Menu
 > レビュワー
 > 鉄腕麗人 さんの口コミ一覧
鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

表示切替メニュー
レビュー関連 レビュー表示
レビュー表示(投票数)
その他レビュー表示
その他投稿関連 名セリフ・名シーン・小ネタ表示
キャスト・スタッフ名言表示
あらすじ・プロフィール表示
統計関連 製作国別レビュー統計
年代別レビュー統計
好みチェック 好みが近いレビュワー一覧
好みが近いレビュワーより抜粋したお勧め作品一覧
要望関連 作品新規登録 / 変更 要望表示
人物新規登録 / 変更 要望表示
(登録済)作品新規登録表示
(登録済)人物新規登録表示
予約データ 表示
【製作年 : 1950年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
評価順123
投稿日付順123
変更日付順123
>> カレンダー表示
>> 通常表示
1.  情婦
「情婦」という言葉の意味を、辞書で調べてみた。 辞書によると、“男の情人である女”、“色女”とあり、あまり良い意味合いではない。  アガサ・クリスティの原作の原題が「Witness for the Prosecution(検察側の証人)」であることに対して、この邦題が作品にふさわしいかどうかには、いささか疑問が残る。  ただ、この映画で描かれる“女”の愚かしさ、そして儚さを何とか表現しようとした時、「情婦」という言葉は、決して意味合いが一致するとは言えないが、ある視点から捉えればあながち外れてはいないのかもしれないと思った。  ビリー・ワイルダー監督が、エンドクレジットでわざわざ結末の「他言無用」を掲げていることが、この上なく理解出来るほど、ラストの顛末が総てだと言える映画だった。  古い映画らしく、全編通してカメラワークの動きが少ない淡々とした法廷サスペンスが展開される。 この淡々とした法廷サスペンスに、どれほどの“驚き”が含まれるものだろうか。 疑心暗鬼な思いが大いに膨らんできた頃、ビリー・ワイルダーが他言を禁じた「結末」が訪れた。  いや参った。素晴らしい。“驚き”に対して充分に構えた上で、それでも驚かされた。  素晴らしいのは、その衝撃の展開においても、映画のテンションが劇的に転じるというわけではなく、一貫して淡々としたままであるということだ。 場面も変えず、登場人物の台詞のみでこの作品の核心である衝撃を表現し切っている。 「結末」を得ると、それまでの淡々とした展開も、敢えて観客に感情の焦点を絞らせない深い計算によるものだったのだと思い知る。  アガサ・クリスティの原作の高尚さもさることながら、ビリー・ワイルダーの卓越した映画術が如実に表われた結果だと思う。  「真実」の表と裏、男と女の愚かさと切なさ、そして、それらを総て含めた人間の感情の妙に溢れた結末に身震いした。 中盤、深夜の鑑賞には堪え難い眠気に包み込まれそうになったが、用意されていた顛末によってそれは一気に消し飛んだ。 更には、観終わった直後に再びクライマックスを観直してしまった。  ようやく涼しくなってきた秋の夜長、襲ってきた睡魔を見事に返り討ち、「映画鑑賞」の本質的な充足感と幸福感を与えてくれたこの映画は、「名作」の名に相応しい。
[DVD(字幕)] 10点(2010-09-12 10:25:22)
2.  勝手にしやがれ
「海が嫌いなら、山が嫌いなら、街が嫌いなら……勝手にしやがれ!」あー、なんて無意味な台詞だろう。しかしこの限りなくナンセンスに近い台詞を映画史上に残るカッコイイ台詞に昇華させてたジャン・リュック・ゴダールはやはり偉大だ。映画自体も相当に破天荒で、何が意味をなすのかほとんど分からないが、それでもこの映画の存在意義は絶大だ。ベルモンドとセバーグがそこにいる。それだけで、この映画の価値は無限に広がる。
10点(2003-11-18 10:59:51)
3.  ふしぎの国のアリス(1951)
この映画の他にも、「ダンボ」や「ピーターパン」など、この時代のディズニー映画には、当然子供も充分楽しめるがそれ以上に大人が楽しむための描写・演出が多々ある。特に今作はそれが顕著であるように思う。シュールなシーンの連続、アクの強いキャラクターたちと、子供の頃に何度も観た映画だが、大人になった今だからこそ衝撃の強さを感じる。
[ビデオ(吹替)] 10点(2003-10-23 11:00:41)
4.  ローマの休日
ラブストーリーなんてそれこそ星の数ほどあるわけで、映画のジャンルとしてもっとも多いのはラブストーリーだと言って間違いない。そしてどんなラブストーリーにも共通して不可欠なのは、“愛すべき女優”、“恋心を抱いてしまう女優”であろう。むしろその定義自体がこの映画のためにあるような気がする。オードリー・ヘップバーンという女優が存在したこと自体がすごく幸福に思えてならない。ああ、ほんとうにくるおしいほどの想いでいっぱいになる。なんて映画だろう。
10点(2003-10-16 11:28:32)
5.  ゴジラ(1954)
改めて観ると、やっぱりいろいろ凄い。 60年前の特撮映像そのもにフレッシュな驚きは勿論無いが、60年前にこの映画をリアルタイムで観た日本人はの恐怖と興奮は容易に想像でき、その「驚愕」が大変羨ましい。  ゴジラ映画の本質であるこのオリジナル作品の根底にあるものは、やはり「畏怖」だと思う。 未知なる巨大生物への畏怖、それにより生活が人生が文字通り崩壊される畏怖、そしてその発端は我々人類の所業そのものにあり、この悲劇自体が何ものかによる戒めであろうという畏怖。  この60年前の特撮映画が、ただの娯楽映画として存在したわけではなく、日本国内はもとより世界中において尊敬の念をこめて愛され続けたのは、まさにその神々しいまでの恐怖感によると思う。   一方で、改めてこの映画を鑑賞しなおしてみると、当時の日本の風俗や人々の価値観が如実に表れていてそれはそれで興味深い。  “オキシジェンデストロイヤー”を開発した芹沢博士は、実は時代に翻弄された悲恋をまとった人物で、映画的に捉えるならば本来もっと自暴自棄になってもいいはずなのに、最終的にはあくまで人道的に己の命を捧げる様は、悲しくて仕方がない。  名優・志村喬が演じる山根博士も、いかにも人格者的な古生物学者として振る舞ってはいるが、一人ゴジラの生態究明に固執する様は少々異様ですらあり、その目は時に狂気じみていた。  細かい所だと、菅井きんが演じていた婦人代議士の国会での熱弁の様だったり、死を覚悟して最後の放送を続けるテレビ塔のアナウンサーの様だったり、時代を感じる人間性やキャラクター設定が、60年後の今だからこその味わい深さになっていると思える。  また随所に散りばめられている戦争の傷跡と、反戦・反核へ警鐘も、決して仰々しいわけではないが実に切実に生々しく描かれている。 通勤電車での「また疎開はいやだなあ」という会話だったり、「もうすぐお父ちゃまのところへ行けるのよ」という母親の言葉だったり、ゴジラ急襲後に放射能反応を示される子どもたちの姿だったり……。  前代未聞の娯楽性の中に、この国が背負った明確な傷跡と、自らを含めそれを起こした人類への怒りを刻み込んだからこそ、この特撮映画は「特別」なものになったのだろうと思う。 
[CS・衛星(邦画)] 10点(2003-09-29 12:12:36)(良:2票)
6.  七年目の浮気
マリリン・モンローが、マリリン・モンローである理由が、この映画には満ち溢れている。 その理由は、即ち当時世界中の男が“彼女”に恋をした理由と全く同義と言える。  マリリン・モンローといえば、時代を越えて、“セックスシンボル”というスキャンダル性に溢れたイメージが先行しがちの女優である。 しかし、「お熱いのがお好き」に続き彼女の映画を観て感じたことは、滲み出る“女優魂”だった。  この女優から醸しだされるフェロモンと、惜しみないセクシーショットは、当時としてみれば「常識」の範疇を大きく超えていて、故に揶揄を含めたスキャンダルに伴ったイメージが先行してしまったのだろう。 今作にしたって、何と言っても60年前の映画である。彼女の存在そのものがいかに“センセーショナル”だったかは、想像に難くない。 それがいつしか“伝説化”し、敬愛と嫉妬を込めて、“セックスの象徴”として語り継がれてきたのだろうと思う。  でも、この伝説的女優の存在がなければ、その後に登場したすべての女優の“表現の幅”は随分と狭まったままだったと思う。 アンジェリーナ・ジョリーも、スカーレット・ヨハンソンも、今のような魅力を発揮することが出来なかったと思うし、スター女優として存在すらし得なかったのではないだろうか。   主演女優の時代を超越した存在感、その一方で、“浮気”をテーマに描き出される喜劇のストーリー性も、しっかりと深く面白い。 中年男性の根底にある浮気心と止まらない妄想。 過剰なまでに妄想を繰り広げる主人公の“一人相撲”は、可笑しさに溢れると共に、同じく既婚者として身につまされる。 留まらない妄想を突き抜けて、家族の元へ走る主人公の姿には、同じ男として、夫として、父として、渦巻く感情を鷲掴みにされた。  流石はビリー・ワイルダー。些細な仕草や、細やかな小道具つかいに至るまで、緻密で巧い演出が随所に光り、最上級のコメディ映画に仕上がっている。 主人公役のトム・イーウェルの、可笑しさと、哀愁と、愛らしさに溢れたパフォーマンスも素晴らしかったと思う。  今作は、映画史上最高の監督による卓越した映画術を随所に堪能出来る映画である。 が、しかし、結局、あらゆる場面で目がいってしまうのは、ただ“一点”。 やはり、世界中の男の中の一人として、“彼女”に釘付けにならずにはいられなかった。 “彼女”に対する思いは、欲情を越え、憧れを越え、もはや尊敬の念に達する。   さて、僕自身は、“7年目”まであと一年半ほど……。くれぐれもセンセーショナルな“お隣さん”が現れないことを、切に願う。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2015-05-03 01:06:59)
7.  夫婦善哉
日曜日の正午、あまりに眠たくて2歳の娘の世話を妻に任せて、居間のソファで居眠り。ふと目が覚めると2時間以上寝てしまっており、ちょうど帰宅した妻に呆れられた。 眠気が治まらぬまま反省しつつ、再び外出する妻をソファに寝転んだまま送り出した後、この映画を観始めた。 この作品における映画体験としては、何ともいいタイミングだったと思う。   お椀二杯で一人前の“夫婦善哉”のように、詰まるところ“良い夫婦”というものは、二人揃ってようやく一人前になるものなのかもしれない。 この映画に登場する“夫婦”の男女は、二人ともどうあっても結局のところ一人では行きていけない。 森繁久彌演じる柳吉は、どこからどう見ても大店のどら息子であり、駄目男ぶりが甚だしい。 淡島千景演じる蝶子も、しっかり者の人気芸者ではあるけれど、最後の最後まで柳吉無しで生きてはいけない駄目女だ。  駄目男と駄目女が連れ添い、愚にもつかないすったもんだを延々と繰り返す映画である。特筆する程のストーリー的な面白味もあるとは言えない。 しかし、この映画が多くの日本人に愛されている映画であろうことは容易に理解できる。  やはり魅力的なのは、駄目男と駄目女の主人公夫婦に他ならない。 つくづく愚かな二人なのだけれども、どうしたって彼らのことを憎めるわけがない。 その理由は明らかで、この二人の姿こそ、世の中のすべての男女が持ち得る愛すべき愚かさだからだ。 どんな男も柳吉のようになろうし、どんな女も蝶子のようになり得る。 この映画を観た多くの人が、「馬鹿」と蔑みつつも、どこかこの二人の“寄り添い”に憧れを抱いてしまうのだと思う。  中盤、何度目か知らないが愛する男が再び自分の元に帰ってきて、女は心から喜ぶ。 お互い軽い悪態をつきあいつつ、女は真っ昼間なのに部屋のカーテンを閉める。 男は勘弁しろよという表情だが、実のところまんざらでもなさそうだ。 森繁久彌、淡島千景、二人の名優の一挙手一投足を含め、このシーンの総てが可愛過ぎる。   さて、僕自身、決して甲斐性があるわけではないので、せめてこの映画の夫婦のように愛らしい二人で居続けたいものだと思う。 「頼りにしてまっせ」を連発しつつ。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2013-08-25 23:42:24)
8.  第十七捕虜収容所
サスペンス、スリル、可笑しさ、爽快感……映画の娯楽性を彩る要素は多々あるけれど、ビリー・ワイルダーの映画には、そのすべてが詰まっている。 捕虜収容所での“スパイ探し”を描いたこの変わった趣向の戦争映画には、想像以上に娯楽性を高める様々な要素がバランスよく入り交じっていて、それぞれの要素が見事に主張し合っている。  第二次世界大戦中の捕虜収容所を描いた映画と言えば、有名過ぎるのはやはり「大脱走」だろう。ドイツ軍管理下の捕虜収容所からの脱走を図る捕虜たちの群像劇を描いたプロットは、今作との類似を大いに感じる。 大名作として誉れ高いのは「大脱走」の方だと思うが、制作年数は今作の方が圧倒的に早いので、ヒントを得た部分は大いにあるのだろうと思う。 そして、個人的には圧倒的に今作の方が面白かった。  ナチスドイツ管理下の捕虜収容所というイメージ的には陰惨極まる舞台設定において、決して不自然ではない映画的娯楽を展開させる巧さに、ビリー・ワイルダーという映画人の偉大さを改めて感じずにはいられない。  そして、スリルやコメディの娯楽性の裏には、しっかりと悲愴な環境下で生き抜く人間たちのドラマと戦争による混沌も見えてくる。 そうすると、収容所内の人間たちの少々仰々しい感情表現も、生き抜くための一つの“手段”に思えてきた。  映画は終始薄汚れた捕虜収容所内で展開され、派手さは皆無だと言っていい。しかし、噛めば噛むほど様々な味覚が存在を主張し、そのどれもが深まっていく。 週末の深夜、巧い映画とはこういうものだということを改めて知った。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2012-04-22 23:44:07)(良:1票)
9.  羅生門(1950)
三船敏郎の豪快かつ虚無的な“馬鹿笑い”が脳裏に焼き付くようだった。 彼をはじめとする、往年の日本人俳優の圧倒的な“エネルギー”を改めて感じる作品だった。  黒澤明監督の「羅生門」という作品の存在は、当然ながら随分前から知っていた。 海外でも殊更に評価の高く、名作名高い映画であることも知っていたが、個人的には敬遠していた節があった。 それは、「羅生門」という芥川龍之介の原作からイメージされる文芸色の強さに対して、あまり魅力を感じることが出来なかったからだ。 高校時代の国語の教科書に芥川龍之介の「羅生門」が掲載されていたが、“ニキビを気にする下人と薄汚い老婆が屍の上で押問答を繰り広げる短編”という印象が強く、その世界観が映画としてどのように展開しているのかが甚だ懐疑的だった。  ただ実際は、同じく芥川龍之介の短編「薮の中」を映画化し、人間のエゴイズムを如実に表した“裁判劇”だった。  うだるような暑さの山間で巻き起こった強姦と殺人。一つの事件が、当事者らの証言によって紡がれる。 自己の保身と美化によって、自分たちの都合の良いように繰り広げられる証言。三者三様の言い分が食い違っていく様が、人間の愚かさを印象的に映し出していく。  照りつける太陽の下で繰り広げられる「事件」の描写と、天をひっくり返したような豪雨の羅生門で繰り広げられる事件に対する「考察」の描写が、人間そのものの浅ましさと無様さをあざけ笑うかのように表現され、黒澤明という絶対的名匠の存在性を改めて感じた。  個人的にはラストにもうひと捻りが欲しかったところだけれど、そこには、人間の愚かしさを延々と描いた作品だけに、最後の最後には“一筋の光”を入れずにはいられなかった巨匠の「希望」が垣間見えた。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2011-12-13 11:20:18)
10.  ピーター・パン(1953)
子供の頃何度も繰り返し観てセリフが頭の中に焼きついているほどだ。ドジだけど、やっぱり海賊らしく悪党で卑劣なフック船長のキャラクターが良かった。確かにティンカーベルは嫉妬でシャレにならないとこまで行き過ぎてるねえ。
[ビデオ(吹替)] 9点(2003-10-11 16:03:49)
11.  道(1954) 《ネタバレ》 
粗暴な旅芸人“ザンパノ”は、己の体に巻きつけた“鉄の鎖”を、何百回、何千回と引き千切り続ける。 その様はまさにこの剛力自慢の愚か者が、己の犯した“罪と罰”に雁字搦めになっていることを表している。引き千切っても、引き千切っても、彼は自ら鎖を巻き続けるのだ。 きっとこの男は、この映画に描き出されていない部分においても、大なり小なりあらゆる罪を犯してきたのだろう。  そんな男の前に現れた“ジェルソミーナ”の存在とは果たして何だったのか。 罪深き男に贖罪の機会を与え、愛を知る権利を与えるための「救済者」だったのか。 それとも、彼が辿るべき「道」を決定づけるための「裁定者」だったのか。  更なる大罪を犯し、愛を知る機会を自ら踏みにじったザンパノは、ジェルソミーナのもとから逃げるように立ち去る。 そして、この愚か者は、それから数年経ってようやく自分の人生においてかけがえのないものを失っていたことに気づく。 初めて、己の罪に対する懺悔と後悔に苦しみ嗚咽を漏らし咽び泣く。 しかし、夜の海の波は、そんな嗚咽など嘲笑うかのように消し去る。  ザンパノは、血管が切れて目の光を失うその日まで、無間地獄のように、延々と同じ口上を繰り返し、鉄の鎖を引き千切り続けることだろう。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2018-04-04 23:02:34)
12.  サンセット大通り
「ハリウッドは人を噛んで吐き捨てる 私は食べかすだ」 とは、映画「エド・ウッド」におけるベラ・ルゴシ役のマーティン・ランドーの台詞。 奇しくも、今作の劇中、ウィリアム・ホールデン演じる売れない脚本家が、噛んでいたガムを吐き捨てるシーンがあった。当の本人に促されたとはいえ、朽ち果てたかつての大女優の目の前でのその行為は、かの台詞を如実に表しているようで心中穏やかでなかった。 新旧のスターが入れ替わり立ち替わり、次々に映画が生み出されてはその大半が時の流れと共に忘却の彼方に消えていくハリウッドの儚さが全編に溢れる。  ショービズの世界において栄枯盛衰は宿命である。特に時代がサイレントからトーキーに移り変わる映画史上の過渡期においてはそれは殊更に顕著なことだっただろう。 時代に取り残された者の苦悩と狂気が溢れんばかりに映し出された人間描写は見事だが、それをリアルに同じ境遇のサイレント時代の大女優に演じさせるとは。 演じる方も、演じさせる方も、「映画人」としての矜持が素晴らしい。  サイレント時代の大女優ノーマ・デズモンドを演じるのは、実際のサイレント時代の大女優グロリア・スワンソン。 まさに自分自身を投影した役どころを圧倒的な存在感と鬼気迫る表現力で演じきっている。 “大階段”を降り立ちカメラに迫っていくラストシーンでは、現実と創造の境界を越えた崇高なまでのナルシズムに支配された。  光り輝く世界の裏側に確実に存在する闇と人間の脆さを、ビリー・ワイルダーが卓越した映画術で映し出したこの映画の佇まいは「名作」の呼称に相応しい。
[インターネット(字幕)] 8点(2017-11-21 11:21:35)
13.  満員電車
みんなどこかが狂ってる! と、映画全編を通して延々と映し出される密集する雑踏の中で思わず叫びたくなる。 鋭い社会風刺を強烈なブラックユーモアをもって描きつけている「問題作」と言っていい。 1957年当時に、これほどまでに冷ややかなエグさで埋め尽くした映画を描き出した市川崑という映画監督は、やはりとんでもない人物だったのだと思わずにはいられない。  一流大学を卒業しながらも、将来に対する望み薄な展望をドライに割り切り、無表情のまま現代社会の荒波に飛び込んでいく主人公。 映画のタイトルを指し示すように、彼は「日本には我々が希望をもって坐れる席は空いていない 訳もなくはりきらなくては」と冷め切った持論を展開する。  どこに行っても人間が混み合い、すべての人間が杓子定規に生きるしかない明らかに狂った社会。 そのすべてを割り切って生きてきた筈の主人公だが、父親からは母親が狂ったと聞かされ、母親からは父親が狂ったと聞かされ、まわりの同僚たちも何だかどこかが狂っている。 次第に、本当に狂っているのは、社会なのか自分自身なのか分からなくなってくる。  50年以上前の映画でありながら、この作品が映し出す社会の本質とその病理性は、まさに現代のそれに直結するものであり、登場人物たちの妙な言動は可笑しさから次第に恐ろしさとなって観る者に迫ってくる。  主人公は紆余曲折を経て路頭に迷う。ラスト、自ら建てたあまりに粗末な掘建て小屋を強風にさらされながら、主人公はそれでも柱にしがみつき、未来に対する諦観か覚悟が判別のつけづらい感情の中で、生きていかなければならないと宣言する。 その直後には、小学校の入学式に臨む子供たちが、校長から「将来は前途洋々」と訓辞を受けているシーンが映し出され映画は締められる。  いやあ、この皮肉さはもの凄い。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2012-07-05 16:19:22)
14.  渚にて 《ネタバレ》 
終末戦争の果て、確実に「滅亡」に突き進む顛末を描きながら、この映画では、爆弾が爆発するシーンも無ければ、人が絶命するシーンすら無い。 残された人間たちの、“最後の時”を迎えるまでの僅かな日々を、淡々と描き連ねる。 「悲劇」に対する悲壮感も、感動も努めて排除されているように思う。  だからこそ、異様とも言える「恐怖」をひしひしと感じる。  この映画に“救い”は無い。 核戦争により滅亡を決定づけられた人類。かろうじて直接的な被害を逃れたオーストラリアにて、残された日々を生きている。 すがるように追い求める幾つかの「希望」は、次々と儚く崩れさっていき、全世界を覆い尽くそうとしている放射能汚染により、着実に滅亡に突き進んでいる。  「希望」を失った人類たちに残された道は、ただただ淡々と“その時”まで生きること。 その人間模様をそのまま淡々と描き、ラスト、無人となった街のカットで締める潔さに、映画としての多大な説得力と、テーマに対する真摯さを感じた。  冷戦の最中、核の脅威を描いた幾つかの名作に共通することは、決して安直なハッピーエンドを描かないことだ。 人類が直面する「危機」に対して、極めて真剣に問題提起を試みている結果だと思う。  今、そういう映画はほとんど無い。 冷戦という時代背景はもちろん過去のものだが、だからと言って、“脅威”が消え去ったわけでは決してない。 今日のニュースでも“となり”の国の半島で起こった「愚行」を延々と伝えている。  “脅威”に対する危機感の薄れ。 そのことこそが、今の時代に最も恐怖すべきことのような気がしてならない。
[DVD(字幕)] 8点(2010-11-23 23:03:38)(良:2票)
15.  お熱いのがお好き
アンジェリーナ・ジョリー、スカーレット・ヨハンソン……、今現在もハリウッドを彩るセクシーな女優たちは沢山いるけれど、“セックスシンボル”という呼称を聞いて、真っ先に思い浮かぶのは、今尚「マリリン・モンロー」だと思う。 彼女の映画をまともに観たことが無かった僕の世代(1981年生)でもそうなのだから、その「存在」自体が”伝説”と呼ぶにふさわしい女優なのだろう。  ただ、“セックスシンボル”というイメージが余りに強く、「女優」としてはいささか“軽薄”な存在として捉えていたことも事実。なので、これまで彼女の出演映画を観ようなんて思ったことは一度も無かった。 今年、「アパートの鍵貸します」「情婦」と、ビリー・ワイルダーの監督作品を立て続けに観ていなければ、この「お熱いのがお好き」という映画も観ることはなかっただろう。  マリリン・モンローという女優名も、「お熱いのがお好き」というタイトル名も、これまで散々耳に入れてきた名称だ。そして、名前だけ知っていて、大体“知ったつもり”になっていた。 非常に、愚かなことだと思う。  ビリー・ワイルダーの映画術と脚本力は流石に卓越している。トニー・カーチスとジャック・レモンのパフォーマンスも素晴らしい。 が、それらを明らかに”二の次”に押しのけてしまう程、マリリン・モンローという女優の圧倒的な存在感に惹き付けられる。  前述の呼称が示すように、確かにセクシーなことはこの上ない。ただそれと同時に、抜群の愛くるしさに溢れている。 彼女はその短い人生の中で、銀幕で、プライベートで、数多くの男を虜にしてきた。 それは“欲情”によるものだとずっと思っていたが、決してそうではないとこの映画を観て思った。 彼女は、男が女を好きになるという「本質」の様々な要素を集約した存在だったのだと思う。  理屈ではなく、“本能的”に好きにならずにはいられない。その「存在」は、間違いなく映画史に残る奇跡だと思わずにはいられない。  と、マリリン・モンローという“シンボル”の存在感に打ちのめされた深まる秋の夜。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2010-10-24 01:40:34)(良:2票)
16.  地球の静止する日
半世紀以上前の映画に対し、映像や美術が「稚拙だ」などと言うことは大きくお門違いで、賞賛すべきは、この時代における「SF」に対する真摯な描き出し方であり、映画史における革新性だと思う。  遠い宇宙からやってきた宇宙人、彼の目的は「退廃」へと突き進もうとしている地球人たちへの“警告”と、平和への
[DVD(字幕)] 8点(2008-12-22 11:29:01)
17.  吸血鬼ドラキュラ
今や数々のドラキュラ映画でオマージュされる作品だけあって、初めて観たにもかかわらず、所々でどこか見覚えがある雰囲気があり、それこそこの映画の偉大さだと思った。何を置いても、クリストファー・リー演じるドラキュラ伯爵の存在感がスゴイ。演技というよりもただそこにたたずむというような自然な迫力に圧倒される。古い映画らしくないテンポの良い展開も緊張を途切らせない要因であろう。「恐怖」というエンターテイメント性を燦然と見せつける傑作。
[DVD(字幕)] 8点(2004-06-19 10:51:25)
18.  点と線 《ネタバレ》 
時刻表を利用した計画殺人の妙自体は、今となってはさほど目新しくはないが、事件の核に女の憎愛を据えるドラマ性は、さすがに文学の巨匠松本清張の原作であると言える。卓越した映像美も手伝い非常にスリリングに展開する映画世界が秀逸。心中に始まり心中に終わる様式美も見事。
8点(2004-05-14 12:10:09)
19.  雨に唄えば
有名すぎるほどの土砂降りの中でのダンスシーンは流石に素晴らしく、圧倒的な迫力があった。ストーリーに説得力やリアリティなんて皆無だが、それでもその映画世界に引き込まれる。これこそ映画の最大の魅力であり、娯楽映画のエネルギーであろう。
8点(2003-12-03 13:05:36)
20.  現金に体を張れ
あらゆるクライムサスペンス映画の原点とも言えるストーリー展開は大いに楽しめた。40年以上前の映画でありながら、古めかしくなく、テンポの良い展開にスタンリー・キューブリックの先行性が感じられる。
8点(2003-11-30 14:20:54)
全部

■ ヘルプ
© 1997 JTNEWS