1. 失楽園
「描き切れていない」というのが率直な感想。渡辺淳一氏の作品の底流に流れているのは生と死の美学で、初期の代表作「阿寒に果つ」などにその傾向が顕著だ。「失楽園」もその例外ではない。そもそもこの作品のモチーフは、「全ての虚飾を切り捨てた先にある男女間のプリミティブな性愛の有り様とその傍に横たわる死の深遠」だ。だとすれば、森田監督のこの作品はその最も大事な部分が描かれていない。原作には、物語とは別に実際にあった2つの「事件」が描かれている。「阿部定事件」と「有島武郎の心中事件」だ。その2つの「事件」がかもし出す男女間の情愛の生々しさこそ、この作品の「命」なはずで、そのあたり、この映画はまったく理解していないのだ。役所演じる九鬼と黒木演じる凛子の間で繰り広げられる「濡れ場」は、ちっとも「らしくない」。まったく観ている方がバカバカしくなるほど淡白で「美しい」のだ。実はこの「濡れ場」こそ、この作品のもっとも重要な場面なはずなのに、である。歳を重ねた男女間で繰り広げられる、「死」を強く意識しながらの性愛がもつ危うげで切実な様をどう描くかは、この映画化の最大の見せ場になるはずだった。それがまるで「環境ビデオ」のようになってしまった。いっそのこと、35歳以上限定のR指定にでもして、大人専用の作品としてつくりなおしてほしい。 [地上波(字幕)] 3点(2005-07-31 19:58:22) |
2. ジャッカルの日
ドゴール仏大統領の命を狙う正体不明の暗殺者と、僅かな手がかりをもとにその暗殺の現場に迫るルベル警視の緊迫感溢れる展開に酔いしれました。フォーサイスの出世作をこれだけ見事に映像化したことに拍手したいと思います。追う側、追われる側双方にプロならではの妥協を排する厳しさがあり、それがこの作品を非常に魅力的にしていると思います。過剰な暴力シーンでお茶を濁すような昨今の傾向からすると、その静謐な作風は新鮮ですらあり、こうした作品がもっと増えてほしいと感じました。 9点(2002-09-26 12:38:41)(良:1票) |
3. 十三人の刺客(1963)
片岡千恵蔵や嵐山寛寿郎といった往年の時代劇役者は流石に立居振舞いが決まっているね。なるほどこうして見ると、最近の時代劇ドラマは軽い軽い・・・。<ネタバレちょっとあり>ところで、本作の見所は最後の宿場街を舞台にした集団暗殺シーンということだが、これはなかなか見ものでした。と言うのも、てっきり格好のいいチャンバラシーンが出てくるものと思っていたのが、まるでそのような場面がないんですね。宿場街ごとトラップ要塞化して、石は投げるわ、棒でつつくわ、もはや武士の美学なんぞあったもんじゃぁない。気勢をあげて押すかと思えば次の一瞬には引いて、追ってきた敵を陰から刺し殺すといった様は、殺戮の実相を見事に暴いている。「武士とはこうあるべきもの」とか「剣の奥義を極める」等々、前半のシーンでやたら武士としての建前に拘っていた西村晃演じる浪人が、いざ実戦の場で最後にのたうつようにして逃げ回り惨めな死に様を晒すあたり、工藤栄一監督のシニカルな側面が伺える。 8点(2002-09-18 08:25:19)(良:4票) |
4. シンドラーのリスト
モノクロによる表現に徹してみせた作品だが、なるほど“総天然色”にはない独特の美しさがある。思わずモノクロの古い名作をいくつか見直してみたくなった。ところで、アウシュビッでのホロコーストを扱っている点であるが、思ったほど印象には残らなかった。なぜだろう?例えば、虐殺される側のユダヤ人たちの恐怖や絶望が十分伝わってきただろうか。試しにダッハウの収容所跡で今も無料で公開されている記録映画を観てほしい。そこには正真正銘の恐怖が描かれていた。その恐怖とは虐殺されたユダヤ人の方々の恐怖だけではなかった。虐殺する側に回ってしまった人々の熱狂や暴走という恐怖もまざまざと描かれていたからだ。小生自身、短いこの記録映画を観たあと思わず気分が悪くなってしまった。その虐殺する側であるナチ将校の描き方は本作の場合どうだったか。いかにもステレオタイプで俗説通り、冷血な悪魔あるいはターミネ-ターよろしく機械のようにユダヤ人を殺している。ナチ的なプロパガンダに洗脳され熱狂する人間の弱さという視点が決定的に欠落してはいないか。「サウンド・オブ・ミュージック」のなかで普通の若者がナチに熱狂しトランプ一家と離れていく様子が柔らかに描写されていたが、この作品を名作たらしめていたのは実はこのようなところにもあったのだろう。対して、本作の場合、虐殺される側も虐殺する側もまるで「操りに人形」のように淡々とそれぞれの役を演じているように感じられて仕方ない。モノクロの映像は確かに美しかった。しかし、そこにはある種の白々しさが伴っていたように思う。 6点(2002-09-11 08:23:08) |
5. ジャンヌ・ダルク(1999)
ベッソンがジャンヌダルクをモチーフに映画を撮ろうとした意図って、一体何だったのだろう。一般から見ても興味の尽きない歴史上の人物なわけだが、フランス人からすれば、英仏百年戦争の泥沼から祖国を勝利に導いた救国のヒロインということになろう。また、カソリックの視点で見ても、聖人に列せられたカリスマということになる。そこで、ベッソンの映画であるが、これは意味不明ではないか。ここで描かれているのは聖と俗の相克なのか?はたまた、政治と信仰の軋轢?どうも、この監督は自分の描こうとしているジャンヌ像が何なのか分からないままメガホンを取ってしまったようだ。あるいは、確信犯なのか?あえて、ジャンヌの聖性を貶めたかったのか?ん?そう考えると、辻褄が合ってくるような気もする。神に導かれた救国のヒロイン像は、単なる個人的な復讐鬼として、俗世を超越した聖性は、独善的な妄想に取り付かれたパラノイアとして描かれているのも当初からの目的だったのだろうか。そう言えば、後半登場するダスティン・ホフマン演じる「良心」なるものも、一見すると、戦前のサイレント映画時代の傑作「裁かれるジャンヌ」へのオマージュとも見えなくもないが、内容はまったく別物だったりする。もし仮にこの男が「良心」なら、これほどジャンヌを言葉巧みに惑わしたり(結果的に)するのだろうか。このやりとりを観ていて、荒れ野で40日間の断食を行っていたイエスを誘惑した「サタン」をイメージした西欧人は少なくなかったのではないかと思う。釈然としないのも当然だろう。ジャンヌは「良心」なるものとのやりとりに疲れ果て、降参するように火刑台に上がるのだ。ジャンヌの実像を確かめる術はない。しかし、だがらこそ、この映画がどんなジャンヌ像を描きたかったかが問われてくるはずだ。 5点(2002-06-13 08:05:03)(良:1票) |
6. ショーシャンクの空に
原作のストーリーテリングの巧みさにまずは脱帽です。そして、映画作品としても決して派手ではありませんが、余韻の残るとても印象的な作品でした。アンディの生き方を通して様々なことを考えさせられます。「希望」を失わないことの大切さももちろんでしょう。しかし、その希望も単に「悪い奴の汚い金をふんだくって、脱獄に成功し、遠くの街で悠々自適の優雅な生活を実現させること」ではなさそうですね。一見すると、アンディが脱獄に成功したことが「すっきりしたぜ」ということになってしまいがちなんですが、この映画はそこで終わらないところが凄いと思います。単なる脱獄物の映画とはレベルが違うのです。アンディの行ったことは、ある人には「神の審判を下す」結果となり、ある人には「救済」となっている。この映画の素晴らしいところは、アンディがレッドの命を救い、活かすところなんでしょうね。結局、この映画がもたらしてくれる感動は、他人の命を救い、生きる希望を与えることのできる生き方の尊さを教えてくれているからなんでしょう。 10点(2002-05-07 08:10:08) |
7. シン・レッド・ライン
うーん・・・。駄目だな、これは。凄い役者たちが出ているのにねぇ。 0点(2002-02-14 12:35:09) |