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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2589
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン
200分を超えた物語の終着点で、主人公のアーネスト・バークハートは、劇中最も情けなく、そして力ない表情で、傍らにいたFBI捜査官の方を振り向く。気丈な捜査官も、思わず目を背けてしまうくらいに、主人公のその様とそれに至った妻に対する「回答」は、愚かすぎて目も当てられない。 この映画は、米国史上における確固たる「闇」と、その中で蠢いた人間たちの悍ましさ、そして罪を犯し続けた一人の男のひたすらな愚かさを容赦なく描きつけている。  主演のレオナルド・ディカプリオが本作で演じたアーネスト・バークハートという男は、おそらく彼のフィルモグラフィーの中で最も愚かで救いのない人間だったに違いない。 それ故に、本作の製作に当たって当初は事件を究明するFBI捜査官の方を演じる予定だったところを、自らの判断でこの愚男に配役を変え、演じきったディカプリオは、すっかり骨太な映画人だなと思う。  マーティン・スコセッシ監督の最新作に、彼が長年に渡ってタッグを組み続けたロバート・デ・ニーロとレオナルド・ディカプリオが揃い踏みするという事実は、世界中の映画ファンにとってやはりスペシャルなことであり、むしろそれこそが「事件」と言えよう。 それが206分という異様な上映時間であったとしても映画館に足を運ばずにはいられなかった。  1920年代のオクラホマ州で起きた先住民族“オーセージ族”を対象にした連続殺人事件の真相と顛末を描いた実録犯罪映画。 206分という上映時間には流石に構えてしまったが、実際に鑑賞が始まると、そこはやはり大巨匠の独壇場、プロローグシーンから一気に映画世界に引き込まれる。 オクラホマの荒野に追いやられた先住民族が、油田の発掘により一転して莫大な富を得て、そのオイルマネーに群がる白人たちの操作と支配、陰謀によって運命を狂わされていく様が、努めて淡々と描き出される。 実話ベースのストーリーテリング故に、そこには大仰な映画的な派手さや、劇的な顛末は存在しない。ただだからこそ、一人ひとりの人間の本質が、丁寧に、生々しくあぶり出されていくようだった。  前述の愚男を演じたレオナルド・ディカプリオ、そして、人間の悪意をそのものを演じきるロバート・デ・ニーロの競演からは、人間が孕む闇と腐臭が匂い立ってくるようだった。終盤、それに群がるかのように飛び回る蝿の羽音が不快感を助長していた。  また、両者の間で身も心も侵食されるオーセージ族の一人であり、主人公の妻を演じたリリー・グラッドストーンの存在感も抜群だった。 只々、嵐が過ぎ去るのを耐え忍ぶように、沈黙を守り、最後の最後まで愚かな夫への“赦し”を与えようとするその姿は、とても美しく、神々しい。 劇中、白人は神の存在を都合よく語り、オーセージ族も自分たちの信仰を貫く、がしかし、本当の「神」とは、一人ひとりの人間の中にこそ生まれ存在するものなのではないか。というようなことを、主人公の妻モリーの生き様から感じた。  時代や場所、価値観や常識を超えて、迫害や侵害を念頭に置いた理不尽な暴力は、この世界のあちらこちらで今なお繰り広げられ続けている。 本作で綴られたことは、決して「物語」ではなく、無情で端的な事実であるということを、映画の最後、自ら登場したマーティン・スコセッシは、強く強く伝える。
[映画館(字幕)] 8点(2023-11-19 22:22:25)
2.  キリエのうた
野外ステージの中央を真正面から捉えた望遠レンズの向こうで、アイナ・ジ・エンドが振り向き、こちらを真っ直ぐに見据えて、歌い始める。 178分に渡るこの“音楽映画”の中で、彼女は主人公“キリエ”として、最初から最後まで歌い続け、人間の脆さと儚さ、だからこそ眩くて手放せない“讃歌”を体現し続けた。 「歌」は、彼女にとっての唯一無二の伝達手段であり、表現方法であり、生き方そのものだった。  岩井俊二のフィルモグラフィーの中で、燦然と輝く“歌姫”の系譜。 グリコを演じたChara、リリイ・シュシュとして歌ったSalyu、里中真白を演じたCocco、その中に、個人的に5年間追い続けたBiSHを終えた“アイナ・ジ・エンド”が刻まれるというこの奇跡は、私にとってそりゃあスペシャルなコトだった。  公開初日に劇場に足を運び、深い情感と共に瞬く間に過ぎ去った178分に、しばらく呆然とした。 素晴らしい映画だと思った。ただしその一方で、この映画を彩る様々な要素が、私にとって特別過ぎることからの好意的なバイアスがかかってしまっているのではないかということを否定できなかった。  決して完璧な作品ではないし、万人受けする映画でもないだろう。 演技者として専門職ではないアイナ・ジ・エンドの“異物感”は、その是非は別にして確実に存在する。 2011年の石巻と大阪、2018年の帯広、2023年の東京、時間や社会状況を超えて行き交うストーリーテリングは、時に散文的で、歪だった。 それぞれの状況における登場人物たちの言動を裏付けるバックグラウンドを映し出しきれていないことに、一抹の物足りなさも覚えた。  そんな思いも抱えつつ、巡らせて、主人公キリエによる劇中歌をヘビーローテーションして、一週間後再び劇場に向かい、2回目の鑑賞に至った。 自分の中で消化しきれない部分を綺麗に呑み込みたいという思いもあったが、それ以上に、この作品を、そこで響き渡る歌声を、「映画館で観た」という記憶の中にもっとしっかりと刻み込んでおきたいという思いの方が強かったように思う。  2回目の鑑賞を経て、やっぱり歪で、ある部分においては非常に脆い映画だなと思った。 ただそれは、この映画が、極めて不安定で未成熟なこの世界の「人間」そのものを描き出していることの証明に他ならないと思えた。  大震災、不況、コロナ禍、遠い国の戦争や気候変動……。平成から令和へ、まさに文字通りの時代の移り変わりの中で、この国が直面した悲劇と苦難と、それに伴う深い鬱積。 この世界は、あまりにも理不尽で、往々にして優しくはない。けれども人々は、傍らの樹木にしがみつくようにして必死に生き延び、今この瞬間を生きている。 暗闇の中でも、僅かな光を見つけて、それを憐れみ、慈しみ、愛を込めて歌い続ければ、きっと“赦し”は訪れる。 それはもはや理屈でも無ければ、信仰でもないと思う。ただひたすらに、この場所に存在し続けることを決めた人間たちの強い意思だ。 “キリエ”が、“歌う”ということに求め続けたものは、例えば歌手としてプロになるというような世俗的なことではなく、その純粋な意思の表明だということを本作は物語っていた。  「音楽映画」と明確に銘打たれたこの映画で、「歌声」そのものにキャラクターとしての人格と映画のテーマを求められた役柄を体現し尽くした、アイナ・ジ・エンドには、ただただ感嘆した。 この5年間、BiSHでのパフォーマンスを通じて、ずうっとアイナ・ジ・エンドが歌う姿を観続けてきたけれど、彼女が辿り着いたその神々しくすらあるミューズとしての立ち振舞に心が震えた。  その主人公を映画世界の内外で支える存在として、役者としての新境地を開いてみせた広瀬すずも素晴らしかった。 心が締め付けられるくらいに相変わらず美しいその鼻筋と、キャラクターの心の奥底の闇を表現する漆黒の瞳に、終始釘付けになった。彼女が演じた逸子(真緒里)の2018年から2023年に至る「変貌」こそが、この現実世界そのものの激動と悲哀を象徴していたと思う。     語り始めるまでに時間はかかり、いざ語り始めたならば、それがなかなか尽きることはない。 「スワロウテイル」や「リリイ・シュシュのすべて」など、過去の岩井俊二作品と同様に、時代を超えて様々な世代が観続け、愛され、または嫌悪され、その素晴らしい音楽と共に思い出され続けるであろう、忘れ難い“現在地点”だ。
[映画館(邦画)] 10点(2023-10-22 22:03:47)(良:1票)
3.  逆転のトライアングル
とどのつまり、人間社会というものは、「格差」とそれに伴う「階層」を取り払うことなんてできない、ということを本作の終着点における虚無感は物語っている。  現代社会において、全世界的に“格差の是正”が問題提起されていたり、幅広い要素での“ポリティカル・コレクトネス”がともすれば病的なまでに声高に叫ばれている昨今ではあるけれど、果たしてそこに本質的な理解と実行力が伴っているのか。 結局、聞こえの良い言葉を一種のトレンドや、免罪符のように振り回して、個々人の立場を正当化しているだけではないのか。 この映画の痛烈な批評性と、度を超えたブラックユーモアは、そういう現代社会の実態を痛々しく丸裸にしている。  俗世の象徴とも言える豪華客船に乗船した様々な“階層”に人々。彼らの中に、真に中立的で、公正な人間は存在しない。 本作の舞台となる豪華客船や無人島がこの世界の縮図を表している以上、それはすなわちこの世界に中立公正な人間は存在しないということの証明であろう。 したがって、本作を鑑賞したすべての“社会人”は、それぞれの信条や立場において、ものすごく居心地の悪さを感じることだろう。  ヨーロッパの映画(スウェーデン・フランス・イギリス・ドイツ合作)らしく、多様性に富んでいると同時に、ものすごく振り切ったブラックユーモアの連続がときに痛すぎる程に痛快で無慈悲なコメディ映画だった。 船が難破して無人島でのサバイバルが始まらなくとも、人間社会のヒエラルキーなんてものは、時代や価値観の変化によって突如として逆転するものだ。 その逆転が生じたとき、人間は己の中に確実に存在する“闇”を目の当たりにする。 それは、皆等しく業の深い人間には避けられないことなのかもしれない。   映画作品として意欲的すぎるシニカルさを称賛する反面、全体の構成としてはややバランス感に欠けている印象も拭えない。 主人公のカップルのみに焦点を当てたプロローグ的な一章目の描き方や、ヒエラルキーのあらゆる階層が“同乗”する豪華客船上を描いた二章目の作りは興味深かった。が、無人島が舞台となる三章目は、テーマに対する回答と帰着を描いているわりにはやや冗長に感じてしまい、よくあるシチュエーションでもあるので新鮮味が薄れてしまった。 ラストのオチを踏まえると、無人島パートはもっとスマートに、端的な愚かな人間たちの有様を描いてよかったように思う。  他の文化圏でリメイクされたならば、同じストリーテリングであったとしても、また別のどす黒いユーモアが新たな“闇”を浮かび上がらせるだろう。 虚しく、愚かしいことだけれど、それはそれで観てみたいなと、業深い人間に一人として思ってしまう。
[インターネット(字幕)] 7点(2023-08-19 17:38:35)
4.  君たちはどう生きるか(2023)
少し唐突な印象も残るくらいにあっさりと映画が終わった。 その時点で、とてもじゃないが言語化はまだできておらず、一抹の戸惑いと、何かしらの感慨深さみたいなものが、感情と脳裏を行き交っている状態の中、少しぼんやりとエンドロールを眺め見ていた。 すると、「作画協力」として、今やこの国のアニメーション文化を牽引する錚々たるスタジオの名前が整列するように並んでいた。 他のアニメスタジオが作画協力に名を連ねること自体は、さほど珍しいことでもないのだろうけれど、スタジオジブリ作品、そして本当に宮崎駿の最後の監督作品になるかもしれない本作のエンドロールにおけるその“整列”には、何か特別な文脈があるように思えた。  そしてはたと気づく、ああそうか本作の「真意」は、クリエイティブの極地に達した創造主からの、新たな創造主たちに向けたメッセージだったのだなと。  宮崎駿、その想像と創造の終着点。 そこには、彼がこの世界に生まれ落ち、いくつもの時代を越えながら吸収してきた数多のクリエイティブの産物で溢れかえっていた。 彼が吸収したものが、いくつものアニメーション作品の中で具現化され、一つ一つの「世界」となって、積み木のように積み上げられていったことをビジュアルによって物語っているようだった。 そしてその世界は、「崩壊」という形で、時を遡って、何も生み出していない無垢な自分自身に継承される。それはまるで、クリエイターの根幹たる魂が「輪廻」していくさまを見ているようだった。   宮崎駿が生み出した「世界」そのものは、創造した自分自身の手によって崩壊という終焉を経て、無に帰す。 ただし、同時にそこからは、色とりどりの無数のインコが飛び立っていく。 この色とりどりのインコたちこそが、エンドロールに名を連ねた新世代(ジブリ以降)のアニメスタジオであり、新たな創造主たち(=クリエイター)を表しているのだろう。  “声真似”をするインコを用いたのは、どこか“ジブリっぽい”アニメ作品を量産しているクリエイターたちへの皮肉めいた批評性、というか明確な“イヤミ”もあるのかもしれない。 その一方で、宮崎駿自身がそうであったように、先人たちの数多のクリエイティブを吸収し、真似て、発信しようとするプロセスは、必然であり、正道であることを暗に伝え、激励しているようにも思えた。   あらゆる側面において、極めて意欲的な作品だったと思う。 ただ、本作においいて、宮崎駿というクリエイターの本質とも言うべき“支配力”や“エゴイズム”が、全盛期同様に満ちていたかというと、そうではなかった。 クリエイティブという活動そのものの性質や限界を考えると、それは至極当然のことだろう。 むしろ、クリエイターとしての限界のその先で生まれた作品だったからこそ、本作はそれに相応しい「崩壊」や「終焉」をエモーショナルに描き切ることができたのだと思う。  創造と崩壊、巡り巡ったその先に、君たちはどんな「世界」を創るのか。 様々な解釈はあろうが、それは、「夢と狂気の王国」築き上げ、積み上げ続けた一人の狂気的なクリエイターの、決して優しくはないが、力強いメッセージだったと思う。
[映画館(邦画)] 8点(2023-07-25 23:01:16)(良:1票)
5.  キル・ボクスン
「ジョン・ウィック」を皮切りに、「ポーラー 狙われた暗殺者」「ブレット・トレイン」など、“サラリーマン社会”のように企業化され階級付された“殺し屋業界”を描いた娯楽映画がこの数年量産されている。 日本でも、「ベイビーわるきゅーれ」や「ザ・ファブル」がその系譜であり、レベルの高いアクション性と、ある種の“ファンタジー”の中での殺し屋たちの悲喜こもごもの群像劇が楽しい作品が多い。 本作「キル・ボクスン」も、まさしく韓国産の殺し屋業界映画であり、このジャンルと韓国映画の相性をきっちりと見せつけている。  韓国映画では、強烈なバイオレンス描写を見せるとともに、どこか気の抜けた台詞回しや、登場人物たちの言動とのギャップが、映画作品としての独特の味わいとなっていることが多い。 それは韓国という国の社会風俗や、思想、教育倫理を根底にしたアイデンティティであり、韓国映画が唯一無二の娯楽性を生み出している大きな要因だとも思える。  韓国映画が描き出す“殺し屋業界”は、極めて激しく暴力的であると同時に、生々しい滑稽さが、空想上の“リアル”を導き出していた。 「先輩」の命令は絶対である揺るぎないタテ社会の中での、殺し屋業界の面々の人間関係がまず面白い。 業界における伝説的エースである主人公を、畏怖と共に敬愛する“同業”の飲み友達が集まる居酒屋だったり、所属する殺し屋会社の訓練生たちからの尊敬の眼差しだったりと、他の国の同ジャンル映画には無かった人間模様が新鮮でユニークだったと思う。 ただし、だからといって殺し屋同士で馴れ合うばかりではなく、いざその“対象”となれば、躊躇なく殺し合うシーンへと転じる急激な変調が、アクション映画としての見事な抑揚を生み出していたとも思う。  韓国映画として、アクションシーンのクオリティの高さはもはや言うまでもない。アクションシーンのパターンやそれに伴うカメラワークのアイデアがとにかく豊富で、「ジョン・ウィック」のように決して銃弾が飛び交うような派手なシーンが多いわけではないにも関わらず、137分の時間が飽くこと無く過ぎ去っていく。  無論、殺し屋稼業と思春期育児を行き来するシングルマザーの主人公を描いたストーリーテリング自体が上手く展開していたことも本作のオリジナリティを高めていたと思う。 殺し屋としての苦闘以上に、15歳の我が娘との距離感や教育に苦悩する主人公描写こそが、本作の要であり、主人公を演じたチョン・ドヨンは両極端の人間性を絶妙なバランス感覚で、説得力をもって演じ分けていた。  冒頭の日本人ヤクザとの対決における片言日本語描写はご愛嬌。 組織内で主人公と並ぶ手練れとして名前だけ登場する“カマキリ”が、続編への布石であることを期待したい。
[インターネット(字幕)] 8点(2023-05-09 15:08:11)
6.  THE GUILTY ギルティ(2018) 《ネタバレ》 
鑑賞後、映画情報サイトで本作の詳細を確認したところ、“出演”の項目が主演俳優のヤコブ・セーダーグレンの表記のみで、残りのキャスト情報は“声の出演”になっていた。 当然認識していたことではあったけれど、本作が極めてミニマムなキャスティングによるアイデアに溢れた密室サスペンスであったことを再確認した。  とある業務上の問題行為による謹慎処分で緊急通報司令室に飛ばされているらしい刑事の男が、現場復帰前夜の職務で受けた一つの緊急通報により、人生の岐路に立たされる。 緊急通話の“会話劇”のみで紡ぎ出される或る事件が、緊迫感たっぷりに描き出されると同時に、主人公の置かれている立場や彼の人間性が浮き彫りになっていく様が、とても巧みだった。  主人公が偶然にも受けてしまった事件そのものの真相もサスペンスフルだったが、その顛末によって突如として彼本人に突きつけられた“罪と罰”の描写が非常にスリリング。 映し出される舞台は一貫して緊急司令室内のみであり、1カットも“外”の様子が挟み込まれることはない。故に映画的な絵面は地味なはずなのに、その緊張感をキープし続ける映画術は見事だった。   人間誰しも、自分が犯した過ちに対して気づかないふりをしてみたり、必死に正当化したりして、自分自身に対して「嘘」をついている。 ただ、ふとした瞬間に、その嘘を自ら暴かなければならなくなったとき、どういう言動に至るのか。そこに、人間としての本質が現れるのかもしれない。  本編を通じて、主人公は方々に電話をかけつづける。 ラストカット、彼は誰に最後の電話をして、外への扉を開けたのか。 (最後に扉を開ける映画は大体傑作説を本作は証明している)  デンマーク産のなかなか妙味な作品だった。 あと、本作ほど自室のPCモニターで“ヘッドホン”をして鑑賞するスタイルに相応しい映画も他に無いだろうと思う。
[インターネット(字幕)] 8点(2023-02-10 22:54:21)
7.  9人の翻訳家 囚われたベストセラー 《ネタバレ》 
久しぶりに、「良いミステリーサスペンス映画を観た」という充足感に包まれた。 マクガフィンとして物語の中心に存在するベストセラー小説の「デダリュス」というタイトルが最後まで覚えられなかったけれど…。  世界的大ベストセラーの最新作の多言語化に際し、世界各国から9人の翻訳家が秘密裏に集められる。 その翻訳家たちを人里離れた洋館の地下室に隔離して、徹底した情報管理体制のもとで翻訳作業を行わせるというプロットはなるほど映画的だなと思ったが、なんとこれは実際に行われた手法だというから驚く。ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」シリーズ最新作「インフェルノ」の出版の際に、同様のスタイルで翻訳作業が行われたらしい。  そんな事実に着想を得て練り上げられた脚本が、ずばり見事だったと思う。 慢性的なネタ不足で、世界的に小説や漫画の映画化が溢れる昨今において、この脚本のオリジナル性は価値が高い。 フランスの低予算映画で、それほど有名なキャストも揃っていないので(知っていたのはボンドガールを演じたオルガ・キュリレンコくらい)、最後まで登場人物たちに対する“焦点”が定まりきらなかったことも、サスペンス映画として効果的に機能していたと思う。  プロットの必然性により、国籍の異なる9人が集まり、彼らが織りなす言語と思考が入り混じることで、ストーリーの推進力と、巧妙な“ミスリード”を生み出していた。作中、アガサ・クリスティーの「オリエント急行の殺人」を引き合いに出したことも、巧い誤誘導だった。  もう少し、9人の外国人が群像劇を展開することによる現代的な視点や問題意識を盛り込めていれば、もっと映画作品として深みが出ていたような気もするので、その点はまたリメイク等にも期待したい。 ストーリーの顛末を知ってしまった今となっては、逆に各国出身のハリウッドスターを揃えたオールスターキャスト版も観てみたい。  ともあれ、サスペンス映画を観て純粋に“驚く”という機会も中々少なくなっているので、それを得られた時点で本作の価値は揺るがない。
[インターネット(字幕)] 8点(2022-09-23 09:50:28)
8.  キングスマン: ファースト・エージェント
元々、僕はこの人気シリーズとは“相性”が良くないらしく、過去2作とも割と期待感高く劇場鑑賞してきたけれど、いずれも悪ノリの面白さよりも、露悪的な表現によるストーリーの破綻の方に嫌悪感を感じてしまい、全くハマることが出来なかった。 マシュー・ヴォーン監督の出世作、「キック・アス」や「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」は傑作だと思っているだけに、監督の個人趣味に突っ走った本シリーズは、余程自分の趣味に合わないのだろうと思う。  そんな経緯なので、「キングスマン」の“エピソード0”として製作されたこの最新作に対しても、特に期待感は無く、度重なる公開延期に対してもほぼスルー状態だった。 某配信サービスの最新作にリリースされたので取り合えず鑑賞してみたが、率直な感想としては、可もなく不可もなくといったところか。  過去2作に比べると、悪趣味な暴走ぶりは鳴りを潜めており、“見やすい”娯楽映画だとは思う。ただし、その代わりに特筆すべきエンターテイメント性が無いことも事実だろう。  特に物足りなかったのは、前作までの(個人的には)唯一にして最大のハイライトだったギミックの娯楽性がほぼ皆無だったことだ。 時代設定が第一次世界大戦前夜であるから、ハイテク機能を隠し持ったギミック満載のスパイ・ガジェットの登場は無理だったろうけれど、前二作に登場したガジェットの「原型」となった“秘密道具”くらいは駆使してほしかった。  ストーリーテリングや、登場人物の言動においても、説得力に欠ける点が多く、どうにも映画世界に入り込むことができなかった。 レイフ・ファインズ演じる主人公は、無論“THE紳士”なたたずまいでソレっぽいけれど、実際のところ彼の行動は行き当たりばったりなことが多く、決して理知的でもなければ、紳士的でもなかった。 挙句、何よりも大切な家族や友人たちをことごとく失くしてしまうわけだから、やはりヒーローとしての魅力や説得力に欠けてしまっていることは否めない。  やはりマシュー・ヴォーン監督においては、むしろ制約の多いハリウッド大作の中で、しがらみに雁字搦めになりながら、それでもギリギリの範囲で“悪趣味”を爆発させるくらいの方が、彼のセンスが際立つのではないか。 彼の出世作がいずれもアメコミ作品であることは言わずもがなだし、同じくアクの強い映画監督であるジェームズ・ガン監督が、MCUやDCのアメコミヒーロー映画で傑作を連発していることからも、進むべき道は明らかだと思うけれど。
[インターネット(字幕)] 5点(2022-03-13 01:08:43)
9.  キャッツ
本格的な舞台ミュージカルを観劇した経験が無いので、勿論「キャッツ」というミュージカルを観たことはない。 無論、タイトルくらいは聞き馴染みがあるけれど、どのような物語なのかすら無知な状態で、映画鑑賞に至った。  映画作品として食指が動いた理由は、ミュージカル映画そのものは好きであるということ、「レ・ミゼラブル」のトム・フーパーが監督であるということ、そして何よりも“猫”の造形に言葉にならない“異様さ”を感じたからだ。  「キャッツ」が猫の世界を描いていること自体は物語を知らなくても何となく想像できていたけれど、予告編で流れた映像から、キャラクター造形が常軌を逸していることは明らかであり、そのビジュアルはある意味衝撃的だった。 絶妙なセクシーさと、絶妙な気味悪さ、総じて言える「奇妙」さは、何かフツーじゃない映画を観させてくれるのではないかという期待感を生んだ。  結果的に言うと、その期待感は決して外れてはいなかった。  全身CG処理された“猫人間”が繰り広げるパフォーマンスは、予告編を観た時と同様に衝撃的だったと言える。 世間一般では、そのCG合成による“気味悪い”レベルの艶めかしさに対してストレートに嫌悪感を抱く人も多いようだが、個人的にはその行き過ぎた感じがキライじゃなかった。 アレが「猫」かどうかは置いておいて、人間界以外の世界を描く物語として、生々しい“別モノ”の生物感を表現しようとした試みは、方向性的に正しかったと思える。  ただし、明確な難点の一つとして、映像世界全体をCGに頼り過ぎてしまっている印象は覚える。 CGとリアルな撮影素材の境界が混濁してしまっていることにより、演者たちのパフォーマンス自体もどこまでが生身の動きなのかの判別が付きづらくなっている。 つまり、リアルなダンサーたちのライブ感がエモーショナルに伝わってこないのだ。 それはミュージカル映画が孕むべき「熱量」の欠落に直結することであり、決して小さくないマイナス要素だったと思う。  そして、個人的に何よりも衝撃的だったのは、「物語」がほぼ「物語」としての形を成してなく、「狂騒劇」とでも言うべき、理性が消失した“騒ぎ”の中で終止するということだ。 主人公の若猫がとある猫コミュニティに迷い込み、年に一度の“舞踏会”の狂騒に巻き込まれたかと思えば、入れ代わり立ち代わり“お披露目”される「演目」が延々と繰り広げられる。 そこには分かりやすい成長譚もなければ、恋愛模様や対立劇も無い。(実際は無いことはないが、どうでもいい感じで流される)  ただひたすらな猫たちの宴。まさに、猫の猫による猫のための猫映画。 ストーリーらしいストーリーが無いまま、どんどんとクライマックス的な展開に進んでいく常軌を逸した映画世界に対して、“マタタビ”を嗅がされたかのように茫然自失状態であった。   面白かったか面白くなかったかで言うと、きっぱりと「面白くない」し、極めてバランスの悪い失敗映画だろうとは思う。  ただ同時に圧倒的に「変な映画」であったことも間違いないし、予想通りにその「奇妙」さはフツーじゃなかった。(ネズミとゴキブリを調教する“おばさん猫”のくだりとか最高にイカれてる)  大団円のラストシーンでジュディ・デンチ御大が“カメラ目線”で我々に宣言してくる通り、要は「(私たち)お猫様の映画にとやかく言うんじゃないよ!」ということなのかもしれない。
[映画館(字幕)] 4点(2020-11-26 00:07:16)
10.  キャプテン・マーベル
“マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)”は、最終章「エンドゲーム」公開を直前に控えたこのタイミングで、唯一欠けていた“ピース”を埋めてきたのだと思った。 多種多様なスーパーヒーロー達を描き連ね、「正義」という概念に対する様々な価値観と、それに伴う結束と決裂と崩壊を、MCUは大エンターテイメントの中で映し出してきた。 そんな中において、唯一にして明確に欠けていた要素があった。それは映画企画としては後発の“DC”では先に表されていたものでもある。  それは即ち、「時代」に即した、圧倒的に強く魅力的な女性ヒーローの存在だ。 無論、これまでのMCUの作品群の中でも、強くて魅力的な女性キャラクターは数多く登場する。 ブラック・ウィドウ、スカーレット・ウィッチをはじめとするアベンジャーズメンバーは勿論、ペギー・カーターやマリア・ヒルなどS.H.I.E.L.Dという組織を支えてきた面々、ガモーラやワスプなど主人公キャラをも凌駕する強さを発揮するキャラクターも幾人も登場している。 だがしかし、彼女たちはすべてスーパーヒーローやリーダーをサポートする役割であり、物語の“主人公”にはなり得ていなかった。 新たな時代の価値観を踏まえて、それぞれの作品のストーリーを紡いできたMCUであるが、その女性キャラクターの偏った立ち位置においてはあまりに前時代的だったと言わざるを得ない。  そんなシリーズの文脈の中でついに登場した女性ヒーローが、今作のキャロル・ダンヴァース=“キャプテン・マーベル”なのだと思う。 それはまさに、ライバルDCエクステンデッド・ユニバースが、起死回生の傑作となった「ワンダーウーマン」で成し得たことそのものであり、作中の類似性も含めて「ワンダーウーマン」が無ければ、今作は誕生しなかったのではないかとすら思える。  ただ単に強い女性ヒーローを誕生させただけであれば、それこそ「ワンダーウーマン」の真似事に過ぎないところだが、そこは流石のMCU、しっかりと大河の本流に組み込ませつつ、想定を大いに超える圧倒的な無双ぶりを展開させ、問答無用の高揚感を与えてくれる。 若きニック・フューリー(aka サミュエル・L・ジャクソン)を“相方”とすることで必然的に生じる軽妙な台詞回しとユーモアも全編通して気が利いており巧い。   「感情的」で何が悪い? 怒り、悲しみ、泣き、笑い、「女」は何度だって立ち上がる。 その神々しいまでの勇ましさは、「インフィニティ・ウォー」によるあまりに大きな絶望感に対してようやく生まれた一筋の光だ。 とにもかくにも、ニック・フューリーが最後の最後まで隠し持った“切り札”はとんでもなかった。
[映画館(字幕)] 8点(2020-01-11 01:16:21)(良:1票)
11.  キング・オブ・コメディ(1982) 《ネタバレ》 
男がようやくたどり着いた“檜舞台”の直接的な描写を、この映画は一旦すっ飛ばす。 「え、ここを見せないのか」と一寸大いに不満に思ってしまったが、それも含めて巨匠と名優の手腕に踊らされていたようだ。 常軌を逸した行動を繰り広げる男が、コメディアンとして本当に成し遂げたかったことは何だったのか。 “ブラウン管”を通じてようやく映し出されたスタンダップコメディを目の当たりにして、彼の悲哀に溢れた「過去」と「真意」が見え隠れする。  想像の範疇を出ないけれど、何らかの「性質」を抱えて生まれた主人公は、早々に親からの教育を放棄され、学校では苛め抜かれ、それでも必死に自分自身の精神を守って生き抜いてきたのだろう。 そんな中で、唯一彼に優しく接してくれたのが、ヒロインの女性だったのかもしれない。  主人公のそういうあまりにもヘビーな青春時代の風景が、ラストのスタンダップコメディによって、映画の観客のみに投影される。そして、劇中の観客たちの「爆笑」が、その悲哀を更に深く、深く、増幅させる。  主人公の言動は終始一貫決して肯定できるものではない。“痛々しい”をとっくに通り越して、明確な犯罪行為の連続であるし、主人公も含め、あらゆる登場人物が「悲劇」を迎えていても何らおかしくない。 ただ、彼の必死さは火を見るよりも明らかに伝わってくる。そして、それが単なる虚栄心や功名心によるものではないことも。  果たして主人公は、このクソみたいな社会において、「自分」の存在が唯一“認識”される手段を強行し、成し遂げる。 そうして迎えたのは、個人的にはあまりにも想定外だったハッピーエンド。 しかし、ラストカットの彼の表情はどこか晴れない。そして、劇中でもっとも冷ややかで諦観的な視線を観客に向けている。 傍若無人のサクセスストリーの果てに、遂に“キング”と成った男は、何を得て、何を失ったのか。 マーティン・スコセッシと、ロバート・デ・ニーロは、「時代」を超えて、難しい問いを大衆に投げつける。脱帽。
[インターネット(字幕)] 9点(2019-10-08 23:15:23)(良:1票)
12.  きみと、波にのれたら
「あらら」と、ちょっと呆気にとられるくらいにチープな映画だった。 1990年前後の“ホイチョイ・プロダクション”の映画を観ているような「軽薄感」が結局最後まで拭えなかった。  その前時代的な作品の空気感自体は、製作陣の狙い通りだったのだろうと思う。 若い男女が“都合よく”運命的な出会いをして、都合よく恋に落ちて、都合よく死別して、都合よく摩訶不思議な邂逅を果たすという浅はかな展開そのものを否定したいわけではない。  そのようにストーリーテリング的は稚拙だとしても、多くの人に愛されてやまない名作はたくさんある。 ただし、そういう映画に必要不可欠な要素は、ストーリーなんてどうでもよくなるくらいに魅力的な“キャラクター”だと思う。そして、彼らが織りなす刹那的で眩い悲喜劇に人は魅了されるものだろう。  だが、残念がら、この映画に登場するキャラクターたちには、そういった魅力が備わっていない。 人間的に嫌悪する余地すらなく、只々、“フツー”で“浅い”のだ。 都合のよいストーリー展開の中で、浅はかな若者たちが、特にエモーショナルなわでもなく感動めいたものを押し付けてくる印象を受け、終始“気持ち悪かった”。  その“気持ち悪さ”が極めて残念だった。 なぜなら、理屈ではなく、摩訶不思議で、自由闊達な、“気持ちよさ”こそが、湯浅政明というアニメーション監督の真骨頂だと思っているからだ。 「夜は短し歩けよ乙女」「夜明け告げるルーのうた」そして「DEVILMAN crybaby」と、立て続けに自由闊達なアニメーション表現で独自の世界観を構築し、圧倒的な立ち位置を確立した湯浅政明監督の最新作として大変期待したのだが、冗長なプロモーションムービーかのごとき稚拙な映画世界から最後まで脱却できなかったことは至極残念だ。
[映画館(邦画)] 3点(2019-06-30 12:24:40)
13.  寄生獣 完結編
「映画化」のインフォメーションに際し、最も眉をひそめたポイントは、“田宮良子”を演じるのが深津絵里だということだった。 深津絵里は大好きな女優の一人だ。ただ、原作漫画において殆ど主人公の一人と言っても過言ではないキーパーソンである寄生生物“田宮良子”の文字通り「異質」なキャラクター性と、これまで深津絵里という女優が演じてきた多くのキャラクターとのイメージが、全く合致しなかった。 原作漫画の“信奉者”故の過剰な拒絶反応が、そもそも「映画化」という報にあった上に、その主要キャラクターにおけるイメージの乖離が、この映画を遠のかせた大きな要因だったと思う。  しかし、鑑賞後、結果的には、まさに手のひらを返すようにこの映画作品を称えたくなった。 その最大の要因も、深津絵里演じる“田宮良子”だった。 原作漫画に登場するキャラクターとは、やはり風貌も雰囲気も異なっていたけれど、深津絵里の“田宮良子”は素晴らしかった。 原作漫画のハイライトである“田宮良子”の最期のシーンが、映画化においても当然肝になると思っていたが、このシーンがほぼ完璧で、原作同様に泣いてしまった。正直、もうそれだけで、この映画化の価値は揺るがないと言っていい。 “田宮良子”の独壇場であるこのシーンで、深津絵里は、確固たるキャリアに裏打ちされた女優力で、見事にアプローチし、表現しきっている。  深津絵里に限らず、出演する俳優陣の演技がみな安定しているからこそ、諸々の改変点も許容の範疇に収まったのだと思える。 無論、改変点に対する違和感や拒否感が無くなることはないけれど、演者の演技に「説得力」が備わっているので、「これはこれでありだな」と思えたところも多かった。  “田宮良子”が「人間の真似をして笑ってみた」シーンは、原作においても印象的な場面だが、その“真似ごと”のきっかけを映画では「嘲笑」から「慈愛」に変えている。 原作通りのキャラクター表現であれば、この改変は完全に「改悪」と断罪すべきところだったが、映画のキャラクター設定と深津絵里の演技プランが、原作キャラに対して一歩踏み込んだものになっているので、原作とは別の感動を生み出していた。 また、前述の“田宮良子の最期”と、同じくハイライトの一つである“広川の最期”を並行して描いた点は、映画製作における「予算」「尺」など諸々の制約を超えていくための巧い改変だったと思う。  期待を超えた出来栄えに対する、原作ファンならではの「補完」も大いにあったのかもしれない。 が、鑑賞後確かな「満足感」を携えて、すぐさま自室の本棚に並ぶ原作全巻を読み直させたのだから、大成功の「映画化」であったことは認めざるを得ない。
[インターネット(邦画)] 8点(2019-03-09 01:31:28)
14.  寄生獣
最初にきっぱりと言っておくと、岩明均が描き出した漫画「寄生獣」は、僕にとって人生のバイブルだ。 初めてこの漫画を読んだとき、当時10代だった僕は、最終話における寄生生物ミギーの「心に余裕(ヒマ)がある生物 なんとすばらしい!!」という台詞に心から救われた。以来、この漫画は常に僕の人生の傍らに存在している。  というくらいのファンもとい“信奉者”なので、国内で映画化と言われても疑心しか無かったし、とてもじゃないが劇場に足を運ぶ気にもならなかった。 そうして劇場公開から4年余り経過し、某動画配信サービスのラインナップの中から“当たり屋”的なスタンスでようやく鑑賞に至った。  結果的には、言いたいことは無論尽きないが、ハードルを下げきって観た分、想像以上に無難に実写化しているとは思えた。 原作の信奉者として、改変箇所には一々違和感と拒否感を禁じ得なかったけれど、実写化する以上は一定の尺の中に収めることは避けられないことであり、あらゆる制約の中で、ストーリーテリングとキャラクター設定を整理しつつ、纏めている部分は致し方ないと思う。そして、「あ、なるほど」と少なからず感心する改変ポイントもあった。 そもそもモノローグが多い原作漫画なので、実写化にあたっては意外と話運びそのものが難しかったのではないかと思うが、キャラクターを整理・統合しつつ、破綻しない程度に改変できていたのではないか。  キャスティングを含め、俳優陣も概ね良かったと思う。 特に、主人公“泉新一”役の染谷将太、キーパーソン“田宮良子”役の深津絵里については、ビジュアル的にも表現的にも原作キャラと合致しているというわけではなかったけれど、それぞれが独自の演技プランで的確な役作りをしていたと思える。 一部酷評も目にしたが、“島田秀雄”を演じた東出昌大も、この俳優特有の“棒演技”感が絶妙にマッチしており、原作の“島田秀雄”というよりは、寄生生物キャラ全体に共通する作り物のようなおぞましい無機質感を体現できていた。  と、溜飲を下げる一方で、根本的な演出面では稚拙さが際立っていたと思う。 ストーリーテリング自体は整理できていたけれど、その分、一つ一つの描写がとても薄っぺらい。 俳優陣はそれぞれ頑張っていたが、感情を揺さぶられるほどの情感を引き出すには至っておらず、これはすべて監督の演出力の無さに起因すると思わざるを得ない。 「混じった瞳」「火傷の手」など、キーポイントとなるカットをしっかりと押さえるだけでも、印象は随分変わったはずだ。せっかく原作という“絵コンテ”が存在するのに、そういう画作りの不味さが際立ってしまっているのは残念だ。  あとは「みんなの生命を守らなければ」ではなく、「みんなの生命を守らねば」だ!だとか、細かすぎる難クセは枚挙にいとまがないが、「後編」も不安半分、期待半分で観てみようと思う。 浅野忠信の「後藤」には期待している。
[インターネット(邦画)] 6点(2019-02-24 12:11:22)(良:1票)
15.  キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー
前作「ザ・ファースト・アベンジャー」は、当時公開間近だった超大作「アベンジャーズ」の布石であり前日譚である要素が強く、単体としては娯楽映画の魅力に欠けていたことは否めなかった。 ただし、「前日譚」と割り切っている以上、この映画のあり方はまったく問題なかったと今となっては思うし、「アベンジャーズ」でのキャプテンの存在感を目の当たりにした後では、この一連のマーベル作品シリーズの中でも極めて重要な作品だと思える。  そうして、再びマーベルの“大祭”第二弾を控え、満を持しての続編。前作と同様に布石、前振り的な要素は大いにある。 しかし、今作は前作と比較すると圧倒的に主人公キャプテン・アメリカのキャラクター性が完成している。  彼が“アベンジャーズ”の中で最も「地味」なキャラクターであることは言うまでもない。 純粋な戦闘能力としてのタイマンなら、ソーは勿論のこと、アイアンマンやハルクの足元にも及ばないだろう。 ただそれでもチームのリーダーは、“キャプテン”を置いて他にいない。 それは、彼の最大のストロングポイントが、決して人体実験で生み出された超人的パワーなどではないからだ。 キャプテン・アメリカとなる前の一兵卒スティーブ・ロジャーズ本人が持つ揺るがない「正義感」こそが、このスーパーヒーローの最大のストロングポイントであり唯一無二の武器なのだ。  そのキャラクター性は、あまりに理想主義的で、あまりに青臭い。 でも誰も彼のことを否定などできない。  エネルギー破など出せず、飛ぶことも出来ない。 けれども決してひるむことなく、ひたすらに走り、ひたすらに盾を投げつけ、ひたすらに投げた盾を拾い、ひたすらに敵を叩く。 その姿を見て、どのヒーローも本質的な部分において「彼には敵わない」と思うのだろう。  勿論、弱みを突かれてのピンチには事欠かない。 ただしいつも彼には強力な仲間がいる。 真面目さが仇になるとあらば、ブラック・ウィドウが世渡りと危険回避の巧みさでフォローするし(あとガールフレンドの斡旋も)、空が飛べないとあらば、新戦力ファルコンが翼を与える。  自らが勝利する必要はない。結果として正義が悪に打ち勝てばそれでいい。 それが、キャプテン・アメリカというヒーローなのだ。  そういうことを、きっちりと“生真面目”に映し出すこの映画が面白くないわけがない。     (2018.5.12 再鑑賞)  この「キャプテン・アメリカ」の第二弾が、MCUの本流ど真ん中を紡ぐ作品でありながら、映画単体として非常に高評価を得たのは、ポリティカルサスペンスとしてのテーマの鋭さに尽きる。  即ち、「正義」を司る組織として存在していた“S.H.I.E.L.D.”が、実のところその中核的なところから「悪」によって動かされていたという、あまりにも虚無的な事実。 もはや、何が「正義」で、何が「悪」なのか。その言葉の意味すら曖昧になり、濃く深い霧の中に入り込んでいくような感覚。 そしてそれが、荒唐無稽なフィクションである筈の映画世界を超えて、現実世界の実情とリンクしてくるという絶望感。  ただ、そんな混沌とした状況だからこそ、我らがキャプテンは最後の最後まで、「親友」を見捨てることが出来なかったのだとも思う。 その感情は、この無慈悲な世界において、あまりにも不確かで危ういことだけれど、人間に唯一残された希望のようにも思える。  それは、70年の時を経て、変わらぬ愚かな世界の混沌の中で、「正義」の意味を背負い続けるヒーローが語るに相応しいテーマ性だ。
[映画館(字幕)] 9点(2018-06-01 17:00:57)(良:3票)
16.  キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー
「アイアンマン」以降、ここ数年間のマーベル作品は、いよいよ公開間近の超大作「アベンジャーズ」の贅沢な「布石」としての立ち位置のものが多く、“祭り”開催前のカウントダウン的な高揚感を持てるかどうかで単体映画としての楽しめ方は大いに変わってくる。 そういう意味で、「アベンジャーズ」公開前の最後の布石となった今作は、特に“前日譚”的なニュアンスが色濃く、もし「アベンジャーズ」に対して大した期待を持っていないのならば、酷くありきたりで退屈な映画に見えても仕方ない仕上がりになっていると思う。  敢えてマイナス要素から挙げるならば、アメコミ映画の最大の見所であるべきアクションシーンがつまらない。世界大戦当時が舞台となっているとはいえ、繰り返されるアクションのシークエンスがことごとく古臭く見え、テンションが上がってこなかった。 ひたすら“盾”を投げつけて敵を倒していくキャプテン・アメリカの闘い方そのものに工夫が無く極めて地味だったと言わざるを得ない。  ヒューゴ・ウィービングが演じる悪役も、「本性」を見せる前まではウィービング独特の雰囲気が功を奏し独特の禍々しさを携えていて好感が持てたものの、“レッドスカル”としての姿を露にした途端、悪い方向に“マンガ的”に映ってしまい、それまであった存在感がトーンダウンしてしまっていると思う。 この悪役の存在感の弱さが、スーパーヒーローの地味さに直結してしまっていることは明らかで、スーパーヒーロー映画において悪役の存在性が重要であることを皮肉にも表してしまっている。  一方で、主人公の生い立ちそのものとスーパーヒーローに成っていくプロセスには、他のスーパーヒーローにはない哀愁があり惹き付けられた。 脆弱な“チビ”そのものの主人公が溢れる正義感を抑えきれず、自らの身体と人生を捧げていく様には、どうしたって応援したくなる魅力があり、このキャラクターが愛される理由がよく分かる。 その主人公のそもそもの人間性に裏打ちさせたこの映画のクライマックスの顛末にも、ありきたりではあるけれど素直に感動させられてしまったと言える。  そうしてお決まりのように付加されている「アベンジャーズ」へのエピローグ。むしろこのエピローグこそが最大の高揚ポイントであることは、この映画単体としては非常に問題だが、いやが上にも“アガッて”しまうことは否定出来ない。   (2018.5.8再鑑賞) 「キャプテン・アメリカ」シリーズは、マーベル・シネマティック・ユニバースの作品群の連なりの中でも、ある意味「アイアンマン」以上にストーリーラインの根幹を成すものだ。 その理由は明確で、主人公であるキャプテン・アメリカことスティーブ・ロジャース自身が、70年の年月を経て蘇った“アベンジャーズ”の「歴史」そのものだからだ。  ただ、この映画の初見時は、“マーベル・コミック”や“アベンジャーズ”に対して全くの門外漢だったため、“キャップ”の存在性と活躍ぶりに対して表面的な古臭さばかりを見てしまい、終始それ程の高揚感を得られなかった。 ストーリー上に登場する様々なキーワードや固有名詞も、この映画の公開時点では、正直何のことだか分かっていなかった。 ヴィランの“レッドスカル”の「退場」シーンなんて、この時点では殆ど“意味不明”レベルじゃないか。  が、しかしだ。「インフィニティ・ウォー」に至るまでMCUの全作品を経てきた今、この「キャプテン・アメリカ」第一作を再鑑賞し、「こんなに良い映画だったのか!」と、目から鱗と涙が落ちまくった。  先ず、MCUの根幹的作品であるという存在価値以前に、第二次世界大戦を舞台にした「戦争映画」として、そして超人戦士の誕生と葛藤を描いた「科学映画」として申し分なく面白い。 冒頭の“ゴミ箱の蓋”を掲げるひ弱だけれども誰よりも正義感に溢れるスティーブの姿から、図らずも70年の時を超えてしまい「ただちょっと、デートの約束が……」と途方に暮れるキャップの姿に至るまで、あらゆる場面が映画的な娯楽性の醍醐味に溢れている。  そして今やだれもが認める“リーダー”であるキャプテン・アメリカの強さの本質を描く今作は、「ヒーロー」という存在の意味そのものを強く語りかけてくる。  レッドスカルの存在感も、「インフィニティ・ウォー」で明らかにされた顛末を踏まえると、殊更に際立つ。
[DVD(字幕)] 8点(2018-05-20 20:31:11)
17.  キングスマン: ゴールデン・サークル
相変わらず容赦ない“悪趣味”と“死亡フラグ”の連発。大ヒットした前作は、個人的にその悪ノリぶりに若干ついていけなかったけれど、今回は「免疫」があった分楽しめたとは思う。 特に序盤から惜しみなく繰り広げられるギミックのエンターテイメント力が素晴らしい。往年の「007」のテイストも存分に引き継いだクラシカルかつハイテクて漫画的なギミックの数々が、文句なしに楽しい。  だがしかし、これでもかと終始盛りだくさんのギミックアクションには大満足な反面、ストーリーテリングは前作同様に雑で稚拙だった。もちろんその独特なチープさは、マシュー・ボーンの趣向通りなのだろうけれど、このクセの強さは合わない人間にとっては雑味として残り続けてしまし、楽しみ切ることができなかったことは否めない。  最凶最悪な大悪女ぶりを披露したジュリアン・ムーアをはじめ、錚々たるアカデミー俳優たちの揃い踏みは、当然ながら豪華で、それだけで娯楽性は高い。 ただやはり、それぞれのキャラクターの描き出し方についても“ハズし”のクセが一々強くて、居心地が悪い。  まあともあれ、ランスロットちゃんの死亡がフェイクであることを願いつつ、続編にも期待はする。
[映画館(字幕)] 6点(2018-02-03 20:55:31)
18.  キングコング: 髑髏島の巨神
「怪獣がいっぱい出てきてたのしい!」  まるで幼稚園児並みの感想だけれど、実際この映画の素晴らしさを表現するにはこの一言で充分だと思う。 なぜならば、この映画の製作陣は、観客にそれ以外の感想を求めていないからだ。 むしろ、観客がどう思うかなんて二の次で、怪獣映画や特撮映画大好きでたまらない自分たち自身が、観たくて仕方がない怪獣映画を“オタク魂”全開で作りきったのだと思える。 「俺が観たいキングコングはこうだッ!!」 と、言わんばかりの振り切れた映画世界が、同じく怪獣映画ファンとして、もう堪らない。  当初この映画に対する自分の反応は正直薄かった。 2005年のピーター・ジャクソン監督によるリメイク版に対する記憶も新しく、“キングコング”という題材自体に、今更な思いが先行したこともその要因の一つだろう。 ピーター・ジャクソン版は決して悪い映画ではなく、あの監督ならではの膨大な映像的物量を楽しめたとは思うが、1933年のオリジナル版に対して良い意味でも悪い意味でも忠実だったことで、どうしても「時代錯誤」な印象が際立ち、現代の娯楽映画として熱く迫るものがなかった。 そもそも1933年のオリジナル版には、「黒人差別」に対するメタファーが含まれているとも言われ、そういう題材をそのままのテーマ性で描き出すというのは、やはり色々な観点から“無理”があったというものだ。  しかし、この新しい「キングコング」には、そういった幾つものリメイク版が孕んでいた時代錯誤感を一蹴する描写で満ち溢れていた。 過去作のように、コングが人間により“鎖”に縛られ屈服する姿などは一切描かれない。 彼は終始一貫して、神々しいほどに強大で、只々雄々しい。 唯一無二の島の巨神であり、絶大な尊敬と恐怖を等しく内包する「畏怖」の対象として尊厳を保ち続ける。 強敵(悪役怪獣)とのラストマッチの最中、絡まった巨大な鎖を引き千切って反撃する様は、まさにその過去作に対するアンチテーゼの象徴だった。  熱い。コングのドラミングに呼応するように血潮が湧き上がってくるようだった。  怪獣を圧倒的な「畏怖」の象徴として描き出すことこそが、「怪獣映画」の本懐だと僕は思う。 そのことを、正しい憧れと遊び心を持ってして追求したこの映画を否定する余地は微塵もない。   鑑賞後、友人が「5歳の息子を連れて観に行っていいか?」と聞いてきた。 僕は「PG12」指定もなんのその即座に“太鼓判”を押した。 どうやら存分に楽しめたようで、とてもとても羨ましい。僕もはやく我が息子と「怪獣映画」を観に行きたいものだ。  エンドロール後のシークエンスにもニヤつきが止まらなかったが、順調にいけば2020年に「あの対決」が実現するらしい。 その時、息子は6歳。叶うことなら今すぐにでも前売り券を買いに行きたい。
[映画館(字幕)] 10点(2017-11-07 23:24:01)(良:1票)
19.  KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV
テレビゲームに対して完全な門外漢なので、「ファイナルファンタジー」というRPGを一切プレイしたことがない。 30年近くに渡ってシリーズ化されてきた大人気ゲームであることは勿論知っているけれど、描き出される世界観に対しては全く無知である。 そんな者が、シリーズ最新作の発売に合わせて公開されたこの映画化作品を観るべきでは本来ないのかもしれないが、会社の部下(ゲーマー)に猛烈に薦められたため、彼に借りて鑑賞に至った。 こんな機会でもなければ、絶対にチョイスしなかった映画であろうから、これはこれで良い機会だったとは思う。  昨今のテレビゲームのビジュアル的なクオリーティーが「物凄い」ことは認識していたが、いざ観ていると本当に物凄い。 主要キャラのビジュアルに関しては、生身の俳優が演じているのかと見紛うほどで、アニメーションと実写とのビジュアル面での境界線は益々アバウトになってきていると痛感した。 舞台となる都市やアクション描写のビジュアルは言わずもがな。圧倒的なクオリティーで展開される映像的な物量は、「ロード・オブ・ザ・リング」や「トランスフォーマー」などハリウッドの超大作と比較しても引けを取らない迫力をクリエイト出来ていたと思う。  物語としては、どうやらゲームソフトの最新作「FINAL FANTASY XV」本編の前日譚を描いているらしく、本編主人公の父王を軸としたファンタジーアクションが繰り広げられる。 ストーリー展開は決して目新しくはなく、数多のファンタジー映画の二番煎じ感は強く感じる。まあしかし、ベタな王道的展開と捉えれば許容範囲といったところか。  エンディングロール後に、ゲーム本編の主人公らが登場し、今まさに新たな冒険に踏み出そうとしている様が映し出される。 門外漢の僕ですらまんまと「ゲームをプレイしてみたいな」と思わせた時点で、この映画作品の役割は充分に果たせているのだろう。
[ブルーレイ(字幕)] 5点(2016-12-25 12:38:03)
20.  キャロル(2015)
許されない恋に没入していく二人の女性が、強烈に惹かれ合い、惑い、激しく揺れ動く。 惹かれ合うほどに、喪失と決別を繰り返す二人がついに辿り着く真の「恍惚」。 ラスト、大女優の甘美な微笑は、この映画を彩る悦びも哀しみも、美しさも醜さすらも、その総てを呑み込み、支配するようだった。 エンドロールに画面が切り替わった瞬間、思わず「すごい」と、声が漏れた。  1950年代のNYを舞台にしたあまりにも堂々たる恋愛映画だった。 パトリシア・ハイスミスの原作は、1952年に“別名義”で出版され、1990年になって初めて実名義が公にされたらしい。2000年代に入ってようやく映画化の企画が進み始めたことからも、この物語がいかに「時代」に対する苦悩とともに生み出され、翻弄されてきたかが伝わってくる。  そして、紆余曲折を経て今この映画が完成に至ったことに、奇跡的な「運命」を感じずにはいられない。 「時代」そのものが、この映画を受け入れるに相応しい状態にようやく追いついたことは勿論だが、それよりも何よりも、この映画に相応しい「女優」が、この時代に存在したことに奇跡と運命を感じる。 言うまでもなく、“キャロル”を演じたケイト・ブランシェットが物凄いということ。  冒頭に記した通り、この大女優のラストの表情が無ければ、この映画は成立しなかっただろう。 もう一人の主人公“テレーズ”を演じたルーニー・マーラも本当に素晴らしかったが、彼女の存在だけでは今作は「傑作」止まりだっただろう。 ケイト・ブランシェットという現役最強最高の女優が存在したからこそ、この映画は「名作」と呼ぶに相応しい佇まいを得ている。 随分前から名女優ではあったのだけれど、この数年の彼女の女優としての存在感は、文字通り神々しく、他を圧倒している。  マレーネ・ディートリッヒ、キャサリン・ヘプバーン、イングリッド・バーグマンら往年の大女優の存在感は、どれだけ時が経とうとも色褪せないが、将来その系譜に確実に名を連ねるであろう大女優の現在進行系のフィルモグラフィーをタイムリーに追えることに、改めて幸福感を覚える。   今作では、冒頭と終盤に同じシーンが視点を変えて繰り返される。 男から声をかけられる寸前のキャロルの唇の動き。冒頭シーンでは遠目に映し出されて何を発されているかは分からない。 逃れられない恍惚と共に、その言葉の“正体”に辿り着いたとき、テレーズと同様、総ての観客は、彼女の「虜」になっている。
[DVD(字幕)] 10点(2016-10-19 19:10:14)(良:2票)
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