1. 映画 聲の形
《ネタバレ》 妻投稿■■■■■■この映画を見て思ったことは「あの植野ってアマを殴りてぇ」という事だ。勿論グーでだ。物事の騒動はほとんどこいつのせいだ。こいつは自分の願望を叶えたいばかりに他人を偽善者として見下し、自分勝手な理由で相手に罪悪感を感じさせ、被害者意識丸出して喋っているうちに熱くなって暴力を振るう。(抵抗できないという意味での)弱い人間を洗脳して支配するタイプだ。将来はあのメガネの担任みたいな奴になるんだろうな。■■■■■■■■じゃあなんで彼女は殴られないのか。リアリティーの為か? いや、この映画でのリアルは手段であって価値ではないはずだ。リアルが価値ならば成立しない場面がいくつもある。■■■■■■■■■■■■この物語は障害者の物語ではなく、「いじめをしていた」「いじめを黙認していた」「いじめから逃げた」「いじめを自己肯定している」人間の物語だ。この映画ではいじめの中心人物だったヤショウが一番まともに見える。その行動が自己救済を動機にしていたとしても(これは「いじめてたのは自分だけだ」という言い訳にも現れており、監督はあえてそれを隠していない)、そもそもいじめに死ぬほどの罪悪感があるからこそ自己救済が必要なわけであって、結果的に少しずつ被害者や家族から許されていく。対してその救済を邪魔しているのは、そもそも罪悪感も償いの意思も持たない連中だ。その連中の醜さが作中ではさりげなく、それでいて確実に表現されている。■■■■■■■■■■花火大会の最中、彼女が自殺しようとしてヤショーが落ちるシークエンス。SF作家の山本弘はブログで「強引」と言っていたが、私はあれを見てランス・フォー・トリアーを思い出した。あれは硝子の激情だったに違いない。西宮硝子が目を見開いて夜の橋へ走り出し号泣したとき、彼女は小学生の時のヤショーのような激情で彼を殺してしまった事に泣いたのだ(いとさんが死んだ時の妹のと全く同じシークエンス。あの時ヤショウは死んだのだと思う)。目の前に将が現れたのは彼女の幻想だったに違いない。そして彼が回復して学校で全てに許されるのは、彼の死後の物語に違いない(そう確信したのは、マリアの台詞と同時期にDVDで見た「心が叫びたがっているんだ」との比較)。■■■■■■■■■■■■いじめていた連中は結局最後までそれを悔やまず、自分たちは「許す立場」にあると思っている。彼らが制裁を受けたり悔やんで光落ちする描写はない。その恐ろしさこそ「いじめをしたり黙認したりした」観客へのメッセージだ。ラストはヤショーの幻想であり、いじめっ子だった観客の幻想である。 [映画館(邦画)] 9点(2016-10-22 00:53:37)(良:1票) |
2. 映画 けいおん!
《ネタバレ》 妻投稿(原作未読、アニメは映画が終わった後で見始めた。さらに私は中卒で「女子高生」なるものも未経験)■「冷たい熱帯魚」やら「闇の子供たち」やら「シティ・オブ・ゴッド」を見て映画と人生、「人間の闇」を知った気になっている私。見事に撃沈されました。こういう「何も起こらない」「ほのぼの日常描写」って「オタク向け」だとか「現実逃避」だとかって言われるんだろうけど、よく見るとどうして彼女たちがここまで仲がいいのかがわかります。それはお互いに思いやりがあって下らないことで他者を軽蔑しなくて、とにかく人間としての器が大きいから、映画としては多分つまらない部類に入るストーリー展開でみんなここまで一生懸命で楽しそうにしていて、だから実際見ている自分も楽しくなるんじゃないかと思いました(故に映画の中でクレヨンしんちゃん映画みたいに「非日常」が起こっても彼女たちは乗り越えていけると思う、それだけ素晴らしい女子高生だと思うので、第2作は劇しん原恵一版みたいなバージョン強求)。■ラストの後輩の女の子に歌う歌は、うちでみんなで育てている今5歳の女の子の結婚式で流れようものなら涙がナイヤガラすると思う歌でした。海外旅行、自分たちが学園と言う世界から消滅しないといけないとき、後輩に対して、というよりたった一人残される妹みたいな存在に何をしてやれるか。これって日常的ながらも10代の女の子にとっては滅茶苦茶重大な問題じゃないですか(*^_^*)ストーリーを突飛にすれば映画が面白くなると言って設定負けしている映画が多い中、この映画はちゃんと冒険、冒険に対する独特のキャラの独特の態度、友情、感動は全部良質で、全部しっかり観客に届けている。だから余計に第2作は劇しんちゃんみたいな恐慌状態の中で、彼女たちのきずなを再確認できる映画を見たい。 [映画館(邦画)] 8点(2011-12-05 23:08:14)(良:5票) |
3. エビータ(1996)
《ネタバレ》 妻投稿■エバと聞いてヒトラーと一緒に自殺した奥さんの話かと思いましたが、実際はアルゼンチンの大統領夫人のお話。尻の軽い女で偽善者、列車からカネをばらまくシーンなんてなんていやな女なんだろうと思いましたが(さらに言えばそういう嫌な女の部分が私およびおそらく女性なら誰でもあるから始末に負えない)、何で彼女がこんなにアルゼンチンで人気なのかと考えてみたら、最後の方の病床のエバの顔を見てなんとなくわかりました。彼女はアルゼンチン全体が見たショーの主演女優だったのですが、彼女自身も「アルゼンチン」という舞台演劇のたった1人の観客だったのだと思います。死の直前のエバの顔は、今までの腹黒偽善女ではなく、映画が終わった後の焦燥感の中にいる(彼女がかつて叩きだしたのような)思春期の少女そのものだったんです。33年というのは上映時間としては短かったかもしれませんが、富、名声、愛というものがどんなものか、十分彼女(そして彼女を視点を借りた私たち)に伝わった映画だったのではないでしょうか。私は人生の目的なんてものがあるとは思えませんが、仮にそれが間違いならば、人生の目的とは富でも名声でも愛ですらなく、一生懸命生きる事そのものなのかもしれません。■余談だけど、私が映画を見る限り、エバが民衆を扇動したと言うよりも、民衆がエバを良い気にさせて扇動した気がするのですが。民衆たちの「ペロンペロン」というフレーズには、こっちの方も映画見ながら舐めていたべっこう飴を舐めつくさなければいけない気にさせてくれましたしね(笑) エバの傲慢さよりもこっちの方が問題があると思います。 [ビデオ(字幕)] 8点(2011-01-19 23:40:55) |
4. 映画 忍たま乱太郎(1996)
妻投稿■乱太郎にしては結構シリアスなシーンあり(人が撃たれるとか)。ギャグ漫画ほど映画化の際シリアスなシーンが際立つ。 [地上波(吹替)] 6点(2010-04-26 10:27:03) |
5. es[エス](2001)
《ネタバレ》 妻投稿■ドイツ連邦共和国では「民主主義を否定する民主主義は認めない」政策のもとで、ヒトラーとかホロコーストとかそういうものを描くことが禁止されているけど(ヒトラーが役者で演じられた「ヒトラー最期の12日間」も公開できるか否か非常に議論された)、基本的には自由の国なので「間接表現」という形でホロコーストの狂気を描く秀逸な作品が表わされたりするが、この映画もその一つではないかと思う。旧戦勝国のアメリカのスタンフォード監獄実験をモチーフにしている(と、当局に思わせている)というもが凄く皮肉が利いている。現実の実験では人が死んでいないのにこっちは殺され放題なのも、実は抽象的にナチの浸透や暴力を描いているのだから関係ない。■現実のスタンフォード実験はあくまで「心理実験」だったようだけど、この作品はどう考えても「暴力の構造的構築実験」のように見える。つまり「異常な心理状態で人間がどのような行動に出るか」というものではなく、「暴力や尊厳のはく奪は人間にどのような変化を与え、どのように利用しえるようになるか」という確信犯的な実験みたいに見えるのだ。これはまさに暴力を構造的かつ能率的かつ効果的に使ったヒトラーとナチスの話だ。 [DVD(吹替)] 8点(2010-01-04 23:36:39) |
6. A
妻投稿。「私たちにとって怖いのは差別される事ではなく、いないものとして扱われること」と私の先輩(知的障害者女性)は言っていた。マスコミは「頑張って健常者の仲間入りをしようとする障害者」と「悪い事しても法律で罰せられない(実際はそんなことはなく、むしろ健常者なら執行猶予になりそうな罪に実刑が下ることも多いのだが)怖い池沼」ばかりながし、健常者が知的障害者にどれだけひどいことをしているかを流さない。なぜか・・・多くの人にとって興味があるのは「知的障害者との融和」よりも「知的障害者が自分たちにどういう影響を与えるか」という事実があるからだ。つまり需要があるから供給がある・・・単純なことだ。別に悪いことではないし、この社会は健常者を基準としているのだから当たり前の事だ。■■■しかしこの映画はそんな「社会の当たり前」の嫌な面を容赦なく突きつけてくる。もちろん障害者を扱ったものではなく、オウム真理教という殺人集団を扱ったものだが、この映画は「オウムは意外と悪い集団ではないよ」ではなく、マスコミ報道や市民があの時共有していたものがいかに薄っぺらかったを、オウム事件を通じて当事者である観客一人一人に訴えているのだ。私は見ている観客の立ち位置すら否定しかねないその容赦のなさという点がマイケル・ムーアになくて森達也にあると思う。■■■オウム事件から10年、日本は成長しただろうか。発達障害者に貼られる「ゲーム脳」「準ひきこもり学生」というレッテル。だめだこりゃ・・。自閉症や知的障害の人はもう社会に理解を求める甘えは捨てたほうがいい。 おっと、そうやって孤立したらオウムみたいになっちゃう(かも?)ね。 [レーザーディスク(邦画)] 8点(2008-04-06 23:47:52) |
7. 映画ドラえもん のび太と緑の巨人伝
《ネタバレ》 ええ、レビューというより見苦しい感情論ぶちまけます。これは本当に環境保護がメインテーマなのだろうか。最初のうちはキーボーの存在と宮崎アニメのオマージュとも言えるシーン(豚の鼻を持ったゴミが雄牛のように人間居住区に向かって突進するのはもののけだし、このー木なんの木♪みたいなブロッコリー大木はもろに天空の城ラピュタだ)は確かに環境問題提議的だが、緑色の怪物が全てを埋め尽くし、あの8月6日のキノコ雲みたいに立ち上るシーンを見ていると、環境問題というものはあくまでアプローチに過ぎず、製作者が本当に観客に提示したかったのは、「人間」そのものだったのではないかと思う。少なくとも「映画としての完成度、シンメトリー」を度外視したようにはじけ飛ぶ終盤の写実的描写には、「本当に僕は懸命に生きているのか」とドキリとさせられたし、キー坊をからめ捕るグロテスクなツル、緑色の不気味なスライム生物は、喜怒哀楽を持ち人を愛し愛される人間だからこそ、それが踏みにじられ破壊された時に湧き上がってくる「憎しみ」「怒り」の感情そのものではないかと思った。「憎むのは確かに楽だが、それは本人にも周囲にもいい結果を及ぼさない」というオーソドックスなメッセージを、癒しの力を持つはずの緑をグロテスクに扱う事で観客にダトン玉のようにぶつけてくるやり方は卑怯ではあるが、その術にハマってしまった僕がそれを言うのも負け惜しみのなんとやらだ。僕や僕の大事な人が誰かに破壊されたとき(自閉症者である僕や僕の彼女は、今まで暴力という形で何度もあってきた)これの映画を思い出すよ。そして「すべては●●のために」なんて言わないよ。そして途中であった泥虫好きの子供みたいに生きていけたらいいよ。そう思った時に隣で見ていた彼女・・・「植物議会のみんな、キーキーってショッカー議会みたいだね」・・・ありがとう。 [映画館(字幕なし「原語」)] 8点(2008-04-03 21:54:56)(笑:1票) (良:1票) |
8. A.I.
《ネタバレ》 妻投稿。 母親に「いらない」宣告されたロボット少年が、その悲しい思い出から深い優しさを手にいれ、それを使って新しい愛を作り出す・・・という内容かと思いきや・・・。このラストはすごい「僕はどのようにして生まれてきたの」「愛されて生まれてきたんだよ」の「愛」がいかにはかないかをドカンと打ち出した内容になっている。宇宙人もどきがその「愛」をありがたがる様子は、まさに現代社会の「愛」という概念に対するスピルバーグの最高の皮肉だろう。やられました。8点。 [地上波(吹替)] 8点(2008-03-06 21:59:38)(良:1票) |