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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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201.  007は二度死ぬ
ショーン・コネリーが亡くなった。 何世代にも渡って世界中の映画ファンを魅了した偉大な名優を偲び、“007”が日本に降り立った今作を初鑑賞。 やはり、日本人としては特に忘れ難き“娯楽”に満ち溢れた快作だった。 もう50年以上も前の映画ではあるが、そのエンターテイメントは色褪せない。いや、50年という年月を経ているからこそ、娯楽性は幾重にも層を重ねて芳醇になっているようにも思える。  外国の娯楽映画が「日本」を舞台にした場合、その映画は大抵の場合“トンデモ映画”になる。 日本の文化や風俗に対する誤解や偏ったイメージが、現実とは程遠い「日本」を映し出す。 今作もその例にもれず、“トンデモ映画”の一つであることは間違いないだろう。 姫路城を本拠地にした忍者軍団、日本人の漁夫に扮装するショーン・コネリーなど、失笑ポイントは確かにある。  ただし、それ以上に、日本とその文化に対する憧れやリスペクト、そして「愛」をきちんと感じる映画だった。 トンデモ映画ではあるかもしれないけれど、日本人として決して見てられない描写は無かった。 それは、この映画が、日本に対するイメージをただ想像のままに映し出しているのではなく、ちゃんと日本の各地でロケーションを行い、ちゃんと日本人の俳優たちを起用していることが大きい。  現実的にはありえない数々のシーンも、本物の日本の街や自然の中で撮影されているからこそ“つくりもの”には見えないし、丹波哲郎をはじめとした日本人俳優がメインキャラクターとして演技しているからこそ映画世界の中での説得力が保たれていると思う。  若林映子と浜美枝が演じた二人のボンドガールもそれぞれ魅力的で美しいし、トヨタ2000GTのボンドカーも流麗でひたすらに格好いい。  そして、公開から50年以上も経った今となっては、映画の中で映し出される日本の情景や風俗そのものが、日本人にとっても非常にフレッシュに映り、その中で大活躍を見せるジェームズ・ボンドの活劇には、殊更に高揚感が高まる。     コロナ禍の影響で延期を余儀なくされているが、ダニエル・クレイグ版の最終作となる「007」最新作の公開も待ち遠しい今日このごろ。 稀代の英国人俳優の逝去はとても悲しいけれど、その他未見の「007」シリーズ作品や、「アンタッチャブル」や「ザ・ロック」など彼が残した足跡も改めて鑑賞し直したいと思う。  ジェームズ・ボンドがそうであるように、ショーン・コネリーも映画世界の中で何度でも僕たちの前に甦る。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-11-25 23:58:22)(良:2票)
202.  X-MEN:ダーク・フェニックス
時空は常に分岐し、並行世界が幾重にも分かれて存在している。 故に、その数の分、「未来」も存在する。 という“パラレルワールド”の前提を受け入れた状態で今作を観たので、この映画世界内のX-MENが辿ったグダグダな顛末もまだ許容できた。 無論、満足感とは程遠い仕上がりであったことは否定しないけれど。  “X-MEN”の第一世代に遡って描き出されたこのリブートシリーズの一作目「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」は、非常に優れたエンターテイメント作品だった。 プロフェッサーXとマグニートーの若き日々の葛藤と対立を主軸にして、冷戦下の時代背景も交えつつ、“X-MEN”創設のドラマを娯楽性豊かに映し出した傑作であったと思う。  そして、その続編の「X-MEN:フューチャー&パスト」は、前作から一転して華々しい娯楽性を抑え込んだアメコミヒーロー映画としては特異なストーリーテリングの中で、“マイノリティー”として生まれ生きることの意味と意義、それに伴う苦悩と苦闘を描き切っており、これもまた傑作だったと思う。  「フューチャー&パスト」では、前シリーズの主人公“ウルヴァリン”の一つの帰着も含めた大団円が多幸感たっぷりに描き出されていた。 今となっては、このリブートシリーズは2作品で終わらせるべきだったと強く思う。 その後の三作目「X-MEN:アポカリプス」、そしてこの四作目はまったくもって蛇足であり不要だったと思う。  なので、この「X-MEN」リブートシリーズに対しては、「ファースト・ジェネレーション」→「フューチャー&パスト」を一つの時間軸として区切り、続く「アポカリプス」→「ダーク・フェニックス」はまた別の時間軸の並行世界の出来事として捉えることが、映画ファンとしては幸福だろうと思う。  これまた別次元の世界観の中で“オールドマン・ローガン”を描いた「LOGAN/ローガン」(大傑作)を踏まえても明らかなように、アメコミのヒーローたちは、無数の多元宇宙の中で少しずつ異なった葛藤とドラマを生んでいる。  その中には、正しく正義を貫けなかったことも、苦悩に押し潰されてしまったこともあろう。 そういう並行世界が表裏一体で存在しているからこそ、我々は、ヒーローたちの分かりやすい「勝利」に歓喜できるのかもしれない。
[インターネット(字幕)] 4点(2020-11-25 23:56:52)
203.  クロール -凶暴領域-
まず最初に言っておくと、“B級モンスターパニック映画”好きとしては、この映画は断然アリ。 流石は「ピラニア3D」を手掛けたフランス人監督アレクサンドル・アジャ、この手のジャンル映画の何たるかをよく理解した上で、とても丁寧な映画作りがなされている。  競泳選手の娘が、ワニと洪水の恐怖の渦を得意の“クロール”で泳ぎ切り、父娘の絆を取り戻す話。  と、この映画のプロットを文面にすると極めて「馬鹿」みたいだけれど、そういう馬鹿馬鹿しさを、大真面目にパニック映画として映し出すことこそが、“B級映画”としての醍醐味だろうと思う。 馬鹿らしいプロット、馬鹿らしいストーリー展開だと感じつつも、主人公の心情や、恐怖に至るまでのプロセスがきちんと描かれているからこそ、彼女が突如として巻き込まれる悪夢のような状況にすんなりと入りむことができる。  また、極めてミニマムな映画的題材や素材を最大化し、エンターテイメント性溢れる「恐怖」を紡ぎだしていることも巧みだった。  まず「ワニ」という題材が相当地味だ。それも、馬鹿な科学者が遺伝子操作で狂暴化させたモンスターワニなどではなく、近所の“ワニ園”にいる極々フツーのワニが襲ってくるという設定が、地味すぎて逆にチャレンジングだった。  恐怖の対象となるワニの地味さを、舞台設定を主人公家族がかつて住んでいた家に限定することでカバーすると共に、フレッシュな恐怖心や緊迫感を創出することに成功している。 更には大部分の展開を、湿地の性質も加味されたジメジメと不潔で不快極まりない地下スペースに絞り込むことで、主人公たちが味わうストレスとパニックを何倍にも増幅させている。  そして、舞台となるかつての“マイホーム”は、主人公の娘と父親が抱える“喪失”とも巧みにリンクし、そこからの脱却が、父娘のドラマをエモーショナルに盛り上げる。  襲い来るワニの精巧なビジュアルや、しっかりと迫力をもって映し出される暴風雨や洪水の災害描写を見る限り、それなりに巨額の製作費が当てられていることは見て取れる。 もっと分かりやすく仰々しい舞台設定を構築することも恐らくできたのであろうが、それをせず、あくまでも“マイホーム(家族)”の映画に仕上げたことこそが、今作の最大の狙いだったのだろう。  そういう明確な“チャレンジ”に溢れた作品だからこそ、ベタベタな王道展開にも素直にグッと親指を立てたくなる。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-11-25 23:53:24)(良:2票)
204.  もう終わりにしよう。 《ネタバレ》 
晩秋、39歳になった夜、極めて混濁した映画を観た。 「面白い」「面白くない」の判断基準は一旦脇に置いておいて、この映画が表現しようと試みている人の脳内の“カオス”にただ身をゆだねてみるのも悪くない。と、思えた。  僕自身が、人生の後半へ足を踏み入れようとする今、ことほど左様に自らのインサイドにも切り込んでくる映画だったとも思う。  主人公は、何の変哲もない恋に食傷気味などこにでもいる女性。 彼女が、恋人と共に、彼の実家へと古くくたびれた車で向かう。 あたりは吹雪が徐々に強まり、白く何も見えなくなる。 車内での弾まない会話が延々と続き、主人公も、私たち観客も、退屈で飽きてくる。  ただし、この序盤の退屈な車内シーンの段階で、妙な違和感は生じていた。  前述の古い車も含め、主人公たちの服装や街並みも確かに古めかしい。 いつの時代を描いているのだろうと思いきや、着信音と共に彼女の手にはiPhoneが。  あれれ、じゃあ現代の話なのか?と思うが、その後の彼氏の実家のシーンにおいても、およそ現代的な描写はなく、益々困惑してくる。  そして、随所に挟み込まれる高校の用務員らしき老人の描写。  更には、極めて居心地が悪い彼氏の両親の異様な言動と、明らかに時空が混濁しているのであろう描写が連続する。  “彼女に何が起きているのか?” 避けられないその疑問が、この映画が織りなすカオスのピークであろう。    ネタバレを宣言した上で結論を言ってしまうと、この映画が描き出したものは、或る老いた用務員の「走馬灯」だった。 主人公のように映し出された“彼女”は、年老いた用務員の脳裏でめくるめく悔恨か、一抹の希望か、それとも、迫りくる「死」そのものか。  いずれにしても、記憶と積年の思いは、彼の脳内に渦巻き、甘ったるいアイスクリームのように溶けていく。  人生は決して理想通りにはいかない。 劇中でも語られるように、人生は、時間の中を突き進んでいるのではなく、ただ静かに、ただ淡々と過ぎ去っていく時間の中で立たされているだけということ。 そのことをよく理解しつくしている老人は、ただ時間の中に身を置いている。  そこにはもはや絶望も悲しみもない。 特に死に急ぐということもなく、いよいよ虚しくなった彼は、己の人生に対して静かに思うのだ。  「もう終わりにしよう。」と。     あまりにも奇妙な映画世界の中で、人生の普遍的な虚無感を目の当たりにした。 その様は、とても恐ろしく、おぞましくもあり、また美しくもあった。  映画作品としてはどう捉えても歪だし、くどくどと長ったらしい演出はマスターベーション的ではある。 チャーリー・カウフマン脚本の映画を長らく興味深く観てきているが、監督作になると良い意味でも悪い意味でも“倒錯”が進み、ただでさえ混濁した物語がより一層“支離滅裂”な映画に仕上がることが多い。 やはり個人的にチャーリー・カウフマンの映画は、彼が脚本に専念した作品の方がバランスの良い傑作に仕上がることが多いと思う。    ただし、もし、あと40年後にこの映画を観る機会を得られたならば、もっととんでもない映画体験になるだろう。 自分自身が人生の終盤を迎えたとき、この映画の老いた用務員が最期に見た風景の真意も理解できるのかもしれない。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-11-25 14:36:49)
205.  スパイの妻《劇場版》 《ネタバレ》 
太平洋戦争開戦前夜、運命に翻弄され、信念を貫く、或る女性(妻)の物語。 正義よりも、平和よりも、彼女にとっては優先されるべき「愛」。 危うく、愚かな時代の中で、それでも貫こうとする狂おしいまでの女の情念は、恐ろしくも、おぞましくもあるが、同時にあらゆる価値観を跳ね除けるかのように光り輝いてもいた。  “昭和女優”が憑依したかのような蒼井優の女優としての存在感は圧倒的で、ただ恍惚とした。 映画ファンとしてデビュー以来この女優の大ファンだが、そのことが誇らしく思えるくらいこの映画における蒼井優の存在感は絶対的だった。  1940年代から50年代における“日本映画”の世界観を蘇らそうとする映画世界に呼応し、あの時代の“女性”というよりも、あの時代の“女優”としてスクリーン上で体現してみせた様は、まさに「お見事です!」という一言に尽きる。  映画における秀でた女優の魅力は、ただそれだけで“芸術”として成立し、“エンターテイメント”として揺るがない輝きを放つと思い続けているが、今作における「蒼井優」は、まさしくこの作品が織りなす「芸術」と「娯楽」の象徴だった。  そして、彼女の存在を軸にして、運命の渦を加速させる二人の男。 最愛の夫をミステリアスに演じた高橋一生、幼馴染の憲兵隊隊長を非情に演じきった東出昌大の両俳優も素晴らしかったと思う。  無論、黒沢清監督による映画世界の構築も「見事」だった。 俳優たちへの演出はもちろん、1940年を再現した街並みや家屋、人々の衣装や髪型、その一つ一つの表情に至るまで、この映画で映し出されるべき「時代」そのものを映画の中で構築してみせている。     個人的には、自分が生まれるよりもずっと昔の昭和の日本映画を、長らく好んで鑑賞してきたので、この映画が挑んだ試みと、その結果として映し出される映画世界は、終始高まる高揚感と共に堪能することができた。  成瀬巳喜男監督の「女の中にいる他人(1966)」や、増村保造監督の「妻は告白する(1961)」などは、描かれるテーマや時代こそ微妙に違えど、昭和という時代の中で生きる女性(妻)の情念や強かさを描ききっているという点において類似しており、興味深かった。     ただし、そういった昭和の名画を彷彿とさせると同時に、それ故のマイナス要因もこの映画には存在していると思う。  それは、今この時代に、この作品が製作され、主人公・福原聡子というかの時代に生きた女性像を描き出すことに対して、踏み込み切れておらず、その意味と意義を見出しきれていない印象を受けたということ。  この映画が、かつての名画を忠実に再現した“リメイク”ということであれば、何の問題もなかろう。 だが、黒沢清と若手脚本家たちによって今この時代に生み出されたオリジナル作品である以上、太平洋戦争直前から末期を描いた時代映画だからこそ、映画の結論的な部分においては、2020年の時代性を表す何らかの価値観や視点を表現し加味してほしかった。  その唯一の不満要素が顕著だったのは、ラストシーンだ。 この映画は、戦禍を生き抜いた主人公が、夜明け前の暗い海で一人咽び泣くシーンで終幕する。 何よりも孤独に恐怖し、何よりも夫への情愛を優先した主人公の心情を表すシーンとして、この描写自体はあって然るべきだろうとは思う。 ただ、その描写で映画自体を終わらせてしまうのは、あまりにも前時代的と思え、工夫がないなと感じてしまった。  必要だったのは、悲しみと絶望から立ち上がり、新しい時代に踏み出していく女性の颯爽とした姿ではなかったか。 エンドロール前のテロップでは、その後聡子が、一人アメリカに降り立つということが後日談的に伝えられる。 そのような展開を物語として孕んでいるのならば、やはりその様はビジュアルとしてたとえ1カットだったとしても映し出されるべきだったと思う。  仕立てのいい洋装で身を包んだ聡子(=蒼井優)が、サンフランシスコの港に凛と立つ。 そんなシーンでこの映画が「Fin」となっていたならば、鑑賞後の余韻と映画的価値はもっと深まったのではなかろうか。
[映画館(邦画)] 8点(2020-11-14 17:03:25)
206.  ザ・フォーリナー 復讐者
終始無表情のまま、あまりにも大きな悲しみと怒りを膨らませ爆発させるジャッキー・チェンが、哀しく、怖い。 “なめてた相手が殺人マシーン”モノのエンターテイメント性と、スパイ映画のスリリングさと、ジャッキー・チェン映画のアクション性が見事に融合した映画世界はとてもエキサイティングだった。  アジアを代表する国際的アクションスターも60代後半に差し掛かり、流石にその風貌は老け込んでいる。 特に今作では、役柄的にも“隠居”状態で唯一の家族である愛娘と残された幸せを噛み締めつつ生きている初老の主人公という設定。 ジャッキー・チェンらしい、“やりすぎ”と“下手”の間をゆく役作りもあり、足元もおぼつかない様子を序盤からくどいほどに見せる。  そんな主人公が理不尽極まる娘の死を目の当たりにして、己の中の眠れる狂気を目覚めさせていく様には、荒唐無稽はあるけれど、それ故の独特の不気味さもあり目を見張るものがあった。 主人公の男が“ジャッキー・チェン”であることを十分に理解しつつも、こんなしょぼくれた爺さんがどうやって復讐を果たすのかと思わせてくれ、観客の興味の持続が非常に巧みだったと思う。 このあたりは、「007」シリーズでも手腕を発揮してきたマーティン・キャンベル監督のなせる業だろう。  そして、眠れる“ドラゴン”が短期間でその能力を呼び起こさせるくだりにおいては、律義にも“トレーニングシーン”を挟み込んでおり、その演出においてはジャッキー・チェン自身の変わらない愚直さが溢れ出ているように思った。 その短い「特訓」のシークエンスは、思わず笑ってしまったけれど、主人公を演じているのがジャッキー・チェンだからこそ、妙な納得感を持たせてくれ、その後の格闘シーンを違和感なく観ることができたと思う。  また、今作とは全く関係ない娯楽映画史の文脈を辿ると、“元・香港国際警察(ジャッキー・チェン)” VS “元・英国秘密情報部(ピアース・ブロスナン)”というスーパースター同士の構図も見えてきて、映画ファンとしては殊更に高揚感が高まった。  主人公は、驚異的な身体能力と破壊工作技術で、テロリストチームを追い詰めていく。 ただし、初老の元特殊部隊エージェントという主人公の設定がこなすアクションとしては、ちゃんとく抑制が効いており、彼が対決し撃滅する相手側のレベルとしても、決して非現実的ではなかった。 ラストの顛末においても、ポリティカルサスペンス的なシビアなスリリングさが加味されていて、映画全体の精度は極めて高いと思えた。  ジャッキー・チェンにおいては、「アクション映画引退」という報をこの十数年の間で何度も聞いた気がするが、まあこの映画で見せる程度のアクションは彼にとってはその部類に含まれないということだろう。 それならば、稀代のアクションスターの“非・アクション映画”における新境地には今後も期待できる。
[インターネット(字幕)] 8点(2020-11-09 22:59:20)
207.  透明人間(1954)
欧米では過去数十年に渡って幾度も映画化されている「透明人間」という題材。 その殆どが、SF作家のH・G・ウェルズ原作の映画化のようだが、日本でも「透明人間」という映画が存在していたとは知らなかった。  しかも1954年という公開年が益々興味深い。 1954年といえば何を置いても、「ゴジラ」第一作の公開年である。日本の特撮映画史におけるエポックメイキングと言える年に、特撮映画の一つとしてこの「透明人間」が製作されていたことは中々意義深いと思える。  第二次大戦中に秘密裏に存在していた透明人間部隊の生き残りの男を描いた悲哀は、時代的な背景も手伝って深いドラマ性を孕んでいる。 そして、その透明人間の主人公が、“ピエロ”の姿で“正体”を隠し、サンドウィッチマンとして生計を立てているという設定も、非常に映画的な情感に満ち溢れていたと思う。 (そのキャラクター的な特徴と立ち位置には、映画「JORKER ジョーカー」の逆説的な類似性も感じられ益々興味深い)  戦争における人間の功罪を、文字通り一身に背負う主人公の孤独と絶望は計り知れない。それでも彼が生き続け、守り続けた希望は、この時代にこの国で製作された映画だからこそ殊更に意義深いテーマだった。 “透明人間”という怪奇を映像的に表現した円谷英二による特撮も白眉だったと思う。 また、70年近く前の東京の風俗描写をつぶさに見られることも、時代を超えた映画的価値を高めていると言える。  この時代の特撮映画として不満はほぼない。 が、一つ不満があるとすれば、その後日本では「透明人間」という映画が殆ど存在しないことだ。  アメリカでは、1933年の「透明人間」以降、H・G・ウェルズの原作をベースにした作品だけでも4~5作品以上は繰り返し映画化が行われている。 それは、「透明人間」に関わらず、“ドラキュラ”や“フランケンシュタイン”しかり、古典的な怪奇映画の中では、時代を超えて普遍的かつ本質的な人間ドラマを見出せることを、映画産業としてよく理解しているからだと思う。  日本においても特撮映画隆盛期の1950年代から1960年代においては、今作以外にも、「ガス人間第一号」や「電送人間」「美女と液体人間」など、タイトルを聞くだけで印象的な数多くの怪奇SF映画が製作されている。 そういった往年の特撮映画を「古典」として、移り変わる時代の中で継承することができていないことが、この国の映画産業の弱体化の一因ではなかろうか。  今一度、今この時代の日本だからこそ描ける「透明人間」に挑んでもいいのではないかと強く思う。
[インターネット(邦画)] 7点(2020-11-09 22:55:34)
208.  ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密
“ミステリ”好きには堪らなく楽しい映画だった。 現代に蘇った“アガサ・クリスティー”的なストーリーテリングを、オールスターキャストで織りなす映画世界は決して華美ではないが芳醇で、多様な娯楽性が満ち溢れていた。 “007”のダニエル・クレイグと、“キャプテン・アメリカ”のクリス・エヴァンスが、それぞれ代名詞である人気キャラクターとは全くイメージを違えた登場人物を好演しており、殊更に映画ファンとしての充足感は高まった。  ミステリーというジャンルは、古今東西問わず映画史においても、文学史においても、描きつくされていて、新たな傑作を生み出すことが最も難しいジャンルではないかと思う。  今作にしても、ミステリーのネタ自体が抜群に新しいということはなく、ストーリーの形式そのものは、前述の通り“アガサ・クリスティー”が描いた推理小説の基本構成をベースにしていることは間違いない。  ただ、その“オールドスタイル”を丁寧に磨き上げ、きちんとオリジナル要素を盛り込み、現代的なアレンジで仕上げているからこそ、この映画はちゃんと面白いのだと思う。  気鋭の映画監督であるライアン・ジョンソンが、本人によるオリジナル脚本で今作を描き出した意義もとても大きい。 シリーズものやリメイクが横行するハリウッドの映画産業において、オリジナリティをもった脚本を書いて映画化することができるこの監督の存在感は、今後益々大きくなるのではないかと期待している。(「最後のジェダイ」も僕は大好きだ!)  キャスト陣においては、やはり前述の通りダニエル・クレイグとクリス・エヴァンスの両スター俳優が、長年演じ続けてきた代名詞的なキャラクターのイメージを脱ぎ捨てて、新境地を開拓していることが興味深く、フレッシュだった。 特に主人公の名探偵を演じたダニエル・クレイグは、彼にとっての「007」最終作の公開を前にして、また新たな人気キャラクターを獲得したのではないかと思える。  秋の夜長、上質な推理小説を読み終えた時のような充足感に包まれる。 こういう王道ミステリーは最近少なくなっていたので、ぜひともシリーズ化してほしい。
[インターネット(字幕)] 8点(2020-10-28 12:26:03)
209.  スカイライン-奪還-
2010年の前作「スカイライン-征服-」も、決して評価が高い映画ではなかった。 酷評が並ぶ中、劇場鑑賞をスルーしかけたけれど、或るTwitterの一文で「面白い“B級SF映画”だ」と唯一賛辞するつぶやきを見て、それならばと劇場に足を運んだ。 結果的には、前述の作り手の趣向に共鳴せざる得ない要素もあり、エンドロールと同時に心の中で親指をグッと立てたことをよく覚えている。  前作のある意味振り切ったラストシーンも忘れ難く、あの“衝撃の顛末”から繰り広げられるであろう「逆転劇」をぜひ見たかったので、無論この続編の報も好意的に受け止めていた。もちろん劇場鑑賞したかったけれど、前作の評価を受け公開規模は小さかったようで、地方在住者には鑑賞機会が得られなかった。  そうして、劇場公開から3年ほど経過した或る日曜の夜にようやく鑑賞に至る。  正直なところ、B級SF映画として前作にような思い切りの良さや、フレッシュさを感じることはなかった。 前作は、エイリアン侵略による緊迫感と独特な無慈悲が印象的だったけれど、今作はその後の地球人たちの“逆襲”を描いたプロットでもあるので、随分とアクション映画に寄った仕上がり。結果的に、どうしても目新しさは薄れてしまっており、良い意味でも悪い意味でも“フツーの続編”となってしまっていることは否めない。     主人公として登場するロス市警刑事を演じるのは、「キャプテン・アメリカ」シリーズの悪役ラムロウの演技が印象深いフランク・グリロ。突然の災厄にひるむことなく勇敢に立ち向かう主人公を熱く演じていた。  そして、インドネシア産の傑作アクション映画「ザ・レイド」で一躍世界的に名を馳せたアクション俳優イコ・ウワイスが、同作でも競演した武闘家兼俳優のヤヤン・ルヒアンと共に出演しており、エイリアン相手に大立ち回りを見せてくれる。 インドネシア発のアクションスターらの“参戦”に伴い、特に後半は国際色豊かなアクション映画になっている。     総じて前作以上に大味で、雑なB級娯楽映画に仕上がっており、一定のユニークさは担保しつつも、見応えのある映画とは言い難い。 けれど、こういうB級映画を日曜の夜に鑑賞することは、かつてテレビ放映の「日曜洋画劇場」で映画という娯楽に触れた少年時代を思い起こさせる。  憂鬱な月曜日を直前に控えた日曜の夜は、何も考えずに、少々雑多な娯楽映画に興じてみる。 そんなルーティーンも悪くないなと思う。 叶うことなら、故・淀川長治氏の解説付きで観たいものだけれど。
[インターネット(字幕)] 6点(2020-10-28 12:25:26)
210.  劇場版 鬼滅の刃 無限列車編 《ネタバレ》 
封切り3日間で46億円超の興収に至ったとか、映画館のタイムスケジュールが埋め尽くされているとか、あいも変わらずこの国の“ブーム”というものは節操がない。 とかなんとか思いつつも、公開されたその週末に自分自身子供二人を連れ立って、3,800円支払って、46億円の一端を担っているんだからざまあない。   ポップカルチャーに傾倒する者の一人として、社会現象まで巻き起こすような“ブーム”にはとりあえず乗ってみる主義なので、コロナ禍の最中、暇に乗じて手は出してみた。 ただし、ファーストインプレッションでは正直ピンと来ず、某配信サービスでアニメ版の第一話を観たきりしばらく放置してしまっていた。 これは今となっても変わらないが、正直なところもっと面白い漫画やアニメは山程あると思うし、週刊少年ジャンプの作品に限っても、「鬼滅の刃」に至る系譜の上には忘れがたき名作がひしめいている。  とはいえ、この作品が巻き起こすムーブメントはやはり大したものであり、それは子供と暮らしていると本当によく分かる。 小学三年生の長女と、幼稚園年長の長男が、揃って“鬼滅”にハマっていく様を目の当たりにして、一つのエンターテイメントとして「これは大したものだ」と率直に感じた。 そして、その子供たちが突き進む“沼”に引き込まれるように、僕自身も再びアニメシリーズを見進め、妻が借りてきた原作にも手を付けた。  そうして、いささかの抵抗もなく、封切りのタイミングでこの劇場版を鑑賞した次第。  結論から言うと、泣いた。そりゃあ、泣く。 週刊少年ジャンプ全盛期に、そこで連載されてきた数多くの漫画作品と共に育った者として、この漫画雑誌のテーマである「友情」「努力」「勝利」をどストレートに反映したこの漫画世界が織り成す物語に熱くならないわけはなく、二人の子を傍らに置いて鑑賞しつつも、涙は溢れた。  アニメシリーズを通じて今作を成功に至らしめたものは、アニメーションとしてのクオリティの高さだったと思う。 原作漫画も魅力的な作品であることは間違いないが、作画力は決して「上手」な部類ではないだろう。 アニメ作品では、その作画のクオリティを補完し、ハイスペックなビジュアルに昇華させている。そのことが、老若男女問わず幅広い層を熱狂させた要因となっているのは間違いない。  文字も読めない幼児から、中年世代に至るまで、「全集中 水の呼吸!」なんて嬉々として真似をしてしまうのは、ひとえにこのアニメーションのアニメーターや声優たちの功績だろうと思う。  ただその一方で感じた決して小さくないマイナス要因も今作は孕んでいる。 それは、ストーリーテリングにおける“フリ”の弱さと、“説明ゼリフ”の多さだ。 クライマックスに向けたキャラクターたちの対決や葛藤が大きくなればなるほど、本来そこで生じるべき大きなエモーションのための“前フリ”が欠如してしまっていることを感じずにはいられないし、重要な感情表現においてキャラクターたちに心情を語らせすぎるのは、原作漫画自体が持つウィークポイントだと思う。  一人ひとりのキャラクターは味方も敵方も含めてやはり非常に魅力的だと思う。が、しかし、その魅力的なキャラクターたちの熱い言動に対して、前フリやバックグラウンドの描き方がやや希薄に思え、彼らの決断や行為が極めて唐突に感じてしまうことは否めない。  例えば、この劇場版“無限列車編”では、本来の主人公・竈門炭治郎以上に、柱の剣士・煉獄杏寿郎が絶大な存在感を示すわけだが、彼の人生模様と、新たに共闘する炭治郎ら若き剣士たちとの関係性を深める描写がやはり希薄過ぎたと思う。 もちろん煉獄本人の回想シーンによって彼の過去は断片的に伝えられはするけれど、そこに炭治郎や伊之助らが介在することはなく、実際彼らの関係性が深まるようなくだりも無い。 よくよく考えてみれば、この映画の中で描かれるストーリーは、炭治郎らと煉獄杏寿郎がほぼ初対面の状態から突如として死闘に至る極めて短い時間を描いているわけで、絆が深まる余裕などそもそもない。 そうなると、ラストのあの文字通りに“熱い”顛末も、どうしてもエモーショナルに欠け、鼻白んでしまう。  そういう弱点を感じつつも、それでも泣いてしまったことは事実だし、このエンターテイメントに理屈ではない魅力が溢れていることは否定しない。 この“無限列車編”、そして“煉獄の死”そのものが、この漫画世界全体の“前フリ”であることを期待しつつ、この先の展開も子どもたちと一緒に楽しみたいと思う。
[映画館(邦画)] 7点(2020-10-24 12:12:33)(良:1票)
211.  エノーラ・ホームズの事件簿
秋の夜長、赤ワインを傍らに、ある意味において“現代版”の「シャーロック・ホームズ」を鑑賞。 “現代版”と言っても、ベネディクト・カンバーバッチの「SHERLOCK」のように現代のロンドンを舞台にしているわけではなく、コナン・ドイルが描いた19世紀後半のシャーロック・ホームズがそのまま登場する。 異なるのは、シャーロック・ホームズ本人が主人公ではなく、彼の“妹”が主人公であり、彼の“母親”がキーパーソンであるということ。  シャーロック・ホームズに“妹”がいたなんて話は聞いたことがないけれど、彼だって人の子、いくら架空のキャラクターであろうとなんだろうと、当然“母親”は存在する。もしかしたら“妹”もいたのかもしれない。 ただ、もしそういう家族構成だったとしても、原作小説の中で、“母親”や“妹”のキャラクター描写がピックアップされただろうか。 おそらくは、ただ一文節で紹介される程度だったのではなかろうか。 少なくとも、シャーロック本人にも勝るとも劣らない頭脳明晰なキャラクターとしては描かれることはなかっただろう。と、思う。   なぜそう思うのか? それは、“そういう時代”だったからだ。   今この時代に、シャーロック・ホームズ本人を脇に追いやって、彼の“妹”と“母親”を「女性」の代表として、映画世界の中で雄弁に語らせる意義。 それもまた、“そういう時代”だからこそようやく成立し得たテーマだったと思う。 だからこそ、原作同様に19世紀後半のロンドンを描いたこの作品が、“現代版シャーロック・ホームズ”と思えたのだ。  重要なのは、登場人物たちを現代人として描き直すのではなく、あくまでも当時の時代設定のままで、当時の社会の中で生きる人間として描いていることだ。 それは、女性蔑視や性格差に対する問題意識や発言や行動が、何も現代社会に限って巻き起こっているものではないというメッセージに他ならない。 100年前から、いやもっと前から、女性たちは、与えられるべき正当な権利と、認められるべき自由な生き方を主張し続けているのだ。  聡明な母は、「ひどい未来を残すのは耐えられなかった」と、愛する娘が16歳になったタイミングで姿を消す。 それはまさに、過去から現代に至るまで、世界中の女性たちが胸に秘め続ける思いではないか。   この意欲的で独創的な映画もまた「Netflix」映画である。 Netflixで独占配信される作品には、社会的、思想的、政治的なメッセージをダイレクトに強くぶつけてくる作品が多い。 映画作品としては、その主張の強さが時にアンバランスに感じる時もあるけれど、それも、“この時代”が必要とせざるを得ない表現方法であり、手段の一つなのではないかと思う。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-10-17 15:53:46)(良:2票)
212.  トランス・ワールド
手塚治虫や藤子・F・不二雄のSF短編にありそうなサスペンスとホラーとエモーショナルがギュッと詰まった“小話感”が小気味いい。 舞台設定から編集作業の詰めの粗さに至るまで、“低予算感”は否めないけれど、それ故の“掘り出し物感”もあり、満足度は高かった。  キャストも少人数で地味だが、やはりクリント・イーストウッドの息子であるスコット・イーストウッドが印象的。 ハンサムではあるが、独特の何だか“嘘くさい”風貌が、今作のキャラクター性に合致している。 善人か?悪人か?と中々判別がつかない雰囲気が、序盤の緊張感を高めていたように思う。  偶然にも、今年指折りの話題作「TENET テネット」に続いて“タイムパラドックス”ものを続けてみてしまった格好。 映画の規模やクオリティのレベルは比べ物にならないけれど、アイデアと表現方法の工夫で、タイムパラドックスを巡るサスペンスとドラマを生み出す映画的な巧みさは、決して勝るとも劣らないものだったと言えよう。  まさしく“親殺しのパラドックス”を逆説的に描いた顛末が導いた未来はどうなったのか? 果たして「彼」の存在はどうなってしまったのか?  “切なさ”も含めて、そういうことをつらつら考えていくのも、この手の映画の醍醐味だろう。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-10-17 00:34:59)(良:1票)
213.  The Witch/魔女
ある瞬間、愛らしい田舎娘の無垢な顔つきが、まさしく「魔女」そのものの狂気に包まれ、爆発する。 そのダークヒロインを務めた若き韓国人女優の“表現”は圧巻で、それ一つ取ってもこの映画の娯楽性は揺るがないと思える。 いつの時代も、どの国であっても、優れた「女優」が魅せる広義の“アクション”は、忘れがたきエンターテイメント性を観客に提供してくれるものだ。    序盤は、アクションなのか、サスペンスなのか、コメディなのか、ホラーなのか、掴み切れない映画世界のテンションに困惑した。 物語のベースとなる設定は明らかに不穏で闇に塗れたものであるはずなのに、序盤の展開で描かれるのは、田舎の夢見る女子高生たちが織りなすサクセスストーリーのようで、青春コメディかと見紛う。  ただ、事前情報と冒頭のシークエンスで、この映画が必然的にバイオレンスに転じることは承知していたので、観客としてはそのタイミングが今か今かと妙な緊張感を強いられる。 この絶妙な居心地の悪さ(褒め)は、まさしく韓国映画ならではのものであろう。  例えば同じプロットで、ハリウッドや日本でこの映画がリメイクされたとしても、この独特な空気感を表現することはできないだろう。 今年度アカデミー賞を勝ち取った韓国映画「パラサイト」にしても、あの国の風土、文化、空気の中で生み出されたからこその「傑作」であり、国境を超えて数多の映画賞を総なめしたことは非常に意義深い。    そんな相も変わらず芳醇な映画的土壌でまたもや強烈な映画が誕生したことは間違いない。 冒頭でも記した通り、絶対的なダークヒロインの誕生を表現しきった主演女優キム・ダミが、鮮烈な印象を放っている。 韓国映画界は、また一つ重要な“宝石”を手に入れたものだと思う。  一方でアクション性の高い娯楽映画だとはいえ、“粗”は散見する。 “ネタバレ”の肝となる要素も強引過ぎるし、整合性があるとは言い難い。 序盤からクライマックスまでの展開における独特な空気感を認めつつも、アクション映画としてのテンポは悪く、きっぱり長い。  とはいえ、今作は続編の制作を念頭に置いた“シリーズ第一作”なので、この作品単発のテンポの悪さは、今後の続編のクオリティいかんで上方修正されることだろう。  とにもかくにも、新たなダークヒロインの更に加速したブチギレアクションを早く観たい。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-10-06 23:18:24)
214.  TENET テネット
文字通り縦横無尽に行き交い混濁する時間の渦に放り込まれた名もなき主人公が、世界を救うために奔走する。 「行為→結果」の理が反転する時間逆行の世界の中で、彼が救うのは「未来」なのか「過去」なのか。 論理的に考えれば考えようとするほど、矛盾は幾重にもパラドックスを生み、堂々巡りから抜け出せなくなる。  このタイムパラドックスもの特有の“堂々巡り”、僕は大好物である。  そして、時間逆行の概念をビジュアル化し、この上ない“活動的”な映像世界を構築した試みと成果は、充分に評価に値すると思う。 映画監督として、「誰も見たことが無いもの」を追求し続けるクリストファー・ノーランの立ち位置は孤高であり、彼が世界の映画産業のトップランナーであるこは間違いないと思える。    ただし、だ。 この作品が映画として「完璧か?」と問われると、正直素直に「YES」とは言い難い。 非常に意欲的でセンセーショナルな映画作品であることを十二分に認める一方で、「成功」とは言い切れないフラストレーションを大いに感じている。  肝となる時間逆行のプロセスや設定が破綻しているとは思わない。 多少の整合性の無さや、細かい理屈を度外視したマクガフィンの存在などは、この手のタイプの映画にはあって然るべきだと思うし、そういう「粗」こそが娯楽になり得ると思う。  僕が感じたフラストレーションの最たる原因は、詰まるところ「分かりにくさ」だと思う。  「難解」が売りのこの映画に対して「分かりにくい!」などと言うことは、本末転倒も甚だしい。 しかし、この「分かりにくさ」は、時間軸が入り乱れるストーリーテリングや設定についてではない。  映像作品としての“見せ方”が非常に分かりにくすぎると思ったのだ。特にアクションシーンにおいては、きっぱりと「下手」と言わざるを得ない。  視覚効果を極力廃して、生身の人間、実物セットでこの映像世界を構築したキャストやスタッフの尽力は痛いほど伝わってくる。 この映画に携わる総ての映画人たちが極めてアグレッシブに映画づくりに臨んでいることは明らかだ。 だが、この難解なストーリーテリングをベースにした映画世界の構築においては、時にもっとシンプルに、もっと手際よく映像を紡ぎ出すこともまた必要だったのではないかと感じる。  そういう意味においては、アクションシーンの映像的な描き方が実はそれほど上手ではないクリストファー・ノーランの数少ない“弱点”が露呈してしまっているように思える。  順行と逆行の時間軸が同一画面上で入り交じるという破天荒な映像世界を表現するためには、敢えて仰々しいまでの乱雑さを意識することは必要だろうし、その映像的な“カオス”も含めてこの映画の魅力となっていることも確かだ。 でも、今作の物語を決する重要な局面においては、そのような過剰な演出は不要だったのではないかと思う。 特に、クライマックスについては、あのように大部隊が入り乱れる戦場シーンにする必要はなかったのではないか。  この作品の物語が実は紡いでいた熱い友情と気高い決断、そして事の真相が一気に明らかになるシークエンスにおいて、戦場シーンの混沌と混乱は不要だった。 画面上に登場する人物を主人公とキーとなるキャラクター数人に絞って、シンプルに映し出したほうが、クライマックスの緊張感とエモーションがもっと高まったと思うし、クリストファー・ノーランの監督としての資質にも合致していたのではないかと思える。 (ただ、ノーランはああいう大合戦シーンを撮りたがる。「ダークナイト ラジング」でもあったなあ……)  方々の“考察”も見聞きしつつ、ストーリーが整理できてくるほどに、決して目新しい話ではないということに気づく。 ストーリーそのものはある意味とてもシンプルだし、諸々の設定やストーリーテリングについても、「藤子・F・不二雄」をはじめ古今東西のタイムパラドックスものを好んで見尽くしている者にとっては、むしろ王道的であった。  そういうプロットを、クリストファー・ノーランだからこそ許される孤高の美学で貫き通した映画世界構築は、もちろん称賛に値する。 ただ、物語にきちんと備わっていたエモーショナルをもう少ししっかりと描きぬいてくれていたなら、鑑賞後の満足感は大違いだったように思う。  同じく難解で大胆なSF映画だった「インターステラー」が、忘れがたき傑作になり得たのは、映画的な“エモさ”に溢れていたからだと思うのだ。
[映画館(字幕)] 7点(2020-10-02 23:36:31)
215.  新聞記者 《ネタバレ》 
ラスト、彼が示したものは、この国の「限界」か。それとも、未来のための「一歩」か。  8年ぶりに総理大臣が変わった。 だからといって、大きな希望も期待もない。この国の殆どの人々は、諦観めいた視線で国の中枢を眺めている。 いや、「諦観」などと言うとまだ聞こえがいい。自分自身を含め、この国の人々は、無知のまま考えることを諦め、自ら「傍観者」に成り下がってしまっているのではないか。  そういうことを改めて鑑賞者に突き詰め、あまりにも居心地の悪い情感で覆い尽くすような映画だった。  国家の中枢の陰謀と闇に気づいた新聞記者たちが、真実を暴き出そうとするストーリーテリングは、ハリウッドをはじめ数多の映画作品で描かれてきたプロットだ。 ただし、多くのハリウッド映画と異なり、この映画は、主人公たちが明確な危機に陥ることもなければ、胸をすくカタルシスを得ることもできない。 ただ、じわじわと真実に気づくと同時に、じわじわと真綿で首を絞められるようにこの国の闇の本質に追い詰められる。  真実を光のもとに晒そうとする行為が、実のところ、もっと深い闇へと自分自身を引きずり込んでいたという悍ましさ。 溜飲を下げさせないこの映画の顛末が物語るもの、それは今この瞬間の、この国の有様そのものではなかろうか。     “一応”フィクションであるこの映画のストーリーが、現実社会のありのままを描き出しているとは思わない。 或る新聞記者の主観が原案でもある以上、“一つの観点”として捉えるべきものだろうとは思う。 この映画で描かれていることに対して、「偏って考えすぎ」と揶揄したり、「そんな馬鹿な」と嘲笑することも自由だろう。 だがしかし、そういう風に一笑に付することができない現実が、事実としてこの国の社会や政治の愚かな有様に表れてしまっていることは否定できない。  この国の中枢に「巨悪」は存在するのか否か。 もし存在するとするならば、その「闇」を司るのは、私利私欲に走る政治家か、それとも「この国のため」と盲信する官僚組織そのものか。 そう逡巡しながら、はたと気づく。 否、「闇」を拡散し、支配しているのは、「諦観」という言葉の下に考えることを放棄し、「傍観者」に成り下がってしまっているこの国の人々一人ひとりなのではないかと。  「誰よりも自分を信じ、疑え」  新聞記者の主人公の亡き父が遺した言葉が指し示すものは、決してジャーナリズム精神に留まらず、国民一人ひとりのあり方として、我々が刻むべきものではないかと思えた。     主演の韓国人女優シム・ウンギョンの演技は素晴らしかった。日本語のアクセントの問題も、主人公のキャラクター設定が、国際的に活躍したジャーナリストを父親に持つ帰国子女ということを踏まえると、決して違和感ではなくむしろ的を射たキャスティングだったと思う。 一方で、日本人の主人公役に日本人女優がキャスティングされていないことに否定的な意見も見聞きするが、ここにも何かしらの圧力めいたものを感じてしまった。  韓国人俳優の骨太な演技力と存在感は言わずもがなだが、だからといって日本人女優の演技力が劣っているとは思わない。 主人公の記者役に日本人の実力派女優がキャスティングされていたとしても、作品としてのクオリティーが下がることは無かっただろう。  ではなぜ日本人女優はキャスティングされなかったのか。  この映画の主演に日本人女優がキャスティングされなかったのは、日本の芸能事務所が“尻込み”したということに他ならないのではなかろうか。 時の政府をほぼ名指しで糾弾する役柄を演じさせることによる、女優個人というよりも所属する芸能事務所自体のパブリックイメージに対する怯えと、何かしらの忖度。  そういうことがどうしても垣間見れる日本の芸能界には、やはり脆さと限界を感じずにはいられない。 近年、トップランナーの俳優たちの独立が立て続く背景には、そういうこの国の芸能界そのものの脆弱性も影響しているのではないか。     イメージ低下を危惧する芸能事務所に限らず、この国の人々、いや国家そのものが、弱々しく、怯えている。 国全体の怯えと共に、闇は益々深まる。 どうしたって同調圧力から脱することができない国民性であるならば、国民全体が同じ方向に勇気を持った「一歩」を踏み出すことでしか、「未来」は見えてこないのではないか。
[インターネット(邦画)] 8点(2020-09-24 00:15:21)
216.  オールド・ガード
不可思議にも不死身の肉体を得てしまった戦士たちが、文字通り終わりのない死闘を繰り広げる物語。 “不死身の暗殺集団”という中二病的設定は、馬鹿馬鹿しくも感じるが、安直故に容易に想像できる彼らの「虚無感」を思うとグッとくる要素もあったのでまあ良しとしたい。  この映画の面白い部分はまさにその「虚無感」であり、何百年にも渡って死闘を繰り返すあまり、もはや何のために闘っているのかその意味を見いだせなくなっている彼らの悲哀が、アクションの激しさに反比例するようにやるせない気持ちにさせる。  不死身とはいえ、彼らの本質的な能力は生身の人間であり、致命傷を受ければ相応の痛みと苦しみを味わう。そして律儀にも「死」に至った後に、蘇る。 重要なのは、決して“死なない”のではなく、「死」という明確な経験を経た上で、半ば強引に“蘇らされている”ということだ。  無論、僕は「死」というものを経験したことはないので、想像の域を出ないけれど、「死」の恐怖は、まさに息絶えるその瞬間にピークを迎えるものではなかろうか。 それを経た上で蘇る彼らは、勿論「無敵」ではあるけれど、これこそ「無間地獄」そのものであり、そのさまはあまりにも痛々しく、惨たらしい。  「世界を救う」という盲目的な使命感のみで彼らは文字通りの「生き地獄」を歩み続けているわけだが、肝心のその世界がちっとも良くならず、何百年にも渡って同じような戦争や殺戮に身を投じるはめになれば、そりゃあ心を病む。  映画のストーリー的にも、実際に登場する悪役は完全に噛ませ犬的な存在であり、真に対峙すべきは彼ら自身の苦悩そのものという焦点の当て方も、題材に対しては適切だったと思う。  そもそもの設定が安直な分、当然ながらツッコミどころには枚挙にいとまがない。 例によって配信映画とは思えない豪華な作りではあるが、良い意味でも悪い意味でもNetflix映画特有のライトさは全編通して感じる。(シリーズ化への目論見は明確なので、続編での補完の仕方次第では今作の評価も上下変動するだろうと思う)  とはいえ、主題である「虚無感」を全身に帯びつつも、相変わらず“男前”過ぎるセロン姐さんに対しては、映画世界の設定を超越して「永遠なり」と思えた。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-09-20 00:31:14)(良:1票)
217.  僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46 《ネタバレ》 
まず率直に感じたことは、良い悪いは別にして、彼女たちの“本音”が表れている映画ではなかったなということ。 「嘘と真実」というタイトルが表していたものは、秘められていたコトがこのドキュメンタリーでつまびらかにされるということではなく、この映画で語られる言葉そのものが、「真実」でもあり「嘘」でもあるということだったのではないかと思う。  彼女たちが発する「言葉」は、今まで数々のメディアで発信されてきたものと同様に、やはりどこか拙く、意識的にも、無意識的にも、本当のコトを吐き出しきれていない印象を覚えた。 それに相反するように、劇中で映し出される数々のライブパフォーマンスでは、彼女たちの内情が激しく吐き出されているように見えた。  そして、気付く。この映画のタイトルが「僕たちの嘘と真実」であるということの意味に。  “私たち”ではなく、“僕たち”である。  即ち、このドキュメンタリー映画で映し出されているもの、または映し出そうとしたものは、「欅坂46」というアイドルグループを構成する“彼女たち”のありのままの姿などではなく、彼女たちが作品の中で表現してきた「主人公=“僕”」の真の姿だった。  平手友梨奈というカリスマを象徴的に中心に据え、「欅坂46」という群れが一体となって作品の中で体現し続けてきた「僕」。 作品に登場する「僕」とは、どのような存在だったのか? 彼女たちにとって「僕」とは、どのような存在だったのか? この映画が突き詰めようとしたことは、そういうことだったのだ。  メンバーたちの虚空を掴むようなどこかぼやけた言葉の理由も、ライブパフォーマンス描写の中でのみくっきりと浮かび上がってくる輪郭も、その対象が「僕」であったことを踏まえると途端に腑に落ちる。  ただ、そこに「意味」はあっただろうか。  少なくとも、この“終幕”のタイミングで遂に公開されたドキュメンタリー映画として、このアプローチが意義深いものだったとは思えなかった。  なぜなら、多くのファンにとってこの映画で伝えられたことは、既に理解しつくしているコトだったからだ。 作品の中に登場する「僕」の存在性と、彼が内包する葛藤と矛盾、それらすべてを体現する平手友梨奈の苦悩、そして「欅坂46」との関係性。 それらは、「欅坂46」の作品やパフォーマンスを通じて、表現され続け、伝えられ続けてきたものであり、もはや概念的なものである。  5年という年月の中で、「欅坂46」が作品を通して表現し創造してきた概念。 ファンの一人一人がそれぞれに受け取り、理解してきたその真理を、敢えてドキュメンタリー映画の中で伝える必要があっただろうか。 それは、彼女たちが文字通り魂をすり減らして生み出してきた作品の世界観と、それに共鳴してきたファンの心情を侵害するものではなかったか。  ならばドキュメンタリー映画なんて観なければいいと言われそうだが、それも少し違う。 個人的に、このドキュメンタリー映画で観たかったものは、やはり、「欅坂46」というアイドルグループを表現してきた彼女たち一人一人の「声」であり、人間としての「姿」だった。  卒業・脱退メンバーも含めて、彼女たちのこの5年間における表立っていない「声」や「姿」をもっと反映してほしかったと思う。  無論、そうしたからと言って、彼女たちの“本音”のすべてが聞こえるとは思わない。 それでも、「黒い羊」のMV撮影終わりに、他のメンバーと乖離するように一人立ち尽くす鈴本美愉しかり、インタビュー中「ここでは話せない」と吐露する小林由依しかり、センターに君臨する平手友梨奈のカリスマ性を嫉妬と敬意をにじませながらじっと見つめる今泉佑唯しかり、表現しきれていない彼女たちの何かしらの思いは、今作の端々からも伝わってくる。  ファンが欲したのは、「僕たちの嘘と真実」ではなく、「私たちの嘘と真実」だったと思うのだ。  このドキュメンタリー映画鑑賞後の数日間、複雑な感情が入り混じりながら、「欅坂46」の5年間に思いを巡らせた。 「発信力」という観点に絞るなら、良い意味でも、悪い意味でも、彼女たちは作品を通じた“パフォーマンス”がすべてだった。 そのことがアイドルグループとしての“ひずみ”や“鬱積”、そして危ういバランスに繋がっていったことは否めない。  それは、類まれな才能に酔ってしまい、「運営」としてコントロールすることを放棄した大人たちの責任でもあろうし、一つのイメージから殻を破ることが出来なかった彼女たち自身の責任でもあろう。  ただ、その危うい偏りが、あのエモーショナルを生んだのであれば、それは圧倒的に正しいことであり、やっぱり「正義」だったと思うのだ。
[映画館(邦画)] 6点(2020-09-11 23:42:55)
218.  七つの会議
現在、「半沢直樹」の第2シーズンにハマり中。 過剰なまでに“舞台調”の大仰な演出にはもはや笑ってしまうが、その振り切った表現も含めて、あのドラマの娯楽性であろうし、あれくらい臆面もなく勧善懲悪を描ききってくれるからこそ、カタルシスは高まるというものだ。  「倍返し」の流行語も生んだ2013年の「半沢直樹」第1シーズンの社会的ヒット以降、作者・池井戸潤の原作は、ありとあらゆる作品が映像化されてきた。 すべての作品を観てきたわけではないけれど、どの作品も、日々声に出すことができないこの国の社会の鬱積や理不尽に対して、作品の主人公たちが痛快に立ち回ってくれることが、多くの日本人にとって高揚感となり活力となっていることは想像に難くない。  現代社会における「時代劇」という寸評も、言い得て妙であり、それは江戸時代の人々が「歌舞伎」や「講談」に興じた風景と似通っているようにも思える。  今作「七つの会議」の原作は、この映画化作品が劇場公開されるタイミングで読んでいた。 中堅電機メーカー社内で巻き起こる「小市民」たちの葛藤と鍔迫り合いが実に生々しく描かれていた。 主人公・八角民夫も含めて、登場する人物が皆この社会のどこにでも存在する「小市民」だからこそ、おそらくこの国のすべての「会社員」は身につまされる事だろうと思った。無論、自分自身を含めて。  この映画化作品も、原作のイメージを損なうこと無く、概ね忠実に仕上がっていると思う。 まさに“池井戸ドラマオールスター”といって過言ではない勢揃いのキャスティングが、まず楽しい。 出演はしていないけれど、「半沢直樹」の堺雅人や、「下町ロケット」の阿部寛が登場してきても不思議じゃない世界観は、まるで一つのユニバースを構築しているようだった。  主演は野村萬斎。原作においても“変人的”に描き出される主人公像を、更に過剰な演技プランで強烈に表現しており、この稀代の能楽師がキャスティングされたことの意味を見せつけている。  「半沢直樹」においても、歌舞伎役者や落語家などの有名所が数多くキャスティングされているが、池井戸原作を映像化するに当たっては、前述の“時代劇性”も含めて、やはり古典芸能との相性が良いのだろう。 (今や飛ぶ鳥を落とす勢いの講談師・神田伯山が何かの作品でキャスティングされるのも時間の問題だろうな)  原作小説の段階から現実感のない破天荒ぶりを見せる主人公だったが、それを野村萬斎が演じることで、更に現実感は無くなっている。 ただ、その様相は、もはやこの社会原理の善悪を問う“メフィストフェレス”のようでもあり、ラストの滔々と語るモノローグも含めて、ずばり悪魔的であった。  「半沢直樹」や「下町ロケット」のように分かりやすく英雄的な主人公が不在の作品なので、より生々しい分、分かりやすいカタルシスは得られない。 結果として、非常にモヤモヤしたものを抱えつつ、今自分自身が身を置く社会や会社の風景を訝しく眺める羽目になるだろう。  原作小説のように章立ての構成になっていないので、「七つの会議」というタイトルについては正直意味不明なことになっていたな。
[インターネット(邦画)] 6点(2020-09-06 23:58:15)(良:1票)
219.  ザ・ファイブ・ブラッズ
世界は相も変わらず混迷している。 黒人男性銃撃による世界的波紋と怒り、トランプ政権への信を問われ二分するアメリカ、そして、チャドウィック・ボーズマンの突然すぎる訃報。  一体“何”に向けてこの鬱積を晴らしたらいいものか分らぬまま、この映画を観た。 スパイク・リー監督の映画なので、良い意味でも悪い意味でも“一つの方向”に偏り、振り切った作品ではある。 が、同時に、今このタイミングで観なければどうしようもない映画であることも間違いない。 社会に対する怒り、歴史に対する怒り、世界に対する怒り。夥しい悲しみの累積の上に渦巻く黒人もとい“すべての人間”の怒りがぶちまけられている。  ベトナム帰還兵の老人4人が、数十年ぶりに再度ベトナムに集い、かつての戦場に残された埋蔵金と戦死した隊長の亡骸を探す冒険に挑むというくだりは、娯楽性に溢れており、楽しい。 しかし、かつての戦場を辿るアドベンチャーは、徐々に確実に彼らの心の奥底に巣食うトラウマと、今なお生々しく残る現地の災禍を呼び起こしていく。  黒人兵たちは、ベトナムの過酷な戦場で、自分たちが白人に良いように使われ、都合よく使い捨てられている現実に気付き、憤る。 だがしかし、数十年ぶりの“行軍”によって目の当たりにしたものは、自分たち自身の「罪」と「罰」だった。 戦時を振り返る回想シーンにおいて、4人の老人が画像加工なくそのままの風貌で描き出されている意図は、彼らが「罪」を抱えたまま老いてしまったことの象徴なのだろう。  黒人の人種、社会に対する差別、迫害は、アメリカのみならず、人類史の汚点であり、人類全体が恥ずべき闇であることは間違いない。 ただし、だ。 だからといって、黒人が常に歴史における“被害者”であったかというと、無論そんなことはない。 肌の色に関わらず、すべての人種、すべての人間は、“被害者”であり、“加害者”でもある。それが、歴史の紛れもない事実であろう。  虚無的にすら感じるその憎しみの連鎖と、終着点がない怒りの螺旋こそが、人類の本当の闇なのだと思う。  想像以上に過酷な行軍の果て、年老いた黒人帰還兵たちが掴み取ったものは、黄金でも、亡き隊長の尊厳でもなく、戦地に置き忘れてきた「罪」そのものだったのかもしれない。   2020年8月28日。誇り高き“ワカンダ国王”の訃報が、多大な悲しみと共に世界中を駆け巡った。 享年43歳、スター俳優のあまりにも早過ぎる死をいまだ受け入れることができない。 聞けば、2016年から闘病を続けていたというから、本作はもちろん、“ブラックパンサー”として登場したすべてのMCU作品も大病の只中で演じ切っていたということだ。  悲しみは尽きないけれど、今はただ、戦い切った偉大な戦士の安らかな眠りを祈りたい。
[インターネット(字幕)] 8点(2020-09-02 23:46:03)
220.  復活の日
驚いた。何という圧倒的なスペクタクルだろうか。 2020年、“コロナ禍”の真っ只中。1980年公開のこの国産超大作を、今このタイミングで鑑賞したことは、極めて稀有な映画体験だと言えよう。 新型コロナウイルス感染症の蔓延とそれに伴う悲劇が、全世界的に収束しない今の時世において、このSF映画が描き出したパニックと世界の“終末”は、決して大袈裟ではない「予言」であり、恐怖であった。  序盤のパンデミック描写はまさに今現在の社会の有様そのものだったし、そこから展開される人類死滅の地獄絵図は、とことん絶望的で遠慮がなかった。 そして、世界の人口が南極に取り残された数百人のみとなっても、さらなる破滅の進行を余儀なくされる人類の行く末には、恐怖や憤りを遥かに超えて、只々虚無感を覚えた。  その“虚無感”は、今作同様に明確な滅亡の最中を生きる人類の顛末を描いた「渚にて(1959・米)」や、冷戦下における核戦争の危機を真摯に描ききった「未知なる飛行/フェイルセイフ(1964・米)」を彷彿とさせる。 両作とも、冷戦時代のアメリカで切実な危機感と共に製作された作品であり、傑作だった。 ソリッドに研ぎ澄まされたこれらの作品と比べると、今作は大味だし、稚拙なウェットさがあることは否めない。 ただし、冒頭に記したとおり、超大なスペクタクルを伴った映画的な圧力が、また別の魅力と価値を生み出していると思った。  地球全体を舞台にしたSF的なパニックと恐怖、それに伴う残酷と慈悲の釣瓶打ちが凄まじい。 それはやはり当時隆盛を極めた「角川映画」だからこそ仕掛けることができ、実現し得た映画企画であったろうし、監督を務めた深作欣二による絶対的な支配力がなし得た結果だと思う。 ロケーション、キャスティング、バジェット、そして映画人たちのエネルギー、映画製作におけるあらゆる規模が今現在の日本映画界の比ではなく、その“スケール感”に圧倒される。  更には、小松左京のSF小説を原作にしたストーリーテリングが、SFパニック映画としての物語性を深め、映画世界を芳醇にしている。 世界の人口が数百人になった時、それまでの人間社会の倫理観や価値観などは、一旦無に帰す。 そこには、“感情”を抑制し、生物として存続することの残酷な真意が明確に映し出されていたと思う。  「戦争」と「疫病」、それはいつの時代においても、人類の最大の“敵”であり、“弱点”そのものであろう。 むしろ人類史自体が、戦争と疫病の繰り返しによって形成されていると言っても過言ではないのかもしれない。 そうであるのならば、非力で愚かな人類には、打ち勝つすべも可能性もそもそも存在しないのではないか……。  燃え盛る巨大な落日を目の当たりにして、“男”は一人、立ち尽くす。  それでも……それでもだ。我々人類が最後の最後まで手繰るべきものは、「希望」であり、「愛」であるという帰着。 落日の絶望感に殆ど押し潰されながら、それでも男は歩み出す。 その様は、巨大な絶望に対してあまりにも無力で、脆弱に映るけれど、どこまでいってもその先に「明日」があるのだと、今この世界に生きる人類の一人として、信じたい。  「Life is wonderful (人生はいいものだ)」と言い続けることが、唯一にして最大の抗いなのかもしれない。
[インターネット(邦画)] 10点(2020-06-05 20:54:11)(笑:1票) (良:3票)
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