いずれにしろ、どこまでも荒唐無稽かつ安っぽいSFジャンクでありながら、ディテールの充実によって画面に驚くほどの「説得力」をもたらしている。…それは、カネがなくても、映画は作り手の創意によってかくも輝くことを、あらためてぼくたちに教えてくれる(…一方で、エド・ウッドは逆にその徹底した「創意のなさ」ぶりが、不思議な“愛嬌”を産むのだけど)。何でも、本作の監督自身が戦前のドイツからの亡命者なんだとか。ドイツ表現主義と呼ばれる“光と影”、さらには大胆に省略されたセットという技法が、低予算の映画づくりにこそ有効であることを実証してみせたその数々のB級映画は、もはやカルト化しているという。その真価は、この、必ずしも代表作とは言われていない作品にあってすらはっきりとうかがえる。…エドガー・G・ウルマーという名前は、あなどれません。
9点(2004-05-18 13:24:53)(良:1票)
8.  岸和田少年愚連隊
ただひたすら喧嘩を繰り返す。やったらやり返され、やり返されたらまたやることの繰り返し。いくら「岸和田」とはいえ、こんな中学生どもがおるかいっ! …と思う前に、その徹底した「反復」の“無意味さ”こそに井筒カントクは勝負を賭けたのだな、と思う。ナイナイ演じる主人公たちは、その際限のない喧嘩の「反復」の中で決して人生(!)を学んだり、人間的に成長(!!)したりしない。主人公の父親と祖父がいつも見ている、テレビの動物番組の野生動物みたく、果てなき闘争だけがどんどん“肥大化”していくだけだ(主人公たちを動物番組で暗喩する、心憎い語り口!)。しかし、一方で彼らは、この「反復」の外へ出なければならないことにも薄々と気づいている。だのに「出口」が見つけられないことの焦躁と無力感が、この一見ハチャメチャな土着(?)コメディに微妙な陰影を与えていることは間違いないだろう。…悪い冗談ではなく、この映画は何かとてつもなく「悲劇的なるもの」を漂わせていると、ぼくは本気で信じている。シジフォスの神話を思い出すまでもなく、果てしない堂々巡りを生きざるを得ないこと、無意味であることを承知しながらもその円環から抜けだせない“無間地獄”に陥ること、そういった「反復」こそが真に「悲劇的」でなくて何だろう。…たぶんカントク自身が「そんな屁理屈はいらんわいっ!」とおっしゃるだろうゲロ、ぼくはそれゆえに本作を“畏怖”し、愛するッパ! (←ゴメン、ぐるぐるさん。つい…)
10点(2004-04-16 16:39:05)(良:4票)
9.  キッチン(1989)
公開当時いろいろと賛否両論あった映画ですが、ぼくにとっては今もなお忘れ難い1本。お互いに一定の“距離”をとりながら、それでも(というか、だからこそ)どこかで“ぬくもり”を求めている「現代人」の肖像が、ここまで見事に、美しく描かれた作品も稀有でしょう。唯一の身内である祖母を亡くしたヒロインと、彼女を同居させる青年、そして青年の「母親(演じるのは、橋爪功…)」の関係は、あくまでも優しく、思いやりとおだやかさに満ちている。けれど、そこには常に“距離”があって、それがこの映画の独特な「空気感」を形づくっています。そう、ベタベタとも、カラカラとも違う、さらりとした「空気」を。それを醸し出すのが、函館の風土であり、青年たちの住むマンションのとんでもなくゴージャス(かつ無機質)なインテリアだったのでしょう(この映画を批判する向きは、そういったディテールを「現実離れ」として攻撃していたっけ。…そんな「非日常性」が、逆に登場人物たちの“関係性”をリアルなものにしているハズなのに)。…映画は、彼らの“間”にある「空気」が、少しずつお互いのぬくもりを伝えていく様子を、淡々と描いていく。「優しさ」が「愛」へと移ろいゆく様を、静かに、少しのユーモア(喜劇とはロングショットで見られた人生、とは誰の言葉でしたっけ)をたたえながら見つめていく。そう、もはや「愛」とは、人と人とがひとつになろうとするナマナマしさや暑苦しさじゃなく、ふたりの“間”にある「空気」をあたためるということなんだ…。原作者の吉本ばななよりも、むしろ村上春樹に通じる真に「現代的」なコミュニケーションを語った寓話として、ぼくは高く高く評価するものであります。
10点(2004-04-16 15:15:14)
10.  恐怖の48時間
↓サイケデリコンさんの「サンテレビ映画路線(とは、関西圏でしか通用しないっすね)」に限りない連帯意識を持つ者ですが、この映画への低評価は悲しいなぁ(笑)。だってこれ、テレビで放映されるたびに何故か見てしまう“ひそかなお気に入り”なんです…。狂犬病の犬に噛まれたメキシコの寒村の医者が、発症の恐怖と闘いながら、血清のある遠い町へと向かう。その協力者に、出発を遅らせてまで難産を救ったメキシコ女の夫と、ステラ・スティーブンス扮する気のいい姐御! …途中、『恐怖の報酬』みたいなシーンあり、“水”をめぐるサスペンスあり(狂犬病に冒されると、水を怖がるってことを、この映画から教わりました)、お約束の車の故障(あ、ガス欠でしたっけ)ありと、単純なストーリーながら、低予算ながらあの手この手と工夫を凝らす姿勢が実に好ましいじゃありませんか。監督のギルベルト・ガスコンは未知の人物なれど、サスペンスとヒューマンな感動のさじ加減などなかなかの職人ぶりです。さあ、皆さんも次のテレビ放映を待とう!
7点(2004-03-03 14:52:44)
11.  木更津キャッツアイ 日本シリーズ 《ネタバレ》 
実はTVドラマの方を1度も見ていなかったので、前半など、他の観客は爆笑しているのに「???」だったのですが…。それでも! いやあ~感動しましたです。余命半年と宣告された主人公を中心としながら、何と言う突きぬけ方だろう。この「ぶっさん」をはじめ、草野球仲間の面々は確かに”ノーフューチャー”でしかないのだろうけれど、ここ[木更津]という奇妙なユートピア(!)で彼らが繰り広げるバカ騒ぎのなんという「幸福さ」。その向こうにある「死」への透明な哀しみすらが、じんわりと感じられるあたりも見事です。TVのスタッフがそのまま再結集したというだけあって、画面はあくまでフラットなTV的”薄っぺらさ”なんだけど、この作品だけには、そんなことどーでもいい、純粋に作品世界に自分も参加したい…と思わせる魅力とパワーがある。ラストの「ヘドラ」ならぬゴミ怪獣のオチすら、ぼくには素晴らしくチャーミングだった。今のところ、クドカンの脚本作品としちゃあ最高に”ヒップ”ですね! キャッツ! ニャ~ッ!!
8点(2003-12-03 10:51:43)
12.  君がいた夏
この映画の頃のジョデイ・フォスターって、確か『告発の行方』で起死回生のアカデミー賞を取る直前で、ちょっとスランプだったんだよね? でなきゃ、出番のあんまりない、センチなだけのこんな小品になんぞ、彼女が出演するワケないよなあ。でも、この映画のジョデイは、本当に素敵です。まだ少し太めだけど、そのぽっちゃり感すらもが愛しい。こんな、ちょっと不良で可愛い従姉妹のお姉さんがいたなら、男なら誰だってイチコロだよな…と思わせる魅力にあふれている。あと、主人公(プロ野球選手です)のチームメイトだか幼なじみだかで、ハロルド・ライミスが特別出演していたけど、彼もいい味です。…て、何だかんだ言って、小生もこの映画が実はひそかに好きなんスね。でも、何かこれを「好きだ」って認めるの、テレくさいんだよなあ。
7点(2003-11-19 16:45:59)(良:1票)
13.  ギフト(2000)
アメリカ南部の地方都市には、現代社会の抱える暗部が揃っている。それを、ひとりの女霊能力者がはからずも暴き出し、それによってある種の”救済”をもたらす…って構図かな。サム・ライミ監督は、本作と『シンプル・プラン』でいよいよ本物の実力派監督になったと思う。超自然スリラーという体裁ながら、この映画はまぎれもなくフォークナーやテネシー・ウィリアムスの「南部もの」のゴシック・ロマンスに近い志と野心をもった作品ではないか。また、だからこそこれだけの豪華キャストが集まったんでしょう。…でも、ひとつだけ告白すると、エラソーなこと書いていながら、ぼくもあのケイト・ブランシェットが転倒しての”大股開き”が、今も眼に焼き付いて離れないスケベ親父のひとりです。嗚呼!
8点(2003-11-19 16:00:50)
14.  キッド(1921)
サイレント時代のチャップリン作品は、どれをとっても素晴らしい。キートンがもはや「人間」を超越した”超現実世界”の住人なら、チャップリンはあくまでこの現実世界に生きる者たちの代弁者であり、そのハートをすくいとる「詩人」だ。中でも本作は、最も純粋で、最も美しいチャップリン映画のひとつでしょう。感動的なシーンは数えきれないけれど、ぼくは、母親と子どもが、お互いを親子だとは気づかないまま街角で出会い、ニッコリと微笑みあうところで、いつも涙ボロボロに…。チャップリンが出演していないこの短い場面は、彼の演出家としての類い稀な才能を実証するものだと思います。まったく、何と言う情感の豊かさ、そしてエドナ・パーヴィアンスの美しさだろう。
10点(2003-11-19 15:37:19)(良:1票)
15.  鬼畜大宴会
スプラッターやエグいバイオレンスにはある程度へっちゃらだと自負していたものの、女の股間にライフル突っ込んでブッ放し、グチャグチャに飛び散った臓物を手でこねくり回すシーンは、さすがに胃にきました。ア~、見る前に食事とらないで良かった…。その他、撃たれた頭が半分吹っ飛んだり(それをやはり手でコネコネしたり…)、男のちんぽこ切り取ったりと、阿鼻叫喚の地獄絵図がこれでもかこれでもか状態。ただ、この映画が本当の意味で衝撃的なのは、ここで「何故、彼や彼女たちは殺し殺されねばならなかったか」という”テロルと狂気の連鎖”が、実に簡潔かつ鮮明に描かれていることに対してでしょう。閉じ込められ、追いつめられたネズミたちが”共食い”を始めるように、そこにはどんな「政治的信条」も「大義」もない、ただの生物学的な「本能」なのさと、若干23歳の学生監督がアッケラカンと解きあかしてみせるあたり、「政治の季節」の世代であるオジサンヤオバサンたちには複雑な感慨が残ることでございましょう。ラストの、誰もが死に絶えた森の風景に漂う虚無感をはじめ、ここまでニヒリスティックな作品もそうはない。ハッキリ言って絶対に好きになれない作品なんだけど、この監督の才能だけは「本物だ」と認めざるを得ないと思います。
8点(2003-11-19 15:14:26)
16.  去年マリエンバートで
流麗な移動撮影にしろ、端正な構図の画面設計(あの幾何学的な庭園!)や美術、華麗なココ・シャネルの衣装にしろ、一見まさに映画そのものであるように思えて、実のところこれは、すべてのカットやシーンがアラン・ロブ=グリエの脚本(=文学)の一語一句を、文字通り形象化したものにすぎないのでは…と、ぼくは見ました。それはそれでアラン・レネ自身が意図したものであるのかも知れないけれど、一方で「映画」とは決して文学の…コトバの”従属物”ではないと信じる者にとって、これは一種の映画の「敗北宣言(!)」みたいなものではないか、と。ためしに、ぜひかつて単行本として出版された脚本を読んでみてください。たぶん、映画化された本作以上にイマジネーションをかきたてられる、スリリングなものであるはずです。確かにこの映画は見事な「イメージ=(映像)」の構築品ではあるけれど、その実これは「(映画的な)イマジネーションの廃虚」であると、畏れ多くもぼくは「否!」と叫びたく思うのです。ファンの皆さんの、「何をエラソーに」とお叱りを受けるのを覚悟の上で。
4点(2003-11-17 16:45:51)(良:1票)
17.  キャスパー 《ネタバレ》 
初めは、いかにもスピルバーグ製作らしいナイーヴな(つまり、幼稚な)ドタバタ・ファンタジーだなあ…と、いささかヘキエキしつつ見ていたのですが、あの幽霊屋敷のヘンテコな仕掛けはいいっすよね! ガキの頃、まさにあんなイタズラっぽい工夫をはりめぐらせた家を夢見たのを、思い出したりして…。肝心の”キャスパー”は、小生にとってイーストウッドの『パーフェクトワールド』の記憶と重なってしまい、そのキャラが登場しただけで、条件反射的にナミダが(笑)。でも、イマジンさんのコメントにもあったけれど、あのCGのキャスパーが”昇天”する時、一瞬だけ「人間の少年」の姿に戻るシーンは、正真正銘ハッとさせられる美しい名場面だと思います。本作の監督は、後にヴェンダースの『ベルリン天使の詩』をリメイクする御仁だけど、要するにこのラストシーンだけが本当にしたかったんだろうな。
6点(2003-11-17 16:25:21)
18.  キッスで殺せ! 《ネタバレ》 
冒頭、いきなり夜のハイウェイをトレンチコート姿(その下は全裸っぽい)が逃げ、と思えばアッという間に殺される。このあたり、ほとんどデヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』のノリです。その後も、1950年代のハードボイルド私立探偵ものにしてはやたらファナティックな人物や描写(夜の階段を撮る、あのカメラアングル!)が連続し、息つくヒマもないまま、原爆ドカンの驚天動地なラストへ…。す、凄い。あれって、つまりは開けると地上に災いをもたらす”パンドラの箱”だってこと? 実はこの映画、核への脅威を訴えた「社会派ドラマ」だったの? …そういったあらゆる解釈だの疑問だのをうっちゃったまま、観客を取り残して映画は唐突(にもほどがある…)に終わっていく。こんなところに、リンチのルーツがあったとは!
8点(2003-11-13 15:50:22)(良:1票)
19.  キックボクサー
試合中に兄を残忍なタイ人選手に殺されたヴァン・ダムが、師匠のもとで猛特訓して復讐を果たし、ついでに師匠の娘(だか孫。美人!)ともデキるという、まことどうでもいい展開。でも、まだ若々しくて初々しいヴァン・ダムは、実に見事なキックと、ナイーブな演技で好感度大です。その美しいアクションは、フォトジェニック(!)ですらある。何でもっとブレイクしないんすかねえ。やっぱり、女癖が悪いってのが…
6点(2003-11-13 15:28:34)
20.  奇蹟の輝き
前半、子どもが死に、奥さんが自殺するあたりまでは文句なしに満点! まったく、何というシンプルさと美しい語り口なんだと陶然となってしまう。…だのに、主人公が、地獄に堕ちた妻を助けようと”あの世”へ行って(逝って?)しまうあたりから、ほとんど「霊界観光映画」になってしまうんだよねえ。トホホ。もちろんそこには、西洋キリスト教の文化的背景や思想が込められているのかもしれないが、それにしても天国や地獄の何という子ども騙しなチャチさ! …本作の監督ビンセント・ウォードには、地下のトンネルを抜けると別世界に出る、といった映画(確か『ウイザード』だっけ。題名忘れました…)や、主人公が死ぬことでやっと愛を成就できるという『心の地図』という、それぞれにスピリチュアルな(そして、どちらも素晴らしい!)作品があったんで、題材的には合ってるとは思うんだがなあ。でも、くどいけれど前半部分には、この天才的な映像作家の真価が間違いなく見出せると思います。
5点(2003-11-13 15:15:51)
081.09%
140.55%
250.68%
3202.74%
4253.42%
5598.07%
67810.67%
79212.59%
817123.39%
98411.49%
1018525.31%

全部

■ ヘルプ
© 1997 JTNEWS