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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  パラサイト 半地下の家族 《ネタバレ》 
金持ち家族に「寄生」することで、束の間の“優越感”を得た半地下の家族たちは、今までスルーしてきた家の前で立ち小便をする酔っ払いを、下賤の者として認識し、“水”をかけて追っ払う。 その様をスマートフォンのスローモーションカメラで撮りながら、軽薄な愉悦に浸ってしまった時点で、彼らの「運命」は定まってしまったのかもしれない。  世界中に蔓延する貧富の差、そして生じる「格差社会」。世界の根幹を揺るがす社会問題の一つとして、無論それを看過することはできないし、自分自身他人事じゃあない。 ただし、この映画は、そういった社会問題そのものをある意味での「悪役」に据えた通り一遍な作品では決してない。 確かに、“上流”と“下流”、そして更に“最下層”の家族の様を描いた映画ではあったけれど、そこに映し出されたものは、富む者と貧しい者、それぞれにおける人間一人ひとりの、愚かで、滑稽で、忌々しい「性質」の問題だったように感じた。  どれだけ苦労しても報われず、働いても働いても豊かになるどころか、貧富の差は広がるばかりのこの社会は、確かにどうかしている。 でも、自分自身の不遇を「社会のせいだ」「不運だ」と開き直り、思考停止してしまった時点で、それ以上の展望が開けるわけがないこともまた確かなことだろう。  そう、どんなにこの社会の仕組みがイカれていたとしても、どんなに金持ちが傲慢で醜かったとしても、この主人公家族の未来を潰えさせてしまったのは、他ならぬ彼ら自身だった。と、僕は思う。  千載一遇の機会を得た半地下の家族たちは、能力と思考をフル回転して、或る「計画」を立て、実行する。そしてそれは見事に成功しかけたように見える。 しかし、彼らの「計画」はあくまでも退廃的な“偽り”の上に存在するものであり、「無計画」の中の虚しい享楽に過ぎなかった。  “無計画な計画”は、必然的に、笑うしか無いスピード感でガラガラと音を立てて崩壊し、大量の濁流によって問答無用に押し流される。 そして同時に、己をも含めたこの世界のあまりにも残酷で虚無的な現実を突き付けられて、父子は只々愕然とする。  本当に裕福な者たちは、自らが“上流”に居ること自体の意識がない。 “下流”に住む貧しい者たちの存在などその認識から既に薄く、蔑んでいることすら無意識だ。 “臭い”に対して過敏に反応はするものの、その正体が何なのかは知りもしないし、知ろうともしない。 勿論、大量の“水”で、押し流していることに対しての優越感も、罪悪感も、感じるわけがない。その事実すら知らないのだから。  なんという「戦慄」だろうか。 そのシークエンスの時点で、観客として言葉を失っていたのだが、もはや「世界最高峰」の映画人の一人である韓国人監督は“水流”を緩めない。  「惨劇」の果てに、計画どころか「家族」そのものが崩壊し、消失してしまった父と息子は、それぞれに、「無計画」であり得ない逃避と、あり得ない希望に満ち溢れた「計画」を立てる。 すべてを失った者たちが、それでも生き抜く力強さを表現している“ように見える”描写を、この映画は、最後の最後、最も容赦なく押し流す。 父親が言ったとおり、「計画」は決して思い通りにはいかない。父と息子は、地下と半地下でその短い命を埋没させていくのだろう。  完璧に面白く、完璧に怖く、完璧におぞましい。だからこそこの映画は、完膚なきまでに救いがない。 とどのつまり、このとんでもない映画が描き出したものは、「格差社会」などという社会問題の表層的な言い回しではなく、その裏にびっしりと巣食う際限ない人間の「欲望」と「優越感」が生み出す“闇”そのものだった。   世界中に蔓延するこの“闇”に対して“光”は存在し得るのだろうか。  金持ち家族の幼い息子がいち早く感じ取った“臭い”。 彼はその“臭い”に対して、どういう感情を抱いていたのだろうか。 “トランシーバー”を買ってもらうことで自らの家族と距離を取ろうとした彼の深層心理に存在したものは何だったのか。  このクソみたいな世界の住人の一人として、せめて、そこには一抹の希望を見出したい。
[映画館(字幕)] 10点(2020-01-15 21:59:02)(良:2票)
2.  博士と彼女のセオリー
余命2年。そのあまりに残酷な“運命”を突きつけられ、“彼”は己の人生から逃避するように“彼女”の元を去ろうとする。 それでも、彼女は背筋をピンと伸ばして、彼の後を付いていく。 そして、眼鏡の汚れを拭き取り、キスをする。 その瞬間、彼は、彼女によって、その先の人生を生きる意味を与えられたのだと思う。  生かした者と、生かされた者。  両者は時の流れとともに、くるくると回転するように、入れ替わり、立ち代わる。 この映画は、現代が誇る“天才物理学者”の功績を描くものではない。 スティーブンとジェーン。この男女が共に過ごした「時間」を、ありのままに切り取ったような映画だった。  それぞれの人間の強さも弱さも平等に描いたこの物語は、必ずしも綺麗事ばかりではない。 過酷な人生の中で、当然起こり得る人間の感情の機微を、決して臆すること無く誠実に描き出したこの映画は、とても勇敢で、辛辣で、だからこそ“人間”に対する慈愛に溢れていると思えた。   スティーブン・ホーキングという物理学者が専門とする「量子宇宙論」なるものを正確に理解することなんて、僕には出来やしない。 けれど、それが「宇宙」と「時間」という絶対的な概念に対する果てしない探求であることは分かる。  この映画が、二人の男女の心模様を通じて描きつけたものは、まさにその「時間」の残酷さと慈しみだった。 “2年”という時間の限界を越えて生き続けた男と、彼を生かした女。 誰よりも明晰な頭脳を持ちながら、その考えを伝えるためには、誰よりも膨大な時間が必要となってしまった男。 時に奇跡的に、時に過酷に、「時間」は彼らを生かした。   ラスト、博士と彼女は並び、「見てごらん、僕らが築き上げたものを」と視界を共にする。 その瞬間、かつて彼が提唱した理論をなぞるように“彼らの時間”が巻き戻っていく。 彼らが辿った道程とその行く末が、幸福だったのか、不幸だったのか、それは他人には分からないし分かる必要もない。 それは彼らだけが、判別すればいいことだ。  ただ僕は、二人が歩んだ「時間」そのものが放つ光に涙が止まらなかった。  たぶん、この2、3年ほどの間でいちばん泣いた。 喜びも、悲しみも、全部ひっくるめて泣いた。 それは、「宇宙」と「時間」の真理を追求する天才物理学者を描いたこの映画において、とても相応しいことだったと思う。
[映画館(字幕)] 10点(2015-03-14 23:29:16)
3.  パシフィック・リム
上映前に買った飲み物をカバンに入れたまますっかり忘れてしまっていて、上映後興奮してカラカラに渇いた喉に一気に流し込んだ。 映画は常に没頭して観ているつもりだけれど、それでもこれほど“無我夢中”になった映画はあまりない。 そして、これほど監督をはじめとする製作スタッフに「感謝」を捧げたくなる映画も珍しい。  冒頭、いきなり異次元から“怪獣”が問答無用に襲撃し、人類側の最後の砦である“巨大ロボット”が、文字通りの肉弾戦を繰り広げる。 実際、ひたすらにそれの繰り返しの映画である。ストーリーなんて明らかに後付けで、突っ込みどころ満載。 しかし、その“ほつれ具合”こそ日本人が生み出し、愛した「怪獣映画」「ロボットアニメ」の真髄であろう。  もはや巨大な鋼鉄の“建造物”であるロボットが大勢の技術者によって“起動”し、パイロットによって“駆動”する様の一つ一つに対して、高揚感が治まらず、思わず座席から身を乗り出して終始ニヤニヤしてしまっていた。 怪獣の襲撃シーンで用いられている音楽は明らかに“伊福部昭オマージュ”に溢れており、怪獣の重量感による地響きと共に響く旋律に涙が溢れそうになった。  そして繰り広げられる大攻防戦。「これぞ大スペクタクルだ!」と古風な言い方を敢えてしたくなる。 日本の本多猪四郎、米国のレイ・ハリーハウゼン、映画史に名を残す“怪獣映画の父”たちにこの映画を捧げたギレルモ・デル・トロ監督の意志は紛れもなく崇高で、日本人映画ファンとして感謝の念が尽きない。   普段は絶対に字幕版しか観ない主義だが、「これは米日合作映画だ!」と一方的に現実逃避を決めて、今回は敢えてIMAX3Dの日本語吹替え版で鑑賞した。 製作スタッフの、日本のアニメ文化への崇高な尊敬の念に対して呼応するように揃えた豪華声優陣が功を奏して、素晴らしい吹替え版に仕上がっていると思う。 何よりも、この映画に限っては、怪獣映画、ロボットアニメに純粋に興奮した「あの頃」に完全に立ち返って鑑賞すべきであり、字幕を追うなんて無粋なことを避けることもまた一興だろう。  兎にも角にも超最高!ありがとう!ギレルモ・デル・トロ! 続編、スピンオフ、ロン・パールマン並みのしぶとさで期待しております。
[映画館(吹替)] 10点(2013-08-20 16:58:40)(良:7票)
4.  花よりもなほ
「時代劇」は数多く観てきたが、これほどに“おもしろい”時代劇はなかなか無いと思う。貧乏長屋を舞台にした人情劇。そこに住む人々の、何気なくもあらゆる意味で“雑多”な生き様が、笑えて、泣ける。 「仇討ち」が賞賛された時代、しかしそれは同時に、「武士」という生き方自体に“疑問”が生まれ始め、見直され始めた時代だったのだと思う。そんな中において、「仇討ち」という行為の是非をある面では滑稽に、そしてある面では真摯に描き上げたユーモラスかつドラマ性に溢れた“新しい時代劇”の姿がここにあると思う。 武士道の美談として語られる「赤穂浪士」にしたって、実情がどうだったかなんて本当は誰も分かるハズはない。もしかしたらこの映画は、「武士」という時代そのものの人間性をリアルに切り取ったドキュメンタリーなのかもしれない。そう考えると、是枝監督初のストーリー映画である今作も、実に彼らしい映画だと思えてくる。
[映画館(字幕)] 10点(2006-06-07 17:33:53)
5.  バタフライ・エフェクト/劇場公開版
サスペンス映画で、これほど切なく、涙がじわりと溢れたことは初めてだと思う。 ストーリーの完成度が物凄く高い。主人公の能力についてのアイデア自体も斬新だが、それもよりも、物語としての整合性と全編通してのバランスが素晴らしい。「何が起きているか分からない」緊迫的な“恐怖感”溢れる導入部から紡ぎ出し、テンポのよい“緊張感”と“謎”を展開しながら、“切なさ”溢れるラストへと結びつける。作品のテンションにふさわしい、秀逸に練られたストーリーテリングだった。 日本公開され、DVDがレンタルされるようになってから少し経つが、今の今まで観ていなかったこと自体が悔やまれる“傑作”だと思う。 
[DVD(字幕)] 10点(2005-12-27 22:18:03)
6.  花とアリス〈劇場版〉
6年ぶりに観たこの映画は、もはや「感動」なんて通り越す。そのあまりに眩しい映画という「結晶」に対して、悶え、嫉妬じみた感情すら覚える。  6年前、自分自身の結婚を控えた頃にこの映画を観ていた。 劇場鑑賞時から大好きな映画なので、それ以前もその後も事あることに“花とアリス”のことは思い出す。 そして、今日、自分の愛娘が幼稚園に入園した日に、またこの映画を観た。 なんだか、嬉しさも、憂いも、いろいろなことが入り混じって、たまらなかった。  最初から最後まですべてが名シーンなのだが、“親”というものになって数年経ち、愛娘の成長をまさに目の当たりにした日においては、蒼井優と平泉成との父娘のシーンが、無性に愛おしかった。 この映画は、恋と友情の間を奔走する少女たちの物語であり、少女たちの自立の物語であり、彼女たちを取り巻く家族の物語でもあるのだと思えた。  蒼井優と鈴木杏、今やこの世代を代表する女優となった二人の“競演”は、彼女たちの確かな実力を踏まえても、「奇跡的」だ。 こういう類いの「奇跡」を幾度も見せてくれた岩井俊二という映画監督は、やはり自分にとって特別な存在なのだと思える。   この映画の少女たちの人生はまだ始まったばかりで、映画の中で泣き笑うことなんて、ほんとに些細なことだけれど、その一つ一つにひたすらに向き合い、エネルギーを注ぎ、くよくよしたり、晴々したりする姿に、問答無用に感動する。 ユーモラスで眩しいノスタルジーと、そこに不意に垣間見せる厳しく切ない現実。それらすべて含めて彼女たちの日常。   嬉しいことも、辛いことも、楽しいことも、悲しいことも、みんなひっくるめて少女たちは生きていく。  その純粋で、無防備で、ひたすらな姿に、胸が熱くなる。僕はこの映画に対して、この先も何度も、“ウォーアイニー”と呟くだろう。
[映画館(字幕)] 10点(2004-04-09 22:37:49)(良:2票)
7.  バーバー
寡黙な男の身の上にあくまで淡々と繰り広げられる人生の破綻模様が非常に秀逸なテンションで描かれる。不気味なほどに自然に流れる時間の中で、静かに崩壊していく男の人生。それは限りなく異常でありながら、その男の運命であったと確信させる。この映画、すべてが無関心な空気感の中で、無駄なものは何もない。主演俳優ビリー・ボブ・ソーントンの顔に走るひとつひとつの皴ににまで明確な意思があるような、そんな何とも言い難い説得力に満ちた映画世界から、なかなか抜け出すことが出来なかった。
10点(2004-01-13 15:57:15)
8.  パルプ・フィクション
監督第2作目にして、クエンティン・タランティーノという固有名詞を世界的なものにしてみせたこの映画の威力はやはり凄まじい。台詞、音楽、カメラワークとすべてがハイセンスというものの極みと言える映画であるが、時代が移り変われば、この映画もいつかはオールディーとなるであろう。しかし、作品の「カッコ良さ」というものは、いつまでも色あせることがないだろう。「カッコイイ映画」などと簡単に言ってしまいがちだが、本当にその言葉がふさわしいのはこの映画をおいて他にない。そんなことはありえないが、この先もしタランティーノが駄作ばかり作り続けても、人々はいつまでも彼の作品に期待するだろう。「パルプ・フィクション」が存在する限り。
10点(2003-11-08 01:29:50)(良:1票)
9.  バック・トゥ・ザ・フューチャーPART3
公開30年目を機に改めて3部作を観返してみて、充分分かりきっていた事だけれど、その自分自身の理解を越えて、遥かに僕はこの映画が好きだということを感じ入った。 この映画による娯楽体験こそが、僕の映画人生そのものの原点だと言って過言ではないし、同じような感慨を持つ映画はファンは世界中にいるのだろう。  焼け落ちた写真の欠片を手に取り、膨大な時間を越えて離れ離れになってしまった“友”を思う主人公。 が、次の瞬間、“友”は、今シリーズ中最も派手な描写で主人公の前に表れる。 そして最後にこう言って主人公たちを諭す。  It means your future hasn't written yet. No one's has. Your future is... whatever you make it.  (君たちの未来は、まだ白紙という意味さ。 誰もがね。 自分の未来は・・・ どんな風にも、自分で作るものだよ。)  最高。
[CS・衛星(字幕)] 10点(2003-10-03 20:45:58)
10.  バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2
この映画シリーズの主人公は言わずもがなマイケル・J・フォックスが扮したマーティ・マクフライ。 ただ3部作のパートごとに主人公の存在を食らうほど印象的なサブ主人公が存在する。 PART1の第二の主役はマーティの父親のジョージ・マクフライ。PART3の第二の主役はドク。 そして、このPART2のそれは、“ビフ・タネン”に他ならない。 故にシリーズ随一のダークさと悪趣味ぶりを誇っている。 今作において、未来→現在→過去と3つの時間軸においてビフ・タネン(+その孫)という稀代の悪役を演じきってみせたトーマス・F・ウィルソンの功績をすべての映画ファンは忘れないだろう。
[CS・衛星(字幕)] 10点(2003-10-03 20:42:53)
11.  バック・トゥ・ザ・フューチャー
エンターテイメント映画というのはどこか安っぽく見られ、時間の経過とともに邪険に扱われがちだがこの映画は紛れもなく映画史に残る傑作であり、映画自体の娯楽性を代表する作品であると思う。現在にいたるまで日々エンターテイメント映画は作られ続けているが、この映画を完全に越えたと言える娯楽性をもった作品はまだ誕生していない。
10点(2003-10-03 20:33:38)(良:1票)
12.  花束みたいな恋をした 《ネタバレ》 
この2年あまりの間、いつ観ようかいつ観ようかとずうっと思いつつも、そのタイミングを逸し続けていた恋愛映画をようやく観た。 巷の評判から想像はしていたけれど、やっぱりものすごく堪らない映画だった。  公開当時、最初にこの映画の予告をテレビCMで観たときは、何とも甘ったるいタイトルと、人気の若手俳優を配置した安直なキャスティングに対して、なんて安っぽい映画なんだろうと嘲笑してしまった。 実は個人的に、菅田将暉と有村架純という本作の主演俳優の両者をあまり好んでいなかったこともあり、全く興味を持てなかった。 ただその直後、脚本が「最高の離婚」「カルテット」他数多くのテレビドラマの傑作を生み出している坂元裕二であることを知り、各方面からの評判が耳に入ってくるようになり、次第に「あれ、まずいな」と思うようになった。さてはこれは「未見」は不可避な作品なんだろうと。 そうして鑑賞。僕は結婚をして12年以上になる。「恋愛」という概念からはもう遠く離れてしまったれっきとした中年男性の一人としても、本作が放つ短く淡い輝きは、儚く脆いからこそ、忘れ難いものとなった。   最初のシーン、カフェに居合わせた主人公の二人が、同じ価値観のもとにある行動を起こそうとしてふいに目を合わせる。 そのさまは、誰がどう見ても恋の“はじまり”に見える。 そこから紡がれる二人の5年間の恋模様と到達点が、美しく、切なく、愛らしく描き出される。 決して、特別な恋愛を描いた作品ではない。 本作の終盤でも描き出されるように、世の中のあらゆる場所、あらゆる時代において、まったく同じように若い男女は出会い、花束みたいな恋をする。 ただし、その恋は、両者の成長や変化と共に形を変え、次の全く別のステージへと両者を促す。 花束は、次第にしおれて枯れてしまうこともあろうし、別の場所で根をはることもあろう。  彼らの道のりはとても美しかった。あと一歩だった。 それ故に、あまりにも瑞々しくて輝かしい新しい“花束”を目の当たりにしたとき、もうあの時と同じには戻れないということを思い知り、届かない一歩の大きさを痛感したのだ。  はじまりは、おわりのはじまり。 有村架純演じる絹は、自らの恋のはじまりに、その言葉を思い浮かべる。 菅田将暉演じる麦は、自らの恋の終わりのその先に、ささやかな奇跡を見つける。  そう、この映画の終わりが、“おわり”なのか“はじまり”なのかは、実は誰にも分からない。
[インターネット(邦画)] 9点(2023-05-22 10:59:04)
13.  バビロン(2022)
“映画史”そのものが混濁とした映像の渦となって映し出されるラストシーン。 映画という表現の「革新」と「核心」を目の当たりにして、積年の感情が満ち溢れる主人公を大写しにしたラストカットで、スクリーンに映写された画面がぴたりと止まった。 3時間に渡って映画がもたらす魔法と虚構、そして狂気を見せつけられてきた私は、その“フリーズ”状態に困惑しつつも、デイミアン・チャゼル監督による何らかの意図だと信じ切って、体感にして10分以上、そのまま静止したスクリーンを観続けた。 暗がりの中、他の観客がみな席を立ち、ひとり取り残される格好となっても、その真意を探ろうと、映画世界を思い返しながら、微動だにせず凝視していたところ、おずおずと劇場スタッフが現れた。  なんと、映画館側の映写トラブルだった。 映画館に通うようになって30年以上経つが、こんな経験は初めて。こんなことが、この映画の、このラストカットで発生するとは。 無論、映画館側の失態であることは明らかで、今後無いようにしてほしいが、これはこれで稀有な映画体験だったと思う。残念な気持ちも無くはないが、何かの奇跡が働いて、イカれた映画世界に取り残されてしまったような感覚も覚えた。   「世界で最も魔法に満ちた場所」  ブラッド・ピット演じる無声映画時代の大スターは、映画製作の現場(セット)を「世界で最も魔法に満ちた場所だ」と言う。それは、本当に間違いないことだ。 どれほど狂気と非常識が渦巻いていても、フィルムに写し込まれた虚構がもたらす感動が、そのすべてを凌駕する。 その様はやはり「魔法」という言葉が相応しい。  だがそれが「魔法」である以上、非情な“リミット”と共に解けてしまうことも必然。シンデレラは夢のような一夜の後、冷酷な継母の元へ戻らなければならない。 まさしく栄枯盛衰。本作が、かつてメソポタミアに存在した世界最大の古代都市の名称を冠されていることは、そのあまりにも盛大な虚構の儚さを、ダイレクトに表している。  だがしかし、だ。 たとえ魔法のような“一時”であったとしても、そこで輝くことの業と意義を、この映画は奇声のごとく叫ぶ。 ゴシップ誌の記者が諭すように、一瞬だろうとなんだろうと、一度フィルムに焼き付けられた輝きは、時代を超えて残り続け、生まれてもいない見ず知らずのどこかの誰かに感動を与え続ける。 そう、それが「映画」なのだと。   冒頭のイカれたパーティーに象徴されるように、正直、というか絶対的に、“綺麗”な映画ではない。 “文字通り”クソとゲロに彩られた汚物まみれの映画であることは間違いない。 作品的も支離滅裂な要素が多々あり、全世界的に渦巻く賛否両論も多分に理解できる。 でもね、その汚物まみれの映画世界を描きぬいているからこそ、これほど“映画愛”に満ち溢れ、逆流しているような映画も他にないと思える。  「映画」を構築するすべてが、嘘や欺瞞、虚栄と虚構で成り立っているという本質を、この映画に登場するすべての人物、作品の作り手、そして我々鑑賞者の全員が「理解」している。 それでも、私たちは、映画を作り続け、映画を観続け、映画を愛し続ける。  「映画」はクソだ!でも、なんて素晴らしい! “奇跡的”にも、時間が静止した10分間のラストカットで、私はその映画愛にまんまと侵食されてしまったようだ。
[映画館(字幕)] 9点(2023-02-19 06:51:10)
14.  ハウス・オブ・グッチ
“GUCCI”を手にしたことも無い僕は、本作の鑑賞後、このブランドが辿ってきた歴史を取り急ぎググらなければならなかった。 それは、映画が描き出したストーリーの背景が分からなかったというよりも、“GUCCI”というブランドにまつわるあまりにも苛烈で悍ましい人間模様に対して興味を抑えることができなかったからだ。 「HOUSE OF GUCCI」 そのタイトルの通り、この映画は、壮絶にして残酷な“或る家族”の物語だった。  「事実に着想を得た物語」と冒頭にクレジットされていたが、エンドロールを迎え、この映画が描き出された顛末のどこまでが「事実」なのかと戸惑いと驚きを隠せなかった。 手にしたことがなくとも、「GUCCI」というブランド名は、無論世界中の誰もが知っている名称であり、個々人の趣向に関わらず、一つのステータスの象徴だろう。 そんな世界的ブランドの創業家において、これほどまでに衝撃的な御家騒動が巻き起こり、文字通りの“崩壊劇”を経ていたとは。しかもそれが、80年〜90年代という極めて近しい時代の出来事であることに愕然とした。  殺人という明確な「重罪」をも含めたこの壮絶なスキャンダルを、すべての固有名詞を実名で描ききる豪胆さ。 この手のノンフィクション的な物語に対するアメリカの映画産業は、常に意欲的で、その強さを改めて思い知った。 そして、当のGUCCIは、作品に対して“猛反発”をしているとは言うが、それでも間接的に許容していなければ、劇中のすべての固有名詞、そして必然的に映し出されるブランドの製品、デザイン、アイコンを使用することは不可能だろう。 そういう意味では、本作に対する現在のGUCCIの世界的ブランドとしての気概と、過去の歴史との“決別”に対する強い思いも感じる。   御年84歳の大巨匠リドリー・スコットのクリエイティビティは、衰え知らずというよりも、ここにきて益々冴え渡っているようにすら思える。 一つの家族における暗鬱とした人間模様を、いたずらに重くしすぎることなく、ドライに、ユーモラスに、エキサイティングに、圧倒的なエンターテイメント性を孕みながら創造している。 そこに集ったオールスターキャストも、華やかであると同時にあまりにも愚かな“親戚一同”を表現しきっている。  その中でも特筆すべきはやはりレディ・ガガだろう。 現実に起こったこの華麗なる一族の崩壊劇の中で、唯一無二の「悪女」として人々に記憶されているパトリツィア・レッジアーニという女性。 すべての“元凶”とされた彼女が主人公であるこの映画世界の中で、演じたレディ・ガガは、あらゆる意味で「支配」しており、圧巻の演技を見せている。 冒頭の登場シーンから、ラストの「グッチ夫人と呼びなさい」まで、表現者としてのその支配力は圧倒的だった。  最終的に紛れもない「重罪」を犯したこの女性に対し、擁護の余地はないだろう。しかし、すでに凋落の一途を辿っていたグッチ家にとって、パトリツィアという一人の女性の存在は、避けられない分岐点だったように思えた。 パトリツィアがもたらした功罪によって、結果的にグッチ家は崩壊したが、何かが少し異なれば、全く別の顛末もあったのかもしれない。  一族の崩壊の中心に存在した悲しき“夫婦”。 冒頭のシーンでは、燃え上がる愛情の赴くまま壁に叩きつけるような激しいセックスを見せる。そして時が経ち、今度は冷え切った愛情の表現として、夫は妻を壁に叩きつける。 彼らが見せたその“愛”の有り様は、あまりに無情で、心が締め付けられた。  暗殺の直前、あらゆるものを失ったグッチ家の男は、オープンテラスでエスプレッソを飲みながら何を思い、何を思い出して微笑んだのだろう。 あのセックスの激情に偽りは無かった。でも、どこかで何かを間違えてしまった。 それは、世界中のどの夫婦、そしてどの家族にも起こり得ることだろう。
[映画館(字幕)] 9点(2022-02-03 21:58:43)(良:1票)
15.  パターソン
“パターソン”とは、バス運転手の朴訥な主人公の名前であり、彼が住む街の名前。 この映画は、“彼”と“彼が住む街”の「7日間」を極めてシンプルに映し撮っただけの映画、のように見える。 何か“特別なコト”が巻き起こるわけではない。慎ましく、平凡に生活する男と妻と愛犬の日常が、淡々と綴られる。  でもね、と、この映画を観ていた多くの人々はふと立ち止まり、思うだろう。  「“特別なコト”とは何だろうかと」  大災害に遭遇してサバイバルを余儀なくされるコト?殺人事件に巻き込まれて無実の罪で追われるコト?宇宙人襲来に脅えるコト?大恋愛をして人生を変えてしまうくらいに感情を爆発させるコト? 数々の映画的娯楽の中で表現されてきたそれらのコトは、無論“特別なコト”に他ならないだろうけれど、果たしてそういうことだけが「特別」なのだろうか。  裕福でもなく、貧困でもない普通の小市民が、何気ない日常生活を決まったルーティーンで繰り広げるということ。 決まった時間に起床し、たまに寝過ごし、妻にキスをし、シリアルを食べて出勤し、同僚の愚痴を聞き、決まったバスルートを運行し、帰宅し、妻の料理を食べ、愛犬を散歩させつつ馴染みのバーに立ち寄って、一日を終える。  そんな当たり前のことが、「特別」であるということを、この静かな映画は雄弁に伝えてくるし、今この世界の私たちは、事程左様に深く感じ入る。  そして、そんな普遍的な「生活」の中で、忘れてはならないことは何か? それは「表現」をするということだ。 「表現」とは、何もこの映画の主人公やその妻のように、「詩」を創作したり、「アート」や「料理」や「音楽」に没頭したりするような“クリエイティブ”な活動に限ったことではないだろう。  「愛してる」「美味しい」「ありがとう」「大丈夫?」「お前なんか嫌いだ」……生活の中の様々な事象に対して、ちゃんと自分の感情を相手に伝えるということ。 それが、もっとも大切な「表現」だと思えるし、そういうことを積み重ねていくからこそ、代り映えなく見える「生活」そのものが、何にも代えがたいものになり得るのだろうと思う。  半ば強制的に自らの「生活」に対して向き合わざるを得ないこのご時世。 ささやかな生活の中のささやかな喜びや多幸感を感じ、それを表現するコト。 このさざ波のような映画には、今この世界にもっとも必要なコトが満ち溢れている。
[インターネット(字幕)] 9点(2020-05-02 23:26:13)
16.  ハクソー・リッジ
「戦争」と「信仰」、人間が生み出したその二つの価値観は、まさしく人間という混沌の象徴だ。 本来、相容れぬはずの価値観を、同時に、「正義」だと掲げ続け、混乱と争乱を引き起こし続けてきたのが人類の歴史だろう。 その二つの価値観に板挟みにされた一人の人間における選択肢は、普通二つしかない。 ひたすらに「戦う」か、ひたすらに「避ける」かだ。 だがしかし、この映画の主人公は、そのどちらも選ばなかった。 「戦争」に対する覚悟と、「信仰」に対する揺るがない信念を貫き通し、ただひたすらに「救う」ことを選択した。 そう言葉で表すといかにも聖人君子的な綺麗事のように思える。 ただそれを実際の戦場で「実現」したということが、一体どれほど熾烈で残酷だったか、この映画は一点の曇りもない映像表現で描きつけている。  古今東西様々な戦争映画を観てきたけれど、この戦争映画の激しさと描き出されるテーマ性は、他のどの戦争映画とも異なっている。 それは、この映画が、一人の男の生い立ちとそれに伴う信念を深掘り、結果として彼が戦場でどのように闘い抜いたかを描き抜いたからだろう。 激しい戦争描写は、戦争映画史上においても屈指のものであったことは間違いない。だがそれ以上に、人間という生き物がそもそも孕む混沌と混乱の中で苦悩しつつ、傷つきつつ、それでも屈すること無く、自らが生きる意味を貫き通した不器用な人間の崇高な姿に衝撃を受けた。  アンドリュー・ガーフィールドが、良心的兵役拒否者としてアメリカ史上初の名誉勲章受賞者となった今作の主人公デズモンド・ドスを見事に演じきっている。 あの青瓢箪のような俳優が、あのメル・ギブソンの戦争映画に主演という情報を聞いた時は「大丈夫なのか?」と甚だ懐疑的だったけれど、鑑賞後には彼以外の適役は居なかったろうと思える。 ハンサムではあるがハリウッド俳優としては個性的な風貌の彼が、次々に大役をものにし、一躍トップスターへと上り詰めた要因は、類まれな演技力は勿論、彼自身が己の「個性」を貫き通してきたことに伴う魅力が、付加価値として備わっているからだと思う。  そして、監督メル・ギブソン。 彼自身の私生活における数々の醜聞やそれによって映画界から追放されかかっていたことについては、擁護する余地はないけれど、世評の通り映画監督としての力量が「本物」であることをまざまざと感じた。 アルコールに溺れ、暴力と暴言に走り、後悔と贖罪を繰り返す日々、そんなメル・ギブソン自身の人生模様は、今作のキーパーソンとなる主人公の父親像に表れている。  光と闇、暴力と救済が等しく混在する圧倒的な戦争映画。これはメル・ギブソンにしか描けまい。
[インターネット(字幕)] 9点(2017-11-18 18:45:31)
17.  遥かなる山の呼び声
“心が洗われる”とはこういうことか。と、思った。 北海道の雄大な自然の中で、人間が人間として“生きる”ことの難しさと、厳しさ、そしてそれらがあるからこそ見いだされる素晴らしさが、決して仰々しくなく少しずつ滲み出るように映し出される。 冬の厳しさが残る春、短いからこそかけがえのない夏、実りの秋、そして再び訪れる厳冬。四季の移ろいとともに描き出された一人の男と母息子の物語に、一言「いい」としか言いようがなかった。  必要以上に故人を美化する気はないけれど、死してなお銀幕の世界に生き続け、後世に至るまで愛され続けることこそが映画スターの究極の価値だと思う。そして、高倉健という人は、その価値に相応しい人物であったことを改めて感じ入る。  今作は高倉健主演映画ではあるが、同時に倍賞千恵子の主演映画でもあったと思う。 日に焼け泥にまみれながら一人息子と共に生きていく母親役の倍長千恵子からは、内に秘めた強さと脆さが同時に伝わってきて、切なく美しかった。  愛する人の死を経て、母子二人文字通り寄り添うように必死に生きていく姿は、映画の題材としてはあまりにありふれている筈だけれど、時代を越えて愛されるに相応しいドラマ性に満ちていた。 何気ない食事シーンや会話の中から、この母子が抱える悲しみと慈愛がじんわりと伝わってくる。 色々な国の映画を観てきているが、やはりこういった「表現」は日本映画ならではのものだと思うし、その一つの頂点に立つのが山田洋次という映画監督だと思う。  そして、この映画においてもう一つ特筆せずにはいられないのは、ハナ肇の最高の脇役ぶりだ。 ハナ肇が演じる「虻田太郎」というキャラクターは完全なる脇役であるけれど、序盤は「悪役」として登場し、「コメディリリーフ」となり、最後には「最も愛すべき存在」となってこの映画において無くてはならない存在感を見せてくれる。この人もまた日本映画史に残り続ける名脇役なのだと思い知った。  高倉健演じる主人公は、ついに最後まで母子の家で寝ることはなかった。 それでも一夏の共生によってこの3人の間に生まれた絆に、自分でも驚くくらい素直に涙が溢れた。 「幸福の黄色いハンカチ」と同様に、この先自分自身が歳を重ねつつ繰り返し観るほどに“深まる”映画だろう。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2014-12-14 01:37:37)
18.  her 世界でひとつの彼女 《ネタバレ》 
とどのつまり人はみな孤独である。 ただそこには同時に、人はみな何かに寄り添い生きていくことしか出来ない、という逆接的な意味合いを孕んでいると思う。 独りでは生きていけないからこそ、「孤独」という状況に対して過敏に反応し、失意に暮れるのだろう。 「喪失」を携え、“親友”の男と女が肩を寄せ合い、夜景を眺めるラストシーンを見送り、エンドロールを眺めながら、まずそういうことを思った。  “男”が望み欲したものは、必ずしも新しい恋などではなかったと思う。 この物語は、もちろんラブストーリーであるとは思うけれど、それはあくまで一側面で、その領域はもっと広く、一人の人間の人生観そのものを描き出していると思えた。  また、お洒落で洗練されたビジュアルに覆われているけれど、この映画の確固たるSF性の深さも興味深い。 “人格”を持つまでに進化したOSの「彼女」。“声”のみのキャラクターに過ぎない彼女の存在感が、男との関わり合いが深まりにつれより一層に際立ってくる。 プログラムが進化し人格を持つという科学的空想は、もはや絵空事とは言えず、とても身近なことに思える。 果たして「彼女」が辿り着いた結論は、プログラムが明確な「意志」を持ったことの表れであり、その描写はとてもとても深淵で、科学的な神秘性に満ち溢れていた。  主人公の男は、実は、元々決して不幸なわけではなかった。 愛した妻と別れなければならない状況であったとしても、仕事上では信頼を受け、心を許せる親友もいる。 でも、人は誰でも「孤独」と隣り合わせで、ふとしたきっかけでそれに覆い尽くされる。  そんな時に出会った「彼女」との出会いと別れは、誰かと寄り添い生きていくという、人間の脆さと素晴らしさを再確認させてくれたのだろう。それはきっと幸せことだったと思う。  「何かに寄り添い やがて生命が終わるまで」 とは漫画「寄生獣」の最後の言葉だが、この映画の“サマンサ”と寄生生物“ミギー”が選んだ道には、とても似通ったものを感じた。  世界中の誰しもが人生の中で幾度も味わうであろう、心の「喪失」と「修復」。 本来同時進行ではあり得ないその心情の機微を、等しく、あまりに眩く描き出した傑作だと思う。
[映画館(字幕)] 9点(2014-08-24 01:03:05)(良:1票)
19.  初恋のきた道
映画史において“女優”というものの持つ価値は絶大なものだと思う。映画の物語自体はぱっとしなくても、ただ一人、光を放つ女優がいたとしたら、それだけでその映画は良い映画になる。と言うとまるでこの映画が主演女優の力のみをもって成立しているように聞こえるが、そうではなく、それでも尚、女優の存在を強調したくなるほどに、この映画の主演女優は素晴らしい。女優の魅力そのものに対して、これほどまでに心が揺れ、涙が溢れ出しそうになったことはない。いまや“アジアのダイアモンド”と称され世界中にその魅力を放つ女優となったチャン・ツィイー。その秀麗な原石を生み出したこの映画の誕生と存在意義自体に、壮大な運命を感じ、またじわり涙が出る。
9点(2004-11-11 22:43:36)
20.  ハッシュ!
結論としては非常に良い映画だと思った。同性愛という個性は今の日本の社会ではどんな奇麗事を言っても虐げられているというのが実状だと思う。その中でその個性を特に主張するわけでなく、ただナチュラルに生きていこうとする主人公たちの苦悩に感慨深さが残る。ただ自分らしく生きていくことの難しさ、それは何も彼だけに起こり得る問題ではなく、すべての人における深遠な問題ではなかろうか。
9点(2004-01-27 19:07:25)
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