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1.  黄金時代
苛酷で本質的なものと、柔らかいが欺瞞的なもの、の対比が軸になっているか。島の岩肌、サソリの生態、など苛酷。ブルジョワの家具調度の柔らかさや、彼の好きな羽毛が対比される。いや、こうやって整理して見てしまうのは、きっとシュールリアリストにとっては、馴れ合ったイメージの連想ということで、いけないんだろうが、もうそう見ちゃうのが習性になってるマトモな世界の住人なんで、勘弁してもらう。一番濃密なのは島に人が来たところ。だいたい人が並んで歩いてるとリアリズムを突き抜けちゃう気分が出てくるんだ。骸骨になった法皇なんて、すごく「意味」っぽいんだけど、帽子をとって挨拶すると、何か意味を超えたイメージになっていく。固いコンクリートの上にヌルヌルした粘土状のものを載せるの。なんかの起工式みたいな普通の儀式なのかもしれないが、ヌルヌルの触感だけが突出して迫ってくる。男は羽毛を散らし、窓から燃える木やキリンを落とす(脚本にダリが協力)。虫を潰し、犬を蹴り、盲人を倒し(盲人を痛めつけるのは『忘れられた人々』などがあり、彼の作品での盲人は特別な存在のよう)、しかし己れの所有欲からは逃げられない。あ、また意味で解釈しようとしてる。小太鼓の連打が異様な高揚を生む。ベッドに牛が寝てたり、ロビーを荷車が通ったりするのも心地よい。水中撮影で美しいシーンがあった覚えがあるのだが、ノートには記されてないな。ほかの映画の記憶が混ざってるのか。そういった曖昧な記憶として存在しているのが、一番ふさわしい映画なのかもしれない。
[映画館(字幕)] 8点(2013-03-23 10:01:07)
2.  御誂治郎吉格子 《ネタバレ》 
娘がお百度参りしているあたりから後半に、映画に濃密な空気を感じだす。特別構図が凝っているわけでもなく、ろうそくなどもっと装飾的に使う監督もいるだろうが、一つ一つの図柄の的確さが濃密な空気を醸している。理屈をつければ、治郎吉が彼女への同情を決定的にした瞬間で、つまりこの場にいないお仙のラストの悲劇がカチリと始動した瞬間だった、という運命的な見方をすることも出来る(もちろん観客はまだ知らないんだけど)。このあと彼女の不幸が自分のせいだと知る治郎吉、だから自分で自分の始末を付けるということでもあるんだが、そも「輪」からはみ出されていくお仙の意地っていうのが絡んできて、重厚。「あたしを忘れさせないからね」っていうのは、怖い。
[映画館(邦画)] 7点(2013-02-22 09:55:13)
3.  大人の見る絵本 生れてはみたけれど
還暦の誕生日に亡くなった小津は、人生の見取り図を眺めやすい。『出来ごころ』までが前半生の30年、『母を恋はずや』からが後半生で4作目からトーキーになる。赤ん坊時代も含めた前半生だけで傑作を次々と発表しており、それだけでも映画史にゴシックで名を残したことだろう。とりわけ本作。前半のギャグの連発には、ただただ恐れ入るしかない。それも客観的に外部にある笑いではなく、自分たちの子ども時代を思い出させつつ生まれてくる笑いだ。だから後半の苦みが「取ってつけたよう」にはなってない。前半の笑いの当然の帰結として、苦くなってくる。そこに子どもであることの苦さ、子どもを持つことの苦さが浮き上がっている。笑わせたあとでペーソスも加える、ではなく、笑いがそのままペーソスに移行している。これが20代の男によって作られたことに驚かされるが、その若さだから・そしてついに家庭を持たなかった監督だから、と考えたほうがいいかもしれない。こんな映画を撮ってしまう男が、家庭を持てるわけがない。
[映画館(邦画)] 10点(2013-01-12 09:50:07)
4.  大いなる幻影(1937)
職業軍人たちの誇りと焦りと諦め、というあたりがよく出ている。仏のほうはもう次の世代へ譲り渡そうとしている。独のほうは最後の礼儀正しさで、自分の階級をまっとうしようとしている。そしてその次の世代というのは、より残酷な世界大戦で闘うことになるわけだ(当時のルノワールが予想していたわけではなかったろうが)。各国語をそのまま使っている。ジャン・ギャバンが次の捕虜に地下の穴を伝えようとするが「ワタシフランス語ワカリマセ~ン」となる。あるいは逃走中のロマンス。互いに理解できぬ言葉で語り合う場面の哀切さ。あるいは独房でフランス語を喋りたい、と叫ぶ。戦争を言葉の面から描いたのが貴重。演芸会に至る部分はよかった。女装の男を見てみながシーンと静まり返ってしまう。あるいは窓辺での会話「子どもたちは兵隊ごっこ、兵隊は子どもの遊び」って。当時のヨーロッパの細かな情勢や文化に詳しいと、もっと面白そうな部分はある。国境も幻影だが、最後彼らが撃たれなかったのも、国境に守られたからな訳で、ここらへん皮肉なのか。そういう感じでもなかったな。
[映画館(字幕)] 7点(2012-10-31 09:37:40)
5.  踊らん哉 《ネタバレ》 
今回はクラシックバレーという制約を与えて、作品の個性を作る。なにかの制約を与えて「型」に刺激を与え、マンネリを防ごうとしている。タップダンスってのが「滑って転びそうになるが手足をバタバタさせてしぶとく粘ってる」ってようなユーモアをもともとたたえていて、それと大仰なバレーのポーズとの対比。ローラースケートはいてタップさせる、ってのもそういうアイデアでしょう。レコードで練習してると針が飛んじゃって、同じところを繰り返すというギャグの落ちは、もちろんどんどんテンポが落ちていってしまって床にへたり込む、というもの。いいのは、船の機関との掛け合いの妙。そしてナイトクラブシーン。最初は仏頂面のロジャース、その周りを大袈裟にバレー風にまずアステアが飛び回る。ロジャースはただボーっと立ってるだけ。でも音楽が変わってステップ踏みながら前に歩み出すあたりから揃ってきて、あとは一気呵成。作品に個性を与えるために制約を入れるのも大事だが、ここぞというとこで定型の芯を見せるのも大事。溜飲が下がるというか、実に晴れ晴れとする。ラストのバレーで始まるショーがこの対比の集大成で、みんなロジャースのお面をつけて踊る。人形のモチーフから自然に受け入れられますね。またそれが愛の表明にもなっており、その中に一人本物が入ってるという趣向。
[映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2011-05-04 10:18:38)
6.  鴛鴦歌合戦
ミュージカル映画観てると、ときに思わぬ人が歌ってるのに出会うことがある。最近では『ヘアスプレー』でのクリストファー・ウォーケンか。かつて『ロシュフォールの恋人たち』では、ミシェル・ピコリが歌ってるのを目撃した。でもやっぱり一番驚いたのは、これの志村喬、片岡千恵蔵の連発だなあ。しかも時代が時代だし。なんかここらへんの映画の軽薄な陽気さって、好き。こういう「軽薄の力」が、中国大陸で無茶やってんのと同時進行で生きていたんだ。日本が、この片岡千恵蔵まで歌わせる軽薄さの側にしがみついて、眼を吊り上げるような馬鹿真面目を排除し、心を入れ替え地道に軽薄し続けていたら、日本現代史はあんな陰惨なものにならなかったんじゃないか。別に「時代の不安」の裏返しのヒステリックな笑いじゃないの。ただただ健康な陽気さが満ちている。伴奏が入ってくるあたりのムズムズ感がたまらない。こういう映画が作られていたことをアメリカが知ったらどう思うだろう、とふと考えたものだが、その後、日系人収容所描いた『愛と哀しみの旅路』というすごい邦題のハリウッド映画の中で、デニス・クエイドがこれ観てディック・ミネを真似て歌い踊るシーンを目にした。アメリカに勝ったと思った。
[映画館(邦画)] 8点(2010-05-03 12:04:35)(良:1票)
7.  折鶴お千
サウンド解説版というヤツで、全編BGMが鳴り続けるのには閉口した。お千と宗さんが初めてヤクザものたちに歯向かうとこでなんでブランデンブルグ協奏曲の3番なのよ、この全然合わなさは見事と言うしかない。音楽を無視すれば、部屋の中でのいくつかの移動、向こうの部屋で演じられる芝居を隣りから捉えたりと、監督ならではのシーンはある。鏡花の男だから、いつもうつむき加減でクヨクヨするばかり、ご馳走が出てもその金の工面に思いを馳せず、情けない。明治の社会とはつまりこれだったという鏡花の皮肉か。生きる上での形而下的な部分をみな女に背負わせ、それを土台にして科学(医学)が進んでいく。しかし女はその医術では治せない病いになる、って。これはハッキリ“近代”の否定ですな。肉体の病気を扱う医術の向こうで、精神の破滅という犠牲があった、って。
[映画館(邦画)] 6点(2009-11-21 11:50:30)
8.  女だけの都
この映画で一番うらやましかったのは、17世紀初頭の風景をロングで撮れる、ってところで、江戸時代の始まりのころでしょ、日本じゃちょっとできない。フランドル絵画ふう、って言うんですか。昔の風景がちゃんと残っている、というか、残してある。うらやましい。おろおろする男としっかりものの女、というパターンの小喜劇で、“女は弱いもの”というタテマエがなくなった現在から見ると、もひとつ面白味がピンと来ないけど、全体のおおらかな気分は悪くない。もっと古典の型にはまった味にしても良かったんじゃないか、あるいは女たちの一夜のバッカス祭という感じで、もっとドンチャン騒ぎがあってもいいんじゃないか、などと思うのも、やっぱり現代人からの目であろう。向こうの人が見れば、衣裳の時代考証なども楽しめるのであろうな。
[映画館(字幕)] 6点(2009-01-07 12:12:10)
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