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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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241.  この世界の(さらにいくつもの)片隅に
正月などに親族で集まると、決まって、もう何年も前に亡くなった祖母の話題になる。 孫から見ても、なかなかパワフルな人だったので、エピソードには事欠かないのだけれど、このところは特に、戦中戦後のあの時代に、農家の嫁として苦労したであろう話を、父や伯母連中からよく聞かされる。  祖母は農家に嫁ぎ、子を授かったが、生まれたのは3人続けて女子だった。 「時代」と「環境」を踏まえると、肩身が狭かったことは明らかで、あらゆる角度からあらぬ非難も受け続けただろう。 4人目でようやく長男(父)が生まれたことによる祖母の喜びというよりも、「安堵」は想像に難くない。  ものすごく理不尽で、愚かしいことだけれど、当時の女性にとって、特に“嫁”として嫁いだ女性にとって、“跡取り”を生むことは「義務」であり、社会にとっても、女性本人にとっても、その価値観の絶対性は揺るがないものだったのだと思う。 現代の価値観で、当時のその“常識”を非難することは容易だけれど、それこそ、「時代」も「環境」も異なる“ものさし”で推し量ったところであまり意味はない。  ただ唯一確かなことは、“農家の暗い納屋の片隅”で、“小さな借家の狭い炊事場の片隅”で、いくつもの世界の片隅で、涙を流し続け、それでも生き抜いた「彼女」たちの人生の上に、僕たちは生かされているということ。  映画の中の“すずさん”も、その「時代」に嫁いだ女性の一人として、自分の中にも知らず識らずの内に根付き、蔓延っていた“常識”にぶつかり、思い、悩む。 生来の呑気な性格も手伝って、ゆらゆらと風の吹くまま気の向くまま生きてきた彼女だったけれど、“リン”という一人の女性との邂逅を通じて、自らの女性としての存在意義に対して目を向けざるを得なくなる。  そこには、疑念や嫉妬や怒りを含んだ感情も渦巻くけれど、喜びや慈しみも生まれ、一人の女性として人生を深めていく様がありありと映し出されていた。  「この世界に居場所はそうそう無うならせんよ」  と、遊女のリンは、すずに語りかける。 人は誰だってこの世界で必要な存在であろうし、たとえどんなに辛くても人は“生き続けるための場所”しか与えられていない。 友に対する“優しさ”も、自身の生い立ちを踏まえた“厳しさ”も、等しく含んだこの台詞は、彼女たちの人生の機微を雄弁に物語り、深く深く、心に染み入ってきた。     この映画は、「この世界の片隅に」で意図的に“間引かれていた”エピソードを追加し、前作の「行間」に在った感情を紡ぎ直した「新作」である。 「この世界の片隅に」は“完璧な映画”だった。 そして、この「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」は“また別の完璧な映画”だった。  人間が人間らしく、ただ「生活」を営むということの、強さと、儚さと、眩さ。 それはあまりにも普遍的な輝きだからこそ、強引に奪われたことによる闇はより一層に深まり、傷つく。  悲しかったでしょう、悔しかったでしょう、怖かったでしょう、痛かったでしょう、辛かったでしょう。  でも、それでも、泣いて、怒って、笑って、「貴女」が生き続けてくれたから、僕たちは“今”生きている。 そのすべてをひっくるめたこの映画の高らかな愛しさに、また涙が止まらない。
[映画館(邦画)] 10点(2020-02-06 22:07:18)
242.  ガメラ3 邪神<イリス>覚醒
突き抜けた特撮精神。そして、エゴイスティックなストーリーテリング。  初見時は、とても満足度が低かった記憶があるのだが、再鑑賞してこの作品のエネルギーに圧倒された。
[インターネット(邦画)] 8点(2020-01-26 22:12:56)
243.  男はつらいよ
気がつけば、僕自身が30代後半。“アラフォー”なんて実感はまるでないが、人生の時間なんてものは、そんな感覚などお構いなしに瞬く間に過ぎていく。 時間は往々にして無情だけれど、それでも人間として歳を重ねるからこそ見えてくるものや、感じられるものは確実にあり、それはそれで悪くないなあとようやく思え始めてきた。  この映画「男はつらいよ」シリーズの第一作に登場する主人公“車寅次郎”は35歳。 まさに自分自身がこの国民的主人公の年齢に追いついた頃合いで、初めての鑑賞に至った。   数年前から観よう観ようとは思っていたのだが、いざ観てみたならば、やっぱり「最高」の一言に尽きた。 ただし、この充足感は、若い頃に観ても感じ取れなかっただろうなとも思う。自分自身がこの映画を楽しむにあたり「年相応」になったのだなということを同時に感じた。  大満足の初鑑賞を終えて、知ったことが二つある。  一つ目は、“車寅次郎”という男が、想像以上に圧倒的な「大馬鹿者」であるということ。 20年ぶりに会った親族や知人が、尽く「ほんとに馬鹿だねえ」と嘆き続ける通り、この男の“ダメ人間”ぶりは正直目に余る。こんな男が親族に居たらそりゃあ大迷惑だろうと同情せずにはいられない。  だがしかし、だ。  それでもこの主人公は「寅さん」「寅ちゃん」と愛され、慕われている。 その大いなる「矛盾」を内包しつつ、キャラクターとして成立していることがまさにこの作品の“奇跡的”な娯楽要素であり、国民的映画シリーズとして何十年にも渡って描き続けられた理由に他ならないと思う。  その奇跡的娯楽を己の身一つで体現しているのが「渥美清」という名優であることは言うまでもない。 実際、どこまでが台本通りで、どこからがアドリブなのか、その境界線がまったく判別できないくらいに、この偉大な俳優は“寅さん”という稀有なキャラクターを、あくまでも自然体で息づかせている。 だからこそ、作中の「とら屋」の面々同様に、我々観客も、寅さんの言動に対して「馬鹿だねえ」と連呼しつつも、何だか安心して、愛着を持って、いつまでも観ていられる。  そして、二つ目は、妹“さくら”を演じる倍賞千恵子の、これまた“奇跡的”な可愛らしさだ。 「幸福の黄色いハンカチ」や「遥かなる山の呼び声」など他の山田洋次監督作品で、その薄幸の美しさは存じ上げていたが、今作の倍賞千恵子もとい“さくら”は只々キュート過ぎる。 言っちゃいないが、「僕の妹がこんなに可愛いわけがない」と再会時に目を丸くする寅さんの気持ちがひしひしと伝わってくる。まさに「アニメかよ!」と言いたくなるくらいに常軌を逸した可愛さである。  この「男はつらいよ」という映画は、“寅さん”の悲哀に泣き笑いする映画であると同時に、“さくら”を愛でる映画であるということを痛感した。  兎にも角にも、笑いと涙のつるべうち。 名優と名監督による「偉大」な娯楽映画であることを思い知った。 公開されたばかりの“まさかの最新作”を含めて同映画シリーズは全50作。 全作鑑賞までの道のりは長いけれど、これから自分の人生と重ねつつ、“同年代”の車寅次郎を追っていくのも悪くない。
[インターネット(邦画)] 10点(2020-01-22 10:05:56)
244.  ラストレター(2020) 《ネタバレ》 
遅すぎた邂逅は、それでも何かを癒し、未来を生む。 いびつで、拙く、寓話のように非現実的だけれど、それは僕自身が「Love Letter」から25年来、愛し続けた世界観そのものであり、“優しい嘘”は、あの時と変わらずに心を揺らした。   僕が中学生の頃、「スワロウテイル」を観て、岩井俊二という映画監督の存在を初めて知った。 「映画」というものを自身の趣味として積極的に観始めたばかりの頃で、見識が浅い子供だった僕は、映し出されている映画世界のどこまでが現実で、どこからが非現実なのか、その境界線を判別できなくて、大きな戸惑い共に衝撃を受けた。  無論それは、あの“イェン・タウン”という異世界に対してリアリティを感じたというわけではなく、エキセントリックな「寓話」として映し出された空間に妙な生々しさと、現実世界と地続きの真理めいたものを感じたからだと思う。 以来僕は、二十数年に渡り、この映画監督が生み出す“世界”の虜になり、憧れ続けてきた。  時間は瞬く間に過ぎ去り、中学生の男子は、アラフォーのおじさんになった。  2016年の「リップヴァンウィンクルの花嫁」以来4年ぶりの最新作に対しては、少々気が引けていた部分があった。 「Love Letter」の二番煎じとまでは言わないまでも、何となく懐古的な雰囲気を携えたイントロダクションに懸念を感じていたこともあるが、何よりも僕自身が、“ラブストーリー”というものに対して、とんと縁遠くなってしまっていたことの影響が大きい。  四十路前のおじさんになってしまった自分が、中学生時代から憧れ続けてきた映画監督が新たに生み出したラブストーリーを目の当たりにして、照れずに、素直に受け入れることができるだろうか。そういう「危惧」が無意識下にあったように思う。  でも、そんな危惧や懸念は、序盤の何気ないシークエンスに触れた途端に消え去っていった。 少年少女たちの他愛もない台詞回し、どこか無防備な役者たちの自然体の演技、ただひたすらに美しい映像世界、ファーストカットからの一つ一つに対して、「ああ、岩井俊二の映画だな」とストンと腹に落ちる感覚を覚えた。  松たか子、福山雅治が演じる主人公たちは、奇しくも高校卒業から二十数年を経た“おばさん”、“おじさん”。 この上なくセンチメンタルで、ロマンティックなラブストーリーであることは間違いないけれど、この映画は、まさに「Love Letter」から25年が経った“僕たち”のための作品だった。  二十数年の年月は、劇中の登場人物たちにとっても、現実世界の僕たちにとっても、同じように長く、一口で語れるものではない。 色々なものを失い、色々なものを得るには充分な時間であろう。  過ぎ去った時間のあまりにも眩い「光」を愛するあまりに、逆にその呪縛から抜け出せずにいた売れない小説家の男。 不意に訪れた邂逅により、彼が突き付けられた“現実”はあまりにも厳しく、尽きせぬ悔恨と共に容赦なく「闇」の中に突き落とされる。  けれど、その邂逅は、男を呪縛から解き放ち、「闇」の中から新しい「光」へと導いてもいく。  “幻影”のように美しく光り輝く二人の少女に対峙した彼は、決して取り戻すことができない時間の無情さを痛感したと同時に、悔恨も、贖罪も、悲しみも、感謝も、すべてひっくるめて歩むべき「未来」を見出したのだろう。   “信奉者”としての贔屓目は多分にあろうとは思う。 ただ、岩井俊二の映画作品と共に、僕は僕なりに、二十数年の“紆余曲折”を経てきたわけで。 その上で得られたこの新たな感動を否定することなどできやしない。
[映画館(邦画)] 9点(2020-01-21 23:05:14)(良:1票)
245.  パラサイト 半地下の家族 《ネタバレ》 
金持ち家族に「寄生」することで、束の間の“優越感”を得た半地下の家族たちは、今までスルーしてきた家の前で立ち小便をする酔っ払いを、下賤の者として認識し、“水”をかけて追っ払う。 その様をスマートフォンのスローモーションカメラで撮りながら、軽薄な愉悦に浸ってしまった時点で、彼らの「運命」は定まってしまったのかもしれない。  世界中に蔓延する貧富の差、そして生じる「格差社会」。世界の根幹を揺るがす社会問題の一つとして、無論それを看過することはできないし、自分自身他人事じゃあない。 ただし、この映画は、そういった社会問題そのものをある意味での「悪役」に据えた通り一遍な作品では決してない。 確かに、“上流”と“下流”、そして更に“最下層”の家族の様を描いた映画ではあったけれど、そこに映し出されたものは、富む者と貧しい者、それぞれにおける人間一人ひとりの、愚かで、滑稽で、忌々しい「性質」の問題だったように感じた。  どれだけ苦労しても報われず、働いても働いても豊かになるどころか、貧富の差は広がるばかりのこの社会は、確かにどうかしている。 でも、自分自身の不遇を「社会のせいだ」「不運だ」と開き直り、思考停止してしまった時点で、それ以上の展望が開けるわけがないこともまた確かなことだろう。  そう、どんなにこの社会の仕組みがイカれていたとしても、どんなに金持ちが傲慢で醜かったとしても、この主人公家族の未来を潰えさせてしまったのは、他ならぬ彼ら自身だった。と、僕は思う。  千載一遇の機会を得た半地下の家族たちは、能力と思考をフル回転して、或る「計画」を立て、実行する。そしてそれは見事に成功しかけたように見える。 しかし、彼らの「計画」はあくまでも退廃的な“偽り”の上に存在するものであり、「無計画」の中の虚しい享楽に過ぎなかった。  “無計画な計画”は、必然的に、笑うしか無いスピード感でガラガラと音を立てて崩壊し、大量の濁流によって問答無用に押し流される。 そして同時に、己をも含めたこの世界のあまりにも残酷で虚無的な現実を突き付けられて、父子は只々愕然とする。  本当に裕福な者たちは、自らが“上流”に居ること自体の意識がない。 “下流”に住む貧しい者たちの存在などその認識から既に薄く、蔑んでいることすら無意識だ。 “臭い”に対して過敏に反応はするものの、その正体が何なのかは知りもしないし、知ろうともしない。 勿論、大量の“水”で、押し流していることに対しての優越感も、罪悪感も、感じるわけがない。その事実すら知らないのだから。  なんという「戦慄」だろうか。 そのシークエンスの時点で、観客として言葉を失っていたのだが、もはや「世界最高峰」の映画人の一人である韓国人監督は“水流”を緩めない。  「惨劇」の果てに、計画どころか「家族」そのものが崩壊し、消失してしまった父と息子は、それぞれに、「無計画」であり得ない逃避と、あり得ない希望に満ち溢れた「計画」を立てる。 すべてを失った者たちが、それでも生き抜く力強さを表現している“ように見える”描写を、この映画は、最後の最後、最も容赦なく押し流す。 父親が言ったとおり、「計画」は決して思い通りにはいかない。父と息子は、地下と半地下でその短い命を埋没させていくのだろう。  完璧に面白く、完璧に怖く、完璧におぞましい。だからこそこの映画は、完膚なきまでに救いがない。 とどのつまり、このとんでもない映画が描き出したものは、「格差社会」などという社会問題の表層的な言い回しではなく、その裏にびっしりと巣食う際限ない人間の「欲望」と「優越感」が生み出す“闇”そのものだった。   世界中に蔓延するこの“闇”に対して“光”は存在し得るのだろうか。  金持ち家族の幼い息子がいち早く感じ取った“臭い”。 彼はその“臭い”に対して、どういう感情を抱いていたのだろうか。 “トランシーバー”を買ってもらうことで自らの家族と距離を取ろうとした彼の深層心理に存在したものは何だったのか。  このクソみたいな世界の住人の一人として、せめて、そこには一抹の希望を見出したい。
[映画館(字幕)] 10点(2020-01-20 21:54:32)(良:2票)
246.  6アンダーグラウンド
“セミプロ版”スパイ大作戦(大暴走)!!by マイケル・ベイ  「007」にしても、「ミッション:インポッシブル」にしても、主人公のスーパー諜報員の超人的活躍が目立つが、その裏ではやっぱり「組織力」が彼らの諜報活動の精度を上げているんだなということを痛感させられる。 それくらい、この映画の主人公(大富豪)が“自警団”的にはじめたスパイチームの暗躍は、綻びだらけで、世界にとっては甚だしく大迷惑だ。  ただし、この映画の大暴走+大迷惑ぶりは完全に確信犯であり、映画作品としての是非以前に、終始一貫して“マイケル・ベイ節”が全開である。 ファーストシーンのカーチェイスから、“ギア”の入れ方が常軌を逸している、というよりも、あるべき“ギア”自体がどこかへ飛んでいってしまっているようだった。 ストーリーテリングなど端から放棄していて、ただただ問答無用の盛々のアクションシーンと、過剰に露悪的なゴア描写が繰り返される。 マイケル・ベイ監督は、「トランスフォーマー」シリーズの後半から既に“開き直っていた節”があったが、「Netflix」というある種の無法地帯に降臨し、益々暴走が止まらなくなっている(ギリギリ褒めている)。  えーと、結局ライアン・レイノルズ演じる主人公がその人間性も含めて何者で、何が“真意”なのかまったく分からないけれど、そんなストーリーの粗なんて突っ込むことすら馬鹿馬鹿しいし、実際どうでもいい。 色々な意味で「非常識」な物量のアクションシーンをあんぐりと口を開けて堪能しつつ、エンドロールが始まった瞬間に何も記憶に残さずに鑑賞を終える。それが今作に対する正しいスタンスだろう。
[インターネット(字幕)] 6点(2020-01-12 09:13:19)(良:1票)
247.  ちはやふる 結び
結論から言うと、この映画は、青春映画としても、スポ根映画としても、漫画の実写化作品としても、確固たる「傑作」として、文字通りに“結んでいる”。 既定路線的に若手俳優たちをキャスティングした人気漫画の映画化企画が乱立し、お世辞にも良作とは言い難い作品が並ぶ中において、今作(三部作)が築き上げたクオリティーとエモーションは、ちょっと奇跡的と言っていい。  この映画が成功した要因はいくつもあるが、先ず挙げられるのは「競技かるた」という競技に対する真摯な姿勢だろう。 ニュースの一トピックスとして名人・クイーン戦の模様を伝え聞いたことはあるけれど、いまひとつ一般的な馴染みの無いこの競技に対して、決して表面的な要素をなぞるのではなく、その本質に存在する文化的な歴史や価値、スポーツとしてのシビアさや奥深さまで、しっかりと表現することに挑んでいる。 無論それは、原作漫画自体がきっちりと踏んでいるアプローチなのだろうが、見た目の迫力や俳優たちの美麗さに依存するのではなく、「競技かるた」と「百人一首」が持つディープな世界観に踏み込んで見せたことが、この映画の質を上げたポイントだと思う。  そして、そういった映画的なアプローチに呼応した若い俳優たちがみな素晴らしかった。 広瀬すずのヒロインとしての存在感は三作目にしてもはや言わずもがなだろう。 主人公「綾瀬千早」の「天性」こそが、この物語の肝であり、それを映画の中のキャラクターに感じることができなければ立ち行かなかったことは明白だ。 広瀬すずは、文字通り頭のてっぺんから指の先、更にはその先の弾いたかるた札に至るまで、一挙手一投足の総てでその「天性」を演じきり、体現(=アクション)して見せている。 正直なところ、その主演女優の“アクション”を見ているだけで、この青春映画は成立しているとさえ思える。 その主演女優の存在感に負けず劣らず、周囲のキャラクターを演じた俳優たちもみな魅力的だったと思う。   この「結び」は、「上の句」「下の句」で描き出された「競技かるた」と「百人一首」の何たるかを根底に敷き詰め、更に人生を通じてこの「勝負」に傾倒する登場人物たちの人生観や、彼らの鋭敏な肌感覚まで引き出し、映し出していく。 そうして主人公たちの“視線”を通じて、物語を「未来」へと導いていく。 それはまさに「百人一首」という文化そのものが、千年に渡って連綿と継いできた真髄に他ならず、この作品に相応しい帰着だった。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2020-01-11 01:16:50)(良:1票)
248.  キャプテン・マーベル
“マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)”は、最終章「エンドゲーム」公開を直前に控えたこのタイミングで、唯一欠けていた“ピース”を埋めてきたのだと思った。 多種多様なスーパーヒーロー達を描き連ね、「正義」という概念に対する様々な価値観と、それに伴う結束と決裂と崩壊を、MCUは大エンターテイメントの中で映し出してきた。 そんな中において、唯一にして明確に欠けていた要素があった。それは映画企画としては後発の“DC”では先に表されていたものでもある。  それは即ち、「時代」に即した、圧倒的に強く魅力的な女性ヒーローの存在だ。 無論、これまでのMCUの作品群の中でも、強くて魅力的な女性キャラクターは数多く登場する。 ブラック・ウィドウ、スカーレット・ウィッチをはじめとするアベンジャーズメンバーは勿論、ペギー・カーターやマリア・ヒルなどS.H.I.E.L.Dという組織を支えてきた面々、ガモーラやワスプなど主人公キャラをも凌駕する強さを発揮するキャラクターも幾人も登場している。 だがしかし、彼女たちはすべてスーパーヒーローやリーダーをサポートする役割であり、物語の“主人公”にはなり得ていなかった。 新たな時代の価値観を踏まえて、それぞれの作品のストーリーを紡いできたMCUであるが、その女性キャラクターの偏った立ち位置においてはあまりに前時代的だったと言わざるを得ない。  そんなシリーズの文脈の中でついに登場した女性ヒーローが、今作のキャロル・ダンヴァース=“キャプテン・マーベル”なのだと思う。 それはまさに、ライバルDCエクステンデッド・ユニバースが、起死回生の傑作となった「ワンダーウーマン」で成し得たことそのものであり、作中の類似性も含めて「ワンダーウーマン」が無ければ、今作は誕生しなかったのではないかとすら思える。  ただ単に強い女性ヒーローを誕生させただけであれば、それこそ「ワンダーウーマン」の真似事に過ぎないところだが、そこは流石のMCU、しっかりと大河の本流に組み込ませつつ、想定を大いに超える圧倒的な無双ぶりを展開させ、問答無用の高揚感を与えてくれる。 若きニック・フューリー(aka サミュエル・L・ジャクソン)を“相方”とすることで必然的に生じる軽妙な台詞回しとユーモアも全編通して気が利いており巧い。   「感情的」で何が悪い? 怒り、悲しみ、泣き、笑い、「女」は何度だって立ち上がる。 その神々しいまでの勇ましさは、「インフィニティ・ウォー」によるあまりに大きな絶望感に対してようやく生まれた一筋の光だ。 とにもかくにも、ニック・フューリーが最後の最後まで隠し持った“切り札”はとんでもなかった。
[映画館(字幕)] 8点(2020-01-11 01:16:21)(良:1票)
249.  64/ロクヨン 前編
もうすぐ「平成」が終わる。今作を観るにあたり、この頃合いはなかなか相応しかったのではないかと、冒頭のシークエンスで先ず思った。 昭和天皇の崩御により、昭和64年は7日間しかなかった。その僅かな期間に起きた少女誘拐殺人事件をめぐる群像サスペンス。たった7日間の昭和最後の年に取り残された人々の悲しみと傷みがドラマチックに描かれる。  佐藤浩市演じる主人公に与えられているキャラクター設定と人生模様が、創作とはいえ少々“都合よく”ハードモード過ぎるだろうと思ってしまったが、そういった物語の過剰さも含めて、この手のオールスター映画には相応しいとも思えた。 その主演俳優を筆頭に、錚々たる俳優陣の演技プランは皆判りやすい仰々しさで、決して自然な演技ではないけれど、そのあざとさも、この映画が求めたエンターテイメントの一貫だと思えば受け入れられたし、楽しめた。  前後編に分かれたサスペンス映画の前編は必然的に“尻切れトンボ”になってしまうもので、今作においてもそれは完全には否定できないけれど、物語の焦点を絞って前編として巧く纏めている方だと思う。 ストーリー展開の焦点を過去の事件のあらましと、主人公が公私において抱える苦悩、そして県警内部の極めて普遍的でだからこそ根深く、愚かで見苦しい“人間模様”に集約することで、“前振り”としては非常に興味深い物語を構築できていたと思える。 サスペンスの本筋に対して中途半端に踏み込むことなく前編の終幕を迎えるので、後編に対する興味は駆り立てられつつも、それほど宙ぶらりんな感覚は無かったと言える。  演技、撮影、編集、音楽、すべてをひっくるめた演出面は、前述の通り仰々しい“ベタさ”に溢れかえっており、「新鮮味」なんてものはまるでないけれど、好意的に見ればそれは王道的な安心感とも言え、これもまたこの手のオールスター映画には必要なことだと思う。  後編は、いよいよサスペンス映画としての展開が加速するような雰囲気だが、さてどういった帰着を見せるのか。横山秀夫の原作は未読なので、展開を素直に楽しみたい。 一つの映画を前後編に分ける映画製作の手法は特に国内大作映画において増えており、あまり好ましくは思っていないけれど、たまにはこういう楽しみ方も良い。
[インターネット(邦画)] 7点(2020-01-11 01:15:52)
250.  64/ロクヨン 後編
“忘れたくない”のに、殺された娘の記憶は、哀しみと怒りのみをくっきりと残して、日に日に薄れていく。一方、“忘れたい”のに、怒りと憎しみの根源である犯人の声は、こびりつくように脳裏に残り続けた。 これは、あまりにも悲しく、あまりにも辛い、「父親」の物語であり、主要な登場人物たちと同様に、僕自身娘を持つ父親として、身につまされたことは間違いない。   或る誘拐殺人事件を主題としたサスペンスとして、通り一遍ではない様々な感情と思惑、そして実際の時代的背景が入り混じったストーリー構成からは、流石に横山秀夫の著作らしい原作の空気感を感じた。   原作は未読だけれど、そういった魅力的な題材を、国内のオールスターキャストを揃えた「大作」として映画化するにあたっての、精力的な気概そのものは十分に感じた。 が、しかし、いかんせん演出が「稚拙」の一言に尽きる。残念だ。   昔からだが、なぜ日本のサスペンス映画は、過剰な慟哭をさせたがるのか。 仰々しい演出で、これ見よがしな慟哭を映画のハイライトとして映し出す映画に、あまり傑作は無いように思う。 今作も「前編」の段階から、熱演を通り過ぎて、少々オーバーアクトに見えてしまう場面がいくつもあった。 まだ前編に関して言えば、過剰な演出・演技に対して、描き出されるストーリーの焦点が極めて普遍的な県警内における“内輪もめ”だったので、仰々しい表現と実際に進行する展開の小規模さのギャップが、興味深く描き出され楽しめた。   しかし後編は、いよいよサスペンスの本筋である過去の悲劇的な事件と、リアルタイムに展開される新たな事件が絡み合う様が大々的に描き出されるので、仰々しいだけの演出が逆に白けさせる結果となってしまった。 事の真相が、必要以上に振りかぶって繰り広げられるので、それを受け止める側としても身構えてしまい、的確に捉えられなかった印象を覚えた。 フィクションなのだから、導き出される「真相」が荒唐無稽だったり、非現実的だったりすること自体は許容できる。しかし、それならば映画上の「嘘」を、擬似的な「現実」として観客に許容させるための演出方法があるはずで、それこそが映画の醍醐味だろうと思う。   前編で構築した地味だけれど見応えのある人間模様を、ないがしろにし、甚だ強引で整合性の無い帰着に導いてしまったこの後編はとても残念な仕上がりだった。 ラストの顛末も大きく改変してしまっているようだが、おそらく横山秀夫の原作は、この物語が描き出す「事件」に関わる群像一人ひとりの心情をあぶり出し、多層的なドラマ性を生み出しているのだろう。機会があれば是非原作小説を読んでみようと思う。   最終的に残念な仕上がりではあったが、前後編通じてキャスト陣は、演出の良し悪しは別にして、“熱い”演技をして見せてくれている。 前述の通り、個人的には異なった「父親像」を演じた俳優たちがそれぞれ印象的だった。   主演の佐藤浩市は、刑事として、父親としてあらゆる側面で“板挟み”になり苦悩する男を熱演していた。 被害者父役の永瀬正敏は、心身ともに文字通りに“汚れ”苦しみ尽くす様を見事に体現していた。 吉岡秀隆は、警察官としての正義のあり方に振り回され葛藤と共に人生を狂わされた男を好演していた。 そして、「緒方直人っぽいけどコレ誰だ?」と思わせる程に、色々な意味で屈折した表現を見せた緒方直人の演技も凄かったと思う。   原作が持つストーリー性と、俳優たちの熱い演技がもっと噛み合っていれば、本当の意味で「大作」になり得ていただけに、演出面の稚拙さが重ね重ね残念だ。
[インターネット(邦画)] 5点(2020-01-11 01:15:13)(良:1票)
251.  ハンターキラー 潜航せよ
昔、ある高校の同級生に好きな映画のジャンルを聞くと、「原子力潜水艦モノ」とピンポイントな返答が返ってきた。こちらとしては、“アクション映画”だとか、“ホラー映画”だとかの大別したジャンルを聞いたつもりだったので、一笑に付してしまったが、今思い返してみると、とても潔く、的を射た返答だと思える。  詰まるところ、“原潜モノ”というジャンルに区分けされる映画には、一定の娯楽性が担保されていて、大ハズレが少ない。 1981年生まれの自分の世代だと、ショーン・コネリーの「レッド・オクトーバーを追え」を皮切りに、ジーン・ハックマン、デンゼル・ワシントン競演の「クリムゾン・タイド」、そしてキャスリン・ビグロー監督の「K-19」などの骨太なエンターテイメントを孕んだハリウッド映画の印象が強い。 どの作品も、それぞれの時代背景を踏まえて、必然的な閉鎖空間の中で、艦長をはじめとする乗組員たちが選択と決断を迫られる様がスリリングであると共に、決死の覚悟で任務遂行を果たそうとする姿に極上のドラマを感じられる。  潜水艦内という空間には、物理的にも、状況的にも、そもそも緊張感や緊迫感が付随していることに加え、極めて限られた空間描写で済むという点において製作費的な負担も少なくて済むので、映画との相性が良いのだろうとも思う。 ただ状況設定が限定的な分、映画として描き出せるストーリーとしても限られていることも事実。“ネタ切れ”のためハリウッドでは長らく大作映画が作られてこなかった。  そんな中で満を持してのハリウッド産原子力潜水艦映画に対しては、“原潜モノ”ファンでなくとも、高揚感を覚えずにはいられなかった。 そして主人公の艦長役にはジェラルド・バトラー!こりゃあ暑苦しいまでの男のドラマを見せてくれるに違いないと身構えて鑑賞に至った。  まず言いたいのは、「これはしっかりと良い原子力潜水艦映画だ」ということ。 前述の定義にもれず、久しぶりに観た“原潜モノ”はやはり映画娯楽との相性が良く、全編通して存分に楽しむことができた。  ただこの映画には“想定外”の要素がいくつかあり、その点もより一層映画としての娯楽性を高めていたと思う。  まずは、ジェラルド・バトラー演じる主人公が思ったよりも「冷静」で、ちゃんと優れた艦長だったということ。 主人公のそのキャラ設定が想定外だったというのがおかしな話だが、昨今の彼の主演映画での無頼漢ぶりを見るにつけ、今作においても原潜艦長であるのをいいことに、常軌を逸した豪胆さで危機を弾き返すのだろうと高を括っていた。 しかし、今作の主人公は極めて冷静で、我慢強く、圧倒的な精神力の強さで絶体絶命の危機を回避してみせる。 驚くことに、彼がこの映画の中で、明確な“暴力”を行使することは直接的にも間接的にも只の一度も無く、ひたすらに我慢と、対話を繰り返す。(そういえば冒頭のハンティングシーンでも彼は鹿を殺していない) そのキャラクター描写は、この映画が描き出す危機に対する姿勢として極めて真っ当であり、映画としての魅力にも直結していると思う。  そしてもう一つ想定外だったのは、陸上の潜入作戦を描く“特殊部隊モノ”の要素がどーんと並行して展開されるということ。 下手を打てば、完全な蛇足ともなり得たその陸上シーンだが、これまた娯楽性が存外に高く、嬉しい“大盛り”だったことは間違いない。  原潜映画に限らず、過去の様々なミリタリー映画の要素を盛り合わせていると言えなくは無く、「傑作」とは言えないかもしれないが、はっきり言ってこれだけのものを食らわせてくれれば申し分は無い。
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2020-01-11 01:13:09)
252.  女王陛下のお気に入り
絢爛豪華なイングランドの王室を舞台にしつつも、べっとりと全身に塗りたくられた“何か”の臭いが漂ってくるようだった。 その臭いの正体は、汚物交じりの泥なのか、吐しゃ物なのか、生臭い体液なのか、それとも嫉妬と愛憎に塗れた“怨念”なのか。 いずれにしてもこの映画が描き出すものは、実在の女王を中心に据えた煌びやかな史劇などでは全く無く、3人の女性のあまりにも生々しい「欲望」そのものだった。  情け容赦なく、無情なこの映画の物語性は、普通の映画づくりであれば、もっと鈍重に、ただただ陰惨に映し出されて然るべきだろう。 しかし、この“へんてこりん”な映画のアプローチはまったくもって異質で、まるで観たことがない映画世界を構築し、魅了する。 それは決してビジュアル的にヴィヴィッドな映像表現をしていたり、突飛な演出をしているわけではなく、重厚な史劇描写の雰囲気を保持したまま、時代考証の垣根を越えて、現代的な“軽薄”と“インモラル”を孕ませている。  そんな特異な映画世界の空気感の中で、3人の女優が演じる「女」たちが、見事なまでに怖ろしく、哀しく、息づいている。 オスカーのトリプルノミネートとなった主演女優3人の文字通りの「競演」が本当に素晴らしい。 既に女優賞ウィナーのエマ・ストーン、レイチェル・ワイズは無論素晴らしかった。 が、やはり特筆すべきは、本作で主演女優賞ウィナーとなったオリヴィア・コールマンの圧倒的な存在感と、表現力に尽きる。 彼女が演じたアン女王からは、重く悲痛な運命を背負った哀しみと、女性としての強かさと恐ろしさと醜さ、そして欲望に対する純粋な貪欲さに至るまで、ありとあらゆる感情や情念が文字通りねっとりと全身から溢れ出しているかのようだった。  圧倒的権力を持ちつつも、心身ともに脆く危うい哀しき女王は、幼馴染の聡明で美しい公爵夫人に身を心も委ねることで、何とか“バランス”を保てていた。 しかし、そこにもう一人の“女”が入り込んでしまったことで、バランスは脆くも崩れ、三者三様の欲望は渦となり、彼女たち自身を吞み込んでいく。  泥に塗れ地に堕ちた屈辱を胸に秘め、若き女は、悪魔になることも躊躇わず、ついに“兎”のように女王の寵愛を勝ち取る。 そしてはたと気づく、17匹の兎の寿命は短く、蠢く命の中から常に入れ替わっているだろうことに。 彼女自身、無限に続く「代用」でしかないことに。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2020-01-11 01:11:57)(良:1票)
253.  マスカレード・ホテル
オープニング、チープなCGによるホテルの外観から、狭いエントランスを通り抜け、やけに古くさくゴージャスなロビーを映しこみつつ、フロントに辿り着く。 その一連の描写を見て、“「有頂天ホテル」みたいだな”と半笑いで思った観客は少なくないだろう。  由緒正しいクラシックホテルのビジュアルを表現したかったのだろうけれど、メインステージとして描き出されるエントランス、フロントを含めたホテルのロビーの空間設計とセットが酷い。映画のセットとしての作りこみ自体は精魂こめて仕事がなされているのだろう。だからこそ、酷いのだ。 首都圏の一流ホテルという舞台設定に対して、空間のサイズ感から、距離感、インテリアの美術センスに至るまで、あまりにもリアリティが無かった。 物語の特性上、様々な人間が行き交うホテルのロビーこそが、この映画の「主人公」だとも言え、その空間の奥行きや距離感が、本来映し出すべきビジュアルとあれほど乖離していては話にならない。   “フジテレビ映画”というクレジットが無くとも、冒頭の印象通り、三谷幸喜の「THE 有頂天ホテル」の使いまわしなんじゃないかと揶揄してしまうことは必至で、実際、空間プランとしてはその通りなんだと思わざるを得ない。(よくよく見れば、キャスト的にも“三谷組”の要素は強い) そのまさしくシチュエーションコメディのような空間の中で、登場人物たちがあくまでも大真面目に、格好をつけて、奇妙な連続殺人事件の犯人を追う様が、アンバランスで、ダサくて、センスが無いなと思った。  全編通して前述の喜劇作家がちらついたからではないが、それこそコメディやパロディに振り切るのであれば、それも“全然アリ”だったのではないかと思う。  そもそも、東野圭吾の原作自体、決してミステリとして完成度の高いストーリー構成だったとは言い難く、随所に使い古された手法や、ベタなストーリー展開が目に付いた。計画的な連続殺人を描いたミステリだとはいえ、メインストーリーのテイストとしては異業種間(+男女間)のユニークな「バディもの」の要素が強く、随所にコメディ要素も散りばめられている。 著者自身、自らの過去作も踏まえて、ミステリに対するある種“メタ視点”を含めた娯楽としてストーリーやキャラクターを構築した部分も多分にあったのではないかと思える。  三谷幸喜が手掛けたら良かったとまでは言わないけれど、いっそのこと大幅に脚色して、コメディ映画として仕上げた方が、原作の本質を捉えた上で、映画作品としても完成度は高まったのではないか。  そして、その“コメディ映画”に、主演俳優として木村拓哉が挑めたならば、映画にとっても、彼自身にとっても、新しい可能性を創出する作品になったのではないか、と思えてならない。  もしかしたら、そういう目論見は存在したのかもしれない。だからこそのあのリアリティの無いセットであり、喜劇俳優の多用であり、大仰でベタな演出プランだったのかもしれない。 ただ、残念ながらそういうユニークでチャレンジングな変化を成しえた映画には当然仕上がっておらず、ただただ中途半端で盛り上がりに欠ける残念なサスペンス映画に終始している。   あと、作品の低い仕上がり的にはもはやどうでもいいことだが、某有名女優の出演情報は、予告編、宣伝ポスター、あらゆる事前情報から除外し、隠し通すべきだったことは、言うまでもない。
[ブルーレイ(邦画)] 3点(2020-01-11 01:10:40)(良:1票)
254.  アイリッシュマン
一言、凄い。 「映画」という“表現”と“歴史”が内包する「過去」と「現在」と「未来」を濃縮したような凄い映画だった。 この映画の“凄さ”は幾層に折り重なっていて、とてもじゃないが一度の鑑賞のみで語り尽くすのは困難に思う。  マーティン・スコセッシ監督が、自身のフィルモグラフィーにおける盟友(+名優)たちを集めて、ある種“懐古的”に製作されたギャング映画かと思っていた。 無論、その想像通りに、老いたデ・ニーロがスコセッシ作品で再びギャング役を演じるだけだったとしても、映画ファンとしての興奮は揺るがず、きっと良作になっていたに違いない。 だがしかし、この映画作品が孕むテーマとクオリティは、そんな安直な想像を容易に飛び越えて、遥かに高尚で、圧倒的に面白い映画の境地を見せてくる。  “マーティン・スコセッシの新作で老いたロバート・デ・ニーロがギャング役を演じている” そのこと自体に間違いは無い。が、そこに映し出されたものは、決して単なる懐古主義などでは留まるわけもない“新しい映画表現”そのものだった。  CG技術によって俳優の実年齢を大幅に変えて若返らせたり、老け込ませたりする“映像処理”の手法自体はもはや珍しくもなんともないことだけれど、今作のそれは、“映像処理”などという表面的な範疇を遥かに超えて、監督の演出と、俳優の演技に密接にリンクする「表現」として昇華されている。 そこで感じられたものは、ビジュアル的に違和感が有るとか無いとかのレベルではない。 稀代の名優たちが、スコセッシ監督が言うところの「CGによるメイク」を施されることにより、それぞれのキャラクターの人生を圧倒的な演技力で表現しきっていることに他ならない。  きっと、この映画を観た若い俳優たちは、驚きと共に、“恐れ”と“喜び”で、震え上がったに違いない。 なぜなら、避けられぬ老いと共に、一線から引いていたに見えた偉大な名優たちが、映画の新しい表現方法により再び新たな可能性を得たことを目の当たりにしてしまったのだから。 それは俳優としての機会損失の危機であると同時に、映画史の過去と未来が現在進行系で入り交じる、より多様性を孕んだ新しいキャスティング時代の幕開けに他ならないと思える。  そしてこの新しい映画表現が「実現」したフィールドが、「Netflix」という新時代のメディアであることも、当然ながら看過できない。 今の時代、通常の映画興行では“3時間半”に及ぶ長尺で、“ギャング映画”を製作し、公開するなんてことはほぼ不可能だろう。 巨額の製作費的にも、観客側のニーズ的にも、インターネットによる世界同時配信だからこそ成立した映画企画だったことは明らかで、この作品の“勝利”をきっかけとして、世界の映画人たちの“軸足”は益々変遷していくに違いない。  映画ファンの一人として、映画を「映画館」で鑑賞することの幸福は決して揺るがない、と思いたいけれど、本当に面白い映画を観ることができる「場所」が変わってしまうのならば、僕たち観客も“軸足”を変えざるを得ないだろう。
[インターネット(字幕)] 9点(2020-01-08 21:36:00)(良:1票)
255.  劇場版シティーハンター 〈新宿プライベート・アイズ〉
原作は全巻保有していたし、TVアニメシリーズも小中学生の頃に好んで観ていたオールドファンなので、久しぶりの「復活」の報には無論興味を惹かれたけれど、劇場まで足を運ぶつもりはなかった。 しかし、出張中の新宿で、観たかった大作映画のタイムスケジュールがどれもこれも合わず、ならばと思い立ち鑑賞。「コレを観るなら、“新宿”だろうよ」と。  ゴールデンタイムの新宿バルト9の館内は盛況で、「シティーハンター」というコンテンツ、そして「冴羽獠」というキャラクターの時代を越えた魅力を改めて感じた。 特に今作は、全編「新宿」が舞台で、最終決戦の地も「新宿御苑」をモデルとしており、まさに「ご当地映画」的な盛り上がりも多分にあったのだと思う。 映画館から出て徒歩数分で、映画の舞台となった歌舞伎町やゴールデン街に足を運ぶのも一興だろう。  というわけで、今回の映画化企画は、「新宿」という街そのもののイベント企画という趣向が思ったよりも強かった。 故に、普段から新宿を活動拠点としている人たちや、古くからこの街を愛する人たちにとっては、問答無用に愛着を持たざるを得ない仕上がりだったろうと思う。  その一方で、原作ファンを満足させる内容であったかと言うと、残念ながらそうではなかった。 北条司による原作漫画で、ハードボイルドな世界観、大人の色気と色香に痺れ、「格好良い」ということの意味を知ったファンとしては、あまりにチープなストーリー展開に鼻白んでしまったことは否めず、失笑と苦笑の連続だった。 作画やビジュアル的にもお世辞にもクオリティが高いとは言い難く、テレビスペシャルを見ているようであった。  原作・アニメのオールドファンや、新宿のオトナたちをメインターゲットにするのだから、ストーリー展開的に、もっとハードに振り切って良かったのではないかと思う。 裏社会No.1のスイーパー(始末屋)である冴羽獠に、ただの一度も明確な“殺し”をさせず、パチンコ玉での応戦や、ドローン相手のドンパチに終始させてしまう展開には意気消沈せずにいられなかった。  そして何と言っても最大の難点は、自主規制か何だか知らないけれど、最後の最後まで冴羽獠に“もっこり”をさせなかったことだ。 お慰みのように、主題歌の最後に神谷明に「もっこり」と言わせるが、そういうことじゃないんだよ。 「それが時代の流れ」と言ってしまえばそれまでだが、人を殺さず、“もっこり”もしない冴羽獠なんて「シティーハンター」じゃない。   だがしかし、クライマックスでの「SARA」、そしてエンディングの「Get Wild」が流れた瞬間に高揚感を抑え切れないのも、オールドファンの性。 実家に置きっぱなしの原作漫画全巻を近日中に取りに行くのは間違いない。
[映画館(邦画)] 2点(2019-12-29 15:45:37)(良:2票)
256.  アリータ:バトル・エンジェル 《ネタバレ》 
序盤から何だかいやな予感はしていた。 舞台はディストピア、何らかの過去を抱えた選ばれしヒロイン、苦境の中で芽生える無垢な恋心、絶対的権力と運命に対する若者たちの抗い……ああ、この流れは、典型的な量産型ティーン向けムービーじゃないか。 有り触れたクライマックスと、見え透いた続編に向けたラストシーンを迎えた頃には、すっかり気持ちは萎えてしまっていた。   ジェームズ・キャメロン、ロバート・ロドリゲスというビックネームが名を連ね、クリストフ・ヴァルツ、マハーシャラ・アリらアカデミー賞俳優が顔を並べた今作のインフォメーションは魅力的だった。 久しぶりに登場したジェームズ・キャメロン御大に「革新的映像!」と日本人向けに煽られては、そりゃ期待せずにはいられないじゃないか。 というわけで、昨年早々のトレーラー公開時から期待値は非常に高かったのだが、結果としては非常に残念な仕上がりだった。   映像世界の作りこみは確かに凄いとは思うが、決して目新しさがあったわけでもなく、「革新的」と謳うわりにはあまりに物足りなかった。 トレーラーの段階では、“違和感”を“期待感”が凌駕していたけれど、主人公の造形をあからさまなCGI的な風貌にした意図も、結局ちょっとよくわからなかった。  非人間的な造形のスーパーヒロインが、ひたすらにハードアクションを繰り広げ、死屍累々の上に立つさまをおぼろげに想像したが、そういう振り切れた描写も殆どなく、ロバート・ロドリゲスが監督を担った意味も皆無だったといわざるを得ない。   日本の原作漫画も未読なので、このあとにどんなストーリー展開が備わっているかは知らないけれど、少なくともこの映画作品の方向性では続編への期待は薄い。 ついでに、御大が満を持しての続編を公開する「アバター」に対しても、極めて懐疑的になってきた。
[映画館(字幕)] 2点(2019-12-29 15:45:12)
257.  アナと雪の女王2
“ハッピーエンド”のその先へ。 生まれ持った「資質」にまつわる“重責”や“鬱積”、そして“真価”を本当の意味で「解放」する物語。 持つ者と、持たざる者、それを象徴する愛すべき姉妹の素晴らしい到達点。 なんてアメージングな映画だろうか。   前作「アナと雪の女王」はもちろん良い映画だったと思う。 ちょうど愛娘が物心ついた時期だったこともあり、わりと何度も繰り返し鑑賞してきた。 ディズニープリンセスの系譜の中で、そのクラシック性をベースに敷きつつも、テーマ的には殆どそれを「否定」するレベルでの新しい時代の新しい価値観を、主人公の“お姫様姉妹”に表現させてみせたことは、アニメーション映画としてとてもチャレンジングであった。 社会現象まで引き起こす世界的なヒット作になったことも含めて、映画史上における価値も無論否定しない。   ただしその一方で、個人的な心情としては、何か一抹の“モヤモヤ感”が心のどこかに存在していて、そのことが世間の過剰な盛り上がりに対して、一歩引かせてしまっていたことも事実だった。 この続編を観てようやく明確になったことだが、そのモヤモヤの正体は、女王エルサの深層心理についてだった。分かりやすく言い換えれば、彼女の「本音」と言ってしまってもいいかもしれない。   魔法の力を生まれ持ったエルサは、妹を傷つけてしまったことや、両親の死に対して、自身の能力を呪い、それを隠すように長年に渡って引き篭もった。 そのひた隠してきた能力が、妹アナをはじめとする周囲の人間にあらわになってしまったことをきっかけに、彼女は鬱積してきた思いをぶちまけ、その資質を解放する。 そう、その様を描いたシーンこそが、前作最大のハイライトである「Let It Go」の歌唱シーンである。   逆に言うと、前作には、「Let It Go」のシーン以上にエモーショナルな場面が無い。 それはつまり、結局エルサは、「Let It Go」の前はもちろん、その後のシーンでも、更には“ハッピーエンド”のその後(短編2作含め)に至るまで、妹のアナにすら「本音」をぶちまけられていないことに他ならないのではないか。 エルサが「本音」を吐露したのは、“ありのまま”の自分を初めて自分自身で認め、高らかに歌い上げたあの最高の歌唱シーンのみだった(最後のちょっと“悪い顔”も最高)。 その彼女の“モヤモヤ”が、前作鑑賞時の僕自身の“モヤモヤ”と無意識レベルで直結していたのだと思う。   今作の冒頭でエルサ自身が認めているように、前作のハッピーエンド以降、彼女は「幸福」に包まれて王国の女王として生きることができている。 アナをはじめ、すべての国民たちは、女王である彼女を心から敬愛し、慈愛を向けている。   だがしかし、「果たしてそれが本当に彼女(エルサ)らしい生き方なのか?」ということ。この続編のテーマはそれに尽きる。   そもそもなぜエルサには魔法の力が与えられているのか。 国王である両親たちはなぜ幼い姉妹と国民を置いて危険な船旅に出掛けたのか。 そして、アナにはなぜ特別な力が備わっていないのか。   前作では、スペシャルな楽曲の数々によって巧妙に覆い隠されていたそれらストーリー上の欠落ポイントが、今作では壮大な物語性とストーリーテリングによって、補われ、きっちりと埋められていく。  そしてエルサは、「女王」としてではなく、一人の「人間」として、生まれ持った資質を解放させ、自らの存在意義と辿るべき“生き方”を見出していく。 彼女のその様は、喜びと尊厳に満ち溢れており、前作の「Let It Go」以上にエモーショナルなシーンの連続だった。   更には、すべてを決着させるための「決断」と「行動」をアナに担わせることで、この物語は素晴らしい到達点を見せる。 それは、この姉妹が「対」として存在し、「共に生きること」の“本当の意義”の表明だ。  必要だったのは、自然の猛々しい流れを強引に堰き止める巨大なダムなどではなく、姉と妹の二人をそれぞれの“袂”とした「橋」だったということ。 ぴったりと寄り添うことばかりが「共に生きる」ということではなく、互いの意志と資質を尊重し、たとえ離れていたとしても気持ちを行き交わすことも、間違いなく「共に生きる」ということであるという帰着。 “二人の女王”が、それぞれの場所で、互いを思うラストシーンには感嘆せずにはいられなかった。   前作の奇跡的な存在感を放つ楽曲群と比較すると、確かに“聴き劣り”はするけれど、それを補って余りある圧倒的なビジュアル表現とスペクタクルシーンの連続は、「圧巻」の一言だったし、連作を通じて物語全体の価値を高める素晴らしい続編だったと思う。
[映画館(吹替)] 9点(2019-12-27 22:40:30)
258.  アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー 《ネタバレ》 
改めて辞書で確認してみると、「avenger」の意味は「復讐者」とある。つまり、このエンターテイメント大作のタイトルの意味は「復讐者たち」ということになる。 もはや熱心な映画ファンやアメコミファンでなくとも、「アベンジャーズ」という呼称は聞き馴染みのあるメジャーワードとなっているけれど、よくよく考えてみれば、ヒーローたちが集結した“チーム”の名称として、その意味は少々奇異に思える。 「復讐者たち」ということは、絶大なパワーを備えたチームでありながら、先ず危害を被ることを前提としているように聞こえるからだ。  しかし、その答えは、この“チーム”が結成された経緯を振り返れば明確になる。 各々がスーパーヒーローとしてそれぞれの「正義」を全うしていた中で、想像を超えた巨大な「悪」による恐怖と悲劇に晒される。ヒーロー一人ひとりでは到底太刀打ちできない。だから、結束して「復讐」をする。 絶対的な「巨悪」が先ずあり、それに対峙するために生まれた“チーム”だからこそ、彼らは「復讐者たち」なのだ。  彼らのその姿は、この現実世界の在り方とまさに“合わせ鏡”だ。 普段、この世界では、それぞれの国、それぞれの民族、それぞれの人が、てんでバラバラに己の「正義」を振りかざしている。 何かしらの問題や課題、共通の「敵」が存在したとき、初めて人々は同じ方向を向くことができる。 言い換えれば、何か「実害」が生じなければ、我々は結束することが出来ない。  なんとも歯がゆく、なんとも愚かしい。 ただそれが人間の正直な姿であり、「そうじゃない」と否定したところで何も始まらない。  その人間の、歯がゆく愚かな本質を根幹に据えたヒーロー像こそが、「アベンジャーズ」の正体なのだと思う。 彼らは人智を超越したスーパーヒーローではあるけれど、間違いも起こせば、失敗もする。そしてその都度、甚大な被害を生み、傷つき、苦悩する。  だけれども、彼らは常にそこから立ち上がり、己の間違いを正し、悪を叩き、ついに「復讐」を果たす。 だからこそ、僕たち人間は、彼らの活躍に熱狂するのだ。   満を持しての第三弾。“復讐者たち”は、あたかもそれが彼らの宿命であるかのように、打ちのめされ、紛うことなく過去最大の悲劇を叩きつけられる。 重く悲しい旋律がシアター内を包み込む。鑑賞を共にしたすべての観客が、絶望感と共に押し黙っているようだった。 誰も席を立つはずもなく、エンドロール後に示されるはずの「希望」を心待ちにしていた。 ようやく隻眼の司令官が登場し一寸安堵する。が、まさか、彼に「mother f*cker」すら言わせないとは。 “サノス”は「慈悲」だと言ったけれど、何たる無慈悲か。   でも、僕らは知っている。 チーム結成時の「6人」は、“二分の一の賭け”に勝ち残っているということを。 そして、「アベンジャーズ」と名付けられた彼らの本当の「avenge=復讐」が始まるということを。  最高だぜ。
[映画館(字幕)] 10点(2019-12-25 22:24:14)(良:1票)
259.  ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド
“クソったれ”な俗物だらけのこの街で、強欲と虚栄に塗れた“モノ(即ち映画)”が、時代と価値観を越えて、生み出し続けられている。 数多の作品と俳優が生まれては、ガムの様に噛んで吐き捨てられる。なんて儚くて、なんて愚かしいのだろう。 ただね、それでも、この街と、そこに生きる人間たちと、彼らが生み出す「映画」が大好きなんだから仕方がないじゃないか。 このクソ素晴らしい“ハリウッド”に愛をこめて。 by クエンティン・タランティーノ     と、タランティーノ監督が高らかに言い放ったかどうかは知らないけれど、結論から言うと、この作品は世界一“映画愛”に溢れた映画監督による、“映画愛”に満ち溢れた傑作だと思う。 僕は、クエンティン・タランティーノには遠く及ばないけれど、“映画愛”を自負する者の一人として、この映画を否定できるはずも無く、立て続けに2度映画館に足を運んだ。   タランティーノ映画ならではのバイオレンス描写や、マシンガンのような刺激的な台詞まわしを期待してこの映画を見進めていくと、面食らうことは先ず間違いない。 二度鑑賞し、冷静に振り返ってみても、この映画の大半は「何も起こっていない」と言わざるを得ない。 1969年のハリウッドを舞台に、落ち目のテレビスターと、彼の相棒兼専属スタントマンの平坦で自堕落な日々を、ひたすらに、そして恐ろしいまでの丁寧さで描いていく。   極めて単調な映画のように見えるのに、この映画は最初から最後まで少しも退屈ではなく、161分の上映時間は瞬く間に過ぎ去る。 それは丁寧に描きぬかれた一つ一つのシーン、一つ一つのカットが、あまりに愛おしく、映画として光り輝いているからだ。 そして、テレビスターも、スタントマンも、映画監督の隣人も、その妻も、プロデューサーも、子役も、若手カンフー俳優も、ヒッピーも、善人も、悪人も、この映画に登場するすべての人物が映画を愛してやまないからだ。   単調に見えるストーリーテリングの末、溜まりに溜まった鬱積と暴力性が唐突に弾ける様に、短くもこの上なく激しいクライマックスを経て、本作は終幕する。 あまりにも爽快で、あまりにも破茶滅茶なその顛末が、同時にとても刹那的で感慨深い。   そこにあったのは、誰よりも映画を愛するタランティーノ監督による現実に対する「復讐」と、「やさしい嘘」だった。   テレビスターのリックは酒に溺れて、そのまますべてを失ったかもしれない。 スタントマンのクリフは激情的な暴力のしっぺ返しを受け、命を落としたかもしれない。 そして、隣人のシャロン・テートは、狂ったカルト集団に襲われ身ごもった子もろとも惨殺されたかもしれない……。   現実世界の理不尽な暴力を、映画世界だからこそ許されるさらに激しい暴力で返り討ちにした後、主人公は隣人に招かれ、身重の彼女を優しく抱擁する。 不幸な事件なんてまるでなかったかのうように、クエンティン・タランティーノは、「映画」で「映画」を抱きしめ続ける。
[映画館(字幕)] 10点(2019-12-25 22:11:33)
260.  スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け 《ネタバレ》 
「キスもせずに死ねるか」by カイロ・レン(心の声※フォース)  “厨二病+童貞こじらせ系シス男子”の愛すべき悪役を、主人公の対となる存在として貫き、描ききったことが、この新しいSWサーガの最大の価値だったかもしれない。 決して揶揄したいわけではなく、そういう新しいキャラクター性と新しい価値観を、SWという伝説化した世界観の中で果敢に示し、新しい「時代」の物語として紡いだこと(もしくは紡ごうとしたこと)を、僕は心から称賛したい。  「エピソード7」からこの「9」までの三部作は、主人公レイと、彼女と対峙し続けるカイロ・レンの両者が、あたかも思春期の男女のようにひたすらに「自分さがし」を繰り広げる物語だった。 物語の構成上、彼らは「正義」と「悪」という立ち位置を与えられてはいるけれど、隠された“生い立ち”や“資質”も含め、二つの運命は入り交じり、まさしく「対」の存在として、激しく反発すると同時に、激しく惹かれ合い続けていた。  「スター・ウォーズ」というあまりにも壮大なスペースオペラの締めくくりを、ある種普遍的な若者たちの「成長譚」として描いた試みは、充分に、チャレンジングでありフレッシュだった。 だがしかし、このシリーズが本来目指した“到達点”は、もっと新しい境地だったのではないかとも思う。  賛否がぱっくりと分かれた「エピソード8」が、まさにシリーズとしても分岐点となったことは間違いない。 ある意味での“暴走”を見せた「エピソード8」に対して多くのSWファンは落胆し、激怒した。旧シリーズの定型的なクラシック性を愛するオールドファンほど、その憤りは大きかったようだ。 僕自身は、「エピソード3」の、あの絶望と希望が同時に生まれたラストシーンを目の当たりにしてようやくSWの面白さに目覚めた不埒者なので、「エピソード8」の定石に対する“型破り”なストーリーテリングはむしろとても好ましく、興味深かった。 「旧三部作(4〜6)」から「新三部作(1〜3)」に渡り、常に物語の中心に存在した“スカイウォーカー”という「名前」と「血脈」の束縛から脱却し、止めどなく続く光と闇の争いの根幹に存在する「真理」に到達するのではないかという期待感が「エピソード8」にはあった。  当たり前のように、レジスタンスが「正義」、帝国軍が「悪」かのように大別されているけれど、実際は両軍それぞれに若者たちの生と死があり、戦争に身を捧げる「理由」や「大義」があるという事実。 そして、“ジェダイ”と“シス”という物語の根幹に存在し対立し続ける二つの要素が、常にその曖昧で脆い境界線上で“悲劇”を生み続けてきたということ。 (ならば、その境界線など何の意味があるのか?) 「エピソード8」でのストーリーの積み重ねとキャラクターたちの描き方は、まさしくSWシリーズが培ってきた「光」と「闇」の関係性そのものを反転させかねない要素で溢れていた。  しかし、多くのSWファンにとって、それはやっぱり許容できない“暴走”だったようだ。 無論、その拒否感はとてもよく理解できる。 もしこの「続三部作(7〜9)」が、「エピソード8」の流れのままに、新しい時代の新しい価値観をSWの結末として描ききってしまったならば、到達したテーマは、そのまま旧シリーズに対する“アンチテーゼ”となっていただろう。 ルーク・スカイウォーカーやハン・ソロ、そしてレイア・オーガナが、決死の覚悟で獲得した「勝利の価値」を、年老いた彼らも登場する同じ物語の延長線上で、新しい「時代」の“ものさし”によって一方的に「否定」してしまうことは、乱暴だし、そんなことを望むSWファンはやはり一人もいないだろう。  だからこそ製作陣は、大多数のファンの“悲痛”を理解し、強引なまでの「方向転換」をすることを選んだのだと思う。 そうして描き出された今作のストーリーラインとその終着は、極めて普遍的で王道的なSWのスタイルそのものだった。 ストーリー展開にも、明らかになる真相にも、“驚き”と呼べるものは殆どなく、大スペクタクル伴った大団円と、収まりの良い美しいラストシーンによって改めて“スカイウォーカー”の名に帰着する。  そこにストーリーテリング的な冒険は無かったけれど、冒頭に記した通り、アイデンティティを模索する二人の若者を、善悪の両端に配し、SWの物語性の中で表現してみせたことは新しく、充分に価値があったと思う。 個人的には相当に好きだった「エピソード8」も勿論含めて、あらゆる側面的な“付加価値”や“別視点”も持ち合わせた(決して描ききれてはいないけれど)、色々な意味で見応えあるエンターテイメントシリーズだったと思う。
[映画館(字幕)] 8点(2019-12-24 07:35:31)
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