21. 新諸国物語 笛吹童子 第三部 満月城の凱歌
泣いても笑っても、いよいよ全三部作の最終作。 いかん。書くことが無くなった(笑)。 普通なら物語の結末を迎えるこの最終作こそ、熱く語るべきところなんでしょうけれど。 白鳥隊とやらが結成され、新兵器たる鉄砲も準備。いよいよ、城を乗っ取った野武士の首領・玄蕃に対する反撃の狼煙が上がる。 終盤の合戦シーンなどの見どころもあるのですが、いかんせん、「相手は所詮、野武士だし、これじゃあ勝つに決まってるよなあ」というのもあってか、不思議なくらいの尻すぼみ感。 やっぱり真の見せ場は、霧の小次郎の生き様とその最期。なのかなあ。これも最後までどこか、トホホ感が付き纏ってます。 三作合わせると二時間半近いのかな。そう思えばそれなりの「大作」ですが、ラストシーンは全く粘りも何もなく、また断ち切るようにスパッと終わっちゃう、その潔さは、ちょっと好感持てます。 [インターネット(邦画)] 5点(2024-10-14 08:58:17) |
22. 新諸国物語 笛吹童子 第二部 妖術の闘争
《ネタバレ》 ♪で~てこい、で~てこい、あがってこい ははは。ナメとんのか、と。耳について離れなくなってしまったではないか。 という訳で、意外な展開の下、突然終わった第一部に続く、待ちに待った第二部です。待ってないけど。 そうそう、第二部の冒頭で第一部のあらすじが極めて完結適確に紹介されますので、第一部をボーっとしか見てなくても、あるいは全く見てみてなくても、たぶん問題ありません。しかし、この第二部では物語が完全にアサッテの方向に向かって行きますので、この「置いて行かれた感」を楽しむためにも、やっぱり第一部は見とかなくちゃいけません。 第一部のラストで現れた怪人物、霧の小次郎が第二部で重要な役割を担います。ってか、主人公、と言っちゃってもよいかも。演じるは、大友柳太朗。独特の滑舌の悪さ(?)が、なかなか役にハマってます。大江山に棲む酒呑童子…という訳ではないですが、大江山を根城とする妖術使いです。いろいろとあやしい妖術を使い、だもんで特殊効果もふんだんに使用されます。若い女性を次々にさらってくる極悪人、かと思いきや、それは生き別れの妹を探すためであり、さらってきては、ああ、またも人違いだったか、と。 充分、極悪人ですね。 しかしついに今回、実の妹・胡蝶尼との出会いが待ち受けている。あ、冒頭に書いたのは、胡蝶尼の歌です。彼女は、妖術使いの婆さん以下、数々の妖怪たちとともに黒髪山に棲んでいて。。。 妖怪の中に、やたら高身長の唐傘オバケがいて、これはいくら何でも傘のサイズじゃないでしょ、と。しかも、妖怪どもが妖術で眠らされる場面で、他の連中は横たわるのに、唐傘オバケだけ面倒くさかったのか、直立姿勢のまま失神してます。ってのはどうでもいいけど。 第一部のオハナシはどうなったんだよ、というと、この妖術師・霧の小次郎の物語に、サブ・ストーリーとして絡むくらいの感じですかね。それは言い過ぎか。第一部で敵に捕まってた連中が、今度は妖術婆さんに捕まってたりして。 肝心の笛吹童子はというと、相変わらず大したことしてませんが、どうやら彼の吹く笛の音が、どういう訳か霧の小次郎を苦しめるらしい。人造人間キカイダーみたいですね。という訳で、今回も物語に微妙にかするだけの笛吹童子。 ラストはまた一大事が発生し、これ、普通ならツッコミたくなる展開ですがツッコむ暇もなく、次回へ続く。 という慌ただしい展開、途中(あるいは第一部と第二部の間)、物語の描写不足で「?」な部分もありますが、第三部冒頭でまた端的にあらすじを説明してくれますから、ご安心を。 [インターネット(邦画)] 6点(2024-10-14 08:45:27) |
23. 新諸国物語 笛吹童子 第一部 どくろの旗
《ネタバレ》 冒頭の東映マークが「波ざっぱーん」ではない、古い作品。三部作の第一部、ですが、三部作と言っても1本あたり1時間に満たない、興行の余白を埋めるような添え物的作品です。こういった作品が当時の子供たちを熱狂させたんだな、と思うと興味深いところですが、その興味深い理由というのが、今の我々の目で見ると正直かなりキツ~いものがあるので、ああ当時はこんなのでも楽しめたのか、と。新鮮さ、って大事ですね。 物語の発端が描かれるこの第一部、これだけ見たとて何とも言いようが無く、そもそも肝心の笛吹童子が全く活躍しないんです。いや、全三部にわたって、たいして活躍しない、というか、登場シーン自体が多いとは到底言えないもんで、その点は、文句を言うよりも第1部の段階で慣れておいた方がよろしいかと。まあ、脇役ないしそれ以下です。 笛吹童子・菊丸を演じているのが、若き日、若すぎる日の、中村錦之助。これは一見の価値あり。と言いたいところですが、どうも心許なくって。対話シーンなどでの手持無沙汰感、もうちょっと何とかならんか、と思っちゃう。ただしこの辺りは、演出側の責任、あるいは当時の東映の余裕の無さ、でもありますが。 城を乗っ取った野武士の大将に、月形龍之介。どうもこういう豪快タイプの悪役のイメージとは合わないような気がしつつ、しかししっかりと豪快に演じ、何より、殺陣の腕前はさすが、大したもの。 笛吹童子の兄・萩丸(演じるは東千代之介。イケメン兄弟の設定ですな)は、敵の手に捕らえられた挙句、骸骨マスクを顔につけられ、危機一髪。よくわからんが、このマスクが顔から外れないんです。こういう胡散臭いアヤしさが、いいじゃないですか。 さらには彼らの数少ない味方も敵に捕らえられ、あわや磔の刑に! しかしそこに異変が! というところで、次回に続く。。。紙芝居に夢中になるように、みんな楽しんでたんでしょうね。第一部ではまだ控えめですが随所に特殊効果も使われたりしていて。 第二部、いかなる展開が待ち受けるか? [インターネット(邦画)] 5点(2024-10-14 07:56:13) |
24. 続・拝啓天皇陛下様
前作同様に軍隊ラッパから映画が始まって、え、時間逆戻り? これってタイムリープものだったの? もちろんそんな訳はありませんが、そう考えたけりゃ、それもあり。純朴なる前作の主人公が送ったかもしれない別の人生。しかし、前作から少しモジっただけの主人公の名前は、その匿名性も表している訳で、あくまで様々な人生の一つに過ぎないんだよ、と。 渥美清の顔立ちが「匿名性」を表しうるかというと、そこはちょっと自信ありませんが・・・。 前作では長門裕之の目を通して主人公が描かれていたのに対し(どんなに久しぶりであっても当たり前のように姿を現すのが面白い)、今回は淡々としたナレーターの語りが入り、やや愛想が無い印象ですが、二番煎じを避けようという工夫でもあるのでしょう。軍隊時代以来の二人の友情、というところから視点を大きく変えて、主人公が友情や愛情をはぐくむ相手は、軍用犬であったり、外国人であったり、障がい者と言えるかもしれない「ケイコ」であったり。弱い立場の者たちへと視線が向けられています。 前作から視野が広がっているとも言える反面、若干、作為的に感じてしまうのは、脚本に山田洋次が加わったことと関係しているのか、どうなのか。 夕日を背景に、死んだ兵士の棺をかついで行軍する姿を遠景に捉えた描写、こういうのは、ハリウッド映画にも負けてないんじゃなかろうか。 [インターネット(邦画)] 7点(2024-10-13 08:11:39) |
25. ファミリービジネス
《ネタバレ》 よく、男女の「三角関係」、なんて言われますが、いやそれ、“三角形”ではないでしょ、と。その関係に、三角形と言えるような対称性は無いので、むしろ「Ⅴ字関係」なり「T字関係」なり、この非対称性をうまく表す言い方って、無いもんだろうか? そこにくると、この作品。親子三代、泥棒一家のオハナシ。爺さん、父、息子、こちらの方が余程、「三角関係」なんじゃなかろうか? それぞれがそれぞれに対し、微妙な関係を保ち、三角形を形成。瞬時瞬時を見れば対称ではなくとも、総じてみれば、どこか似たり寄ったり、この親にしてこの子あり、この孫あり。 で、この3人を演じるのが、80年代後半から役の幅を広げ活き活きし始めたショーン・コネリー、2度目のオスカーを受賞したダスティン・ホフマン、当時の若手の中で目立っているという程でもないけどまあそれなりに注目株のマシュー・ブロデリック(彼ぐらいの範囲までブラット・パックの一人に数えてちゃってよいものなんだろうか?)。なかなかに贅沢な布陣で、人気俳優をただ集めりゃいいってもんじゃないでしょ、とは、誰しも思うところ。お互い全然似てないしなあ、とも、誰しも思うところ。 しかし、お互い似てない、ってのは、この作品ではOK、というよりむしろ、狙い通り、なのかも知れませぬ。似てない3人の自己主張ゆえ、浮かび上がる三角形の関係性。爺さんのS・コネリーばかりがやたら背が高いのも一見奇妙だけど、M・ブロデリックとD・ホフマンが向かい合い、その向こうに正面向いてS・コネリーが立っていると、ちゃんと3人の顔の位置が三角形をなしている。 実際、この映画、この3人の配置をどうカメラに収めるか、ということに、やたら拘っているような。あるいは、それを楽しんで撮っているような。 前半、3人がバーで揃って会話するシーン。ここは、言い合うS・コネリーとD・ホフマンの姿が一人ずつ横から撮影されたものが繋ぎ合わされ、映像的にはその会話はブチブチと切られています。しかしこの場面、実際にどのように撮影されたのかは知りませんが、雰囲気的にははまるで、一気に演じられた二人の会話を複数カメラで実況風にとらえたような、勢いがあります。この段階ではまだ、二人は「線」の関係。それが、映画が進むに従い、時に対立を交えつつも何だか3人それぞれが互いに補完するような、「三角形」の関係が浮かび上がってきます。 いったん完成したような3角形が、後半、事件をきっかけにまたイビツになっていくのですが、この転機となる事件におけるM・ブロデリックの無能ぶりたるや、もう一体何やってんだか、ため息を通り越して笑っちゃうほど。笑いごとでは済まないけど。でも、爺さんから見た孫、父から見た息子、の姿ってのは、やっぱり、こんなもんでしょ。どうしてあそこまでドン臭いのか信じられぬ、と思っちゃうけど、その事実は受け入れねばならぬ。父もまた若い頃には爺さんの目にそう映ったのかもしれないし、爺さんだって若い頃には。 親子3人、困ったヒトたちではありますが、一方で、彼らを取り巻く移民社会みたいなものも描かれていて、血の濃さ、というものを感じさせます。泥棒稼業ってのは極端にしても、受け継がれていく何かが、そこにはある。自分自身は消えていっても、何かがそこに残っていく。 オープニングでニューヨークの高層建築を遠方に捉えたカメラが、視線を下に向けていくとそこには古びた街並みがあり、さらに視線が手元に迫るとそこには、何やら粉のようなものが撒かれていて。映画のラストでその正体が明らかになり、やがてカメラは視線を遠くへ移して映画冒頭のアングルに戻って、幕を閉じます。この大きな街の片隅では、こういう無数の物語が紡がれているんですよ、とでも言うような。 この作品、あまり評判がよろしくないようで、でも私は好きですねえ。 [CS・衛星(字幕)] 9点(2024-10-13 07:25:57) |
26. 密告(1943)
《ネタバレ》 それにしてもこの、全編通じての不穏な空気。ただ事ではありません。 「からす」を名乗る人物が次々にばらまく怪文書。そこには、主人公である医師への糾弾が綴られている。となると、映画の描き方としては例えばこれを医師の目から描き、追い詰められた彼の焦りなどでもって、ハラハラドキドキ、ってなテイストもあり得ると思うんですが、この作品はちょっと違う。 主人公はむしろ冷静にも見え、いやどこか冷たい人物に見える。実際、まったくの清廉潔白な人物という訳でもないらしい。作品を見ていると、この人が被害者であることは間違いなさそうなのだけど、それが判っててもなお、「からす」の正体はコイツなんじゃないの、と疑いたくなるくらい、突き放した描写になっています。 真犯人は誰なのか。終盤は二転三転し、一応は真相が明かされて物語に決着はつきますが、単純な安堵感には全く結びつきません。むしろ、「からす」はこの人ひとりではなく無数にいるんじゃないか、とも思わせるし、因果応報ともいうべきラストも、どこかしっくりきません。言いようによっては「死人に口無し」とも言える訳で。というぐらい、ラストシーンが不気味。立ち去る後姿は、まさに死神のそれ。 メタ・ミステリ、あるいはアンチ・ミステリの先駆け、とでも言いたくなるような。 全体の不穏な空気感は、作品中のさまざまなイメージによってももたらされますが、私が特に印象に残ったのは教会で怪文書が降ってくるシーンですかね。人々が次々に上を視線を向けると、一枚の紙が舞い降りてくる。静的な大空間に、劇的な要素が撃ち込まれる瞬間。他には、「割れた鏡」なんかも、実にイヤらしいです。街が騒動に包まれ、女性が走る姿を傾いたカメラが捉え、彼女が家に辿りつくと、そこに待ち受けるのは、割れた鏡に写る自分の歪んだ顔。 [インターネット(字幕)] 9点(2024-10-06 07:03:52) |
27. エスター ファースト・キル
《ネタバレ》 1作目で提示された未知の「驚き」が、2作目となると既知の「前提」となってしまう。その点で、続編ってのはそもそも不利、何なら、なんでわざわざ続編なんか作るんだよ、ということになっちゃう。 では、なぜわざわざ続編を作るかというと、わざわざ続編を見たがる我々がいるからですね。すみません。 しかし単にそれだけではなく、この「エスター」なる人物を、前作をほぼ完全に踏襲しつつも、少し違う角度から描いて見せたのが、この『ファースト・キル』のモチベーションであるように思われます。 それにしても。 当人がまだ若かった頃にはちっとも面白いと思えなかった漫才師が、その後芸風を変えた訳でもなさそうなのに、今見るとえらく面白かったりして、そこにはいろいろな理由はがあると思うんですが、やはり「芸に年齢が追い付いてきた」ってのも、大きいのではないかと。若い頃にやっても難しいネタ、ってのは、やっぱりあると思います。もちろん、その逆もあるだろうけど。 それとこれとを一緒にするな、と言われそうですが(ははは・・・)、今回も「エスター」を演じるイザベル・ファーマン、ようやく、役に実年齢が追い付いてきたような。って言っても、前作は前作で、別の意味での「役≒実年齢」が物語の意外性に一役買っていた訳ですが、今作は絶妙な特殊効果の助けもあり、全編を通じて不思議な雰囲気をもたらしています。「エスター」という人物が持つ、体格と表情との間のアンバランス。違和感があるのかないのかよくわからない、という違和感。とでも言いましょうか。 正直言うと、シーンによって「エスター」の身長が違うんじゃないの?とか思っちゃったりもするのですが、そんなのは些細なことだとも思えてきて。微妙な違和感は、作品を貫く不安感へと昇華されていきます。 後半の展開は、賛否両論あるところだとは思いますが、ゴジラだって2作目からは怪獣対決ですから、まあ、アリなのでは。前半でいかにも伏線ですよ、とチラ見せしたアイテムを、終盤あわてて再投入する伏線回収も、ご愛敬。 全体的に、表現としては抑制されていて、引いたカメラがかえって邪悪さをあぶりだすような効果を上げています。ただ、「階段」とか「屋根の上」といった平衡感覚を狂わせるシーンをやや無造作に挿入するのが、不安を誘うというよりは視覚的な混乱に繋がっているようで、ちょっと残念な気がしました。 [インターネット(字幕)] 7点(2024-10-06 06:26:12) |
28. 拝啓天皇陛下様
《ネタバレ》 いや、ほんと、そうなんですよ。人生において、いろんな人と逢ったり別れたりってのを繰り返すんですけれども、何か妙なクサレ縁みたいなのがあって、ふと気が付くと、何だか知らんがコイツとの付き合いって、かれこれ長いよなあ、ってなヤツがいたりする。何度離れても、なぜかまた出会って、つかず離れず、まさか、こんな長い付き合いになるとは。。。 長門裕之演じる「ムネさん」の視線から描かれる、戦前の軍隊時代からの友人・ヤマショー。これって、友人って言って、いいのかな。とにかく、クサレ縁です。そのヤマショーを、渥美清が演じていて、キャラ的にも、寅さんの原型のような。 しかし寅さんほどには「都合よく」デフォルメされたキャラではなく、もっと普通に庶民的。普通に純粋。ただそれが、いささか度を超しているもんで、いろいろと騒動を起こすのですが、二年兵になれば「普通に」初年兵をイビるし、「普通に」女郎買いもするし、盗みですらノホホンとやらかしてしまう。しかもそれを「徴発だ」などと澄まして言ってのけたり(そのヤマショーに対して、日本人が「日本人に対して」やるのはけしからん、と怒るムネさんもまた、庶民的なのだけど)、その庶民的であるが故の罪深さ、みたいなものも背負った存在として、ヤマショーは描かれています。 衣食住に困らないというただそれだけの理由で、理不尽な軍隊生活を耐え、いやそれどころか離れたがらず、そして、かつて世話になった上官への思慕を抱き続け、天皇陛下を敬い続ける、純朴な男。戦争が終わり、世の中が変わって、日本人が変わっていっても、この男は変わらない。 こういう国民の純朴さを利用して、当時の日本という国は、無謀な戦争に突入したのではなかったか、、、などと言うと、「国民は被害者でした」で済むのかよ、という声も出るのかも知れませんが、ただ純朴であることの罪深さと、その純朴さを利用する罪深さとは、ともに忘れちゃいけないんだと思う。しかし、多かれ少なかれ、それらは忘れ去られてしまう。「忘れる」ということの罪深さ。ヤマショーはニコニコしながら、しかし「変わらない」ことで、「忘れる」ということを暗に批判する存在ともなっています。 時代が変わり場所が変われど、当たり前のように再会できるヤマショー。しかしある日突然、二度と会えなくなる存在になってしまう。このまま彼を忘れていいのか、戦争を忘れていいのか、というラスト。コミカルでありつつシニカルであったこの作品が、最後に見せる哀しみです。 [インターネット(邦画)] 8点(2024-09-29 17:47:14) |
29. 亜人
邦画の娯楽作品も、ここまでできるようになったんだなあ、と感じさせる一本。とは言っても、そもそも邦画人気が高い昨今からすると、おそらく私の基準、というか感覚の方が特殊なのかもしれなくって、たまたま自分が若かった頃の邦画の印象に引きずられている部分が多々あると思います。中高生の頃、すなわち80年代後半あたり、当時のハリウッドの大作(これも今思えば大した事ないのだけど)に遠く及ばず、ゴマカシばかりやってるようにしか感じられなかった当時の邦画娯楽作品を、見たくない、いや、ほとんど憎んでいたと言っても過言では無く。 で、時は流れ、例えばこの『亜人』という作品。邦画もここまでやるんだ、ここまでスケール感を出せるんだなあ、と。 原作コミックについては全然知りませんけれども、映画始まって早々、これ間違いなく、2時間弱の尺には収まらない内容なんだろうなあ、と。で。おそらくそうなんでしょう、映画はひたすら、突っ走っていくのですが、どこまでがセットでの撮影で、どこまでが既存の場所を借りての撮影なのか。大がかりな撮影をこれでもかと盛り込んでいて、圧倒されます。最初のラボのシーンでは、セットの中をカメラが移動していく長回しでもって、その規模感をアピール。さらにはその後も、果てしなく続くバトルシーン。CGキャラ同士の目まぐるしい戦いは、『デビルマン』などを思うと隔世の感がありますね。とにかく映画は突っ走る。内容が尺に収まらない云々以前に、内容なんて無いんじゃないの、と気づかせる前に走っていく。 いや、始終ドタバタしてるだけでは、ないんですけどね。ただ、もうちょっとエモーショナルな要素が多くてもよかったかな、とは思います。吉行和子のことを最後にもう一度、映画の中で思い出してあげてもよかったのでは、とか。 「亜人」という存在は、死んでも生き返る設定だけど、痛みも感じるし、死ぬ際はやっぱり苦しいらしい。だけど実際は、その設定は劇中ではそっちのけに近くって。だからある意味、ゲーム的な世界。設定はあくまで物語上のルールに過ぎず、登場人物たちもまた、どうやってそのルールの裏をかくか、に腐心してて、少し本格ミステリに接近したテイストもあったりします。 死んだ人間が易々と生き返る「可逆性」は映画とあまり相性がよくない、みたいなことを以前どこかで書いた気がしますが、この作品は「生き返る」というより、「不死身」の変形バージョン。敵がやたら強くって不死身なのは、大歓迎です。ターミネーターに接近したテイスト。 で、そのやたら強い敵というのが、綾野剛。何を考えているかわからない不気味さと、アクションシーンの見事な動き。脱いだら実はムキムキ、というのがまたポイント高いではないですか。そりゃま、女優さんが脱いだ方が話題性はありますけど、どうしてもそこには痛々しさも感じてしまう訳で。ムキムキが脱ぐのは、インパクトの割に害が無い(笑)。しかし佐藤健ともども、たぶんこのわずかなシーンのために、これだけの肉体に仕上げてきたのか、と思うと、うん、やっぱりハリウッドには負けてないですよ。 [インターネット(邦画)] 7点(2024-09-29 10:45:29) |
30. ハーダー・ゼイ・カム
《ネタバレ》 音楽での成功を夢見た青年が、例によって例のごとく大人の事情に道を阻まれ、例によって例のごとく破滅の道を歩んでいく。終盤は警官隊だか軍隊だかとの銃撃戦が展開されたりもするけれど、「隊」と呼べるほどの人数でもなく、えらくスケールが小さい。 そんな映画のどこが面白いんだよ、と言われると、確かに通常であれば、これと言って語られることもないまま埋もれていく無数の低予算映画の一本に終わっていたかも知れません。もし主人公が志したのが、「音楽」で無ければ。これがジャマイカの映画で無ければ。その「音楽」が、レゲエで無ければ。 とか言っても、私、レゲエという音楽については何も知らないもんで、映画を見て「ああ、なるほどこんな感じか」と思い、正直、映画を見終われば特に聴こうとも思わない(失礼!)んですけど、見てる間は、なんだか、その気になってくる。その気にさせられる。それだけのパワーは、備わった作品になっています。 映画自体はかなり、粗削り。やっぱりカメラを手にして、さあ映画を作るぞ、となったら、撮ったり切ったり繋いだり、いろいろとイジリたくなるのが人間のサガなのでしょうか。こういう粗削りな映画の作りは、エネルギッシュな魅力がある反面、雑然とした感じもします。この映画の場合は、南国ジャマイカが舞台ということで、その雑然とした感じが、映画の雰囲気にマッチしていたりもして。主人公がやってくる首都キングストンは、都会と言っても「近代化されている」というより、とにかく人が多く、雑然とした街。多くの人たちの生き様が渦巻く街。主人公は到着早々、生き馬の目を抜く都市生活のキビしさの洗礼を受けたり。 その雑然とした雰囲気の映画を、レゲエ音楽という軸が一本、貫いているのだけど、それだけではなく、教会の場面なんかに見られる「ジャマイカあるある」(なのかどうか知らんけど、たぶん)みたいな描写が、もう一つの重要な軸になっています。興奮しまくった牧師さんの暴走気味の説教に、信者さんたちもノリノリ大興奮。こういうシーンが、長々と取り入れられたりしていて。 終盤、カメラの前で銃を手にポーズをとる主人公の姿が、やたらとサマになってる。 作品の中で描かれる世界には、社会の矛盾や皮肉も織り込まれるとは言え、それを声高に批判するのではなく、その世界の中を太く短くカッコよく生きようぜ、ってなノリで、どこまでも突っ走っていきます。 [インターネット(字幕)] 7点(2024-09-29 09:15:56) |
31. 宇宙からのツタンカーメン
《ネタバレ》 これ、昔、日曜洋画劇場で放送された時は「宇宙から来たツタンカーメン」ってタイトルでしたよねえ、確か。 しかし随分古い話なもんで、相当ヒドイ映画だった(あの日曜洋画のラインナップの中ですら際立ってヒドかった)という事自体は忘れるべくもないとは言え、細かい部分は記憶も薄れており、「たしかこんなシーンがあったはず」という記憶の中には、今回見てみたら存在しなかったものもあって、どうやら私の中で一部、ヒドい映画の記憶が混線している模様。やっぱり、歳かなあ。 それよりも、日曜洋画で放映された際の話で言うと、これも自分の記憶にやや自信が持てないのだけど、番組最後の解説であの淀川さんが(つまらない映画の放送の回は、作品と関係ない話をする、と本人も言ってたあの淀川さんが)、何に興奮したのか、視聴者に向かって「アンタ、何と、宇宙人だったんですよ!」と熱く語っていたような記憶があります。というかむしろ当時、私の姉が「視聴者に“アンタ”って呼びかけるなんて、そんなこと有るか?」と驚いていたのが印象的で。しかし、私はともかくとして、姉までもがこのヒドい映画の放送を見てた、というのが今となっては最大の謎。 とにかく、ヒドいんです。これ。 古代エジプトのミイラが、現代のアメリカで蘇り、人々に襲い掛かる、というオハナシ。まずミイラがアメリカに運ばれてきて、ツカミはOK。ただし、貴重なミイラにしては扱いがやや粗末な気がしてきますが、その辺りの描写は作品の予算と密接に関わる部分でもあるので、致し方なし。でもって、扱いが粗末であれば、蘇るミイラの方もそれなりに粗末なものとなり、「人々に襲い掛かる」と言ってもまるで迫力が無い。いや、好きで襲ってる訳じゃなくって、遺跡から持ち出された宝石を取り戻そうとしているらしい。エレベータの床をバリバリ破ってくるあたりはちょっと頼もしいけれど、基本的には凶暴ではなく、ヌルい攻撃に終始します。 ミイラの一人称目線のカメラ、などでそれなりに緊迫感を出そう、とはしていますが、まるで盛り上がりを欠いたまま、まるで見どころもないまま、終盤、ついにミイラの正体が明かされる! と言ってもおおよそ予想通りの展開、さらには邦題に書いている通り。はい、宇宙人でした、と。 この宇宙人のフォルムが、もう、いやはや、何ともかんとも。頼むから、何度も映さないで欲しい。目のやり場に困ります。 ラストには「To be continued」との表示(これは、すみません、日曜洋画の時にもあったのかどうか、まるで記憶なし)。こんなのでまさかまさか続編作るつもりだったのか、それとも投げ出すようなラストにこのクレジットでオチを付ける一種のギャグなのか。 とにかくヒドいんですが、個人的には、過去の記憶が多少、整理できて、その点は良かったです。 淀川さんの心境だけは、いまだによくわからない・・・。 [インターネット(字幕)] 2点(2024-09-23 08:21:55) |
32. アオラレ
《ネタバレ》 この作品にはいくつかの疑問点を感じますが、最大の疑問点は、おそらく皆さんと同じく「ラッセル・クロウはどうしてこんなに太っちゃったんだろう」と。この疑問に比べれば、他の疑問点なんておよそ、些細なもんです。 むしろ、疑問点が少なすぎることこそが、問題なのかも知れませぬ。青信号で動かない前のクルマに対しクラクションを鳴らしたら、そのクルマの運転手にひたすらつけ狙われる、という、基本的には、理不尽で不条理なサスペンス。『激突!』を思い出したりもすれば、『ヒッチャー(1986年)』を思い出したりもするのですが、これらと同じような映画をまた作るモノマネには陥るまい、ということなのか、違う趣向でアプローチしてきています。で、その一環として、不条理さも極力、排除する。もともと土台が不条理な世界なのに、何とかそれを理屈で補おうとする。 どう考えてもこの題材で映画が面白くならない訳がない、と思っちゃうし、現に、それなりに面白くそれなりに楽しめるんですけど、しかし、この不条理さを何とか糊塗しようとする理屈、「説明」めいたものが、やや映画を失速させてしまいます。 まず冒頭から、くだんの男が凶暴でアブナイヤツであること、が示され、これ自体は必ずしも悪くないと思います。で、寝坊した上に渋滞に巻き込まれイライラした主人公が、前のクルマに対し盛大にクラクションを鳴らしてしまう。もちろん運転席には例の男、我々は「ああ、やっちまったな」と思う。こちらのクルマの窓が不調で閉まらなかったり、男を見るなと言われても主人公の息子がつい相手を見たり、という我々のイライラ感を誘う演出にも事欠かず、この辺りもいいと思う。 ですけど、主人公がスマホにロックをかけていない、などという設定を持ち出すあたりは、これ、いかにも「伏線でございます」といった感じ。この伏線を突破口に、例の男は奇蹟のごとき聡明さをもって先回りし、主人公を追い詰める。狡猾、ってのとも違いますね。聡明と言って悪ければ、奇跡のような勘の良さ。こんな冴えないオッサンがここまでする訳ないでしょ、という不条理感はどうやったって避けられず、この作品の「説明」の部分との間が、チグハグで中途半端なものになってしまいます。 男が主人公を追い詰める手段の「説明」はこれで何とかできたとして、次の問題は、どうやって主人公が警察に駆け込むことを物語の上で阻止するか。警察に保護されてしまっては、物語が終わってしまいかねない訳で、これも何かと手を打ってきますが、何よりもまず、主人公にそのヒマを与えないくらい速く、物語を動かすこと。この辺りは、この作品、微妙なバランスを保ちつつ突っ走って行って、割と成功しているような。 派手なクラッシュシーンを挿入して見せるのなども、そういうバランスに一役買っています。 ただ、主人公とその息子が何やら作戦めいた会話を始めると、ああまた「説明」が始まったな、と、失速してしまい、どうもいただけない。さらに、クライマックスこそサスペンスの見せ場、追い詰められた挙句に男と格闘する母子と、駆けつけるパトカーの姿とを交互に描いて盛り上げるのですが、女性と少年がこの大男にこれだけコテンパンに叩きのめされて無事である訳がなく、それでも男に遮二無二向かって行く様は、勇敢とか何とか言うより、単なる意匠に過ぎない暴力を形だけ見せられているような気がしてきて。 と、まあ、「面白くないはずがない」という作品なもんで、気になる部分にはついケチも付けたくなるのですが、「それでも結構、楽しんでたくせに、そりゃ無いでしょ」という気が自分でもしてきたので、点は甘めに。これはいつものことか。 [インターネット(字幕)] 7点(2024-09-23 07:08:06) |
33. エイリアン:ロムルス
中学生の息子に見に行くか訊くと「行く」とのこと、しかしシリーズを一本も見てないはずなので、とりあえず前日に1作目だけ見て予習する。私は私で復習(?)しながら「やっぱり、この映画、好きだわー」などと思って見ており、何しろ、映画の良し悪しなどではなくただ「好きだわー」ということなので、1作目とこの「ロムルス」を比べる気にもならない。いや、そうは言っても結局は、比べちゃうんだけど。 いや~、この「ロムルス」、面白かったですよ。楽しませていただきました。息子はというと、これまでもさんざんエゲツない映画を見てきたはずだけど、よほど集中していてよほどコワかったのか、中盤以降ずっと、両手を口にあてたまま凍り付いており、どんだけ楽しんでんだよ、と羨ましくなったりもしつつ。 1作目って、「エイリアンが宇宙船の中で暴れる話」と思わせて、しかし実は、そこに至るまでの描写が結構長い。謎めいたモノ、不可思議な現象を次々に画面に登場させ、我々をぐいぐい引っ張っていく。後半、エイリアンが宇宙船内に解き放たれてからも、意外な展開が待ち受け、我々の意識の的を一点に絞らせない。 今さらまたこれと全く同じことはできないので、「ロムルス」ではエイリアンの襲撃、エイリアンとの戦いに、だいぶ比重が置かれてます(さらにちょっと、『悪魔の受胎』テイストもあったりして?)。1作目の、どこかにエイリアンが潜んでいるのではないかという緊迫感、あれって、部屋にゴキちゃんが出て「キャー」とか言いつつも今のうちになんとかやっつけなきゃいけない、と部屋の隅々に目をやりながら殺虫剤片手にウロウロする心境に繋がるものがありますが、今回はモロにゴキちゃん退治のノリ。冷凍タイプの殺虫スプレーです。 1作目以降、映画に登場する大抵の施設には自爆装置が備えられてクライマックスではカウントダウンが始まるようになりましたが、今回も、カウントダウンは踏襲しつつ、土星のわっかみたいなヤツ(1作目の空に浮かんでた天体か?)にぶつかるまでのタイムリミットが描かれる。この、迫ってくるわっかが、宇宙船の窓から見えるシーンの、見事さ。美しく、不気味で、怖い。 今回も1作目の「アッシュ」が登場。いや、「アッシュ」は文字通りashと化してしまったので、そっくりさんですね。イアン・ホルムはすでに他界しているはずですが、それでもなぜか登場します。シュワ型ターミネーター同様、量産型なんですねー。シュワ型同様、どうしてこいうい顔を量産しようと思ったんですかねー。 のみならず、今回はアンディというアンドロイドが登場します。コイツが、いつも困ったような顔をしている。アンドロイドだから別に何も考えていないのかもしれないけれど、とにかくこの困り顔が、何を考えているのかわからない雰囲気を漂わせています。普通なら、「無表情」でそういう雰囲気を出すところでしょうが、この困り顔が、彼の独特の存在感に繋がってます。 最初にも書いたけど、1作目と比較しての良し悪しは言いたくない。んだけど、一点だけ言ってしまう。限られた登場人物たちが繰り広げるサバイバル、なんとかもう少し、彼らのそれぞれの顔をしっかり画面に、印象付けてあげることはできなかったものかと。1作目の7人は、ぞれぞれ個性的な顔立ちで、映画はそれをしっかり印象付けていましたと思います。今回は6人ですが、ちょっと印象が弱い。冒頭の舞台が闇に閉ざされた星、ということもあって暗めのシーンが多く、それゆえ宇宙空間に出て光が差し込んでくるシーンが一つの見せ場にもなっているのですが、全体を通して見ると、もう少し彼らの顔をしっかり映し、描き分けてあげる場面があってもよかったんじゃないかなあ、と。五分刈りのアジア系の女性はさすがに目を引くけど、イマイチ目立たないまま死んでいくヤツもいて。ヒロインを演じたケイリー・スピーニーは、あの高身長のシガニー・ウィーバーと対照的で、多かれ少なかれ似たようなシチュエーションに置かれるヒロインを演じつつも、新たな魅力を開拓していたと思います。が、例えばあの、ストロボ光の中、怯えた表情のシガニー・ウィーバー。何かこれに匹敵するような印象的なシーンを用意してもらえたならば。 とか何とか言いつつも、この、どこまでも続くサバイバルと、「画面の奥に蠢くエイリアン」等の、必ずしも残酷描写に頼らない緊迫感(PG12止まり)。面白かったです。満足。 [映画館(字幕)] 8点(2024-09-22 06:32:26)(良:1票) |
34. マンハッタン・ベイビー
『墓地裏の家』の生意気そうなガキがまた出てますねえ。これだけでもう、大幅なマイナス。とか言ってはいけません。 エジプトの遺跡にまつわる何やら因縁めいたものが、アメリカに舞台を移し様々な怪異を招いていく、という趣向。理にかなったような説明はこれと言って無く、よくワカランと言えばワカランけど、オカルト映画たるもの、やはりこうでなくては。ただただ、いわくありげな遺跡に侵入したらアカンでしょ、とか、いわくありげな婆さんからいわくありげな物を受け取ったらアカンでしょ、とか、そういうキッカケだけあれば、充分。古代エジプトと現代のニューヨークとが、何らかの因縁で繋がる。それだけで充分。 だからって、いきなりエレベータの床が抜ける、とか、意味不明過ぎるではないか、とのお怒りもあるかもしれないけれど、いや、古代エジプトの呪いたるものを、現代の我々の尺度で理解しようというのが、間違いなのです。 正直、呪いなんだか何なんだかも、よくわかりませんが・・・。 冒頭、侵入した遺跡の中にトラップがあって人間が剣山に串刺しになる、かなりお約束めいたショックシーンがありますが、全体的に残酷描写は控えめ。それよりも、遺跡近くにいる母娘の姿を遠くからそっと捉えたカメラなどに、趣きを感じさせます。 あと、生き物を使った不気味さの演出。ラストの鳥の襲撃は、これは残酷描写と呼んでいいんですかね? そういや遺跡の壁画に、緑色の蛇が渦巻きのようにとぐろを巻いている様が描かれてますが、どうもこれ、蚊取り線香に見えて仕方がない。どうでもいいですけどね。 [インターネット(字幕)] 7点(2024-09-22 05:10:06) |
35. 墓地裏の家
ルチオ・フルチという監督は、キレイな映画を撮るヒト、だと思っています。確かに、グロテスクでキタナイ殺害シーンやゾンビ描写があったりしますけれども、基本的には画面は透明で明るく、暗がりのシーンですら上手く光が取り入れられていて。 この作品なんかも、そうですね。キレイです。ただしキタナイシーンはとことんキタナイ(笑)。 墓地近くの一軒家に越して来た、親子3人。そこにいろいろな怪異が発生する。開かずの間の地下室。少年の前に現れる謎の少女。何と、家の中にお墓がある、という、あまりにも事故物件過ぎる展開。謎は互いに、わかったようなわからんような関連を持ちつつ(合理的な説明がなされないのがオカルト映画らしさ)、ついに、わかったようなわからんような恐るべきクライマックスへ。 このクライマックスのしつこさも、いいじゃないですか。中盤のコウモリの襲撃も大概しつこかったですが、それを上回るしつこさ。キタナさも最高潮に。それでも、バッチいだけに陥らないのが、フルチ作品の真骨頂。 幻想的でありつつも、地下に蠢く死人、というイヤらしい具象性も兼ね備え、キレイさとキタナさをうまくブレンドして一定の纏まりに結び付けた手腕、なかなかお見事でした。 [インターネット(字幕)] 8点(2024-09-15 08:39:22) |
36. 丹下左膳 怒涛編
大友柳太朗版「丹下左膳」シリーズの第2弾。前作の続きなんだか、リメイク(?)なんだか、前作と同じような人たちが同じようなことをやってます。前作との関係がわかったようなわからないような、でも正直、そんなことはどうでもよいのです。 今回は、いわくつきの香炉の、争奪戦。百両の価値がある、とか言ってますが、やがて百万両にハネ上がり、要は、コケ猿の壺だろうが香炉だろうが、何でもいいんですね。 冒頭、何やら密談らしきものが行われているのですが、密談を交わす人物たちは次々に切り替わり、どうもあちこちで同時にこれらの会話が交わされているらしい、というのが、大ごとの予感。これは同時に、登場する映画スターたちが次々に顔をみせる、オールスター映画ならではの楽しみでもあります。 で早速、くだんの香炉が奪われる大事件が発生。香炉を抱えて逃げる多々良純と、それを追う追っ手たち。その姿が目まぐるしいカットの切り替えで描かれ、オープンセットとスタジオセットを股にかけての、無類のスピード感。素晴らしい。 ついでに言うと、境内のシーンはスタジオだと思うんですけど、ちゃんと地面にハトがいるんですね。芸が細かい。 で、香炉は無事(?)、松島トモ子経由で丹下左膳の手に渡り、イヤでも騒動が巻き起こる、という展開。大友柳太朗が豪快に演じる丹下左膳、見事なまでの単細胞ぶりで、絶対に近くにはいて欲しくないタイプの人物ですが、それだけに、時に一途、時に必死。時に、やたら頼もしい。クライマックスで、敵に囲まれ一人戦う大川橋蔵と、駆けつける丹下左膳、援軍の姿が、カットバックでスリリングに描かれる。ようやく現れ大活躍の丹下左膳、援軍たちに礼を言いつつも、「まだ暴れたりないから、しばらく見ててくれ」などと、頼もしいのやらバカなのやら、まあ、両方ですね。 この作品、監督名が二人クレジットされていて、左に松村昌治、右に松田定次。どういう事情だったんでしょうか。 [インターネット(邦画)] 8点(2024-09-15 08:04:22) |
37. マーキュリー・ライジング
《ネタバレ》 『ペット・セメタリー(1989年)』では、えらく小さい子にえらくエゲツない役を演じさせてて、ホントに大丈夫かよ、と思ったのですが、この『マーキュリー・ライジング』を見る限り、その後も立派に活躍されているようで。ただし、今、何をやってるのかは知りませんけどね。 一方、ブルース・ウィリスはというと、これはもうテレビシリーズの『こちらブルームーン探偵社』のヒトであって、だからアクションと全くの無縁ではないとは言え、やっぱりアクション・ヒーローとは異なるタイプ。だからこそ『ダイ・ハード』のマクレーン役にもピッタリだったタイプ。なのに、ダイ・ハードのシリーズ化とともに、アクション俳優としてもてはやされてしまい、ホントに大丈夫かよ、と思ってたら案の定、1990年代は迷走気味。次々にアクション映画で主演をこなすも、これぞというものがなく、シリーズ化すりゃいいってもんじゃないとは言え、結局、「ブルース・ウィリス単独主演」と言える映画でダイ・ハード以外にシリーズ化されるほどの広い人気を得たものは、見当たらず。で、今の彼はというと、皆さんご存知の通りで。唯一無二の映画人生を歩んでこられた、とは思います。 で、この『マーキュリー・ライジング』も、迷走していた90年代の主演作の中に埋もれた一本、ということになり、唯一目立つ点があるとすれば、ラジー賞を獲っちゃった、という程度ですが、いくら何でも『アルマゲドン』とセットでの受賞、って、そりゃ無いんでは。 役どころは、自閉症の少年を守るFBI捜査官。少年はその特異な能力ゆえ、命を狙われ、彼の両親を殺害されてしまっている。自らの孤独な身の上を少年が認識しているのかどうかわからないのがまた、哀れを誘います。 が、主人公が少年を守ろうとする理由はそれだけではなく、彼自身、かつて潜入捜査官だったときに、犯人グループにいた少年がFBIに射殺されるのを防げなかった過去があって。単なる同情ではなく、善悪すらも関係なく、ただ、今度こそ目の前の少年を守らなければいけない、という意志。 自閉症という少年のそのキャラクターゆえ、通常の意味で二人の間のコミュニケーションは成立せず、そこに、主人公の不器用さ、みたいなものが浮かび上がってきます。アクション映画と言ってもアクションシーンはやや控えめ。むしろ、次に何をするかわからない少年の言動が、アクションシーン以上に、物語に起伏を与える原動力となっています。 描かれるのはもちろん主人公と少年だけではなく、たまたまカフェで知り合った女性を物語に絡ませるのも、いいですね。「いや、この女性も敵の一味だったりしないか?」などという疑問を我々が持って意識が逸れてしまわないよう、彼女の独り言を挿入して、善意の第三者であることが映画の中で確認されます。そもそも一般市民である彼女が、どこまでこの困難な事態に対しに協力してくれるのか、ということ自体が、充分なサスペンスを孕んでいる訳で。実際、彼女の物語への絡みは、深入りし過ぎず、しかし充分なインパクトを残します。 さらには、主人公には数少ないながらも協力者がいたりするのですが、それはFBI内部だけではなく敵方の組織の人間でもあったりして、これらの人物の妻なりガールフレンドなり、といった人たちも登場します。これらの人たちの存在は、物語の中では決して大きなものではないとはいえ、この作品の幅を広げるのに何と貢献していることか。 ラストシーンは、ちょっと甘いとは言え、ホッとさせるものがあります。 充実した映画、だと思うのですが、どうでしょうか。 [CS・衛星(字幕)] 9点(2024-09-15 06:56:53) |
38. プリティ・リーグ
《ネタバレ》 かつて存在した女性選手によるプロ野球リーグのオハナシ。ですが、登場人物のモデルとなった実在の人物が映画の中で紹介される訳でもなく、基本はフィクション、ということなんでしょう。そういう割り切りは、それはそれで潔く、ヘンな「実話縛り」も無くって、悪くないと思います。 ただ、コメディタッチとは言え、何とかギャグを盛り込もうと、ちょっと悪ノリが過ぎるような気もしつつ。 野球の腕前よりも、「女性らしさ」みたいなものが優先されてしまう理不尽、しかし最後のワールドシリーズでは息詰まるような熱戦でもって観客を魅了してみせる。無論、彼女たちは大きな制約の中でこの女性リーグをやっているんですが、映画は、その矛盾をこそ描けど、野球自体の描き方としては、充分だったかどうか。観客を熱狂させるにはそれだけの「陰の努力」もあったはず、だけど、必死のトレーニングが描かれるでもなし、これじゃ本人たちもまるでお遊びでやってるみたいで、イマイチ重みが無い。 トレーニングの描写の代わりなのか何なのか、主人公の顔はいつも、土ぼこりで汚れている。野球の場面だけではなく、牛の世話をしている時も。こうも汚れてばかりだと、演出として工夫が無い気もしてきます。 トム・ハンクス「以外の」男性の脇役陣は、なかなかいい味出してますね。あのちょっとヤな感じのスカウトマンとか。主人公たちが汽車に飛び乗るシーン、なんてのが結構、印象的な見せ場になってます。かつてどうしようもなかったクソガキが、面影を残しつつも立派なオジサンになってて、過ぎ去った年月を感じさせる、などというのもちょっと心憎い。 悪ノリが過ぎるような、とは言っても、その全部がハズしてる訳では、ないんです。 [CS・衛星(字幕)] 5点(2024-09-08 07:53:31) |
39. 劇場版 夏目友人帳 うつせみに結ぶ
いきなり映画版だけを見ても意味わからんと思う、などと、この「夏目友人帳」のファンでコミック本も買い集めているウチの娘は言うのだけど、そうなるとこちらも意地になって、「これ誰?」みたいな場面が出てきても娘には質問せず、素知らぬ顔で見続ける。 ただ、見ていると、舞台になっている古い町並みの景色がいいなあ、と思えてきて、「どうせ、作品の“聖地”みたいな場所があるんやろ?」みたいなことは、娘に聞いてしまう。「確か、あったはず」という頼りない返事しか返ってこないけど(あとで調べてみたら、人吉市付近なんだとか)。 別に、作品のストーリーなり設定なりをいちいち理解するために見ている訳ではないのであって、だから、突然出てきた「これ誰?」という登場人物について、横から説明してもらったとて、それで腑に落ちるでも無し。たぶんそんな説明は、聞いてもマイナスにこそなれ、プラスにはならない気がするし、見てりゃなんとなく見当はつくもの。と思ってるのですが、どうでしょうか。 そんな事よりは背景の景色の方が、よほど気になるし、目を引きます。そもそもストーリー展開の方にさほど作品のウェイトが置かれている訳ではなく、一応、ニャンコ先生とやらが3体に分裂する大(?)事件が起きたり、ラストで意外な(?)真相が明かされたりもしますが、全体の印象としては、ゆったりした流れ。このボンヤリとした物語が、農村や古い町並みの景色と新しい市街地の景色とが入れ代わりながら語られていき、なるほど確かに引き込まれるものがあります。 ただ、アニメーションの動きの緻密さ、という点ではそれなりに物足りなくって、最近の劇場アニメのレベルの高さを思うと、ちょっと苦笑してしまいます。とは言え、私などが子どもの頃にテレビで見ていた「リミテッド過ぎるアニメーション」などとは比較にならないくらい細かい動きが描写されている訳で、あまり贅沢を言うのも、どうなのか。と思いつつ、やっぱりこの作品のこの雰囲気を支えるためには、より高いレベルのアニメーションで見たかった、と思ってしまいます。 [CS・衛星(邦画)] 6点(2024-09-08 06:50:05) |
40. ドリームキャッチャー
いろいろ盛り込みて過ぎて一見グチャグチャな作品なんですけれども、これ、一言で言えば「ウンコが襲ってくるオハナシ」ということで、いいんじゃないですかねー。 一応、何やら宇宙生物らしきもの、グレイ型なのにやたらデカい宇宙人風のヤツ、なども出てきますが、まあ、どれもこれもウンコみたいなもんです。便器から出てこようとするウンコ、これが一番コワい。 ウンコ騒動が、しまいには軍人の暴走にまで発展する。スティーヴン・キングの本質って、きっと、そんなもんなのでは。いや、キング小説はほとんど読んだことないから知らんけど。 デ・パルマ、キューブリック、クローネンバーグ、カーペンター。特に初期において、錚々たる監督が次々にキング作品を映画の題材に取り上げ、かつ、一度しか取り上げなかったのは(後には何本か撮ってしまう人も現れるけど)、一回やればもう充分、ということなのか。 そしてかのローレンス・カスダンがまた、こうやってキング作品を映画化するのだけど、使い古したネタのオンパレード、といった感じで、それをことさら隠すわけでもなく、ホレ、これを一本見たらもう充分でしょ、と。 キングがこの映画をホメた、という話をどこまで真に受けていいのかわからんけど、何となくありそうな気がする・・・。 [インターネット(字幕)] 7点(2024-09-01 19:10:40) |