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1.  薄桜記 《ネタバレ》 
立ち回りってのは、立ってやるものだったが、これは寝てやるのがミソ。立って刀を構えて相手のスキを探して互いにグルグル回るから「立ち回り」なんだろうか。戸板に寝て、しかも右手がなく、片足も負傷している。素人の私にはスキだらけに見えるが、そこは雷蔵、強いのだ。刀を杖に体を起こそうとしているときなど、もう全身スキのようだが、敵は刀を構えてたじたじとするだけで、雷蔵が体を起こし終わってから斬られに突っ込んでくる。武士道である。倒れているときには、ワーッと叫んでただ雷蔵の上を跳び越したりしている。半分歌舞伎の立ち回りと思って見ればいいのか。ああいう様式とリアリズムの中間の不思議な世界であった。悲壮美ではある。敵方の一人が短筒で仕留めようとするのを止め、代わりに出ていった別の敵があっさり斬られちゃうのも武士道である。前半は、千春に襲い掛かる凶暴な「お犬さま」がやけに人懐こそうだったり、飛び掛かっているというより投げつけられてるようだったりなど、なかなかノレなかったが、右手を斬られるあたりから凄絶さを秘めた伝奇的な雰囲気が漂い出した。夕焼けの橋の上での立ち回りには、あとで五人の手負いの経過を思い出すところも含め、やはりリアリズムから遊離しかけた美しさがある。
[CS・衛星(邦画)] 5点(2013-09-11 09:53:46)
2.  ハリーの災難
実に礼儀正しい死体なんだな。一番日常の対極にあると思われているものが、美しい田園風景の中にあることのおかしさ。しかも誰もびっくりしないの。絵描きがスケッチに描き込んでから気づくユーモア、船長のいろいろな独白も面白かった。とにかく語り口のうまさね。みながシャベル持ってぞろぞろ歩いている楽しさ。あるいはオールドミスが告白すると決意する中に含まれている“自分だって男に襲われるのよ”と公言したい気持ちの微妙さ。そして無駄のなさ。靴を盗んでいった浮浪者も、気づかぬ医者もちゃんと役立つ。開いてしまうドア、子どもの言い間違い、まで。ここまで丁寧だと窮屈に感じそうなのに、そこがイギリス生まれの人の根っからの体質なのか、品の良さなのか。
[映画館(字幕)] 8点(2013-03-04 09:47:29)(良:1票)
3.  花咲ける騎士道(1952)
前半は、ヨーロッパの活劇はおっとりしてるなあ、ってな感想で、もっぱらG・フィリップの美男子ぶりを眺めていた。煙突をくぐっても汚れ一つつかない完璧なハンサムぶりで、こういう完璧さをめでるのも映画の重要な要素ではあったな、とは思うものの、ずっと美男を見続けてても何かむなしく、といってロロブリジーダ嬢にはもひとつ身を乗り出すほどの魅力が感じられず(その愛されずとも愛を貫く女伊達のキャラクターはいいのだが)、もっぱら屋根の上での活劇に昔テレビで見ていた「快傑ゾロ」などを思い出し懐かしんでいた。でも後半、絞首刑からの救出あたりからノラされて、やたら馬が疾走する終盤で満足。アドリーヌ救出という個人的な追跡が映画冒頭の戦争に絡んでいくあたりワクワクした。強引な地下通路の設定なんかも、全体の「おっとり」と通じ合って素直に笑え、王のメンツも守る大団円はヨーロッパ式だなあと思わせられ、アメリカの活劇とはまた違う味わいを楽しめた。それにしてもこの邦題はズレてないか。原題にある「チューリップ」って言葉は残してほしかったな。この映画のおっとりとぼけた明朗さをよく象徴している花である。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2012-10-14 10:04:28)
4.  パリの恋人
古典的なハリウッドミュージカルは『バンド・ワゴン』を最後の輝きとして終わり、『略奪された七人の花嫁』以後は模索時代と思っているので、これなんか、そのあの手この手を試している感じを楽しめた。もうタップのプロの技能を観客が堪能してはくれない。「オードリーのファッション映画」の一変種としてミュージカルの型を借りたって感じ。ミュージカルとしてのツボは、役者の動きよりもカメラの技法にゆだねられる。カラフルな世界で、スローモーション、ストップモーション、画面分割などなんでも試み、主人公をカメラマンにしてビジュアル効果狙いを自然にしている(赤一色の暗室がほかの場面のカラフルさを引き立てた)。物語のヒロインのイメージでパリの名所を撮影しながら巡っていく趣向も楽しい。オードリーのモダンダンスも一生懸命。一方、プロの芸も残しときたく、アステアと女性編集長が、怪しい集会(やがて来る60年代を予告するような雰囲気)で二階へ上がろうとするナンバーなんかちゃんとしている。アステアの個人芸では、オードリーの部屋の前の広場でのダンスがある(傘の遠投は仕掛けなしか?)。と「あれこれなんでもやってみている」楽しさが味わえる映画だ。なのに枠としてのドラマが旧態依然で、これがちょっと無理があったな。画づらのほうでの模索と拮抗するぐらいの模索を、ストーリーのほうでもやってもらいたかった。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-07-29 09:24:31)(良:1票)
5.  ハーヴェイ 《ネタバレ》 
この手の話では最後に幻覚が消えていって、その別離の切なさ・健康な未来が開ける希望の輝き、ってなとこで締めるのが常道だったと思うんだけど、これの凄いのは、治らないの。せめて酒をやめるぐらいは示唆するかと思うと、それもない。それどころか幻覚が精神病院の院長に「感染」してしまうんだから凄い。日常に疲れきっていた院長に、大ウサギの幻覚が移っていく。徹底して「変わり者」の側から現実を眺める。ま、あくまでコメディで、けっして現実への批評として徹底させてるわけではないんだけど(酒場の裏手でハーヴェイとの出会いを語る場が一番現実批評になってたか。あそこいいシーン)、アメリカのホラ話の伝統と重ねて、実際に妖精かも知れないという含みを残している。ファンタジーに逃げてしまったな、という気もちょっとするが、ま、こういうのはアメリカにしか作れないコメディだ。病院内で本来噛み合わないはずの会話が噛み合ってしまうおかしさが絶妙。ハーヴェイを紹介しようとする主人公のセリフが、いちいちさえぎられてしまう。肖像画をアップで強調しないでじっくり笑わせる(実際どうやってあの絵を描かせられたのだろう。実は人に見えないことを承知しているダウド氏が構図を画家に説明したのか、それとも芸術家には妖精が見えるのか)。演出としては、病院内で座って医者と話すとき、ダウド氏の隣の我々には見えないハーヴェイの座っている椅子も、ちゃんとフレームに収めているのがいい。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-03-24 10:03:42)
6.  花嫁の父 《ネタバレ》 
結婚式に至るまでの小ネタでつなげただけの家庭喜劇なんだけど、大らかな味わいが残る。やってることは伊丹映画と同じような視点なのに、この大らかさがどこから来るのか。時代がいいのか、特殊なもの・ユニークなものをピンセットでつまむように排除してある、その徹底ぶりか。WASPの社交世界の上澄みだけを、きれいに掬い取っている。そういうとこで現在からはいくらでも批判は出来るだろうが、コメディとしての充実ぶりには文句が言えない。恋人はあれかこれかと親父が想像していくあたりからすぐに引き込まれ、初めてバックリー君を窓越しに眺めて「あちゃー」となる展開。「妻が浮かれとる」などモノローグも的確。以後も調子が崩れず、バージンロードを巡る悪夢を抱きながら、娘には“頼り甲斐”を見せなければならない「父はつらいよ」の一幕もいいし、娘の晴れ姿を追いかけて混雑する家の中を駆け巡るあたりの滑稽な・しかし父の情愛の香り立つ描写まで、見惚れてしまった。いかにも平均的な家庭像を作ったのだろうが、母親がJ・ベネットなのね。たまたま私が知ってる映画がそうなだけかも知れないけど、あの人「妖婦」の印象が強かったので、この人でいいの? と思ってしまった。見てる分には気にならなかったけど。ああそうか、E・テイラーって別に妖婦役者ではなかったが、ちょっと突付けばあっさり淫蕩の側に転がるのではないかという気配を、上品さの中に秘めていた(私生活とは関係なく)。かえって普通の人を演じているときに、その裏にある妖しさで魅力を出した女優だった。ここで母子を演じたときにJ・ベネットの遺伝子を受け継いでしまったのではないか。映画ではそういう非科学的な遺伝がときに起こるのではないか。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2012-01-05 10:32:51)
7.  バス停留所 《ネタバレ》 
このカウボーイの「世間知らずの田舎の純朴青年」カリカチュアを、どこまで受け入れられるかが評価の分かれ目でしょうな。コメディとは言えいささか過剰気味で、迷惑なジコチュー男として引いてしまうところもあり、微妙。ときにハチャメチャやってるジム・キャリーに見えてしまった。対比はクッキリしていて、カントリーソングと酒場女の歌。モンタナの牧場の夢とハリウッドの夢。童貞男の一途と経験豊富女のいなし。そこらが噛み合ってくるとイキイキいしてくる。リンカーンの演説を寝床のモンローに語りかけるのが笑えた。中盤のロデオ大会が映像として活気づき、映画の一番の見せ場である終盤のバスストップでのしみじみした味わいへの、いい踏み台になっている。あわてて防寒具を着て殴り合いを見物する女主人の安定感が終幕の芯になっており、人情劇の一場を支えていた。雪の効果が絶大で、それは恋と自意識にノボセ上がった男を冷やす雪であり、また女にとっては「ふしだら」な過去をすすいでくれる雪。親友バージが勘所のシーンではずっとギターを伴奏に奏でているのもおかしい。ドラマとしてはバージが若い二人に遠慮して去っていくのもわかるんだけど、あの二人の今後を思うと、まだ二転三転ありそうなんだから、落ち着くまでときどき背後でギターを鳴らすために残っていてほしい、と現実ならばそう進言する。ロデオの場で「彼がイカれている」ということを伝えるのに、モンローは頭の横で指をくるくる回す。クルクルパーってのはアメリカから来たのか! 日本古来の表現じゃなかったのか!
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-09-18 12:17:17)
8.  バンド・ワゴン(1953)
エンタテイメントの決意表明のような映画で、芸が芸術より優位にあるという宣言。ミュージカル映画というジャンルが煮詰まってきてて、次の手が難しくなっていた時期だ。実際、翌年の『略奪された七人の花嫁』あたりから別の方向を探り出し、その延長線上にロバート・ワイズのミュージカルが出てくる。本作が、一番ミュージカル映画が無理なくイキイキ出来た時代の、最後に生まれた傑作だろう。行き止まりは覚悟の上で、あえて踏みとどまった者の栄誉が輝いている。自分をコケにしかねない役柄をこなし、その路線に殉じるような姿勢を見せたアステアが立派。冒頭で落ち目を強調し(顔を隠して登場するのは『トップ・ハット』で新聞で顔隠して登場したのの回想)、しかし靴を磨くことによって活力を取り戻す段取りに、希代のタップダンサーへの敬意が感じられる。そもそもこの映画全編が彼への敬意で貫かれていて、自虐ネタの痛々しさなど感じさせない。ラストの「ザッツ・エンタテイメント」はエンタテイメント讃歌であるが、同時にアステアへの敬意と感謝のセレモニーであり、ウキウキさせることに眼目があった前半での同ナンバーと違い、ここでは儀式の改まった感じが伴っている。表彰されるものを中心に主要メンバーがただ立っている記念写真のような構図に泣かされる。そして全編に渡ってダンスの素晴らしさ。ハードボイルドパロディの洒落っ気にはニコニコさせられ(ただギャングどもが酒場に入っていくオットセイ歩きのあたりは、モダンダンスとして純粋に興奮する)、あと夜の公園のダンスの優美なこと。並んで歩いていたのがごく自然にクルリと回るともうダンスに入っている。カメラも近づいたり離れたりしながら一緒に踊っているような動き。そしてそのダンスからまたごく自然に馬車に乗り込む動作につながって、馬車が動き出す。ダンスの練習をしたとリアリズムで捉える次元から、二人の恋の発生を表現したと捉える次元までが、重層的に畳み込まれていて、映画における表現の豊かさとはこういうものでなければならない、とつくづく思わされる。
[映画館(字幕)] 9点(2011-08-13 10:20:54)(良:2票)
9.  巴里のアメリカ人
レスリー・キャロンって、いかにもアメリカの子役がそのまま大きくなったって感じだなあ、と思ってたんだけど、この人フランス出身なのね、一番合ってた『リリー』も、舞台はフランスだったんだ。そう思って見ると、にんじん、って感じもある。で、本作で一番ロマンチックなナンバーは、セーヌ河畔での二人のダンス。彼女は白と黒の衣装。冒頭でカラフルなイメージを出していたのでこの白黒が映え、それがそのままラストのパーティの予告にもなっていた。ラストの長い幻想シーンは、白黒のパーティの後で色彩の氾濫となる趣向で、贅を尽くしたという感じだが、立ちすくむ人やテーブルの女などにライトを下から当てたりして、ヨーロッパ的な陰影をかもそうとしている、ときに神経症的。バレーとタップの共演ってのは、アステア時代にも試みられているが、アメリカに根強いヨーロッパコンプレックスから来るのだろうか。ケリーのステッキ持ったタップとキャロンの爪先立ちバレーとの脚の掛け合いに堪能。そして鏡も使った色彩の洪水の果てに、また凱旋門の白黒の画に(赤い花の記憶を残して)戻っていくという趣向で、この映画はモノクロとカラフルの対比で押し切った。タップ好きとしては、子どもたちにいろんなステップを披露するとこ。上半身をダラーんと脱力させていかにも気がなさそうにトットットッとやるのなんか好きだなあ。アダムの部屋でタップ踏んだときは、ドアの敷居なんかもさりげなく使ってた。このアダムの仏頂面が、ケリーのニヤケ笑い(失礼!)と対比されるいいスパイスになっていて、スワンダフルに入る前、事態のややこしさを知った彼がハッピーな二人に挟まれて一人憂鬱にタバコに火をつけるのを繰り返してるあたりがおかしい。「そのしつこさに魅力が追いついてないの」とキッパリ言われても、しつこさに徹すれば最後はハッピーエンドになれるんだな。覚えとこう。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-06-25 10:05:46)
10.  果しなき欲望 《ネタバレ》 
上と下の緊張。二階の渡辺美佐子と下の階で二階を気にしている男ども。あるいは画面そのものが上と下を同時に捉え、上で近所づきあいのやりとりしてて、下で西村晃や小沢昭一が穴開いたガス管で苦しんでるカット。あるいは上を行くトラックと、下で穴の崩れを支えている連中。表面の日常のなにごともなさと、下での汗水たらした欲望の渦巻き。今村の世界を象徴するような二分割カットが秀逸。川縁での長門裕之のデートと、下に潜む男たちってのもあった。独特のコッテリしたユーモアになっている。加藤武の脚や小沢昭一の手なども、グロテスクな笑いを誘う。独立志向の中原早苗は今村ヒロインの原型のようで、やがて『豚と軍艦』の吉村実子につながるキャラクター(もっとも体型的には『赤い殺意』の春川ますみにつながり、原作は同じ藤原審爾だ。ついでに言っとくと、この藤原さんて、あと『秋津温泉』とか『泥だらけの純情』とか『馬鹿まるだし』とか『ある殺し屋』とか、60年代を代表するユニークな映画に原作を提供していて、気になる作家。藤真利子のお父さん)。欲望渦巻くさまを喜劇として捉え、渡辺美佐子の描きかたなど、非難せず、どちらかというとそのバイタリティにただただ感嘆しているよう。緊迫した瞬間に入る門づけのチリーンの音が、絶妙。
[映画館(邦画)] 8点(2010-04-28 12:05:35)(良:1票)
11.  半魚人の逆襲 《ネタバレ》 
てっきりラストで科学者が「惨忍なのは我々人間の方だったかも知れんな」と反省するのかと思ってたら、しなかった。かってにアマゾン奥地から拉致してきて、電気棒で突っついていじめて(水中でやって科学者のほうは感電しないのはどういう仕組みになっているのか)、鎖で自由を奪って、こういうのはすべてラストで反省させるための伏線かと思っていたら、東西冷戦下のアメリカはそんなに甘くなかった。へっちゃら。第三世界の人々への疚しさが奥にあるのか、なんて考える映画ではなかった。このころはまだ水中撮影が珍しいらしく、それだけで売りになったよう(クストーの『沈黙の世界』が翌年)。ちゃんと半魚人が水中を泳ぎ回るのは偉い。頭からあぶくが出てるのは愛嬌。男科学者と女科学者がいちゃいちゃ泳いでいるところに、ストーカーと化した半魚人が重なって泳ぎ出すあたり、サスペンスというより水中レビューショーのような味わいがあった。半魚人がさらった女科学者を浜に放置して助けに来た人を襲うってのがよく分かんない。目的は人類を襲うことなのか、女ではないのか。おっと、これの売りは無名時代のC・イーストウッドが出てるってことだっんだけど、つい半魚人にばかり気を取られて探すのを忘れた(まさか半魚人役で中に入ってたりとか)。かつて「ウルトラQ」の「海底原人ラゴン」の回には無名時代の黒沢年男が漁師役で出ていて、半魚人みたいのに襲われてアワアワやってたっけ。
[DVD(字幕)] 5点(2010-04-24 11:59:20)
12.  初春狸御殿
人間役は、出演の中で一番人間ばなれしている左卜全だけであった。ミュージカルといっても見どころはレビューショーで、別に映画であることを活用してはいないが、日本各地の民謡を狸うたにして巡ったり、チョーチンがいっぱい出てきて、ステージ階段があって、っていうあのレビュー的晴れやかさがたまらない。理屈抜きでシアワセになれる。後のほうでマヒナスターズが出てきて、なにやら脇で妖艶な女狸が大うちわをヒラヒラさせてるとこは慄えた。この題材の自在さ、セットの作り物の楽しみ、が今の映画には欠けていると思った。清順がちょっと復活してくれたけど。
[映画館(邦画)] 7点(2008-10-29 12:11:03)
13.  蝿男の恐怖 《ネタバレ》 
これシネスコってことで、ビデオで見るとたしかに最初と最後は左右詰まった画面になってるけど、肝心の中身、トリミングした不自然な感じがなく、どうなってるんだろう。いかにもやっつけ仕事の演出って感じで、明るすぎるセットで登場人物がそれらしい動きをするだけ、よく言えば禁欲的。でも中途半端に凝ったことやられるとかえって安っぽくなるのを、ここまで何も工夫しないと、たとえば妻が蝿を目で追うなんてささいなアクションすら味わい深くなるから妙である。原作が面白い場合は、こういう何も凝らない演出のほうがいいのかも知れない。原作読んでみたら、映画はラストがハリウッドの定番で明るく変えられてるほかは(もっとも一番怖い蜘蛛の巣は生かしてある)けっこう忠実で、消えた猫がもう一度絡んでくるのをやめたのは、映画の場合正解だっただろう。「白い頭の蝿」が家の中にはいり込み、みんなで追うシーンが加わっているのは、映画的でよろしい。ゾンビものと同じで、人間界から離脱した肉親は処分してしまうのが情け、なのがあちらの考え方なのね。でこの映画の教訓は、やれ打つな蝿が手をすり脚をする、だ。
[ビデオ(字幕)] 6点(2008-09-16 12:12:48)(良:1票)
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