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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  別れる決心
出会ってしまった男と女。 刑事と被疑者の二人が、惹かれ、癒やし、慈しみ、そして「崩壊」へと突き進む。  描き出されるストーリーを表面的に要約してしまえば、ありがちなメロドラマであり、古典的なサスペンスに思えるけれど、映画の中の人物たちの心象風景と、卓越したビジュアル表現が織りなす映像世界の情感が、パク・チャヌク監督によるありとあらゆる映画表現で見事に融合し、とてもとても豊潤で複雑な人間模様と世界観を構築している。  観終わった後に、本作がパク・チャヌク監督作であるということを知り、納得と驚愕が同時に生まれた。 全編通して繰り広げられる特異で挑戦的な映画表現は、監督が只者ではないことを雄弁に物語っていたけれど、この淡々とした語り口の映画が、「オールド・ボーイ」や「お嬢さん」等のフィルモグラフィーにおいて血みどろで烈しい映画世界を生み出してきたパク・チャヌクとは直結しづらかった。 主人公の刑事は敏腕で屈強だが血みどろの現場が“苦手”という設定や、これまでの作品と異なり過度なセックス描写を排するなど、これまでの作風とは一線を画する作品づくりからは、監督の自らの作風に対しての挑戦も感じる。  刑事と被疑者、遠くて近い関係性が、純愛を織りなす。  取り調べも、監視も、尾行も、殺人現場の検証も、刑事の男と被疑者の女が共に過ごす時間のすべてが、二人にとっては何にも代え難い逢瀬の一時に見えてくる。 (取り調べの最中、美味しい高級寿司を二人でもぐもぐ食べた後、テキパキと机の上を片付ける阿吽の呼吸で、会って間もない二人の人間的な相性の良さを表現するなど、何気ない描写の一つ一つがとにかく巧い) そこには当然ながら、職責や打算も存在していただろうけれど、事件を通じた逢瀬を重ねるに連れ、そんな思惑すらも相手を想う感情へと同化していく。  主人公の刑事チャン・ヘジュンは、元来殺人事件の被疑者に没入し、彼らを身近な人間と捉えて捜査を進めるタイプで、そんな彼がファム・ファタールのように現れる被疑者の女にのめり込んでしまうのも、必然だったのだろう。 一方の夫殺しの被疑者ソン・ソレは、或る事情で中国から逃れてきた不法移民で、夫からのDVと果たすべき本懐を秘め続ける中で、事件を起こし、ヘジュンと出逢う。 出自も社会的地位も全く異なる彼らは、出逢うべくして出逢い、非業な運命を共にしたようにも見える。  ただ、彼らのすべての言動や感情は、その運命を支配するものから俯瞰されているかのように映し出される。蟻が這う死体の眼球、骨壺の中の遺灰、スマートデバイスの画面……。 ニーチェの「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」の如く、凝視したり、監視したり、見つめたりする彼らの視線は、常に“何か”から見つめ返されている。  その深淵たる“何か”とは、神なるものかもしれないし、運命そのものかもしれないし、彼ら自身の深層心理かもしれないけれど、それはきっとすべての人間が時に感じる“視線”の正体なのだろうと思える。 そういった人間の本質的な業にも当てはまる或る種の哲学性を根底に敷き詰め、その営みの愚かさや滑稽さや愛おしさもすべてひっくるめて映画表現の中に詰め込んでみせたことが、本作の類まれな豊潤さに繋がっている。  休日の午後に字幕版で鑑賞して、とてもとても一言では言い表せない映画に対する感情に悶々としつつ、その日の深夜に吹替版で再鑑賞した。 無論まずは字幕版で鑑賞すべきだと思うが、本作の映画的物量の多大さは、初見で字幕を追いながらでは本作の本質を処理しきれていないことも否定できなかった。吹替版で鑑賞し直したことでよりすっきりと本作の情感が腑に落ちたことは間違いない。ただ、本当は、韓国語も中国語もある程度理解したうえで、オリジナルを鑑賞できることが理想的だろうと思う。   彼らが辿り着いた決別は、あまりにも切なく、あまりにも哀しいけれど、彼女の隣でのみ深く眠ることができた束の間は、二人にとって何にも代え難い時間だったのだろう。 その一瞬の微睡みのような逢瀬に心が締めつけられる。
[インターネット(字幕)] 9点(2024-02-24 11:51:31)
2.  悪い奴ほどよく眠る 《ネタバレ》 
いやあ、久しぶりに黒澤映画を観て、根幹的な映画づくりの巧さに冒頭から感嘆した。 オープニング、本作の登場人物が一堂に会する結婚披露宴のシーンが先ず白眉だ。 贈収賄が疑われる土地開発公団組織内の人間関係やパワーバランス、主要登場人物一人ひとりのキャラクター性が、披露宴が進行する中で実に分かりやすく映し出される。それと同時に、過去の事件のあらましや、渦中の人間たちの不安や焦燥感も如実に表されており、実にすんなりと映画世界内の“状況”を理解できる。 そこには当然ながら、世界の巨匠・黒澤明の卓越した映画術が張り巡らされていて、俳優一人ひとりへの演出、ドラマチックかつ効率よく映し出される画面構図など、素人目にも「ああ、上手い」と感じ取れる映画表現が見事だった。  1960年公開の作品であることをあまり意識せず観始めたので、キャスティングされている錚々たる名優たちが、これまでの鑑賞作のイメージと比べて随分若かったことも新鮮だった。 西村晃、志村喬、笠智衆ら、“老優”の印象が強い俳優たちが、まだそれぞれ若々しくエネルギッシュな演技を見せてくれる。  中でも印象的だったのはやはり西村晃の怪演だろう。晩年こそ水戸黄門役などで好好爺のイメージも強いが、若い頃の西村晃はクセの強い悪役が多く、本作でも次第に精神を病んでいく気の弱い中間管理職の男をあの独特な顔つきで演じきっていた。 また志村喬が悪役を演じている映画も初めて観たのでとてもフレッシュだった。  そしてもちろん、主演の三船敏郎のスター俳優としての存在感も言わずもがな。 恨みを秘め、復讐劇を果たそうとする主人公を熱演している。冷徹な復讐者の仮面を被りつつも、元来の人間性が顔を出し苦悩するさまが印象的だった。  60年以上前の古い映画でありながら、150分間興味をそぐことなく観客を引き込むサスペンスフルな娯楽性が凄い。 ストーリーの顛末に対する情報をまったく知らなかったので、ラストの展開には驚いたし、釈然としない思いも一寸生じたけれど、この映画においてあれ以上に相応しいラストも無いと思える。  森雅之演じる公団副総裁は、物語の佳境で自分の娘すらも騙して保身のための悪意と悪行を貫く。そしてその自分自身の様が映る鏡を見て、思わず目を伏せ、脂汗を拭う。 本作は勧善懲悪の分かりやすいカタルシスを与えてくれずに、痛烈なバッドエンドをもたらす。 現実社会の陰謀や巨悪がそうであるように、本当の悪人に対しては裁きも無ければ、贖罪や処罰の機会すら与えられない。 只々、罪を抱えて孤独に生き続け、そして一人眠るのだ。  まさに、“悪い奴ほどよく眠る”を雄弁に物語るラストシーンの皮肉が痛烈。 60年の歳月を経ても、その社会の仕組みに大差はない。 どの時代も、悪意は、よく眠り、よく育つ。
[インターネット(邦画)] 8点(2024-02-03 14:11:39)
3.  ワイルド・スピード/ファイヤーブースト
えっ!?ええっ!!?えええっっ!!!の連続。それは、このアクション映画シリーズを愛し、この第10作に至るまで堪能してきたファンにのみ許された特典的なエキサイティング性だったかもしれない。 無論、必ずしも“一見さんお断り”というわけではなく、圧倒的物量のアクションシーンと怒涛のスペクタクルは、誰が観ても高揚する娯楽性を放っていたけれど、その根底にあるのはやはり、本シリーズのファンも含めた“仲間”に対する「家族愛」であり、シリーズを追い続けてきたからこそ得られる高揚感が確実に存在していた。  「ワイルド・スピード(原題Fast & Furious)」の最新10作目にして、最終章の前編となる本作は、常識や現実なんてものは、もはや遠い彼方に置き去りにしたアクション&ファンタジーとして、堂々と仕上がっている。本作の“あり得ない”描写に対して、揶揄したり、鼻白んだりすることしか出来ないのであれば、もうそれはこの“車”からお降りいただくしかない。  最終章を描くにあたって、敵味方を含め過去9作に登場してきたキャラクターたちを“総動員”させようという心意気も嬉しい。 それは、“ファンサービス”と言ってしまえば確かにその通りかもしれないけれど、去ってしまった仲間に対する敬愛、そして倒してきた敵からの憎悪の連鎖とが入り交じる本シリーズの人間模様の総決算でもあり、相応しい顛末に感じた。  シャーリーズ・セロン演じる最凶の敵サイファーが、いきなり呼び鈴を鳴らして訪ねてくる冒頭シーンに驚き、絶対に死亡していたはずの“ワンダー”な女性キャラの再登場に高鳴り、“不仲”が伝えられていた最強捜査官の復帰に歓喜した。  そして、ジェイソン・モモア演じる本作の敵ダンテのイカれジョーカーぶりも最悪で最高だった。 本作においてドムの追撃をことごとく阻み、ついには“ファミリー”を「崩壊」にまで至らしめたこの悪役の暴れっぷりと狂いっぷりは、近年のヴィランの中でも随一の存在感を放っていたと思う。  キャラクター的にはもう一人、前作で悪役として登場したドムの実弟ジェイコブも、その“キャラ変”ぶりが最高の一言だった。ドムの息子“リトル・B”との道中のやり取りは、その微笑ましさと痛快さに終始ニッコニコ状態。この叔父・甥コンビのロードムービーだけで1本の映画が作れるのではないかとすら思えた。 ジェイコブは、前作からの禊も含めた涙腺崩壊必至の“離脱”となるけれど、本作の世界観が描いてきた「常識」を踏まえると、ほぼ確実に、「ジェイコブ叔父さんは帰ってくる」だろう。  というわけで、本作は「前編」として、ある意味最高にエキサイティングな終幕を迎える。2025年公開の次作が待ちきれないところだが、本シリーズが積み重ねてきた10作分をじっくり観返して待つとしよう。  何度も何度も大切な仲間たちを生き返らせてきた「ワイルド・スピード」の最終作であれば、しばらく不在の“もう一人の主演俳優”も、まるで何もなかったように復活するに違いない。と、非現実的なことを信じずにはいられない。
[インターネット(字幕)] 9点(2023-09-03 22:23:28)
4.  ONE PIECE FILM RED 《ネタバレ》 
「ONE PIECE」の映画作品の鑑賞は、「STRONG WORLD」、「FILM Z」に続いて3作目。 原作漫画ファンなので、アニメシリーズは殆ど見ておらず、映画作品も公開時に評判の良かった前述の2作品を観たきりだった。 ただ、今年になって小2の息子がアニメに夢中になっており、シーズン1から延々と観続けている。 そんなこともあり、夏休みどこにも行けず暇を持て余していた子どもたちを連れて、4DXで観てきた。   本作のテーマは、「歌」を通じた「自由」という渇望とその危うさ。  「自由」とは何か? 抑圧や支配、苦しみや悲しみを安直に拒否し、それらが皆無の限られた世界に閉じ籠もることは、果たして自由か。 自由の渇望とは実はとても曖昧な概念であり、それを悪意はなくとも浅く捉えてしまったとき、自由の追求そのものが独善的な狂気になり得るということ。 これは決して大仰なテーマではなく、僕たちの普通の生活や人生の中でも、往々にして起こることだと思う。  歌手のAdoを歌唱パフォーマンスにキャスティングし、ほぼアテ書きのと思われる「UTA」というオリジナルキャラクターを造形することで、歌い手のパフォーマンスに振り切り、そういうテーマの浮き彫りに絞ったストーリーテリングは好感が持てた。 そのテーマとストーリーは、Adoを世に出したヒット曲「うっせぇわ」のセルフアンサーのようにも感じ、作品としての立体感につながっていたと思う。  オリジナルストーリーの映画であるがゆえに、キャラクター設定やストーリー展開の強引さはある。 避けられない不運が重なったとはいえ、シャンクスが娘同然の少女を十数年も放置していたことには違和感があるし、それによってウタが辿った運命は悲痛すぎる。(そのあたりについては、せめて連載漫画の扉絵シリーズなどでフォローしてほしい)  とはいえ、25年に渡って「ONE PIECE」を読み続けているファンとしては、ほぼ初披露と思われるシャンクスをはじめとする赤髪海賊団の面々のバトルシーンと、従来の敵味方が入り混じった“ドリームチーム”に、想像以上に興奮した。(まさかブルーノが萌キャラとして登場するとはな)
[映画館(邦画)] 6点(2022-08-20 10:15:02)
5.  ワイルド・スピード/ジェットブレイク
「ワイルド・スピード/ジェットブレイク」という邦題だとつい忘れがちになってしまうが、「Fast & Furious 9」という原題を見ると“第9作目”という事実に少々唖然としてしまう。 「007」のようにキャストが刷新されたり、「スター・ウォーズ」のように章立てられた物語が時代を跨いで続いているシリーズは思いつくが、単一の時系列の中でほぼ同じ主要キャストによってシリーズ作が作り続けられているハリウッド大作が他にあるだろうか。 無論、人気のない作品がこれほどシリーズ作を積み重ねられるわけもなく、紆余曲折を経ているとはいえ、世界中から愛されている映画であることは、先ず称賛されるべきだと思える。  かくいう自分自身も、この娯楽大作シリーズを愛するファンの一人であり、最新作を楽しみにし続けている。 ファンとして敢えて断言するが、9作目にして完全なる「バカ映画」が爆誕している!と思う。 いや、とうの昔からバカ映画シリーズなんだけれども、本作はいよいよそのバカさ加減のメーターが振り切っている。  ストーリー展開や、物語のおける過去作との整合性云々は、もはや突っ込みだしたら泥沼にハマってしまうのでやめておこう。 そんなことよりも、味方のキャラクターが生身でどんなに吹き飛ばされても車のボンネットや天井で受け止めたら無傷で済むという謎ルールや、世界各国の路駐されている車はすべて無人で破壊し放題という治外法権ぶりや、宇宙航行を可能にする車体の超科学的頑丈さ等々を、「磁力最強!カッケー!」言いながら馬鹿になって楽しむべきだ。  そして、世界中の映画ファンが悲しみと共に納得し、諦めているのに、それでも彼の名前を呼び、彼の“席”を空け、彼を生き続けさせるこの映画のあまりにも熱い「家族愛」を見せつけられては、どんなにバカ映画の連作となろうとも、僕はこの映画シリーズを愛さずにはいられない。
[インターネット(字幕)] 6点(2021-12-30 15:27:55)(良:1票)
6.  ワンダーウーマン 1984
先ず言っておくと、決して「精巧」な映画ではない。ストーリーは強引だし、様々な側面においてはっきりと稚拙な部分も多い。 映画的なテンションの振れ幅が大きく、まとまりがない映画とも言えるかもしれない。 でも、「彼女」は時を超えて、変わらずに強く、美しい。それと同時に、等身大の儚い女性像も内包している。 世界の誰よりも強く美しい人が、世界中のすべての女性と同じように、悲しみ、苦しみ、戦う。 その様を再び目の当たりにして、僕は、前作以上に高まる高揚感と、殆ど無意識的に溢れる涙を抑えることはできなかった。  舞台は、前作の第一次世界大戦下から70年近く時を経た1984年。“ワンダーウーマン”ことダイアナ(ガル・ガドット)は、最愛の人スティーヴ・トレバー(クリス・パイン)をなくした傷心を抱え続け、それでもたった一人正義と平和のために日夜身を投じている。 そんな折、古の神の力を秘めた“願いを叶える石”によって死んだはずのスティーブが数十年の時を経て甦る。奇跡的な邂逅の喜びに包まれるダイアナだったが、その裏では或る男の陰謀が世界を破滅へと導いていた。  序盤は、1980年代のアメリカ特有のサイケ感と、前作に対するセルフパロディを楽しむべき“コメディ”なのかと思った。 当代随一のコメディエンヌであるクリステン・ウィグが放つ雰囲気と存在感も、その印象に拍車をかけていた。 この序盤のテイストは、かつて70年代〜80年代に製作されていたアメコミヒーロー作品に対するオマージュでもあったのだろう。(エンドクレジットにおいてサプライズ登場する或る人物も、当時のアメコミ映像化作品に対するリスペクトだ)  1984年の世界のビジュアル的な再現に留まらず、良い意味でも悪い意味でも“おおらか”で“ユニーク”な80年代の娯楽映画の雰囲気までもが、今作には充満していた。 それはそれで娯楽映画としてなかなか味わい深いテイストであったし、実際楽しい展開だったと思う。  だがしかし、そこから展開された今作のストーリーテリングは、「時代」という概念を超えて、極めて現代的なテーマと、まさにいまこの瞬間の「世界」における辛苦をまざまざと突きつけるものだった。 その語り口自体はどストレートであり、王道的だ。だが、“ワンダーウーマン”だからこそ伝えきるメッセージ性のエモーションに只々打ちのめされる。  オープニングのダイアナの幼少期のシークエンスからてらいなく描き出されていたことは、真実を偽ることへの「否定」と「代償」。  この現代社会において、“偽る”ことはあまりにも容易だ。不正することも、嘘をつくことも、いとも簡単にできてしまう。 そして、名も無き者の一つの「嘘」が、さも真実であるかのように世界中に拡散され、後戻りのできない悲劇を生んでしまう時代である。  今作においてヴィランとしてワンダーウーマンの前に立ちはだかるのは、文字通り「虚言」のみを武器にしたただの「男」である。 彼は野心的ではあるが、世界中の誰しもがそうであるように、夢を持ち、家族を持ち、ステータスを得て、“良い人生”を送りたいと、努力をし続けてきた普通の男だと言えよう。 ただ、一つの挫折が、この男を屈折した欲望と偽りの渦に落とし込む。  その金髪の風貌や、クライマックスの全世界に向けた“演説”シーン等のビジュアルからも明らかだが、このヴィランのモデルは“前アメリカ大統領”に他ならない。 あまりにも利己的で傲慢な者が、異様な力(権力+発言力)を持ち、世界に向けて「発信」することによる社会的な恐怖と鬱積。 この映画に充満した“絶望”とそこからの“解放”は、アメリカという大国のこの“4年間”そのものだったのではないかとすら思える。  傲慢で愚かなヴィランは、怒りや憎しみを超えて、もはや憐れに映し出される。 そんなヴィランに対して、ワンダーウーマンが取った行動は、攻撃でも封印でもなく、「対話」だった。 それはまさに、今この世界に求められる“真の強さ”であろう。  「欲望」は世界中の誰もが持っていて、それを追い求めること自体はあまりにも自然なことだ。 しかし、世界の理を無視して、世界中の欲望のすべてが「虚像」として叶えられたとしたら、この世界はどうなってしまうのか。人間は何を「代償」として失うのか。 その真理と恐怖を、この映画(彼女)は、信念を貫き、力強く叩きつける。
[映画館(字幕)] 9点(2020-12-26 22:54:29)(良:1票)
7.  ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド
“クソったれ”な俗物だらけのこの街で、強欲と虚栄に塗れた“モノ(即ち映画)”が、時代と価値観を越えて、生み出し続けられている。 数多の作品と俳優が生まれては、ガムの様に噛んで吐き捨てられる。なんて儚くて、なんて愚かしいのだろう。 ただね、それでも、この街と、そこに生きる人間たちと、彼らが生み出す「映画」が大好きなんだから仕方がないじゃないか。 このクソ素晴らしい“ハリウッド”に愛をこめて。 by クエンティン・タランティーノ     と、タランティーノ監督が高らかに言い放ったかどうかは知らないけれど、結論から言うと、この作品は世界一“映画愛”に溢れた映画監督による、“映画愛”に満ち溢れた傑作だと思う。 僕は、クエンティン・タランティーノには遠く及ばないけれど、“映画愛”を自負する者の一人として、この映画を否定できるはずも無く、立て続けに2度映画館に足を運んだ。   タランティーノ映画ならではのバイオレンス描写や、マシンガンのような刺激的な台詞まわしを期待してこの映画を見進めていくと、面食らうことは先ず間違いない。 二度鑑賞し、冷静に振り返ってみても、この映画の大半は「何も起こっていない」と言わざるを得ない。 1969年のハリウッドを舞台に、落ち目のテレビスターと、彼の相棒兼専属スタントマンの平坦で自堕落な日々を、ひたすらに、そして恐ろしいまでの丁寧さで描いていく。   極めて単調な映画のように見えるのに、この映画は最初から最後まで少しも退屈ではなく、161分の上映時間は瞬く間に過ぎ去る。 それは丁寧に描きぬかれた一つ一つのシーン、一つ一つのカットが、あまりに愛おしく、映画として光り輝いているからだ。 そして、テレビスターも、スタントマンも、映画監督の隣人も、その妻も、プロデューサーも、子役も、若手カンフー俳優も、ヒッピーも、善人も、悪人も、この映画に登場するすべての人物が映画を愛してやまないからだ。   単調に見えるストーリーテリングの末、溜まりに溜まった鬱積と暴力性が唐突に弾ける様に、短くもこの上なく激しいクライマックスを経て、本作は終幕する。 あまりにも爽快で、あまりにも破茶滅茶なその顛末が、同時にとても刹那的で感慨深い。   そこにあったのは、誰よりも映画を愛するタランティーノ監督による現実に対する「復讐」と、「やさしい嘘」だった。   テレビスターのリックは酒に溺れて、そのまますべてを失ったかもしれない。 スタントマンのクリフは激情的な暴力のしっぺ返しを受け、命を落としたかもしれない。 そして、隣人のシャロン・テートは、狂ったカルト集団に襲われ身ごもった子もろとも惨殺されたかもしれない……。   現実世界の理不尽な暴力を、映画世界だからこそ許されるさらに激しい暴力で返り討ちにした後、主人公は隣人に招かれ、身重の彼女を優しく抱擁する。 不幸な事件なんてまるでなかったかのうように、クエンティン・タランティーノは、「映画」で「映画」を抱きしめ続ける。
[映画館(字幕)] 10点(2019-12-25 22:11:33)
8.  若おかみは小学生!
昨年の劇場公開時から世の好事家たちからも絶賛の嵐だったアニメ映画をようやく鑑賞。 原作となった児童文学はシリーズ全20巻(2003〜2013)が刊行されている人気作品らしいが、世代的に全く重なっていないこともあり、タイトルすら聞き覚えがなかった。 前評判が無く、このタイトルとポスタービジュアルだけを見聞きしただけだったとしたら、絶対に鑑賞に至らなかっただろう。 が、そういうあり得なかった「機会」を生んでくれるから、現代社会は有り難い。  評判通り、期待通りに、真っ直ぐに良い作品だった。 その混じり気のない純粋な“良い映画感”は、まさしく児童文学を原作にしているに相応しく、これから色々なものに成長していく多くの子どもたちに観てほしい映画だと素直に感じる。  純粋な少女の成長を描いた瑞々しい作品であることは間違いないが、幅広い映画ファンからも激賞を引き出しただけあって、描き出されるストーリーは、実のところあまりにも重く、悲しい。 何の罪もない少女のふとした瞬間に訪れた「不幸」は、理不尽で、只々辛い。 ただ、その不幸は、理不尽だからこそ、実はこの世界に生きる誰にでも起こり得る類のものであり、事程左様に身につまされる。  自分の大切な愛しい人たちといつものように笑い合っている次の瞬間に、突如としてすべてが叩き潰される。 そんな不幸の可能性は、いつだって、誰にだって、人生と隣り合わせで存在している。  もしそんなことが我が身に起きたなら……と、考えただけで辛くてたまらない。 でもね、そんな人生の普遍的な辛苦を、この映画の主人公は、明るく、やさしく、懸命に乗り越えていく。 とんでもなく悲しく、辛い運命を、その小さな体と笑顔で受け止めていく主人公。 それはもう幼気な女児の健気さなどではなく、ただひたすらに強く、魅力的な“女性の姿”だった。  人間、傷つかずに生きていけたならば、それに越したことはないのかもしれないけれど、そういうわけにもいかないのが、人生というもの。 泣いたっていい、当たり散らしたっていい、ふさぎ込んでもいい、ただその先に、そういう自分を拒まずに受け入れてくれる存在に出会えるかどうか。 人生の価値は、そういうところで表れてくるものだと思う。めちゃくちゃ泣いた。
[インターネット(邦画)] 8点(2019-12-13 23:03:36)(良:1票)
9.  藁の楯
休日の午後、昼寝明けの映画鑑賞は至福だ。 ただ、そういうタイミングで観るに相応しい作品選びには、なかなかのバランス感覚を要する。 自由になっている残り時間を考慮して、あまり重々しすぎず、期待値もそれほど高くはない映画を気軽に観たい。でもだからといって、折角の休日のひと時を無駄にするようなどうしようもない駄作も避けたい。 動画配信サービスのリストと、録画したままになっているHDDのリストの中から、慎重に作品を吟味し、本作の鑑賞に至った。  存外に面白く、決して揶揄しているわけではなく、このタイミングで観るに相応しい映画だった。こういう一連のプロセスも含めた映画鑑賞における“当たり”は、映画ファンならではの満足感を覚え、多幸感すら感じる。  2013年の劇場公開をスルーして、6年経った今に至るまで未鑑賞だったわけだから、正直なところ期待値は低かった。 「三池崇史」という監督のクレジットを見ても、その期待値が大きく修復されることはなく、なかなか食指が動かない作品の一つだったことは否定できない。 その大きな要因は、キャスティングに対する悪印象によるところが大きい。 大沢たかお、松嶋菜々子、藤原竜也、メインビジュアルにも大写しになっているこの3人の人気俳優に対する、個人的な期待値の低さが、作品へのそれにもダイレクトに影響していたことは間違いない。  だがしかし、結果的には、この3人のメインキャストの「熱演」が、映画世界のテンションに合致し、作品の価値を高めていたと思う。 決して彼らの他の出演作に比べて特別に“巧い演技”をしているというわけではなく、映画世界の異常な状況に合致した大仰な演技プランと、彼らの俳優としてのスター性が、映画の空気感に呼応し、観客を引き込むことに成功していたと思う。少なくとも僕は引き込まれた。  映画作品としては、挑戦的で、ある意味独善的でもあるストーリーテリングの豪胆さが、昨今の国産娯楽大作の中では抜けていて、素晴らしかったと思う。  “怨み”や“憎しみ”は、大切な「誰か」のために生じるものではない。 怨みも、憎しみも、それを晴らそうとする行為は、常に「自分」のためだけに存在する。何故なら、死んだ人間は何も喋らず、何も感じないからだ。 怨みを晴らすために敵討ちに大金を投じる老人も、怨みを圧し殺して職務を全うしようとする主人公も、その行為の根本にあるものは、実は同じなのではないかと思う。 詰まるところそれは、自分自身が耐え難き痛みを抱えて生き続けるための、本当にぎりぎりの“手段”だった。 この映画は、終始一貫して、そういう人間の脆さと普遍的な内なる葛藤を情け容赦無く叩きつけてくる。  どんなに真っ当に生きていたとしても、藤原竜也が演じたような理不尽な凶悪は、必ず存在し得る。 もし万が一そういうものに直面してしまったとき、人間として、何ができるのか、そして何ができないのか。 無論、その答えは出ないし、考えたくもない。が、その禁忌を、映画的娯楽の中で問答無用に突きつけてくる本作は、見事なエンターテイメントだと思う。  三池崇史の作品に対して、失礼なことだが、想定外に傑作だった。
[インターネット(邦画)] 8点(2019-10-23 17:34:16)
10.  ワイルド・スピード/スーパーコンボ
ドウェイン・ジョンソンとジェイソン・ステイサム、この二人の俳優が、今現在の“アクション映画俳優”の頂点と言って過言ではないだろう。 撮影技術の進化に伴い、必ずしもアクション俳優ではなくとも、超一級のアクション映画の主演を務められるようになって久しいが、この二人こそが、本来の意味でのアクション俳優の系譜を継ぐトップランナーだと思う。 そして、CG隆盛の今だからこそ、リアルに鍛え抜かれた体躯をもってして、リアルに体を張って、リアルに戦うことができる彼らの存在感が、殊更に高まっているようにも思える。  そんなアクションスターの二人が“脇役”として登場する「ワイルド・スピード」シリーズの娯楽性の高さは、昨今のアクション映画シリーズの中では群を抜いていて、逆に彼らが参戦したからこそ、エンターテイメントとしての多様性が拡大したとも言えるだろう。  故に、そのアクションスター二人が“主演”として、シリーズの本流から外れて大活劇を繰り広げるという今回のスピンオフに対しては、善し悪しはともかく、シリーズのテイストから大きく「脱線」するのだろうなという推測と覚悟がそもそもあった。 それならば別に「ワイルド・スピード」シリーズでなくてもよかろうが、二大アクションスターの競演であることには変わりないし、加えて監督がこれまたアクション映画監督のトップランナーであるデヴィッド・リーチとくれば、そりゃあ劇場鑑賞せざるを得まいと思った。  結果としては、“推測”よりもずっとちゃんとした「ワイルド・スピード」映画だった。 豪快馬鹿アクション映画であることは間違いないが、その豪胆さ映画全編のテンションも含めて、ちゃんと「ワイルド・スピード」の世界観の中で、“ワイルド”そのものの主演俳優たちが暴れまわっていた。  一流アスリート上がりの体躯が持ち味の二人なので、無論「肉弾戦」がメインの仕上がりにはなっているが、随所に同シリーズの無二の“売り”である「カーアクション」も効果的に散りばめられており、「ワイルド・スピード」ファンとしても「これじゃない感」は決して感じなかった。 むしろ、それぞれのカーアクションにおいても、使用される車種や展開されるアクションの見せ方で、“ホブス”と“ショウ”各々のキャラクター性と特性が表されており、凝っていたと思える。  そしてクライマックスはまさかの“サモア決戦”。 展開としてはまさしく強引で荒唐無稽だが、それをまかり通す豪腕とキャラクター性こそが、ドウェイン・ジョンソンとジェイソン・ステイサムの「本領」だろう。 数々の出演映画で様々なキャラクターを演じても、ドウェイン・ジョンソンの左肩のタトゥーは変わらない。ジェイソン・ステイサムは、クールで紳士的な殺し屋を演じたかと思えば、別の映画では心臓に細工されて路上セックスをキメる。 決して型にはまらない豪快さと、愛さずにはいられないチャーミングさ、それらは彼らが決して一筋縄ではない俳優人生を歩んできたからこそ勝ち得た魅力であり、素晴らしい人間性を含めた「俳優力」そのものだと思う。  これ次は絶対ホブスの“親父”が出てくるな。誰がキャスティングされるかも期待しながら、次作を待とう。
[映画館(字幕)] 7点(2019-09-15 08:21:54)(良:1票)
11.  ワンダーウーマン
時代を超越した特異なコスチュームを纏った唯一無二の女戦士が、死屍累々の無人地帯“ノーマンズランド”を、単身で突き進む。 この映画における数々のアクションシーンの中でも、白眉の場面である。 その場面を目の当たりにした瞬間の高揚感それのみで、このヒーロー映画の価値は揺るがないとすら思える。  一方で、繰り広げられるストーリーにはムラが多く、呆れるくらいに大味である。 「マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)」をはじめとする昨今のヒーロー映画におけるストーリーラインの精細さと比べると、明らかに「稚拙」と言えよう。 しかし、この映画には、数多の傑作ヒーロー映画と比較しても一線を画する圧倒的なエモーションが溢れている。それは稚拙なストーリーラインを補って余りあるものだった。  満を持して新しい“鋼鉄の男”と“闇の騎士”を描き出し、その二大ヒーローの激突を力を込めて映し出してもなお、絶好調の「MCU」に対しては一矢報いることすら出来ていなかった「DCエクステンデッド・ユニバース(DCEU)」が、遂に反撃の狼煙を上げたと言っていい。  優れた映画職人たちを集め、集合体としてのクオリティの高さを提供し続けているMCUに対して、DCEUが貫き通したものは、まさに一点突破のケレン味だ。 愚直なまでに突き詰めたビジュアルに、マットな質感の重厚なヒーローが、“決め画一発”の格好良さをこれでもかと見せつける。 愚鈍だ、鈍重だ、と非難し続けられた彼らがこだわり抜いた“センス”が、稀代の女性ヒーローによって、ついに解き放たれたようだった。  DCコミックスで描かれてきた「ワンダーウーマン」は、束縛と解放の象徴であったのだと思う。 そして、この映画化においても、その命題は見事に表現されている。  ワンダーウーマン=ダイアナ・プリンスは、純粋故に無垢で危うい「正義」を掲げ、“闘い”に挑む。 その闘いの対象は、強大な“悪”であると同時に、自分自身に課せられ、縛り付けられた“宿命”でもあったように思う。 自分の存在性を象るあらゆる“しがらみ”の一つ一つを初めて認知し、対峙し、自分自身を解き放っていく様こそが、このスーパーヒーローにとっての“闘い”そのものなのだと感じた。 だからこそ僕は、「彼女」の存在とその一挙手一投足に涙が溢れて仕方なかった。  「バットマンVSスーパーマン/ジャスティスの誕生」の時点で、巨躯の男たちを凌駕し、ワンダーウーマンとして圧倒的存在感を放っていたガル・ガドットは、見事にこの役を自分のものにしてみせている。  そして、彼女の女優としてのポテンシャルを最大限に引き出し、絶妙なバランスを要求されるヒーロー映画を成立させたパティ・ジェンキンスの監督力には脱帽する他ない。 「モンスター(2003)」でシャーリーズ・セロンを文字通りに“化け”させたこの監督の手腕の確かさを改めて感じた。 なぜこの監督は「モンスター」以降の長編映画作品が無かったのか不思議でならない。 が、その「現実」こそが、女性の活躍を押しとどめる「ガラスの天井」の存在を如実に表すものなのだろう。  勇ましく美しいワンダーウーマンが、“ガラス”を突き破り、次々に襲いかかる「敵」を叩きのめす。 彼女が示したその「勇気」の価値は、「映画」という枠を超えて、神々しく光り輝く。
[映画館(字幕)] 9点(2017-11-09 22:11:17)(良:2票)
12.  ワイルド・スピード/ICE BREAK
冒頭、「Fast & Furious 8」とタイトルが掲げられ、いつものようにストリートレースを挑まれた主人公がハバナの街を激走する。 シリーズ8作目にして、公開されるやいなや喜び勇んで映画館に足を運び、お決まりのレースシーンに早速高揚させられた時点で、この映画を否定する余地は微塵もなかった。勿論端からそのつもりはないのだけれど。 言わずもがなこのカーアクション映画シリーズの大ファンである。 決して自動車自体に強い興味があるわけではない僕を虜にして久しい今シリーズの稀有なエンターテイメント性はもはや奇跡的であるとすら思う。  ただし、この最新作に対して不安が無かったわけではない。 前作「SKY MISSION」は、ヴィン・ディーゼルと共に主人公を演じてきたポール・ウォーカーの急逝を乗り越え、彼と彼が存在したこの映画世界に対する多大な慈愛に満ち溢れたまさに奇跡的なアクション映画だった。 傑作の後を受け、必然的に新たなキャラクターバランスの構築を余儀なくされたこの最新作が、果たしてどんな仕上がりになっているのか、期待と不安は入り混じっていたと言える。  しかし、様々な苦難を乗り越えながら“PART8”まで作られてきた今シリーズの底力は伊達ではない。 これまで幾度も「強引」という言葉を覆い隠す「豪快」な展開により、映画世界そのもののテイストやキャラクター設定すらも変革してきた今シリーズだからこそ許される「前作までのキャラ設定ほぼ無視」の展開力により、新たな娯楽性の付加に成功している。 過去作での出来事を振り返れば、「さすがに強引過ぎる」という意見も分からなくはないけれど、もはやそんなことに目くじらを立てていては、目の前で繰り広げられる圧倒的娯楽性に対して勿体無いと思える。 そして、ジェイソン・ステイサムのファンとしては、アレほどこのアクションスターに相応しいアクションシーンを見せられては、諸手を挙げてニヤニヤするしかなかった。  おそらくは次回作以降もラスボスとして存在するのであろうシャーリーズ・セロンの“絶対悪”感も最高だった。 いよいよ筋肉バカだらけになってきた熱苦しい映画世界の中で、まさに氷の女王のような冷ややかな美しさと悪意がほとばしるこのアカデミー賞女優の存在感は、見事に新たなキャラクターバランスを構築していると思う。  キューバ・ハバナを激走するファーストシーンで明らかなように、この地球上に走っていない場所がある限り、このシリーズは新たな娯楽性を生み出し続けられるとすら思う。 アクション映画として体感は10点満点。さあ、次はどこを走るのか。
[映画館(字幕)] 8点(2017-06-24 20:29:56)
13.  ワイルドカード(2014)
この映画のストーリーラインが描き出したかったことは、うらぶれた人生からの脱却を実は夢見ている裏稼業の男が、不意に現れた“若者”との一夜の交流を通じて、決意と活路を見出していく物語だったのだと推察する。 なにせ、脚本は二度のアカデミー賞にも輝くウィリアム・ゴールドマンである。 きっと本来イメージしていたストーリーラインは、ラスベガスの欺瞞に満ちた輝きの中で、己の腕っ節のみで生きてきた不器用な男の哀愁と、その先に見えた真実の光だったのだろう。 そういうストーリーラインを示す描写や設定は確かに点在している。  しかし、残念ながら結果としては、この映画においてそういった芳醇なドラマ性は生まれておらず、全編通してチグハグでバランスの悪いアクション映画に終始してしまっている。  その原因が、イメージはあるものの緻密な人間描写の構築まで至ることが出来なかった老脚本家にあるのか、ドラマシーンの演出力に欠いたB級アクション映画監督にあるのか、はたまた良い意味でも悪い意味でも“筋肉バカ”である主演俳優にあるのかは定かではないが、まあ何とも残念な映画に仕上がってしまっていることは間違いない。  監督はサイモン・ウェスト。世間的にはB級アクション映画専門監督というレッテルを貼られており、その認識に間違いはないと思うけれど、個人的には1997年の「コン・エアー」以来、決して嫌いにはなれないアクション映画監督の一人である。 主演のジェイソン・ステイサムとも、「メカニック」「エクスペンタブルズ2」と、相性の良い仕事ぶりを見せてくれていただけに、今作に対してもB級アクションならではの良い意味で“雑多な娯楽性”を期待していた。 実際、アクションシーンの見応えは確かにあったと思う。 “銃”を絶対に使わないというキャラ設定を活かした主人公のアクションシーンにはキレがあり、銃を使わないからこそ生じる残虐性とそれに伴う“痛々しさ”が特徴的だったと思う。  ただし、アクションシーンに限らず総てのシーンが短絡的かつ散文的で主人公の行動原理に説得力がまるでなかった。 「主人公がどういう人間なのか」という肝心な部分が、極めて曖昧で掴みきれない。 勿論、敢えてそういう主人公造形をする作品もあるけれど、結果として本質的な魅力を欠いてしまっていることは、脚本、演出、演技の総てにおいて力量が足りていないということだろう。  詰まるところ、今作においては脚本、監督、主演俳優の“食い合わせ”が悪かったということだと思う。 全く別の座組が実現していたならば、もっと良い映画になり得た可能性はあった……かもしれない。
[インターネット(字幕)] 3点(2017-04-18 16:52:24)(良:1票)
14.  ワイルド・スピード/SKY MISSION
「別れなんてない」 そう言い残して一人走り去るドミニク。そんな彼を追ってきて、真っ白のスープラでいつものように横に並んだブライアンの姿は、果たして現実だったのだろうか、幻影だったのだろうか。 「さよならも言わずに行くのか?」と笑顔を見せるブライアンに対してのドミニクの表情には、喜びと悲しみが等しく入り交じっているように見えた。  シリーズ7作目。 当然ながら“一見さんお断り”の今作を、封切り早々に観に行く“ファン”としては、とてもじゃないが、ラストのシークエンスを涙なしでは観られなかった。  とはいえ、この映画は「ワイルド・スピード」である。映画の9割以上は、突っ込むことが馬鹿らしく思えるくらいに大味なストーリーテリングと、大仰なアクションシーンのひたすらな連続である。 ただし、その「大味」と「大仰」は、このシリーズが7作品を通じて培った娯楽性の“境地”であり、否定の余地は微塵もない。  一介のストリートレーサーだった主人公とその一味が、シリーズを追うごとにアクションヒーロー化し、ついには某スパイアクション映画を彷彿とさせるほどの極秘任務を担う。 フツーなら“あり得ない!”と一蹴されるべきプロットを、堂々とまかり通してしまう。それを成すものは、このアクション映画シリーズが導き出した奇跡的なエンターテイメント性に他ならないと思う。  この「7」は、あらゆる側面で「奇跡」そのものだ。  前作のラストで突如登場したジェイソン・ステイサムを最恐の悪役に配し、ヴィン・ディーゼル、そしてドウェイン・ジョンソンと、あまりに“肉厚”な肉弾戦を繰り広げる。 “アクションスター”というステイタスの価値が低迷して久しいが、それでも“現役”トップスターである三者の揃い踏みは、あまりに豪華だ。  また、ミシェル・ロドリゲス好きとしては、前作のジーナ・カラーノ戦に続き、またしてもプロ格闘家ロンダ・ラウジーとの“連戦”はたまらなかった。  そしてもちろん、最後に言及したいのは、ポール・ウォーカーだ。 俳優の死は、いかなる時も映画ファンにとって不幸以外の何ものでもない。 今作のクランクアップ前に急逝したもう一人の主演俳優の死は、あまりに大きな損失だった。 ただ、彼の死が、この映画に特別な意味と価値を与えたこともまた事実であろう。  ド派手なカーアクションの追求の果てに、今作ではついに自動車が“空を飛ぶ”。 「SKY MISSION」は後付の邦題ではあるが、今作の主題であるその要素は、天国へと旅立った主演俳優の姿に重なってくる。   映画は、総合芸術であり総合娯楽だ。 その「総合」という言葉には、そこに携わった人間の“人生”そのものも含まれるのだと思う。 一人のスター俳優の生き様と共に、今シリーズはこの先も愛され続けるだろう。 今宵は、ポール・ウォーカーの冥福を改めて祈りたい。 もちろん献杯は“コロナビール”で。
[映画館(字幕)] 9点(2015-04-26 09:10:39)(良:4票)
15.  ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う! 《ネタバレ》 
“酒飲み”の者としては、いい歳をした中年男たちが、ティーン時代の親友たちと連れ立って“はしご酒”をするというこのくだらない基本設定が、逆に憎めない。 僕自身、着実に中年男に近づいてきている今だからこそ、サイモン・ペッグ演じる主人公の完全なる駄目男ぶりは、蔑みつつも身につまされるという妙なアンバランスを生む。  もちろん、エドガー・ライト監督とサイモン・ペッグ&ニック・フロストのゴールデンチームが生み出した最新作が、ただの“はしご酒”で終わるわけもなく、映画は突如としてとんでもない展開に突き進んでいく。  真っ当な映画ファンとしては、突如として繰広げられる急展開も「待ってました!」と言ったところなのだが、どうも全編通して塩梅がよろしくなかった。 端的に言ってしまえば、「ノリきれなかった」ということだろうか。  「ショーン・オブ・ザ・デッド」では”ゾンビ映画”を、「ホット・ファズ」では“ポリスアクション”を、多大なるリスペクトの念を持って娯楽性溢れるコメディ映画に作り替えたこのゴールデンチームだったが、今作はどうにも映画的なバランスが良くなかったように思う。  生まれ故郷の町で昔話に花を咲かせる酔っぱらいたちが、知らぬ間に町を支配していたエイリアンと闘う羽目になるというプロットは、馬鹿馬鹿しくもユニークだ。 けれども、揃いも揃って酔っぱらった主人公たちによるストーリーテリングは、あまりに纏まりに欠け、映画としての整合性が乏しかった。 馬鹿馬鹿しい話だからこそ、ストーリーの大筋には論理性が必要で、それが良いコメディ映画の条件だと思う。 過去のこの人たちの映画には、それがあったからこそ傑作になり得ていた。  今作では、突如として世界の瀬戸際に放り込まれた酔っぱらいたちが、酔いにまかせたまま破天荒に突き進む。 その先に酔っぱらいならではの小気味良いオチがあれば良かったのだけれど、結果的に世界は“取り返しのつかないこと”になってしまう。 想定外の困惑と後味の悪さは、決して褒められたものではない。  この邦題は少しばかり見当違いだ。せめて最後の「!」は「?」にでもしとくべきだろう。 くれぐれもお酒はほどほどに。“世界”を破滅させかねない。と、自戒せずにはいられない。
[DVD(字幕)] 5点(2014-10-20 23:54:34)
16.  私の男(2013)
“女”にとって、“男”は、ほんとうに、純粋に、暗く空いた心の隙間を埋めるためだけの、“詰め物”だったのかもしれない。 精神が歪んでいるわけでも、感情が欠如しているわけでもない。 むしろ逆だ。 あまりに真っすぐに、あまりに直情的に、自分に“無いもの”を求めた結果だ。  不条理であり、おぞましさすら感じる。 しかし、その激情を表す言葉はやはり「愛」以外にはあり得ない。   「あれは私の全部だ!」と、“女”は叫ぶ。  もう、この咆哮にすべてが表れている。 文字通りの死の淵から、“空っぽ”の状態で生き延びた少女は、「必然的」に現れた“男”で、その空洞を埋め尽くしていったのだろう。  “女”が“男”で満たされるのにそれほど時間はかからず、同様に“男”も“女”で満たされていく。 「秘密」が誰に暴かれようが暴かれまいが、それを誰に非難されようが非難されまいが、最初から最後まで彼らの世界には、二人しか居なかったのだと思える。  何かがほんの少し違っていれば、辿り着いた場所はもう少しマシだったのではないか……と、僕自身を含めて、他人は思う。しかし、そんな他人の思考はあまりに無意味であることに気づく。 “男”の台詞に表れているように、彼らがほんとうに望んでいたことと、彼らが辿った運命は、少しずつ確実に乖離していったのかもしれない。 それでも、彼らはああやって互いの命をつないでいくしかなかったし、あの先もああやって生きていくのだろう。   ドヴォルザークのメロディーが夕刻を告げるチャイムとして流れる中、“女”が数日ぶりに帰ってきた“男”を迎える。 映画の展開的には、まだ物語が劇的に転じる前の何気ないシーンとして映し出されているが、おそらくはこの映画の中で最も重要なシーンだったろう。  誰も知らない二人だけの世界。孤立感と、それ故の多幸感。 そして彼らの背景に染み渡っているような不穏さと背徳感。  でも、たまらなく美しいこのシーンを忘れることはできない。
[映画館(邦画)] 10点(2014-07-21 07:46:34)(良:1票)
17.  ワイルド・スピード/EURO MISSION 《ネタバレ》 
この娯楽映画シリーズのファンとしては、相応しいタイミングでこの最新作を見ることができたと思う。それは、とても嬉しいことでもあり、あまりにも悲しいことでもあった。  今年の夏に、シリーズ中で唯一観られていなかった「3」見たばかりだった。 シリーズのファンなら周知の通り、“東京”を舞台に描かれる「3」は、シリーズの番外編的なニュアンスが強く、レギュラーキャストは殆ど登場しない。 そして、その中で唯一主要キャストとして登場する“ハン”の悲劇的な末路が描かれている。「3」を観た段階では、なぜ彼が独り東京に流れ着き、ヤクザ相手の危険な仕事に手を染めているのかの説明もなく理解し難い部分があった。  が、それを裏打ちするエピソードが、この最新作では描かれている。  “或る人物”の突然の登場に驚愕するエンドクレジット後のシーンからも明らかな通り、今作は、いささか変則的に繋がっていた「3」をシリーズの本流に結びつけ、次作に向けての新展開への起点となるシリーズの中でも非常に重要な作品に仕上がっていた。  シリーズも6作目となり、正直「一見さんお断り」な状況になっていることは否めないけれど、「EURO MISSION」という軽薄な邦題にミスリードされて、劇場鑑賞を見送ってしまったことをファンとしては甚だ悔しく思う。  ハン&ジゼルの悲しい運命に対して、想定外に胸を締め付けられたことは、この娯楽映画シリーズが少しずつ培ってきた“チーム感”の結晶とも言え、ますますド派手になっているアクションシーン以上の付加価値だったと思う。  あと、タイミング的には、「エージェント・マロリー」も今年観たばかりだったので、ジーナ・カラーノのナイスなキャスティングも嬉しかった。復活したミシェル・ロドリゲス嬢との“肉弾戦”は白眉だった。   そして、2013年11月30日、ポール・ウォーカーの突然の訃報。 そのあまりに悲しくショッキングな出来事が、この映画シリーズに与える影響は当然計り知れない。 映画スターの死が、その人の周囲の人間は勿論のこと、世界中の映画ファンに悲しみを与えるということを改めて思い知った。  心より冥福を祈りたい。 ただ、叶うことなら、撮影中だったシリーズ最新作「7」の完成を待って、彼の最期の姿を心に焼きつけたい。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2013-12-23 15:11:48)(良:1票)
18.  ONE PIECE FILM Z
連載中の長編漫画の映画化において常にマイナス要因となり得るのは、長期連載だからこそ描くことができる各エピソードの膨大なボリュームを、番外編的な扱いとはいえ映画作品の2時間前後の尺で収められるわけがないということだろう。 特に「ONE PIECE」の場合は、敵が強大であればあるほど、そのキャラクターのバックボーンまでしっかり描くことが常なので、限られた尺の中では到底そういう部分を描くことが出来ず、結果極めて希薄なエピソードに仕上がってしまうことは必然的だ。  しかし、今作では、そういった映画化における必然的な「弊害」を最小限に抑え、映画としてのオリジナリティを加味することに成功していると思う。 巧かったのは、敵方のキャラクター設定とそれに伴うストーリー展開だ。  最大の敵「Z」を、海軍の元大将というキャラクターにしたことが、最大の勝因だと思う。 海賊に対しての深い「怨恨」と、海軍が掲げる正義に対する「不満」とが混じり合い、文字通り一気に爆発したというキャラクター設定は、極めてベタではあるけれど、長編漫画におけるスピンオフとして、とてもまとまりが良かった。  この映画は、“麦わらの一味”の活躍を描くという大前提の一方で、「海軍」という公の正義の内外における“矛盾”を描いており、その要素が感動を生んだ最大の要因だと思う。 加えて、“麦わらの一味”が「新世界」に突入したばかりという舞台設定は、“センゴク”や“ガープ”が一線を退き、彼らが次世代のリーダーに推した“青キジが去った海軍の“暴走の兆し”を誘引しており、このストーリーを描く上でのタイミングも非常に巧いと思える。  更に特筆したいのは、アニメーションの迫力とサービス精神。 アクションシーンは、見せるべきカットを見せるべきタイミングでしっかり見せてくれ、この漫画特有の目まぐるしいバトルを充分に表現していた。 そして、ナミ&ロビンの“メルモちゃん”描写、ミニチョッパーの可愛さ、フランキーの過剰なまでのロボ描写、戦闘担当キャラの入浴シーンに至るまで、麦わらの一味各人の“萌え”ポイント羅列の特別サービスが、あざとくも素晴らしいと思った。  いやあ、長々しくなってしまったが、想定外に熱弁を振るいたくなる作品であることは間違いない。  それにしても、青キジ、海軍辞めたからって自由に活躍し過ぎ!イロイロ曝け出し過ぎ!歌い過ぎ! 
[ブルーレイ(邦画)] 7点(2013-08-31 14:30:54)
19.  ワールド・ウォー Z
どこかの悪大佐じゃないが、「人がゴミのようだーーー!」と思わず叫びたくなる“見せ場”は、トレーラーで何度も観ていてもやっぱり衝撃的で、個人的にはその過剰なまでの仰々しさが非常に好ましかった。  「ゾンビ映画」ということを大々的に触れ込むと、客層が限定されると思ったらしく、いやに“家族愛”を強調した国内プロモーションには辟易したが、言うまでもなく、この映画は紛れもない“怒濤”の「ゾンビ映画」である。  ただし、基本設定として描かれるストーリーテリングは、あくまで感染症のパンデミックであり、必然的に全世界的にゾンビが大発生している状態であるので、前述の通り良い意味で仰々しい映画世界は、恐怖性というよりもエンターテイメント性に富んでいて、僕のようなホラーが苦手な者でも程よい恐怖感と共に終始楽しめる「ゾンビ映画」に仕上がっていると思う。  “人体”そのものが虫の大群のように襲いかかる衝撃のビジュアルもさることながら、印象的だったのは、主演のブラッド・ピットの“目尻の皺”だ。 「ああ、もうこんな深い皺があるんだ」と稀代のハリウッドスターの老いを感じる一方で、これまでのブラッド・ピットの主演作のどれよりも、彼の「生身」の姿が投影されている映画のように思えた。  国連の紛争地域担当エージェントという他の映画ではあまり聞き慣れない役柄が、私生活のパートナーであるアンジェリーナ・ジョリーの国連親善大使としての活動から着想を得ているだろうことは言うまでもなく、途中両親を亡くした少年を家族の一人として受け入れる様なども、難民の子供たちを養子としている私生活の投影そのものだろう。  そういう意味で、プロデューサーでもあるブラッド・ピットが、俳優業を礎にして積み上げてきた己の人格そのものを反映したとてもパーソナルな映画であるとも言えると思う。 それがただの自己満足に終始するでなく、きちんとした娯楽性を備えた作品に昇華されていることが、ハリウッドのトップをひた走る映画人として“エラい”ところだと思う。  どうやら例によって続編の企画もあるらしい。 今作では、都合の良い解決策で安直なハッピーエンドを描いているわけではないので、ここからどう展開していくのか非常に興味深い。  まあいずれにしてもはっきり言えることは、「全力疾走」が出来るゾンビほどコワいものはないとうことだろう。 
[映画館(字幕)] 8点(2013-08-11 00:13:59)
20.  ワイルド・スピードX3/TOKYO DRIFT
「ワイルド・スピード」シリーズは、大味で荒削りなアクション映画シリーズだが、もはやそういう安直な荒々しさが「味」になっており、結構好きである。 ただし、このパート3だけは、何故だか日本が舞台で、主要キャラクターも殆ど登場せず、シリーズの時系列からも唯一脱線していたため、完全な“番外編”としてスルーしていた。  実際、“番外編”というのはまさにその通りで、映画としての「路線」そのものが明らかに他のシリーズ作品とは異なっている。 言うなれば、想定外にオーソドックスな“ベストキッド”的映画に仕上がっていると思う。  問題児の主人公が、殆ど意味不明に日本の高校へ“強制転校”させられ、異文化社会での孤立感もそこそに、転校初日に早速“ドリフト”に邂逅する。 そこで何故か、流れ者のハンに見初められ、ドリフト技術を仕込まれていく。  正直、この映画だけ観れば、ストーリー展開のあらゆる部分に脈略がなく、入り込める余地は無いと思う。 しかし、他のシリーズ作品観た上で今作の鑑賞に至ると、一つのドラマ性が見えてくる。 無論それは、シリーズのレギュラーキャラクターであるハンの存在だ。  ヴィン・ディーゼルのチームの一員として世界各地であらゆる修羅場を乗り越えてきたハンが、何故に日本に流れ着き、ヤクザ相手の危険な仕事に手を染め、不意に出会ったアメリカ人高校生に対して運転技術を仕込もうと思ったのか。  結局、その言動の理由は明確にされぬまま、彼は悲劇的な末路を辿るわけだが、シリーズのファンとしては、やはりこの“番外編”のストーリーは気になるところだ。 そして、ラストのヴィン・ディーゼルの“弔いカメオ出演”は、意外にじんわりする。   追記。 主人公役のショーン・ブラック。どこかで聞いた名前だと思ったら、「スリング・ブレイド」の少年役かあ。昔は可愛かったのに、大きくなったというか、老けたなあ……。
[地上波(吹替)] 5点(2013-07-11 00:34:11)(良:1票)
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