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1.  ピアニスト 《ネタバレ》 
エリカは感情を麻痺させる術に長けている。他人を求め拒絶されることは恐怖だ。あらかじめその恐怖の芽を摘みとることで、彼女は孤独と引きかえに心の平穏と均衡を手に入れてきた。それは彼女なりの生きる智慧だ。ポルノショップで男たちの好奇の目に曝されること、ドライブインシアターでカーセックスに耽る恋人たちを窃視すること、彼女の秘密の二つの行為はどちらも視線を媒介する。見られる時、あるいは見る時、そこに生じるのは他者との距離だ。視線という距離を測ることで彼女は他者との隔たりを認識し、安心する。母親以外を隔絶して生きる彼女はまるで羊水に浮遊する胎児だ。けれどミヒャエル・ハネケはそんなエリカのぬるま湯のような無痛の孤独に、残酷な揺さぶりをかける。彼女の鉄壁を乗り越え迫るワルター。彼のその無邪気さは、常に茫とした第三者として世界に存在していたはずのエリカに、当事者としての甘美な実感を与えてしまう。あえなく氷解してしまった感情のままにたどたどしくワルターと向き合うエリカは、雛鳥のように無防備に愛を乞う。痛ましく無様なその姿と、やがて語られる赤裸々な被虐願望。それは隠し持つ己れの醜さすら曝け出した上で赦されたいという切実な愛の告白であり、罪深い彼女にとってのある種の告解だ。だが頑なな心を開いた彼女を残忍に待ちうけるのは、愛した者に拒まれ、切り捨てられる絶望だ。健やかな笑顔を見せ、他人事のように軽やかに去っていくワルター。それら出来事のすべてが彼女の妄想であれ現実であれ、重要なのはその痛みを前にしたエリカが、麻酔も鎧も、身を護るその一切を失っているということだ。母との蜜月を断ち切り、産道を抜け、血まみれで産み落とされた彼女はもうぬるま湯に逃げ帰ることはできない。胸に突き立てたナイフは、鋭い痛みの実感を彼女に与える。その表情によぎる誤魔化しきれぬ苦悶。エリカは血を流す生身の体で再び、貫くような孤独の痛みの中を、ひたすらに歩いて行く。この不愉快な映画はまさにエリカの持つ尖鋭なその刃の切っ先だ。ハネケの見せつける本物の痛みを前に、私はその不愉快を滑稽と嗤い飛ばす。けれどそれはエリカを庇護し続けた偽りの麻酔とどこが違うのか。ハンドバッグの中に包み隠されたそのナイフを、私もまた確実に持っている。ハネケは言うだろう。ナイフを突き立てろ、そしてその痛みから目を逸らすなと。
[DVD(字幕)] 9点(2009-11-03 18:00:27)(良:2票)
2.  ヒストリー・オブ・バイオレンス 《ネタバレ》 
さびれたモーテルから出てくる二人の男。蝉の声がさんざめく長閑な昼下がり。彼らの他に人影はない。車に乗り込んだ若い男の肩に、しきりに蝿がたかっている。キーを回し車をわずかに移動させ、停止する。始動したエンジン音とカーステレオが途切れ、周囲は再び蝉の声に支配される。やがて若い男がウォータークーラーの空容器を手に、管理人室へと入って行く。二人の男の退屈な動向をただ延々と長回しで捉えたこの冒頭から、画面には異様な気配が漲っている。その怠惰な画面は、単なる平穏ではなく、それに続く暴力への凶兆として存在するからだ。この二人によってある日突然脅かされる主人公トムの安穏な日常もまた然りだ。『ボーリング・フォー・コロンバイン』でマイケル・ムーアは、隣接するカナダとの比較を絡めて「暴力への不安」に蝕まれたアメリカ社会を描いたが、本作の監督がその「カナダ人」であるデヴィッド・クローネンバーグだというのは興味深い。件の二人が(まるで暴力大陸アメリカをあっけらかんと具現化するような)タランティーノ映画の登場人物をどこかしら髣髴させるのは、偶然ではないだろう。本作においてクローネンバーグが執拗に描くのは、アメリカ人が潜在的に抱え持つ「暴力への不安」だ。家でくつろいでいてもダイナーで働いていても不吉に忍び寄る、得体のしれない黒塗りの車。つきまとう「暴力への不安」が常にトムと家族を脅かす。あるいは彼の息子がハイスクールで直面するいじめっ子たちの不穏な威圧。それもまた暴力への不安、その変奏の一つだ。「反撃」という形を借りて土壇場で反転する暴力。その息子の姿は父に重なる。クローネンバーグはそうした反転をたびたび用いることで、月並みなバイオレンス映画の一方向性を封じる。暴力は無限に反転し、転調する。それこそがクローネンバーグが本作で見据える暴力の本質だ。家族たちの畏怖や憎悪の根源が不気味な片目の男から夫であり父であるトム(ジョーイ)へと移行することで、得体のしれない彼らの不安が確固たる恐怖へと転調していく様は圧巻だ。ラスト、不安材料をすべて摘み取り帰宅するトムと、それを知ってか知らずか彼を迎え入れる家族たち。出会った頃のように瞳を読みあうトムと妻。けれどおそらくその先も、彼らは再びの平穏のその裏側で、いつ現れるとも知れない黒塗りの車の来訪を日々恐れ続けていくのだ。
[DVD(字幕)] 9点(2009-10-25 17:46:05)(良:1票)
3.  ビッグ 《ネタバレ》 
日本人にとっての猫ふんじゃったのように、ピアノを前にしてアメリカ人が真っ先に奏でるのはHEART&SOULのメロディなのだろうか。他の映画やドラマでそんなシーンを見かけるたびに『ビッグ』のジョッシュを、そして彼がオモチャ売り場のピアノカーペットで見せる最高にステキな足技を、どうしたって思い出してしまう。この映画はCGどころか特撮すら使わない。子どもの役を大人が演じる、それだけだ。そしてただそれだけのことが、魔法使いも妖精も一切登場しないこの映画をすばらしきファンタジー映画として成立させていることに驚く。絵に描いたファンタジーは、現実世界と等しく、遊園地のアトラクションとして存在するのみである。子どもの夢が実現したジョッシュの部屋で巨大トランポリンを前にするスーザンは大人代表だ。クールな彼女が彼のまさに子どもならではのしつこさに負けて、最初は恐る恐るけれど次第にみるみると童心に還っていく様子がなんともすばらしい。トランポリンは空を飛ぶ夢をかなえてくれる道具だ、少なくとも子どもにとっては。大人はいつしか、そんなことを夢みた日があったことすら忘れてしまう。ドレスをぐしゃぐしゃにして跳ぶ彼女は、遠いその日を思い出す。そして大人のたしなみもクソもない最高にホットな尻飛びまで見せる。大の男と女が夢中でトランポリンを跳ねるだけのこのシーンは、どんな魔法にも負けないファンタジーだ。子どもはそんなふうに空を飛び、そしてプラスチックの指輪を魔法のリングに変える。そんな夢を描きながらも映画を現実逃避に終わらせないのはペニー・マーシャル監督流のたしなみだろうか。ファンタジーには必ず終わりがあり、その終わりを受け入れることが大人になるということだ。子どもに戻るジョッシュとは反対にスーザンや監督や我々は再びたしなみを纏い、大人に戻らねばならない。ラストの別れがこんなにもせつないのは、それがジョッシュやファンタジーとの決別であると同時に、子ども時代との再びの別れをも意味しているからだろう。子どもに戻ったジョッシュだが、終わりを受け入れた彼もまた一歩大人に近づく。だが、大人になるのは悲しいばかりじゃない。一歩一歩を重ねていつか大人になった彼がずっと年のはなれたスーザンとどこかでまた出会う、そんなファンタジーを信じる力を、我々大人だって心のどこかに持ち合わせているのだから。
[DVD(字幕)] 9点(2009-08-21 16:30:22)(良:2票)
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