1. サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)
《ネタバレ》 ニーナ・シモン、マヘリア・ジャクソン、ザ・ステイプル・シンガーズ、グラディス・ナイト&ザ・ピップス、B.B.キング、フィフス・ディメンション、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、そして、若き日のスティーヴィー・ワンダー。この面子が出演するというだけで、映画『サマー・オブ・ソウル』を観ないわけにはいかなかった。 上映時間2時間では各々の演奏時間が限られる。予想はしていたけど、作品のドキュメンタリー色もあり、インタビューも多く挟まるので、そっちに時間を取られて演奏はカットされまくる。楽しみにしていたライブをフルコーラスで楽しむことはできない。残念だけど、ドキュメンタリー映画として、それは仕方ないこと。何十年もお蔵入りされていたサマー・オブ・ソウル=ハーレム・カルチュラル・フェスティバルの映像、それがそうならざるを得なかった経緯と共に世に送り出すことがこの作品の意義でもあるのだから。 キング牧師やマルコムXを失った当時のアメリカ黒人社会。1969年、ニューヨーク、ハーレムの黒人たちを30万人以上集めた黒人による黒人のための音楽フェスティバルが如何に革命的であったか?それを白人社会がどのように扱ったのか?ウッドストックに比べて全く知名度がない、歴史に埋もれたその祭典の経緯を明確にしたい演出の意図はよく理解できる。 確かに仕方ないこと。私はこの映画のサントラを買って、彼らのライブを純粋に堪能することにした。私の中でこのライブのクライマックスは、マヘリア・ジャクソンとメイヴィス・ステイプルズの共演になる。こんな貴重なデュエット、迫力あるシャウトの競演、その映像を観られただけで、この作品の価値は十分である。私は、これまでステイプル・シンガーズをラスト・ワルツでしか知らなかった。とんでもないこと。勿体ないこと。こんなに素晴らしいシンガーズのアルバムをまともに聴いてこなかったとは。それを認識しただけで、私にとって、この作品の価値は十二分にある。 しかし、サマー・オブ・ソウルの本当の価値、世界に向けたその意義は、映画の後半からラストを飾るスライ&ザ・ファミリー・ストーンとニーナ・シモンのステージにある。彼らは音楽家を超えたアジテーターであり、30万人の黒人たちを一体化させた彼らのステージこそがドキュメンタリーなのだから、これは明らかだろう。映画は特に、ニーナ・シモンの登場からのアジテーション、彼女の叫びと動きと聴衆とのやり取り、その音楽を克明に捉える。1969年当時、ハーレムのマウント・モリス・パークに押し込められ、世界に伝わることがなかった黒人たちの熱狂を見事に映す。50年間、忘れ去られたシーン、映像に焼き付けられたが、陽の目を観ることがなかったそれらのシーンが、その価値と意義と共に今よみがえる。 1970年、ニーナ・シモンは全てを捨ててアメリカを去り、リベリアで音楽と無縁の暮らしを送ることになる。音楽家であり、活動家としての彼女が最も輝いた人生の瞬間と喪失の未来。この映画は、ニーナ・シモンのドキュメンタリーでもあったのだと今更ながら思う。 コロナ禍の合間、日比谷シャンテで映画を観てから3年が経ち、もう一度、このドキュメンタリーを改めて観たいと思う。ニーナ・シモンの立ち姿を観たいと思う。ステージに立つ彼女から私たち人間の可能性、そして、それを信じた彼女の勇気を感じたい。そう思った。 [映画館(字幕)] 8点(2024-10-22 00:15:36) |
2. サラリーマン一心太助
《ネタバレ》 中村錦之助の一心太助シリーズ現代編。一心太助から二十三代目の魚屋兼サラリーマン石井太助を演じるのは錦之助ではなく、弟の中村賀津雄。賀津雄は前作『家光と彦左と一心太助』で徳川忠長を演じ、錦之助の太助/徳川家光と共演していて、これがなかなか良かったのだが、今作ではサラリーマン太助だけではなく、ご先祖様として現れる本家の一心太助も演じている。一心太助は中村錦之助の役と姿も声もそっくりで、ほとんど見分けがつかないのだが、そこはかとない小物感、そっくりさん感があって、そこに拭いがたいB級性が漂う。 大久保彦左衛門の子孫、大久保彦造を演じるのは前作『家光と彦左と一心太助』に続いて進藤栄太郎。ここも月形龍之介でないところがB級的。徳川家光の子孫、徳川の末裔かどうか分からないけど、葵食品三代目社長を演じるのは、なんと渥美清。一心太助の伴侶たる、お仲、中原ひとみが渥美清の奥方役。サラリーマン太助のマドンナは三田佳子。この辺りの入れ替え感も本家との違いを強調するのだけど、結局、この作品の位置付けを一心太助のパロディと考えれば上記の入れ替え感、B級感はとてもしっくりくるのである。実にいい感じで。 本家の一心太助と言えば、とにかくコミカルで、ズッコケが過ぎているけど、それでいて精悍で、威勢のよい啖呵がもの凄く格好いい。一方で、サラリーマン石井太助はズッコケだけで精悍さが全くない。お得意の正義感や厚い人情、仲間思いの行動力も決意も全くない。最後の最後までダメ人間で、ご先祖に憑依されて何とか持ちこたえる始末。これまでの一心太助の勧善懲悪ストーリーとは違うのでその点は期待外れかもしれないけど、そもそも江戸初期と戦後高度成長期の時代性、人間性の違い、このストーリーに込めた風刺や警鐘の表現として、その規格違い、期待外れ感は、意図された入れ替え感と併せて必然とすら感じて、私は逆に現代版の一心太助にかなり好感を持っている。実際、観ていて妙に感心し、そして大いに笑った。若き三代目葵社長の渥美清の存在感、彼特有の喜劇口調が最初から最後まで素晴らしく、そこに曲者の田中春夫や千秋実が絡んでくるのだから堪らない。そのやり取りを観ているだけですごく楽しい。 一心太助恒例のエキストラ総出のお祭り騒ぎや盛大な立ち回りは、ここでも健在。都心?の道路を封鎖して、多数の車やトラック、大人数の大衆が入り乱れる。葵食品による誤情報によって大損害を与えられた人々、大勢の激高した大衆に追いかけられ、もみくちゃにされる太助と葵社長。ここは画面に迫力があって、圧巻のシーン。結局、太助は、機械、コンピュータの誤情報に振り回され、社会を混乱させ、大衆に吊し上げられて、逮捕までされてしまうのだけど、それも最後には突然なかったことになる。夢か幻かって訳ではないが、それらの失敗も単なる教訓として捉えられ、水爆システムの故障による誤爆でなくて良かったなどと演説されて、会社として、個人として、再出発して普通に終わる。そのあっけなさ、能天気さはあまりにも手のひら返しすぎで唐突すぎるけど、実は大戦前後の日本の大衆そのもの(主体性の無さ、お上意識、故の唐突な転向)を風刺しているようにも感じた。実は、その唐突さを本当に善きこととして見ていない、本来あるべき自主的でボトムアップなルールの訂正と更新を未来に託し、現代の主体性の無さを物語として風刺していると観れば、全く笑顔のない太助のラストカットの意味も納得するのである。 この映画で騒動の中心となる電子計算機は、今で言う「人工知能による(ビッグ)データのアルゴリズム解析」のことだろう。そこを少し読みかえれば、SFコメディとしてもそれなりに楽しめる、かな。 [インターネット(邦画)] 8点(2024-07-14 00:47:41) |
3. 再会の時
《ネタバレ》 原題を"The Big Chill"という。ロスマクならば"The Chill"。ハードボイルド的には「大いなるさむけ」とでも言うべきなのだろうけど、その意味は、「死や臨死、或いは死にたい程に悲惨な体験」ということらしい。(answerbag調べ) 日本では団塊の世代。アメリカではBaby Boomerという。戦後生まれで人数が多く、68年の大学闘争を経験した世代である。物語はそれから15年後の1983年、自殺した仲間の葬儀にかつての学友、男女7人が集まったことから始まる。 日本で言えば、柴田翔の『十年の後』の世界だろうか。それとも80年代中期の『男女7人夏物語』だろうか? 学生の頃に反体制を叫んでいたケヴィン・クラインも今では会社の経営者となっている。他のメンバーも雑誌記者、俳優、医者に弁護士と、それぞれが社会の中で確固たる地位を築いているわけだ。その中でウィリアム・ハートだけが定職も持たず、コカイン中毒で、いまだにベトナム体験を引きずっている。(身体的にも戦争によって生殖機能を損傷したからか) 彼らが久しぶりに一同に会して週末を過ごす。友人の死、彼は何故死んだのか? そして友情の行方、今の生活について、彼らの語らいはとてもライトである。最終日の夜にはいくつかのセックスまで行われる。15年越しの告白であり、共助の精神であり、再出発へのふれあいである。 能天気と言えば、そうかもしれない。確かにそれは80年代という時代の軽チャーを象徴しているように思える。しかし、それは"The Big Chill"でもある。1968年の熱狂とその後の挫折との対比として、それはある。彼らの世代が80年代のポップカルチャーを作った。そして僕はその80年代に青春時代を過ごした。だから分かる。この作品があってこそ、『男女7人夏物語』があり、『セント・エルモス・ファイアー』や『愛という名のもとに』が作られたことを。時代がその根底に"The Big Chill"を抱いていたことを。 [DVD(字幕)] 8点(2012-07-16 10:40:29) |
4. ザ・ローリング・ストーンズ/シャイン・ア・ライト
高校生の頃(85-7年頃)、僕はストーンズに夢中だった。ロックと言えばストーンズ、ストーンズこそがロックだと思っていた。但し、それは60年代後半から70年代のストーンズ。その頃のアルバムは何度も繰り返し聴いた。当時のライブやスタジオ演奏の映像でみるミックとキースのなんと精悍でカッコよかったことか。。。 80年代に入り、ストーンズは僕らに急激な老いを感じさせるようになる。それを打ち消すようなパフォーマンスをみせた81年のライブ映像。ミックのフットボーラー姿は今でこそミックらしいエンターテイメントを十分に感じさせる微笑ましいものであるが、当時は何か間違った歌謡曲的な演出を見せられたような気がした。キースはシャープさが失われ、急激に老けこんでいた。 そして、2006年のストーンズ。それはまさに"The Kids are Alright"で33歳のピート・タウンゼントが叫んだ「オヤジのロック」を通り越して、「おじいちゃんのロック」である。ミックとキースは還暦をとっくに越えた63歳である。 皺皺のミックは以前と変わらない身のこなしでロックを歌い続ける。20代も30代も60代も変わらないロックというのはミックの思想そのもの。彼の中では全く違和感のないロックのあり方なのである。健康的でセクシー。バディ・ガイを前に悪ガキっぽさをアピールしつつ、若い女性シンガーに対してはセクシーに迫ってみせる。年齢を感じさせない、中性的でとても現代的なセクスである。 60年代から変わらず発散しているミックの魅力がそこにある。63歳になってもそのロックは死なない。健康的な生活を感じさせる見事にシェイプアップされた体。長いステージでも疲れを感じさせないエンターテイナー。 でも、僕の心は死んだロックの方に今でも引き寄せられる。60年代、70年代という時代にとり残され、囚われの身となったロックの魂たち。ミックを見ているとそういう魂はもう過去の遺物にすぎないように感じられる。彼にとっては子供や孫の代にあたるような若いオーディエンスと見事に一体化したステージパフォーマンス。笑顔の絶えないキースの立ち姿。彼は本来、70年代にドラッグで死んでいたはずの男である。 僕の中で80年代と共に死んだストーンズは、2006年、まだまだ健在だった。彼らは70歳になってもストーンズでありつづけるだろう。そのスタイル故に、彼らのロックは永遠なのだ。 [映画館(字幕)] 8点(2009-03-18 20:11:43)(良:1票) |
5. ザ・マジックアワー
《ネタバレ》 冒頭、映画のセットのような街の風景から始まる。住人達もまるで映画的な個性、映画的なリアリティを体現する人物達で、ギャングの親玉にその情婦、情婦の恋人、怪しげなバーのウェイター、ホテルのマダムなどなど。彼らは映画の中のフィクション的な存在を実に自然に演じており、そういう意味でまさに非現実的な映画の街の住人なのである。 そこに売れない役者、佐藤浩市が殺し屋役で現れる。彼は現実の人間であるが、その独特の演技によってあっさりと非現実的な映画の街に溶け込む。彼は、妻夫木聡に映画の撮影などと騙されながらも、冴えない現実から飛躍し、映画的な予定調和の世界の中で活き活きとした手応えを得るのである。 そんな状況もラストを前に当然の如く破錠する。佐藤浩市は騙されていたことを知り、ギャングのボスである西田敏行も裏切られていたことを知る。その後、唐突にギャングのボスに対する「仕掛け」というクライマックスを迎えることになる。 ギャングの親玉への仕掛けといえばジョージ・ロイ・ヒルの名作『スティング』である。『ザ・マジックアワー』は、『スティング』をなぞるように最後の仕掛けへと展開していくが、僕等はその展開の行方を知っている。。。故に騙されない。けど、そのあからさまな仕掛けぶりがこれまでの徹底した非現実の中にある種の現実性として僕らに印象づけられる。これまでの映画的な架空性が一気に現実の、身近な感覚としての、映画的な日常性に還元されるのである。 映画的日常とは何か。映画とはフィクションでありながら、そこにはフィクションを越えた可能性の発露がある。叶わない、届かない思いながら、僕らは映画を観ている間だけは作品の世界に入り込み、ある種の可能性を手にすることができる。それが映画的日常、映画を愛するが故のポジティブな日常性で、人が生きる優しさの源泉となる。映画的日常を生き、演じること。そこに見出される生きることのささやかな肯定と、ある種の暖かさこそがこの作品のモチーフであること。僕らはラストシーンに至りそのことにようやく気付く。映画的日常、優しさ。それ故に場面の楽しさの中にも僕らは思いがけず胸がジーンとなるのだ。 [映画館(邦画)] 9点(2008-08-15 15:18:27) |
6. 最後の誘惑
《ネタバレ》 十字架から逃れたイエスがマグダラのマリアと交わり、ラザロの妹マリアやマルタと生活を共にして多くの子供をもうける。人間的な生活に幸福を見出すイエス。イエスを神と崇めるパウロの演説を罵倒する人間イエス。老いたイエス。さすがに『タクシー・ドライバー』や『キング・オブ・コメディ』の監督はすごいことをしてくれる。それらの映画の過激さに痺れていた僕が新しいイエス像に喝采したのも当然な話だ。しかし、最終的に人間イエスは裏切りを装ったイスカリオテのユダによって逆に裏切り者扱いされ、彼を十字架の上から生活という土壌に導いたと思われた天使は悪魔に変わり、イエスが必死に父たる神に許しを請うシーンに至る。長い長い妄想は「最後の誘惑」という悪魔的思念として閉じられ、彼はそれに打ち克つことにより旧来の聖書、そのイエス像は守られるのである。生活という、日常という悪魔。それは結局のところ否定され、作品は閉じられる。このラストシーンに至り、当時の僕は落胆した。この映画は結局のところ、イエスを神の子として担保する以外の何物でもない、そこに大胆な「イエスの生涯」に対する現代的解釈、よりリアルで厳しい宗教感覚というものはなかったのである。しかし、最近になって『最後の誘惑』という作品もまた別の角度から観ることができるようになった。スコシージ監督が描きたかった新しいイエス像というものは正にあの妄想としての「最後の誘惑」の物語にこそあったのではないかと。確かに最後にそれは否定されるのであるが、やはり彼らが最も描きたかったのは神の子イエスを批判する人間イエスの物語であって、宗教というものが必ず躓かざるを得ない生活というもの、その悪魔を生み出す欲望への飽くなき信、それが人間として肯定すべき現実である以上に、人間を人間足らしめるココロそのものである、そういうことではなかったか。 『最後の誘惑』から15年以上が過ぎ、『ダ・ヴィンチ・コード』が全世界の4000万人に読まれる現代になって初めて、この作品の本当の意義が眩い朝の光のようにベールの隙間からこぼれ出ているような気がする。マグダラのマリアがイエスの子供を宿しながら、神によって死へと召される、あの短いシーンの中にこの作品を別の解釈へ導く象徴的な意図が隠されていたのかもしれない。 [ビデオ(字幕)] 9点(2006-05-28 02:59:29) |
7. さらば青春の光
《ネタバレ》 60年代中期、ブライトンでのモッズ・ムーブメント及びロッカーズとの抗争をモチーフとした悩める若者のお話。もちろん、原題の『四重人格』から分かるように、この作品はザ・フーの同名ロックオペラを基に製作されたものだ。 当時のイギリスというのは、ティーンエージャーともいうべき新たな人種による脱階級的な雰囲気があったと言われる。モッズにしても、そんなティーンエージャー達の無邪気な反抗心によって、上流社会のファッションであるスーツをデフォルメし、ストリート風にアレンジしたスタイルである。マッシュルームカットにサイドベンツの三つボタンスーツ、そしてヴェスパの改造スクーターが定番であろうか。<この映画でみるとアーミーコートも必須のようである> さて、この映画がフーの音楽と切っても切り離せない関係にあるというのは言うまでもない。フーのロックは<というか、ロックというのはそもそも>、若者達の反社会的、脱階級的なメッセージを歌ったものであり、ピート・タウンゼントにとって、ロックこそ、そんな矛盾した世の中を生きるための哲学そのものなのである。 この映画は、『さらば青春の光』という邦題から、一人の若者の青春との決別、大人への成長の物語だとイメージされる。本当にそうだろうか? この映画の主人公ジミーは、ロックに心酔した典型的なモッズ青年である。映画の中で描かれる一軒家でのDJパーティや派手なヴェスパなど、彼はファッションを生き方と錯覚しているお坊ちゃん的気質のようである。彼は自堕落であることを執拗に追い求め、何事にも安易で我慢ができない。自分の思う通りに物事が進まないことに対して苛立ちながら、絶対に自分を省みようとしない。つまり自信がないのである。だからこそ、彼は最後に憧れのエースがベルボーイとして働く姿に世の中がひっくり返るようなショックを受けるのである。そこで彼が見つけたものとは何だろうか。ヴェスパを中空へ放り投げた地点、彼が最後に辿りついた場所とは何処だったろうか? 世の中に対する鬱屈とした感情というのは、外部に対して彼を何処にも導きはしない。彼が見詰めるべきは彼自身のゼロ地点であり、それこそが彼の辿りついた場所ではなかったか。エースの生き方という現実が彼をその場所に導いたのである。映画はその場所で終わるが、それ以上のものはこの映画に必要ないだろう。 [DVD(字幕)] 8点(2004-11-06 19:59:16)(良:2票) |
8. ザ・ビーチボーイズ/アン・アメリカン・バンド
ブライアン・ウィルソンがブルース・ブラザースと夢の共演を果たしている。それだけでも一見の価値あり。但し、歌の共演ではないが^^; ビーチボーイズに関しては、ちょっとこの場だけで語りつくすことはできない。ただビーチボーイズの偉大さを知る上でもとにかく観て欲しい作品だ。初期のサーフィン/ホットロッドの時代からブライアンの才能溢れる「ペットサウンド」の時代、伝説の「スマイル」製作風景とブライアンがドラッグに溺れていく様、ブラザース時代である不遇の70年代初期とブライアンの復活、そしてデニスの死。まさに原題のごとく一つのアメリカンバンドの歴史を追いながら、それはまさしくポップ&ロックの歴史そのものでもあるのだ。80年代のレーガノミクスの時代、ビーチボーイズがアメリカンロックの象徴として建国記念コンサートに招かれたのは当然といえば当然であるが、不遇の時代にヨーロッパでは認められながらもアメリカから見放され続けた彼らが実際どう思っていたのかは分からない。まぁとにかくビーチボーイズを知るための入門映画として、お薦めの一品である。僕としては、デニスが歌う「You are so beautiful」がとても印象に残っている。ブライアンとカールの入れ替わるPVも暗示的だったな。 そしてトリップ状態のブライアンがソロで歌う「Surf's up」・・・美しくも哀しい。 10点(2004-02-22 04:09:17)(良:1票) |
9. ザ・フライ
カフカ作『変身』の蝿バージョン。蝿と融合して崩壊していく人間は、その過程でいつから人間でなくなったのだろうか? 蝿と人間の境目は? と考えるとかなり哲学的な命題になってくる。。。ような気がする。 8点(2003-10-13 18:01:26) |
10. 櫻の園(1990)
この監督の映画、「櫻の園」もそうだけど、「12人の優しい日本人」や「Lie Lie Lie」と結構忘れがたい印象を残す。寡作なので、もっと撮って欲しいなぁと思うんだけど、考えてみればこの映画も10年以上前の作品なんだな。この映画で描かれた女子高生達の微妙な揺らめきも同時代性を失った今では「微妙さ」がすっとんで、単なる昔の一風変わった女子高生群像劇ものになってしまったか? でも、この映画、リアルさだけを狙ったのなら当時もあそこまで評価されなかったと思うよ。清廉さの裏にあるちょっとした歪(いびつ)さ、心に潜む澱(おり)から揺蕩(たゆた)う無意識の妖しさ、その微妙さ故に惹かれたんだよな。ただ、それって70年代以降の少女漫画の世界そのものでもある。それに初めて気がついた当時のオトナたち。そういう意味でエポックメーキングな映画だったのかもしれない。<追記>最近になり、この映画が80年代の少女漫画を原作にしたものと知った。(吉田秋生、僕は知らなかったのだ)「70年代の少女漫画が<性的身体を抱えた少女の内面>を克明に描いていたのに対し、80年代の少女漫画は全く性なきメディアと化した」とは、ある評論家の分析である。残念ながら原作を読む機会もないので、吉田秋生の作品傾向について知ることはできないが、僕の感じからすれば、80年代の漫画「櫻の園」から中原俊が汲み取り、映画的手法によって捉え直そうとしたものは、明らかに70年代的な「内面」の欠片である。80年代的感性を通過しながらも画一性によってシミュレートされない生身の少女性ではなかったか。それは80年代後半という時代の狭間から見え出たある種の瞬きのようなもので、今や時代的リアリティを失っているのかもしれないが。まぁ中原世代の少女性に対する思い込みと捉えられないこともないけど、そんなアンビバレンツさも魅力かな。 9点(2003-09-28 21:43:03) |
11. 砂漠の流れ者
僕にとっては「ビリーザキッド21歳の生涯」や「昼下がりの決斗」に次ぐペキンパー作品。この監督の作品はよく「暴力の美学」という表現をされるけど、それはおそらく2次的なものであって、もっと端的に「生きること(死ぬこと)に対する美学」と言って構わないと思う。そういう意味では、失われつつあるフロンティアの時代に擬え、現代的喪失感の中で誠実であるということはどういうことかを問うニューシネマのハシリであり、実に哀しく、それでいて生命力溢れる映画なのである。 10点(2003-01-19 01:01:01)(良:2票) |
12. ザ・コミットメンツ
この映画のサントラが中古で500円で売られていた時はショックだったなぁ。定価で買った僕としては。物語としてもなかなか面白かったけど、やっぱりライブ映像が良かったな。ボーカルが良い。「トライ・ア・リトル・テンダネス」はとても感動的でした。パブロック的な白人R&Bは結構イケると思うんだけど。 10点(2002-03-01 02:03:02) |