2601. 88ミニッツ
《ネタバレ》 いやー面白かった。というわけで、ネタバレな事は書きたくないのですが、未見の方にはやっぱりヒントになってしまうかもしれないので、ネタバレ表示しておきます。内容:主人公が、オマエの命はあと88分、と脅される。それだけ。でもオモロイ。主人公がやたらケータイ電話を使うシーンが多く、ケータイキャリアのCMみたいなんですけれども、このケータイってのが、主人公にとって「外部」との接点なんですね。で、「外部」ってのは、主人公の協力者であったりもすれば、犯人であったりもするわけで、そこには、モヤモヤとした事件の謎そのものであったりする。話が進み、主人公がケータイを使えば使うほど、主人公の存在が、孤立した「点」と化し、モヤモヤは一層、霧深く主人公を包み込む。そこに犯人のカウントダウンが加わることで、焦燥感は高まるばかり。主人公をあざ笑うかのように、完璧なまでに主人公を取り囲む謎。その超越的な謎に、ふと、「この先に解決はあるのか? そもそも、これはミステリなのか、それともアンチミステリなのか?」という疑問が心をよぎる。この疑問が湧いた時点で、すでにこの作品は「メタ」、なんですね。ここまで謎を深めてしまうと、オチとしては、「無理はあるけど合理的なもの」か、「無理が無い以前に、理解できないもの」か、のどちらか(笑)ということになるのでしょうが、ハイ、はたしてどちらでしょう。本作では、その一方のオチを、リミッタいっぱいまで振り切る形で、これ見よがし、確信犯的に示してくれます。この時点で、一本取られたぜ、という気になるのですが。さらに続くのは明らかに蛇足ともいうべき、ケータイによる一連のやりとり。これまたイヤミな程の確信犯的アンチテーゼ。ここに見事に“メタミステリ”が完結し、二本目を取られた気分になるのでした。 [DVD(字幕)] 8点(2009-05-15 00:19:48) |
2602. 眠れる森の美女(1959)
これ、私が小さいとき、ウチにレコード付きの紙芝居があってさあ。悪役の魔法使いの顔がメチャメチャ怖くてビビりまくってたのよね。レコードの甲高い声のセリフも、まるで昨日のことのように思い出されます、「糸車の針に指を刺されて、し~ぬ~の~じゃ~(全く意味不明の殺害方法で、怖かった)」「何、とうとう現れたか。私の呪いを見せてやる時がきたよ。あの王の慌てふためく姿を早く見たいものじゃ(あー何だかスラスラ思い出せてしまう。しかも書いてるうちにまた怖くなってきたりして)」等々。あれって、当時の吹き替えそのままだったのしょうか?残念ながら今観ると、だいぶ違っておりました(今回観たのが初めてではないハズなのですが、吹き替えについては思い出せず)。紙芝居の静止画で見ていたらあれほど怖かったあの魔法使いの顔、実際にアニメで動いているところを観ると、意外に怖くなかったりするのですが、何といっても、この登場人物たちの「動き」の見事さ。ホントに圧倒されます。入念に描きこまれたこれまた素晴らしい背景画にも、なかなか目をやる暇が無いほどです。そして、前半の遊び心の多いシーンの数々から、一転、モーレツなスピード感のある怒涛のクライマックスへ、という展開もこれまたお見事。そもそも、フィリップ王子まで捕えられてしまう理不尽さが良いですね(紙芝居見てた頃にも理不尽に感じて怖かった)。魔法使いの住み家の、ゴテゴテとした悪趣味な装飾も好い感じ(こんなトコに、住みたいか?)。「このテの悪役は、途中まではメチャ強いのに、変身したら最後、必ずヤラレテしまう」というセオリー(?)にも忠実。ただしフィリップ王子は何だか、イケ好かない。ありゃーどう見てもアメリカ人の顔でっせ。あと、オーロラ姫も、「16歳」には見えませんぜ。まあいいけど。 [DVD(吹替)] 9点(2009-05-10 22:44:51) |
2603. 男たちの挽歌II
おかしーなー、とてもツマラン映画だという印象を持ってたんだけど、なぜだろう、オモロイやんか。以前に観たときに比べると、私も、人間に幅が出来てきたのか、あるいは節操が無くなってきたのか。さて本作ですが、前作のラストで銃弾の雨を浴びたマークが、実はその衝撃でニューヨークの中華料理屋へワープしてしまったという設定(「違う」という人がいるかも知れない。製作者すらも「違う」というかも知れない。でも事実である)。だもんで今回もまた、前作の3人が揃い踏み。しかし物語は、前作のあのモーレツなまでの無邪気さは影を潜め(そりゃそうだなあ。前作みたいなのをもう一本見せられたら、さすがの私も怒っちゃう)、もー少しだけ複雑なオハナシで、ホー&キット兄弟の物語、中華屋ケンちゃんの物語、そしてルンの物語が、交錯する・・・と言っても、あんまし噛み合っておらず、しっくりこない。前作のヒットを受けての「やっつけ仕事」みたいな感じで、やっぱり十分に練られてないよなー、と。しかしその影には、「嫌がるモノを無理やり食わせる」という、一貫した隠れテーマが(どんなテーマだよ)。そしてラストの銃撃戦。最初に観たときには、むしろ滑稽に見えてしまって、「とりあえずスローモーション使えばいいってもんじゃないだろー」と思ってしまったんだけど、いや実は、コレ、スゴいんだ。スプラッター映画です。ゾンビ映画です。何でもアリ、です。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2009-05-10 09:21:34) |
2604. 生きる
元ネタはゲーテの『ファウスト』なんだろうけど、日本を舞台にした現代劇として、確かにうまくアレンジされている・・・しかし「うまくアレンジ」と言いつつも、何か釈然としないものが。いや、私が『ファウスト』を深く理解しているとか、真髄をつかめているとか言う気はさらさら無いんだけど、少なくとも「多分、この方向に、これより“上”は無いんだろう」という感触(あるいは、畏れ)くらいは持っている訳で。これを“換骨奪胎”という言い方で納得してばかりもいられない。多分、本作の「作りこみ過ぎ」あるいは「語り過ぎ」の面に、引っかかるものがあるのだろうか。この映画の、ウマさとクドさ。確かによく出来ていると大いに感心させられはするのだけど、そして目を引く印象的なシーンも多いのだけど、全体を通したときに、一番印象に残ってしまうのは、“作為”に他ならない。「必要性」と「十分性」のバランスが、前者に傾いてしまったときの、危うさ。そしてもうひとつ。これらの事と、本作のテーマの重さとの間の不釣り合いが、気になってしまうのだ。私もそこそこ歳くってきて、それなりに人の生死にも関わる機会があり、それも思わぬ形で関わってしまうものなのです、これがホントに。だから、だから。いややっぱり、この映画は、とても良くできた映画、ということで、いいのかもしれない。ただ、私は『生きる』ではなく『死ぬ』として、この映画を観てしまう。いっそ、中盤の歓楽シーンが延々と続いた揚句、何の前触れもなく主人公が死んでしまう、そんな映画を観たいのかも、知れない。 [CS・衛星(邦画)] 7点(2009-05-09 12:16:23)(良:2票) |
2605. 男たちの挽歌
初めて観たのは高校の時に深夜放送を録画したやつだっけ。そりゃびっくりしたもんですよ。ほとんどあきれ返る位、見事に、ツボにハマる映画というか、ツボにハメ込んだ映画というか。まー、はっきり言って不自然なくらいにオモシロい映画な訳です。当時の、今以上に曇った眼で観ても、その不自然さが際立ってた訳です。とにかく身近にいた姉に「すげーすげー」と報告したら、基本的に私とは価値観を殆ど共有しない姉も、コレを観てやっぱり同じようにのけぞっている訳です。とにかく凄いインパクト、だった訳です。ホー役のティ・ロン、名前を知らなかったもんで、その涼しげな髪型から勝手に「主人公の志村けんが・・・」と、姉とはそれで話が通じたもんです(あれから時が流れ、本物の志村けんの頭はさらに著しく後退したが、考えようによっては、時間が経った割に後退が遅い気もして、いささかアノ頭には疑惑を感じないでもない。でも、そこまで無理に何にでも疑惑を感じる必要もないだろう。って、どうでもいいっての)。一方のチョウ・ユンファ、当時、雑誌に載ってる写真でしか見たことなかったので、「このヒト、どこがカッコいいんだよ」とか思ってたんだけど、初めて映画で“動くユンファ”を見て、「・・・めっちゃカッコええ」とシビれた思い出も(今の目で見ると、こちらは「劇団ひとり」に似てる気もしますナ)。本作、改めて観ると、こりゃかなり低予算なんだろうなーと。カメラに詳しい方がいたら教えていただきたいのですが、どうしてカメラが切り替わるたびに動きがおかしくなるんでしょうか。クオリティが文句無しに高い映画とは到底言えないのかも知れませんけど、当時の香港娯楽映画界のかなりキツイ枠内で、これだけのコトをやり遂げたというのは、やっぱり凄い。「要するにオモシロけりゃいいんだろ」と、まるで嫌がらせのようにオモシロくしたストーリーだけではなく、ジョン・ウーの“飛翔願望(?)”が表れたアクションシーン、鮮烈な銃撃戦、それがまさに本作の魅力ですね。印象的なスローモーション。ブラジルの作曲家ヴィラ=ロボスの代表作に『ブラジル風バッハ』ってのがあるけど、本作はさしずめ『中華風ペキンパー』ってところか(←何だか美味しそうな名前・・・)。 [CS・衛星(字幕)] 9点(2009-05-05 18:45:18) |
2606. 魔人ドラキュラ
ゴシック・ホラーという言葉がまさにドンピシャリ。ショック描写は無いけれど、雰囲気がいい、何ともいい。正直言えば、映画がもうすこし長ければ、というか、「謎の船が漂着~疫病が蔓延」というドラキュラがやってくるくだりがちゃんと描かれなかったのが、何とも惜しいのだけど、無いものねだりはやめましょう。何といっても、ドワイト・フライ。このヒト、あぶない。ドラキュラが魔人なら、こちらは変人。ある意味、涙を誘うものがあり(ははは)、このあたりも、歴史的作品ならではの感慨、でしょうか。さらに、ベラ・ルゴシは・・・ごめん、オカマっぽいかな。 [DVD(字幕)] 8点(2009-05-04 22:22:10) |
2607. 虎の尾を踏む男達
さてここでも、「映画はなぜ、おなじみ“勧進帳”をわざわざ取り上げるのか」という問題が(しかもこんな苦しい時代にわざわざ作った映画だよ)。もしも映画という芸術が「特定の“文脈”の中で捉えられるべきものではない」「独立し完結したものとして鑑賞されるべき」というならば・・・ならば、なぜ、「○○○を映画化!!」みたいな安直なコトをするのか。映画はまず外部との連関を拒絶する努力を徹底して行うべきではないのか(って、勿論、してる作品はしてるんだろうけどね、えへへ)。“音楽”という芸術は、20世紀に、血の滲むような努力、ってか、試行錯誤をとめどなく繰り返してきたぜ。で、それは、きっと、失敗だったのかもしれないけど・・・。すみません、これ以上書いても結論なんぞ到底結論なんて出ない。別に不満があるわけでもない。今のところ何となくぼんやり考える、だけ。で、とりあえず、本作の話。いや、実はここでも、本作がそのヒントになるのかも。最近よく聞く“○○○の完全映像化!”とかいうのとは、まったく異なって、ここでは、パロディとしての味わい。特にエノケンという狂言回しの存在が、本作をひとつの新しい作品へと導いており、こういう映画に触れると、何となく、「原作があり、そして、映画がある」という、すでにアタリマエになってしまっている図式に、改めて「ああ、なるほど、そういうことか」と納得できてしまったりするのです。それにしても。後半の、スタジオ感バリバリの雰囲気、音響とかにも十分に気を使っていない(使えていない)感じがするのですが。でも、その不自由さが、(妙な所に)綿密なクロサワ映画に加えられたことで、一期一会の絶妙な味わいを醸し出した、という気も。また、せめて最後にもう一度、屋外シーンを見せて欲しいなあ、と思っていたら、これもしっかりと、とっておきの「空」を背景にラストシーンを見せてくれて、うれしくなっちゃうのでした。 [CS・衛星(邦画)] 8点(2009-05-04 21:52:47) |
2608. 街のあかり
大掛りな割にパッとしない映画が少なくない中、この「パッとしない」という事そのものを武器にオモシロ映画を撮ってしまうのが、このカウリスマキという人だと思っていたのですが。そしてこの映画も、やはりそうした映画のひとつかと思ったのですが。どうも前半、違和感を感じてしまったのは、ギャグが“出来すぎ””狙い過ぎ”という点。確かに面白いんだけど・・・ちと作為的。やっぱりこういう映画で欲しいのは、「笑わせる」という態度よりも、笑った後でふと「何で今のが面白かったんだろう」という余韻、ではないかと。言わば「作為の外に出ようとする」ための作為、ではないかと。などと言いながらも、映画後半に待ち受ける、宝石強盗云々という、物語の大きなウネリを考えれば、このくらい毒の効いたギャグがあっても良いのかな、などと思い直したり。ま、良くも悪くも「意外にとっつきやすい映画」という印象。ラストもまたキマリ過ぎっちゃあ決まり過ぎですが、後味がいいですね。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2009-05-04 21:12:23) |
2609. 肉体の悪魔(1947)
レイモン・ラディゲ16~18歳の時の作品『肉体の悪魔』。彼はその後『ドルジェル伯の舞踏会』なる驚くべき作品に到達し、人生を猛スピードで駆け抜けた挙句に豆腐の角に頭をぶつけて死亡。まさに夭折の天才。一方、若き日の三島由紀夫は「オレも相応の作品を作らねばならぬ」という強迫観念に駆り立てられ、やはり16歳で『花ざかりの森』なるワケワカラン作品(失礼)を生み、さらにラディゲに真っ向挑戦した『盗賊』なる偉大な失敗作を世に問うた後、独自の世界へと飛翔、さらに肉体改造によって、肉体の悪魔ならぬ悪魔の肉体となり、ターミネーター、コマンドーで一躍スターとなってカリフォルニア州知事へ。と、それはともかく。そもそも、ラディゲなり、スタンダールなり、こういう、解剖学的な心理小説とも言うべきものを、なにゆえ、「映画」というやつは、あえて“映画化”してしまうのか。文学だからこそ到達できた世界に、なぜ映画が、映像というむしろこの世界とは相容れぬ武器を手に、関わろうとするのか。こういったところから、私の「そもそも、映画って、何?」という疑問、ジレンマが、始まるわけで。しかしまた同時に、この作品にはすでにその解答、とまでは言わぬまでも、そのヒントが顕れているようにも思われます。なぜなら現に、この作品を、原作を離れて、映画として、楽しんだのだから。映画はあくまで心理への切り込みよりも映像による“劇”として展開、その分、やや軽いノリという印象もあるのですが、恋愛サスペンスとして観ても十分楽しめるオモシロさも。結局のところ、小説と映画の関係を、「材料は同じでもカレーと肉じゃがは全然違う」という立場で捉えるか、「カレーも肉じゃがも、材料をたどれば同じもの」という立場で捉えるか、という問題なんでしょうね(と、意味不明の納得の仕方で唐突に終わる)。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2009-05-02 16:13:49) |
2610. グラン・トリノ
観終わって周り見たら、泣いてるオバちゃんがいてさぁ。ついもらい泣きしそうになったよ(←「自分も感動した」と素直に言いなさいっての)。クルマ音痴のワタシ、グラン・トリノと言われてもピンと来ず、グラン浜田なら知ってるんだけどなあ、と余計なコトをつぶやきつつも、さて映画を見ながら、ああ、映画界で成功をおさめたイーストウッド、ハリウッド最後の良心と言われるイーストウッドにも、あれこれと屈託があるんだなあ、と。そりゃまあ、成功した分、多くの人を傷つけたりもしただろうし、睨まれもしたかも知れない。周りの気づかないところで、ひっそりと忸怩たる想いも、持っていることだろう(一方で世の中には、「俺の人生、順風満帆だったななー」とばかり「なぜ私はこんなに成功したか」とかいうビジネス本を臆面も無く書く人がいて、ようやるわ、と思うのだけど。まあ、“ビジネス本”ってモノがすでにひとつのビジネスですからね~あまり目くじら立てるのも)。今回の映画でイーストウッドは、自らを頑固ジジイとして描き、露悪的な差別言動すらも辞さない。その一方、自らを、あえて穏やかな日差しの下に置き、木々のざわめきの中に置く。そして異民族の中に単身、身を置いてみせる。心に影を抱いたまま。主人公が、“先輩移民”として、東洋系の少年にハチャメチャな指導をする姿、国産車を愛する姿には、イーストウッドの愛国心が感じられるのだけど(庭の星条旗までも、彼の心象をそのまま表すようにはためいてみせたり)、そこにはあるのはもはや、何が正しいか何が間違っているか、などという単純な図式ではない。決して拭い去ることのできない過去、自分が一番罪の重さをひしひしと感じている過去。それを背負いながら、そこから逃げ隠れせず、押しつぶされることもなく、精一杯胸を張ってみせる、主人公の、いやイーストウッドの姿こそが、そこにある。とことん前向きなる贖罪の映画、それがこの『グラン・トリノ』ではないだろうか。・・・ところで、ここには確かにイーストウッドの過去が込められているのだけど、ふとある瞬間、この主人公ウォルトに、あるヒーローの姿が重なる。それは・・・ああ、寅さんだ(笑)。少年タオはさしずめノボルだねこりゃ。 歌はイーストウッドより渥美清の方が上手いと思った。ふふふ。 [映画館(字幕)] 10点(2009-05-01 21:10:48)(笑:1票) (良:2票) |
2611. 空軍大戦略
なんともシマリの無い戦争映画でして。英独両国側から描いているのがあまり効果的を挙げていないし(ドイツ側の描写が不必要なほど長い)、空爆される建物は掘っ立て小屋みたいにチャチだし、時々ヘンな合成映像使うし。とは言え、やっぱりここまで空中戦の描写を徹底してくれると、「さすが」と言わずにはおれません。英国名優陣がここに集結し、もはや戦っている相手は、ドイツ軍なのか、はたまたアメリカ映画界なのか。凄まじい意気込みの伝わってくる映画です。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2009-04-29 08:57:46) |
2612. 暗殺(1964)
司馬遼太郎の連作小説『暗殺』の中の『奇妙なり八郎』が原作。原作は、短編らしくエピソードを緻密に折りたたんで構成されているけど、その味わいとは異なり、映画はどっちかというとハードボイルド調。なにしろ清河八郎役が、Gメン丹波ですからね~。幕末を代表するトリックスターともいうべき清河八郎のイメージに合っているかというと、多分合ってないと思いますが(笑)、ここでは、冒頭に繰り返し出てくる「奇妙なり八郎」というセリフと、映画における八郎像が、むしろ対照的であるところがミソ、なのかも。幕末に渦巻く意志と意志の衝突、みたいな青春映画調ではなく、むしろ運命論的な暗い雰囲気が漂う作品で、才気が溢れるような入魂の映像が見事。とか言いつつ、こういう映画って、観ている間ずっと「ホラすごいでしょ、すごいでしょ」とアイヅチを求められ続けているような気分になって疲れるんですけどね(笑)。音楽は武満徹、60年代に邦楽器への関心を示した彼は、ここでも尺八を取り上げており、絶妙の効果、いやまあ、狙い過ぎじゃないかと言われればそうかもしれんが、この後の代表作、エクリプス(66年)、ノヴェンバー・ステップス(67年)と繋がっていくことを思えば、興味深いところ。・・・ところで昨今の社会の閉塞状況や、それに対する不満の湧き上がり、何か幕末につながるものがあるようにも感じます。年功序列の廃止だの実力主義だのと表向きは言われながら、かえってそれが故に、保身への執着、既得権益への執着が蔓延している世の中。支えとなっていた帰属意識を失ったのみで、代わりとなるべき寄る辺を見出せない世の中。いずれ、野心と大望が、血で血を洗う争いを生んでいった、あの幕末期のような混乱が、現代にも巻き起こるのかも知れない。そんな時に、こういう、ある種“冷たい”映画を観て、視点を変えてみるのも、よいのかも知れません。 [CS・衛星(邦画)] 7点(2009-04-26 09:53:03) |
2613. 初春狸御殿
歌と踊りが理不尽に展開する、インド映画もびっくりの、おバカさ爆発ミュージカル。絢爛豪華なスタジオセットを舞台に、雷蔵が、眠狂四郎の対極を行く超サワヤカさ、その薄っぺらい(?)美しさに、心からウットリすべし。ついでに勝新まで美しかったりするんだ、これが。で、↓皆さん誰もが言及せずにはいられないのがメス河童、わたしゃ、子供のころ胸をときめかせた(?)キザクラのCMを思い出しますが。というわけで本作、うーむ。これぞまさに、古き良き時代の、映画の醍醐味ってやつか。ついていけん。ははは。 [CS・衛星(邦画)] 7点(2009-04-26 09:11:42) |
2614. 華氏451
最初に観たのは、中学か高校の時、よみうりテレビの深夜放送「cinemaだいすき」で。エラくハマってしまい、それ以来、「もっともSFらしいSF映画」というと、本作を思い浮かべちゃう。と言っても、別に宇宙人やら巨大生物やらが出てくるわけでも無いし、画面がキラキラピカピカと特撮で飾られているわけでもない。どっちかというと、地味な田園風景が広がっている映画舞台、そこに登場する、妙な形の消防車やら、モノレールやらのカッチョ良さに、当時の私は、惹かれたようです。で、最近観直してみたら、やっぱりそういったシーンに、「そうそう、これこれ!」とうれしくなってしまう。それに、独身時代は親から、結婚後は妻から、「本買い過ぎ!」「これ以上買うの禁止!」と責められてきた私にとって、この映画で描かれている内容は、なかなか他人事と思えないものがあります。もし、ピンと来ない方は、この映画の「本」を「エロ本」と置き換えてみれば、男性諸氏ならばヒジョーに身につまされることでしょう、隠した「本」を見つけ出され、処分される、その恐ろしさ、ブルブル。 [CS・衛星(字幕)] 9点(2009-04-25 20:35:20) |
2615. レジェンド・オブ・メキシコ/デスペラード
サイコーですね。いわば、夕陽のガンマンと続夕陽のガンマンと、あと適当な映画をいい加減に混ぜ合わせて、短くまとめてタコス風味にした、そんな映画ですね。カッチョ良過ぎ、中身無さ過ぎ、あらゆる自由がここにある。一般に“シリーズもの”って、前作までを引きずり、アレコレ制約を受けた揚句にだんだん小粒な作品になり下がっていくことが、比較的多い(ってか、殆どそうでしょ)ような気がしてならないのですが、ロドリゲスっちゅうヒトには全く当てはまりませんね。「続編」ってのはあくまで創作のキッカケに過ぎず、むしろそれをオカズにし、喜々として際限なく映画を膨らませていく、そんなノリが感じられます。 [DVD(字幕)] 9点(2009-04-19 17:38:30) |
2616. 地球の静止する日
大げさなタイトルがついているものの、中身はと言うと、宇宙人(と言いつつただのオッサン)がウロウロした挙句、人類への警告と称して、たったの30分、停電を起こすだけ、という・・・。おいおい。せめて1時間。なんでやねん。まあ、かなり大がかりなロケーション撮影をやってるわりに、内容なコレなので、スケールがデカイのやら小さいのやら、よくわからん映画でしたが。テルミン全開の腰が砕けそうな音楽に乗って飛来してきた円盤、ツルンとした継ぎ目も何もないような形状が、なかなかに未来的。宇宙人クラトゥは、もうちょっと地球のコトを勉強してから来なさい(計画が甘いぞ)⇒勿論、だからこそ、この映画が“風刺”になり得るのだけど。未知のトッテモ硬い金属でできているわりにはウレタンか何かに見えてしまうロボット。こやつ、イマイチ活躍しないのだけど、兵士が2名ばかり、ほとんどドサクサまぎれに光線で殺害されてしまうのが、哀れ。というわけで、パニック映画か何かだと思って観ると、ヘンなところもありますが、当時の世界情勢と“ファースト・コンタクトもの”をうまく絡めた点、あるいは、冒頭とクライマックスのスピード感ある演出などが、見どころでしょうか。 [DVD(字幕)] 7点(2009-04-19 17:18:14)(笑:1票) (良:1票) |
2617. わんぱく戦争
こういう映画を観ていると、「映画において“名優”とか“名演技”って、一体何なんだろう」って思っちゃう。撮られるべきカットの中で、登場人物が撮られるべきように動いてさえいれば、演技に関する小難しい理論も何も知らない子供たちがそれを演じていたって、こんな見事な作品になっちゃうのだから。結局のところ、演出こそ命、演出がすべてやんか、と(はいスミマセン、そんなコト言っときながらモチロン、他の映画を観た後には、ちゃっかり他の感想を持つのです)。ってかむしろ本作品においては、子供たちの活き活きとした表情や、子供の身体能力ならではの動き、そういったものこそが、映画の魅力になっていて、楽しい作品になっていますね・・・しかし君たち、いささか悪ふざけが過ぎますぞ。にこにこ。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2009-04-04 23:58:22)(良:1票) |
2618. 隠し砦の三悪人
スターウォーズの原点みたいによく言われますが、冒頭あたりに出てくるいかにも汚らしい群衆シーンとか(これがスバラシイ!)、隠し砦の現実離れしたロケーションとか(これもナイス!)、こういったあたりは『猿の惑星』の原点だ、とも言いたくなります。あとは、ユーモア、アクション、危機また危機、というまさに娯楽の極致(ここまでくると、サービスし過ぎ?)。「いい映画」ってのは自分だけのために大切にしたいもので、人に薦めたくなるのは「面白い映画」。本作はその両者を兼ね備えた見事な作品ですね(ま、強いて言えば、後者、ですけどね、えへへ)。 [CS・衛星(邦画)] 8点(2009-04-04 16:26:23) |
2619. 旅情(1955)
子供の頃、通ってた塾の先生が、「今晩、テレビで『旅情』が放送されるから(教育テレビの世界名画劇場)、勉強なんかしてないで是非観なさい」って、言ったよ。何しろ先生が「勉強すんな」って言うんだから、そりゃ喜んで観ましたよ(どうやら元は学生運動の活動家だったらしい、と知ったのは後のこと)。まあ確かに、いわゆる恋愛コメディみたいなところのある映画で、子供が観てもそれなりに楽しめる映画ではありましたが・・・やっぱり、大人になってから観ると、格段に面白い。というのはきっと、大人の方が、「日常」というものにクサクサしている分、「脱・日常」というコトに、より敏感になっているから、でしょうか。昔は、テレ東の旅番組なんて絶対観なかったのに、最近はふと気づくと、テレビのチャンネルが旅番組になっていることがしばしば(宿の窓から海さえ見えれば「うわ~絶景~」とかコメントするのは勘弁してくれ、とかボヤキつつ)。だもんで、映画としてこんなに見事に“旅情”を表現してくれると、もうタマランのです。汽車に乗ってヴェニスに到着する主人公の期待感とともに、彼女の視線とともに我々の目に広がりゆく、街の風景。前半は彼女はどちらかと言えば、傍観者であり、彼女の視点から風景が描かれる。だけど、骨董屋と恋に落ちてウキウキしだすあたりから、彼女は傍観者という“見る立場”から、映画における被写体すなわち“見られる立場”へと切り替わる。そう感じられたその瞬間、彼女も常に持ち歩いていたカメラを、「忘れてきたわ」と言うタイミングの良さが、心地よかったり。物語における恋の行方については、いささか強引なので子供には刺激が強かったかも(?)。でも今では、中年男女が少年少女のごとくキャピキャピしている光景を、微笑ましく見ることができるのですが……正直に言います、半分「トホホ」と苦笑しながら観ていることは、否定いたしません、はい。 [CS・衛星(字幕)] 9点(2009-04-04 16:10:28)(良:1票) |
2620. 担え銃
短い映画とは言え、密度の濃さと展開の速さにぐいぐい引き込まれ、まさにあっと言う間、えっもうオシマイなの?と思っちゃいます。冒頭の訓練ではどう見てもダメ兵士だったチャップリンが、後半は、ハチャメチャ大活躍を展開。説教臭く戦争に異を唱えるよりも、映画という自由な世界で自由に飛び回り、現実の戦争を超越して見せることで、キッパリと戦争に背を向けて見せた、そんな映画。なもんで、この活躍ぶりたるや、明らかに非現実的なんですけれども、ちゃんとまとまりをもった活劇になっているのがミソで、笑いだけではないオモシロさ。またその一方、中盤における塹壕のシーンが、映画において結構大きなウェイトが置かれているのも見逃せません。この場面での笑いって、悲惨さと隣り合わせの笑い、なんですよね。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2009-03-15 00:00:06) |