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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  そして父になる 《ネタバレ》 
2年前に娘が生まれた。とても幸福な瞬間だったけれど、同時に「父親になった」という事実に対しては、ふわふわとした実感の無さを感じたことを良く覚えている。  女性は、子を産んだ瞬間に「母親」になると思う。それは、我が子の生命を身籠り、出産するという幸福と苦闘に溢れたプロセスをしっかりと経ているからだと思う。 一方で、男性は、そういった実を伴ったプロセスを経ていないから、本当の意味で「父親」という存在になるまで「時間」が必要なのだと思える。 それが数日間の人もいるだろうし、数ヶ月間の人もいるだろうし、「6年間」かかる人もいる。  この映画のテーマを知ったとき、“親”の一人として、選択の余地はあるのか。と思えた。 傍らの我が子をふと見て、今まで共に生きてきた子を選ぶに決まっている。と、思った。  この映画を、「母親」の目線で描くことはある意味容易だったと思う。 この「事件」において、最も傷つき、最も感情的な対象になり得るのは、当然「母親」だからだ。  しかし、この映画はそういうストレートな感動には走っていない。 「母親」ではなく、「父親」を主人公に据えた意味。それこそが、この作品の価値だと思う。  「交換」という決断を迫られ、夫婦は苦悩する。 母親は、他の誰よりも傷つくが、その分シンプルに決断出来る“強さ”を持っていると思う。いざとなれば自ら育てた子と二人きりででも生きていくという「覚悟」がある。 しかし、そもそも「親」になったということそのものに自信が備わっていない父親は、「子」との距離感に対して大いに惑う。 そこには、「父親」というものの弱さと脆さが溢れていて、それがこの映画が描くドラマ性なのだと気付いた。   映画のテーマに対して「選択の余地はない」と“シーソー”の片方に思い切り重心をかけて映画を観始めた。 そしてこの映画のストーリーは、概ね自分のその意思に沿った着地を見せた。  それなのに、観終わった瞬間、僕は“シーソー”の真ん中に立っていた。 どちらが正しいということは言えず、どちらも間違っていないとしか言えなかった。  「選択」を迫るこの映画は、終始どちら側にも偏ってはいなかった。故に観客は、描かれる人々の言動のすべてに共感し、また拒否することが出来る。 この映画の素晴らしさは、その“立ち位置”によるバランス感覚そのものだ。
[映画館(邦画)] 10点(2013-10-06 02:00:08)(良:4票)
2.  それでも夜は明ける
最終盤、この映画は数十秒間の不思議な長回しを映し出す。 主人公が、悲しみとも喜びともつかない表情を浮かべ、それが微妙に変化する様を延々と映し続ける。 その表情が何を表していたのか、明確にはならない。 しかし、強烈に惹き付けられ、次第に彼と二人っきりで対峙しているような感覚さえ覚えた。  そのロングカットが表していたものは、徹底的なまでの「無力感」と、それと共にただひたすらに流れた「時間」そのものだったのではないかと思う。  結局、この映画の主人公は“何もできなかった”。 彼が生き延びることができ、元の人生に生還できたのは、ただ「運」が良かっただけだ。  度重なる私刑で息絶えていたかもしれない。 逃亡して奴隷ハンターに惨殺されていたかもしれない。 手紙は届かずまた裏切りにあったかもしれない。 そしてついに絶望し自ら命を絶ったかもしれない。  そう、彼以外の無数の奴隷たちのように。  たまたま運が良く生き延びた彼は、たまたま運が良く救いの手が差し伸べられた。 しかし、それは彼ただ一人に限った話であるという「現実」。 当然そこには生還したことに対してのカタルシスなど微塵も無かった。 農園主の偏愛により虐げられ続けた“パッツィー”が解放されることは無かっただろうし、子どもと引き離された母親は一生再会することはなかっただろう。  あまりにも愚かしい不条理に対しての徹底的な無力感。主人公が絶望の果てに感じ取ったものは、それ以外の何でもなかったのではないかと思える。  この映画は「奴隷制度」の非道さをただ描いているわけではない。 この映画が描き出したものは、「時代」に関わらず、「人間」の営み総てに通じる、愚かで悲しい「業」だったと思う。  虐げられる者と虐げる者、その両者の表情から滲み出ていた悲しさと愚かさは、対を成し、その根本は皮肉にも同じもののように思えた。  人間は、どこまでいっても自分を守ることしかできない。それはもうどうあがいても揺るぎようのない本質だろう。 誰しも、どの時代であっても、人間は己のその本質に対して、時に抗い、時に受け入れ、闘い続けるしか術を持たないのだと思う。   「奴隷制度」は決して過去のものなんかではない。 そして、それの廃絶は人間にとって決して安易なことではないだろう。 この映画は、世界中の人々が自分自身のこととして痛み入るべき作品だと思う。
[映画館(字幕)] 9点(2014-05-24 01:24:45)
3.  その土曜日、7時58分 《ネタバレ》 
「その土曜日、7時58分」この邦題も嫌いではないけれど、原題「Before the Devil Knows You're Dead」は、「悪魔があなたの死に気付く前に天国にあらんことを」というアイルランドの諺を引用しているらしい。 人生においてもはや“死に体”となった主人公を始めとする登場人物たちの様を如実に表したタイトルだと思う。  後戻りできない悪循環にはまった人生を好転させるため、“或る犯罪”を企てる兄弟。容易に思われた計画は思わぬ形で頓挫し、更に最悪な悪循環にはまっていく。 ドラマとして素晴らしい点は、描かれる「悲劇」が、必ずしもその犯罪に端を発しているわけではなく、主人公の兄弟をはじめとする彼らの家族が、そもそも孕んでいた屈折した関係性から生じているということ。  この家族は、決して心の底からお互いを憎んでいたわけではないけれど、長い年月の中で少しずつ鬱積し増幅した軋轢やコンプレックスが、後戻りできない悲劇を生んでしまった。 「家族」という最も身近で、最も微妙な人間関係を主軸に据えたサスペンスが、鈍く光る鋭利な刃物のようにゆっくりとそして確実に突き刺さってくるようだった。  ただでさえ深い面白味をもったストーリーを、時間軸をずらした構成で巧みに描き出し、サスペンスの緊張感と驚きを越えたその先に、濃密過ぎるほどの人間模様を映し出した演出は、まさに「巨匠」のそれだった。 長きに渡り、重厚な社会派ドラマを映画史に刻みつけてきたシドニー・ルメット、その遺作に相応しい映画だと思う。  ラスト、自らの手で悲劇の終止符を打たずにはいられなかった老いた父親が、一人光の中に消えていく。 その先に居たのは悪魔か天使か。その答えはあまりに分かりきっていて、悲し過ぎる。
[DVD(字幕)] 9点(2012-01-21 14:13:03)
4.  ソーシャル・ネットワーク
映画の中で、主人公は自らが創り上げたサイトの在り方に対して頑なに言う。 「クールじゃないと駄目だ」と。 そのセリフどおり、この映画は、ひたすらにクールにそしてシンプルに、「今この時代」の成功と挫折を描き切っている。  「事実をもとにした映画」というものは、星の数程もある。今年のアカデミー賞において、今作と賞レースを争っているのも、実在の英国王を描いた作品だ。 ただし、数多のそういった映画に対して今作が特異なところは、描かれる「事実」が遠く過ぎ去った過去ではないということだ。 「フェイスブック」という、今この瞬間もそのテリトリーを全世界に広げていっているソーシャルネットワークサイトの成り立ちと、創業者の生き方。この映画で描かれるすべてのことは、ほんの数年前のことであり、継続中の「事実」である。  主人公の生い立ちやバックグランドなんて一切描かず、彼の感情さえも大部分において明確には描かれない。 ただただシンプルに、主人公がこの数年の間で、“何をどうしたか”そして“何が起こったか”ということのみを、クールに描き連ねているだけだ。 普通に考えれば、酷く淡白で退屈になりそうなプロットにも関わらず、映し出される映画世界は、クールやシンプルという形容に反して生々しく、不思議な程にドラマティックだ。   主人公が発する膨大で慌ただしい台詞は、そのまま、今の世界に溢れ行き交う「情報」を表している。 目まぐるしい映画のスピード感は、変化し続ける世界と、そこで急激な成長を遂げたSNSの姿そのものであり、その一つの「中心」に存在する人間の避けられない“在り方”を如実に表現していると思った。  正直なところ、鑑賞前は今流行りの媒体を描いた軽快でポップな映画なのだろうと思っていた。 しかし、そうではなかった。この映画は、今この時だからこそ描けて、そして今この時だからこそ観られる決して“普遍的ではない”ドラマだと感じた。 逆に言うと、今この時だからこそ、最大の価値を見出せる映画だとも思う。  その特異性も、自らが生み出したSNSの「価値」をひたすらに高めていった一人の男の「成功」と「孤独」を描いたこの作品に相応しい。
[映画館(字幕)] 9点(2011-02-27 09:33:13)(良:3票)
5.  ソラニン
特別な才能か何かを持っているわけでないのなら、人生において、本当に思い悩み、混迷するのは、十代ではなく、二十代だと思う。  知識や経験が中途半端に蓄えられ、名実共に「大人」という現実を問答無用に突きつけられる。本当は、準備なんてまだ出来ていないのに、あらゆることを無理矢理伏せて歩まされる。  道に迷って当然、それが「普通」の人間の二十代だ。  その例にもれず、僕自身、迷い惑いながら二十代の一日一日を生きてきた。 そんな中で、紛れもない一つの「指針」となったのが、浅野いにおの漫画であり、「ソラニン」だったと思う。  「指針」と言ったが、この作品の中に混迷を抜け出すための「答え」があるわけではない。 主人公たちが同じように人生に迷いながら進んでいく様を見て、共感し、ならば自分はどのように生きられるのかということを、見つめ直す機会を与えてくれた漫画だった。  5年前に初めてこの漫画を読んだ時点で、映画化は必至だと思った。 が、同時に安直な映像化だけはしてほしくないと思った。  一抹の不安を抱えつつ、ようやく上映となった地元の映画館に観に行った。  素晴らしい映画だったと思う。  浅野いにおの原作と同じ「間」で切り取られた何でもない河川敷の夕暮れを見た時点で、安堵感を覚えた。 芽衣子と種田の息づかいをそのまま表現してみせた俳優の演技に、幸福感を覚えた。   主人公の芽衣子は、恋人の種田が遺した「ソラニン」が、過去の自分自身との別れの曲であることに気づく。 僕自身が、迷い惑った二十代ももう一年と少し。映画館を出て見上げた初夏の青空は、芽衣子が最後に見た空と同じように、とても広がって見えた。 
[映画館(邦画)] 9点(2010-05-30 15:56:54)(良:2票)
6.  双生児
徹底的なまでに異質な世界観が見事で引き込まれた。これに限定するわけでなくこういう個性こそ日本が重要視するべきことであり、育てるべきものだと思う。本木雅弘の演技も良かったが、何と言ってもりょうの女優としての存在感が物凄かった。
9点(2003-11-30 13:26:49)
7.  続・男はつらいよ
昨年の正月にシリーズ第一作目の「男はつらいよ」を初鑑賞して、一年ぶりに第二作目の今作を鑑賞。 来年以降も、年のはじめに“寅さん”を観ることを恒例化していこうと思っている。  自分自身が今年で40歳になる。 「不惑」という言葉の意味に対して、自分の精神年齢が程遠いことは否めないけれど、それでも人生の機微というものを何となく感じ取れるようにはなってきた。 自分の人生において何が大切で、何がそうではないのか。そういうものがおぼろげながらも見えてきた今、この国民的喜劇映画が描き出す「娯楽性」は、ことほど左様に心を満たす。  渥美清演じる「車寅次郎」というキャラクターはもちろん強烈だけれど、劇中において何か劇的なことが起こることはない。 が、しかし、なんでもないシーンで笑いを生み、なんでもないシーンでしみじみとした感動を生む。 これぞこの国の「喜劇」の真骨頂だろうと思える。  このシリーズ第二作においては、脇を固める豪華俳優陣の存在感も際立っている。 寅次郎の恩師役の東野英治郎は、個人的に幼少期に観ていた「水戸黄門」の印象が強く、あの特徴的な声の響きがとても懐かしかった。 若き山崎努は、30代前半にして既に映画俳優としての稀有な雰囲気を醸し出しており、今作ではヒロインの恋人という「普通」の役柄を演じていることが逆に印象的だった。  そして何と言っても、寅次郎の生き別れの母親役として登場するミヤコ蝶々の存在感が抜群。 数少ない登場シーンの中で、稀代の女漫才師ならではの“しゃべくり”と、この国の喜劇を牽引し続けていたのであろうコメディエンヌとしての表現力が圧倒的だったと思う。  渥美清も、東野英治郎も、ミヤコ蝶々も、既に亡くなって久しい。 けれど、彼らが昭和の時代に生み出した数々のまだ観ぬ「娯楽」を、これからまだまだ堪能できることは幸せなことだと思える。
[インターネット(邦画)] 8点(2021-01-28 10:31:52)
8.  その男ヴァン・ダム
もはや「落ち目」となって久しいハリウッドのアクションスター、ジャン=クロード・ヴァン・ダム。 スター俳優として下降の一途を辿る自身の境遇を自虐的に描いた映画に、彼自身が主演するという今作の情報を得た時は、興味はかき立てられた反面、「ヴァン・ダムも落ちるところまで落ちてしまったのか……」と昔から彼の映画に親しんだ者として少し寂しく思えた。  しかし、必ずしもそうではなかった。想像以上に良い映画だったと思う。  「自虐的」という言葉はまさにその通り。むしろそんな言葉では足りないくらいに可笑しさを越えた辛辣さがこの映画に溢れていた。 右も左も分からないベルギー人俳優が、文字通り己の体一つでハリウッドの“スター”へとのし上がり、時代の流れとともに忘れ去られていった。それを当の俳優自身が真正面から演じる様には、想像を超えた哀愁が満ちていた。  誰かの言葉か、何かの映画の台詞か忘れたが、「ハリウッドは、人を噛んで吐き捨てる」というような言い回しがあった。まさにそれを地でいくようなヴァン・ダムの人生を、彼自身が独白するような映画だった。  ただし、そこに表れていたのは、落ちぶれたスター俳優の無様さだけではなかったように思う。  ベルギーからハリウッドに渡った時から、無くすものなど端からなく、正真正銘のゼロから歩んだ自らの道に対するアクションスターの意地。 そして、大衆から落ちぶれて見えるのであれば、それすらも自らがパフォーマンスして見せようとする表現者としての意地。 そういう一人の俳優の冷めやらぬ熱情を感じずにはいられなかった。  この映画は、一人のアクションスターのドラマであり、ドキュメンタリーであり、類い稀なエンターテイメントだと思う。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2011-05-18 15:38:03)
9.  それでもボクはやってない
日本の司法制度の根本的で深刻な「問題」。そしてその弊害は、決してテレビ報道の中だけではなく、普通に生きている市民全般に対し、突如としてふりかかるということをこの映画は物語る。  徹底したリアリティをもって描かれる「実情」は、怒りと愚かさを覚えると同時に、映画としての力強さに溢れている。 極力映画的な演出を廃し、「現実」を淡々と描き連ねることで、逆に興味を引き付けひとつの娯楽性をも生み出していると思う。150分という長尺でありながらその長さをほとんど感じさせなかった。  タイトルの通り、主人公は最初から最後まで「ボクはやってない」と訴え続ける。この映画がすごいのは、単に冤罪に陥りかけている主人公の奮闘を描いているのではなく、その主人公を含んだ群像が愚かしい司法制度の間で様々に葛藤する様を徹底して俯瞰的に描いていることだ。そのことが、実情を実情としてありありと映し出すことに成功した要因だと思う。  若くしてすでに日本映画界におけるバイプレーヤーの地位を確立している加瀬亮の初単独主演映画ということも、昔から彼の存在感を認識していた僕にとっては感慨深かった。この映画の主役は彼以外には考えられないだろう、というくらいに適役だったと思う。  この映画を観た事による認識が、少しでもこの国の社会の是正に繋がればと思う。
[映画館(邦画)] 8点(2007-02-10 21:38:18)
10.  ソウ2
いや良いですね。言いえて妙だけれど、ある意味“真っ当”に入り組んだサスペンスホラーだと思う。ヒットした前作を経て、巧みに(そして痛々しく…)ストーリーを噛み合わせた続編として仕上がり、「SAW」という映画を結末付けている。 なかなか二作続けて最後の最後で「やられた」と観ている者に思わせる映画はない。主謀者のキャラクター性など完璧に“粗”がないというわけではないが、もうこういう映画になってくると、良い意味で“表面的”なストーリーの驚きこそすべてだと思う。 パート1も含めて、全編通してどこまでも痛々しく、最後まで騙し通したこの作品の完成度は高い。 ただこれ以上は「無理」が出てくるので、できればもう続編はつくらない方がベターだと思う。が、たぶん慢性的に「ネタ不足」の映画界は、それを許さないだろうね。
[DVD(字幕)] 8点(2006-04-06 23:59:56)(良:1票)
11.  ソウ 《ネタバレ》 
とにかく、痛々しすぎる密室における緊張感は一見の価値はある(と言うか痛々し過ぎて2度、3度と見ようとは思わない)。全編に張り巡らされた伏線と、“密室”という設定を存分に生かしたアイデアも見事だったと思う。 終盤、クライマックスにおいて、それまでの雰囲気を無視してやけにバタバタとし始めて、正直「なんだよこの終わり方は~(lll ̄■ ̄;llllllΣ)」と思いかけたところで、真の結末を見せる顛末には、まんまと衝撃を受けた。ああいう終わり方は、この種類の映画にふさわしく、この「SAW」という映画の結末に合致していると思う。すなわち、“SAW”とは、重要な小道具であるノコギリを示すと同時に、「見ていた」という要素をあらわすものなのではないか。 ただしかし、犯人の正体を筆頭に色々と腑に落ちない点も多い。冷静に考えると強引すぎるようにも思う。それが描かれなかった「謎」なのかは疑問だが、良い意味でも、悪い意味でも、全然眼中になかった続編「SAW2」に対する好奇心は膨らんだことは確かだ。
[DVD(字幕)] 8点(2005-10-29 21:40:58)(良:2票)
12.  続・座頭市物語 《ネタバレ》 
前作「座頭市物語」を引き継ぐ見事な続編であった。勝新太郎の実兄・城健三朗(若山富三郎)との真の兄弟対決、前作では生き残る飯岡の親分をラストのラストでたたっ切るなど、娯楽性と爽快感が増した続編だったと思う。今作の後の何十作にもなるシリーズ化の確固たる自信と方向性を位置づけた価値の高い作品であると思う。
[DVD(邦画)] 8点(2004-05-22 12:51:43)
13.  続・猿の惑星 《ネタバレ》 
映画に対する満足度は、ラストシーンのラストカットの余韻や衝撃が大いに影響するものだと思っている。 本編の大部分が多少つまらなくても、ラストカットが印象的であれば、その映画はちょっと忘れられなくなる。  歴史的大傑作のSF映画の続編として果敢に、いや無謀に、いや強引に挑んだ「続・猿の惑星」は詰まる所そういう映画だ。  久しぶりに鑑賞してみて、自分の記憶のイメージ以上に映し出されるシーンの大半はチープで面白味は薄いと感じた。 ただ、面白かろうか面白なかろうが、「猿の惑星」の“あの”衝撃的なラストシーンの続きが観たくなるのも映画ファンの心情であろうし、大ヒットを受けた製作会社が是が非でも続編の製作に乗り出したことは必然だと思う。  チープではあるが、この続編の価値は極めて高いと思う。 この映画が、人類はどうして滅んだのか、猿たちはどうして栄えたのかという根本的な疑問の解消に向かうための後のシリーズの礎になったことは間違いない。 そして、人類の愚かさを描き、更に猿たちも含めた生物そのものの愚かさにまで踏み込んだ切り口は、ある意味一作目とは別の観点から衝撃的で、恐ろしい。  そしてそして、極めつけはラストシーンである。 支配欲を強める猿たちと生き残った人間たちの殺し合いの果てに、惑星そのものを一瞬で爆発させてしまうというラストカット。 それも大爆発のシーンを描くわけではなく、最終爆弾のスイッチが押されると同時に静かに白い光に埋め尽くされ、あとは極めて淡々としたナレーションで締められる。無音のごく短いエンドロールも困惑に似た衝撃に拍車をかける。  オリジナルが凄すぎるので、蛇足で作られたこのカルト的続編には殊更に酷評が尽きないが、個人的にはあのラストシーンだけでも好評は揺るがない。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2003-12-20 13:38:02)
14.  ソナチネ(1993)
北野映画におけるヤクザ描写は今作において確立されたと思う。独特の凶暴性と哀愁、ユーモアを含んだヤクザの面々はある意味、北野武監督の最大の売りであることは間違いない。特に今作における大杉漣のキャラクターはそれを代表するものであり、狂気と哀愁に溢れている。映画監督北野武の名を知らしめた紛れもなく傑作。
8点(2003-12-05 23:06:04)
15.  ソウル・ステーション パンデミック
公開中のゾンビ映画「新感染半島 ファイナル・ステージ」に続き、一応シリーズ作の一つであるこのアニメ映画を鑑賞。 シリーズ一作目の「新感染 ファイナル・エクスプレス」の前日譚となる作品で、人をゾンビ化させる最凶ウィルス蔓延の“はじまり”を描いている。  各実写作品の監督も務めるヨン・サンホ監督は、元々アニメーション監督だったようで、アニメ作品はお手のもののようだ。 一作目の「新感染 ファイナル・エクスプレス」が成功した要因の一つとして、アクションの見せ方のフレッシュさが印象的だったが、それもアニメ制作で培った構図づくりが活かされているのだろうと思う。  韓国製アニメを観る機会はあまりない。随分前に「マリといた夏」というアニメ映画を観たが、それ以来の韓国製アニメの鑑賞だったと思う。 アニメーションとしての精巧さにおいては、日本のアニメ文化と比較するとチープだと言わざるを得ないけれど、韓国映画独特の雰囲気はアニメ映画にも映しこまれていると感じた。 恐怖映画であることもあり、キャラクターの何気ない一挙手一投足に不穏さや不気味さがにじみ出ており、クオリティーのチープさを補う秀逸な空気感を携えていたと思う。  感染者(=怪物)と、人間(=怪物)に板挟みにされる絶望。 文字通り、「進むも地獄 退くも地獄」のその様は、絶望にまみれたこの世界そのものを表しているようだった。  そのシーンも含めて、やはりこの監督は、ストーリーを効果的に映し出すための舞台立てや構図づくりが巧い。 前日譚でもあり決して大きなストーリーテリングを見せるわけではないのだが、各シーンの舞台づくりが尽く巧いので、恐怖やスリリングをきちんと表現すると同時にシーンに相応しいドラマ性を生んでいたと思う。  ある夜に突如発生したパンデミックが、瞬く間に広がり、その絶望の極みと共にこの映画は終幕する。そのラストカットが美しい朝焼けであることもまた印象的だ。  今まさに世界はパンデミックによる恐怖と絶望の只中でもがき苦しんでいる。  明けない夜はないと言うけれど、果たしてこの夜はいつ明けるのだろうか。 そして、朝日が照らす世界はどうなっているのだろうか。
[インターネット(字幕)] 7点(2021-01-15 23:40:16)
16.  ソロモンの偽証 前篇・事件
子どもたちの「顔」が皆良い映画だった。 こういう演技経験の浅い若い俳優たちが主要人物となる映画においてもっとも重要な事は、特別な演技の巧さでもなければ、リアルな実在感などでもなく、彼ら一人一人の顔つきだと思う。 演技がヘタクソなのは当たり前、実際にこんな子どもたちがいないことも当たり前である。顔つき一つで映画としての見応えになり得るかどうか。 この映画において、それは最も重要な要素であり、見事にクリアしていると思う。制作陣が“クラスメイト”を集めるためのオーディションをどれだけ真剣に取り組んだかも明らかだ。  その中でも特に印象的だったのは、やはり主演を務めた藤野涼子だろう。 主人公名と同名で女優デビューを果たしたこの若い女優の存在感と、溢れ出る可能性が素晴らしかったと思う。これはまた磨きがいのある新たな原石が現れたものだと思う。  この宮部みゆき原作の映画化作品がどういう作品かというと、“血塗られた中学生日記”という言い方がしっくりくる。  冒頭のクラスメイトの転落死体発見から始まり、いじめられっ子の事故死と、分岐点となるトピックスは衝撃的だが、ストーリーテリングとしてはそれらを軸として、純真で無知で激情な中学生たちが、動揺し、葛藤し、意見を述べ合うという、かつてNHKで放送されていた「中学生日記」がありありと思い出された。 残酷で不可解なサスペンスを孕んではいるが、本質的にはオーソドックスな学園ドラマであり、家族ドラマであった。 その歪さが、良い意味で独特であり、大林宣彦を髣髴とさせる成島出の極端な演出方法も手伝って、想定外の見応えがあったと思う。  クラスメイトたちの死を立て続けに目の当たりにし、打ちひしがれた主人公は、自分自身を責め、最悪の決意に歩みかける。 ギリギリのところで思いとどまり、幼くも純粋な自身の「正義」にすがるようにして、進みだそうとする様はエモーショナルで、“若さ”の価値と熱量に溢れていた。  “犯人”を探し罰したいわけではなく、真実を突き止め、自分たちが抱える混乱を自分たち自身で収拾するために「裁判」を行う。 後編に繋がるそのくだりは、少年少女たちが越えるべき通過儀礼に対して覚悟を決めたようにも見え、サスペンスの真相解明そのものよりもずっと期待感に溢れた。
[ブルーレイ(邦画)] 7点(2016-09-10 00:02:58)
17.  捜査官X 《ネタバレ》 
「思ってたのとちがう」映画であることは間違いない。 「捜査官X」と邦題が銘打たれ、その捜査官役の金城武のビジュアルの方がメインにプロモーションされていた。切れ者の捜査官が、“謎”に溢れた事件とその中心にいた一人の男の“真実”を突き詰めていくという映画、だろうと思っていた。 もちろんそういう要素もあるにはあるが、それは映画の中の序章部分に過ぎない。  メインで描かれるのは、“謎の一人の男”の隠された心理と活劇。 つまるところこの映画は、いまナンバーワンの“カンフースター”ドニー・イェンのカンフー映画なのである。 思っていたのとは違ったが、ドニー・イェン演じる“主人公”の本質が徐々につまびらかになっていくにつれ、カンフー映画としての高揚感は爆発的に高まっていき、アジアが世界に誇るアクションエンターテイメントの真髄にハマっていった。  想定外の展開を見せられても不満無く観客を引き込んでいく。それくらいドニー・イェンの吸引力がもの凄い。 一見さえない風貌から突如繰り広げられるカンフーアクション、そのキレとスピード感は、ただそれだけで一級のエンターテイメントに成り得ている。 映像技術の発達により、いまや老若男女を問わず世界中の俳優が超人的なアクションシーンを“見せる”ことができるようになった。それにより、アクション俳優の“居場所”はどんどん狭められていっていると言っていい。 そういう現在の風潮も踏まえ、このカンフースターは、今一度アクションを“見せる”のではなく“魅せる”ということの価値と意味を追求しているように思えた。  ストーリーの辻褄なんて横に置いたとしても、アクションシーンの魅力だけで“魅せる”。この映画には、そういった娯楽映画のパワーが満ちていると思う。 そういう映画なので、金城武のキャラクターの比重が全体のバランスの悪さに繋がっていることも事実。 彼のキャラクターと演技自体は魅力的だったと思うが、あくまでも狂言回しとしての立ち位置に徹し、ミステリアスな主人公を引き立てるアクの強い脇役であってくれれば、映画としての質は更に高まったように思える。
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2012-11-05 17:35:26)
18.  ソルト 《ネタバレ》 
アンジェリーナ・ジョリーというハリウッド女優の魅力は、その美貌であり、その体躯の曲線美である。  それは彼女が、「17歳のカルテ」でアカデミー助演女優賞を受賞したれっきとしたアカデミー女優だということを踏まえても、揺るがない。 どんなにシリアスな映画に出演しようとも、そこで好演しようとも、彼女は“演技派”などではなく、唯一無二の“セクシー女優”だ。間違いない。  そんな女優が、コスチュームを目まぐるしく替えつつ、ハードアクションを繰り広げる女スパイを演じた時点で、この映画に致命的な失敗は生じるわけがない。 事実、面白い映画だったと思う。  年始早々からこの作品のトレーラーを見続けてきた限りでは、二重スパイ容疑をかけられた主人公が自身の疑いを晴らすために奔走するというような「北北西に進路を取れ」的な展開が繰り広げられるのだろうと想像していたのだが、結構序盤から”想定外”な展開に突入し、驚くというよりも面食らってしまった。  正直なところ、ストーリー的には粗は目立つし、整合性には欠けている。少しネタばれになってしまうが、キーマンとなるキャラクターの隠された存在性も容易に想像がついてしまう。  ストーリー的にも、映像的にも期待に対して凡庸という印象は拭えない。  ただし、繰り返しになるが、これがアンジェリーナ・ジョリーの映画である時点でハズレはない。  当初この映画はトム・クルーズ主演で企画が進行していたらしい。金銭面で折り合いがつかず、アンジーへと脚本共々キャラクターの性転換を行ったそうだ。 たらればになるが、そのままトム・クルーズで映画が完成していたなら、「ミッション:インポッシブルの二番煎じ」と酷評されていたことは、恐らく間違いない。  たぶんシリーズ化は既定路線だろう。次回作は主演女優のパフォーマンスだけに頼らなくて済むようなクオリーティーの高いスパイ映画を期待したい。  (水面下ではトム・クルーズ&ベン・アフレック出演による“イヴリン・ソルト×イーサン・ハント×ジャック・ライアン”という企画もあるとかないとか……実現するのであれば、それぞれこれ以上歳を食う前にやったほうが良いと、一映画ファンとして思う……) 
[映画館(字幕)] 7点(2010-08-07 10:48:44)(良:2票)
19.  それでも恋するバルセロナ 《ネタバレ》 
この映画は、スカーレット・ヨハンソン×ペネロペ・クルスという今やハリウッドを代表する二大セクシー女優の“絡み合い”を、スクリーンで見たいぞ!という願望を、こちらもハリウッドを代表する根っからの“女好き”ウッディ・アレンが見事に達成した作品だと思う。  「一夏の恋」という誰もが一度は憧れるアバンチュールを、独特の人間模様をもって、時におかしく、時に生々しく描いたウッディ・アレンらしい映画世界を堪能出来る。  ヨハンソン×ペネロペという誰もが夢見た「競演」を実現させたのは、やはりウッディ・アレンだからこそ成し得た業で、それぞれの女優としての個性を最大限に発揮させつつ、他のキャスト陣も含めてバランス良く“大波小波”を打ちながら、映画を展開してくれている。 女たらしのスペイン人画家を演じたハビエル・パルデムは、持ち前の”濃ゆい”ルックスを生かしつつ好演しており、彼に3人の女優が絡んでいくことで映画は展開する。 凄いのは、それぞれの女優と絡む場面場面で、スペイン人画家の物腰と映画の雰囲気が女優に合わせて波打つように変わっていくところだ。 そして、女優同士が絡み合う場面では、さらに大波をうつかのように雰囲気ががらりと変わる。 まさに、監督がそれぞれの女優たちが持つ雰囲気を引き出した結晶であり、それこそがこの映画の最大の魅力だと思う。  「一夏の恋」からあっさりと冷めてしまった主人公たちの憮然とした表情で、映画は終わる。 劇的なウェーブを経て、また元通りの凪に戻る様は、この監督らしいシニカルさも伺えて、総じて「ああ、ウッディ・アレンの映画だな」と思った。
[DVD(字幕)] 7点(2010-03-20 17:32:09)(良:2票)
20.  空の大怪獣ラドン
本当に、当時の東宝映画のミニチュア技術には頭が下がる。 今作で特筆すべきは、やはり、ラドンの衝撃波によって吹き飛ばされ、舞い上がる建物を表現した“巧さ”であろう。 ただ建物が爆発したり崩壊する映像は多々あるが、瓦の一枚一枚までが文字通り“吹き飛んで”いく様はなかなか見たことがなく、見事の一言に尽きる。 その反面、ラドンの操作ワイヤーが思いっきり見えたりするが、そのへんはご愛嬌というところだろう。 とにもかくにも、改めて、当時の特撮技術の偉大さが伺える。現在の日本映画の特撮に足りないものは何なのか?それはハリウッド等に対して明らかに劣る製作費などではない。技術力の低迷ということでもない。つまるところ欠けているのは、“工夫する”ということだろう。与えられた条件で、どこまで妥協を許さずに表現するか。必要なのは、“工夫”であり“想像力”だ。 そしてそれは、特撮映画に限らず、すべてのジャンルの映画に共通することだ。 そのことを、古き偉大な東宝映画は、今なお力強く示し続けている。
[DVD(字幕)] 7点(2005-07-14 11:24:59)(良:2票)
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