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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム 《ネタバレ》 
“この”「スパイダーマン」シリーズのタイトルに、3作続けて用いられてきた「Home」というワードの意図。 それは即ち、この物語の主人公の“少年”には、帰るべき“Home”があり、“Home”に守られていたということ。 そして、彼はついに自身の運命に課せられた「力」の大きさと、それに伴う「責任」の大きさを痛感し、受け入れ、一人“Home”を旅立つ。 或る一人の“少年”が、力を得て、偉大なヒーローたちと共に世界を幾度も救った後に、“大人”になる。それが、トム・ホランドが演じた“ピーター・パーカー”の物語であり、“スパイダーマン”だった。  「キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー」で、アベンジャーズに“ルーキー”として初参戦したスパイダーマンは、まさしくフレッシュで、決裂の重々しい空気感に包まれたヒーローたちの中で確固たる重要な“娯楽性”だった。それを演じるトム・ホランドの若々しいスター性も魅力的だった。  だがその一方で、トム・ホランド版スパイダーマンとしての新シリーズ化に対しては、個人的に“モヤモヤ”した気持ちが拭えなかった。 その理由は明確だ。僕は、2000年代に誕生した“2人のスパイディ”が大好きだったからだ。そしてその各シリーズにおける消化不良な結末(打ち切り)に対して、ずっと“満たされない”ままだったからだ。  特に、マーク・ウェブ監督、アンドリュー・ガーフィールド主演の「アメインジング・スパイダーマン」シリーズは、「2」におけるあまりにも悲痛で衝撃的な顛末も含めて、今なおアメコミ映画史に残る傑作だったと確信している。 がしかし、あの「悲劇」の後に製作される予定だった完結編が日の目を見なかったことは、それこそが「悲劇」だったと思う。   ただそれでも、MCUにおけるトム・ホランド版スパイディは、その立ち位置の価値と魅力を放ち続け、ジョン・ワッツ監督による単独のシリーズ作も快作続きだった。 アンドリュー・ガーフィールド版、そして現在のアメコミヒーロー映画ブームの礎ともなったサム・ライミ監督によるトビー・マグワイア版の“2人のスパイディ”に負けず劣らずの愛着を深められていたと思う。  そういうわけで、故・トニー・スタークの後継者としても、トム・ホランド版スパイディの成長を見届けようと本作に臨んだ。 ドクター・ストレンジと共に“マルチバース”の世界観に突入し、“次元”を超えた過去のスパイダーマンシリーズのヴィランたちが大集合するという“事前情報”は、それだけで高揚感が極まった。  そう、それだけで、この映画は「最高」だったのだ。  しかし、それ以上の“スペシャル”が本作には用意されていた。 “2人のスパイディ”がワープゲートをくぐり抜けてやってくる。 まさか、まさか、まさかの「最高」の3乗。映画館のシートで、思わず「やば…!」「すご…!」と連続で呟いてしまい、感嘆が止まらなかった。  トビー・マグワイア、アンドリュー・ガーフィールドの両俳優が、それぞれ現在の姿で、時を経た“ピーター・パーカー”を再演する。 彼らが、自身のスパイダーマンとしての経験と悲しみを踏まえて、かつての自分たちと同様に悲痛と絶望に沈む若きスパイディを導き、救う。 そして、その“スパイダーマンズ”による「共闘」の中で、先輩スパイディたち自身も、それぞれの運命(シリーズ)の中で、我々映画ファンと同様に消化しきれていなかった“思い”に禊をつけていく。  何というドラマティック、そして何という映画的奇跡。 まさに次元と時間を超えた、ストーリーの収束とカタルシスに、涙が止まらなかった。   3本の強靭な蜘蛛の糸が縦横無尽に交錯し、多層的な幾何学模様形成していく。そのさまは、複雑で果てしない“マルチバース”の世界観の深淵を描き始めるに当たって、あまりに相応しい。
[映画館(字幕)] 10点(2022-01-08 00:18:04)
2.  すばらしき世界 《ネタバレ》 
この映画に登場する人物のほぼ全員は、主人公・三上正夫に対して、悪意や敵意を示して接することはない。 むしろ皆が、偽りなき「善意」をもって彼に接し、本気で彼の助けになろうとしている。 そして、三上自身も、その善意に対し感謝をもって受け止め、“更生”することで応えようと、懸命に努力している。 その様は、「やさしい世界」と表現できようし、この映画のタイトルが示す通り、「すばらしき世界」だと言えるだろう。  でも、それでも、この世界はあまりにも生きづらい。 その、ありのままの「残酷」を、この映画は潔くさらりと描きつける。 西川美和という映画監督が表現するその世界は、いつも、とても優しく、そしてあまりに厳しい。   僕自身、ようやくと言うべきか、早くもと言うべきか、兎にも角にも40年の人生を生きてきた。 平穏な家庭に育ち、平穏な成長を経て、そして自らも平穏な家庭を持っている。 決してお金持ちではないし、生活や仕事において不満やストレスが全く無いことはないけれど、今のところは「幸福」と言うべき人生だと思う。  だがしかし、だ。 その平穏という幸福を自認し噛み締めつつも、僕自身この世界における“生きづらさ”を否定できない。 人並みにアイデンティティが芽生えた少年時代から、40歳を目前にした現在に至るまで、「生きやすい」と感じたことは、実はただの一度も無いかもしれない。 人の些細な言動に傷つき怒り鬱積を募らせ、僕自身も“本音”を吐き出す程に周囲の人間を困らせたり、怒らせたり、傷つけたりしてしまっている。 どんな物事も思ったとおりになんて進まないし、「失敗」に至るための「行動」すらできていないことが殆どだ。 自分自身の幸福度に関わらず、人生は失望と苦悩の連続で、この世界はとても生きづらいもの。 それが、殆ど無意識下で辿り着いていた、現時点での僕の人生観だったと思う。  そしてそれは、この世界に生きるすべての人たちに共通する感情なのではないかと思う。 そういった個人の閉塞感を、この世界の一人ひとりが持たざる得ないため、その負の感情は縦横無尽に連鎖し、社会全体が閉塞感に包まれているように感じる。  この映画で西川美和監督が、社会に爪弾きにされた前科者の男の目線を通じて描き出したことは、決して一部の限られた人間の人生観ではなく、この世界の住人一人ひとりが共有せざるを得ない“痛み”と一抹の“歓び”だったのだと思う。  確かに、この世界はすばらしい。 美しい光に満ち溢れているし、エキサイティングで、エモーショナルで、ただ一つの命をまっとうするに相応しいものだ。少なくとも僕はそう信じている。  そんな世界の中で、人は皆、誰かに対して優しくありたいし、誰しも本当は「罪」など犯したくはない。 それでも、結果として「罪」が生まれることを避けられないし、すべての人が無垢な「善意」のみで生きられるほど、人間は強くない。 この映画の登場人物たちは皆優しい人間だと思うけれど、主人公に対する「善意」の奥底には、それぞれ一欠片の「傲慢」が見え隠れする。 取材をするTVディレクターも、身元引受人の弁護士とその妻も、スーパーの店長も、役所のケースワーカーも、ヤクザの老組長も、心からの善意で主人公を助けているけれど、同時にその心の奥底では彼のことをどこか見下し、自分の優位性を感じていることを否定できない。  無論、だからと言って、彼らを否定する余地などはどこにもない。 彼ら自身も、この生きづらい世界の中で、自分の心の中で折り合いをつけながら、必死に生きているに過ぎないのだから。   自分の感情に対して「正直」に生きることしかできない主人公は、それ故に少年時代から悪事と罪を重ね、人生の大半を刑務所内で過ごしてきた。 理由がどうであれ、犯した罪は擁護できないけれど、誰にとっても生きづらいこの世界が、益々彼を追い詰め、ついには自分自身で、文字通り心を押し殺さざるを得なくなっていく様を目の当たりにして、悲痛を通り越して心を掻きむしられた。 それは、単なる暴力による報復などとは、比べ物にならないくらいに残酷な業苦を見ているようだった。  ラストの帰り道、どこか都合よくかかってきたように見える元妻からの電話による多幸感は、果たして「現実」だったのだろうか。 そして、とある人物から貰った秋桜を握りしめ、最期の時を迎えた主人公の心に去来していた感情は、如何なるものだったのだろうか、救済だったろうか、贖罪だったろうか、悔恨だったろうか。 僕自身、様々な感情が渦巻き、鑑賞後数日が経つがうまく整理がつかない。  空が広く見えた。 人間は、この「すばらしき世界」で、ただそれのみを唯一の“救い”とすべきなのか。
[映画館(邦画)] 10点(2021-03-01 12:30:15)(良:1票)
3.  スティーブ・ジョブズ(2015)
まだ何もアップルの製品を手にしたことがなかった頃、デジタルオーディオプレーヤーを購入するために家電量販店に赴いた。 連続再生時間など機能面に優れた国内メーカーの商品を購入するつもりだったけれど、ふと目にして手に取ったiPodのデザインに虜になり、衝動買いしてしまった。  あれから十年あまり経ち、iPadで上映時間の確認をし、iPhoneで音楽を聴きながら映画館に向かい、映画を見終えて、MacBookでこのレビューを綴っている。 決して根っからの“アップル信者”というわけではないけれど、それでも「彼」が生み出した製品は、自分の日常生活の中で寄り添っている。 この映画の中で描かれる「彼」の功罪を見て、この人物ほど、誰しもが憎しみ、同時に誰しもが憧れた人物はいなかったのではないかと思える。 世界中の誰よりもエゴイスティックに自分自身を信じ、多くの人を傷つけ、多くのものを失いながら、世界に対して「未来」を示し続けた、愚かで、偉大な人。 スティーブ・ジョブズという人はそういう人物だったのだと思う。   この映画は、スティーブ・ジョブズがかつて生み出した3つの製品の発表会の舞台裏のみで描かれる。 それぞれにおいて重要な発表会の開始を目前にして、彼に関わる5人の人物が入れ代わり立ち代わり現れては、彼と口論を繰り返していく。 それはとてもとても奇妙な作劇で、当然ながら現実にこんなことが繰り広げられいた筈はなく、フィクションが大いに盛り込まれていることは明らかだ。 しかし、そのフィクションを多分に孕んだ描写によって描き出されるスティーブ・ジョブズをはじめとする人物たちの存在感は、非常にリアルで説得力に満ちていた。 全編通して展開される会話劇が本当に見事で、映画の開始数分で既に脚本の素晴らしさが際立っていた。 卓越した脚本を基礎として、超一流の演出と演技が緻密に組み合わされて映画が彩られていた。   劇中、ジョブズの盟友スティーブ・ウォズニアックが言う。 「お前には何ができるんだ?」 エンジニアでもなければデザイナーでもないスティーブ・ジョブズ対する非難めいた台詞だが、勿論それを発したウォズニアックは、「何もできない」からこそジョブズが“天才”であることを他の誰よりも知っている。 “何もできない者”が生み出した「功績」。それこそが、スティーブ・ジョブズという人が、憎しみと憧れを、同時に、一身に受けた最たる要因だろう。  敵を作り続けることを厭わない天才の言動は、理解に苦しむ。 でも、そうでもしないと本当に素晴らしいものは生まれないということを、本当は世界中の誰もが知っている。 真似はできない。けれど、その生き方を貫き通した彼の姿は、やはり眩く、涙が溢れた。
[映画館(字幕)] 10点(2016-03-19 20:07:39)
4.  スター・ウォーズ/フォースの覚醒 《ネタバレ》 
スクリーンに映し出されたすべてのものが、映画として、ただただ“楽しい”。 物語、造形、活劇、キャラクター、映画を彩る様々な要素に対して、喜怒哀楽をも超えた多幸感を覚えた。 日曜深夜のレイトショーを観終えて、0時過ぎに帰宅。多幸感と共に増してくる余韻と高揚を紛らわせるべく、ウイスキーを3杯飲んだが、益々興奮して全然眠れなかった。  厳重な情報統制によって“幕があがる”まで秘密に包まれた最新作であった。 新三部作の公開を心底待望するからこそ、鑑賞の直前まで「期待」以上の「不安」を拭い去れなかった。(まったく落ち着かず、座席に着いたはいいものの上映開始前に4度もトイレに行ってしまった……)  そうして満を持して詳らかになった最新作、目の前で繰り広げられたものは、何の事はない、「スター・ウォーズ」そのものだった。 情報統制に対してヤキモキし続けたファンに対して悪戯な笑みを見せるかのように、奇をてらうことも、捻ることもない、ただしかし、何もかもが“新しいSW”の映画世界が描き出されていたと思う。  何よりも素晴らしかったのは、今作が、オールドファン向けの懐古主義に固執しなかったことだ。 勿論、世界中の旧三部作ファンへの配慮は存分に張り巡らされているが、今作は決してのそういった“サービス”に終始していない。 あくまでも、描き出されたものは、新しい世界の、新しい世代に向けての、新しい「スター・ウォーズ」だったと思う。  ハリソン・フォードをはじめとして、旧作スターたちの、文字通り息を吹き返したような活き活きとした存在感は嬉しい限りだった。 しかし、それ以上に、新しい主人公をはじめとする新世代のキャラクターたちが、悪役や脇役も含めて非常に魅力的だったと思える。 特に、主人公“レイ”を演じた新星デイジー・リドリーの存在性が素晴らしい。 SWの新三部作の主人公抜擢など、その重厚は計り知れないはずだが、この23歳の若い女優は、思わず「奇跡的」という表現を使いたくなるくらいに、見事にSWの主人公として収まっている。 彼女を筆頭として、新しい俳優たちが演じる新しいキャラクターたちが、この後どう成長し、未知なるストーリーを紡いでいくのか、ほんとうに楽しみでならない。  中盤以降、新世代のキャラクターたちの魅力が深まっていく程に、この映画が辿り着く一つの“顛末”を薄々感じ始めていた。 それは、ストーリーテリング上、ある意味必然的な展開であったが、やはり衝撃的で、あまりに悲しく、涙が溢れた。そして、チューイの咆哮が、涙腺を決壊させた。   現実も理屈も遥か彼方に追いやって、「創造」された世界に没入させる。 それこそが、「スター・ウォーズ」という映画世界が、時代を超えて世界中の映画ファンに与え続けた絶対的な価値だったと思う。 その唯一無二のエンターテイメント性は、まさに「伝説」であり、その再構築、もしくは新構築は、そもそもの“創造主”であるジョージ・ルーカスでさえ、困難だった。  しかし、J・J・エイブラムスは、そのあまりに高いハードルの第一段階を、申し分ないほどの完成度で越えてみせた。 またそこには、ディズニーの支配下に入ったことによる付加価値も大いに反映されていると思う。 主人公の現代的なプリンセス性や、性別や人種などによるストーリー設定の偏りの排除は、この数年でディズニー映画が生み出し続けている作品に共通する「理念」だと思う。   あらゆる要素が幸福に絡み合い、「スター・ウォーズ」はついに、創造主ジョージ・ルーカスの“インサイド”からの脱却と再誕を果たした。   ああ、すぐにでももう一度観たい。いや、何度でも観たい。
[映画館(字幕)] 10点(2015-12-21 23:13:27)(笑:2票)
5.  スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐 《ネタバレ》 
歴史的なスペースオペラの頂なる映画が今完結した。  個人的には、SW自体の面白さに気が付くのが遅く、最近になってまとめてシリーズを見直し感嘆しこの最終作を迎えたのだけれど、それでもこの長き年月に渡って世界中を風靡してきた大作の壮大さと崇高さを感じて余りあった。  公開に際して多くの人々が「泣ける」ということを口にするので、さすがにそれはないんじゃないかと疑問を感じていた。 しかし、すでに分かりきったことであるはずなのに、アナキンがベイダーへと転じジェダイの騎士たちを葬りさっていくシーンでは胸が詰まった。 暗黒面のままに“成すべきことを成し”ひとり涙を流す様には、これまでのシリーズ作すべてを制する感慨深さが滲んでいた。  この映画を観たすべての人が「ほんとうに馬鹿な男だねえ……」という、まるで古い日本映画のよう普遍的な感想を持つはずだ。 普遍的ではあるが、観客が受ける心の揺れは計り知れない。 そうジョージ・ルーカスがその映画人生のすべてをかけて生み出したこの果てしない映画世界は、アナキン・スカイウォーカーという男の人生における愛情と苦悩が幾重にも折り重なった哀しく愛しい“不器用さ”を描くためにあったのだ。  結局、最愛の妻までも亡くしてしまった黒ずくめの彼の最後の叫びは、その後20年余り暗く乾いた闇の中で、静かに静かに響き続ける。  “新たな希望”に出会うその時まで。
[映画館(字幕)] 10点(2005-06-25 16:10:51)
6.  ストレイト・ストーリー
数多くの映画を観てくると、何十本かに一本自分の中で何かが目覚めるほどの感慨深さが生まれる作品にめぐり合う。今作はまさにその類の一本で、見終わったあとのとてつもない味わい深さに大きな幸福感を覚えた。今作が遺作となったリチャード・ファーンズワースの演技が何よりも素晴らしい。これはもはや演技ではなく、彼自身の生き様に違いないと錯覚したほどである。彼のたどった道筋、言葉、物腰を私はこれからも何度となく観ることであろう。
10点(2003-11-30 13:05:59)
7.  スリング・ブレイド
非常に温かく、あまりに辛らつなドラマ性を見せつけ、ビリー・ボブ・ソーントンという優れた映画人を自ら誕生させた今作の価値は計り知れない。今やハリウッドきってのカメレオン俳優となったビリー・ボブの俳優としての独創性と映画作家としての実力を語るうえで今作を外すことはできない。スリング・ブレイド、文字通り、鋭い刃が胸に突き刺さる。
[映画館(字幕)] 10点(2003-11-05 16:30:44)
8.  スワロウテイル
この映画を初めて観たのはいつの頃だったろうか。 おそらく、中学校の3年生、「映画」を自分の“趣味”として一人で観始め、アプローチしやすいハリウッドの娯楽大作から少しその視界を広げ始めた頃に観たような記憶がある。 もうすぐに高校生になる。自分自身が「大人」になっていくということをようやく意識し始めた時期だったとも思う。  「こんな映画があるのか」と思った。  まだまだ子供で、知識も見聞も無かった僕は、この映画が描き出す「異世界」に戸惑った。 “戸惑い”は同時に“魅惑”となり、初めて観た世界に引き込まれた。 「岩井俊二」という固有名詞を知ったのも、この時だったと思う。 以来僕は、この映像作家が生み出す映画世界の虜になり、ひたすら憧れた。  幾度も観直しているとは思うが、また数年ぶりに観直して、初見時と同じくらいのインパクトを携えたままこの映画を観終えた。「感動」したと言って良い。  ある種の“説得力”さえあれば、どんな世界でも創り出すことが出来るのが「映画」という表現だと思う。 あざとく特異な世界を創り出すということではなくて、世の中の殆どの映画がフィクションを描いている以上、殆どの映画監督が「異世界」を創り出そうとしていることは間違いないことだろう。 その独自の世界観を、揺るがない価値観と、飛躍的な独創性で創り出すという点において、岩井俊二という人は優れ、その顕著な結果が「円都」という異世界であった。  娼婦のグリコが唄い、流氓王のリョウ・リャンキが暗躍するその世界は、明らかに「非現実(ファンタジー)」であるが、観客はその境界線を見失う。
[ビデオ(邦画)] 10点(2003-10-23 17:21:57)(良:7票)
9.  スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム 《ネタバレ》 
ほとんど無意識レベルで感じていた“ニック・フューリー”まわりの「違和感」を、きっちりと収束してみせるお約束のポストクレジット・シーンを目の当たりにして、「ああ、MCUは終わらないんだな」と、感嘆と安堵を覚えた。 「エンドゲーム」の大団円から、文字通り間髪入れずに更なる“大風呂敷”を広げていこうというのか。 そしてその新展開を、新フェーズのリスタートに合わせるのではなく、「フェーズ3」のラストに据えて、大河の本流を紡いでくるあたりに、この類まれな映画シリーズの懐の深さを改めて感じる。  MCUファンとして初めは、もう少し「エンドゲーム」の余韻に浸らせてくれよとも思えたが、実際にこの「スパイダーマン」の新作を見終えた後では、成程、本作はあの“終焉”の直後を描くからこそ「意味」を持つものだと思える。  それは、“MCUに登場するスパイダーマン”の「意義」と直結する。 過去の単独ヒーロー映画であった「スパイダーマン」シリーズでは存在しなかった要素。即ち、トム・ホランド演じるスパイダーマンは、ヒーロー新世代の象徴であり、“アイアンマン”の意志を受け継ぐ者であるということだ。 MCUにおけるスパイダーマン=ピーター・パーカーは、無論他の誰でもなくトニー・スタークによって見出された“ルーキー”であった。 MCUの各映画において、トニー・スタークとピーター・パーカーは擬似親子のような関係性で描かれてきた。そして、この二人が人間として極めて似たもの同士であったことも明らかだ。 飄々とよく喋り、ジョークを連発し、相手を小馬鹿にしながら敵に打ち勝つ。そして持ち前のDIY精神でスーツも武器も作り上げる。ただその反面、極めて繊細で優しく、常に己と葛藤しながら戦い続ける。  この映画におけるピーター・パーカーのヒーローとしての存在感は、その精神的な未成熟性も含めてトニー・スタークそのものであり、まさにトニーが乗り移ったかのようだった。 トニー・スターク同様に、強敵との対戦を控えて自らスーツを作り上げていく様には、ハッピー同様に涙腺が緩んだ。 “アイアンマン=トニー・スターク”というMCUが生み出した最大最高のヒーローに対するリスペクトと愛情、そしてのその魂の継承。 本作が、「エンドゲーム」と連なるように公開された理由は、そういうことだ。   あと最後に。今年の「悪役賞」は“サノス”で押し通したかったが、いきなりの“対抗馬”出現とは。本作のヴィラン・ミステリオを演じたジェイク・ギレンホールに対しては「流石」の一言に尽きる。 捻じ曲がった悪意を心の底から真っ当と疑わない狂気性を演じさせたらこの俳優に右に出る者はいない。全然キャラクターは異なるが「ナイトクローラー」のアイツを髣髴とさせる。最低で最高。
[映画館(字幕)] 9点(2019-07-05 23:24:39)
10.  スター・ウォーズ/最後のジェダイ
「型破り」だ。 これまでの「スター・ウォーズ」が培ってきた物語性、キャラクター性をはじめとするあらゆる「定型」をきっちりと踏襲するように見せて、そのすべてをぶっ壊している。 「この先はこうなるのだろうな」と、多くのSWファンが無意識レベルで認識していた予定調和を尽く覆す。  SWのヒーローはこういうものだ。SWの悪役はこういうものだ。  永い永い時間の中で培われてきた「型」を匂わせておいて、清々するほどの豪胆さで反転させるストーリーテリングには、当初困惑を禁じ得なかった。 しかし、ひたすらに展開される予定調和からの脱却を目の当たりにして、次第に「全く新しいSWを観ている!」という充足感に満たされてくる。   繰り返される光と闇の争い。その根幹に存在する“或る真理”が朧げながらも見えてくる。 それは、“スカイウォーカー”の名と血を巡る「英雄譚」であった旧シリーズでは踏み込みきれていなかった領域だ。 自分が「何者」であるかを追い求める物語性から、「何者」でもない者が果たすべきことの意味と価値を追い求める物語への転換。 “合わせ鏡”の中に映し出された存在が何だったのか? お前が現時点で「何者」であるかなど関係ない。お前はお前であり、それ以上でも以下でもない。重要なのは、今この瞬間から何を成すのかということ。 そういうことを、「最後のジェダイ」のレッスンは強く訴え、物語っている。  臆病者の心優しき脱走兵は、恐怖に対峙する勇気を持つ。 向こう見ずなエースパイロットは、軍を率いるための冷静さを得る。 出自の孤独に苛まれ、盲信的に自分自身の存在性を見失っていた主人公は、遂に本来あるべきアイデンティティを見出す。 そして、光と対するように闇に包み込まれた者もまた然り。  まるで「オズの魔法使い」のような様相も覚えつつ、新シリーズの魅力的な主要キャラクターたちの「変容」を描き出すと同時に、彼らと、この「新章」の到達点がうっすらと見えてきたように感じる。   SWのオールドファンにとって、この最新作の在り方は、あまりにショッキングで「邪道」だと拒否感を感じずにはいられないものかもしれない。 だがしかし、SWがこれからも世界のエンターテイメントの中心で“継がれていく”ことが確定した時点で、「定型」を打破することは避けては通れない必然的なプロセスだったのだと思う。  ジョージ・ルーカスという創造主が生み出したSWは、彼個人の鬱積したインサイドの結晶だったとも言え、壮大なスペースオペラの世界観とは相反して極めてパーソナルな作品だった。 だからこそ、この映画シリーズは、個々人のカルト的な憎愛も含めて、世界中の映画ファンに対して強烈な存在感を放ち続けているのだろう。  その創造主の手から離れて、新たな物語が紡ぎ出される以上、定型とインサイドの壁を打ち破り、新たな価値観を示すことこそが、この新シリーズの「意義」となる。 このハードルが高すぎるプロジェクトに挑む製作陣は、誰よりもSWを愛し、リスペクトするからこそ、「新章」を継ぎ、「意義」を生み出すことの価値を信じて疑わない。 そして、この型破りな映画が貫き、継いだことは、圧倒的に正しかったと思える。  ルーク・スカイウォーカーとレイア・オーガナに最大級の敬意を表しつつ、新しい時代(=ジェダイ)の行く先を心待ちにしたい。
[映画館(字幕)] 9点(2017-12-18 00:07:56)(良:1票)
11.  スノーデン
遠隔会議の大画面に大写しにされる上司の顔面の威圧感、向かいのビルディングに巨大に浮かぶ主人公の影、乱視のような投影、不穏さと居心地の悪さを想起させるコンピューターの背景音……作品全編において御年70歳の大巨匠の映画術が冴え渡る。 監督オリバー・ストーン。この人もまた老いて尚益々精力的な映画人であることを思い知った。  そして、“エドワード・ジョセフ・スノーデン”を描き出すことにおいて、彼以上に相応しい映画監督はやはり居なかっただろう。 かの国の大いなる混沌を伴う政権交代により、ロシアからの“贈り物”としての「強制送還」も現実味を帯びてきている。 このタイミングで、この題材を、このような方法で描き出した今作の「意義」は、あらゆる側面で大きい。  映画という表現方法においては、それがノンフィクションであれ、ドキュメンタリーであれ、映し出されたものがそのまま「真実」だとは思わないように個人的に意識している。 映画が作品として優れていて、傑作であればあるほど、創作と現実の境界をしっかりと認識するべきで、その境界を曖昧にしたまま情報を鵜呑みにしてしまうことは、危険で愚かなことだと思う。  だから、この映画で描かれたエドワード・ジョセフ・スノーデンという人物の実態が、そっくりこのままだとは思わない。 もっと脆く危うい人物かもしれないし、逆にもっと完全無欠な人物かもしれない。 または、過剰なまでにナイーブなギークの青年に過ぎないのかもしれないし、もし生きる環境が違っていたならばスティーブ・ジョブズにもマーク・ザッカーバーグにもなれた天才なのかもしれない。 それは、スノーデン氏本人、もしくは彼と直接関わり合った人にしか分かりようがないし、彼のことを知りもしない人間が推し量ることはあまりに無意味だ。  ただし、彼が起こした「行動」と、それに対する世界の「反応」は事実である。 その「事実」それのみを知って、この事件が露わにした真実と影響は、極めて重要な事だと改めて思った。  「諜報機関を持つ国ならどの国でもやっていることだ」 と、時の最高権力者は見解を示した。 そこには、ある種の開き直りと、そうする他無いじゃないかという本音が入り交じる。 実際、スノーデン氏が明るみに出した事実に対して、世界はその善悪の判別を下せていない。 それは即ち、彼の行動が「正義」なのか否か結論付けられていないことを表している。  そもそも「正義」とは何か?「正義」ではないとするならばそれはイコール「悪」なのか?それとも「別の正義」なのか?  エドワード・ジョセフ・スノーデンが“起こした事”の本当の「意義」は、その“答えが出ない問い”を世界に投げかけたことに他ならない。 そして、彼がこの先どのような人生を送るのか。オリバー・ストーンが紛れもない「今」を描いたからこそ、我々はこの先もその現実のドラマを追うことができる。 示された事実を受け取り、たとえ明確な答えが出なくともその是非を考え続けること。それが、これからの時代を生き続ける我々の責務だと思う。
[映画館(字幕)] 9点(2017-02-15 09:53:22)
12.  ズートピア
世界中から愛され、崇拝される唯一無二のエンターテイメントの王国が、その長年の歴史と功績を全部ひっくるめて、新しい時代における“自虐”と“価値観”を示しつつ、新たな「娯楽」を構築されては、そりゃあもうお手上げである。 ジョン・ラセター率いる昨今のディズニー映画に対しては、満足感を通り越し、非の打ち所がなさすぎて逆に苦笑いしてしまうことが多い。  擬人化された動物たちが暮らす王国“ズートピア”を描いた今作。 動物たちのユーモラスなアニメーションそのものは、ディズニーが古くから培ってきた伝統的表現だ。 動物の擬人化と、それが生むファンタジー性は、ディズニー映画の歴史そのものと言っていい。 そのあまりに王道的な表現を、敢えてこのタイミングで主題として扱った意味。その本質が、あまりに深い。  「差別」と「偏見」。この作品のテーマは明白である。 ありとあらゆる動物たちが「平和」に暮らす理想郷(のようなもの)を映し出した今作において、その二つの言葉は、全編通して突きつけられる。 そのテーマの描き出され方は、正直辛辣で、重い。 もしこの映画の主人公が、可愛らしいウサギやキツネではなく、現実社会において社会的冷遇を被っているマイノリティーたちが演じる実写作品であったならば、酷く陰湿で居心地の悪い映画に仕上がっていたに違いない。  そう、この秀逸なアニメーション映画は、その娯楽性溢れる映画世界と引き換えに、それを観ている我々人間の現実世界が、酷く陰湿で居心地の悪いものだということを、雄弁に物語っているのだ。  この世界には、今なお「差別」と「偏見」が渦巻いているということを、世界中の殆ど総ての人は分かったつもりでいる。 我々は、「より良い世界にしたい」と、それらを否定しているつもりだろうけれど、実は当の自分自身が、無意識に、ささやかに、確実に、「差別」と「偏見」を繰り返していることに気づいていない。もしくは、気づかないふりをしている。  それこそが、我々が最も直視しなければならない「問題」だということを、この映画は、小さな主人公の等身大の姿を通じて勇敢に伝えてくる。  「差別」と「偏見」を無くすということは、安直に正論として振りかざせるほど簡単なことではないし、綺麗事ではないのだと思う。 ウサギは弱い、キツネはズルい、ヒツジは大人しい……勝手に貼った“レッテル”を剥がすためには、他人事ではなく、先ず我々一人一人が根気よく自らの“レッテル”を剥がしていかなければならない。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2016-10-09 14:05:11)(良:1票)
13.  スーパー!
想定を大いに超越する“トンデモ”映画だった。 同時期に製作された「キック・アス」と殆ど同じプロットだと思っていたが、これはまさに“似て非なるもの”で全く「別物」の映画と言っていい。同様のカタルシスを得られると思って観てしまうと、とんでもないしっぺ返しを食らうこととなるだろう。実際そうだった。  この映画で描かれているものは、「キック・アス」のような新たなヒーロー像を構築したエンターテイメントでは決してない。 己の人生に絶望し、それを歪んだ正義感に繋ぎ合わせ、悪に対する憎しみを最大限に増幅させてしまった凡人の“狂気”の様だ。 主人公の想定外の暴走は、観ている者の心を問答無用にかく乱し、「衝撃」なんて飛び越えて、唖然とさせる。  自ら去った愛する妻の奪還、心のよりどころである神への信心、主人公を突き動かす要因は様々だが、そのすべてはほんの小さなきっかけに過ぎなかったのではないかと思う。 “ヒーロー”の「仮面」を被り、悪の抹殺行為が過剰に加速していく様は、主人公の男がそして人間そのものが元来持ち得る「衝動」が、膨らみ、弾けてしまった結果のように見えた。  あらゆるものを失い、主人公は“一応”目的を果たす。 ラストではそれでも何かが救われたように描かれているけれど、それこそがまさに“フェイク”で、偽物のヒーローが辿り着いた先はやはり「悲劇」だった。  映画において、何と言っても衝撃的なのは、エレン・ペイジである。 即席ヒーローと化した主人公に呼応し、相棒役“ボルティ”に扮するリビーを演じた彼女のパフォーマンスは、文字通りに終始“弾けている”。癇癪玉のように突如として弾け、これでもかと弾け続け、ふいに弾けとんで終わる……。 主人公が徐々にその狂気性を高めていくのに対し、リビーはそもそものキャラクター性が暴走的で狂気じみている。 リビーの行動を引き起こしたのは主人公だが、主人公の行為を破滅的に深めたのはリビーであるという絶妙な関係性が、この映画の肝と言っても過言ではない。  その重要な役所を、相変わらずの小さな体で“妙ちきりん”に魅せたエレン・ペイジこそが、この映画の最大の見所と言ってもいいだろう。  前述の通り、決して気分の良い映画ではない。ただ、批判も肯定もとにかく観てみないことには何も始まらない。
[DVD(字幕)] 9点(2012-01-29 10:46:48)(良:1票)
14.  スティング
若々しいロバート・レッドフォードが、ブラッド・ピットに見えて仕方がなかった。“そっくり”ということはないけれど、醸し出される俳優としての雰囲気が、とても似ていた。 個人的な推測だけれど、これだけの名作において現在に至るまでリメイクの企画が出ていないわけはなく、その度に“フッカー”役にはブラッド・ピットがキャスティング候補として挙ったのだろう。 そして、ポール・ニューマンの“ゴンドーフ”役には、ジョージ・クルーニーあたりが挙っていたのだろうけど、「オーシャンズ11」を先にやられてしまい、そのままのキャスティングではあまりに二番煎じすぎてインパクトがなくなってしまったから、リメイクの企画が頓挫しているのではなかろうか。まあ邪推に過ぎないが。  とにもかくにも、「詐欺師映画」の金字塔とされる名作と呼ばれるに相応しい素晴らしい娯楽映画だった。 往年の娯楽映画においては、どんなに「名作」と呼称され、作品の“売り”を見聞きしていても、“肩すかし”を食らうことが多い。 それは、次々に生み出される映画が、過去の名作を踏まえてより観客に衝撃を与える作品として製作される以上仕方がないことだと思う。 今回、今作の鑑賞に至っても、映画世界そのものの雰囲気と往年のスター俳優たちの格好良さを堪能出来ればそれでいいくらいに思っていた。 しかし、しっかりと「詐欺師映画」として“驚き”と“娯楽”を楽しむことが出来、そのことが最大の「衝撃」だったと言える。  ブラッド・ピットに見えるロバート・レッドフォードも良かったが、何と言っても、ポール・ニューマンの老練熟達した“男ぶり”に惚れ惚れしてしまう。 この二人のスター俳優の「名優」としての記憶が新しい限り、“リメイク”のハードルは極めて高く、そのことが慢性的なネタ不足のハリウッドでさえなかなか本腰を入れて手が出せない最たる要因なのかもしれない。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2011-12-12 16:55:51)
15.  スター・トレック(2009)
必ずしも映画に限ったことではないかもしれないが、優れたエンターテイメントに不可欠なものは、何を置いても“手際の良さ”だと思う。 作品の規模が巨大になり、ブロックバスター化する程、その要素を制したクリエイターのみが娯楽性を制し、ヒット作を連発するのだと思う。 その素養を今最も備え“エンターテイメント”においてもはや「スピルバーグの後継者」とまで言わしめる存在になったのが、今作の監督J・J・エイブラムスだ。 彼の手掛けた映画をもう何作も観てきたが、どの作品にも感じることこそがその“手際の良さ”であり、それは即ち「娯楽」を創造する巧さだと思う。  世代的な乖離もあり、この作品を観るまで「スター・トレック」というSFエンターテイメントの一大ブランドに全く触れたことがなかった。 壮大なスペースオペラシリーズとして、しばしば「スター・ウォーズ」と比較されるが、世界的にファン層の広い「スター・ウォーズ」に対して「スター・トレック」はよりマニアックな印象を受け、何となく踏み込めない“領域”だった。  しかし、そういった観客が持つある種の「障壁」も、J・J・エイブラムスは持ち前の“手際の良さ”で見事に乗り越えてみせている。 エンディングタイトルが表示された瞬間、思わず「素晴らしい」と言いたくなる。 それくらい想像以上に充実したSF世界を見せてくれる。  何よりも素晴らしいのは、「無音」の表現だ。 「スター・ウォーズ」をはじめとして、宇宙空間の中での激しい戦闘を描いた映画は多々ある。 しかし、激しい戦闘シーンにおいて、“静寂”を挟み込み、宇宙空間の本質である「無音」と「闇」を観る者に意識させる映画は余り無い。 エンターテイメント映画である以上、シーンが激しくなればなるほど、大迫力の戦闘音は映画の表現として不可欠なものだろうが、実際の宇宙空間においてはどれほど激しい戦闘が繰り広げられようとも決して「音」は生まれない。  そういう「宇宙」そのものの基本的概念をこの映画はしっかりと意識し、その上に卓越したエンターテイメントを構築している。 おそらくそれは、この有名なスペースオペラのシリーズを通じて引き継がれてきた要素なのだろう。  「宇宙」に対する崇高なまでの美意識、それに裏打ちされた圧倒的に魅力的な世界観に、突如生まれた“ブラックホール”の如く吸い込まれそうになる。        
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2010-09-19 01:40:02)(良:1票)
16.  300 <スリーハンドレッド>
予告編その他を見る限り、もう完全に“CGを駆使したバトルシーン”のみが「売り」の映画であることは明らかだった。 新感覚の映像世界を見せつけてくれる映画は基本的に好きだし、予告編を観ても興味は膨らんだが、いかんせん“バトルシーンのみ”でどうやって2時間の尺を紡ぎだすのか、下手をすれば“大コケ”している映画なのではないかと一抹の不安を残しつつ、オープニングを迎えた。  まず一言……、「スゴイ」。 本当にほぼ9割近くバトルシーンで映画を撮り切っている。そしてその映像感覚は、触れ込みどおりに“新しく”、“凄まじい”。 隆々とした見るからにむさ苦しいスパルタの豪傑300人が、己の誇りと威信にかけて国を守るために立ち上がる。その美学は、まさに西洋版武士道に他ならない。  バックグラウンドなどほとんど描かず、「攻めてきたから攻め返す」、至極シンプルで明確な理由で圧倒的な大軍の前に向かい立つ。その単純だが、あまりに潔い姿に奮える。  ジェラード・バトラーの濃すぎる風貌を筆頭に、相当に悪趣味な敵国王や怪物じみた巨象の襲来等、明らかにマンガ的な遠慮のないビジュアルセンスが、益々映像世界の特異感を強め、素晴らしいオリジナリティを生み出していると思う。  嫌いな人はとことん「無理」だろうが、好きな人はとことん入り込む映画だろう。 ストーリーなどあってないようなもので、ひたすらに血と汗が入り混じった凄まじい「熱気」を浴びせ続けられる映画だ。当然、こういう映画もあって良い。
[映画館(字幕)] 9点(2007-06-09 19:43:30)
17.  ストロベリーショートケイクス
鬱積する都会の雑踏の中で、もがくように、ひたすらに生きる4人の女性像。それは時にどこまでも痛々しく、時にどこまでもいとおしい。 いたずらに感情を込めず、淡々と彼女たちの“深い部分”を描き出した情感溢れる世界に胸が詰まる。  魚喃キリコの原作は素晴らしく、もちろんあの原作があってこそのこの映画なのだが、難しいとされる漫画の映画化をとても巧く、とても丁寧に成していると思う。 微妙な感情が渦巻く4人の女性を、それぞれの女優がとても巧く表現していて、そのことが何よりもこの映画の完成度を高めている。 池脇千鶴は惨めさの中に不思議な愛らしさを併せ持つ不器用な女を好演していたし、中村優子は切なく痛々しい二面性を持つ微妙な女性を、絶妙な表情と声のトーンで演じ分けていた。  実のところ、世に生きる幾多の女性たちの何がリアルで何が虚像なのかなんてことは分からないけど、少なくともこの映画の中の女性たちの苦悩や葛藤というものは、ありのままであり、それはあくまで創られた世界でのことだけれど、伝わってくるそれはほんとうの“声”だと思った。  彼女たちの苦しみは、完全に消え去ったわけでは決してないのだけれど、それでもラストシーンの浜辺でのそれぞれの微笑みには、深い安堵感を覚えた。 そういうことを、とても自然に観る者に与えることが出来ている、さりげなくも本当に良い映画だと思う。  こわれやすく、愛らしいショートケーキのように、けなげに、ひたすらに、すべての女性は生きていく。
[DVD(邦画)] 9点(2007-05-06 01:09:43)(良:1票)
18.  スター・ウォーズ/帝国の逆襲<特別篇>
“旧三部作”を初見した際には、全くと言っていいほどハマることが出来ず、特にこの「帝国の逆襲」の面白さが全く理解できなかった。我ながら浅はかなガキだったのだなあと思う。 勿論、今は違う。 今作こそがシリーズ中最高傑作と言って間違いなく、この作品に描きつけられているものこそ、ジョージ・ルーカスが最も自分自身のインサイドをさらけ出して表現したかった「主題」だと思う。 「スター・ウォーズ」は、ルーク・スカイウォーカーとダース・ベイダーの壮大な“親子喧嘩”の様であり、それは創造主であるジョージ・ルーカスの、極めて私的な父親に対してのジレンマの結晶だったのだ。 “実父の告白”に対して、全力で拒絶する息子の姿は、孤独な天才映画監督が抱えた苦悩そのものだったのだと思う。
[DVD(吹替)] 9点(2005-05-24 10:52:55)
19.  スパイダーマン2 《ネタバレ》 
某雑誌のコピーと被るが、この映画は「漫画」である。もちろん映画を愛する者、漫画を愛する者として、心からの尊敬を込めてそう言いたい。 ピーター・パーカー:トビー・マグワイア演じるヒーロー映画きっての駄目男。前作以上にパワーアップして描かれる彼の「普通の男ぶり」は、ある部分では反比例し、ある部分では比例してスパイダーマンの魅力を増大させている。 メリー・ジェーン:前作も含めてこの映画を観た多くの人が、ヒロインとしての彼女(キルティン・ダンスト)の容姿に疑問を抱く言葉をよく聞く。しかし普通以上に普通の男であるピーター・パーカーが憧れる女性として彼女は適役であり、説得力がある。 ハリー・オズボーン:金持ちのボンボン&スパイダーマンに対する歪んだ復讐心を持つキャラクターとして、演じるジェームズ・フランコはまさに適役。ついに次作では準主役としてヒーローの前に立ちふさがりそうな彼の活躍に期待。 ドック・オク:彼の役には、シュワルツェネッガーやデ・ニーロなどのスター俳優も候補に挙がったらしいが、演じたアルフレッド・モリーナの存在感は抜群だった。一見愚鈍そうで、不気味な悪意に包まれた彼の雰囲気は、まさに「蛸男」にふさわしかったと思う。 サム・ライミ:まず撮影所には「仕事場」として必ずスーツで現れるという彼のポリシーに多大な格好良さを感じるのは僕だけだろうか。2作目にしてこの「蜘蛛男」を描いた映画の監督は彼をおいて他にあり得なかったと思う。抜群の映像感覚はもちろん素晴らしいが、この映画を支えているのは、彼の「スパイダーマン」に対する揺るぎない愛情だと思う。 スパイダーマン:全身を手作りのコスチュームで隠している彼の表情は見えない。しかし、彼ほど人間的な感情に溢れたヒーローは他にいない。落胆し、怒り、喜ぶ。その姿に人は惚れ込む。前作の爽快感をさらに感動的に増幅させ摩天楼を滑空する姿に目が離せない。 
9点(2004-07-18 09:19:41)(良:2票)
20.  スターリングラード(2001)
銃口の先の緊迫感。今作ほどその緊張感に包まれる映画はなかなかない。戦争という愚行の上でさらに繰り広げられる愚行。それでも彼らは生きる限り、愛するもののためにその標準に目を合わせ見えざる敵と対峙し続けなければならない。圧巻のリアリティと迫力による冒頭の戦場シーンから一気に一人のスナイパーの英雄伝、強力な敵との張り詰める対決へと昇華させる説得力に溢れたエンターテイメント性に圧倒される。傑作の名にふさわしい重厚なアクション映画だ。
9点(2003-12-16 20:06:32)
0160.62%
1592.28%
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