1. さらば、わが愛/覇王別姫
《ネタバレ》 劇中劇と現実が渾然一体となり、ほんとうに項羽と虞姫が2000年の時を越えて現れたかのような錯覚を覚えさせる、、、、というのが映画全体としての狙いではないかと受け取れました。というのも、蝶衣が一番最後に自刃することや、最初と最後に観客のない、幻想性のあるシーンを設定してあることなどは、そうでないと説明できないように思うからです。・・・・そして、全体として、中国版の『旅芸人の記録』だとも受け取れました。・・映像も美しい。蝶衣は本当に綺麗だ。中国の激動の歴史もよく伝わる。・・・・では、その狙いは成功しているのか、と問われたら、わたしは、あまり成功していない、と答えたいです。・・・どうしてかというと、項羽と虞姫の史実よりも、蝶衣と小樓が生きてきた、波濤の中国現代史の方が、遙かに重く感じられてしまうから。・・・・特に、文化大革命の時に、お互いを罵りあい、かつ菊仙が縊死するという、あまりに重たい現実。これを華やかな京劇に包み込んで、項羽と虞姫の史実と一体化させようとしても、その現実の方が、あまりに大きくて重い。・・・・・結果として、この文革の現実を乗り越えて、蝶衣がどうして愛を継続させることができたのか、というところがわからない。また、虞姫は蝶衣に十分に重なるとしても、小樓は項羽とは重なりにくいし、また小樓の蝶衣に対しての愛情が十分に伝わってこず、蝶衣の片思いの話しでは、項羽と虞姫には重ならない。・・・・・・まとめてしまえば、この映画は、最初と最後のシーンのアイデアから出発したのではないかと疑わせますが、製作の過程で、中身が、最初のアイデアを遙かに凌駕してしまったのではないか、そのために全体としてのまとまりに今ひとつ欠けてしまったと思いました。蝶衣の自刃がないと話しにけりがつかないけど、余計だ、と思うのです。 [DVD(字幕)] 9点(2007-04-03 13:21:09)(良:2票) |
2. 裁かるゝジャンヌ
原題はジャンヌのpassion、つまり受難ということですから、ジャンヌの話に、キリストの受難を重ね合わせて見てくれ、というのでしょう。音楽も受難曲風にそうした効果を一層高めているように思いました。・・・・・・そうすると、キリストが人間の罪を背負って処刑されたように、ジャンヌの焚刑はフランスの栄光と引き替えであったことになるのでしょう。・・・・また作成は1928年です。これを当時、見たヨーロッパの人達は、身近に、第一次世界大戦で国家のために命を落とした人がいた筈で、そういう命を落とした人とジャンヌを重ね合わせて見たのではないでしょうか。・・・・・ジャンヌが勇ましい英雄ではなく、涙を流す、どこにでもいる普通の女性として描かれることで、戦争の犠牲者とジャンヌは、一層、重ね合わせやすくなっています。キリスト、15世紀のジャンヌ、20世紀の戦争という時間の重層性により支えられている、この映像の空間の奥行きはなんと深いことでしょう。・・・・・・しかし、グローバル化が進む現在、国家のために命を賭けるということは、即座に美しいこととは感じられなくなつています。そうした点からは、ジャンヌの物語は、過去のものになりつつあるのでしょう。・・・・・また表情のアップなどの映像、目をむいたジャンヌなどは、当時にあっては斬新なのでしょうが、現代のものとしてはかなりくどい。・・・・・・・ということで、全てにおいて歴史的な作品、古典的作品ということだと思います。面白く見られるかどうかは、想像力を発揮して、1928年という状況に身をおけるかどうかによって決まると思います。・・・・・(その時代を実際に生きてきた淀川さんと、そうではない僕たちとでは、違った見え方がして当然ではないだろうか) [DVD(字幕)] 8点(2007-03-25 10:07:01) |
3. SAYURI
なんと言っても、この映画で圧倒的にいいのは、陰翳ですね。ほんと谷崎ですね。・・・・・・夜の暗さと、灯りの濃淡、陰翳です。芸者ものといえば、例えば溝口なのかもしれませんが、白黒映画では、この陰翳は鮮やかにはでません。相撲のところのシーンもいいですね。その後の後半の舞台でのチャンツィーの踊りも、いってみれば女歌舞伎風で創造的です。とにかく、全編、絵だけはいいですね。・・・・曲がった路地は全く京都には見えないけど。・・・・・ただ、貧しさ、姉妹の別離、女の嫉妬、戦争、置屋、初恋、顔の醜さ(延)、などなど色々なテーマを入れ込もうとするものだから、いったい何が言いたいのかわかりませんね。メインは芸者の純情というものかもしれませんが、他の要素に埋もれてしまって、鮮明ではありません。・・・・・それにアメリカ的な標準的なモラルを前提にすると、この世界は、実は全く描けないし、説明できないのではないかなぁ。ほんとに描こうとすれば、色々と批判を受けて商業的に失敗してしまうでしょう。・・・・・・・・あと、渡辺謙と役所広司の対決では、役所広司でしたね。というか、この作品では、渡辺謙は全然演技できていないというか、ほとんどイモでした。役所広司の不戦勝というところでしょうか。まあ主役の女優陣を盛り上げようとはからいなのかもしれませんし、この脚本だと、どう演技していいかわからないかもしれませんけど。 [DVD(字幕)] 9点(2006-07-20 00:06:06) |
4. 残菊物語(1939)
菊之助が、お徳と芝居の話をはじめてする川端のシーン、びっくりしますね。あの川べりをどんどん、どんどん歩いてゆくのに、いつまでたっても途切れないじゃないですか。、、、、、、それに最後の舟入の情景もいいですね。舟の先に菊之助が堂々と立って、最初は、やや上から見ているのだけど、だんだん菊之助をアップにしながら、カメラを下げ、最後は、まるで水面から撮っている感じで、、、、、これどーやって撮ったんだっっ、みたいに。、、、、、それに最後の30分くらいは、お徳がかわいそうで、なんだかもう涙が止まらない感じです。、、、、、、とはいえ、私は個人的には、山椒大夫、雨月、祇園囃子などの50年代の溝口の方が好きです。、、、、というのは、残菊の場合、最後に父親の菊五郎が、お徳はお前の女房だ、といって、菊之助とお徳との関係を認め、許してしまうからです。、、その時、二人の関係は、父=権威=慣習と融和して、めでたし、めでたし、で、社会的な矛盾は隠蔽され、話全体は単なるメロドラマになってしまう。単なる乳母ではないか、身分が違うぞ、というところから、この悲劇ははじまっているのに、そうした社会的な問題が結局、どこかにいってしまうわけです。、、、、、50年代の溝口なら、社会的な矛盾は矛盾として、しっかり提示したままにするはずです。(戦前ということを考えると仕方ないのかもしれませんが) [DVD(字幕)] 9点(2005-06-17 18:18:04)(良:1票) |
5. サイダーハウス・ルール
焼却炉で焼かれる堕胎された胎児、孤児として生き残った自分、その差異はなんら必然的に説明できるものではなく、、、、。そこから、わたしとはいったい何なのかという問いかけが通奏低音として流れているように感じられます。、、、そしてホーマーはいわば自分探しの旅に出るわけですが、特徴的なのは、決して内向きに、内面を探るという展開にならないことだと思います。そうではなく、出会う様々な人との関係で、自分の位置を確定しようとする。 、、、、もちろん、だからといって、社会的に生きよ、という道徳をたれるわけでは全くありません。どこで、どう生きようと、それぞれの人の自由。部屋の中にとどまるのも、部屋から出て行くのも自由なわけですから。、、、、しかし、部屋にとどまるなら、つまり社会の中で生きることを選択するのなら、「役に立て」。、、、そして役に立つというのは、下半身が不自由な者の役に立つ、孤児達の役に立つ、など色々な役に立ち方があるわけで、職業ということに限定されるものではありません。、、、、さらに、そのように考えて自立した人達の関係を規定するルールは、自分たちで作るもので人から与えられるものではない。、、、、、、あと、描かれている人達の関係の殆どは非常に暖かく家庭的で、アメリカ的なのですか、よくありがちなものと違って、家族の延長上にはその関係は設定されていません。ホーマーなど、孤児としてあらかじめ家族から断絶されているわけです。、、、むしろ黒人の父娘の家族の崩壊に見られるように、血のつながりから生まれる家族の情愛などは消極的にここでは捉えられているように思えます。、、、、、、、、何という達観、、、、そしてそこから生まれる、何という暖かさ、何という静かな前向きさ。、、、、、、見終えて、極めて良質なアメリカ的良心の香りをかがせてもらった印象で清々しい気持ちで一杯です。 10点(2005-02-12 01:19:32)(良:2票) |