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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2589
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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281.  トイ・ストーリー4 《ネタバレ》 
ちょうど大いに散らかっていた子供部屋を子どもたちと共に片付けたばかりのタイミングで鑑賞した。 そういえば、自分自身に子どもが生まれてから初めて観る「トイ・ストーリー」だった。  傑作だった前作「3」において描かれた、ウッディたちが選び取った「選択」で、「トイ・ストーリー」という物語は見事な“終着”を見せたのだと思っていた。 たとえ更なる続編が製作されたとしても、それはきっと多くのファンを失望させてしまう“蛇足”になるだろうと思っていた。 だがしかし、9年の年月を経て生み出されたこの続編は、僕たちの想像を芳醇なイマジネーションで大胆にも超えてみせた。 それを成し得たのは、このアニメーションに登場するキャラクターに対するクリエイターたちのあまりにも深い愛だったと思える。  “おもちゃ”として生まれたウッディをはじめとするキャラクターたちの「運命」と「役割」。 前作「3」で描き出されたそのテーマは、キャラクターたち自身にとっての誇りであり、尊厳であった。 我々観客も、そういった「運命」を見出したキャラクターたちを称賛し、物語の終着として納得し、満足していた。  「トイ・ストーリー」の中のキャラクターたちでさえ納得していたはずのその結論めいたものに対して、誰よりも彼らを愛するクリエイターたちは「いや、待てよ」と思ったのだろう。 “おもちゃ”として生まれた以上、その相手(持ち主)が誰であれ、楽しませ続けることこそが本懐。 でも、だからといって、すべてのおもちゃたちを、一方的にその「運命」=「おもちゃ箱」にしまい続けていいのか。 この映画のクリエイターたちは、あらゆる意味で「役割」を果たしてくれた愛すべきキャラクターに、新しい選択肢と可能性、即ち「未来」を与えたかったのだと思う。  それは、本来“生無きもの”に生命を吹き込んだこのストーリー(世界)において、あまりに相応しい多層的な新しい着地点だった。 この着地によって、このストーリーは永遠に続くだろう。そうまさに「無限の彼方へ」。   片付けたばかりの子供部屋は、またすぐに散らかり始めている。 この機に乗じて、うちのおもちゃたちも少しずつ旅立っているのかもしれない。
[映画館(吹替)] 8点(2019-08-26 22:50:09)
282.  スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム 《ネタバレ》 
ほとんど無意識レベルで感じていた“ニック・フューリー”まわりの「違和感」を、きっちりと収束してみせるお約束のポストクレジット・シーンを目の当たりにして、「ああ、MCUは終わらないんだな」と、感嘆と安堵を覚えた。 「エンドゲーム」の大団円から、文字通り間髪入れずに更なる“大風呂敷”を広げていこうというのか。 そしてその新展開を、新フェーズのリスタートに合わせるのではなく、「フェーズ3」のラストに据えて、大河の本流を紡いでくるあたりに、この類まれな映画シリーズの懐の深さを改めて感じる。  MCUファンとして初めは、もう少し「エンドゲーム」の余韻に浸らせてくれよとも思えたが、実際にこの「スパイダーマン」の新作を見終えた後では、成程、本作はあの“終焉”の直後を描くからこそ「意味」を持つものだと思える。  それは、“MCUに登場するスパイダーマン”の「意義」と直結する。 過去の単独ヒーロー映画であった「スパイダーマン」シリーズでは存在しなかった要素。即ち、トム・ホランド演じるスパイダーマンは、ヒーロー新世代の象徴であり、“アイアンマン”の意志を受け継ぐ者であるということだ。 MCUにおけるスパイダーマン=ピーター・パーカーは、無論他の誰でもなくトニー・スタークによって見出された“ルーキー”であった。 MCUの各映画において、トニー・スタークとピーター・パーカーは擬似親子のような関係性で描かれてきた。そして、この二人が人間として極めて似たもの同士であったことも明らかだ。 飄々とよく喋り、ジョークを連発し、相手を小馬鹿にしながら敵に打ち勝つ。そして持ち前のDIY精神でスーツも武器も作り上げる。ただその反面、極めて繊細で優しく、常に己と葛藤しながら戦い続ける。  この映画におけるピーター・パーカーのヒーローとしての存在感は、その精神的な未成熟性も含めてトニー・スタークそのものであり、まさにトニーが乗り移ったかのようだった。 トニー・スターク同様に、強敵との対戦を控えて自らスーツを作り上げていく様には、ハッピー同様に涙腺が緩んだ。 “アイアンマン=トニー・スターク”というMCUが生み出した最大最高のヒーローに対するリスペクトと愛情、そしてのその魂の継承。 本作が、「エンドゲーム」と連なるように公開された理由は、そういうことだ。   あと最後に。今年の「悪役賞」は“サノス”で押し通したかったが、いきなりの“対抗馬”出現とは。本作のヴィラン・ミステリオを演じたジェイク・ギレンホールに対しては「流石」の一言に尽きる。 捻じ曲がった悪意を心の底から真っ当と疑わない狂気性を演じさせたらこの俳優に右に出る者はいない。全然キャラクターは異なるが「ナイトクローラー」のアイツを髣髴とさせる。最低で最高。
[映画館(字幕)] 9点(2019-07-31 23:53:58)
283.  天気の子
梅雨明けした週末、それに合わせるように封切りされていた本作を観に行く。 正直なところ“期待”は半々といったところだった。 新海誠監督の前作「君の名は。」はちょっと異常なレベルの社会的大ヒットとなり、これを受けての次作は、否が応でも注目を集めることは必至で、それは「独善的」なこのアニメーション監督の作風にいい意味でも悪い意味でも影響を与えるだろうと思えた。 案の定、公開前からちょっと節操がないくらいの企業タイアップの乱れ打ちが目立ち、注目度と製作資金の潤沢さを感じる反面、あらゆるしがらみに覆われた相当に自由の利かない映画製作になったのではないかと危惧していた。  酷評も辞さない構えで鑑賞に至ったのだけれど、その危惧は全くの杞憂だった。 善し悪しはまず別としても、そこで繰り広げられたのは、前作以上、いや過去作のどれよりも“独善的”で“独りよがり”な新海誠監督の「セカイ観」全開の映画世界だった。 危惧された不自由さはむしろ皆無だったと言っていい。美しすぎる精巧なアニメーションは無論健在だが、その美しさと表裏一体の生々しくリアルな描写が観る者の心情をじわじわと抉ってくる。 現実の具体的な企業名や商品名が作中の至るところで映し出され、「現実感」を効果的に演出していた。そう、節操なく思われた企業タイアップだったが、監督と製作陣はそれを最大限に活かし、アニメ世界の重要なファクターとして表現してみせている。  タイトル「天気の子」が表すとおり、この国のあらゆる「天気」を表現したアニメーションはあまりにも美しく、それだけでこの映画の価値は揺るがないとすら思える。 しかし、この映画で表された美しさは、いびつで残酷だ。 主人公の少年少女たちは、この美しい世界の“底”で、文字通りに生命をすり減らしながら、喜びと希望を見出そうと奔走する。 それは決して安直な綺麗事ではなく、心身ともに追い詰めされた彼らがギリギリのところで保とうとした生きる「意味」だった。  この映画が描き出したストーリーテリング、そして主人公たちの帰着に対して、受け入れられない人は多いだろう。 彼らの「選択」は極めて破滅的な行為であることは間違いなく、想像よりもずっとカオスで狂気的な映画である。  セカイの“しくみ”も“理り”も関係ない。 彼らは、あまりにも無責任に、あまりにも独善的に、そして「確信」をもって、「大丈夫だ」と言い切る。 ならば、それがすべてだ。 世紀の“わがまま”を押し通す、若い生命の猛々しさと瑞々しさ、最高密度の「青臭さ」に、少なくとも僕は、涙が止まらなかった。  梅雨明けのタイミングで観に行って、なんと“梅雨明けしない”顛末には面食らったが、今、この国の夏に観なければ、あまりに勿体ない映画だ。
[映画館(邦画)] 9点(2019-07-28 10:31:38)(良:2票)
284.  そして父になる 《ネタバレ》 
2年前に娘が生まれた。とても幸福な瞬間だったけれど、同時に「父親になった」という事実に対しては、ふわふわとした実感の無さを感じたことを良く覚えている。  女性は、子を産んだ瞬間に「母親」になると思う。それは、我が子の生命を身籠り、出産するという幸福と苦闘に溢れたプロセスをしっかりと経ているからだと思う。 一方で、男性は、そういった実を伴ったプロセスを経ていないから、本当の意味で「父親」という存在になるまで「時間」が必要なのだと思える。 それが数日間の人もいるだろうし、数ヶ月間の人もいるだろうし、「6年間」かかる人もいる。  この映画のテーマを知ったとき、“親”の一人として、選択の余地はあるのか。と思えた。 傍らの我が子をふと見て、今まで共に生きてきた子を選ぶに決まっている。と、思った。  この映画を、「母親」の目線で描くことはある意味容易だったと思う。 この「事件」において、最も傷つき、最も感情的な対象になり得るのは、当然「母親」だからだ。  しかし、この映画はそういうストレートな感動には走っていない。 「母親」ではなく、「父親」を主人公に据えた意味。それこそが、この作品の価値だと思う。  「交換」という決断を迫られ、夫婦は苦悩する。 母親は、他の誰よりも傷つくが、その分シンプルに決断出来る“強さ”を持っていると思う。いざとなれば自ら育てた子と二人きりででも生きていくという「覚悟」がある。 しかし、そもそも「親」になったということそのものに自信が備わっていない父親は、「子」との距離感に対して大いに惑う。 そこには、「父親」というものの弱さと脆さが溢れていて、それがこの映画が描くドラマ性なのだと気付いた。   映画のテーマに対して「選択の余地はない」と“シーソー”の片方に思い切り重心をかけて映画を観始めた。 そしてこの映画のストーリーは、概ね自分のその意思に沿った着地を見せた。  それなのに、観終わった瞬間、僕は“シーソー”の真ん中に立っていた。 どちらが正しいということは言えず、どちらも間違っていないとしか言えなかった。  「選択」を迫るこの映画は、終始どちら側にも偏ってはいなかった。故に観客は、描かれる人々の言動のすべてに共感し、また拒否することが出来る。 この映画の素晴らしさは、その“立ち位置”によるバランス感覚そのものだ。
[映画館(邦画)] 10点(2019-07-18 16:47:29)(良:4票)
285.  勝手にふるえてろ
「絶滅すべきでしょうか?」と歌い上げた後、主人公はアパートの小さな玄関で、独りうずくまり、嗚咽する。 胸が締め付けられてたまらなかった。性別は違うけれど、彼女は20代の頃の私だと思った。 「絶滅」という言葉は使わなかったけれど、当時の私も、彼女と同じように、孤独感と自己憐憫の狭間で藻掻き苦しみ、突っ伏して声にならない声を上げていた。今でこそ、「暗黒期」と自嘲的に振り返ることができるけれど、私の中では本当に絶望的な時期だった。  この映画の主人公ヨシカは、愛くるしく、痛々しく、トリッキーに見えるけれど、実のところ、この年頃の女性の普遍的なありのままの姿を表していると思えた。 誰だって、いつまでたっても「召喚」し続ける過剰に美化された思い出を持ち続けているだろうし、不遇な自分自身を憐れみ、達観していると思い込むことで、慰め、人生に折り合いをつけようとしているんじゃないか。 そのさまは、客観視すれば、愚かで滑稽に見えるかもしれないけれど、人間が社会の中で必死に生き続けるための“術”であり、本当は誰も嘲笑うことなんてできない。  この映画は、そういう今この社会に生きる、性別も年齢も関係ないすべての人が、実は孕んでいる“脆さ”とそれと同時に存在する“強かさ”を、あまりにもユニークな映画的表現と、あまりにも奇跡的な“松岡茉優”によって、描きつけている。  思わず逃げ出したくなるブサイクな“キス顔”のように、「無様」な映画である。 結局、主人公はダークなインサイドのドツボにハマったままで、具体的には何も解決はしてない。 人生は笑っちゃうくらいに面倒で、複雑なので、答えがいつも「1+1=2」になるとは限らない。「1+1=1」になることはままあるし、すべてが無くなって「0」になってしまうことだってあるだろう。  だけれども、怯えてばかりの自分自身に、「勝手にふるえてろ」と言い放ったヨシカは、きっと「1(イチ)」以上の何かを見つけるための一歩を踏み出せたのだと思う。  嗚呼、なんてパンクで、愛おしいのだろう。最高すぎて勝手にふるえるわ。
[インターネット(邦画)] 10点(2019-07-18 09:55:14)(良:1票)
286.  スカイスクレイパー
コレは非常に良い“タワーリング・インフェルノ+ドウェイン・ジョンソン”映画だ。想定外の大満足感に高揚した。  どうせ、例よって超高層ビルで大火災が起きて、我らがロック様が超人的に救出劇を繰り広げるのだろうと高を括っていた。そして、その通りの映画だった。 まったく想定通りのストーリーテリングだったにも関わらず、想定外の満足感を得られたことが凄いことだと思う。  言うなれば、この手の“ジャンル映画”を好んで観ようとする輩は、映画的に新鮮な驚きなど端から求めていない。 ただ、過去の映画遍歴を踏まえて、押さえておいてほしい“娯楽ポイント”が幾つかあって、そのポイントを幾つ稼がせてくれるか、興味はそこに尽きる。 もちろん、その娯楽ポイントは、人それぞれなのだが、個人的には、この手の娯楽映画に必要な要素を漏れなく網羅した「お手本」のような作品だったと思う。  監督のローソン・マーシャル・サーバーはきっと自他ともに認める“ボンクラ映画ファン”なのだろう。 随所に過去の数多の傑作映画から引用された要素が散りばめられていて、こちらも一ボンクラ映画ファンとしてニヤニヤしっぱなしだった。 香港を舞台にした「燃えよドラゴン」オマージュは言わずもがな、「ダイ・ハード」から「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル」に至るまで古今東西のあらゆるアクションエンターテイメント映画を彷彿とさせる数々のシーンは、決して安直な“パクリ”というわけではなく、愛情と尊敬をもって演出し表現されていたと思う。 だからこそ、ひたすらに楽しく、興奮することができた。  そして、やはりドウェイン・ジョンソンの圧倒的な存在感も無視できない。 何かのインタビューでも彼自身が語っていたが、ドウェイン・ジョンソンがドウェイン・ジョンソンであり続けることを貫き通したからこそ、このプロレスラー出身の俳優は、ハリウッドというバトルロワイヤルの中で勝ち残り、アクションスターの地位を確立したのだと思う。 様々な映画で全く違う人間を演じているのに、彼の左半身にはルーツであるサモアを象徴するタトゥーが刻み込まれている。普通に考えれば、それは鑑賞者にとって違和感であり、映画俳優にとってデメリットでしかない。 だが、世界中の多くの映画ファンはその象徴であるタトゥーも含めて、ドウェイン・ジョンソンという俳優を受け入れ、愛している。もはや、ドウェイン・ジョンソン主演映画であのタトゥーを見られなければ、逆に物足りなさすら感じてしまうと思う。 それこそが、彼が「自分」というアイデンティティを貫き通した証であろう。 そういったアクション俳優の存在感も含めて、このパニックアクション映画は「ザ・王道」だと思える。素晴らしい。  あ、そうだ、“粘着テープ”を買いに行かなくちゃ。
[インターネット(字幕)] 8点(2019-07-02 21:40:47)
287.  きみと、波にのれたら
「あらら」と、ちょっと呆気にとられるくらいにチープな映画だった。 1990年前後の“ホイチョイ・プロダクション”の映画を観ているような「軽薄感」が結局最後まで拭えなかった。  その前時代的な作品の空気感自体は、製作陣の狙い通りだったのだろうと思う。 若い男女が“都合よく”運命的な出会いをして、都合よく恋に落ちて、都合よく死別して、都合よく摩訶不思議な邂逅を果たすという浅はかな展開そのものを否定したいわけではない。  そのようにストーリーテリング的は稚拙だとしても、多くの人に愛されてやまない名作はたくさんある。 ただし、そういう映画に必要不可欠な要素は、ストーリーなんてどうでもよくなるくらいに魅力的な“キャラクター”だと思う。そして、彼らが織りなす刹那的で眩い悲喜劇に人は魅了されるものだろう。  だが、残念がら、この映画に登場するキャラクターたちには、そういった魅力が備わっていない。 人間的に嫌悪する余地すらなく、只々、“フツー”で“浅い”のだ。 都合のよいストーリー展開の中で、浅はかな若者たちが、特にエモーショナルなわでもなく感動めいたものを押し付けてくる印象を受け、終始“気持ち悪かった”。  その“気持ち悪さ”が極めて残念だった。 なぜなら、理屈ではなく、摩訶不思議で、自由闊達な、“気持ちよさ”こそが、湯浅政明というアニメーション監督の真骨頂だと思っているからだ。 「夜は短し歩けよ乙女」「夜明け告げるルーのうた」そして「DEVILMAN crybaby」と、立て続けに自由闊達なアニメーション表現で独自の世界観を構築し、圧倒的な立ち位置を確立した湯浅政明監督の最新作として大変期待したのだが、冗長なプロモーションムービーかのごとき稚拙な映画世界から最後まで脱却できなかったことは至極残念だ。
[映画館(邦画)] 3点(2019-06-30 12:24:40)
288.  ゴジラ キング・オブ・モンスターズ 《ネタバレ》 
ゴジラ映画ファンとして先ず断言したいが、本作が映し出すビジュアルはとんでもなくエキサイティングであり、世界中総てのゴジラ映画ファン、怪獣映画ファンは、必ず映画館で見なければならない。 それが決して言い過ぎではないくらいに、映像的には本当に“どえらいもの”を見せてくれる。それは間違いない。  その妥協の無い映像的クオリティーは、この映画の製作陣が、日本が生んだ“ゴジラ映画”を心から敬愛し、尊敬してくれていることの紛れも無い証明であり、そのことについては、日本のゴジラ映画ファンとして心底嬉しく思う。  と、5年前の前作とほぼ同じ、いやそれ以上の「満足感」を得られたことは否定しない。 しかし、だ。その「満足感」と同時に、決して看過できず、拭い去れない「拒否感」を覚えたことも否めなかった。 前作鑑賞時と同様に、エンドロールを見送りながら、“神妙な面持ち”を崩すことができなかった。  「拒否感」の正体はもはや明確である。“核の取扱い”只々この一点に尽きる。 ストーリーテリングにおける“それ”についての「意識」の違いさえ無ければ、僕は前作も含め、この“ハリウッド版ゴジラ”を大絶賛することを惜しまなかっただろう。 だが、残念ながら、前作に続き本作においても、「核兵器」という人類が生み出した最凶最悪の脅威に対する“意識の違い”というよりも、むしろ明確な「無知」が、大きく分厚く障害として立ちはだかった。  その「無知」は、致し方ないものとも思える。 世界で唯一の被爆国として、この国の子どもたちは、核兵器の脅威とそれがもたらした悲劇に関する情報を、教育の中で蓄積し、潜在意識レベルで認識している。 いかなる場合であっても、核兵器は「否定」の対象であり、その象徴が、脅威としての「ゴジラ」なのだ。 一方、かの国の子どもたちにとって、「ゴジラ」とは“核が生み出したヒーロー”であり、その認識を変えることは極めて難しいことなのだろうということを、前作と本作を観て痛感した。 歴史も、文化も、価値観も違えば、それは当然のことだろうし、こと「核兵器」に関する経緯においては、日本とアメリカの立場は全く両極にあったわけだから、その「乖離」は殊更であろう。  ただ、そのように俯瞰して見れたとしても、本作における核兵器のあまりに軽薄な取り扱いは、この映画が「ゴジラ映画」だからこそ認めるわけにはいかない。 衰弱したゴジラに対し、核爆弾をあたかも“カンフル剤”のように爆発させ、復活する様を仰々しく映し出し、本作随一の名場面のように仕上げた様には、怒りを覚えるというよりも、唖然としてしまった。 我らが渡辺謙の熱い見せ場には申し訳ないが、日本のゴジラ映画ファンにとっては、あのシーンが最も「不適切」で「不要」だった。   でもね……。 これがアメリカ人が愛し、アメリカ人が観たい「ゴジラ映画」であれば、それがすべてであり、娯楽映画として本作の在り方を否定する余地は無い。と、本心から思う。(立ち位置が定まらないようで申し訳ないが)  実際、僕自身、前作同様にゴジラの巨躯に感動し、キングギドラが醸し出す絶望感に更に感動し、あの“新兵器”の登場や、“小美人”オマージュなど、一つ一つの要素に興奮した。そして、伊福部テーマ全開の劇伴には、高揚感と共に感謝が溢れた。  詰まるところ、僕はこの映画が大好きなのだ。だからこそ、“嫌い”な部分が我慢ならないのだと思う。
[映画館(字幕)] 7点(2019-06-05 19:21:04)(良:2票)
289.  アベンジャーズ/エンドゲーム 《ネタバレ》 
トニー・スタークがアイアンマンになって10余年。僕たちは、彼が幾つもの眠れぬ夜を過ごしてきたことを知っている。 そのトニーの姿を一番近くで見続けていたのは、他の誰でもなくペッパー・ポッツだったということ。 だからこそ、ポッツは、遂に“闘い終えた”トニー・スタークに対して、努めて穏やかに「眠って」と言葉を送ったのだ。  もうね、涙が止まらなかった。高揚感、喪失感、そして多幸感と感謝、涙の理由は多層的に渦巻き、正直なところ初回鑑賞時には感情の整理がつかなかった。 そして、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)が、「アイアンマン」からこの「エンドゲーム」に至るまで描き連ねてきたものは、“ヒーロー”という宿命を背負った者たちの自らの「運命」に対する抗いと享受の物語だったということを痛感した。 MCUのヒーローたちは、自らの運命を憂い、おびただしい傷を負いながら、藻掻き苦しむ。 時に混乱し、対立し、選択を見誤ることもあるけれど、決して彼らは諦めない。再び立ち上がり、強大な敵=運命に“Avenge(復讐)”する。 その姿に、僕たちは憧れ続ける。それは必ずしもスーパーヴィランに打ち勝つスーパーヒーローだからではない。 彼らは皆、ヒーローであると同時に一人の人間だ。その一人の人間としての弱さや脆さすらもひっくるめた強さに憧れるのだ。  この一つの「時代」を築き上げたヒーロー映画シリーズの最終局面である本作には、“市井の人々”は殆ど映し出されない。 必然的に、ヒーローたちが市民の危機を救うシーンは皆無だ。巷ではそのことに対して批判的な論評もあるようだが、僕は異を唱えたい。 本作に限っては、アベンジャーズが僕たち一般人を救い出すシーンなど必要ないと思う。 なぜなら、「彼らは、僕ら」だからだ。  スーパーヒーローの一人ひとりが、時に弱く脆い一人の人間であることと同時に、我々一人ひとりの人間が、時に強く勇敢なスーパーヒーローにもなり得るし、そうでなければならない。ということを、このエンドゲーム の“大合戦”はありありと映し出していた。 遂にスーツを纏い、夫と背中合わせで戦うペッパー・ポッツは勿論、テレパスのマンティスやシュリ(プラックパンサーの妹)など、非戦闘員のキャラクターたちが、名だたるヒーローたちの先陣を切るようにしてサノス軍に立ち向かっている。 クライマックスにおいて画面いっぱいに映し出されたこの異様な迫力に溢れた「構図」が表す意味は明らかだ。 もはやこの局面において、スーパーヒーローかそうでないかなど関係ない。強大な悪と理不尽な暴力によって大切なものを奪われた全ての者たちが、「正義」の名の下に復讐に挑む。 それは、溜めに溜めたキャップの「Avengers Assemble」の一声と共に、ヒーローたちのみならず我々人類全員が「アベンジャーズ」となった瞬間だった。 だから、この映画に限っては、ヒーロー映画であっても“救う”シーンは必要なく、全員で“戦う”シーンで占められているのだ。  と、まあ初鑑賞からかれこれ日数が経っても、熱くならずを得ず、また語り尽くせぬ。 10年以上に渡り、この類まれな映画体験を享受できたことを、只々幸福に思う。  70年遅刻のデートを果たしたスティーブ・ロジャースに祝福を。 “不完全燃焼”のソーには、まだ何千年も残っているであろう人生に敬意(と密かな期待)を。 そして、Thank you Tony. Thank you Avengers,3000.
[映画館(字幕)] 10点(2019-06-02 07:48:53)(良:3票)
290.  ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル
ロビン・ウィリアムズが存命ならば、たとえカメオ出演だったとしても、小気味良い存在感を放ってくれただろうなと、今は亡き名優を偲ばずにはいられなかった。 1995年の「ジュマンジ」は、劇場鑑賞以来、幾度も観返しているが、毎回色褪せぬエンターテイメントを与えてくれる傑作だ。 児童向けの絵本を原作としたファミリームービーには違いないが、映し出される魅力的なファンタジーとアドベンチャー、それらと共存するダークでビターなテイストが何とも味わい深く、忘れ難い余韻を生んでいる。  実世界と同じく、20余年後を舞台にしたこの続編も、今の時代に相応しい娯楽性を生み出しているとは思う。 恐ろしいゲーム世界を通じて、自分自身を見つめなおし成長していくという根底のテーマ性は前作から継承されているもので、それに加えて、時代を越えて顕著になった個人の多様性やそれを相互に理解しあうという追加要素はとても現代的だと思った。 そういうテーマ的な観点としては、現代社会に即した意義を持った良いリメイクだったと思うし、ドウェイン・ジョンソンやジャック・ブラックをキャスティングし、質の高いアクション・コメディに振り切った作品の方向性は全く間違っていないと思う。  ただし、オリジナル映画の大ファンとしては、大いに物足りなさを感じてしまったことも否定できない。 “ジュマンジ”の世界と現実世界を繋ぐ「媒体」が、ボードゲームからビデオゲームになったとはいえ、その中身は同じハズ。であれば、もう少し前作に登場したイベントやキャラクターを踏襲したゲーム世界を映し出して欲しかった。 かろうじて“サイの暴走”は出てきたけれど、巨大蚊や不良猿、人喰い植物、底なし沼など、娯楽性に溢れたあの漫画的な数々のイベントを、ロック様をはじめとする新しい登場人物たちが、ゲーム世界の中で目の当たりにする様を見てみたかったと思う。 そういう意味では、この続編で描き出されたゲーム世界はあまりに凡庸で、ゲームとしては“クソゲー”のレッテルを貼られても致し方ないだろう。  繰り返しになるが、ロビン・ウィリアムズが生きていれば、悪党ハンター・ヴァン・ペルト役で特別出演が実現したかもなあと、叶わぬ空想は膨らみ続ける。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2019-06-02 07:47:11)
291.  スパイダーマン(2002)
巨大ビルディングの林を滑空するあの爽快感、それだけでこのエンターテイメント映画の価値は計り知れず、満足感というものはその瞬間に満たされる。躊躇のないアメコミの実写化に感服せずにはいられない。見事、サム・ライミ。
[映画館(字幕)] 8点(2019-06-01 00:07:39)
292.  クレヨンしんちゃん 新婚旅行ハリケーン 失われたひろし
昨年に続き、クレヨンしんちゃん映画を我が子と、友人父子らと連れ立って鑑賞。 昨年の「爆盛!カンフーボーイズ〜拉麺大乱〜」は、想定を大いに超えた素晴らしい作品だった。 このアニメならではの“おバカ”コメディを全面に繰り広げつつも、しんちゃんをはじめとする子どもたちの目線を通じて「正義」という概念のこの世界でのあり方を問うという、物凄くクオリティーの高いストーリーテリングに感嘆した。  そんなわけで昨年よりも鑑賞前の期待値が上がった今作も、“クレしん映画”ならではの「時代」を映すテーマ性は盛り込まれていたと思う。 今作のテーマは、母親であり、妻であり、一人の女性である“みさえ”によるずばり「女性讃歌」だ。  数年遅れのハネムーンの地で、母親であることの苦闘、妻であることの葛藤、それらをひっくるめて一女性としての強さと弱さを等しく全面に押出しながら、アドベンチャーを繰り広げる“みさえ”の姿が眩しく、愛おしい。 今作においては、主人公であるしんのすけは、めずらしく子どもらしいポジションにおさまっており、みさえとひろしの父母の活躍に振り切った構成も中々潔い。  それはまさに、この映画を子を連れて鑑賞しているであろうすべての母親たちにスポットライトを当てるべく用意されたストーリー展開だった。  この映画の焦点とその意図はよく理解できる。ただし、“クレしん映画”としてちゃんと面白かったかというと、少々疑問は残る。 個人的には、「母親」や「女性」といったターゲットに対する焦点の当て方が、少しあざとすぎたんじゃないかと思える。 主人公・野原しんのすけの存在感が“大人しく”見えたことに顕著に表れているように、「子ども」の存在をもう少し意義深く描き出すべきだったのではないかと思う。  「クレヨンしんちゃん」の主人公は、当然ながらしのすけである。 今作でも彼はいつものようにおバカに暴れまわってくれてはいるが、どこかその言動にいつものような“熱さ”を感じなかった。 “クレしん映画”の過去作をいくつも観ているわけではないので、どうしても前年との比較になってしまうが、声優の交代も少なからず影響しているのではないかと思う。声色的に違和感はあまり無かったが、この国民的キャラクターが内包する根本的な「熱量」を、まだ新しい声優は表現し切れていないのかもしれない。  まあとはいえ、僕の横で子どもたちはちゃんと笑い、ちゃんと泣いていたようなので、変な言いがかりをつけるべきではないのかもしれないが。
[映画館(邦画)] 5点(2019-05-31 23:32:47)
293.  空母いぶき
どこかの阿呆のように、どんな事でも、浅はかに「曲解」しようと思えばいくらでも出来るわけで。 今現在の、この世界の複雑さと、愚かさを伴った在り方は、いつだってその“危機”を孕んでいる。 「日本」は、そういう危機感に対して、時に老獪に、時に臆病に、結論を避け、蓋を閉め続けてきた。 それは決して、一方的に非難すべきことでも、賞賛すべきことでもなく、極めて難しい選択肢の中で、苦慮をし続けてきた結果なのだろう。 ただし、そういう危うさに対して、いつまでも避け続けるわけにもいかないし、もう蓋をしようにも閉め切れない時勢に至っていることも明らかだ。 この国は、何らかの形で、この「局面」を超えなければならない。この映画の主人公が発した「ハードル」とは、まさにそういうことだ。  ならばどうするのか。 無論、その答えは一つであろうはずもないし、何が正しいかなど実際分からない。 大切なことは、導き出した方向性に対して、誠実に「覚悟」を示せるかということ。 この映画の登場人物たちは、自衛隊員も、政治家も、官僚も、ジャーナリストも、みなそれぞれに強い意思を示し、「覚悟」を示す。 その彼らの有様と、この映画で描き出されることは、あくまでも一つの価値観に端を発する「理想」であり、「空想」に過ぎないかもしれないけれど、その“姿勢”の示し方自体は、とても有意義だったと思う。  演者の部分的な演技プランのみをピックアップして無責任な難癖をつける阿呆は論外だが、しっかりと鑑賞した上で、この映画で描き出されていることと、自分自身の価値観を鑑みて、「否定」することは大いに結構だと思う。 どこまで意図的かは分からないけれど、この映画は、鑑賞者の思想や意識によって如何様にも「見え方」が異なるように仕上がっている。 この映画を鑑賞することで、避けられない「局面」を迎えているこの国の国民として、今一度自分自身の立ち位置を見極める良い機会にになり得るのではないか。   映画作品として、「完成度の高い映画だ」とは正直言いがたい。 登場人物たちに青臭く語らせすぎだし、所々再現映像のようなチープ描写もあり、映画表現としては稚拙だと言わざる得ない部分も多い。 だがしかし、製作費が限られているであろう中で、何とか苦心して映し出された海上での戦闘シーンは、きちんと緊迫感を備えていたし、日本独自のミリタリー映画として成立していたと思える。 そして、その海上の緊迫感は、日本政府の苦悩ともリンクし、この国だからこそ表現し得たポリティカルサスペンスとしても見応えがあった。  最後に、中井貴一の呑気なコンビニ店長役に違和感を感じた人も多いかもしれないが、これは海上護衛艦を舞台にした2005年の映画「亡国のイージス」を鑑賞した映画ファンならば、なかなか感慨深いギャップを孕んだキャスティングのはずだ。 本作には、「亡国のイージス」原作者の福井晴敏が企画として名を連ねており、随所にかの映画を彷彿とさせるキャスティングや設定が見受けられる。 原作自体に関連性は無いので、ストーリー性が別物であることは当然だが、同じ日本の領海上を舞台にしたポリティカルサスペンスでありながら、十数年の時を経て、自衛官や政治家たちの立ち位置が微妙に変化していることも興味深い点だった。
[映画館(邦画)] 8点(2019-05-31 23:31:15)(笑:1票)
294.  何者
「就職活動」というものをしたことがない。 今現在職に就いているわけだから、正確にはそれをしたことがないというのは間違いかもしれないが、この映画のメインストリームに描きつけられている、いわゆる“新卒採用”向けの活動をしなかったという意だ。 ただし、だからと言って、この映画が表現する鋭利で毒々しい「棘」が突き刺さらないわけがなかった。  観よう、観ようと思いつつ、長らく逃げ続けてきた映画だった。 もしも、もう少し若い頃にこの映画を観たならば、この作品から飛び出してくる棘は心の奥底まで突き刺さり、僕は、もっと分かりやすくボロボロになっていたことだろう。 今、このタイミングでこの映画を鑑賞し、あまりに辛辣な描写に痛みを覚えながらも、まだ平静を保っていられることは、幸か不幸かどちらだろうか。  少し、自分自身の話をしたい。 高校を卒業して、大学には行かず、東京の専門学校に進学した。「映画製作」の職に就きたいという夢を持ち、それを実現させるための進路だった。専門学校に2年間通い卒業したが、映画製作の現場には就職しなかった。業界の特性上、明確な就職活動的なプロセスは無かったし、映画製作の現場の猥雑で古臭い価値観は自分には合わないと思った。フリーターとニートで数年過ごし、その間に地元に帰り、今の会社に就職したのが13年前。 思い返せば、僕にとっての「20代」は、本当に地獄のような日々だった。 自分がやりたいことと、やったほうがいいことと、やらざるを得ないことが、バラバラで全く一致せず、体が動かず、結局「何も」行動することができなかった。 只々、朝が来る恐怖の中で眠り、その日一日を何とか自分の中で誤魔化して、生きてきた。  先に、「就職活動をしなかった」と記したが、既にここにも、自分自身に対する誤魔化しを孕んでいる。 就職活動をしなかったのではなく、“できなかった”のだ。映画業界に就職しなかったのではなく、“できなかった”のだ。 当時、SNSはまだ普及していなかったので、僕は、日々の自己満足と逃避の理由を、日記やブログに書き連ねていた。  愚かだったとは思う。でも、今となっても、その日々を否定することはできない。当時の僕にとっては、本当にそれが精一杯だったからだ。 そして、その上に、今の自分の人生が展開しているということも否定しようがないからだ。  この映画に登場する4人の若者(就活生)は、四者四様に痛々しく、愚かしい。正直、見ていられない。 でも、僕は、この4人の誰のことも、上からの目線で否定することなんてできない。間違いなく、彼らは僕自身だからだ。 こうすればいいのに、こう考えればいいのに、と今の僕が、当時の僕(=彼ら)に意見することは、まったくもって無意味だと思う。 「青春」という言葉で表現するには、あまりにビターで世知辛いが、かけがえのない若き煌きが存在するように、取り返しのつかない若さゆえの「闇」も確実に存在するということ。 そして、その闇にとりつかれ、押しつぶされることすらも、若者の特権なのだと思う。  登場人物の心情のみならず、鑑賞者の心情までも“丸裸”にする、とても危険な映画である。ただ、「就職活動」という経験の有無など関係なく、すべての“大人”に観てほしい映画でもあった。  たとえ地獄のような日々でも、それでも何とか生き続けてみれば、「悪くないな」と思える日がくる。そのことだけは、当時の自分自身に言ってやりたい。
[インターネット(邦画)] 10点(2019-05-27 23:28:48)
295.  ガーディアンズ 《ネタバレ》 
ロシア版「アベンジャーズ」というよりは、「ファンタスティック・フォー」に近いだろうか。 所変われば、ヒーロー像も変わる。映画としての善し悪しはまず置いておいて、興味深い映画であったことは認める。 はっきりとチープな部分も多々あるが、ビジュアル的に美しい描写もあり、映画としてのルックは思っていたよりもちゃんとしていたという印象。  だがしかし、そういったフォローポイントを圧倒的に凌駕する稚拙なストーリー展開が、ストーリーが進むにつれ加速するように酷い。 まず、人体改造されたヒーローたちの出自と現在の立ち位置、宿敵との関係性が絶望的に分かりづらい。 そこから描き出されるストーリーも、思わず「下手くそか!」と声を上げたくなるくらいに話運びがぐだぐだで、合うべき焦点がまったくもって合っていない。 最初のうちは、お国柄ゆえの“ハズし”なのかと好意的に見ていたが、段々とすべての登場人物たちが「バカ」にしか見えなくなってくる。  ヒーローたちのキャラクター性自体がMARVELやDCをはじめとする数多の有名ヒーローたちのパクリであることは別にいい。 ただロシアで生まれたヒーローである以上、かの国だからこそ生じる葛藤や苦悩をキャラクターたちに反映して欲しかった。  MCUを表面的になぞって、ユニバースの拡大を狙ったラストのシークエンスをドヤ顔で見せられても、食指はピクリとも動かない。
[CS・衛星(字幕)] 3点(2019-05-20 00:09:06)(良:1票)
296.  クリミナル 2人の記憶を持つ男 《ネタバレ》 
まず断言したいのだが、この映画は、かつてのハリウッドの大スター俳優が惰性で出演している安易なアクション映画では決してない。 主演のケビン・コスナーは、60歳を超えてなお新境地を切り開くべく、精力的な役づくりに挑み、不幸な幼少時代に脳障害を受けた凶悪死刑囚を熱演している。  その主人公の凶悪犯に、死亡したCIAエージェントの記憶を埋め込み、世界の危機を救うミッションに挑むというプロットは、字面だけをみれば馬鹿馬鹿しく思えるが、そこから生まれたドラマ性はなかなかどうして見応えがあった。  断片的な記憶を辿りながら絶体絶命のミッションを繰り広げていくというような「ボーン・アイデンティティ」的なスパイアクションの二番煎じなのだろうと想定していた。 しかし、そうではなくこの映画は、ある種「障がい者」でもある凶悪犯が、強制的な脳手術により図らずも“人間らしさ”を得て、自分が置かれた立場との狭間で苦悩する人間ドラマを主軸に据えていた。そのストーリー展開は、非常に悲しく、新鮮でもあった。  また、その物語の構図は、ダニエル・キイスのSF小説「アルジャーノンに花束を」を彷彿とさせ、深い感慨を孕んでいたと思う。  と、想定よりもずっと面白い映画であったことは間違いないのだが、ラストの顛末があまりにモ惜しい。 主人公は、世界を陥れようとするテロリストに見事に打ち勝ち、世界を危機から救う。そこまではエンターテイメントとして爽快でとても良い。 ただ、その後、埋めつけられたCIAエージェントの記憶と人格が定着し、遺族である家族たちと懇意になるという“ハッピーエンド”は、いささか安直で都合が良すぎると感じてしまった。 更には、非人道的に彼を利用するだけして使い捨てるつもりだったに違いないゲーリー・オールドマン扮するCIA支局長(無能)も「スカウトしよう」とか言い出す始末……。  せっかく「アルジャーノンに花束を」のような感慨深いドラマ性を孕んでいるのだから、最後の最後まで、あの物語性を踏襲してくれたなら、相当に感慨深い余韻を残す傑作に仕上がっていたに違いない。 束の間の“人間らしさ”が夢だったかのように霧散し、再び監獄に戻っていくケビン・コスナーの後姿を妄想しただけで、涙が出てくるのに。
[インターネット(字幕)] 7点(2019-05-12 00:05:29)
297.  シャザム!
「何かラスボス的なこと言ってる?」 子どもをスーパーヒーローにしちゃあいかん。楽しすぎる。
[映画館(字幕)] 7点(2019-05-12 00:03:55)
298.  トレイン・ミッション 《ネタバレ》 
この監督×主演俳優コンビの映画を観るのもこれで3作目。実際は通算4回目のタッグであり、余程この両名は気が合うのだろうと思う。 そして、毎度のことながら、このタッグによる映画、掴みは良い。 過去、「アンノウン」「フライト・ゲーム」と観てきたが、導入部分、特に冒頭シーンのシークエンスは両作とも白眉だった。主演リーアム・ニーソンの持ち前の物憂げな表情と、不穏を煽るビジュアルセンスが相まって、一気に引き込まれる。 今作では、老サラリーマンの日々の出勤前のシーンが幾年分も折り重なるように映し出され、このオープニングの数分間の描写で、主人公の男が積み重ねてきた「日常」の価値と、それと表裏一体の鬱積めいたものが伝わってくる。  ああ、何か良質なサスペンスが観られるかもしれない。と、期待は最高潮となる。 が、そんな期待感は、ストーリー展開と共に、アクション性が暴走し、事の真相が詳らかになると共に、徐々に確実に「脱線」していく……。  さすがに4度も共に仕事をするだけあって、この監督と主演俳優の相性自体は決して悪くはない。 ジャウマ・コレット=セラ監督のビジュアルセンスは長けているし、どんなにアクション俳優化したとしてもリーアム・ニーソンが名優であることは揺るがない。両者が表現者として持つ繊細な波長はよく合っていると思える。  となると、致命的なのはやはり脚本のまずさだろう。過去作も含めて、ストーリー展開がチープでお粗末だ。 同じようなジャンル映画であっても、もう少しだけ気の利いた脚本が備わっていれば、正真正銘に「面白い」映画になり得ると思う。現状でも充分に「観れる」娯楽映画ではあるだけに、勿体無い。  阿呆な陰謀チームの肩を持つわけじゃないけれど、最終的にそこまで無茶苦茶するんなら、ごちゃごちゃと面倒でリスキーなことをせずに、最初から“脱線プラン”でいけよという話だ。 まあその場合、主演俳優はリーアム・ニーソンではなく、スティーヴン・セガールになってしまうがね。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2019-05-09 22:13:29)(良:1票)
299.  ジオストーム
予告編からひしひしと伝わってくる愛すべき“B級感”から、「劇場鑑賞すべき」という嗅覚は利いていたのだけれど、結局見逃してしまったことを只々後悔。  90年代からの災害パニックムービー(ディザスター映画)ファンとして断言できるが、これは良い災害パニックムービーだ。 作り手は、この手のジャンル映画の何たるかをよく分かっている。と、思えば、監督はディーン・デヴリンか。 90年代にローランド・エメリッヒ監督とのコンビで、「インデペンデンス・デイ」「GODZILLA」を生み出したこの映画人であれば、今作の良い意味で馬鹿馬鹿しくて大仰な災害パニックの構築は激しく納得できる。  また、エド・ハリス、アンディ・ガルシアら90年代に活躍したスター俳優のキャスティングもツボを心得ている。 そして主演のジェラルド・バトラーが異常気象並みの熱波を発しつつ、剛健な主人公像を体現している。  ムンバイでの大寒波に始まり、地震、火山噴火、巨大竜巻、巨大雹害、雷災害、巨大津波、と世界中のあらゆる都市で、通常は気候的に起こりえない大災害のオンパレード。それはまさに、“天変地異”のオールスター映画である。 その一つ一つの災害シーンを決して手を緩めることなく、とことん大袈裟に、とことん絶望的に映し出してくれる。 その様を見ているだけで災害映画として満足するしかなく、更にはそこにアメリカ政府の陰謀論と、宇宙空間からの絶体絶命のサバイバル劇まで、ストーリーの具材を盛りに盛ってくる。  いやあ、これは頭を空っぽにして、映画館の大スクリーンで鑑賞すべきだったとつくづく思う。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2019-05-08 23:36:05)
300.  ランペイジ 巨獣大乱闘
「rampage」の意味は「大暴れ」。なんと端的で潔いタイトルだろうか。  ひねりも変化も無いドストレートなタイトルそのままに、巨大化した動物たちが、“主演俳優”と共に、大暴れする。 まさに“B級モンスター映画”の最前線。この系譜の最新作において、ドウェイン・ジョンソンの主人公へのキャスティングとそのハマりぶりは、豪華で、あまりに相応しい。 超高層ビル郡を所狭しと暴れまわる猛獣たちの間に割って入り、果敢に立ち向かう動物博士(&元特殊部隊員)なんて役どころを大真面目(?)に演じられるのは、今やロック様をおいて他にないだろう。  昔からビデオスルー(DVDスルー)される“Z級映画”のパッケージには、絶対に本編には映し出されることはない仰々しいイラストビジュアルがプリントされているものだが、今作はそれを地でいく馬鹿な大仰さが、モンスター映画ファンとしては嬉しい。  ただどうせならもっと馬鹿馬鹿しさ全開で、多数の巨大化猛獣たちの大乱闘を見たかったとは思う。 「巨獣大乱闘」という日本語サブタイトルに対して、登場する巨獣が計3頭なのは少々物足りない。  結局、味方の白ゴリラは巨獣のまま強引なハッピーエンドを迎えているので、是非ロック様とのバディを継続した続編を、ライオン、カバ、サイ、ヘビ、ワシ……の動物園猛獣オールスターでお送りして欲しい。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2019-05-08 23:35:27)
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