361. ナチョ・リブレ/覆面の神様
《ネタバレ》 監督・脚本はナポレオンダイナマイト(邦題バス男)のジャレッドヘス、もう一人の脚本はスクールオブロックのマイクホワイト、そして主演はジャックブラックである。この三人が組んだら、どんなに面白い映画が生まれるかと期待してみたところ、正直いってまったく面白くない映画ができてしまった。 それぞれの個性のよさがぶつかりあって、彼らのよさが中和されてしまっている。危険な「毒」を三種類混ぜたら、無味無臭で無害の液体になったようなものだ。 構造は、「ナポレオンダイナマイト」と変わらない。二人のさえない男と一人の女性が中心となり、細切れのエピソードを繋いでいき、ラストは主人公があっと驚くようなことを成し遂げるという展開は同じだ。にもかかわらず、これほど面白さに違いを生じてしまった理由は何かというと、本作で核となる三人がまったくそれぞれの良さを引き立てていないからだ(子ども達、修道士、レスラーも含め)。ヒロインは可愛いがただの飾りにすぎず、ヤセは「パートナー」というよりもただの人形的な役割しか果たしていない。ヒロインはナチョを奮起させたり、見守っている存在ではなく、ヤセは友情を感じさせる存在でもない。それならば、ナチョの人物像をしっかり描いているかというとそうでもない。子ども達のために戦っているのか、それとも自分が強くなりたいから戦うのか、はっきりとした意志や哲学があるわけではない。ただ、「なんとなく」のエピソードが羅列されるばかりである(ナポレオンも構造は同じだが有機的な結合はみせていた)。それが笑えればなんとかコメディとしては合格となったが、まったく笑えないのでタチが悪すぎる。ワシの卵でどうやって笑えといういうのか。 ラストのバトルとしても全く工夫がなさ過ぎる。普通に戦っていったいどうするんだと言いたい。奇想天外な方法で相手を撹乱させたり、修道士なのだからラッキー的な方法(神の思し召し)で不利な展開が一転して有利になるようもっていくべきだろう。例えば、バトル中にスイカを登場させていたと思うが、(デブの女を絡めて)ヤセがスイカの種を投げたらラムセスの眼に突き当たったり(そうすればバイク強盗のエピソードも少しは活きる)といったネタが必要だろう。これではスイカを出した意味もまったくない。二人の小男との試合に切れがあったことと、ラムセスとの戦いの前の歌を評価して、この点数としたい。 [映画館(字幕)] 2点(2006-11-17 00:14:47)(良:1票) |
362. 新学期 操行ゼロ
《ネタバレ》 平均点を下げてしまってまことに申し訳がない。 本作が多数の映画監督に影響を与えた映画史に刻まれるべき作品というのは分かるけれども、一本の映画として評価した場合、自分としては点数を低くつけざるを得ない。 ただ、面白かったのは、この作品はすべて子ども目線で描かれているのではないかと感じたこと。実際は、校長先生はあのようなロートレック風の小男ではないのではないか。子どもの目線から見れば、あまり子どもと直接関わらなく、お偉いさんにはえらい腰の低い校長先生はただの小さなおっさんに見えたのかもしれない。逆に、あれこれと規則にうるさい教頭先生は、看守のような冷酷な姿に映ったのだろう。ラストにおいてもその方向性は顕著に描かれている。屋上から様々なものを投げつけて、彼らの革命は成功する。彼らにとって、物をぶつける対象は、実際は生身の人間であっても、ただの的(まと)に過ぎないと感じたのだろう。本作では、その気持ちをそのまま人形を使って描いているのには、驚きとともに斬新さが窺える。 これらを踏まえると、本作で描かれていることは全て現実と空想が入り混じった世界なのではないかとも感じた。子ども達は、電車の中やトイレの中でタバコを吸っているが、あれもただの願望や空想、「やってられないよ」という気分を表したのではないかとも思う。 髪の長いタバールも校長先生に対して、「クソ野郎」と罵りたかった気持ちが強く感じたが、実際にあのように叫ぶことができたのかどうかはよく分からない。 スローモーションで描かれる枕の羽が舞い散る革命の序章も、彼らにとっては、あの場面ではあのような美しい姿に記憶されたのだろう(実際はあのような立派なものではなかったのではないか)。子どもの目線からは、圧制に苦しみ、自由を求めて蜂起する民衆の革命の姿に重ねあわすことができたのだろう。 また、自分の母親が豆オバサンと馬鹿にされることに対して落ち込む少年を観て、「オマエラもうやめろよ」と周りに注意する姿が描かれたり、悪戯をして三人が立たされているときに、腹痛を発症させて我慢できなくなっているときに、「オマエ行ってこいよ」と背中を押してやる姿も描かれており、仲間としての絆もしっかりと感じられるようになっている。 [ビデオ(字幕)] 4点(2006-11-14 23:38:02) |
363. ナポレオン・ダイナマイト
《ネタバレ》 観た後は誰でもハッピーになれる映画ではないだろうか。こういう映画はセンスが違うとまったく理解ができないからあまり期待はしなかったけど、見事にハマれて良かった。 低予算であっても、キャラクターやセリフ、構成、アイディアで勝負した、かなり切れ味がある新しいタイプの映画と感じた。序盤はエピソードのぶつ切りではっきりしたストーリーはないけど、各エピソードはそれなりに他のエピソードにも繋がるし、映画としても意外とちゃんとした構成となっている。 なんと言っても、ナポレオンとペドロの「友情」がよい味を醸し出しているのが本作の魅力のひとつだ。彼らの友情は普通の映画で描かれる「熱い」友情ではなく、表面的には「こいつら本当に友達か?」っていう感じの繋がりしか感じられないのが逆によい。しかし、二人は心の底から信頼しきっている感じが随所に現れている。ペドロが休んだときに電話を掛けるのもナポレオン流に心配している証であり、ナポレオンのダンスパートナーが消えたときにデビーと踊れと言ってくれるペドロはナポレオンを気遣っていることが窺われる(おそらくナポレオンが潜在的にデビーが好きだと気付いているのだろう)。 自分には取り柄がないと嘆くナポレオンに対して「画が上手い」と誉めるペドロの姿もさりげない会話だが彼らの関係をよく表している。 また、「最後は「夢は叶う」で締めろ」とナポレオンに言われればペドロはそのように従うし、ペドロのピンチの時には恥もかなぐり捨てて、捨て身のダンスを披露する。 逆に、デビーに嫌われたとペドロに相談したときには、「贈り物をしろ」という短いペドロのアドバイスに従い、デビーに唯一の所持品の魚をプレゼントする(DVDの未公開編に釣りのシーンがあったがその流れか)。おかげでナポレオンとデビーは再び仲直りできたようだ。このように、感情的ではないけれども、二人の友情は堅く結ばれているのが分かる仕組みとなっているのは面白い。 デビーとナポレオンの最後の遊戯シーンも素晴らしかった。もし、この二人のキスシーンで終わるとすればやや興ざめするだろう。ナポレオンの第一歩としては、二人だけで戯れるくらいがちょうどよい。最後には、ナポレオン一人でボールを叩き始めるのも、なんとなくナポレオンらしさや照れみたいなものも感じられる。 ところで、ナポレオンってオタクというより邪気眼系だよね。 [DVD(字幕)] 7点(2006-11-13 23:48:10)(良:2票) |
364. クリムト
観る人を選ぶ映画とはまさに本作のような映画なのかもしれない。当然、自分は選ばれなかったようだ。本作を初見で完全に理解できる人は恐らく100人中10人くらいではないだろうか。いや、完璧に理解できるのは監督くらいかもしれない。 過去に創られた画家の映画とは異なり、画家の人生や苦悩を描くようなものでもなければ、「真珠の耳飾りの少女」のような一枚の画に込められた想いや秘話的なものを想像して描くというような単純に割り切れる作品ではないので、鑑賞時には注意が必要だ。 監督が本作でクリムトの何を描きたかったかというと、正直あまりよく分からない。クリムトの死の間際に、クリムトの過去の記憶が走馬灯のように駆け巡ったような作品になっている。しかも、その記憶は現実の記憶ばかりではなく、虚構の記憶とが入り混じり、幻の理想のモデル「レア」を探す幻想的な旅をさまようという内容になっている。 <以下ややネタバレ>理想のモデル「レア」は実在するのか、それとも存在しないのか。そもそも自分(クリムト)とは何だったのか、自分も存在するのかどうかという、アイデンティティさえも疑わしくなっていく姿までも描かれている。アプローチ自体はとても面白いとは思うが、果たしてクリムトを描く際に、このような描き方が適していたかどうかは判断がつかない。シュールレアリズムの画家であれば、このような手法でも良かったかもしれないが、クリムトの画からは自分は本作のようなインスピレーションは受けなかった。それほどクリムトの画に精通しているわけではないが、個人的には弟子のエゴンシーレやモデルとなった女性との関係をじっくりと観たかったというのが正直なところ。 本作でもクリムトとシーレが交互に線を描いてデッサンを完成させる様子を描き、クリムトの最期を看取るのはシーレという描き方はしており、彼には重要な役割を担わせているが、天才シーレとクリムトの師弟関係、弟子が師匠を超えていく様や弟子への嫉妬などを描いて欲しかった。個人的に上手く理解はできなかったけれども、クリムトの展覧会でもあったら、またその機会にでももう一度見直してはみたい作品だ。 [映画館(字幕)] 1点(2006-11-12 21:22:42) |
365. ポロック 2人だけのアトリエ
《ネタバレ》 今や1枚164億円という世界最高額で取引されるほどになったジャクソンポロックの作品を一度だけ実物を観たことがあったが、あまりの迫力と情熱に度肝を抜かれた記憶がある。自分が画から印象を受けたのと同様に、本作ではポロックの情熱的で壮絶な人生を描き切られている。 自分の作品に「青が強い」といったケチを付けられ、酔った勢いで自分の作品を変えようとするものの、その動きをフリーズする姿がとても印象的だ。それだけ自分の作品に魂を込め、完璧さを求め、自分の作品に自信をもっていたのだろう。 また、彼の弱さも実に印象的だ。画が売れずに母や兄の嫁に馬鹿にされるのを我慢できず食卓をメチャクチャにしてしまう姿や、大成功を収めたものの映画監督にいいように弄ばれ、自分の思い通りにならない憤りから、自分は「エセ」ではないと食卓をひっくりしてしまう姿には自己顕示欲の強さも窺える。雑誌などの記事に一喜一憂する姿もその表れだろう。自分の欲を満たせず、結局は酒に逃げ込んでしまうのも、彼の弱さでしかなかった。 そんな弱いポロックを支え続けたリー・クラズナーの人生もとても印象的だった。彼女が支えなければ、ポロックは恐らくニューヨークで酒に溺れて行き倒れていただろう。大成功を収めた後、ポロックとリーの二人の見つめ合う姿には、なんとも表現しようのない「重み」が感じられ、二人で手にした「成功」を噛み締めて、お互いを称え合っているように感じられる。 リーには、妻という生き方、母という生き方、画家という生き方という三択の生き方を選ぶことができたはずだけれども、画家ポロックを背後から支え続ける妻という生き方を選んだ。それだけ、ポロックの才能を信じきっていたのだろう。しかし、共倒れを避けるために、自分という生き方を殺して、ポロックの影になるという生き方を選ばざるを得なかったのも悲劇的だった。恐らくポロック以上に子どもを欲しかったのはリーだったのかもしれない。 ポロックの死後は、ポロックから開放されて、画家という生き方を選び、再びリー・クラズナーという人生を正面から歩み始めることができたのではないか。 ポロックの事故死には、飲酒の事故というだけでなく、酒に溺れて画を描くことができなくなってしまったことに対して自己を破滅させたい衝動に駆られたようにも感じられた。 [DVD(字幕)] 7点(2006-11-05 00:28:46) |
366. 女王陛下の007
《ネタバレ》 前5作と比較すると本作が映画としてのレベルが一番高かったように感じた。 リアリティを無視し、荒唐無稽さが目立ち始め、やや道を外しかけたこのシリーズを俳優交代を機に原点回帰させようとした関係者の熱意が伝わってくる。映画としては素晴らしい作品に仕上がったが、当時の観客には受けなかったのが残念で仕方がない。リアリティをとことん重視した本作(カジノロワイヤルへの対抗か)の興行的な失敗により、本シリーズの方向性は、最新テクノロジーをふんだんに盛り込んだ非現実的な路線へと進むことになったといえよう。 とにかく、本作のリアリティ度は目を見張る。ボンドが一発軽くぶん殴ったら、普通ならば、その名前のない者は即座に退場させられるのがシリーズの流れである。しかし、本作では5、6発ぶん殴っても倒れない。しばらく倒れたとしても、すぐに起き上がって、またボンドに向かってくる(ボンドは顔に傷を負う)。敵から銃弾を浴びせられれば、頬をかすめるほどのギリギリを通過する。スキー板は外れ、敵からは血も噴出す(血は意外と珍しくないか)。油を触れば、当然油まみれにもなり、役に立つのは特殊機械ではなく、ポケットの生地というこだわりだ。金庫を開けるために特殊機械を使用したとしても、数秒で開くことはなく、長時間を要する(これにより緊張感も生じる)。敵から全力で逃亡すれば、疲労までもする(スケートリンクで呆然としている)。仲間は役に立たず、拷問にあえばあっけなく白状するのもリアリティのこだわりだろう。 エンディングもシリーズを無視した挑戦ともいえるが、このエンディングはアメリカンニューシネマの影響を受けているのかもしれないとも感じた。 このエンディングを踏まえると、若さゆえの熱さ、青臭さ、脆さを感じられるレーゼンビーでよかったのではないか。コネリーやムーアでは本作の良さは半減しただろう。 ただ、もろ手を挙げて賞賛するわけにもいかない。①レーゼンビーのボンドは、ボンドとして何かが足りない。ボンドとしての魅力を出し切れていない(ただの若いスパイ)。②女王陛下の諜報部員としての自分と、一人の感情のある人間としての自分との葛藤がそれほど感じられない。③ラストの涙には愛する者を失った哀しみは十分感じられるが、「諜報部員っていったい何だ」という嘆き・重みに欠ける。逆にボンドからハットを受け取るマニーペニーの涙には重みがあった。 [DVD(字幕)] 7点(2006-11-03 01:10:14)(良:3票) |
367. 007は二度死ぬ
《ネタバレ》 現代の日本人が観れば、逆に結構楽しめるのではないかと思われる謎に満ちた「怪作」。メチャクチャなストーリーだが、ナンセンスさ故に意外とハマれる人はハマれそう。でもどうしようもない謎も残る。 【ボンドの結婚】島に怪しまれずに入るために、日本人に成り済まして島の海女さんと結婚しなくてはいけないという理由からだ。変装後の彼はどう考えても日本人に見えないというツッコミはさておき、最大の謎は変装したにも関わらず忍者養成所の姫路城にて次から次へと刺客に襲われるところだろう。一人目の刺客(糸から毒を這わせる)からはただのラッキーで難を逃れる(浜を登場させるためアキを退場させる)。果たして二人目(竹ざおに鏃)は必要だったのか。あれでは変装も忍者学校も敵にはバレバレということだけど、島への上陸時には、敵側は見事にスルー。外人だから特に目立つのかもしれないが、タイガーや忍者部隊は難なく上陸しているわけで、いったい何をしたかったのか分からない。恐らく、外人から見れば奇異に映る日本の結婚式(お見合い)や文金高島田のようなものを紹介したかったのだろう。ストーリーと関係なく相撲を紹介するのと同じ流れ。あとは腹切りでも描けば完璧か。 【ボンドの死】怪しまれず楽に行動できるからという理由らしいが、この時点でもうスパイとしては相当ヤバイ気がする。途中まで正体こそバレないが、銃を持っているという理由だけで東京で殺されそうになる。神戸の埠頭で大虐殺(俯瞰撮影は意外と好き)を繰り広げている時点で只者ではないと分かるだろう(スパイはボンド一人ではない)。飛行機事故に見せかけるためか、手の込んだ殺され方をされそうになるメリットはあったが、日本通をアピールしたヘンダーソンがあっさりと殺されることからも、やはり効果が分からん。 【プロフェルドの行動】ボンドを見抜けなかったブラントをピラニアの餌にして、混乱を招いた大里も銃殺する。しかし、肝心の自分はボンドを殺すタイミングを誤り、タイガーの手裏剣によってしくじる。しくじるのはストーリー上やむを得ないが、なぜあんな敵味方入り混じった場所でボンドを殺そうとするのか理解に苦しむ。プロフェルドはミスに対して厳格な姿勢を貫く男として常に描かれており、この描き方ではいままでの彼の存在自体を否定するものだ。ボンドを盾にするとか、脱出用の人質にするといった演出が必要だろう。 [DVD(字幕)] 6点(2006-11-03 00:48:53) |
368. 007/カジノ・ロワイヤル(1967)
《ネタバレ》 なんといっても音楽のセンスが素晴らしすぎる作品。鑑賞前は、ストーリーなどないメチャクチャな支離滅裂なパロディかと思ったら、期待を裏切り、意外と想像以上にはしっかり創られているという印象を持った。作風は違うが、大物俳優が多数出演している「マーズアタック」のようなものか。 個人的に一番よかったのは、オーソンウェルズにしつこく意味不明な手品をやらせるセンス。 ちょっと気になったのは、アレンの目的が全世界を美女と140センチメートル(DVDの字幕による)の男(4フィート6インチと言っていた気がする)にするというものであった。140センチでは、アレンはともかく、ラルクのハイドさんでも生き残るのは難しいのではないか。 ボンドが7人というフレコミだったけど、そんなにいたかなと思い、ちょっと数えてみた。 ①引退した本家ボンド(女嫌いでショーンコネリーボンドをボロクソに貶す。M(マクタリー)家での力自慢対決やミミ(デボラカー)とのやり取り、牛乳屋との追いかけっこが見所。) ②クーパー(補助員。女が求め、女を求めない男としてマニーペニーのキスにのテストに合格。空手と柔道の達人で、女性に対して容赦しない。非常に目立たない人。) ③ヴェスパーリンド(事業家。500万ポンドの税金を分割払いにすることで本家ボンドに協力。イヴリンをスカウトする役だが、脈絡もなく裏切る。) ④イヴリン(ピーターセラーズ)(バカラの名手のためヴェスパーにリクルートされる。ヴェスパーとのベッドでの変装シーンやルシッフル(ウェルズ)とのバカラ戦いが見所。ヴェスパーに殺される。意味もなく税関員を殴る。) ⑤マタボンド(ボンドとマタハリの娘でダンサー、寺院で父ボンドにリクルートされる。東ドイツでの国際家政婦協会(内部のセンスよすぎる。こんな内部は観たことない)潜入が見所。途中でなぜか髪型が異なる。) ⑥ダリア(クーパーにスカウトされる。アレンに裸で拘束されるも、アレンに爆弾を飲ませる) ⑦ジミーボンド(アレン)(ボンドの甥で劣等感の塊。正体はドクターノアなのに、なぜかボンド。UFOを所有している。叔父のボンドとのやり取りやダリアに爆弾を盛られる際のやり取りが見所。小男が美女を手に入れられる世界を夢見るも失敗。一人で地獄行き) の以上7名かな。 [DVD(字幕)] 4点(2006-11-03 00:42:29) |
369. 父親たちの星条旗
《ネタバレ》 この映画に「答え」はないのかもしれないが、「真実を知ること」の重要性を問いかけている作品だと思う。 ドクはイギーの死の真実をイギーの母親に伝え、アイラはハーロンの父親に星条旗の写真に映っているのがハーロンであるという事実を告げる。 そして、ドクの息子ジェームズは硫黄島で起こったことの真実、父がアメリカで行ったことの真実を知るのである。 この真実をどのように受けとめるかは、この映画を観た我々にイーストウッドから託されたことだ。 「反戦」でも「アメリカの欺瞞」でも良い。この真実から何かを受けとって欲しいというメッセージはしっかりと感じられた。 演出や脚本においても以下のような見事な工夫がされている。 【三つの舞台】①硫黄島の戦い、②英雄に祭り上げられ、戦争国債の宣伝に駆り出される日々と真実に目をつむり、偽りの勝利に歓喜する国民の姿、③現代(父ジョンの生き様を探る息子)という三つの舞台が目まぐるしく描かれていく。 しかも、それぞれの時間軸がずれているから、初見ではなかなか分かりづらいかもしれないが、それぞれ舞台から小出しにされた情報が見事に底辺を形作り、それが山となって、頂上(真実)を炙り出しているのが見事である。 【三人の英雄】二本目の星条旗を掲げた六人のうちドク、ギャグノン、アイラの三人の帰国時の対応は見事に異なる。 ギャクノンは英雄の名声を利用し、将来に対するコネクションと地位を恋人とともに築こうとする。 アイラは英雄と扱われることに激しい拒否反応を示す(上官に飲んだくれと罵られ、戦場に戻されるのはまさに欺瞞であり、戻される前に母親に会いたいと頼んでも、「英雄」であるはずの彼の頼みは受け入られない)。 一方、ドクは「英雄」と扱われることに対して、態度を明らかにせず、口を閉ざしたままだ。彼の寡黙さは見事にイーストウッドの問いかけになっている。 彼はギャグノンとは対照的に、恋人を近くに置くことはしない。戦争国債を宣伝することは必要悪と捉え、任務はきちんとこなすが、自分を決して「英雄」とは思っておらず、利用することも当然考えていない。その苦痛は彼を戦争後も寡黙にさせている。 三人の母親(マイク、ハンク、フランクリン)に会ったときの三者の異なる態様も実に見事な問いかけだ。 [映画館(字幕)] 7点(2006-10-31 00:32:55) |
370. 炎の人ゴッホ
《ネタバレ》 伝道師時代から自殺までのゴッホの生涯をコンパクトに過不足なく、ある程度の深みも持たせながら、2時間に収めた監督の手腕は見事である。ゴッホが乗り移ったかのようなカークダグラスの演技も見事としかいいようがない。 個人的にはゴッホはあまり好きではない画家であった。特に日本では過剰に人気のある画家であり、ちょっと過大評価されすぎなようにも感じていた。しかし、本作での彼を観ると、やや見方を変えなくはいけないのかもしれない。 絵画だけではなく、伝道や恋愛までも周囲の人々が引くほどにのめりこみ、周りを気にせず、何事にもとりつかれたように、自らの魂を削って入れ込むゴッホの気質が見事に捉えられていた。孤独や自己不信に怯えながらも、人々を感動させたいという熱い想いだけが煮えたぎっている。臭いや、温度までをも感じさせたいという願いから、あれほどの凹凸から出るほど厚く絵の具を塗りこめた筆触となっていったのだろうか。 父にも見放され、従兄弟への愛も実らず、同じような孤独の闇を抱えていたシーンとも結局貧しさという壁にぶち当たり上手くいかず、同じ画家で、同じように売れずに、同じように孤独と絶望とかすかな希望という共通点を抱えたゴーギャンとの共同生活も、性格上や芸術上の不一致から破綻する。想像で絵画を描けるゴーギャンと、実際に目で見て、自分が感じたものでないと画を描くことができないゴッホの違いもきちんと描かれていた(ゴーギャンは自分の死の間際に「ひまわり」を描いたそうで、それなりにゴッホに対して敬愛の念を抱いていたのだろう)。 また、ゴッホを語る上で外すことのできない弟テオの無償の愛も美しい(テオはゴッホの死後、精神的に参って半年あまりで亡くなっている)。他者に迎合できず、自分のやり方・生き方を貫くという生き方しかない。そんな不器用で一途で孤独の男を支えられるのは、自分しかいないとテオも感じていたのだろう。テオ自身の苦悩も随所に感じられた。「こんな妻がいるのに、痩せすぎではないか」というゴッホの無神経な一言も重すぎる。 個人的には、ゴッホの人生のターニングポイントである肝心の耳きり事件にもうワンパンチ欲しかったように感じた。「絶望だ。出口が見えない。」という自殺の引き金となるような言葉や、絶望や孤独に押しつぶされていく様などを欲しかった(映画で描かれた流れは恐らく事実に即しているのだが)。 [DVD(字幕)] 6点(2006-10-30 00:58:45)(良:2票) |
371. 007/サンダーボール作戦
《ネタバレ》 制作費だけはどんどんと膨れ上がり、派手な仕掛けがさらに目立つようになってきたが、肝心のストーリーがイマイチになり始めた作品。 しかし、終盤の水中戦のアイディアは素晴らしいと思う。この難しい撮影をスリリングに描こうとした努力は認めたい。しかし、やや冗長な場面が散見される上に、水中で殴りあうのには無理があるし、ナイフで切りあうのは地味すぎる。もっとコンパクトにまとめれば、本作の評価はさらに高まっただろう。 本作の問題は、ラルゴを始め悪役や作戦に魅力を欠いている点にあるのではないか。ヴァーガスは特に存在感が薄い。オッドジョブやグラントとは全く存在感が異なる存在だ。この二者と相対するのは、本作ではヴァーガスではなく、フィオナではないかとも考えられる。彼女は、ドミノの兄のダーバル少佐を誘惑し殺害に関与し、任務失敗の危機を導いたリッペ伯爵をバイクでのロケット砲で殺害し、ボンドの仲間のポーラを誘拐し自殺に追い込んだ張本人である。「ゴールドフィンガー」のプッシーとは異なり、ボンドと寝ても、決して寝返ることなく、逆にボンドを嵌めるという悪女という設定である。しかし、彼女の悪行は本作では、なぜかあまり目立たない。味方に撃たれるという退場のさせ方もやや地味であり、もったいなかったが、問題はキャスティングではないか。ルチアナ・パルッツィは、悪女というタイプではなく、どちらかといえば、ドミノを演じた方がよかったようなキュートなタイプである。もっと悪女タイプをキャスティングすれば、本作のイメージもガラッと変わっただろう。似た女性が多すぎるという批判も回避できた。 ちょっと気になったのは、ドミノの取り扱いだ。ボンドがドミノに対して近づいた理由と兄の死を告げる大事な場面がある。ラルゴを裏切るように仕向け、核兵器の在り処を探るように命じるものであるが、即座にラルゴにとっ捕まり、結局最後まで登場しない。前作の「ゴールドフィンガー」にも姉を組織に殺され復讐に燃える妹が組織に瞬殺されるという展開があり、非現実世界の中での現実性があると誉めたのだが、今回はストーリーの肝である部分のために、もう少し活躍の場を与えてやった方がよかったのではないか。ラストでラルゴにとどめを刺すという役割をドミノが担うものの、無理やり感が拭えない。核兵器を1機積んだまま、船は爆発してしまっているのもいかがなものか。 [DVD(字幕)] 4点(2006-10-24 00:25:17) |
372. サンキュー・スモーキング
本作は「インサイダー」のようなタバコ業界の内幕を暴露するような映画でもなければ、マイケルムーア作品のようにタバコ業界を糾弾するような映画でもなく、「スーパーサイズミー」のようなタバコの害を体験しながら明らかにしていくドキュメンタリーでもない。 本作はタバコ業界を舞台にした人間ドラマである。しかも、タバコ業界に関与している者同士の利権や思惑が交錯する複雑なものではなく、根っこは「親子」の在り方を描いた作品である。なぜ、タバコ業界を描きながら、親子の話がでてくるのかと感じた人もいたのではないだろうか。<以下ネタバレ>タバコに害があるというのは、大人であれば誰でも分かることだ。害があると知りつつ、タバコを吸うのには誰に責任があるのだろうか。 本作では「本当にタバコ会社に責任があるのだろうか?」という問い掛けをしている。話を変えれば、「肥満の責任はマクドナルドにあるのか?」「クルマの事故は自動車会社にあるのか?」「殺人の責任は銃器メーカーや刃物製造会社に責任があるのか?」「飲酒運転はビール会社や自動車会社に責任があるのか?」という問題と同視できるのではないか。責任の一旦はあるのかもしれないが、(タバコには中毒性という問題があるかもしれない)これらに起因する責任は「自己責任」ではないかという問題提起をしているのが新しい。各人が自分の行動に責任をもてるようにするためには何が必要なのか?という答えに対して、本作では「教育」という問題を取り上げている。学校での教育ではなく、家庭での教育である。本作では、父と子どもが向き合って話し合い、ありのままの父親の姿を見せ、子どもに考えさせ、子どもを成長させ、時には、子どもに励ましてもらい、子どもに対して恥ずかしくない生き方を示していく。お互いがお互いを成長させるという理想的な姿をユーモラスに描き出している。訴訟大国アメリカにおいて、タバコにドクロマークをつけるかどうかというように問題をすり替えることで決着させるのではなく、本質的で当たり前の部分を突いているという点に対して、とても新鮮で驚かされることとなった。 本作の上映前に同監督の短編「In God We Trust」という作品も特別に併映された回を鑑賞することができた。結構、他の観客には大いに受けていたが、それほど笑いのレベルは高くはないと感じた。本作がDVD化された暁には、この短編も付録につくのかな。 [映画館(字幕)] 7点(2006-10-24 00:03:24)(良:1票) |
373. 007/ゴールドフィンガー
《ネタバレ》 演技・演出・特撮、現代の映画に比較するとすべて稚拙に感じるが、60年代という時代を考えれば、仕方ないかもしれない。やや稚拙さは残るが、初期のボンド作品の中では一番よかったかもしれない。脚本はかなり練られており、約2時間ダレルこともなく、高いテンションを維持し続けているのは評価できる。 今回のボンドは他のレビュワーが指摘されているとおり、何も役に立っていないように感じる。だが、そこが逆によいのではないか。ボンドといっても不死身の人間でもなく、生身のただの諜報部員である姿が描かれている。「グランドスラム計画を知っているぞ」「俺を殺しても008が派遣されるぞ」といった苦し紛れの脅しをかけ、起死回生の発信機付きのメモも結局役に立たない。おまけに、捜査が上手くいっているかのように、逆にゴールドフィンガーに利用される始末である。 ボンドが超人的な大活躍をして孤軍奮闘して組織と対決し破滅に追い込むという非現実的なストーリーではなく、寝返ったプッシーの通報により、軍が制圧し、核爆弾もボンドではなく別の者が止めるという「人間ボンド」が描かれている点が面白いのではないか。 ボンドが役に立ったことは、プッシーを寝返らせることである。レズビアンであるプッシーを寝返らせることができる者といえば、ボンドにしかできないことだ。スーパーマンではないボンドが、ボンドの唯一の魅力を使って、自己の役割を担い、他者が事件を鎮圧するという流れは、非現実的な世界において、とても現実的なストーリーである。 また、姉を殺され復讐に燃える善良な女性を登場させてすぐに退場させるというのも、シリーズでは珍しいが、現実的な話と思われる。 そして、作成上の工夫もされていると思う。冒頭のメキシコでの感電は、ラストのオッドジョブ戦に繋げられており、飛行機内でのプッシーとの会話は、ラストでゴールドフィンガーのオチに利用されている。 やや残念だったのが、前二作に比べて国際色が薄まったところだ。メキシコ→マイアミ→イギリス→ゴルフ場→スイス→ケンタッキーという行程を進んだが、メインの舞台がアメリカのため視覚的な印象は薄かった。スイスでの見せ場をもう少し工夫すべきだったかもしれない。人種としては、ゲルトフレーべはドイツ人、ハロルド坂田は日系、アジア系の職員、中国の核研究家という相変わらずの布陣を敷いており、努力はしていると感じられる。 [DVD(字幕)] 7点(2006-10-22 22:08:32) |
374. モンパルナスの灯
《ネタバレ》 点数は低くつけたが、破滅的な生き方しかできなかった画家モディリアーニが深く描かれており、よい映画だと感じた。アンディガルシアの「モディリアーニ~真実の愛~」とは異なり、これこそまさにモディリアーニの姿なのではないかと感じた。 彼から「絵画は苦悩から生まれる」という一言を聞けただけで、この映画を観る価値があった。アメリカの金持ちに自分の作品を買われそうになったときに、彼が逃げてしまったのもなんとなく分かる気がした。一人の金持ちにそこそこの値段で買われるのならば、生活に余裕がでるだけであり、さほど自分の生活が劇的に変化することはないだろう。しかし、商標として、全世界ありとあらゆるところで自分の作品が人々の目に触れるようになると、否応なく注目されてしまい、自分が自分でなくなってしまうのではないか。確かに、成功は望んでいるものの、魂までも売り渡すつもりはないのが彼の生きる道である。孤独、苦悩や絶望の深くから、魂をすり減らして、いままで作品を作り上げてきたのに、成功してしまうと、もう魂のこもった作品が作れなくなってしまうのではないかというおそれを感じたのではないか。 モディリアーニとジャンヌには、娘が一人おり、モディリアーニの死後、二日後にジャンヌは身投げしてモディリアーニの後を追ったのは有名な話である。しかし、本作では、これらのことは一切触れていない。おそらく、モディリアーニとジャンヌの愛の深さをメインに描きたかったのではなく、画家モディリアーニの破滅的な生き様を克明に描くことを映画のメインにしたかったのだろう。ジャンヌの後追いなどを描くと、やや視点がずれることになると思ったのではないか。 また、死後モディリアーニの作品を買い漁った画商は、まさに現代の様子を表しているかのようで皮肉的である。映画の中では、ゴッホ同様に生前はまったく評価されず、似顔絵さえもつき返され、スケッチなどは見てももらえない。しかし、現代では一枚数億円という狂ったような高値で取引されている。画の中身よりも、モディリアーニという名前だけで評価される、このような状況をモディリアーニが見ればどう思うだろうか。成功を望みながら、成功したくなかったのも少し分かる気がした。ただし、生前1枚しか画が売れなかったゴッホとは違い、モディリアーニは病死する直前には結構いい値で、実際には画が売れていたようではあるが。 [DVD(字幕)] 5点(2006-10-20 00:19:40) |
375. 007/ロシアより愛をこめて
《ネタバレ》 ボンドシリーズで最高傑作という評判の本作。確かに、「イギリスVSロシア・ブルガリアVSスペクター」という三つ巴の構図が映画を面白くしており、さらにスペクターの謎に充ちた悪役陣にも魅力を感じる。 また、味方に成り済ましたグラントによる最大の危機をQから受け取ったアイテムを使って脱し、激しい肉弾戦を繰り広げて、潜り抜けるオリエント急行でのやり取りや、「北北西」並みのヘリコプターの襲撃、大爆薬を用いたボートでの逃走劇など、どれも見応えはあるが、「傑作」と感じるほどの深みはなかった気がする。ヒッチコックのような高尚なサスペンス作品にはなれなかったと思う。点数は同じ6点の評価だけれども、第一作の「ドクターノウ」の方が若干良かったような気がした。 しかし、前作同様に国際色豊かな作品に仕上がっている。トルコのイスタンブールを舞台に、モスクで撮影したり、オリエント急行を使ったりとアイディアは素晴らしかった。イスタンブールからザグレブに行き、最後はヴェニスで、擬似の新婚旅行を締めるという流れはよかった。 ちょっと気になったのは、ボートシーンでボンドのボートの燃料にマシンガンを撃ち込まれたら、その時点で燃料は爆発しないのか?その他にも、完成度の点でも多少問題がある気がした。女性同士が決闘した村で襲撃された際にカリムが右手に銃弾を浴びたが、その直後にカリムは負傷したはずの右手を伸ばして、普通に落とした銃を拾っているのには少し違和感を覚えた。彼の病気のため、あまり撮り直しができなかったのだろうか。 また、グラントのマッサージシーンに始まり、村で執拗にダンサーの体を撮り続け、さらには女性同士の激しい肉弾戦、タチアナとボンドのファーストコンタクトでさらっと裸(ボディダブルの模様)を映すといった露骨なまでにエロに走りすぎた感がある。多少のエロは必要かもしれないが、本作に必要なのは、ユーモアやウィットではないだろうか。 映画の内容とは関係ないが、この映画で知ったことわざが「口は禍の門」。ブルガリアのボス級の殺し屋をケリムが殺した際に、ボンドが言う台詞。「口は災いのもと」だったら有名だけど、どうやらこっちが元祖というか、正しいことわざのようだ。 [DVD(字幕)] 6点(2006-10-17 23:05:24) |
376. カポーティ
《ネタバレ》 小説「冷血」は未読。せめて映画「冷血」は観たかったが、常にレンタル中のため、待ちきれず本作を鑑賞することにした。読んでおくにこしたことはないが「冷血」を知らなくても、なんとか本作は十分鑑賞できるのではないか。 本作の主眼は、事件の真相というよりも「人間の内部に潜む冷酷な二面性」だろう。カポーティは、ペリーに近づき、親身になって友人として振る舞うことによって、小説のネタにするための事件の真相を探ろうとしたに過ぎない。徐々に、彼の心の闇を垣間見てしまうとふいに気付いてしまう、彼は自分自身と同じであると。「表出口から出て行ったのが自分で、裏口から出て行ったのがペリーだ」と気付く。一方は、賞賛される人気作家であり、他方は、死刑が待ち受ける犯罪者であるが、その根っこは同じである。人々から、奇異と受け止められ、周囲から疎まれ、誰からも自分のことなど理解してもらえない。ゲイの恋人はいるものの、真の意味で通じ合っているわけではない。カポーティは自分自身しか愛せなかったからだ。そんなカポーティに、真の意味で通じ合えたのが、家族から愛されず、理解もされないペリーだ。彼は、どんな日常生活よりもペリーと過ごす時間の方がくつろげたはずだ。自分自身しか愛せなかったカポーティが自分と同視できる存在と向き合えるのだから。 そんな心の安らぎであるペリーに対して、誰よりも死を待ち望んでいるのは、紛れもなくカポーティである。4年もの歳月を費やした小説を完成させるためには、彼らの死がなければ始まらない。本作のポスターのうたい文句にもなっていたが、まさに「彼の死を恐れるとともに、彼の死を望む」という状態である。カポーティこそ「冷血」であることは間違いない。クリスクーパーの「事件を起こした犯人が冷血なのか、それともそれを描く作家が冷血なのか」という問いかけは見事としか言いようがない。 そして「助けることができなかった」と嘆くカポーティに「助けたくなかったんでしょう」と言い放つネル。ネルでさえもカポーティの二面性に傷つく心を理解できず、彼は一層立ち直れないほどに孤独になっていく。 この矛盾するような感情を抱え、精神が徐々に蝕まれていく様子を、見事にホフマンが演じきっている。彼のアカデミー主演男優賞には全く異論がない。ただ単にカポーティの仕草を似せたのではなく、内面までも深く演じきっているから素晴らしいのである。 [映画館(字幕)] 8点(2006-10-16 22:12:38)(良:1票) |
377. ザ・センチネル/陰謀の星条旗
《ネタバレ》 脚本家の人への不満はこの際無視して、なぜこの程度の脚本でフォックスは製作にGOサインを出せるのかという方が疑問に感じた。アメリカではここまで脚本が不足しているのか、それとも単にキャスティングだけで客を呼べると踏んだフォックスという会社だけの問題なのか。 ジャックバウワー捜査官も出演料以外に一銭の徳にもならない作品になぜ出てしまうのか。せっかく築き上げたキャリアを無駄にしてしまっている。こんな裏も何もない内容ならば、マイケルダグラスとジャックが共闘して、大統領暗殺を企むKGBと最初から最後まで壮絶に死闘を繰り広げる方がまだましだ。 【以下、なんとなく気になったところ】 ①ダグラス「分かった。内通者は○○だ!」観客「内通者は○○か…。で…誰??」という映画で面白くなるはずがない。 「内通者は誰か?」を推理するという観客の知的好奇心をくすぐる気はほぼゼロに近い気がした。内通者は不倫を清算したいベイシンガーとかベタベタでもまだよかったし、不倫に気付いた大統領が企てた陰謀とか、いろいろ手があるだろう。 ②ダグラス「防弾チョッキではなく、俺の頭を撃て!」ジャック「とどめをさすことはできない(銃を構えたままフリーズする)」。泣いていないで、肩とか脚を撃て!話はそれからだろう。数十メートル近くの容疑者をみすみす逃すのは正気の沙汰とは思えない。ダグラスとジャックの直接対決というのは中盤の山場なのに、まったく盛り上がりに欠ける。 ③大統領の奥さんとヤッちゃうような男が、親友の奥さんを寝取らないわけないだろう。常識的に考えて。主役の二人がクダラナイ私怨でわだかまりをもたれたら観客はちょっとヒクよ。てゆうか、妻の話がウソか真実か見極められないような男がシークレットサービス務まるのか。 ④「嘘発見器テストを受けていないのは誰だ?」「よし分かった。○○が犯人だ。」ってジャックオマエ真面目に捜査してなかっただろう。内通者も仮にも捜査のプロだったら、嘘発見器くらいなんとかできるだろう。先入観によるミスリーディングでも描きたかったのか。 ⑤シークレットサービスは140年間裏切り者を出していない組織らしいが、結局、ヤツは何が目的だったんだ。140年間裏切り者を出していない組織からなぜ裏切り者が出たのかという答えを全く出していない。家族を人質とられたのは最後の方だし。 [映画館(字幕)] 3点(2006-10-16 22:02:53)(良:1票) |
378. ブラック・ダリア
つまらないというよりも、よく分からない映画。 [映画館(字幕)] 5点(2006-10-15 00:16:39) |
379. モディリアーニ 真実の愛
《ネタバレ》 自分は専門家ではないので詳細には分からないが、モディリアーニが酒と麻薬に溺れ、病気で若くして死んだことと、ジャンヌが二日後に後を追ったこと、ユダヤ系で家族が破産したこと、個展がすぐに中止になったような小エピソードは事実だろうが、あとは恐らくほとんどがフィクションと思ってよいだろう(サロンやサロンで発表された全ての絵も)。 本作の印象としては、悪いとは感じなかったが、特別よいとも感じられなかった。というのも、モディリアーニの人生と、モディとジャンヌの愛を、「深く」は描くことはできていなかったように感じる。「魂がみえたら君の瞳を描こう」というモディリアーニの内心にまで本作は迫ってはいなかった。 フィクションなのだから、エコールドパリの画家たちの生き様をもっと生き生きとかつ、破滅的に大胆に構築してもよかったのではないか。酒屋で半殺しの目にあうといった、間違った脚色に進んでしまったようだ(さらに、ルノワールにあのような自己の作品を否定するようなセリフを吐かせるのはちょっと聞き捨てならない)。 モディリアーニとジャンヌの「愛」に足りなかったものは、金とか、成功とか、そんな単純なものではない気がする。画家というのは、自分の頭では駄目だと分かっていても破滅的な生き方しかできない、普通の生活や、普通の人間の尺度には納まらない人種である。本作では、結婚や書類といったものにこだわり、モディリアーニを小さくまとめてしまった気がする。 また、映画の中で、力点を「モディリアーニVSピカソ」に置いてしまったことに多少問題があるかもしれない。「モディリアーニとジャンヌ」という関係を凌駕する関係を描いてしまっては、焦点がぼやけてしまうだろう。 彼らの「ライバル」と一言で済まされない関係、お互いがお互いを認め合い、畏怖し、高めあう関係はしっかりと描かれていた。彼らは「成功」したかどうかを抜きにすれば、似たもの同士であり、同時期に生きたお互いにとってかけがえのない存在、真のアーティスト同士とは感じられた。 劇中で登場した「ガキ(モディリアーニの分身)」のメリットが本作ではほとんど感じられない。こんな空想上の存在をスクリーンに登場させるならば、それ相応の役割を担うべきだろう。 [DVD(字幕)] 4点(2006-10-15 00:01:27) |
380. フューリー(1978)
《ネタバレ》 「今度はクローネンバーグのパクリすか?」と思ったら、デパルマ先生の方が元祖だったようだ。人体爆発するシーンの前から作風がかなりクローネンバーグ(「スキャナーズ」「デッドゾーン」)に似ているなと思っていたけど、単にジャンルが似ていて、製作年が近く同種の古臭さを感じただけなのだろうか。まさか、クローネンバーグがパクるはずないしな。 映画自体は全く面白くないけど、デパルマらしさは随所に現れている。カメラワークは相変わらず流石だし、ロビンの最初の転落事故を再現するシーン(ギリアンと施設所長のやり取りの際に描かれる)の工夫には驚かされる。また、あのスローモーションの使い方は、今観ても、とても新鮮に感じた。デパルマの作品は、どの映画を観ても、必ず驚くべき演出がされている。もっと世間的に評価されてもよい監督だと思う。 しかし、本作のストーリーにどうしても入り込めないという印象を受けた。「デッドゾーン」もあまり好きではないけど、超能力者の悲哀だったら、まだ「デッドゾーン」の方がよかった。 友人に裏切られ息子を奪われ、息子を必死に探し続ける父親の姿も、観客を感動させるような流れになっていない。ラストでは、息子を救いたくても救えず、息子を救えなかったことへの後悔と、周囲を敵に囲まれ「もはやこれまでか」と感じたことから、父が息子の後を追って、身を投げるという悲劇的な展開なのに、ほとんど何も感じられないのは何かが足りないのだろう。 息子の方は、確かに空中浮遊はできるけど、あの落下事故は自殺に近いようなものではないだろうか。自己の能力を用いて、遊び感覚でアラブ系を抹殺し、監視役の女性も悲惨な方法で惨殺してしまい、もう自分が戻れないところまで来てしまったと感じたのではないか。だから父親が助けにきたとしても、父親にすがることもできず、父親を拒絶するしか、なす術がなかった。息子ロビンの気持ちは多少は理解できるかな。しかし、あの棒高跳びが、空中浮遊の伏線になっていたとは、夢にも思わなかった。 [DVD(字幕)] 4点(2006-10-14 23:48:07) |