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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  海街diary
「家族」って、とても面倒なものだ。でも、だからこそとても愛おしいものなのだとも思う。  私的なことだが、今年自分自身が家を建てることもあり、いつになく自分の家族や親戚とコミュニケーションを取らなければならないことが多い。 それ自体は、至極当然のことであり、幸福なことであるはずだけれど、そのコミュニケーションの中で、時折、いや頻繁に、自分自身が生まれ育った家族が見せる“弱さ”や“無理解”に対して、寂しさと憤りを感じる。 それは、僕自身の“弱さ”と“無理解”が露呈し、合わせ鏡のように相手に写っている結果であることは重々承知している。 ただし、それらを認め、何の不満もなく素直に受け入れられるほど、僕も、家族も、完璧なわけではない。  「家族」の中の些細な“ほつれ”は、そのまま些細なものとして消え去ることもあるし、小さな不満が募り不幸を呼び寄せてしまうこともあるだろう。 「家族」の形態は様々だけれど、ほとんどすべての人達は、そういう普遍的な危機感を孕んだ危ういバランスの上で、小さな人間関係を築き、支えあっているのだと思う。   随分と愚にもつかない前置きが長くなってしまったけれど、詰まるところ、この映画は、“四姉妹”を中心とした、「家族」の物語であり、穏やかで優しい時間の流れの中で、彼女たちが根本的な部分で持ち続ける人生の“苦味”を垣間見せる傑作であると思う。  普遍的な人間関係の機微を、極めて細やかに、それでいて卓越した技量で描き出したこの映画は、一つ一つのシーンの意味を言及するほど野暮になる。 ただ、最初から最後まですべてのシーン、すべてのカットが、映し出された瞬間に「名作」のそれだと分かる。  当然ながら、四姉妹を演じた4人の女優は、みんな素晴らしかった。 一見、人気漫画の映画化に際して人気女優たちを集めただけのようにも見える。しかし、実際にこの映画世界の中で息づく彼女たちは、“四姉妹”以外の何者でもなく、それぞれが息づく様をずうっと観ていたくなる。 この奇跡的なキャスティングそのものに幸福感すら覚える。ただそれも、一流の監督のなせる技なのだろう。   4人揃って砂浜を歩いていく姉妹たちの道程は、きっとこの先枝分かれしていく。 その度に彼女たちは、時には「面倒」と思いつつも、悲しみつつ、怒りつつ、相手のことを思うのだろう。 それはきっと、正しい家族の在り方の一つなのだと思う。
[映画館(邦画)] 10点(2015-07-10 23:19:36)
2.  ウォー・マシーン:戦争は話術だ!
主人公の米軍エリート大将は、ストイックな男。 毎朝の11kmのランニングを欠かさず、食事は一日一回、4時間しか眠らない。 劇中何度も描写される彼の絶妙に滑稽なランニングフォームが可笑しい。 そこには、この「戦争についての映画」におけるシニカルな悪意が凝縮されているように思えた。  さて、この映画は、「戦争映画」だろうか。 勿論、「9・11」に端を発した「アフガニスタン紛争」の“現場”を描いている以上、風刺とコメディがふんだんに盛り込まれてはいるが、「戦争映画」だと認識することが正しかろう。 しかし、この映画の作り手は、描かれていることが「戦争」であるということを絶妙なさじ加減で終始ぼかし続ける。  冒頭、国際空港の便所で用を足した後、意気揚々と闊歩し、「勝ちに行くぞ!」と兵士たちに発破をかける主人公の陸軍大将の姿は、まるでやる気のないスポーツチームを率いる少々間の抜けたコーチのようだ。 その後駐留地を目の当たりにした大将は、「ここの連中は戦争だということを忘れている」と嘆く。 それは米軍の兵士に限ったことではない。連合諸国の兵士は勿論、大使をはじめとする米国政府の面々も、現地のアフガニスタン兵や国家元首すら、それが「戦争」であることの意識が希薄になっている……ように見える。  それでも熱い大将は、あらゆる場所で「熱弁」をふるう。 この「戦争」の意味と価値を、各所で、兵士、政治家、民衆、記者、様々な人に説いて回る。 どの場面でも、大将の演説はとても情熱的だ。 劇中、ティルダ・スウィントン演じるドイツ人議員の指摘にも含まれていたように、「大将は善い人」だと思う。この人物が本当に信念をもって任務に臨んでいることは誰の目にも明らかだ。  しかし、悲しきかな彼の言葉に、説得力を伴う「中身」は無い。 それは、彼が己の人生を通して信念を懸ける「戦争」そのものに、中身がないからだ。 そして、逆説的に彼の存在そのものが、この「戦争」の空虚さとイコールであることが、徐々に確実に露わになってくる。  熱き大将は、嘆く。戦争であることを認識していない本国、そして世界に対しての壮絶なジレンマに苛まれる。 でも、現実はそうではないのだ。 「戦争」というものに、彼が求める「理想」が本来はあったのだとしても、そんなものはとうの昔に無くなっている。  そんな“今”の「空虚な戦争」において、古ぼけた理想を掲げる軍人がいくら熱弁を振るおうとも、何かが伝わるはずもない。 何処から来て、何処へ行くのかすら伝わらない。 そこには、巨大な虚無感が横たわっているようだった。   ブラッド・ピットがあらゆる意味で素晴らしい。 製作者としてネット配信限定の映画製作を担うにあたり、その性質を最大限に活かした題材と手法と作品規模で、オリジナリティに溢れる作品を仕上げてみせたと思う。 そして同時に、スター俳優としてベストパフォーマンスを見せている。時期的にアカデミー賞ノミネートは狙えないのかもしれないが、間違いなくそのレベルであり、少なくともこのスター俳優の新たな代表作の一つとなったことは確かだろう。   空虚な戦争を続ける空虚な大国は反省などしない。 では何をするのか?クビにして後任を送るのだ。 後任として送られてきたまさかの「ボブ」の闊歩を目の当たりにして、最後の最後までブラックな笑いと虚無感の増大が止まらなかった。  それにしても、このレベルの戦争映画がネット配信限定で公開される時代か。 作品内容に対する邦題の的外れ感は罪だが、映画の在り方は今後益々多様化していくのだろうな。
[インターネット(字幕)] 9点(2017-05-31 23:00:44)
3.  ウルフ・オブ・ウォールストリート
乱れ飛ぶ欲望とドラッグ、そして3時間の尺を目一杯使って映し出される人間という生物の下衆の極みの様に、序盤から偏頭痛を覚える程にクラクラしっぱなしだった。  こんな人物のこんな人生が実在して、この悪行の果てに今ものうのうと生きているということに「世も末だ」と感じる。 が、それと同時にまったく逆接的な感情が、この映画を観ているにつれ大きく膨らんでいることに気付いた。 それは、実は世界中の誰しもが、この人物のこんな人生に憧れを禁じ得ないのではないのかということ。 勿論、世界中の殆どの人間は、彼の人格と生き様を否定するだろう、いや否定したいのだろう。 ただそれは同時に、彼のような生き方が絶対に出来ないことに対しての、人間という生物としての「嫉妬」ではないか。  “善悪”という価値観以前に、この世界に巣食うすべての人間は強欲なのだ。 強者が弱者を喰らうのは、至極当たり前のことであり、世界が彼を否定出来るのは、ただ単に彼の行動論理が、大多数の価値観に反しているからだ。 勿論それが社会の秩序というものであり、彼の行為を肯定する理由にはまったくならないのだが、この映画はそういう人間が本来隠し持っている真理をあぶり出しているように見えた。  一旦は失墜した主人公の言葉に群がり陶酔する大衆の眼差しを映し出すラストシーンは、人間のその愚かしい真理を如実に見せつけられているようで、思わず目を背けたくなった。   このあまりに荒削りで猛々しい映画が、71歳の大巨匠の最新作であることには驚きを越えて唖然としてしまう。 マーティン・スコセッシという生ける伝説は、映画監督という表現者の極みすらも通り越し、若返っているように思えてならない。  そして最後に言及しておかなければならないのは、勿論主演俳優レオナルド・ディカプリオ。 もはやハリウッドの頂点と言って過言ではないこの俳優が“汚れられる”ようになって久しいが、今作での汚れっぷりは尋常ではなく、どこまでも滑稽で、どこまでも凄まじい。 彼のキャリアはまだこれからも長く長く続くだろうが、このジョーダン・ベルフォート役が現時点での集大成であることは間違いない。  ともあれ、ジョーダン・ベルフォートという人物が最低最悪のクソ野郎であることは、最も間違いないことだけれど。
[映画館(字幕)] 9点(2014-02-11 13:54:28)(良:1票)
4.  ウォーリー
「無機質」に魂を吹き込む。それがまさにアニメーションだと思う。 そのアニメにおける核心を、どれほどに映像技術が進歩したとしても忘れず、クリエイトし続けることが、ディズニー映画の偉大さであり、普遍的なエンターテイメント性だと思う。  荒涼と朽ち果てた地球で動き続ける無機質な掃除ロボットに対し、みるみるうちに感情を覚え移入していった。 キャラクターをいたずらに擬人化せず、あくまで“ロボット”であることに固執した設定が、これまでにない愛すべきキャラクター性を生んでいると思う。  某日本のアニメーション監督の作品では、必要以上に複雑な世界観の中で、精巧なアンドロイドが人間と同じ様に感情揺れ動く様が描かれていた。 しかしながら、いくら観ても感動を覚えない。 一方、言葉もろくに発することが出来ない作業用ロボットのアドベンチャーとシンプルな「想い」には、涙が溢れる。  つくづく、人間が感動するということは、与えられるものではないと思う。 たとえ稚拙なストーリーやキャラクターであっても、そこに観る側本人が入り込めるスペースがあって、登場するキャラクター達と同じ感情を持てるということ。 そういうことだと思う。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2009-10-17 12:50:28)(良:4票)
5.  運命じゃない人 《ネタバレ》 
とことん不器用で呑気でいいやつなサラリーマン宮田くんの周囲で、“実は”巻き起こっていたある一夜の騒動を巧みな構成で描く“タイム・スパイラル・コメディ”。  むむむ、巧い!ずばり、見事! と、絡み合ったストーリーのパズルが次々に解かれていく様を目の当たりにして、自らの感情を口走ってしまった。こういう「巧い映画」を観ると、よくそういう風になる。  時間軸を巧みにずらして、効果的にストーリーの全貌を見せていくというアイデアを礎にした映画は、「パルプ・フィクション」以降各国で作られているが、ついに日本でも本家に勝るとも劣らない(とは言い過ぎかもしれないが)傑作が誕生した。と、思う。  ストーリーの軸に「大金」が存在するというのは、このタイプの映画の“定石”とも言える要素で、今作においてもその要素は存在するのだが、この映画が素晴らしいのは、最終的に登場人物たちが得るものが「金」ではないということだ。 そして、主人公は、端から終わりまで「大金」の存在すら知らないままであるということ。 それはすなわち、この映画の描く主題が、他国の娯楽映画のように“一獲千金”的なことではなく、呑気な主人公を軸とする“人と人との繋がり”であり、詰まるところ“人の感情”ということを意味する。  そのことが、この手のアイデアによる他の映画とは一線を画すような、今作ならではの“なんだか温かい”余韻を生み出していると思う。  娯楽性と同時に、人の感情を“さりげなく”描き出す素晴らしい映画だと思う。
[DVD(字幕)] 9点(2006-09-15 16:22:11)(良:4票)
6.  宇宙戦争(2005) 《ネタバレ》 
もしかしたら賛否が大きく分かれるのかもしれない。が、この映画は圧倒的に“賛”である。まさに絶望的なまでの侵略者の脅威に対し、すべての人類は成す術が無い。そうこれは“戦争”などではなく、一方的な“駆除”なのだ。そのままに一人残らず滅亡するのが真のリアリティかもしれないが、それでは物語にならない。そうして導き出された結末は、人類の勝利ではなく、地球上の一生物として生かされた人類の姿である。この顛末は、序盤からの脅威的な侵略に対しあまりに“あっさり”しているように感じるかもしれない。しかしそうではない。ただひたすらに逃げ惑うだけの人類たちのその同じ場所で、いつもと同じように繰り広げられる生命体たちの活動によって、人類は生かされたのだ。実にシンプルで起伏に富んだ発想の転換、これぞScience Fictionの名にふさわしい。スピルバーグは、映像に対する絶大な創造力をもって、この古き名作をリメイクしてみせた。
[映画館(字幕)] 9点(2005-06-29 17:54:07)(良:2票)
7.  Winny
ある時、TikTokのフィードに流れてきたショート動画で、「金子勇」という天才プログラマーの存在を知った。それは本当につい先日のことで、恥ずかしながら私はその時までこの人物のことをまるで知らなかったし、彼が生み出した「Winny」というソフトウェアがもたらした功罪を、まったく理解していなかった。 この一個人の「無知」と「無関心」も、本作で描き出される“不世出の天才プログラマー”の運命を狂わせた一因なのではないかと、映画を観終えて数日経った今、思いを巡らせる。  本作は、ある理由もあり、ことさらに自分自身の無知と無関心に対して、痛烈に突き刺さる作品だった。  本作では主人公である金子勇氏の「Winny事件」と並行して、同時期に発覚した愛媛県警の裏金問題と、その告発者となった現職警官の苦悩が描かれている。 ちょうどこの時代に、私は地元(愛媛県)の放送局でカメラアシスタントのアルバイトをしていて、本作で吉岡秀隆が演じた警察官・仙波敏郎氏の自宅での取材に同行したことがあった。 そして、取材を担当していた記者やカメラマンの無責任な陰口を聞きつつも、特に何の感情も持たずに、仏壇に線香をあげる現職警官の厳つい横顔を見ていた自分自身の姿がフラッシュバックと共に蘇った。  そう、本作で描かれた事件の一端は、まさに自分の目の前でも繰り広げられていたのだ。 もっと言えば、私自身、Winnyそのものではなかったと思うが、類似するファイル交換ソフトを興味本位で利用して映像や音楽のダウンロードを試してみたこともある。 何が言いたいのかというと、無自覚で無知な大衆の一人であった私は、自分が目の当たりにしている物事の本質を何も分かっていなくて、それを理解しようともせず、ただ漠然と事件を眺めていたのだ。  無論、当時20代前半のフリーターだった私が、何ができた、こうすべきだったとおこがましいことを言うつもりはない。ただ、これらの事件に対する世間のスタンスは、学歴や職種、ステータスに関係なく、ほぼ同じようなものだったのではないかと思う。つまり、社会全体が、無知で無関心だったのだ。  “事件”に対して、大衆の一人ひとりが無知を恐れずに、ソフトウェア開発の本質をもっと正しく理解しようとして、自分たちの社会にとって何が有益で、何が不利益なのかということをもっと積極的に関心を示していたとしたら、国家権力による一方的な横暴は結果的に起こり得なかったのではないか。  劇中、主人公本人の台詞の中でも表現されていたが、時代に対して、このソフトウェアの開発が早すぎたのか、遅すぎたのか。もしくは、日本の社会そのものがあまりにも“時代遅れ”だったのか。 今この瞬間も、「捏造」という言葉があいも変わらず飛び交い、そのあまりにも酷い体たらくぶりに辟易してしまうこの国のあり方に対して、この映画が提示する批評性は、辛辣に突き刺さる意義深いものだったと思う。  アメリカなどでは、こういう現実社会の事件を取り扱った作品は極めて豊富で、何か題材となり得る事件が 起きたならば間髪入れずに映画化してしまうけれど、日本映画でこの手の作品が、しっかりと娯楽性を保ちながら製作されたことは稀だし、とても喜ばしい。  主演の東出昌大は、実在の天才プログラマーを見事に演じきっていたと思う。 裁判中でありながら、溢れ出るアイデアのあまりプログラミングに没頭してしまう主人公の姿は、ソフトウェア開発者としての彼の純粋な姿を雄弁に表していた。 だからこそ、その貴重な時間と機会を奪ってしまったこの事件の顛末は、何も体質が変わっていない社会に対して改めて重くのしかかる。
[映画館(邦画)] 8点(2023-04-07 23:33:20)
8.  ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ 《ネタバレ》 
中盤、主人公のエディと“彼に居候”するヴェノムが殴り合い罵り合いの大喧嘩を繰り広げる。 ヴェノムは部屋を半壊させた挙げ句、エディが大切にしていたテレビとオートバイをこれ見よがしに破壊して、なんとエディの体から出ていってしまう。 寄生生物が宿主の体から怒り任せに“家出”してしまうという“反則技”。 ただ、このシークエンスこそが、今作において実はハイライトであり、今作が前作に対して大きく進化したポイントだった。  前作は、マーベル・コミックの中でも人気の高いスーパーヴィランでありダークヒーローでもあるヴェノムを、ファンも納得のビジュアルとキャラクター性で映し出していたとは思う。 主人公エディとヴェノムの両方を演じたトム・ハーディのキャスティングもナイスだった。  ただし、前作には看過できない大きな欠落要素があった。 それは、エディとヴェノムの間に生じてほしかった“キャッキャ感”だ。 主人公の体に無理やり寄生(居候)し、文字通り一人芝居の丁々発止の掛け合いを繰り広げながら、危機に打ち勝っていく。 このダークヒーローの映画化に当たって最も重要な娯楽要素はその部分であり、前作ではそれが無かったとは言わないが、圧倒的に物足りなかった。  前作は新ヒーローの誕生を描く一作目ということもあり、諸々の設定や説明描写に尺を割かざるを得なかったという限界もあっただろう。 だが、続編である今作は、そういった説明的描写はすっとばして、すっかり“共同生活”にも慣れた二人の息のあった掛け合いを序盤から見せてくれていた。  映像技術を駆使した“二人羽織”のようなキャラクターを体現したトム・ハーディのパフォーマンスは前作に引き続き良かった。トム・ハーディは脚本にも参加しているとのことなので、この作品、このキャラクターへの愛着が、鑑賞者にとっても愛すべきキャラクター像として昇華されていたと思う。  そして、監督を務めたアンディ・サーキス。 モーションアクターとして2000年代から現在に至るまで数々のキャラクターを表現し続けてきたこの特異な俳優は、今作で監督としても見事な手腕を発揮している。 撮影開始時の掛け声からも明らかなように、映画監督の仕事において、最も重要なことは、俳優に“アクション”を付けるということだろう。 そのためには、人間がどういう風に動き、そしてどういう風に見えるのかということを熟知していなければならず、その点において、数々の映画で人間のみならず多種多様な生物を演じ続けてきたアンディ・サーキスが秀でていることは明らかだ。 エディ+ヴェノムという特異なキャラクターが、前作にも増して愛着あふれるキャラクターに進化した背景には、そういう監督の適性も如実に反映されていると思う。   俳優とキャラクター、そしてキャラクターと監督、諸々の要素がフィットし、高められ、求めるべき娯楽性に特化した今作は、問答無用に楽しい映画に仕上がっていると想う。 ストーリー的にも、キャラクター的にもまだまだ深まるであろうシンクロ率が、このシリーズのエンターテイメント力を高めていくことは間違いない。 そして、ついには、次元とメタ的なしがらみを超えたあの“隣人”とのクロスオーバー。そりゃワクワクが止まらんよ。
[映画館(字幕)] 8点(2021-12-20 22:31:08)
9.  ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ
盛夏が過ぎて一気に秋めいてきた夜半、“ヒッチコックライク”なサスペンススリラーに興じる。 例によってコロナ禍の影響で劇場公開中止を余儀なくされた結果、Netflix配信となった今作は、中々掘り出し物的な良作だった。少なくとも秋の夜長のひとときを充分に満たしてくれる作品だったと思う。  前述の通り、サスペンス映画の帝王アルフレッド・ヒッチコックの幾つかの名作(「裏窓」「めまい」「サイコ」...etc)を統合して、現代版にリメイクしたような映画だった。 舞台となるマンハッタンのしなびた高級住宅街の雰囲気も相まって、現代の設定ではありつつも、時に「怪奇映画」や「恐怖映画」と敢えて呼称したくなるようなクラシカルかつアバンギャルドな映画世界が個人的には好みで、秀逸だったと思う。  極めて古典的で懐古的な映画手法やストーリーテリングを全面的に押し出しつつも、随所に斬新で挑発的なカットも挟み込んでおり、そういう映画づくりにおける意欲的な部分も含めて“ヒッチコックライク”だと言えよう。  主演のエイミー・アダムスは大好きな女優の一人だが、明らかに虚ろな瞳や、見るからに不健康でくたびれた体つきも含めて、“病める女性”を内外含めた全方向的に体現して見せており、実力派女優としてのレベルの高さを遺憾なく発揮している。 少ない登場シーンながら、物語のキーとなる女性を演じたジュリアン・ムーアの存在感も言わずもがな抜群だった。 (“別人”として登場する女優の絶妙な不気味さも最高だった) 「女優」という要素が、映画を彩る娯楽の中心にあることもまたヒッチコック映画を彷彿とさせる点だろう。  今作では、作為的に、映し出されるシーンの「時間帯」が即座に判別できないように演出されている。 物語全体が一週間の出来事として曜日のテロップは都度入るものの、主人公が薬と酒の影響で終始微睡んでいるような状態も重なって、「今」が一体いつなのかわけが分からなくなる。 その不安定さと曖昧さにより、主人公の精神状態同様に観客の意識もグラグラと揺らぎ、まさしく本来の意味通りの“サスペンス”を生み出していたと思える。  おそらく、気づいていない描写においても、様々な“仕掛け”が散りばめられているのであろう。 巧みなミスリードや数多くの伏線回収も含めて、良い意味で“混濁”した見応えのあるサスペンス・スリラーだった。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-09-26 22:39:12)(良:1票)
10.  美しい星
ぶっ飛んでいる。 この理解と賛否が分かれることは間違いない映画が、大都市のみならず、地方都市のシネコンにまでかかっていることが、先ず異例だろう。 「桐島、部活やめるってよ」、「紙の月」と立て続けに日本映画史に残るであろう傑作を連発した吉田大八監督の最新作というブランド力が高騰していることが如実に伺える。 そして、その高騰ぶりにまったく萎縮すること無く、この監督は過去のフィルモグラフィーを振り返っても随一にヘンテコリンな映画を作り上げている。無論褒めている。 (亀梨くんの出演のみを目的にした女性客などは大層面食らったことだろう)  三島由紀夫の原作は未読だけれど、あの稀代の小説家が健在の時代であったとしても、たぶん同じように時代を超越したエネルギーに満ち溢れた映画が作られただろうと思う。 そういう意味では、同じく三島由紀夫が江戸川乱歩の小説を戯曲化した「黒蜥蜴」の映画化作品も彷彿とさせる。 即ち、この映画の在り方はまったく正しく、吉田大八監督はまたしても原作小説を見事な“新解釈”を多分に盛り込みつつ素晴らしい映画世界を構築してみせたのだと思う。  この映画は、冒頭から最後の最後まで、SFと幻想の境界線を絶妙なバランス感覚で渡りきる。 そのバランスの中心に描かれるのは、人間の営みの中に巣食う可笑しさと、表裏一体に存在する恐ろしさと愚かさ。 その時に暴力的で破滅的ですらある「滑稽」が、ありふれた一つの「家族」に描きつけられる。  終始、可笑しくて、笑いが止まらない。 ただ、だからこそ、この世界の危うさの核心を鷲掴みにされているような痛さとおぞましさも感じ続けなければならなかった。  人間社会の滅亡を開始する“ボタン”は空洞だった。 人類は許されたのか?勿論、違う。 謎の宇宙人がその強大な力を振るうまでもなく、人類は勝手に滅亡に向けて突き進んでいる。 “ボタン”など端から必要なかったのだ。  優しい火星人が「美しい星だ」と名残惜しんでくれているうちに、なんとかしなければ。
[映画館(邦画)] 8点(2017-06-03 23:30:52)
11.  ヴィジット
とても奇妙な映画だった。 「微妙」と「絶妙」の狭間に存在する一線をひたすらに渡らされるような、とても意地悪な映画だったとも言える。 渡りきったその先でしばし立ち尽くしつつ、「ああ、シャマラン映画ってこういうのだったな」と思い出す。  果たして、僕はこの映画が面白かったのか、つまらなかったのか。 それすらも釈然としないまま、寝床に入り、ふと昔を思い出した。  幼いころ、妹と一緒に母方の祖父母の家によく泊まりに行った。 こう言うと、母は気を悪くするだろうが、今思い返してみると、その祖父母の家はとても粗末で随分と古かった。 頻繁に泊まりに行っていたが、それは自分たちが望んで行っていたのか、母の何かしらの都合であずけられていたのか、いまいちよく思い出せない。 小さな家だったが、幼い僕にとっては何だか踏み込みづらい領域がいくつかあって、好奇心と一抹の恐怖感を同時に感じていた記憶がある。  居間の奥の部屋はいつも戸が閉まっていて禁断区域のような雰囲気があった。 祖父が陣取る座椅子の後ろのふすまの中には戦艦のプラモデルが隠してあった。 寝室は古いマットレスが部屋いっぱいに敷かれていて窓がなく一日中暗かった。 トイレは汲み取り式でしょっちゅう腹痛になる僕には殊更苦痛だった。  祖父母は優しくて、好きだった。 たぶん、当時は自分たちが率先して泊まりに行っていたのだろう。 けれど、今記憶に残るあの家に一晩泊まれるかというと、正直きつい。  この映画は、奇怪な言動を見せる祖父母の家に迷い込んだ“ヘンゼルとグレーテル”の一週間を恐怖感たっぷりに描き出しているけれど、真に伝えたい事は彼らの恐怖体験そのものではなくて、姉と弟それぞれが抱えた記憶と精神との葛藤だった。 白く暗い雪の中で織りなされる不安と恐怖の連続。 こうなのかな?と想像した展開が、この監督独特の意地悪なミスリードによってはぐらかされていく。 そして、本当に対面しなければならない事象に知らず知らずのうちに導かれていくのだった。  結局のところ、面白い映画だったのかどうか、よくわからない。 ただし、独特の毒々しい味わいがじわりじわりと脳裏に染み渡ってくる。 作品としての好き嫌いは別にして、M・ナイト・シャマランの映画はこうでないと。
[DVD(字幕)] 8点(2016-04-30 00:42:05)(良:1票)
12.  ヴァンパイア(2011) 《ネタバレ》 
「これはあなたの夢?」  “ヴァンパイア”の、おそらくは最初の“献身者”となった女の最期の一言。  この映画の主人公である“ヴァンパイア”の「彼」にとって、“血液を啜る”という行為の意味は、果たして何だったのだろうか。 心の隙間を埋めるための一種の趣向だったのか、行き場を失った孤独を癒す“温もり”を感じるための唯一の手段だったのか。  結果として、繊細で優しい殺人鬼と化した主人公の得た結末は、幸福だったのか、不幸だったのか。  ラスト、己の業が明るみに曝された主人公は、思わず逃避に駆られる。 どこまでも逃げようとするけれど、その足は次第に宙空に浮き、無情にから回る。  それはおそらく、彼の深淵なる“夢”の終わりの時だったのだと思う。  孤独の淵に立たされた主人公が、妄信的に辿り着いた“ヴァンパイア”という生き方。 物語の吸血鬼のように、己の存在が「永遠」でないことは、他の誰よりも本人がよく知っていたことだろう。  「血は命そのものだ」と、“ヴァンパイア”は語る。 「血」を追い求めた彼の姿は、「生」を渇望する弱々しくも必死な、人間という生物そのものの本質的な在り方に見えた。   「花とアリス」以来8年ぶりとなる岩井俊二監督の長編映画。勿論、映画館で鑑賞したかったけれど、地方都市住まいの悲しさにより叶わず……。 とうにレンタル開始はされていたけれど、万全のタイミングを探るべく、日々が過ぎ去った。結局、劇場公開から10ヶ月近く経過した今ようやく鑑賞。   淡々と、空気を呑み込むような、あまりに美しい映像世界。 独創的な世界観は、人によっては独善的で独りよがりに映るのかもしれない。  でも、僕にとってそれは、十代後半で初めて触れ、心の底から愛した映画世界そのものだった。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2013-06-30 02:04:14)
13.  宇宙人ポール
昨年「SUPER8」を観た時に、作品としての完成度には不満を持ちつつも、溢れる“映画愛”に対して無下に否定することが出来なかったことが思い出された。 あの映画と今作は、映画としての立ち位置はまったく違うように見えるけれど、本質的な“理念”はむしろ全く同じと言っていい。 即ち、かつて世界中が熱狂し愛したスティーブン・スピルバーグをはじめとする偉大な映画監督たちが生み出した数々のアメリカ娯楽映画に対する「敬愛」。まさにその一言に尽きる。  ただ、今作が「SUPER8」と少し違うところは、そんな理屈抜きにして問答無用に面白い映画であるということだ。 往年の娯楽映画に対するオマージュに溢れてはいるが、そんなものはあくまで“おまけ”であり、きっと誰が観たって「面白い!」そういう映画としてきっちりと成立している。それが、「娯楽映画」として最も素晴らしいことであることは言うまでもない。  英国の“ボンクラオタク男子”の二人組が、憧れのアメリカ旅行中に宇宙人に遭遇する。紆余曲折を経つつ意気投合し、宇宙人の彼を仲間の元へ送り届ける。 実際ただそれだけの話である。ただそれだけの話が極上の「娯楽」になる、だからこそ映画は素晴らしいのだということを、この映画は再確認させてくれる。  何と言っても、宇宙人“ポール”の存在感が凄い。 実写映画の中の一キャラクターをフルCGで描き出すという試み自体はもはや珍しくもない。 しかし、そこに娯楽映画の主人公に相応しい愛着と、周囲のキャラクターと同様に息づく存在感を持ち合わさせることは、並大抵のことではない。 決して仰々しくなく、さりげなく描き出されているように見えるが、このクオリティーの高さは「凄い」としか言いようがなく、それを生み出しているものこそが、製作スタッフの紛れも無い「映画愛」に他ならないと思えた。  最高に楽しくて良い映画だったと思う。ただし、惜しむらくは自分自身が“SF映画オタク”になりきれていないこと。 前述の通り、過去の名作SF映画を観ていなくても存分に楽しめる映画であることは間違いない。 しかし、オタクだったならばもっともっとはしゃげたんだろうと思うことも事実。 「ああ、これは何かの映画のオマージュなんだろうな」と気付きはするが、それが何なのか明確にならない悔しさは随所で感じてしまった。  とりあえず「未知との遭遇」は早急に観よう。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2012-07-14 22:54:32)(良:3票)
14.  ウルフマン(2010) 《ネタバレ》 
「狼男?今更?」 という第一印象を持ち、その今更感たっぷりの作品に、ベニ・チオ・デルトロとアンソニー・ホプキンスの濃ゆ過ぎるキャスティングの意味と価値は何なのか?という疑問を持った。  そんな疑問符だらけの印象だったので、映画館で観るつもりはなかった。 しかし、所用で早起きした日曜日の午前中、ぽっかりと空いた時間に映画館に行くと、観たかったアカデミー賞絡みの作品はことごとく午後からの上映スケジュールとなっていて、唯一時間が合ったのが今作だった。  「まあ、これも巡り合わせか」と思い、諦めて鑑賞に至った。 (ただし、その反面「もしかすると……」という淡い期待が無かったわけではない)  映画は、予定調和に終始した。 薄暗いオールドイングランド、妖しく荒れ果てた大屋敷、尊大で謎を秘めた領主、満月の夜の惨劇、闇夜を疾走する怪物、主人公に訪れる悲劇…………。  ベニ・チオ・デルトロの疑心暗鬼な表情から、アンソニー・ホプキンスの溢れる異常性まで、すべてがいわゆる”お約束”の中で展開される。 そのベタベタな展開に対して冒頭は呆れる。しかし、次第にその展開の性質は、突き詰められた「王道」に対する美学へと転じていく。  用意されたストーリーに衝撃性はまったく無いと言っていい。ただ恐怖シーンでは約束通りに恐怖感が煽り立てられ、感情が揺さぶられる。  つまりは、観ている者の恐怖感や驚きまでもが、予定調和の中にしっかりと組み込まれているということだと思う。  「狼男」の映画として、「良い意味で裏切られた」なんて思う部分は一切無い。「まさに狼男の映画だ」と言うべき映画だ。 よくよく考えてみれば、「今更狼男?」と思う反面、実際はまともに「狼男映画」なんて観たことがないということに気づいた。  この映画は、「狼男」という大定番のモンスターの本質をしっかりと描き、“ゴシック・ホラー”を見事に蘇らせた意外な程に堅実な良作だと思う。   P.S.見所はやっぱり“変身”シーン。 単に毛深くなったり、爪や牙が伸びるといった安直なものではなく、「骨格」が生々しく転じていく様がインパクトがあって良い。 タダでさえ濃いデルトロやホプキンスがそうなるので、衝撃は殊更。  ストーリーに驚きがない分、逆に何度も観たくなる。そういう面白味に溢れた作品だ。
[映画館(字幕)] 8点(2010-04-26 23:55:26)(良:2票)
15.  ウォンテッド(2008)
この映画は、 「弾丸と弾丸がぶつかって弾けるまでの弾道を追った映像が見たい」だとか、 「弾道を自在に操って芸術的な曲線を描かせたい」とか、 そういうビジュアルに対する妄想を「実現」させようというコンセプトのみで作られた映画で、それ以上のものもなければ、それ以下のものもない。  詰まりは、コレはコレできっぱり「完成」していると言える映画だ。と、思う。  「映画」が、音と光で構築されている以上、確実な目論見をもってして作り込まれた映像世界前にしたならば、少々ストーリーがチープであろうが、整合性に欠けていようが、それはそれとして評価しなければならないと思うのだ。  すなわち、存在そのものがマンガ的に妖艶なアンジェリーナ・ジョリーが、訳も分からない主人公を強引に引き連れて、大暴走を繰り広げる冒頭の時点で、この映画の価値は確定している。  どうも回りくどくなってしまったけど、要するに「こういう映画は、嫌いじゃないよ」ということ。
[映画館(字幕)] 8点(2008-09-23 01:01:02)(良:1票)
16.  海猿 ウミザル
教え子たちの無事を確認し、藤竜也演じる鬼教官は自らの制帽を目深に引き唇を噛み締める。 描写として実にありふれたシーンではあるけれど、しっかりと感動を生んでいる。 それはこの映画が、「生還」という感動に対しての“裏付け”をちゃんと描いているからだ。 即ち「死」である。「生還」に対しての「死」をもらすこと無く描いているからこそ、ありふれたシーンやお決まりとも思える展開に感動できるのだと思う。  劇場版としては第4作目となる最新作が封切られたばかりなので観ていないが、第2作、第3作において明らかに不足していたのは、「生」と隣り合わせで存在する「死」の存在感だと、この第1作目を観て思い知った。 死と常に隣り合わせの仕事に従事する男たちの姿を描く上で、その死自体の存在性が希薄になってしまっていることが、後の2作品に今ひとつ説得力を感じない理由であり、映画全体が希薄になってしまっている最たる要因なのだろう。 ちなみに、今作の後のテレビシリーズ「海猿 UMIZARU EVOLUTION」では、仲村トオル演じる主要キャラクターの死を描き、現実の悲壮感を加味できていたと思う。  そんなわけで、劇場版第3作目「THE LAST MESSAGE 海猿」を観た直後に今作を鑑賞し直してみると、初見時よりも遥かに良い映画に思えた。 「王道」というよりも“ありきたり”な映画であるということは否定しないが、潜水士訓練生たちの青春劇が瑞々しく熱く描かれている。 「若さ」という熱気と未熟さをバランスよく配置し、その中に前述の通り厳しい現実感も含まれており、映画としての善し悪しは別として充分に“好きになれる”映画だと思えた。
[DVD(邦画)] 8点(2005-07-25 00:02:54)
17.  ウォーターボーイズ
この映画に描かれる世代から数年歳をとってしまった私にとっては、とても瑞々しくその若さがとても羨ましい。とても楽しい映画だったが、そのまぶしさに胸が締め付けられそうになった。いいよ…ほんとに。
[映画館(邦画)] 8点(2003-12-20 13:59:07)
18.  海の上のピアニスト
同監督作品の「ニューシネマパラダイス」と比べると、感動作という気概が全面に強い気はするが、結果的に感動的なのだから問題はない。ぎりぎりのところで結局船を降りなれなかった主人公の姿に人間心理の奥深さを感じる。あまりに奇想天外な物語でドラマとしてリアリティがあるわけではないが、良い意味で映画らしい物語が秀逸だった。主演を勤めたティム・ロスの素晴らしい演技にも注目したい。
8点(2003-11-29 02:09:28)
19.  打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?(1993)<TVM>
9月1日のレイトショーで、最新作のアニメリメイク版を観た。 映画づくり自体に対する志の低さと価値観の相容れなさが際立ち、全く受け入れることが出来なかった。 帰路、夏が終わった翌日の冷ややかな空気が、体と心にしみた。 あの二十数年前の、奥菜恵が忍び込んだプールの消えた水平線の光が、遠く懐かしくて仕方なかった。  そして、その足でTSUTAYAに直行したのだけれど、残念ながら訪れた店舗にはこのオリジナル版の在庫すらなく、渋々帰宅。 ただ今の時代は便利なもの。サクッと調べたら某動画配信サービスで配信されていることを確認。ユーザー登録はしていなかったが、取り急ぎ試用期間の申込みをして無事に再鑑賞に至った。  アニメリメイク版によってもたらされたフラストレーションは、みるみるうちに霧散していった。 やはり圧倒的だった。  二十数年前のテレビドラマシリーズの一篇が派生して劇場公開された“テレビ映画”である。 決して映画的なクオリティが高いわけではなく、子役たちの演技も不器用で気恥ずかしい。 でも、その不完全さこそが、この作品の本質であり、あまりにも愛おしい。   「こんど会えるの二学期だね 楽しみだね」  一時の冒険を経て、少女は同級生の少年に対して言い残す。 秘密を抱えたまま、彼女は忍び込んだプールの水平線の光の中に消えていく。 答えや結論やその後の顛末なんて必要ない。 少年にとって、あの瞬間こそが永遠なんだ。
[ビデオ(邦画)] 8点(2003-11-25 15:12:01)
20.  失われた週末
アルコール依存症の男が、“酒”を求めて彷徨い歩く。詰まるところ、ただそれだけの映画ではある。 がしかし、そこには「依存性」の恐ろしさを初めて映画全編に表し、描ききった映画史的な価値と、男が“酒を飲めるか、飲めないか”という至極シンプルな焦点のみで、サスペンスとして成立させてみせた巨匠ビリー・ワイルダーの手腕が冴え渡っている。  今でこそ、「アルコール依存症」という言葉自体があまりにも一般的な言葉となり、数多の映画の中においても、キャラクター造形のありふれた要素として描かれているが、あらゆる表現が「ヘイズ・コード」によって自主規制されていたこの時代のハリウッドにおいて、「依存性」の本質を描き出すこと自体が非常にチャレンジングだったようだ。 必然的に各方面からの“圧力”も大きかったようだが、それらをかわし、れっきとした娯楽映画として撮り上げ、その年のアカデミー賞の主要部門を総なめしてしまっているのだから、ビリー・ワイルダーという映画人の底知れぬ力量を時代を超えて感じずにはいられない。  物語の序盤は、甲斐甲斐しく気にかけてくれる恋人や兄の監視の目をくぐり抜けてなんとか酒にありつこうとする主人公の様をユーモラスに見ていられる。 だが、時間が経過するにつれ、徐々にアルコール依存症の男が抱える本質的な“心の闇”が、彼の表情や言動に如実に表れてくる。 コメディ要素の強かった作品の空気感が、つまびらかになる主人公の正体と共に、怖いサスペンスに転じていく。  赤ワインを傍らに鑑賞を始め、だんだんと他人事ではない戒めに神妙な面持ちを携えた或る週末の夜だった。
[インターネット(字幕)] 7点(2017-09-04 22:23:12)
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