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鱗歌さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 3986
性別 男性
年齢 54歳

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21.  ある兵士の賭け
この世で一番おっかないものは、「ふるやのもり」。ってことで。 愛情には恵まれているが建物には恵まれず、雨漏りの酷い孤児院で暮らす子供たちのため、座間~別府1300km強を14日間で踏破するチャリティに挑んだ駐日米軍人の物語。石原プロの作品ですが裕次郎は準主役の位置に下がり、セリフの多くは英語。冒頭のクレジットも英語表記で、やはり国際市場を狙ってたのかなあ、と。回想や後日談で戦争を描くシーンもあり、人的物量の点では物足りないながら、スペクタクルが織り込まれてます。 物語のメインは二人の兵士の行脚、ということで、その旅を追いかける形で、日本各地でロケ撮影が行われてますが、多少の混乱(?)もあって、尾道のシーンでは東向きに逆走して歩いていたり(こういう構図で撮りたかったんだろうから目くじら立てる話でもないけど)、広島市~錦帯橋のシーンの前に、岩国を歩く彼らの新聞記事が挿入されたり(これはさすがに何とかなったのでは…)。 ただ、これは製作時に意図したことではないんでしょうけれど、今見ると、バブル以前の「懐かしい昭和の日本」の光景が、映画のあちこちに散りばめられていて、こういうのは何だかイイなあ、とか思っちゃう。この一点だけをとっても、充分に貴重でユニークな映画に仕上がってます。 しかし主人公のアレン大尉、この無謀な挑戦をやり遂げるため、決然と歩き続けるのはいいけど、こんなどことも知れぬド田舎を歩くのは日本人だって不安だしまごつくもの。なのに、地図を眺める場面一つ無く、まるで既知の道であるかのように歩き続けるだけ。ちとインチキ臭く見えてしまう。一方、主人公に同行するテキトーな方の兵士、途中で体調を崩し車で大尉に追いつくのですが、これって旅の趣旨からすると反則のような…。 あと、関門海峡はどうやって突破するかと思ったら、物語の舞台である1960年にはすでに関門トンネルが開通してたんですね。で、二人はエレベーターで人道トンネルへ。ちなみにこの人道トンネルは国道2号線に指定されており、かつ、国道は他の道路と分離してはいけないので、このエレベーターも実は国道の一部なのだ、と言う話を聞いたことがあるのですが、国土交通省中国整備局のHPによると、それは事実らしい。 という余談はさておき、裕次郎が演じるカメラマン、どうも単細胞過ぎて困っちゃう。彼の心の変化が物語の重要なテーマとなっているので、最初はダメな奴として描かれててもいいんだろうけど、カメラマンという設定を作中で活かせていないのは、これはいかがなものかと。確かに、戦場の場面では身の危険を顧みずカメラを取りに行こうともしますが、基本的にこの人からは、カメラマンの矜持というか、「カメラが持つ力」への信頼、というものが感じられない。戦場において悲惨で理不尽な状況に出くわした時、怒りに駆られもするだろうけれど、戦場カメラマンとしてすでに多くの悲惨な光景を見てきた筈なのに今さら、この目の前の光景だけが特殊だと言わんばかりの反応を示すのも妙だし(それまで全く戦争の汚い部分を目撃しなかったのか?)、しかもその反応が「兵士を殴る」だなんて。そのカメラでもって世の中を変えようと思わないんだろうか、カメラにその力があると思わないんだろうか? アレン大尉に対する怒りがあるとは言え、わざわざつきまとってイヤミを言いに行くのも、いかにも小市民的。その彼もやがて心を動かされていくのだけど、その様の描き方といえば裕次郎フェイスのしかめ面を再三見せつけるばかり。それだけではこちらの心は動かされません。 裕次郎の描き方がイマイチなら、三船敏郎もなんだか窮屈そう。言葉遣いだけは豪放磊落なんだけど行動にそれが反映されず、演じがいが無さそう。 やっぱりジェームス三木は、映画ではなくテレビ向けの脚本家、なのでは。 ところで、映画の中では、徳山コンビナートやらガソリンスタンドでの電話拝借やらで出光興産を持ち上げてますが、もう一つ、見る側の違和感を顧みず投入されているのがサントリーへのヨイショ。工場で純生ブランドのビールが生産されてます。開高健と山口瞳の「やってみなはれ みとくんなはれ」を読むと、ついサントリーのファンになってしまうのですが、戦前に手放したビール事業を再開したのが昭和38年(この時に寿屋からサントリーへ社名変更)、当初は大手三社の寡占状態の中で苦戦を続けるも(ただしアサヒビール山本社長との間にちょっとイイ話あり)、昭和42年に投入した起死回生の一発が、この純生。この映画の頃だと、サントリーも押せ押せムードだったのかなあ。とは言え、後のプレミアムモルツの発売まで、サントリービールの万年4位状態が続くのだけど。 そうか。どうしてこんなに三船敏郎のノリが悪いのかと思ったら、サッポロビールじゃなかったからか。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2024-12-29 10:08:19)
22.  逢びき 《ネタバレ》 
作品全編にわたって用いられている曲はお馴染みの、ラフマニノフ作曲ピアノ協奏曲第2番。映画製作当時としても「古典的名曲」ってことになるのでしょうが、ラフマニノフという人は1943年に世を去っているので、この映画の2年前まで存命だったんですね。ロシア革命をきっかけにアメリカへ亡命してからは作曲よりも演奏家としての活動が中心となったため、作品の多くが亡命以前のものとなっており、この曲もそういう曲の1つ、であります(余談を続けると『ある日どこかで』で引用されるパガニーニ・ラプソディは後期の作品。なのであの映画の物語が成立する)。 有名な既存曲を映画の劇伴として使うのは、ピタリとハマれば絶大な効果をあげたりもするけれど、変に気になってしまい、気を削がれる場合もあるし、映像と完全には合わずに違和感を残してしまう場合もあって。この『逢びき』の場合はどうかというと、うーむ、これは違和感の方かもしれん(笑)。だけど、この音楽も含めて「古典的名画」ってことになるんですかね、もはやこれが違和感なのかどうか自分でもよくわかりませんが、少なくとも、今さらこれを別の曲に差し替えられたりしたら、その方が確実に違和感デカそう。 さてこの作品、中年男女の不倫のオハナシです。それを女性の側から描いています。夫は自分に無関心っぽいけれど悪い人では無さそうだし、ちょっとした日常のトラブルを「これは他の男性に心を動した自分への罰だ」と自らを戒めもするけれど・・・結局はこの、忘れかけていたときめく心には、抗しきれない。 それを描くにあたり、この作品では、主人公の女性の独白を映画に重ね続ける方法をとっています。これがはたして正解だったかどうか。独白は、時に彼女の表情や仕草を裏打ちし、時には内面と外面との乖離を浮き彫りにしたりもして、一定の効果をあげているのですが、その一方で、「独白に頼らずに映像でこれらを表現し切ったならば、どんな映画になったんだろうか」とも思ってしまいます。この作品の弱さがあるとすれば、そこなんじゃなかろうか。ただし、90分に満たないこの作品の緊密さは、一つには独白があってこそ成り立っているのであって、またこの緊密さがあってこそ、最後に物語の輪が閉じるようなこの作品の構成も、成立しているのだけど。  正直言うと、この医師は品行方正なフリをしてホントはとんでもないスケベ親父に違いない、とも思うし、別れの場面はオバチャン乱入でブチ壊しにされ、ザマーミロとも思うのですが、そういう心の汚れた私のような人間でも、やっぱり心のどこかで、切なさを感じたりもする訳で、珠玉の一本、と申せましょう。  ここでまたまた余談になるのですが、この別れの場面の、中途半端に投げ出される切なさ、みたいなものは、私に、オペレッタの作曲家レハールのエピソードを思い起こさせます。通俗作曲家のイメージがある彼も、無名時代の若い頃には芸術家を目指しており、かのマーラーへ手紙を出したりもしたが、返事は来ない。軍楽隊に所属していた当時の彼が、ある日その制服のまま汽車に乗ると、何と偶然にも、そこには憧れのマーラーが。軍楽隊を敵視しているという噂の彼からの冷たい視線を感じつつも、どうしても話しかけたいレハールは心の中で逡巡を続け、ついに意を決して口を開きかけたその時、列車は目的地に到着し、結局、会話することなくレハールは立ち去る・・・後に「あの時、話しかけなくてよかったんだろう」と回想する彼に対しては、この『逢びき』と同じくらい、乙女心を感じてしまうんですけどね。乙女心ってのはきっと、乙女以外の人が持つものなんでしょうね。
[インターネット(字幕)] 8点(2024-12-22 10:46:17)
23.  心の指紋 《ネタバレ》 
大赤字で映画会社を潰しかけたり、作品の内容が差別的だと叩かれたり、何かと物議を醸してきたマイケル・チミノ監督。結果的に、長編映画としてはこの作品が最後の監督作品となりました。こんなセンスの感じられない邦題をつけられてしまうくらい(?)、一見、穏当な作品で、もはや物議を醸すこともなく・・・いえいえ、充分、変な作品になってます。さすがです、チミノ監督。 わたしゃ、好きですよ、こういうの。 先住民の血を引く末期がんの少年が、人質にした医師とともに、自らのルーツとも言うべき“聖地”を目指して旅をする。まずこの少年がとても「16歳」には見えないイカツさで違和感ありまくり。医師が彼の元に向かうと、というかそれ以前に病院自体が(病院にしては)暗いように思ったのだけど、その少年のいる部屋へ入ると、そんな診察室があるかよ、というくらい異常に部屋が暗い。不気味過ぎ。 まんまと銃を手にした少年が、医師を脅して自動車で移動を始めると、その道中、この物語と全く関係のない「抗争の現場」があったりして、映画に対する違和感が募るばかり。こういう違和感が、たまらない(笑)。どうしてこういう描写が取り入れられているのか、製作サイドの意図を正確に汲み取ることはできないけれど、私は勝手に、現代アメリカ社会における対立の構図、みたいなものを織り込んでいるんだろうなあ、などと受け止めてます。というのも、その後も少年と医師が店に入るたび、だいたいイケ好かない客や店員がそこにいたりして。バラバラ、雑多な社会。医師の方も健康至上主義みたいなイヤな態度を取り続け、そのバラバラ感に輪をかける。ただし彼のこの態度は、一種の伏線になっている・・・。 少年は先住民の血を引いており、その先住民はこのアメリカ大陸に太古から住み続けていて、このアメリカ大陸というのは、こうやって多くの移民たちがバラバラ雑多な社会を作り上げる前からずーっと、先住民たちが根づく神秘の土地だった。今のアメリカ社会なんて所詮、ごく最近作られたものに過ぎず、都会を離れて車を走らせていくとやがて、峡谷がどこまでも連なる神秘的な「真のアメリカという土地」の景色が見えてくる。わざわざ物語に関係の無い「抗争現場」が映画に挿入されていたが故に、そういう対立とは無縁の、この不動の土地が、より神秘的に、しかし現実感を以て、感じられてきます。 一方で、それに比べりゃ矮小な存在たる人質の医師。少年に振り回され、少年と衝突し、ガソリンスタンドの場面で二人の対立は深刻なものとなるけれど、どんなに脅され、どんなに命の危機を感じようと、その手に嵌められた指輪だけは絶対に少年に渡そうとしない。このシーンを、これでもかという焦燥感をもって映画は描くのですが、この場面にグイグイひきつけられていくに従い、我々も「なぜ医師はあれほど頑なに健康至上主義のような態度をとっているのか」に気づかされます。彼がどれほどまでに、癌という病気を憎んでいるのか、ということに。 アメリカ大陸が長い長い歴史を抱えている一方で、それぞれの矮小な人間たちもまた、それぞれの歴史を抱えている、ということ。  最後に医師がその指輪を少年に渡してしまうのは、ちょっとセンチメンタルに過ぎるようにも感じたのですが、そう感じてしまう自分こそ、「その指輪がかけがえのないもの」だというセンチな気持ちにとらわれているのかも知れませぬ。やっぱりここは、断捨離、なんでしょうか。どうも馴染めぬ言葉だなあ。という、自分の弱さ。 少年は大地と一体化し、医師はそれは叶わないながらも精一杯、大地を駆け巡り転がりまわる。なんか、いいじゃないですか。
[インターネット(字幕)] 8点(2024-12-21 09:33:32)
24.  クイック&デッド
もうストーリーなんかスカスカで、ガラの悪い連中が集う、とある田舎町を舞台に、ガンマン同士の決闘大会が行われる、ただそれだけ。いや、何ならもっとスカスカでもよかったんだけど、シャロン・ストーン演じる女ガンマンを中心に、『タイタニック』で道を踏み外す前のレオ様が出てきたり、まだ痩せてた頃のラッセル・クロウが出てきたり、悪役はやっぱり(?)ジーン・ハックマンだったり、まさに枯れ木も山の賑わい。じゃなかった、何となく豪華な顔ぶれで、一応はそれっぽく物語を盛り込もうとしてます。ムダな足掻きですけどね。ははは。 ストーリーなんかよりも、映画の眼目は「どう撮ってどう見せたらオモシロいか」、ただ、それだけ。ほとんど荒唐無稽とも言えるような演出のつるべ打ち。中学生でも思いつかないような、中学生的発想のオンパレード。 こういうことを恥ずかしげもなくやってくれる、サム・ライミ。こんな映画を見て面白がっている自分も大概恥ずかしいのかもしれないけれど、ひととき、それを忘れさせてくれる、サム・ライミ。ありがとう、サム・ライミ。 と、最初に見た時には思ったのだけど、その後(とは言っても随分前の話になるけれど)ジョン・ヒューストンの『ロイ・ビーン』を見て、ビックリ。撃たれたヤツの体にキレイに穴が開いてるなんてアホな描写のネタ元が、こんなところにあったなんて。ジョン・ヒューストンもこんな恥ずかしいことをやってたなんて。ありがとう、ジョン・ヒューストン。 この『クイック&デッド』、基本的にはマカロニ・ウェスタン路線で、いや、どんなマカロニにも負けないくらいの「マカロニ過ぎる」作品なのですが、それでもやっぱりこのアホらしさ、能天気さというものは、アメリカ由来のものなのかな、と。黒人俳優の地位を切り開いてきた映画史の生き証人たるウディ・ストロードもまた、そこに顔を出していて。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2024-12-15 21:35:03)
25.  日本侠客伝 刃
日本侠客伝シリーズ最終作。この頃には監督もマキノ雅弘ではなく、この作品では小沢茂弘がメガホンをとっています。任侠映画の時代も終わりつつあり、いわば実録路線ブーム前夜、といった頃の作品。 日本侠客伝シリーズ開始の翌年に開始した昭和残侠伝シリーズ(ちなみにシリーズ終了も1年遅れ)からの逆輸入といった感じで、今作には池部良が登場し、キャラ的にも昭和残侠伝そのまんまの印象ですが、高倉健との関係の描かれ方はだいぶ異なります。というのも、すでにその道ではひとかどの人物たる池部良に対し、今回の健さんはというと、ボサボサ頭に無精ヒゲのチンピラ風情。 正直、なかなかの違和感です。ちょっと嬉しくなってくるではないですか。 で、やがて物語は、熱血代議士の大木実と、その活動を妨害する圧力団体の渡辺文雄との対立へ。渡辺文雄という人は一見、人の良いオジサンなんですが(いや、これは多分、テレビのバラエティ番組の印象も大きいけど)、こういうイジワルな役ばかりをやってて、確かに、狡猾さみたいなものを強く感じさせます。ちなみに、その部下の一人に、雑魚キャラながら変なカラテ使いみたいなヤツがいるのですが、これは川谷拓三ですね。 文無しの健さんを助ける芸者に、十朱幸代。いやここは藤純子でしょ、という役ですが、残念ながら十朱幸代です。美人ではあるんですけどね、どうしてこんなに残念なんでしょうね。ただ、芸者役とはいってもこの、シロウトっぽさ、イモっぽさみたいなものは、やっぱりこの人ならでは。それに演出の方もあまり彼女の演技力に頼らないような工夫が凝らされていて(笑)、あの海岸のシーンとか、なかなかいい感じ。 物語の後半は、歳月が流れて4年後となり、すると健さんももはやボサボサ頭ではない「ノーマル健さん」として再登場。待ってました!ってなところではあるのですが、あまりにフツーになってしまい、ちょっと残念でもあります。せっかく違う映画を見てたのに、いつも通りの映画をまた見せられるかのような。しかしシリーズなんだから、仕方がない。 という訳で、多少、とってつけたようなクライマックスの殴り込みに至る訳ですが、白い装束がやたらカッコよく、有終の美を飾るのでした。
[インターネット(邦画)] 7点(2024-12-15 10:35:51)
26.  どぶ鼠作戦
いや~。カオスですねえ。 ほとんど実験的とでも言えるような意表をつく場面転換の数々。それが作品のリズムとなり、ユーモアとなって、前衛性と娯楽性とが見事に結合しています。物語も、どこに繋がるのやら、どこまで広がるのやら。見てるうちにいったいこれが、何の作戦だったのやら、見てるうちによくわからなくなってくる、というより、どうでもよくなってくる。そういや、捕らえられた参謀の救出作戦だったっけ、と最後の方になってようやく思い出し、ああやっぱりどうでもよかったな、と再認識したりして。こういうカオスぶり、作品のカラーは全く違うけど、何となくセルジオ・レオーネ作品を思い出したり。『続・夕陽のガンマン』とか。 この作品に西部劇風のシーンが取り入れられていることも、そういう連想に繋がるのですが、1962年の作品ということで、一連のマカロニウェスタンよりもこちらの方が、先。 ユーモアにあふれた作品ではありますが、時にそれは、ブラックでシニカル。なにせ人の死が間近にある戦場。その残酷さを、煽るでもなく素知らぬ顔で作品の中に入れ込んでくる。その何気なさがかえって、戦争の理不尽さに対する怒り、告発ともなっていて。 とは言え、基本は戦争アクションであり、一種のスパイ映画でもあって、娯楽性には事欠きません。ちょっとイビツな面白さ、ではあるけれども。結局のところ、他人なんて誰も信じちゃダメよ、ってことなんですかねえ。信用し過ぎないところに生まれる、ちょっと粋な信頼関係。 それにしても、ヒゲの無い夏木陽介は、怖い。。。
[インターネット(邦画)] 8点(2024-12-07 08:33:05)
27.  ツォツィ
それっぽい音楽がそれっぽいタイミングで挿入されるときの、気恥ずかしさ、とでもいうのか、かえってしっくり来ないものがあり、この作品もその点で、悪い意味での「メロドラマ」になっちゃってる面が、あります。それでもこれが、主人公の境遇を代弁する音楽なんだよ、ということなのか、それとも、冒頭から陰惨な雰囲気が漂うこの映画、しかし一方で主人公が内面に閉じこもるような晦渋さも含んだこの映画を、「いえ、庶民向けの作品なんです」と中和しようとしているのか。もしももしも後者だったりしたら、映画の作り手が、映画を見る側のことを信用していない、ということにもなるのだけど。まあ確かに、我々一般の見る側が、作り手に信用してもらえるような反応を映画に対して示せていないのも事実かもしれない・・・。 見ての通り、こんなわかりやすい音楽を付けなくったって、難解な作品でも何でもないし、主人公の孤独を描いたこの作品にはむしろ、「音楽」よりも「静寂」の方が雄弁だったのでは、とも感じます。 主人公の孤独。 主人公だけじゃないんですね。夫を亡くして一人で子育てをするあの若い母親も、孤独を感じさせる。障がいをかかえたあの浮浪者ももちろん、そう。 アパルトヘイト後、アフリカ系の人たちの間でも貧富の差が広がり、主人公のようにスラム街に住む者もいれば、中には豪邸に住む者もいるのだけど、しかしいくら物質的に満たされているとは言え事件に巻き込まれ生活を根底から覆されてしまった夫婦にも、孤独の色が滲み出る。 そんな中で心の灯となるのが、赤ちゃんの存在。それはかつての自分の姿でもあって、とにかく、何とかしてやりたい。赤ちゃんは赤ちゃんなりに、オシメが濡れたり腹が減ったりすれば泣いて、生きていくツラさを抱えているんだけど、まだこの世間のツラさというものに接していない純粋さが、ある。どうやって育てればいいのかわからないし、自分と同じような生活をさせていればいずれはかつての自分のように、帰る家もなく土管で生活することになるのかもしれないけれども。かつて自分がいた土管には、今は別の子供がいて、同じような境遇が繰り返されていく。 主人公が出会い、不器用ながらもそれまでの無軌道な日常から変化させるキッカケとなるこの赤ちゃん、映画の中でその表情や仕草がうまく捉えられ、活きています。主人公はこの赤ちゃんを紙袋に入れて運ぶなど、やってることは最後までメチャクチャなんですが、不器用なりの接し方の中から、「何とかしてやりたい」という気持ちが浮かんできて。 その気持ちを主人公が表情に逐一出しちゃうのが、これもメロドラマとしてのこの作品の弱さ、のようにも思いつつ。しかしその表情の変化は控え目であって、彼の孤独を感じさせるのを妨げる程のものではなく、むしろ他者と接点を持つことで、その接点を探るような彼の視線の不器用さが、逆に孤独を際立たせているようにも感じます。 主人公を追う二人の刑事は、白人とアフリカ系とのコンビ。彼らもまた、何となく孤独に見えてくるのですが、彼らにはこの後、何が、できるのか。
[インターネット(字幕)] 7点(2024-12-01 07:36:10)
28.  ザ・リング 《ネタバレ》 
どうせアメリカ人専用のリメイク版だろうから別に見なくてもいいよなあ、とずっと思ってたのですが、「見なくてもいい」は「見てもいい」の裏返し、今頃になってようやく、見てみようかと。 で、今頃になって、「この“リング”というタイトルの由来は、そこにあったのか!」という事に気づかされ、妙に感心してしまったのでした。しかし、「気づかされた」とは言っても、そんな描写、日本版の映画にあったっけ? というか、原作読んだの随分昔で(新入社員の頃に寮の同部屋のヤツが貸してくれたのであった・・・遠い昔)、記憶が薄れてるのだけど、タイトルの由来って小説内で書かれていたんだっけ? とかいうことは多分、本質的でも何でもない些事なんだろうけれど、それでも何でも、こういうことがあるから、映画を見るのは面白い。 で、この“リング”の由来(だよね?)たる、例の井戸ですけれども、井戸の蓋を開くシーン、日本版を見てる際に思ったのは、「こういう場面、アメリカ映画ならきっと、蓋が開かれる様を井戸の内部から捉えたカットを挟んでくるだろうに、やっぱり邦画ってアッサリしてるなあ」ということで(実際は井戸内部からのアングルが無いとは言え、数カットを費やして蓋を開いているのだけど)。で、実際こうやってアメリカ版が作られてみると、やっぱりちゃんと井戸内部からの視点のカットが挿入されている。もちろんそんなワケが無いとは言え何やら気を遣ってもらったようで、いや、申し訳ない(笑)。でもこのアングルが“リング”にも繋がっているのだから、油断できません。 日本版の違いという事で言うと、井戸の中に「入る」んじゃなくて、「落ちる」んですね。確かに、日本版の「オレが入ったんだからオメーも入れ」で女性主人公を井戸の底へ追いやったんじゃ、アメリカでは受けがよろしくないかも知れませぬ。どっちみち、普通なら入ろうという気が起きる訳もない気色の悪い古井戸。主人公には何とかそこに入ってもらわないといけない訳ですから、超常現象風味を絡めて、ここは一発、落ちてもらいましょうか、と。 ってか、かつては日本版で「何で主人公が女性なんだよ」と思ったのに、もはやこの設定に慣れてしまったらしく、もともと主人公は男性、という記憶が、もはや消えつつある。やっぱ女性の物語よ、これは。男性が井戸に入るより女性が入った方が、何となく凄みもあるし。 さてさて、この作品。とにかく暗いんです。最初の方の、母子が車に乗ってる場面。外は雨で、薄暗く、あー鬱陶しい、気が滅入るような、イヤな日だなあ、と思うのですが、その後もずっとこのドンヨリした雰囲気が映画を支配しています。やや青みがかったような、寒色系の薄暗い映像。ところが例の井戸発見の場面になると、ここは夕焼けなんだか何なんだか、奇妙な赤い光が差してくる。暖色系の色合いの映像となりホッとするのかというとさにあらず、かえって異様で不気味な印象。 運命の7日間が過ぎて8日目の朝を主人公が子供と迎えると、ようやくここで、自然な光が差し込んできて、事件が解決したんだなあ、と思わせるのですが、もちろん解決などしておらず、この後、例のあの「これぞ貞子」なシーンが控えていることは、皆さんよくご存じの通り。
[インターネット(字幕)] 7点(2024-11-30 09:23:47)
29.  グラディエーターII 英雄を呼ぶ声
復讐心を胸に抱いた一人の剣闘士が、さまざまな敵との闘いに勝ち残り、ついにシリーズ最終戦を迎えるというプロレス的サバイバルは、前作で充分に描きつくされ、完結しているので、もうこの後何をやっても蛇足にしかならないのだけど、蛇足には蛇足の味わいがある、というのが続編映画の醍醐味。 前作の後日譚、という位置づけですが、前作の主人公マキシマスからの繋がりを軸に置きつつも全体的には、ローマ帝国自体のその後、その斜陽自体を描いたような作品となっています。今回も一人の剣闘士にスポットを当てつつも、必ずしも前作のマキシマスほどの存在感は示しておらず、どちらかというと群像劇としての性格が強まったようなところがあって。 今作でもド迷惑な皇帝が登場するも、今回は二人に増殖。カラカラ帝・ゲタ帝の時代。映画の中で「悪」を体現する二人だけど、二人であるがゆえに、悪としての求心力よりは、バランスを欠いた危うさを感じさせ、悪よりも「退廃」のムードが濃くなっています。 主人公はローマを呪い、二人の皇帝を呪いつつも、その最大の矛先は自分たちにとって直接の侵略者である将軍アカシウス。主人公とアカシウスとの対立関係、というのがこの物語においても重要な要素となっていて、映画冒頭の戦闘シーンがまさにそれ、スペクタクルとしては最大の見せ場になっているし、中盤の二人の対峙は、わたし個人的には一番盛り上がった場面。 さらにそこに、マクリヌスなる怪しげなオッサンの暗躍が絡んでくる。演じるはデンゼル・ワシントン、かつては優等生的な役を任されることが多かった彼も、こんなタヌキ親父を楽しげに演じる時代になったんだなあ、などと思ったり。ニヤっと笑った顔が、人懐っこいような、しかし腹に一物ありそうな。だけど彼の表情を読ませないような撮影のシーンも多く、謎めいた人物として表に裏に登場し、物語をかき回します。 今回の作品でもまた、主人公がいくつかの闘いに臨む訳ですが、そこに登場するのがどういう訳か、「人間ではないもの」が多く、サルだか宇宙生物だかよくわからんヤツだったり、まるで恐竜みたいなサイであったり、模擬海戦でまるで罰ゲームのネタのように仕込まれたサメであったり。「んなアホな」感があるのもまあ、確かなんですが、動物頼り、ということで、前作ほど人間自体が強くないというか、マッチョ感が薄れた印象があり、こういう部分でも末期的、退廃的なものを感じさせます。 とは言え、混乱の中、ローマ帝国はまだまだ続く。3作目は無い、とは思っているのですが、さて、どうでしょうか。
[映画館(字幕)] 7点(2024-11-30 06:57:52)
30.  犯罪王リコ
禁酒法時代はギャングの時代、実世界で抗争が繰り返されれば、映画の世界にもギャング映画の時代となってくる。タイムリーなネタが描かれている訳で、いつの時代も皆さん、敏感というか、まあ、お好きですなあ。 であると同時に、トーキーの長編映画が登場し、広まっていった時代。トーキー初期の作品、と言ってよいと思うのですが、この作品を見ていると、いかにもトーキーならでは、と言った感じで、意識的に「オフの音声」が取り入れらているようです。「画面外からの音声」だけではなく、例えば会話シーンで、語り手は向こうを向いていて口元が画面に映っておらず、聞き手の方の表情が画面に捉えられていたりして。音があってこそ可能となる、同時並行の表現。新技術が登場すれば早速、それを駆使した新しい世界の探索が始まり、またさまざまな形で繰り返されていく、っちゅうことでしょうか。 一方で、影を用いた間接的な描写など、画面上の多重性みたいなものもあって、サイレント時代の残り香のようなものも感じさせたり。 物語はと言うと、チンピラ風情の主人公がギャングの一味に加わり、暴走気味の行動で頭角を現していくけれど、その先には破滅が待ち受けている、という、ベタと言えばベタなお話で、それを80分で駆け抜ける。主演のエドワード・G・ロビンソンが、見るからにワルそう、と言っても狡猾タイプではなく、「ちょっと(かなり?)勘違いしてるヤツ」といった風情で、役にマッチしています。たぶん、こういうヤツが実際の世界でも少なからず、いたんだろうなあ、と。
[インターネット(字幕)] 8点(2024-11-24 07:54:36)
31.  まむしの兄弟 二人合わせて30犯
シリーズ第7作。これまでにも「懲役十三回」だの「傷害恐喝十八犯」だのというコケオドシのタイトルがついていましたが、ついに二人合わせて30犯。とは言っても、劇中のセリフを聞いていると、一人で20犯くらいいってるとのことなので、これでも実は控えめの数字なのかもしれない・・・と言うより、完全にナンセンスなタイトルなんですけれども、そんな作品の監督がなんと、あの集団抗争時代劇の工藤栄一というのだから、この世の中、裏ではどういう力学が働いているのやら、わかったもんじゃありません。 とは言え心配ご無用、兄貴分の菅原文太が出所する冒頭から、タイトルに負けないアホらしいドタバタが展開されていきます。しかし一方で、その出所のシーンにおける、逆光によるシルエットの描写などに、シリアスな空気も醸し出したりしていて。 以降も、表向きのアホらしさのその裏で、逆光や、あるいはリンチシーンのスローモーションなどでもって、魔の手が忍び寄ろうとしている不気味さみたいなものを感じさせたりします。 菅原文太とともに孤児として育った弟分・川地民夫が、実は資産家の息子だった、、、という展開で、生き別れた母という人物を訪問する二人が、大抵宅の前で小さく撮られている、そのユーモラスさ、しかしその裏で何かを企んでいる成田三樹夫と渡辺文雄の影、という二重底の構成。意外にこれ、シリアスなんです。 そして一種のラブストーリーでもあったりする。親子愛、ってのもあるけれど、不器用な男女の愛もまた展開され、意外にこれ、王道なんです。 まさかまさかこんなタイトルの映画で泣いちゃったりしないよう、心して、見るべし。
[インターネット(邦画)] 8点(2024-11-23 17:22:22)
32.  がんばれ!!タブチくん!! あゝツッパリ人生
先日の西田敏行さんの訃報を聞いて、変な話だけど、この人だけは永遠に活躍し続けてくれる人だと思っていた自分に気づく。自分が物心ついたときから今に至るまで、途切れることなくずっと人気を保ち続け、テレビや映画でその姿を見せ続けてきた、おそらく唯一のタレントさんなんじゃないだろうか。いつからこの西田敏行という人を自分が認識していたのか記憶が定かではないけれど、毎週楽しみにしていたテレビの「西遊記」では、マチャアキとともにすでに認識があったと思う(岸部シローのことは「誰やねんコレ」と子供心に思ってた気がする)。 コメディアンとしての一面、性格俳優としての一面、探偵局局長の一面を見せつつ、やはり忘れちゃいけないのが、この「タブチくん」における愛すべきアフレコ。モデルは田淵幸一選手とは言え、デフォルメしまくったアニメ映像、そのデフォルメをさらに超えてくるようなハチャメチャなセリフ回しは、もはや完全に西田敏行ワールド。本当のモデルはどっちなんだか、だんだんわからなくなってきます。 内容的には第3作になっても、相も変わらず・・・といったところで、極度に簡素化された背景画も相変わらずなら、荒唐無稽なドタバタも相変わらず。 そして、実在の人物をネタにどうしてここまでやっちゃって許されるのだろう、と思いつつ、それがどうして今やここまで不寛容な時代へと逆ブレしてしまったんだろう、とも思いつつ。 短期間に作られた大差のない全3作、とは言え、この第3作を見てると、いよいよヒロオカさんの魔の手が迫ってきたなあ、とか。ナカハタがまだ三塁のポジションを原にとられる前なんだよなあ、とか。それにしてもここまで「ゼッコーチョー」を連発してたっけか。実際、してたような気がしてくるから、コワい。 こんなとんでもないアニメが作られるような時代って、いつかまた、来ることがあるんだろうか?
[インターネット(邦画)] 7点(2024-11-23 09:08:03)
33.  ザッツ・エンタテインメントPART2
まー出るわ出るわ、ミュージカル映画の名シーンの箱詰め第2弾。すみません不勉強なもので、見たことも聞いたこともない映画も少なからずあり、気のせいか第1作よりもマニアック度が上がったような? それは気のせいかもしれませんが、いやはやとにかく奥が深い、この世界。ジャッキー・チェンあたりを嚆矢とする(源流まで遡ればサイレントのコメディ映画だろうけど)、俳優本人が人間離れをしたアクションを演じる映画、かつてはそれに相当するものがミュージカル映画だったのだろう、と思わせるくらい、超絶的なダンスが展開されていて、いやむしろ今のアクション映画の方こそがミュージカル映画の末裔なのかも。 と言ってもこの第2弾ではミュージカル以外も取り扱っていて、いや、ネタ切れなんて言っちゃいけませんよ、往年の映画、名シーン集。 その映像が、時にはかなり断片化され、「〇〇繋がり」みたいな感じで紡がれていく。それってまるで、ヤコペッティのモンド映画みたいな編集? いえいえ、ニューシネマパラダイスみたいだ、と言っておきましょう。 あと、今回の見どころは何と言っても、フレッド・アステアとジーン・ケリーが、歌って踊る! 全然衰えてない、とはもちろん言いませんが、そもそも全盛期がスゴ過ぎたのであって、衰え云々ではなく、比較するようなものでもなく、あの頃があって今がある、その味わい深さ。少なくとも痛々しさなどは微塵も感じさせず、充分にその上手さでもって「エンタテインメント」を体現し、堪能させてくれます。貴重な二人の共演、その物腰や佇まいから、人柄まで感じさせるようで。
[インターネット(字幕)] 7点(2024-11-23 07:03:43)
34.  LOOPER/ルーパー 《ネタバレ》 
そうそう、そうなのよね。ターミネーター1作目のT-800の部品がこの世から消滅したら、未来は書き換えられたのだから、その消滅の瞬間をもってターミネーター2のT-800の姿もかき消えちゃうべきなのかどうか、という問題。 それはともかくとして。 この作品、いかにも「小説を映画化しました」っぽい雰囲気があるんですが、実際はオリジナル脚本らしく、「まず小説にしたら面白くなりそうな題材を、映画のためだけに準備してくるなんて、すばらしい! やればできるじゃないか!」 ってことで、いいんだろうか。なんかちょっと、ダメな気が。 映画用に脚本を書くのはそれを「映画」にしたいからであって、あるいは原作小説を映画用に改変するのもまたそれを「映画」にしたいからであって。しかるに、原作も無いのに「原作小説の映画化」っぽく感じてしまうというのは、言葉を変えると、アイデア先行でそれを必ずしも「映画」に昇華しきれていない印象。アイデアと、出来上がった作品との、分離感。まあ、実際に原作のある映画だって、うまくやればこんなことは感じずに済むのですが。 いや、この作品、いい雰囲気は、あるんですけどね。のどかな景色、音楽も抑え気味にして、静かな雰囲気での統一感。 ただ、登場人物の描き方までが静的というか淡泊、彼らの抱えるバックグラウンドなども、もう一つ心に響いてこない。ストーリーの都合で配置されただけのキャラ・・・少なくともブルース・ウィリスは、そんな感じ。 今の自分と未来の自分が対立する。両者の間には(それなりに「取返しのつかない」)時間と経験の差分があるはず。その差分の描写が、この程度でいいんだろうか。というより、どちらも「自分」なんだし、相手にもうちょっと関心を持たないものなのかしらん。 そういう要素が作品に不要なら、別に省いてもいいと思うけど、この作品には必要だったんじゃないかなあ。  古典的なSFの発想だと、「過去の自分が消えれば未来の自分も消滅する」となるけど、それを逆順にしてみせた(未来の自分が消えることで今の自分が消える)のが、この作品の最大の功績ですかね。
[インターネット(字幕)] 6点(2024-11-23 05:50:18)
35.  導火線 FLASH POINT
ベースはカンフー映画ですが、飛びつき式腕ひしぎ逆十字やら、三角締めやら、総合格闘技風味が加えられております。新日本プロレスのかつての迷走が、ここにも伝染していたか、と。ジャーマンスープレックスみたいな技も出てくるので、格闘技風プロレス式カンフー映画。 概ね、登場する若い男性はムキムキで、若い女性は美人で、どんな大怪我をしても顔だけはかすり傷で済む、というシステム。安心印ですね。そんなことでいいんだろうか。敵は、タコ殴りにされるとそれなりにヒドイ顔にはなります。 ドニー・イェンが「若い男性」の部類に入るかというと、当然入らないはずなのですが、一番ムキムキしてます。いや、さすが。 で、彼が演じる主人公、日頃は冷静に見えるけれど、「怒りの導火線にいったん火が付いたら大暴走、我を忘れて敵を叩きのめす」という役どころ、らしい。ここの描写がもう一つ弱くって、イマイチ狂気が感じられないんですね・・・というか、本格的なマーシャルアーツに見せようとすればするほど、冷静に見えてしまうんだから、しょうがないのです。中盤で一度は見せた狂気も、だんだん薄まってしまう。 あの、チキン爆弾のくだりも、何だか妙で、もう一つ盛り上がりに欠け、演出にも問題ありかも。いやそれ以上に、音楽がうるさいばかりでどうもセンスが感じられず。劇伴音楽ってのが映画でなぜ流れるかというと、実は、「盛り上げるため」というのはあくまで副次的なもので、「効果音が最小限で済む」というのが一番大きいのでは。 とか何とか言っても、いざアクションが始まれば、いやさすが。銃を手にしても銃撃戦一辺倒にはならず、銃を抱えて走って見せる、追跡劇。これはなかなかにスリリングでした。
[インターネット(字幕)] 5点(2024-11-17 18:46:17)
36.  スプライス 《ネタバレ》 
観ているとどうしても、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督と同じくカナダ出身の先輩監督の名前が浮かんでくる。ああ、これって、デヴィッド・クローネンバーグだなあ、と。 例えばあの『ザ・フライ』なんてのは妙な作品で、映画が始まったら殆ど前置きも何もなく、いきなりジェフ・ゴールドブラムが「オレって凄い研究してるんだぜ」みたいなことをジーナ・デイヴィスに吹聴している。そんでもって物語はとっとと禁断の実験へとなだれ込み、あとはひたすら、主人公の体に生じた異常が描かれていきます。登場人物がごく限られた、割と「内輪」のお話でして、これらの人物はそれぞれ、どこかイヤな部分があり倫理的な問題を抱えているにせよ、誰も悪人という程の人はおらず、なのにメチャクチャ悲惨なお話が、その特異な映像でもってこれでもか綴られていって。 ただただそこにあるのは、決して引き返すことのできない、残酷な変化。 この『スプライス』でもまるでこの『ザ・フライ』を踏襲するかのように、エイドリアン・ブロディとサラ・ポーリーはあれよあれよという間に異常な実験へと突き進んでいって、あとは、その実験がもたらした奇妙な日々が描かれます。人間に似ているけれども、人間に非ざるもの。それが、社会とどう関わるか、どう排斥されるか、などといったことはまるで描かれず、そこにあるのはただ、この3人による「内輪」のお話。ただしその中で展開される変化というものは、我々の予想を超える速度で、我々の予想ができないような方向に進んでいく。いや、マジでついていけん。と言いつつ、心のどこかに「ああ、やっぱりそうなるのか・・・」という思いもあって。こういう不条理感がまた、クローネンバーグ作品を思い起こさせます。 この「ドレン」なる生命体の描き方、幼少時の姿が登場した際は違和感ありまくりでギョッとさせられ、何だか映画が間違った方向に向かっているんじゃないか、と心配になりますが、成長すれば違和感も無くなり・・・ということは勿論無くって、違和感はずっと消えないし「間違った方向」感も消えないんですけれども、一方で、別の危うさも、何となく感じさせる・・・つまりそれが、「ああ、やっぱりそうなるのか・・・」に繋がる訳で、結局のところ映画が向かうのは、我々が予想できない方向というよりも、我々が予想したくなかった方向。 という訳で、ヒジョーに残念ではあるのだけど、「ドレン」の描写は結果的に、上手かった、ということになります。 全体的には、クローネンバーグ作品を思い起こさせること自体は悪くないとしても、その亜流止まりであるように感じさせるのは、少し残念でした。ラストもぶった切るように終わってしまう『ザ・フライ』と比べると、こちらの方がナンボがオチをつけようとはしてますが、言tっていることは同じという(笑)。変な続編が作られちゃっても知らないよ。いや、もうそれは無さそうか? それにしても、やはりというか何と言うか、エイドリアン・ブロディは役に立たんヤツを演じるとピカイチですな。演技かどうか知らんけど。
[インターネット(字幕)] 6点(2024-11-17 06:10:15)
37.  美女と野獣(1991) 《ネタバレ》 
ディズニーアニメの復活を象徴づける一本で、実写映画に交じってアカデミー作品賞にもノミネートされ、毎年のように「ディズニー新作」が良くも悪くも話題となる時代でした。が、今、振り返ると、この後にはCGアニメの時代の到来があり、「ディズニー手描きアニメ大作時代末期の一本」、という印象もあります(この頃の一連の作品、2000年代に入ってもディズニープリンセスの括りで女の子には人気を保っていたけど、男の子の興味は早々にCGアニメの方に向かっていたような・・・)。 いずれにしても、この頃のディズニーとしては、社運を賭けるような想いで新作を作ってたんだろうなあ、と。 手描きとは言え、CGの援用が目を引きます。ただ単にCG描写を混ぜ込むと、そのメカニックな動きが浮いてしまったりしかねないのですが、そこは、実写人物をトレースした『白雪姫』以来の立体的な動きに事欠かないディズニーアニメの伝統、手描き部分にもCGに負けない立体感があって、両者がそれなりにうまく溶け込んでいるように思います(いや、違和感ゼロとまでは言わんけどさ)。 まずは作品開始早々の、登場人物の紹介を兼ねたような一連のシーケンス。画面上ではあらゆるものが動き、そこに、ヒロインとガストン君との重唱、さらには合唱がオペラ的に被さる。映像と音楽が織りなす、見事なアンサンブル。もう、このシーンだけでお腹いっぱい。 オペラ的と言えば、ガストン君の吹き替え版の声はオペラ歌手の方がやってて(オリジナルの声も?)、えらく迫力ありますが、ガストン君、やっぱり最後は死んじゃったんですかね。あんなに張り切って朗々と歌ってたのに、可哀想ですねえ(笑)。しかしまたそこがオペラっぽいところでして。 子供も見るアニメなので、ガストン君の死体は見せたくない。けれど死んだことは何らかの形で暗示したい。ということで、落下するガストン君の目に一瞬、ドクロマークが浮かぶのですが、私の乏しい動体視力では「あれ、今の何?」という程度にしか見えず、再生を一時停止するという反則行為に及んでようやく視認可能。こういうサブリミナルっぽい演出って、大丈夫なんですかねえ。サブリミナル効果、否定肯定含めて諸説あり。
[地上波(吹替)] 7点(2024-11-16 06:12:46)
38.  CURED キュアード 《ネタバレ》 
感染したらゾンビみたいになっちゃう病気。という設定は、『バイオ・インフェルノ』あたりが元祖なのかどうなのか、ゾンビ映画界で脈々と受け継がれる定番のようになっていて、これ自体が一種の病気、のような。 しかしこの作品の一風変わっている点は、その病気が完治する場合がある、という点。しかし完治したとて、周囲からの冷たい視線に晒され続ける。そういう、ゾンビ・パニックその後、みたいな世界を描いています。おそらくはこの作品では、「社会の分断」という問題を描く一般的な象徴として、この病気が設定されたのでしょうけれど、この作品が制作された後の実世界において、新型コロナのパンデミック騒動が巻き起こり、実際に差別や分断が発生・・・という訳で、象徴(隠喩)ではなく予言(直喩)であるかのような作品となっています。 いや、それだけではなく、病気が完治しても本人には、ゾンビ化して他人を襲った際の記憶が残り続けている、という設定。前世の因縁、あるいは人間の原罪。といったものも感じさせます。 だもんで作品自体も、かなり鬱屈したような、閉塞感に満ちた雰囲気で作られています。登場人物たちは、ある程度立場を同じくしてもいるのだけど、緊密な連携というには程遠く、それぞれの立場でそれぞれの接点を持ちつつも、全体としてはどこか、空虚。 そんな中でやがて、分断が分断を呼び、カタストロフへと向かうことになるクライマックス。静から動への移行、しかしそこには常に虚無感に裏打ちがあり、結局は居場所を失い「ここではない、どこか」に向かわざるを得ないラスト。これは基本的には「死」と読み替えてもいいと思いますが、これを、ただただ絶望と受け止めるか、それとも将来へのかすかな希望もそこに見出すか。
[インターネット(字幕)] 8点(2024-11-10 08:06:03)
39.  バンブルビー
これは、子供向けの映画・・・という言い方をすると、映画のことも子供のこともバカにしているように聞こえるので、「子供の目線を持った映画」とでも言えばいいのかな。 主人公の女の子には、「父親を亡くした」という設定が与えられ、鬱屈したような日々を送っているのだけど、メチャメチャ不幸っていう描かれ方でもなくって。母親が付き合い始めたのはヘラヘラしたイヤな男、だけどヘラヘラしているだけで別に悪い人という訳でもなさそう。主人公の弟もなんだかイケ好かないけれど、まあ、きょうだいなんて多かれ少なかれそんなもんでしょう。誰が悪いってこともなく、再婚に向けて動き始めた家族の中で、何となく溶け込めない、居心地の悪さ。 はたまた、バイト先でも失敗をやらかし、自分をバカにしたような周囲の視線。イヤなヤツばかり。 不幸は不幸なんだけど、あくまで日常感に裏打ちされていて、そういった辺りが、「子供の目線」を感じるところ。誕生日だからとボロ車くれる知り合いのオッサンがいたり、声かけてくれる男の子がいたり、実は結構恵まれてるんじゃないの、とも思えるけれど、それらを主人公から取り上げるほど残酷な設定は、この映画では採用しません。あくまで日常レベルの、誰もが多かれ少なかれ感じているような、鬱屈の日々。しかしオッサン、車一台タダであげるのは気前良すぎで、せめて便所掃除くらいさせりゃいいのに。 便所掃除は免除とは言え、ボロ車ゆえメンテは大仕事、その一生懸命さが分身の術(?)でコミカルに表現されますが、このボロ車が実は宇宙からきたロボット生命体(という表現で良いのか?)バンブルビーであって、少女との交流が描かれる、、、というのが物語のメイン。 映画を見ていくと、母親の彼氏も主人公の弟も結構いいところがあったりして、基本的に「悪い人間」は登場しません。そりゃまあ、ヤな奴ってのはいますけど、極悪なのはあくまで人間ではなく敵のロボット。バンブルビーを捕まえようとする軍人も、悪人ではなくひたすら杓子定規な人。杓子定規であるがゆえに主人公たちを圧迫する、子供から見た学校の先生のイメージですかね。 この映画の魅力はやっぱり、バンブルビーの細かい仕草。これも子供っぽさがあって、愛嬌を感じさせます。最初に地球で姿を現した際の、木漏れ日の中のその姿、存在感にはちょいとドキリとさせられますが、軍に追われ、追い詰められた坑道前でさらに敵のロボットの襲撃を受け、目まぐるしく舞台を変えての戦いの中で発声装置を破壊されてしまう。そのおかげと言うべきか、以降話せなくなったバンブルビーはその愛嬌ある仕草でもって、我々を魅了してくれます。一部、ラジオ放送で流れる歌の歌詞で意思表示するギャグのおまけつき。 この冒頭の戦闘でも、舞い上がり、転げ落ち、結局元の坑道前で決着がつくのですが、一連の成り行きを軍人(ジョン・シナ)は目撃しているはずなのに、その後もバンブルビーを追い続けるのが、やっぱり大人の融通の利かなさ。ただし、その想いは別のところにあるのかも知れない、という含みも持たせています。 「子供の目線」ということで言うと、主人公の女の子と、彼女を支える男の子との関係。いや、さすがにそこまで子供というような年齢でもないとは思うんですけど、あくまで「ほっぺにチュー」くらいまで。このウブな感じ、むずがゆさ。これで、いいんだと思う。美男美女とはちょっと違うけれどそれでも二人、イイ顔してるなあ、と。 この二人がベタベタしてない一方で、機械であるバンブルビーとのスキンシップみたいなものは描かれていて、頭を撫でられたり、ラストでは顔に手をあてる、抱擁しあう。 壁にレーガン大統領の写真が掲げられている?と思ったら、どうも舞台は80年代らしく、でもそれが押しつけがましい表現にはなっていない(懐古趣味に陥っていない)のが、基本的には好感持てます。でももうあと少しだけ、80年代らしさが織り込まれていてもよかったかも? 思わんでもないけど、「子供の目線」からは、そんなことはどうでもいいのかも知れませぬ。ところどころ、実物は見たこと無いけど知ってるよ、という80年代らしいアイテム(ビデオテープとか)が登場。『遊星からの物体X』のポスターは、果たして80年代を代表するアイテムなのか否か? クライマックスのロボット対決も、派手に繰り広げてはいるけれどあくまで少数同士の戦いに留め、インフレを起こすことなく丁寧に描いているのが、これも好感持てます。インフレでも別にいいんですけど、真のクライマックスをエモーショナルなラストシーンへ持ってこようと思えば、これは賢明な描き方と言えるのでは。
[インターネット(字幕)] 8点(2024-11-04 10:24:29)
40.  楽聖ショパン
何年か前に「ピアノ協奏曲の誕生」(著・小岩信治)という本を読んで(図書館で借りたもんで今、手元に無いのですが)、妙に納得した記憶があります。ショパンのピアノ協奏曲に対して何となく感じていた違和感というか距離感というか。高校生くらいの頃は好んで聴いていたはずなのに、そして嫌いになった訳でも飽きた訳でもないのに、だんだん、CDへ手を伸ばそうという気が起こらなくなってきて。 特に第1番は、先に書かれた第2番に対してさらに長大化して40分前後に及ぶ大曲、若書きとは言え、さすがはピアノの詩人・ショパン!となりそうなところ、なんですが。 何かが妙。大曲であってピアニズムも充実、なのに、それに見合うスケール感が無い? ということなのかどうなのか、自分でもよくわからなかったんですが。ちなみに、ほぼ同時期生まれのメンデルスゾーン、リストのピアノ協奏曲は緊縮化に向かっており、シューマンも30分ほどの、いわば「普通サイズ」(1810年前後生まれの有名作曲家って、多いんです)。後のブラームスとか、ブゾーニとか(全5楽章、合唱付)とかは、別次元のオハナシ。 要は、ショパンのピアノ協奏曲は、ワルシャワ時代に書かれたものであるが故に、ヨーロッパの最先端の音楽からはちょっと遅れた、古い形態のもの、ということなんだそうな。確かに、オーケストラは序奏、伴奏、間奏に徹している面があって、なるほど、入れ物は古典派チックなのに、そこに斬新なショパンのピアノが入れられているせいで、何やらこの曲がバリバリのロマン派音楽であるような思い込みが私にあって、だんだん距離感を感じるようになったらしい。・・・というくらい、ショパンの独自性、先進性が高かった、ということで。  何の話だっけ。すみません、この映画にピアノ協奏曲は出てこないのに。 ショパンの少年時代から始まって、パリでの社交界デビュー、リストやサンドとの出会い、その死までが描かれます。なので一見、伝記映画の体裁ですが、脚色も多々あり(大半、と言った方がよいかも)。パリではカルクブレンナーなるちょっとイヤな人物とも少し接点を持ち、映画ではえらく扱いの悪い描かれ方ですが、どちらかというと少なくとも一時期は、ショパンの方がカルクブレンナーを称賛しており、彼への弟子入りも考えていたのを周囲が止めた、という話だったはず(上述のピアノ協奏曲第1番をショパンはカルクブレンナーに献呈している)。もうちょっとこの二人の関係を掘り下げたら映画に幅が出て良かったかも、、、などと思うのは、この映画の中心がショパンだと思うからであって、むしろこれは、ショパンとその師・エルスナーの友情の物語、見ようによってはエルスナーの方が主人公とも言えます。カルクブレンナーには憎まれ役をお願いする必要あり。ちなみにショパン少年の才能を見抜き音楽理論の指導をした実際のエルスナーは、ワルシャワ音楽院の院長であって、こんなしがない田舎教師としてショパンのパリ生活に付き合った訳でもないし、そもそもショパンの目的地が最初からパリだった訳でもなし。ってなことはどうでもよくって、この映画における「エルスナー先生」の、何とも言えぬ味わい深さ。これが、映画を支えています。 ショパンを演じたコーネル・ワイルド、劇中で流れる音楽を本当に自分で演奏している訳ではないでしょうし、指のクローズアップは代役でしょうが、明らかに本人が指の動きを見せるシーンも少なからずあり、雰囲気を壊すことはありません(音符と指の動きとが合致しないシーンもありますが、この辺りは迫力重視、といったところでしょうか)。 この映画の残念なところは、スタジオ撮影の多用があまりいい方向に向かっていない点でしょうか。はるばるマヨルカ島へやってきたとて、どうも映像的に変わりばえがせず、いささか面白味に欠けます。地中海らしい光景や空気感もなく、ただ行ってただ帰ったみたいな。 ショパンの病気についても作品中ではもう一つうまく描かれず、演奏中の汗や喀血(?)でそれが示されるとは言え、やたら顔色いいし。さすがに最後の死の床では顔色悪いですけども。なんか、唐突な印象。ついでに、祖国への想いも劇中で描かれはするけれど、やや表面的か。 という訳で、やっぱりこれ、主人公はエルスナーだと思う。ショパンは、脇役。 編曲・原曲を含め、劇中でショパンの音楽が再三取り入れられて、歌は無くともこれは一種のミュージカル。その点では飽きさせない作品となっています。
[インターネット(字幕)] 6点(2024-11-03 12:24:33)
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