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プロフィール
口コミ数 1334
性別 男性
自己紹介 【名前】「くるきまき」(Kurkimäki)を10年近く使いましたが変な名前だったので捨てました。
【文章】感想文を書いています。できる限り作り手の意図をくみ取ろうとしています。また、わざわざ見るからにはなるべく面白がろうとしています。
【点数】基本的に個人的な好き嫌いで付けています。
5点が標準点で、悪くないが特にいいとも思わない、または可も不可もあって相殺しているもの、素人目にも出来がよくないがいいところのある映画の最高点、嫌悪する映画の最高点と、感情問題としては0だが外見的に角が立たないよう標準点にしたものです。6点以上は好意的、4点以下は否定的です。
また0点は、特に事情があって採点放棄したもの、あるいは憎しみや怒りなどで効用が0以下になっているものです。

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361.  ブラック・ウォリアーズ オスマン帝国騎兵隊 ネタバレ 
15世紀のオスマン帝国の精鋭部隊が、現在のルーマニアにいたワラキア公ヴラド3世に戦いを挑む映画である。原題のDeliler Fatih'in Fermanıは「デリラ 征服者(=メフメト2世)の勅令」の意味らしい。デリラという騎兵隊は本当にあったようだが、delilerは複数形であって単数はdeliのため、ウィキペディア日本語版には「デリ (騎兵)」で出ている。 悪役のヴラド3世は「ドラキュラ」のモデルになったとされる人物であり、串刺し刑を好む残虐な君主として知られているが、近年のルーマニアではオスマン帝国の支配に抵抗した英雄として評価されるようになっているはずである。しかしこのトルコ映画では「正義の者」であるオスマン帝国と、「残酷なる者」である非道な領主との「善と悪の戦い」の話にしてしまっていたので笑った。串刺しはともかく「細菌兵器」まで持ち出すとさすがに荒唐無稽だが、疫病がらみの話は実際に伝えられているらしい。 ちなみに雄大な景色が印象的な映画だったが、撮影地はカッパドキアのアクサライという場所とのことで、見えていた高い山はハッサン山(3,253m)と思われる。またヴラドの城はポエナリ城のイメージかも知れない。  戦士の大活躍は主に終盤にまとまっており、そこを期待して見ると途中で延々待たされる感じになる。いろいろ非現実的なところのある戦闘場面だったが、やたらに干草の山が爆発していたのはユニークだった。 またオスマン帝国がキリスト教徒や「ジプシー」(字幕)やユダヤ人に寛容だったというのは、おおまかにいえばそうかも知れないが、映画として話を作り過ぎではないかという気はした。しかしローマ教会や「ナザレのイエス」まで否定して、自分こそが神の子と称する不遜な君主をイスラム教徒とキリスト教徒が協力して滅ぼす展開は、この映画としても宗教間の融和に配慮していたと思わせる。 ほか単なる非情な殺人集団でもなく、つかの間の恋や「無口な者」や笑う男のエピソードなどで人間味も見せている。映画の制作上も、串刺しといいながら人を杭に縛りつけただけに見えるなど、直接の残酷描写が抑制気味のようなのはかえって悪くなかった。 最終的にはあまりにも正義の英雄として美化しすぎに見えたが(日本でいえば正義の忍者のようなもの)、トルコの観客には気分のいい映画だったかも知れない。今度はルーマニア側でも、軽薄なアメリカ映画「ドラキュラZERO」(2014)などに任せておかず、堂々とヴラド3世を英雄にした映画を作ってもらいたい。
[インターネット(字幕)] 6点(2020-08-22 08:42:18)
362.  裸足の季節 ネタバレ 
撮影地は黒海沿岸のイネボルİneboluという場所だそうで、山と海が近接する風光明媚な地方に見える。またこの映画の設定としては、同じ黒海沿岸でイスタンブールからさらに離れたトラブゾン(人口約15万)の近くだったらしい。ちなみにサッカーチームのトラブゾンスポルが、観客を女性と子どもに限定して試合をしたのは2014.4.27のことだそうである。  映画紹介では「古い慣習と封建的な思想」とか書いてあるので、どうせよくある社会批判の映画かと予想していたが、その割に序盤の海の場面を見ると、こんな風に女子と戯れるのは意外に自由度の高い社会ではないかと思った(男子としては羨ましい)。その後の若い連中の服装や行動など見ても、普通一般の自由世界とそれほど違うようでもなく、女性に対して社会全体が一様に抑圧的というよりは大都市と地方の違い、あるいは世代によるギャップがあるのではという気がした。 それにしてもこの映画に関していえば、特に叔父個人の問題という印象が強い。まだ義務教育の年齢だろうに学校にも行かせないのは間違っており、村の女子全員がサッカー観戦に行くのに姉妹が行けない理由もない。またこの叔父は、よくわからなかったが姉妹に性的虐待もしていたのか? 四女が「あんたのこと警察にバラしてやる」と言っていたが、バラせば本当に問題化するのならトルコ社会はまともだということだ。イスタンブールの教員が告発すれば無理に家に帰されなくて済む可能性もある。 そのようにいろいろ考えたが、結果的には社会がどうこういうよりも、まずはこの姉妹の心情に共感できるかが重要だったようでもある。個人的には特に共感できなかったので(年齢性別が違う)、単に中年独身スケベオヤジが少女を虐待する胸糞悪い映画になっていた。ちなみにモスクの尖塔はときどき見えていたが、イスラム教の厳格な戒律に縛られたようにも見えない世界だった。今後ともそういう面で適当な緩さのある社会であってもらえればいいのではと他国民ながら思っておく。  なお少し面白かったのは五女が、逃げるとすれば車に飛び乗って、普通はイスタンブールに行く、と言っていたところだった。首都アンカラでもなく、まずは大都会イスタンブールに憧れるのがトルコ人の感覚のようで、最後にバスがボスポラス海峡(多分)を渡るところの風景は感動的に見えた。美少女は寝ていても目糞がついたりしないらしい。 [2021/02/20追記] 字幕の「後ろでやる」の意味が不明瞭だったので最初は書かなかったが、無視できない気がして来たので一応書いておくと、まず新婚夫婦の最初の夜に大騒動が起きたのは、初婚時に性交渉の経験がないことを絶対視する風潮がいまだにあるという意味らしい。またそのような風潮があるために、「後ろでやる」のが独身男女の間で普通になっており、さらに「後ろでやる」ことが家庭内の性的暴力のハードルまで下げているとすれば、確かに独特で深刻な社会問題の告発になっている。 ほか個人的には、何となく地方(田舎)に対する蔑視感情が潜在している映画のようで軽く嫌悪を覚えた。大都会に行きさえすれば問題解決なのか。
[インターネット(字幕)] 5点(2020-08-22 08:42:15)
363.  海底軍艦 ネタバレ 
名前は海底軍艦だが実は陸海空の万能戦艦で、かえって普通に海上を航行する場面がない(黒と赤の塗り分けが無意味)。見た目は昭和じみて古風な気もするが、劇中の雄姿を見ればシンプルで精悍なデザインだと思わされる。 また怪竜マンダは目がネコなので、大写しの顔が出るとニャンといいたくなった。  物語に関しては、この当時なりに戦争を扱ったものになっている。愛国心など今の若い者には理解できないだろう、と言われた神宮司大佐の娘は、女優が1941.12.17生まれ(開戦のすぐ後、戦艦大和の竣工の次の日)とのことで、戦争中に生きてはいても、戦争自体は覚えのない人々が成人する年齢になって来たという感慨が当時の人々にあったのかも知れない。 それでも戦わなければならない場面というのは依然としてあるわけで、この映画に関していえば、まるで帝国主義時代の感覚で世界に覇権を拡大しようとする悪の帝国を国際社会は許さないということである。海底軍艦は国際連合の要請を受けて出動した形になっており、かつての日本海軍が世界平和のために役立ったというのはまことに喜ばしい。 ただし、ムウ帝国というのは人口何人だったのかわからないが、結局全滅してしまったらしいのは悲惨だ。再生可能エネルギーである地熱を高度に利用していたらしく、技術面で協力できれば人類社会に貢献できたはずだが残念なことだった。  人物の関係では、ヒロイン役の藤山陽子という人は正統派の美人女優のようで、特撮関係では「宇宙大怪獣ドゴラ」(1964)にも出ている。知らない間に娘がこんな清楚な美女になっていたのを見てもっと驚け、と神宮司大佐に言いたくなったが、その娘に大嫌いと言われてしまって大ショックという気持ちはわかる。 また皇帝陛下は小林哲子という女優で、劇中では高貴で高慢な顔をしているが、頬が結構ふっくらして、男と並ぶと小柄だったりして可愛く見える。終盤この人を連れ回して帝国の滅亡を見せつけるのは酷ではないかと思っていたが、やはり悲しい最後だったのは心が痛かった。 ほかに水着モデル(リマコ)役は北あけみという女優で、端役だがなかなかいいキャラクターになっていた。  ちなみに全く関係ないことだが、「ムー」といえば個人的には昔懐かしい雑誌の名前である。今も続いているとは知らなかったが、先日創刊40周年とのことで記念号を買ってみると「読者投稿 ムー民広場」というのがあって笑った。おれもムー民と名乗ってみたい。
[DVD(邦画)] 6点(2020-08-16 09:52:52)
364.  妖星ゴラス ネタバレ 
企画段階で当時のSF作家がアイデアを出した、と小松左京氏が書いていたのを読んだ覚えがある。黒色矮星という言葉は実際にあるようで、劇中でも「老年期に入った太陽」と説明されており、造形物の印象と違って表面は気体(水素)という設定だったらしい。半径は地球より小さくても質量が6千倍というのは、当時の一般人の感覚からすれば意外な設定なのではないか。 こういう場合に最も現実的なのは逸らすことではないかという気がするが、劇中の人々もそのような考えではあったらしい。しかし質量が大きすぎて不可能だったため、結果的に逃げるというユニークな方法になったと見える。対策の開始から結果が出るまで時間がかかり、途中で正月が挟まるのがいい雰囲気を出していた(決戦前の小休止のような)。 特撮に関してはそれなりだが、南極の工事現場はかなり本物っぽいので感心させられる。また本邦初公開のジェットビートルが、ちゃんと怪獣を攻撃できる仕様だったのは安心した。この映画が1979~82年、「ウルトラマン」が90年代の話とすれば、これの改良型を科学特捜隊で使っていたと考えても変ではない。  政治面ではリアリティがあるともいえないが、隼号の尊い犠牲(万歳!)に応えられない政府や国民でなく、科学者主導で地球を救うというのが昔のSFらしい理想論かも知れない。偉い学者が徒然草を引いて、人間はいつの時代も目先のことに追われている、と語ったところで街の風景を映したのは「日本沈没」のような悲哀感を出していた。理系だろうが古典にも親しんでいるのは本物の知識階層である。 また宇宙省の長官(大臣でなく?)が、突然押しかけた若い連中を座らせて、ちゃんと話して聞かせたのはさすが人間が大きいと思わせる。「話せばわかる」とはこのことだ。しかしその「宇宙のパイロット」に関して、隼号はともかく鳳号はあまりにいい加減な連中なので呆れた。軍隊でないから規律が緩いのかも知れないが、今後は宇宙省も採用方法を見直した方がいいのではないか。  ほか女優陣では、ダブルヒロインの白川由美さんと水野久美さんが、冒頭で何と服を脱ぎ始めるのでドキッとしてしまう。いつも清楚な印象の白川由美さんも、この場面では女の子っぽく見えたのは和まされた。水野久美さんはお色気場面もあったりしたが(これ見よがしなので笑った)、幼馴染に見せる気安い表情が可愛いのは感激した。
[DVD(邦画)] 6点(2020-08-16 09:52:44)
365.  ふたりの旅路 ネタバレ 
ラトビア・日本の合作だそうだが、まとまりが悪い。 まず、場所がリガである必然性が感じられず、要は神戸市とリガ市が姉妹都市だから、ということで感覚的に正当化するしかない。観光映画という意味もあるようだが、ピンポイントの観光案内的で街全体としてのイメージが得られにくい。なお「ルンダーレ宮殿」は美麗だがリガにはない(南方約80km、リトアニア国境に近い)。 また着物の話かと思っていると、そのうち料理にテーマが移ってしまうのは変だ。着物+和食ということなら、ラトビア側からすれば要は「日本」だからと一括して問題ない??と思うかも知れないが、実際作っていたのは和食でもない。握り飯でも作ってみせればよかっただろうが米がないか。 ほかラトビア側からは人間の鎖(1989年)、神戸側は震災(1995年)の話題が出ていたが、6年も時間差があるものを同時期のようにごまかして語っていたのは無理がある。さらにいえば、日本側関係者が全て神戸の人間なわりに、誰ひとりとして関西弁を話さないのも何だとは思うが、まあそこまでは言わなくてもいいかも知れない。  監督・脚本はラトビア人とのことだが、悪い面で邦画くさいのが鼻につく。ドタバタじみた展開で見ている方が気まずくなり、またzutisだと何度言われても聞き取れないのは非常に苛立たしい。深夜の旧市街で、変な日本人が一人でしゃべっているなど近所がどう思うかと気が気でなく、また噛み合わない会話からとんでもない事態に発展していくのも素直に受け取れない。これは昭和の喜劇映画でも志向しているのか。 物語の本筋に関しては、何が表現したいかわからなくはない。主人公が独り言をいうようになった事情を聞くと心が痛いが、今回の旅行でやっと心の中の夫に向き合えるようになったらしい。また気に障るから怒鳴るなというあたりは、古い日本式の夫婦関係が表現されていたように思われる。「理屈っぽいかも知れないけれどもいつものようにね」というのは万国共通かどうか。 そのほかこの映画の最大の特徴は、日本を代表する名優の表情を大写しでじっくり見せることだった。良くも悪くもこの役者ならではという登場人物になっていて、人によってはこれが何よりの見どころかも知れない。あんな台詞が初めから書いてあったわけはないが、あとでからラトビア語に訳したということか。
[インターネット(邦画)] 5点(2020-08-08 08:57:27)
366.  柔らかな泥 [ヤワラカナドロ.] ネタバレ 
ラトビア製の生真面目な人間ドラマである。娯楽性はない。 撮影場所は主に東部のラトガレ地方で、主人公の住所地はカウナタ(Kaunata)という村の付近ということになっている。また英語大会に出かけた先は近くの都市レーゼクネ(Rēzekne、人口約3万)で、会場施設の隣にある古城址も映っていた。 英題と邦題に「泥」が出ているが、前記の村がどうかは別として、少なくともラトガレ地方の北部は低地で湖が多いとのことで、映像的にも低湿地を思わせるジメジメ感を出している。これが主人公の現状を暗示していたようで、特に若い教師と這い登った柔らかい土の山が視覚的イメージの提示だったかも知れない。  物語としては、家族の崩壊に直面した17歳の主人公が、何とか現状打破して這い上がろうとする話らしい。しかし行動力があって賢いようでも視野が狭く感情的で無分別で、終盤の冒険も結局その程度のことだったのかと落胆させられる。 個別の要素としては「万引き家族」(2018)かと思うところがあり、また意外にクライム・サスペンスのように見えたりする。まさか邪魔な弟まで死なせるのではと心配になったが、さすがにそういうことにはならなかった。弟に靴を買ってやる場面が2回あるのは意味不明だったが、例えば泥で靴がすぐ汚れてしまう土地柄で、弟を思う気持ちがこういう形で表現されたと思うべきか、あるいは2回目に関しては、泥まみれでも負けないように歩いてもらいたいということか。 ラストがどうなったのかもわからなかったが、原題のEs esmu šeitは「私はここにいる」(逐語訳そのままでI am here)という意味であり、別に存在感を声高にアピールしたいのではないだろうから、自分の居場所を自分で確認した、と取るべきかも知れない。周囲の人々も別に悪人ではなかったようで(警察も甘い)、頼れる人はちゃんと頼りながら、ぬかるみに足を取られずしっかり歩いていこう、ということだと思っておく。よくわからないが奨学金で進学というのはまだ間に合うのかどうか。 なおラトビアでは18歳が成人年齢のようなので、未成年から成年への境界を越える青春物語になっていたようである。  ほか人物に関して、主演のエリーナ・ヴァスカElīna Vaska(b.1994.6.13)という人は、知っている者にとっては有名なラトビアの作曲家ペーテリス・ヴァスクスの孫だそうである。なかなか感じのいい若手女優だった。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-08-08 08:57:24)
367.  ファブリックの女王 ネタバレ 
独創的なデザインのファッション製品・バッグ・インテリア・雑貨類を世界に提供するフィンランド企業「マリメッコ」の創業者であるアルミ・ラティア(1912-1979)の映画である。邦題の「ファブリック」とは会社の原点になった布を意味しているようで、今も商品ラインナップに載っている(テキスタイルとはニュアンスが違うらしい)。なお個人的には衣類には縁がないが、ウニッコ(Unikko)柄のマグカップが一個だけある。 ちなみに創業者の死去後、経営が悪化していた会社を1991年に買収して再建したキルスティ・パーッカネンという人物のTVドキュメンタリー「マリメッコの奇跡」というのも見たことがある。この人物も創業者を評価し、その方針を引き継ごうとしたとのことだった。  マリメッコの映画であるからには、鮮やかな色彩感で見せる映像(ポピーのお花畑イメージ)が豊富かと思えばそうでもない。また監督インタビューによれば「お決まりの伝記的な形にはしたくはなかった」そうで、この人物を語る際に必ず出そうなケネディ大統領夫人の話などは出て来ない。 それより基本的には人格の表現に重点が置かれていたらしい。DVD特典のTVドキュメンタリーでは本人の理性的な面が見えており、有無を言わさず周囲を引っ張る豪傑のような印象もあったが、しかしこの映画ではどちらかというと、監督の言っていた「非理性的なところ」や人間的な弱味が強調されていたようである。 また当然ながら、男社会で苦闘する女性への共感も制作の動機だと監督は語っていた。ちなみに監督は主人公の元友人で、マリメッコの役員を務めたこともあるそうである。  映画の作りとしては、主人公を扱った演劇の稽古の場面を映画にした劇中劇の形になっている。その理由としては、主人公のいた世界をまともに再現しようとするよりも、舞台装置の形にした方が安価でシンプルかつ芸術的に表現できるからか。また演出家との会話で役者の迷いが語られていたりするのは、一人の人間の本質に迫ること自体の難しさが表現されていたようでもある。映画化にあたってまとめ切れていないというよりは、それが人間というものの実態だということかも知れない。 以上のようなことで、評価すべき点はあるだろうが娯楽性は高くない。個人的には大変よかったともいえないが、個別の場面としてはアメリカで、主人公の側近が舞台裏から覗いていたのが面白かった。変人風だが重要人物だったらしい。
[DVD(字幕)] 6点(2020-08-01 08:49:50)
368.  365日のシンプルライフ ネタバレ 
自伝というかドキュメンタリー調のようだが、積雪のある時期にわざわざ全裸で倉庫へ走るなどはいかにも作為的である(前日は倉庫から全裸で帰ったということか)。全体的にストーリー性が弱いので退屈に耐えながら見たが、最後には少し和ませる仕掛けがなくもなかった(祖母に似た感じだったような)。男連中の顔などは見なくていいが、上から目線の従弟のど素人っぽい顔には笑った。また風景映像の印象は悪くなく、背景音楽の北欧ジャズもいい雰囲気だった。  実験の内容に関しては、日本でいう高度成長期でもなかろうに、モノがあるほど幸せと思う人間など今どきどれだけいるかと思うわけで、前提からしてちょっと違うのではと思わせるものはある。そもそも実験を始めたきっかけがそれなら結局どうすればいいかは最初から見えており、弟や友人などの好意もさんざん当てにしておいて、結局何が一番大事なのかというのもありきたりな結論というしかない。ただ公式サイトによれば、公開時には「多数の“実験”フォロワーが生まれ」たとのことで、別に主人公と同じ結論を得る必要はないわけなので、真似してみること自体はいいかも知れない。 個人的に真似する気はないが思ったこととしては、自分としては今あるものを全部捨てて家を空にしてから墓に入りたいという願望が昔からあるので、それが終活の大きな課題になることは改めて認識した。その一方で映画に関することでいえば、動画配信サービスなどで見て終わりにしておけばいいものを、形あるものとして手元に置きたくなってDVDなり何なりを買ってしまうということがある(最近の例では「地獄少女」)ので、そういう欲求を抑えるのが生きている間の課題かとは思った。  なお真似するにしても全裸になる必要まではないだろうが、ちなみにフィンランド人はサウナに入った後に全裸のまま外に出て湖に飛び込んだりする人々だそうで、全裸で走るのにも抵抗がなかった可能性はなくもない。以前にNOKIAの日本支社長が、社内のサウナに入ってから屋上で涼むのが周囲のビルから丸見えになるので日本人社員が困ったという話を読んだこともある。映画と関係ないが。
[インターネット(字幕)] 5点(2020-08-01 08:49:48)
369.  サイレン FORBIDDEN SIREN ネタバレ 
背景設定としては15世紀の出来事を発端にして、1976年の事件と29年後(2005年)の今回の事件がつながっていたことになっており、いわば八つ墓明神の祟りのようなものが一貫していたらしい。「赤い服の少女」の赤い服は、むかし疫病(天然痘)の患者が着せられたものかと思ったが関係ないか。また赤と疫病からは「赤死病の仮面」を連想するがだから何だということはない。ちなみに海底ケーブルの切断というのは確かに不気味だ(2003年、伊豆半島沖の初島)。  内容としては、最初から薄っぺらいので真面目に見ようとする気が失せる。南の島(設定は伊豆諸島付近だが撮影は八丈島)で、陽光がさしていながら陰のある雰囲気を出そうとしたようでもあるが、変な外国人居住区とか変な住民、変な像、変な儀式など上っ面だけ適当に作った感じなのは気が抜ける。煙草の銘柄がKYONだとかいうのは全く面白くない。 観客を飽きさせないよう見せ場をつないでいるようではあるが、何かあるのかと見せておいて結局何もなく肩透かしだとか、光過敏性発作を起こしそうな場面(DVDの最初に警告が出る)が延々と続いてだれるなど、それほど感心されられるところはない。最後に意外な展開もあるが、「まさに奇跡」と言い訳したり、こじつけじみた説明でごまかしたりするのでうまく騙されたという気もしない。 ただ光の明滅とか大音響など刺激的な作りなのは特徴的かも知れない。鉄塔の場面では、台詞がかすむほどのサイレンに代わって大仰な背景音楽が鳴り続ける中、空が赤くなっているのが見えたという趣向は悪くなかった。 そういうことで別に恨みはないが、好意的ではないので低い点にしておく。  なおキャストとしては、主演の市川由衣という人は19歳くらいで可愛く見えるが、今回また変な役をやっている高橋真唯(当時)も、この人らしい個性的な可愛さを見せている。ほかは可愛くない。
[DVD(邦画)] 3点(2020-07-25 08:25:41)
370.  呪霊 THE MOVIE ネタバレ 
知っている人にはお馴染みの張江肇・鈴木ワタル両氏製作の低予算ホラーだが、これは割と早い時期のものということになるか。もとはビデオシリーズだったものの劇場版とのことで、短編3つのオムニバスになっている。 以下【 】内は話数、[ ]内は点数。  【Episode 1】約20分。意味不明だったが考えたくもない。主演の市川由衣という人は、この頃「呪怨」(2002)と「呪怨2」(2003)に「千春」役で出ているが、同時期にこんな便乗企画(名前が)のようなものにも出ていたということだ。[1] 【Episode 2】約16分。語る気にならない。下ネタが多い。「LUCKY LEGS」(ラッキー・レッグス)という美脚アイドルグループのメンバー6人が出ているが、当時どの程度の存在感があったか覚えていない。美脚というのは要は細いという意味か。[0.5] 【Episode 3】約30分。小学生の主人公とその仲間3人の話。少年時代の記憶を切り取ったようなノスタルジックな雰囲気で、スタンド・バイ・ミーとの関係でいえば“死体探し”ならぬ“幽霊探し”ということになるが、その上で悔いと思いを後に残す作りになっている。台詞や演技はわざとらしい気もするが、いかにも小学生男子の会話のようではあり、「もう言うな」「ごめん」というやり取りなどは悪くなかった。やはり下ネタが出るが、思春期に入りかけの男子連中の関心事なので違和感はない。 テーマとしては“死んだらどうなる”ということで、「丹波哲郎の大霊界」とは対極の認識が提示されている。要はデスノートでいう「無だ」ということだが、立花隆の「臨死体験」というのもあるので、恐れることはないとこの少年には言ってやりたい。[5]  元のシリーズがどんなものだったか知らないが、1と2を見ればこの程度のレベルだったとは知れる。しかし第3話は劇場版らしく時間も長く、結構心に残る出来だったため全否定する気にはならなかった。
[DVD(邦画)] 2点(2020-07-25 08:25:39)
371.  魚介類 山岡マイコ ネタバレ 
2011年といえば、震災で多くの人命が失われた上に原発災害の恐怖に苛まれた年だったと記憶しているが、そういう時期にこういうふざけた映画を公開するのは不謹慎というしかない。ただし人というのは常に娯楽を求めるものであるから自粛していればいいともいえない。 映画の冒頭では、ナレーションと背景音だけで延々と聞かせる部分が長いので早く始めろと言いたくなるが、ここではあれだけの惨事をもう忘れかけたような世間への皮肉を語っていたようでもあり、また巨大生物の足音のようなものが響くのを聞けば、これはもしかすると「ゴジラ」(1954)で鳴らされた警鐘をここで再現してみせるつもりかとも思わされる。続く場面でも、主人公の「魚介類」がいつか哺乳類になりそうな台詞があり、「海棲爬虫類から陸上獣類に進化しようとする中間型の生物」のような正体が明らかにされるのかと期待させられた。 しかし結局その期待が実現したようでもなく終わってしまった。だから何だというのか。わかろうとする気にならない。  ほか全体的には、女子高生の格好をした出世魚という発想自体は悪くないので、もっと普通に面白くすればよかっただろうが何を面白がればいいのか全くわからない。役者連中のフリとかセリフとか顔つきが極端で、舞台劇を接写しているようなのが度を越して不快である。 これで一応はコメディらしいが、こういうことを言えば笑うはずだ、という共通認識が存在した昔の(田舎の)狭い社会でしか通用しないギャグのようなものを並べ立てても白々しいばかりである。だいたい「ゲゾラ」というのは一体何のことだ…個人的には知らなくはないが世間の常識とは全く思えないことを得意気にひけらかすオヤジ感覚は恥ずかしい。かろうじて椅子を食うというのは面白くもなくもなかったが、こういう陳腐な民族描写もそのうちヘイトと糾弾されるようになるのではないか。 ちなみにエンディングテーマの歌唱は心を打つものがあったが映画の中身とは関係ない。  キャストに関して、魚役(第1形態)の佐武宇綺という人は、少し前に「Re:Play-Girls リプレイガールズ」(2010)でわりとマシな役をやっていたのを見たが、今回さらにマシな役だったかどうかは何ともいえない。実質主演の高見こころという人も、これまで何度か見たことがあって次第に好きになって来た。今も多方面で活躍中らしいがもっと目立ってもらいたい。
[DVD(邦画)] 2点(2020-07-18 08:58:26)
372.  オッパイ星人 ネタバレ 
新規登録から15年間誰も書いておらず、「まだレビュー数0の作品」に時々出るので社会奉仕的に見る気になった。 製作上の意図としては「脱力ショートコメディ」だそうで、平均3分程度で全15話の小話集のようなものだがオチはあったりなかったりする。宇宙人4人と安アパートの部屋をCGで作っており、演者の顔だけ実写を貼りつけているが、顔だけなので実物のオッパイを見せる場面はない(そういうのは別のところで見た方がいい)。アドリブを多用した回もあったようだが、基本的には出演者が適当にしゃべるのではなく脚本担当者がいて、見た人間を笑わせようとして作ったらしいが笑えない。人類社会のほとんどに無視されて終わったのも納得だった。 内容について真面目に語るのも憚られるが少し書くと、第5話と第10話は最悪ではなかった。また第4話で、本国からの入電を読んでいる奴は最後に噴き出さなくてもよかった。  以下余談的に、今の若い人ならわからないだろうことを書いておくと、まずオープニングが昭和TV特撮のウルトラシリーズを真似たシルエットを見せていると思ったら、各話の題名が明らかに「ウルトラセブン」(1967~68)をネタにしており、どれがどれに相当するのか容易に特定可能である。第11話「正解は誰れのために」はネタ元の第30話「栄光は誰れのために」で、「誰れ」という変な日本語(送り仮名は不要)を使っているのをそのまま真似ているので少し笑った。 製作側の説明では、本来は全16話のところ「諸般の事情により、第9話は欠番」とされているが、これはその方面の団体などから糾弾されたというよりも、ネタ元のウルトラセブンで第12話が本当に欠番になったのを単純に真似たようでもある(問題にされるほどまともに世に出たとは思えない)。ただし本来の欠番の題名「遊星より愛をこめて」が、これの第6話「惑星より愛をこめて」で普通に使われているのはとぼけた感じである。 ほか宇宙人が安アパートに住んでいるのも、ネタ元のウルトラセブン第8話「狙われた街」のイメージかも知れない。1部屋に4人まとめて住んでいるのがいかにも外国人のようだった。
[DVD(邦画)] 1点(2020-07-18 08:58:22)(良:1票)
373.  ザ・ゴーレム ネタバレ 
17世紀のリトアニアの話ということになっている。 リトアニアでユダヤ人といえば第二次大戦時の杉原千畝氏が有名だろうが、それ以前からリトアニアにはユダヤ人が多く住んでいたということらしい。ただし昔と今では境界線が違っており、この映画に出ているのが現在のリトアニア共和国とは限らない。隣村の連中がスラブ系の名前だったので、今でいえばベラルーシ共和国かも知れないが、ちなみに撮影場所はウクライナの首都キエフ付近だそうである(大して違わない)。台詞が英語なのは面白くないが、イディッシュ語を使えともいえないのでいいことにする。 なお年代が1673年と特定されている意味はわからないが、今でいうウクライナで起きた「フメリニツキーの乱」(1648~1657)や、これに続く戦乱(~1667)を通じてユダヤ人の虐殺が多発し、周辺のユダヤ人社会に甚大な被害が及んだ直後の時期ということではあるらしい。また冒頭に出たプラハの事件(伝説だろうが1600年頃の想定?)からの時間差による設定という意味もあったかも知れない。  考証的にどうかはわからないが、この映画では森林と農牧地が広がる場所にシナゴーグのある村があり、キリスト教徒の住む隣村からは離れているが何かのきっかけで迫害され、場合によっては滅ぼされる、といった雰囲気は感じられた(これがポグロムのイメージか)。隣村に呪いをかけたと疑われていながら、実は「治療師」などは結構当てにされていたようでもある。 何か社会的なテーマのようなものがあったとすれば、例えば“神の領域を侵せば全てが滅びる”といったことなら少し汎用性のあるメッセージにはなる(nuclearでもbiologicalでも)。また、この世の出来事は全て神の意志であって、自分の不幸を神への不信や他者への憎悪に変えてはならないというようでもあったが、これは実際のユダヤの教えもそうだということか。 ゴーレムに関しては、この映画で子どもの姿にしたのは結果的に悪くなかった。「冷酷な怪物」であっても、実はこの世に自分と母親の存在しかない子どもそのままのようでもある。母親のことだけをひたすら思い、最後は全てを母親に委ねたかのような姿は哀れだったが、母親の方もこれで亡き子への思いを断ち切ったということらしく、意外に切ない終幕になっていた。 なおゴーレム役の子役は子どもらしく華奢に見えるが、顎の細い顔がクールな印象を出している。男児を愛する性向のある人々には好かれそうだ。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-07-11 08:26:39)
374.  ワールドエンド・サーガ ネタバレ 
自然環境に恵まれた旧東ドイツのテューリンゲン州を舞台にして、主人公がワイマール(人口約6万5千)からイエナ(人口約10万)までを歩くロードムービー的な作りになっている。原作はマンガ(コミック)だそうで、イエナとワイマールは原作者ゆかりの地ということらしい。なおこの映画にはマンガっぽい印象はない。  見た目は一応ゾンビ映画のようだが、それよりウイルスで人類社会がほぼ全滅したことの方に重点がある。大まかにいえば(ありきたりなようだが)いわば地球の意志により、世界の終わりと始まりがもたらされたということらしい。 生き残ったワイマールとイエナがそれぞれ人類の社会秩序と科学技術の象徴とすれば、それを否定した新世界が外部に広がり、ブタさんやキリンさんが我が物顔で歩いていた。元領主だか元地主だかの古い館の中で、動物の剥製や角が飾ってある場所を野鳥が占拠してしまっているのが旧支配者の没落を示していたようだった。 特徴的だったのは感染者が植物ゾンビwwになるということだが、これには(A)普通にゾンビらしく襲って来るがやがて自滅していく連中と、(B)感染したのが顔には出ているが普通に話が通じて穏やかに生きている者という違いがあったらしい。この映画としては(A)には否定的だが(B)はそれなりに幸せという扱いのようで、これでハッピーエンドと思うのが現代ヨーロッパの風潮なのかも知れない。もしかして緑の党といった団体はこういう世界を目指していたりするのか。  ところで監督その他のスタッフは女性ばかりのようだが、登場人物も明らかに女性優位になっている。前記(A)と(B)は新世界で滅ぶべき者と残る者の違いだろうが、結果的に残るのは女性(だった者)だけで、まるで新世界に男は不要というようでもある。世間でよくいう“男がいなくて人類が続くと思っているのか”という素朴な疑問に応えるために、雌雄の交配がなくても繁殖?(生存?)する生物という設定にした?のだとすれば、なかなか尖った問題意識を含んでいたことになるが、この点原作マンガでどこまで踏み込んでいたのかわからない。 ちなみに花嫁ゾンビBrautzombieというのは結構気色悪かったが、これを日本人女優(身長156cm)にやらせていたのは差別的ではないかと一応書いておく。排除の論理が感じられてしまうとそういう皮肉も言いたくなるわけだが、しかし実はこの映画を見た日の夢に出たので、人の心に訴える力のある映画ではあったらしい。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-07-11 08:26:37)
375.  地獄少女 ネタバレ 
マンガもアニメもドラマも見ていない。この映画で見た限り、「地獄少女」役がこの人なら少女である必然性もなく、制服姿も不要なので和装の超絶美女で通せばいいだろうと思った。 もっと殺伐とした話かと思っていたらそうでもなく、前半の物語では復讐の連鎖があっさり止まり(ただし事故物件が生じた)、後半では手前勝手な理屈で世界を破壊しようと企んだ奴が一人で滅んだのはいい結末だ。意外に人道的な映画という印象だった。  基本設定はよくわからないが、恨む相手に対面して直接殺害できるならそうすればいいだけなので、一般人が手を出せない相手(拘置所にいるなど)に復讐してくれる仕事人のようなもの、というのが地獄少女本来の役目らしい。ただし必殺シリーズとは違い、「人を呪わば穴二つ」の原則で厳しい歯止めをかけていると取れる(本人が直接殺してもどうせ地獄に堕ちる)。 地獄少女の立場としては、依頼されれば実行するのが基本のようではあるが、実行時に本音を吐露する場面もあり、また場合によっては再考を促すこともあったらしい。口上を聞けばこの世の悪を裁くのが本来の目的のようでもあり、そこに近づけるようその都度いろいろ配慮しているということではなかったか。非情なようでも決して無情ではないように見えた。  ところで主人公少女の末路について、結論的にいえば地獄に堕ちなくて済むと思われる。それは主人公が恨みを晴らすのでなく、自ら地獄に堕ちる覚悟で親友の生命を救おうとしただけだからである。それでは依頼の条件が満たされないので契約も成立せず、処罰はフリーライターに代行させる形にしたのではないか。ラストの場面でも、地獄少女(とカラス)が空から2人を見守っていたように見えなくはない。 この監督だからといって救いのない結末とは限らない??わけだが、何より観客側としても、この主人公が地獄に堕ちては絶対困る、という気持ちで考えることが大事だ。そのように見れば悪くない映画であって、エンディングの雰囲気も余韻を残した(縦書きと曲が古風でいい感じ)。  キャストとしては、玉城ティナさんが人間離れした恐怖の最強美女になっているのは見ればわかるとして、実質主演である森七菜(もりななな?)という人も、天然小動物系少女をベースにしながらいろいろ個性的な顔を見せている。しょうもない邦画ホラーではあるが、新進女優にとってはなかなかいい出演作になったのではないか。
[インターネット(邦画)] 6点(2020-07-04 09:59:36)
376.  血を吸う粘土 ~派生 ネタバレ 
また見てしまった。派生というか続編のようでもあり、若手多数出演の中で黒沢あすか姉さん(監督の妻)が奮闘するフォーマットができつつある。 今回も主要キャストとして、講談社主催「ミスiD2018」の関係者6人が出ている。選ばれただけあって容姿も高水準の人を揃えていたが、揃い過ぎて劇中人物としては不自然だった。なお主演の藤井愛稀(ふじいいつき)という人は、さすが主人公なので一筋縄ではいかない個性的な可愛さを見せている(母親とも津田寛治とも似ていない)。 バケモノ造形は、今回は粘土の素材感にそれほどこだわった感じには見えなかったが、鳥を捕って食うのが面倒くさいのは印象に残った。最後は何が出たかと思えば結局これかという感じだったが、このとぼけた顔を見せなければこの映画でないということではあるらしい。 ほかに映像面では、今回は普通にアーティスティックなビジュアルで見せていると思ったら、結局最後は本来の泥臭い世界が現出するという趣向だったようでもある。ビニールカーテンを使った虚構空間とかは面白くなくもない。  ストーリーとしては12年後の話だったようで、前回の怨念は薄れてしまって惰性的に凶行を繰り返すのかと思ったら、最後だけ唐突に前回並みのスケール感で大惨事が起きていた。この騒動の元凶になったジジイはいったい何がしたかったのか。ちなみに前回イモムシ(モスラ)と思ったのはミミズだったらしい。 ほかに人間ドラマ的なものとして、今回は主人公を中心にした家族関係のテーマがあったように見える。実父への思い、それとは別に実母への思い、養家の娘との関係など複雑だったようだが、切れ切れなのであまり心に残らない。どうもそういうところが素直に受け取れない作りなので、次回は(あれば)改善願いたい。  以上いろいろ書いたが、面白くなくもないが絶賛するほどでもないという微妙な感じなのは前回同様だった。しかし今回は総体的な映像面の印象と、主人公の可愛さで前回+1点にしておく。 なお笹野鈴々音さんがどこに出るのかと思っていたら何と顔が見えていないではないか。スーツアクターになってしまったのか。せっかく出るのだから可愛く見せてもらいたい(共演者のブログのようなものに打ち上げ時の写真が出ている)。
[インターネット(邦画)] 6点(2020-07-04 09:59:34)
377.  Re:Play-Girls リプレイガールズ ネタバレ 
変なものを見てしまった。 本来はアイドル・グラドルなど若手女子多数を揃えて無人島で殺し合いをさせるだけの企画だったのだろうが、この映画ではさらに若年者の自殺という変に重たい問題意識で肉付けしており、その肉付けがまた変に分厚いので非常に困惑させられる。 そもそも女子高生が無惨に殺されるのを見て喜ぶ映画自体が人倫に反するわけで、同様の枠組みで生命の意味を語る映画としては「人狼ゲーム」シリーズ(2013~2018)の例もなくはないが、この企画に関しては最初から動機のいかがわしさが臭うようで素直に受け取れない。キャストが女子限定か男女混合かだけでも印象が違う。 最終的には真面目な意図で作られたことも否定し切れなかったが、しかしネット上にあった公式サイトの残骸のようなものを見ると、“アイドル映画で何が悪い”と開き直っていたのが癇に障ったので、ここは順当にアイドル映画としての点数にしておく。映画製作に良心など期待するものではない。 ちなみにロケーション協力の愛知県豊橋市のイメージ向上にもつながっていない。  キャストに関しては知らない人が多いが、主演の外岡えりかという人は別の映画でネコ役をしていたのを見たことがある。また遠藤舞という人も同じネコ映画その他で見たことがあったので、あらかじめ若干の期待もなくはなかったが出番は少ない。 以上2人は当時のアイドルグループ「アイドリング!!!」所属だが、ほかにメディア主催のタレント発掘企画(ミスマガジン、日テレジェニックなど)からの出演者もいて、うち3人はそれぞれに焦点を当てたメイキングDVDが出ていたりする(今も売っている)。10年前の時点ではそういう方面からの期待もあったらしい。 なお個人的にはチヒロ(母親と対立していた少女)役の藤沢玲花という人の顔が印象に残った。この人はもともと役者志向だったようで、これ以前から仮面ライダーとか「山桜」(2008)とかにいろいろ出演しており、短編映画「ワタシのすみか」(2011年、小澤雅人監督)というのは今もネット動画で見られる。現在はプライベートでご多用中のようだが女優としての活動も続けているらしい。
[インターネット(邦画)] 2点(2020-06-27 09:51:18)
378.  メシア 伝えられし者たち ネタバレ 
2004/1/10に作品登録されてから誰も書かずに放置されていたので見てやることにした。 要はアクション映画だろうと思ったが、沖縄の島が舞台とすれば同じ監督の「無人島物語 BRQ」(2001)のように、無人島で殺し合いをするだけの映画かと思っていたらそうでもなく、それよりもう少し込み入った話を作ってある。撮影もその辺で適当にやったのではなく本当に沖縄に行ったようで、サトウキビ畑や亀甲墓、村落風景などがそれらしく映っている。 筋立てとしては、かつて琉球王朝に仕えた支配層の末裔に対し、虐げられていた一族が復讐しようとしたように見せておいて、実は単なる悪人だった(顔を見ればわかるが)ので滅ぼされた話である。しかしラストがどうなったのかが不明瞭で、また題名の意味も最後までわかった気がしない。一応考えてもわからなかったからには仕方ないので、考えたこと自体が野暮だったと思うしかない。  主人公は真面目で非力な女子中学生で、「あたしはもう大人よ」とは一応言っていたがまるきり中学生に見える。敵の首領があまりに迫力のある悪人顔のため、こんないたいけな女子が対抗できるのか心配させられるといえなくはないが、他はともかくこのヒロインが悲惨な目に遭うはずもなく、やる時はちゃんとやるので当然大丈夫なわけである。 主演の森田彩華という人は当時「美少女クラブ31」というもののメンバーだったとのことで、美少女というより普通の中学生っぽいのがかえって親しみを感じさせたが、終盤になると少し美少女寄りの姿を見せていた。また、たくましいのと細身なのと対照的な体格のアクション女優2人(清水あすか/浅井星光)が見せる本格的(多分)なアクション場面は見どころだったかも知れない。 それほど絶賛するようなものではないが、正直それほど悪くない印象の映画だった。
[DVD(邦画)] 4点(2020-06-27 09:51:16)
379.  ザ・コンクエスト シベリア大戦記 ネタバレ 
1713~1716年頃のシベリアの話である。原題のТоболとは、当時のロシアがシベリア統治の拠点にしていた都市トボリスクТобольскを指しているらしい(正確には川の名前)。 映画宣伝では、スウェーデン・ロシア・ジュンガル(モンゴル系)・清国という強国同士の対決のように書いてあるが、実際は悪辣な清国の策謀のせいでロシアとジュンガルの間で戦いがあったというだけである。場所はほとんどトボリスクと前線の要塞なので壮大なスケールというほどではないが、それでもヨーロッパとアジアを一度に視野に入れた歴史物というのはロシアならではといえる。 どうせ適当に作った話だろうと思っていたら、実在の人物がかなり出ていたらしいのは意外だった。この映画は単なる娯楽大作に見えるが、これとは別に原作小説もあるようで、本来はもっと本格的な歴史劇だったのかも知れない。登場するロシア人にもスウェーデン人にも地誌関係の人物がいたのは、ロシアの東方進出が活発化していく時代の表現のようでもある(よくわからないが)。  物語的には、若いロシア人とスウェーデン人のダブル主人公にそれぞれヒロインがいて、特に序盤ではラブコメかと思わせる場面もある。中盤以降は要塞での戦いになるが、いったん丸く収まったと思わせておいて、終盤ではまた激戦になるので気が抜けない。戦いが中心の映画ではあるが、やはり人の生きる喜びは戦場では得られない、というのが一応最後の結論だったようである。 戦闘場面では、砲弾が直接人に命中するとか、本物の馬だとすれば心配になるような刺激的な場面もあって驚かされた。また要塞に関しては、近代的な星形要塞(四稜郭+1)の実物を映画のために作ったように見える。虎口の向かいにある稜堡を敵に奪われて、互いに大砲で撃ち合うというのが意外な展開だった。ちなみにジュンガル側の現地指揮官はカザフ人の役者とのことである。  登場人物では、最も有名なのは当時の皇帝ピョートル1世だろうが、その妻も次代の皇帝エカチェリーナ1世である(2世でなく)。 サンクト・ペテルブルクの最初の場面が造船所だったのはこの時代らしいと思ったが、そこで材木に斧をふるってわめいていたオヤジがピョートル本人だったというのは笑った。現場に出て自分でやってみるのが好きな人物だったはずなのでこれ自体は変ではないが、どうも基本的に茶化され気味だったようで、その後も人間味のある専制君主になっていたのは面白かった。 ほかロシア人とスウェーデン人の2人のヒロインにはけっこう和まされた。ロシア人ヒロインの「器は持ってきて」が好きだ。  [雑記]ロシア人が皆で気勢を上げる際にはウラー(Ура!)と言うのが普通だろうが、この映画でビバ(Виват!)と言っていたのは、ピョートル1世の西欧化(西欧かぶれ)の一環としてそのように言わされていたということらしい。これも若干の滑稽感を出していたかも知れない。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-06-20 10:26:12)
380.  グラディウス 希望への奪還 ネタバレ 
現在でいうウクライナの13世紀の話である。原題と英題は、主人公が当時のローマ教皇から王冠(ルーシ王)を授かったことを意味しているが、ただし主人公は「公国」の君主であるから、実際の称号は王ではなく「公」である。 物語としては細切れの場面を並べていく形だが、何がどうなっているのかよくわからない。若い兵士2人や暗殺未遂の荒くれ者など、登場人物として半端なのが多いのは短縮版か何かだからか。またひたすら鳴り続ける背景音楽がやかましいのはTVドラマのようでもある。全体として面白味のある話ではなかったが、陰謀の真相が最後に明かされたのは若干の意外性を出していた。 なお戦いのアクション場面はそれなりにあり、個人的には攻城戦の場面で、屋根の上が戦いの場になっていたのは少し面白かった。城郭建築が木造なのはこの辺では普通と思われる。  ところで一応粗筋を書くと、この時代のこの辺では、西から迫るドイツ騎士団と東から侵攻するモンゴルが脅威になっており、また各地の貴族勢力が安定を妨げていた。主人公の公国は、先代の死後に混乱状態に陥っていたが、主人公がまずドイツ騎士団に掣肘を加え、次に貴族勢力を討伐して公国を平定し、その上でモンゴルとは妥協して地位を保全した、という筋書きに見える。なおポーランド・ハンガリーといった周辺諸国は捨象されていたが、劇中で主人公の拠点とされていた都市は、現在はポーランド領になっている。 困ったのは、何を物語の柱にしようとしたのかわからないことである。いにしえのキエフ・ルーシの正統な後継者はロシアではなくウクライナだ、と主張したいのかと勝手に思っていたら、そのように見えなくもないという程度でしかない。ロシアでのモスクワ公国と違って、主人公の公国が現在のウクライナにまっすぐつながるわけでもないので、この地域に関わる歴史上の一つのエピソードというだけにとどまっている。またモンゴルの勢力下で、地元領主が貢納する代わりに統治を認められるのは、実際はロシアでもウクライナでも普通のことだったろうと思うが、この主人公の場合は何が特別だったのかもわからなかった。 そのほかドイツ騎士団の思惑がらみで王冠をもらえたのは喜んでいいことなのか不明だが、要は東よりも西につながるべきだと言いたかったのか。なるべく製作側の本意をくみ取ってやろうとはしたが難しい。外国の歴史映画は疲れる。  [雑記]映画と直接関係ないが、ウクライナ語のиをカタカナで表記する際、単独で「ウィ」ならまだいいとして、例えばДанило Галицькийを「ダヌィーロ・ハールィツィクィイ」と書くのでは日本人が読めない。「ダニーロ・ハーリツィキー」(またはハーリツキー)では駄目なのか。何のせいでこうなっているのか知らないが、これでは一般人には面倒くさい国と印象づけられてしまって親しみが持てなくなる。ウクライナ映画はもう見ない。
[インターネット(字幕)] 4点(2020-06-20 10:26:11)
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