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21.  誰も知らない(2004) 《ネタバレ》 
母は年端も行かぬ長女京子の爪にピンクのマニキュアを塗る。いいかげんなこの母にとってそれは悪ふざけの一環としての単なる遊びだっただろう。だが母のその気まぐれに、京子は顔をほころばせる。大人の女のように爪を赤く飾りたいから、ではない。そのマニキュアを塗れば自分も母とお揃いの爪になれるからだ。そして何よりも当の母が自分の手を取り丁寧にその「お揃い」を施してくれることに、京子は喜ぶ。だがこの至福に引き続き描かれるのは、手を滑らせ大切なマニキュアの瓶を床に落としたがため今度は母にこっぴどく叱られる彼女の姿だ。そして、ある日突然失われるこの母の存在。母との親密さの象徴たる誇らしい爪のマニキュアは日を経てあっけなくはがれ落ち、過ちの痕跡としてこびりついた床のマニキュアだけが拭い去れぬまま在り続けるその部屋で、京子は不安な母の不在に懸命に耐えなければならない。母が去ったのは、彼女にとってはマニキュアの瓶を台無しにしてしまった自分のせいなのだ。つまり、事の真相を知る長男明を除いた3人の子のうち京子だけは、罰を受けるように自分を責めながら、母の帰りを待つ。本来責めるべき母を罰すべくその服を売り払おうとする明を必死に阻止する役回りは、だからこそ、彼女でなくてはならない。今度こそ京子は母の大切な所有物をその身を呈して守らねばならないのだ。そうして彼女は母の代わりに罰を受け続ける。本作は、一般的に認知される通り長男明の映画だ。だがもう一方では長女京子の映画でもある。子どもが正当に子どもでいられぬ悲劇を、是枝裕和監督はこの幼き長男長女に託し、静かに見据え続ける。自分の過ちのせいで母を失い、またきょうだいたちからもその存在を奪ってしまった京子。やがて彼女は自らこそが母となることで、その罪を贖おうとする。妹を隠したスーツケースを不安に見送る弟のその手を確かな力で握りしめてやる「母の役割」を補い担うのは、やはり京子だ。その姿に私たちは、彼女が母の不在をついに永遠のものとして受け容れたことを知る。そして、子どもが子どもとして存在しうる正当な幸福を幼い彼女が痛みを伴いながらも自ら抛つその瞬間を、息を呑んで目撃する。照りつける日差しの下、もはや希望も絶望もなくサバイブし続けて行く子どもたち。生ある限り彼らは逞しく生き抜くだろう。だが、剥奪された彼らの尊い子ども時代がその手に再び還ることは、もう決してない。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2010-06-04 18:07:43)(良:3票)
22.  欲望の翼 《ネタバレ》 
人影無いサッカー場の売店で、来るはずのない客を怠惰に待つ女スー。そこは言わば世界の喧騒から隔絶されたシェルターだ。時を刻む秒針の音にただ埋もれるばかりの彼女は、まるで人類が死に絶えた核戦争のただ一人の生き残りのように、平和で退屈でそして孤独である。そんな彼女に、ある日思いがけず近づいてくる靴音。力強いその音は、永遠に思えた彼女のまどろみを打ち破り、女にその顔を上げさせる。孤独な人間にとって他者との出会いとは、規則正しい心音に護られた胎児が光射す世界に産み落とされる、その一瞬でもあるのかもしれない。ウォン・カーウァイが描くこの冒頭は、その後も彼が数々の映画で憑かれたように変奏していくこととなる、人と人との邂逅、まさにその雛形であると言える。腕時計の秒針が1周する1分間を身じろぎもせず見守るスーと、運命の男ヨディ。魂と魂がことりと音を立て奇跡のように共鳴しあうその60秒は、けれど過ぎた瞬間もはや取り戻せぬ過去となり、止まることなく先へと進む秒針が、1秒ごとに刻々とその過去をさらに彼方に遠ざけていく。とまどい怪訝なまま顔を寄せあった一瞬。ただ静かに目の前を通り過ぎていった一瞬。それでもゆっくりと遠のいていくにつれ、かけがえのない幸福の意味を強めていく、その一瞬。ヨディとの忘れえぬこの1分間に囚われるスーが、夜道をならんで歩く心やさしい警官タイドとの時間もまた取り戻せぬ幸福な一瞬であることに、気づくことはない。決してつなぎ止めることのできぬ一瞬を、それでも人はつなぎ止めたいと切に願う。そして永遠を夢みる。おそらくそれは、等しくヨディを追い求め、彼の弟分サブの恋心に応えられず涙するミミもまた同じだろう。幸福な一瞬は彼方に過ぎ去り、手の届かぬ懐かしいその光に、人はただやるせなく胸を痛めるばかりだ。この世界に永遠などないのだと、ウォン・カーウァイは断言する。どれほどに希求しようと、人がこの手に出来るのは、過ぎたそばから過去となっていくかけがえのない一瞬一瞬、その積み重ねに過ぎないのだと。そしてそれでも、と映画は語る。1960年4月16日、3時1分前、自分がどこにいたか、そしてだれと何をしていたか。決して忘れず胸に刻んだその一瞬こそが、私たちにとって、かけがえのない永遠となりうるのだと。
[DVD(字幕)] 10点(2010-05-30 14:57:30)
23.  サイコ(1960) 《ネタバレ》 
新聞紙に包み隠した4万ドルから得体の知れぬノーマン・ベイツへ、そしてその母ノーマ・ベイツへと、ゆるやかにスライドし転調していくマリオン・クレインの不安。「罪」からの解放としての清めが、無防備な裸体に下される「罰」へと一瞬で反転する「洗礼」。50年前から語り尽くされてきたそれらを持ちだすまでもなく『サイコ』は未曾有の傑作であり、サスペンス映画の金字塔である。興味深いのは、本作がカラー映画の選択肢のある時代に撮られた白黒映画であるということだ。テクニカラーを華麗に用いた『めまい』や『北北西に進路を取れ』から一転、敢えてモノクロフィルムで撮られ、アルフレッド・ヒッチコックにとって最後の白黒映画ともなった『サイコ』は、カラー以前には白黒の名手として名を馳せた彼の偉業の、その集大成でもある。そしてヒッチコックは、ある意味カラー作品以上に、本作の「色彩」表現に強いこだわりを見せている。白黒映画において、白は光で、黒は影だ。ヒッチコックが墨絵の如き濃淡で描くその光と影は、色を排したこの白黒映画に、けれど色づける以上に豊饒な色彩を表現し得ている。フィルムに焼きつくその色は、ひたひたと迫り不安を掻きたてる闇の黒だ。ハンドルを握りハイウェイをひた走るマリオン。時間の経過とともに画面を濃密に満たしていく黒の粒子。それは、大金を横領し逃げる彼女の罪悪感の象徴のように着実に濃度を深めマリオンを包み込んでいく夕闇の、その黒だ。闇の中ヒステリックに彼女の顔を照らし、強烈に目を射る対向車のヘッドライト。唐突に降りだす雨。光に反射する激しい雨粒がフロントガラスを覆い、不穏な速度のワイパーがグロテスクに歪む光の粒をさらにぐちゃぐちゃにかきまぜ、視界を不安に遮る。そして再びの闇を抜け、やがてくっきりと眼前に浮き上がってくる、雨に滲んだBATES MOTELのネオン管。絶対的な光と影で構築されるこのめくるめく鮮烈なシークエンスに、もはや曖昧な色彩など不要だ。雨に濡れ湿り気をおびた黒と白が、何色よりも美しく、そして何色よりも禍々しく、目に焼きつく。かくも見事な色彩の表現を、私は他に観たことがない。マリオンが車から降りるより先に、私はもういちど断言する。『サイコ』は未曾有の傑作であり、サスペンス映画の金字塔である。マリオンが忌まわしきノーマン・ベイツに辿り着くよりも以前に、ヒッチコックは疾うにそれを証明している。
[CS・衛星(字幕)] 10点(2010-05-13 17:41:35)(良:2票)
24.  プレシャス 《ネタバレ》 
『ヘアスプレー』のニッキーちゃん以来の大型新人ガボレイちゃんもまた、ニッキー同様歌って踊れるおデブちゃんだ。だがそれは、あくまで彼女扮するプレシャスの空想する、夢の中でのお話である。幸せな人間にも不幸な人間にも唯一平等に与えられる夢想だけを握りしめ、プレシャスは直視できぬほど悲惨な現実からなけなしのその夢想へと幾度となく全速力で逃避を試み、そして無惨に引き戻される。歌もダンスもラブストーリーもあらかじめ奪われた彼女にただ残されるのは、盗んだフライドチキンを貪り食ったあげく懺悔するようにゴミ箱にゲロを吐く、そんな現実だけだ。だが、映画は彼女の抱えるそうした悲惨を、良くも悪くも中和する。彼女の受ける虐待の描写は、観る者の気分を適度に害する良心的レベルにとどめられ、安全な濃度に希釈される。もちろんそれは悪いことではない。だが節度あるその良識ゆえに、この映画がプレシャスをとりまく地獄の実態を曖昧なものにしてしまっているのも、また事実だ。それでも映画は開きなおったように言う。私たちは第三者なのだ、と。第三者なら第三者として出来る範囲で彼女を抱きしめたいのだ、と。そしてまさに良識的第三者たる彼女の担任教師やケースワーカーに委ねて、それを実行する。もちろんそれも悪いことではない。ボランティアとは多かれ少なかれそうした精神に基づくものだからだ。だが一方の当事者はどうだろう。「ボーイフレンドの一人もいなかったのに」、子を孕み出産し、さらにはHIVにまで感染するプレシャス。彼女の胃につまったグロテスクな「塊」が、易々と消化されることは決してないだろう。まるで彼女がいつか吐き出したフライドチキンのように、それは消化されることなく留まり続ける。プレシャスの記す「Why me?」その問いにも、答えなどない。それでも彼女は生きていく。逃げ場所としての夢想のかわりに、逞しく産み落とした子どもたちをその手に。そしてどんな答えなどよりも切望しつづけた、かけがえのない一言「I LOVE YOU」をその胸に。と、こう書くとそれなりに素敵なラストではある。だが、この結末に安易な希望を見出せるのは、結局のところ私たちもまた第三者であるからだ。少なくともそのことを、私たちは決して忘れてはならない。プレシャスのためにではなく、世界中のプレシャスのような女の子のためにでもなく、中途半端に慈悲深く尊大な私たち自身のために。
[映画館(字幕)] 0点(2010-05-13 17:30:21)
25.  息もできない 《ネタバレ》 
主人公サンフンは見知らぬ女を執拗に小突いている男を殴り倒し、うずくまり怯える女の頬を今度は自分が叩きながら「お前は殴られてばかりでいいのか?」と問う。その直後、彼の後頭部めがけて振り下ろされる強烈な一撃。わずか数カットで主人公の生き様を示唆するこの冒頭から以降も、映画は幾度となくこうした「反撃」を繰り返す。反撃とはつまり暴力の連鎖だ。ヒロインたる不敵な少女ヨニとの出会いすら、彼女の勝気な平手打ちへの過剰な反撃として描かれる。だが、ひるむことなくこの暴力男と渡りあうヨニが彼に突きつけ求めるのは、反撃へのさらなる不毛な反撃などではなく、缶ビールの形を借りたささやかな詫びと落とし前だ。石段にならんで座る二人に流れる静謐は、サンフンの凶暴な人生哲学が初めてゆらぐその一瞬でもあっただろう。かつて暴力により家族を奪った父に「反撃」として制裁を加える彼にとって、暴力とは元来憎悪すべきものであったはずだ。殴る男(父)への憎しみから受動的に端を発した彼の暴力が、けれど次第に能動的衝動へと肥大し、かつての父のそれと相似形を描いていく恐ろしさ。その矛先は取り立て屋として訪れた先の債務者や手下の弟分に向かう。制裁を超えた私刑として下される父への「反撃」もまた然りだ。原題が示す「糞にたかる蝿」のように強迫観念にも似た暴力衝動に囚われ、自らこそが怪物となるサンフン。一方そんな彼にとっての菩薩となる、自分自身傷だらけのヨニ。互いの過去を嘆くでもなく胸に秘めたまま、夜の漢江のその畔で、痛々しい膿を搾り出すが如く涙をこぼしあうサンフンとヨニ。だが慟哭するサンフンに膝を貸し嗚咽をこらえるヨニが彼女自身の膿を出し切ることはないのだ。容赦のない連鎖の罰を受けながらも魂を浄化するように息絶えるサンフンと、その亡骸を前にやはり懸命に嗚咽を殺すヨニ。そして膿を吐き出せぬままの彼女が回想する、膿の元凶たる母の死。その余白にちらりと過る男の影がやがてくっきりと焦点を結んだ時、ヨニはサンフンの遺した幸福な光景と、等しく彼の遺した拭い去れぬ糞の痕跡、そのはざまに息を呑んで立ち尽くす。彼らのささくれだった魂がまるで閃光のように強烈に、フィルムにそして私たちの眼に焼きつく。恐るべき傑作だ。
[映画館(字幕)] 9点(2010-05-13 17:20:14)(良:3票)
26.  男はつらいよ 寅次郎相合い傘 《ネタバレ》 
雑多に盛り込まれるゲスト出演者やエピソードを巧く消化しきれず空回りすることも多い『男はつらいよ』シリーズだが、本作『寅次郎相合い傘』は、その中にあって桁違いの完成度を誇る奇跡のような一作だ。あらゆる登場人物が挿話が場面がそれぞれ見事に噛み合い、唯一無二のアンサンブルを織り成している。言うまでもなく渥美清がすばらしい。そして浅丘ルリ子がすばらしい。だが、それ以上に倍賞千恵子がすばらしい。添え物のように控えめに画面を彩る彼女はけれど、妹として姪として妻として母として友として、その時々にそれぞれの表情を見せる「さくら」という確固たる一人の人間として、ゆるぎなくそこに存在する。シリーズ全48作を通し、まるで定点カメラで撮影された花のように次第に萎れていった倍賞千恵子だが、スクリーンに刻んだそうした年輪の如き変化をも引っくるめ『男はつらいよ』にひたすら愛された彼女は、日本一幸福な女優だ。おそらくどのマドンナよりも。そして寅次郎を愛すればこそ一喜一憂する、とらやの面々。ある時は近所の人々の心ない噂を悲しみ、ある時はリリーとの夢物語を語る「寅のアリア」に聴き惚れる彼らの、家族としてのその表情の、なんという繊細さ!美しさ!店先で甘えるようにさくらの腰に抱きつく幼い満男や川原で虫を追いかけるその満男をさらに追いかける博の姿が、愛情に満ちた彼ら親子のその有り様をさりげなくも雄弁に語り、柴又の道端や寺の境内で遊ぶ子どもたちを捉えた他愛のないワンショットまでもが、この映画に温かい血を通わせている。さらにはメロンを巡る馬鹿馬鹿しい諍いから「相合い傘」へと至る一連のシークエンスのすばらしさ!子どもじみた寅次郎を一喝するリリーは、いつしか天涯孤独な身の上の客人としてではなく彼ら「すばらしき家族」のその一員として、そこにいる。そのことのなんという幸福感!東京の下町のケチな団子屋の、このささやかな家族たち。市井に暮らすつましい彼らのありふれた、けれどかけがえのないその瞬間瞬間を、映画は斯様に丁寧に切りとる。そうすることで山田洋次は人の世のすばらしき「幸福」を、そしてその美しさを、見事にここに描いたのだ。もしも何も知らぬ外国人に『男はつらいよ』とはどんな映画かと訊かれたら(そんな機会はまずありそうにないが)、私は間違いなくこう答えるだろう。happinessの映画だ、と。
[DVD(邦画)] 10点(2010-04-23 15:21:25)(良:4票)
27.  スラムドッグ$ミリオネア 《ネタバレ》 
オスカーの栄誉に輝いた本作だが、お世辞にも上質な映画とは言い難い。ご都合主義的ストーリー展開は勿論のこと、せわしなく切り替わる画つなぎも、まるでMTVの出来損ないのような粗雑さだ。だがおそらくそれでいいのだろう。エンドロールの破壊的かつ感動的なミュージカルが示すように、本作は、オスカーよりもラジー賞こそがふさわしい、そんな壮大にして素晴らしい超一級のB級映画なのである。華やかなクイズ番組とカットバックして描かれるのは、主人公ジャマールがそこに至るまでの苛烈な運命だ。引き裂かれた初恋の少女ラティカの存在が象徴するように、運命のままあらゆるものを奪われるばかりだったジャマールの人生。スラムでことごとく奪われたそれらを懸命に取り返すかのように彼は解答者席で答えを導いていく。彼が生きていく上で学ばなければならなかった、だからこそあらかじめ知っている、つまりは過酷な人生と引きかえに彼が手にしてきた、なけなしのその答えを。自分の人生にまつわるクイズに一つ正解するたびジャマールは、スラムでの痛ましい日々のその一つ一つを、それでも価値ある答えへと変えていく。かけがえのない生の意味を、空っぽに思えた自分の人生に吹き込んでいく。悲しみのままに負ってきたたくさんの傷にも、一つのこらず肯定する意味があるのだと。そして観客たちの拍手や歓声が、まるでジャマールのその人生を讃えるかのように、力強く彼を包みこむ。ラストに至りようやくラティカを抱きしめるジャマールは、彼女の美しい唇より先に、その頬に刻まれた痛ましい傷に口づける。悲しい傷をも、生き延びた勲章としていとおしむように。そうして彼は野良犬のような人生を、それでも一心に信じつづけた愛を、逞しく力強く、何より誇らしげに、肯定するのだ。そしてお待ちかねのエンドロールだ。歌えや踊れやのバカバカしいミュージカルが、彼の人生を、生きることを、そして生き抜くことを、それはもう涙が出るほどバカバカしく全肯定する。この映画は素晴らしきB級映画だ。そして素晴らしき人生讃歌でもある。
[DVD(字幕)] 7点(2010-04-10 00:00:33)(良:3票)
28.  空気人形 《ネタバレ》 
吉野弘の詩「生命は」に併せて是枝裕和監督が描くのは、心を宿した空気人形と、心を持つがゆえに空っぽな人間たちの姿だ。詩が謳うように、生命はその内にあらかじめ欠如を抱き、かつ自分自身では完結できない不十分な存在だ。その欠如を満たしうるのは、花に訪れる虻や風、つまりは他者だ。だが、空気人形の持ち主である中年男は頑なに「他者」を拒む。はなから面倒な心など持たない道具だからこそ彼女を選び、そして文字通りの自慰行為により、空っぽを満たそうとする。過食症を患う若い女も、若さを失う恐怖に憑かれた中年女も、同様だ。失った妻と幼い娘の密かな思い出(映画『リトル・マーメイド』)を自分も識ることで、耐え難い欠如を満たそうとする父親もそうだ。彼らは自らの心が抱える欠如を他者が満たすなどとは、ゆめゆめ思わない。他者を拒絶し、不毛な自家受粉に励むばかりだ。そんな中、件の詩を彼女に教えた老人だけが、空気人形を価値ある他者として受け入れる。彼は、心ない子どもが「冷たい」からと無下に払いのけた、体温を持たぬ彼女のその手を評し、「手が冷たい人は心が温かい」と告げる。その言葉にほほえむ空気人形と彼は、その瞬間、まさに互いに幸福な他者として向きあう。そして奇跡のようにそれぞれの心を満たしあう。一方で、愛する男と息を吹き込みあう空気人形。美しい愛の行為が悲劇に転じるのは、男が真に求める「他者」が彼女ではなく、写真の中の女、だからなのだろう。空気人形は代用品であるがゆえ、彼を満たす幸福な試みに失敗するのだ。彼女はそれでもなお誰かのための他者となるべく、最期の吐息で蒲公英の綿毛を吹き飛ばす。過食症の女は部屋の窓を開け、こと切れた彼女の亡骸を見つける。そしてゴミ捨て場で光を纏うこの美しき他者に、ようやくその心を震わせるのだ。空気人形に扮したペ・ドゥナが兎にも角にもすばらしい。白痴美めいたダッチワイフとしての表層を纏いながらも彼女が繊細に体現するのは、まさに人間の内なる心の普遍的なその有り様だ。無機質なビニールの質感で表情を覆われた冒頭から、心を宿すがゆえ生き生きとした笑顔をこぼすまでに至る中盤、そして一転、心を宿すがゆえ心の抱え持つ空洞に呑み込まれ次第に笑顔を失っていく終盤へと、是枝は注意深く彼女の心とその移ろいを捉え続ける。心を宿した空気人形と人間、両者に一体どれだけの違いがあるだろうか、と。
[DVD(邦画)] 8点(2010-04-09 23:57:50)
29.  セーラー服と機関銃 《ネタバレ》 
相米映画は荒唐無稽な反面、いつもその「重心」をしっかりと大地におく。主人公たちは絵空事の住人でありながら、まるで万有引力に則るようにその足を地に着ける。相米慎二は本作の薬師丸ひろ子をはじめ起用した数々のアイドル女優たちにシゴキの一環としてたびたび四股踏みをさせたというが、四股はまさに大地を両の足で力強く踏みしめる行為だ。彼女らは突飛な世界を生きながらも現実世界の私たち同様、ふわふわと空を翔る自由ではなく、重力に従い地上につながれる不自由=体重を持つのだ。たとえば『台風クラブ』の工藤夕貴は教室の窓枠に頭を挟み、自らの体の重みを感じる。『雪の断章ー情熱ー』の斉藤由貴も、バイクの後部座席でのけぞりアスファルトすれすれに重心を傾ける。重力を体感するように幾度となくプールや川の水に落ちる『ションベンライダー』の河合美智子もそうだ。幽霊として存在する『東京上空いらっしゃいませ』の牧瀬里穂ですら、つかのまの生命と引きかえに確かな重みをもって地上へと落っこちてきた。相米映画において「生きる」ということはつまり、大地を踏みしめる自らの体のその「重み」なのだ。重力に負け、落下するピンポン球よろしく「重み」を汚泥に突き刺す『台風クラブ』の三上祐一はその逆説だろう。本作『セーラー服と機関銃』の薬師丸ひろ子も例外ではない。まるで両手で地球を支えるような「えび反りブリッジ」という異様な体勢で登場し、地べたに座り込み、さらには堂に入った四股踏みまで見せる彼女は、ヤクザの居並ぶ校門へとおっかなびっくり、けれど一歩一歩踏みしめ進む。彼女はその意味でまさに相米映画の申し子と言える。だからこそ彼女に迫る危機は、クレーンやら十字架やらに吊るされること=その足を地上から切り離されることとして表現される。遠景の長回しで延々捉えられる雑居ビル屋上での終盤、表情すら識別できぬ豆粒のような薬師丸がそれでもやるせないかなしみを強烈に発散させるのも、豆粒ながらけなげに動き回る彼女の一歩の重みがちゃんとそこにあるからだ。王道アイドル映画的ラストも同様だ。地下鉄の通風孔の上、翻るスカートから覗く薬師丸の脚。履きなれない赤いハイヒールでそれでもゆるぎなくしっかりと、彼女はそこに立つ。はちゃめちゃでくだらないこの物語を駆け抜けた薬師丸ひろ子の、そして星泉の、小さな、けれど確乎たるその生命の輝きと重みが、間違いなくここにはある。
[DVD(邦画)] 9点(2010-04-02 16:32:27)
30.  時をかける少女(2010) 《ネタバレ》 
大林宣彦版(1983年)と、細田守版(2006年)、多くの人々の記憶に刻まれたこの二作の間にもドラマを含め数々の『時をかける少女』が撮られてきた。そのすべてを観たわけではないが、両作に匹敵するレベルに達した作品は一つとしてなかったように思う。細田版以降初の再映画化となった本作もまた、残念ながらその一つとなってしまっている。監督谷口正晃は演出家としてあまりに底が浅く、その稚拙さばかりが目につく。奥ゆきのない平板な映像に映画ならではの魅力はなく、バストショットからアップで人物を捉える構図の多用もまた俳優たちの小手先の表情をくどくどと説明するだけで、まるで出来の悪いテレビドラマのようだ。夢物語としての幼稚さや突飛さは大林版も細田版も同様であり、SFジュブナイルとしての原作の性質上、在って然るべきものだ。だが、夢物語にひそむ、少女や思春期の普遍的な有り様を、きちんとその荒唐無稽の中に描ききれていないのが致命的だ。筒井康隆の原作以上に初恋の抒情と痛みを鮮烈に焼きつけた大林版にも、そんな大林版を覆し初恋を晴れ晴れと解放することで新たな金字塔を打ち立てた細田版にも、遥か遠く及ばない下手さだ。だがこのド下手くそな映画は、それでも下手なりに、ひたすらけなげに『時をかける少女』であろうとする。そのけなげさは主人公芳山あかりにも通じる。ふにゃふにゃと周囲に甘えるばかりで幼く頼りない彼女が、雨の中傘を差し自分を待つ涼太を前にふざけようとして、真顔になり黙りこむ。物語上まるでとってつけたような二人の恋ではあっても、この瞬間にだけは間違いなくウソいつわりない初恋の有り様が活き活きと映っている。さらに本作は、細田版が省き、省くことで新たなスタンダードを創造しえた意味で旧作の遺物となった「記憶の抹消」というテーマと、愚直なほど真摯に向きあおうとする。初恋を消去されるあかりの痛みは、あからさまなバス事故や死を用いずとも表現できたはずであり、やはり出来の悪さは否めないが、それでも愚鈍なこの映画は、軽やかな細田版が切り棄てた「深町くんの手のひら」の計り知れないその重みを、泣けてくるほど馬鹿正直に、まっすぐ見据えるのだ。逆立ちしても傑作とはなりえない本作は、けれどそんな風にバカが付くほど誠実な、愛すべき『時をかける少女』である。
[映画館(邦画)] 6点(2010-03-20 22:18:25)(良:3票)
31.  ファニーゲーム 《ネタバレ》 
ミヒャエル・ハネケとラース・フォン・トリアーは似ている。共に世界的に注目を浴びた欧州の映画監督であるというだけでなく、ヨーロッパ映画特有の陰影に富んだ映像も、観る者の神経を逆撫でするような挑発的なその作風も、まるで双子のように似ている。だが、二人が決定的に違うのは、不快感を煽るその挑発の種類である。フォン・トリアーの映画は、執拗にダークサイドを描きながら、ある種のねじくれた幻想として存在する。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でも『ドッグヴィル』でもフォン・トリアーが描くのは、哀れな主人公を矢継ぎ早に襲う、幾多の悲惨な出来事だ。非現実的なまでに畳み掛けるそれらの不幸は、明確な作為をもって生贄たる彼女たちに与えられる。そうすることでフォン・トリアーは恐怖や絶望を第三者として愉快犯的観点から支配しようとするのだ。そして安全地帯からそれを見つめる私たちを共犯者に、恐怖や絶望を見世物=他人事とする、どす黒くも安全な「幻想」としての映画が出来上がる。一方、ハネケは身も蓋もないほどにありふれた現実として、恐怖を描こうとする。私たちは目撃者でも傍観者でもなく、当事者となる。そうして冷淡にハネケが突きつけるのは、今日も世界のどこかで起きているはずの、そして明日は我が身を襲うやもしれぬ、身近な、それゆえ恐ろしく生々しい、そんな絶望だ。ぎりぎりのところで精神の均衡を保っていた『ピアニスト』のエリカも、ささやかなバカンスを楽しむはずだった本作『ファニーゲーム』の家族たちも、ハネケは彼らを、明日の私たち自身の血腥い絶望の姿として、そこに置くのだ。そんな中にあって、あからさまに緊張感を削ぐテープの巻き戻しやカメラに語りかける犯人の構図だけが異質だ。場違いに(それこそフォン・トリアーのような悪意と作為で描かれる)「幻想」的なこの二つのシーンは、あまりに生々しくおぞましいスナッフフィルムの如き本作における、ハネケなりの良心だったのだろうか。そんな彼は自身によるハリウッド資本でのセルフリメイクを、ただ俳優を替えてそのまま焼き直しただけの、単なるコピー商品として完成させた。それはまるでヒッチコックの傑作『サイコ』を、変えるべきところなど一つも無いとばかりに、まるごと模したガス・ヴァン・サントのように。
[DVD(字幕)] 8点(2010-03-14 00:47:49)
32.  パッチギ! 《ネタバレ》 
井筒監督がここで描くのは単なる暴力ではなく、あくまでコミュニケーションの一形態としての喧嘩だ。たとえ不毛ではあっても、血気盛んなアンソンたちにとって喧嘩上等はある種の身体言語であり、彼らなりのせいいっぱいの自己表現なのだ。アンソンの弟分チェドキが主人公康介に打ち明けるように、本当はそれが怖かったとしてもだ。だからこの映画が描くアクションは、一つのこらずそんな彼らの「生きる」そのことに直結している。生きるということはつまり、この困難な世界にそれでも頭突き=パッチギをかますべく立ち向かう、そのことにほかならないだろう。時に流血するほど過激にエスカレートする彼らだが、その姿が一方でどこか清々しいのは、解りあえず敵として立ちはだかる憎き相手もしかし自分と等しく生きるべき人間なのだということを、当たり前のこととして野蛮なはずの彼らが知っているからだ。人間はそれでも等しく人間なのだ、と。この映画が終始一貫ひたすらに語ろうとするのは、つまりそれだ。友情を誓いあったチェドキの葬儀の席で「お前は日本人だから」と遺族に糾弾される康介。一人涙にくれ、橋の欄干で大切なギターを叩き割る彼の姿は、朝鮮部落のみすぼらしいあばら家の、チェドキの棺も入らぬ小さなその入り口を、泣きながら懸命に叩き割るアンソンの姿にぴたりと重なる。日本人であることと朝鮮人であることが、同じ大切な友人を失ったこの二人の等しい悲しみすら別次元に分断してしまう現実。それぞれにその厄介な現実にどうしようもなく打ちひしがれる二人は、けれどそれでも同じように傷つき、そして同じように涙をこぼすのだ。そんな中、急速に浮き上がってくるのは、アンソンとの子を身籠る桃子の存在だ。ライオンと豹のあいの子レオポンをしきりに見たがった彼女の出産は、まさにこの物語の軸となる。そうしてイムジン河の「分断」から「融合」としてのレオポンへと、堰を切ったように雪崩込んでいく大団円。それぞれの熱くほとばしる血潮が一つの心臓へと巡っていくように、桃子の腹に宿る生命めがけて、映画はいつしか漲る力強さで確かな鼓動を脈打ちだす。それは日本人だからでも朝鮮人だからでもなく、人間がただ人間として生まれ来る上で等しく奏でる、逞しく尊いその心音だ。井筒はそうして、生きることを、生き抜くことを、つまりはパッチギることを、惜しみなく、ただひたすらに祝福するのだ。
[映画館(邦画)] 9点(2010-03-14 00:45:30)(良:3票)
33.  時をかける少女(2006) 《ネタバレ》 
かつての大林宣彦版『時をかける少女』が観客に最も印象づけたのは、主人公芳山和子を包み込むラベンダーの匂いであった。ある日突然和子の身に起こる不可思議な出来事を、大林は、思春期における心と体の違和そのものとして描いた。つまりタイムリープは、不安定な思春期の少女に起こる未知なる変調であり、その異変への凶兆として禍々しく立ちのぼるラベンダーは、成熟に伴い生じる少女の不安や畏れの象徴であった。その意味で、抗いようもなくラベンダーに囚われる和子はそうした脆弱な思春期の只中にいたからこそ、絶対的な異変として襲いくる時間の波にもまた為す術なく傷つき翻弄されたのだ。ところが一転、本作細田守版はそのラベンダーをあらかじめ切り棄てる。アニメーションで描かれる美しく晴れ渡った青空同様に、快活で能動的な紺野真琴の思春期には一片の翳りもなく、そんな彼女が和子のように不穏なラベンダーを嗅ぐことはない。成熟や性の匂いから切り離されひたすら無邪気なままの真琴は、それゆえ畏れを知らぬ恋する冒険者としてしゃにむに勇敢に時をかけることができたのだ。大林と細田のこの大いなる違いは、それぞれの思春期の解釈の決定的な違いでもあるのだろう。芳山和子はラベンダーに限らず、尾道のノスタルジックな「風景」に、永遠に反復される窮屈な「時間空間」に、前時代的に儚くか弱い「少女像」に、囚われあるいは奪われ、その痛みに打ち震えるばかりの少女であった。その最たるは、「タイムトラベルする未来人は関わった過去の人間の記憶を消さなくてはならない」というSFジュブナイルの絶対的な掟による、かけがえのないその初恋の喪失だろう。あたかも蝶の翅を捥ぐかのように、大林は、和子の時を記憶をそして初恋を奪い、彼女をそこに閉じ込めることで少女の思春期を表現した。これに対し細田は、大林版とはことごとく真逆のベクトルを用いることで新たな『時をかける少女』を提示する。紺野真琴にとって時をかけることは、奪われることではなく、むしろ翅を与えられ自由に解き放たれることなのだ。記憶の抹消という旧作における痛ましい主題がラベンダー同様意図的に省かれるのは、おそらくそのためだ。彼女の初恋が和子のように残酷に失われることはない。細田はそうして少女の思春期を、胸を掻き毟るかなしみや痛みではなく、輝かしく軽やかな羽ばたきとして、ここで新たに表現したのだ。
[DVD(邦画)] 7点(2010-03-14 00:41:16)(良:1票)
34.  転校生(1982) 《ネタバレ》 
『転校生』のプロットはまさに画期的かつ奇想天外だ。だが本当に面白いのは、この突飛な設定に反し本作が実は一貫してオーソドックスな青春映画でありつづけようとすることだ。一美が一夫であり一夫が一美であるという彼らの身に起こる一大事は、言わば本人たちがただ勝手にそう主張し上を下へと大騒ぎしているだけに過ぎない。つまりは彼らがいかにハチャメチャな騒動を巻き起こそうと、映画はひたすらに何の変哲もないありふれた青春の、それゆえ美しい日々を、ただありのままに捉えるのだ。そんな風にして描かれるのは、だれしもがかつて学校の音楽室で耳にしたはずの入門編クラシックと、郷愁をさそう尾道の町並み、そしてそんなノスタルジアを背景に先述の二人がくりひろげるそれこそ古典的なまでのドタバタ喜劇。それらを奇を衒うことなく綴っていく大林宣彦監督のその視線はいつにも増しておおらかだ。彼が前作『ねらわれた学園』や次作『時をかける少女』では一転、角川映画の製作費を投じ大林印のきらびやかな特撮を駆使していたことを考えると、そうした特撮を徹底的に除いた本作のカラーは低予算ゆえの決断だったかもしれない。だが逆に言えばその英断ゆえ、本作は大林印に免疫のない観客層にも訴求する力を持つ作品となってもいる。一美役に起用した小林聡美がいわゆる大林印の美少女でないことも然りだ。主人公二人の内面だけに起こる目に見えない奇想天外、それを特撮もデコレーションも排したありきたりな風景の中でファンタジーとして体現できる女優は小林聡美をおいて他にいないだろう。「さよなら私」「さよなら俺」、手をふりあう一美と一夫。それは転校生とそれを見送る者とのセンチメンタルな別れであると同時に、子ども時代というファンタジーの終焉でもあり、さらには人知れず悩める思春期との決別であり、また、初めて意識しあった「異性」との別れでもある。望遠レンズでも追いつかないほどにどんどん小さくなっていく「俺」はいつしか「あなた」となって、別れに胸を痛めながら、それでも健気に軽やかなスキップでまたその先を進んでいく。そうして八ミリの中の豆粒のような斉藤一美は、消える寸前、ついに芳山和子や橘百合子に負けない大林映画の美しきヒロインとしてフィルムにくっきりと焼きつくのだ。「さよなら俺!」、やさしくささやくような一夫の、その言葉と共に。
[DVD(邦画)] 9点(2010-03-03 03:05:57)(良:3票)
35.  トゥルーマン・ショー 《ネタバレ》 
モニターに映るトゥルーマンの頭を撫でながら、我が子をいとおしむように、年老いたプロデューサーは言う。「君をずっと見てきた。君が生まれた時、最初のヨチヨチ歩き、学校に上がった日、最初の歯が抜けた時。」彼はトゥルーマンにとって創造主でもあり、また父でもあるのだろう。町は大掛かりなベビーサークルだ。その箱庭の中、意のままに息子を操ってきた父にとってたった一つの誤算は、従順な駒として動かし得た息子にもけれどいつしか一個の人間として自発的な恋という感情が芽ばえてしまうということだ。父が選びあらかじめ用意した娘とではなく、父の思惑ではエキストラに過ぎなかったはずの娘とアクシデントのような恋におちるトゥルーマン。それは予定調和の庇護の下、安全に飼い殺されるばかりだった彼に芽ばえるはじめての自我だ。情報はすべてパブリックに管理・操作され、一片のプライベートな秘密すら許されぬ筒抜けのその世界で、それでも彼が胸にひた隠し貫く恋。全てが監視下に置かれているとも知らずこっそりとファッション雑誌を切り抜き、初恋の記憶を辿るままに遥かフィジー島を目指すトゥルーマンの姿が感動的なのは、絶対なる父の手をもってしても決して届かぬ私的なその感情だけが、盤石でありながらすべてが作り物の彼の人生において、ただ一つの、ウソ偽りない「本物」だからなんだろう。そうしてトゥルーマンは絶対的な神の手を、つまりは強大な父の支配を、かいくぐり突き進む。まるで永遠のモラトリアムから脱出を図るように。一方の父は、かつて神が人間にそうしたように、自我を持ち意に背く恩知らずな息子に、罰を下す。巻き起こす天変地異により愛する息子を死の危険に曝してでも、その巣立ちを阻害しようとする。そんなすさまじい父と子の姿から浮かび上がるのは、自立とは決死の闘いであるということ。この一人のいい年をした男の遅咲きの成長譚は、だからこそ意外性に富み、実に感動的だ。ついに遂行されるトゥルーマンの力強い羽ばたき。彼の勇敢なその突破に我々は快哉を叫ぶだろう。だがそんな私たちもまた結局は見世物としてトゥルーマン・ショーを消費しているに過ぎないという痛烈な皮肉が、安直なカタルシスを頑なに拒む。扉の向こうからやってきたトゥルーマンが辿り着くのはハッピーエンドなのか、それとも次なる関門なのか。それを決めるのは、まさに私たち次第なのだ。
[DVD(字幕)] 9点(2010-02-27 11:18:25)(良:1票)
36.  ファントム・オブ・パラダイス 《ネタバレ》 
「何の取り柄もなく人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る」最後の最後で歌われるこの歌詞の、何という身も蓋もなさ!そして何という負け犬根性!けれどこの負け犬の滑稽とかなしみこそが、デ・パルマ節なのだ。出ばなから一見して挙動不審で変人丸出しの主人公ウィンスロー。けれど彼は、だからこそデ・パルマ映画の主人公たりえるとも言える。焼き払いたいほどに憎悪する屈辱のレコードの型を、よりによって自らの顔にプレスしてしまう彼の姿は、豚の血をあびる『キャリー』や『BLOW OUT』において愛するサリーを救い損ねるジャックのように本作以降もデ・パルマが繰り返し変奏していく一つの主題、つまりは非力な負け犬にまさに烙印として下される逃れられない絶望、その原型でもある。仮面とマントと人工声帯をもって暗がりにのみかろうじて存在しえるこの怪人は、自分の歌も声も顔も人生もそして存在すらも奪った男スワンと愛する女フェニックスとの閨房を、ただ天窓の外から悲しく覗き見るしかできない。雨に打たれ慟哭するその無防備な背中を監視カメラに曝して。ラスト、それでもただまっすぐに愛するフェニックスへと差し出される彼の手。狂喜乱舞する観客たちの歓声は遠のき、美しい旋律に変わり、流麗なスローモーションでカメラが捉えるのは、ステージをみじめに這いずり回りそれでもまっすぐにフェニックスへと最期まで手をのばし続けるウィンスローの姿だ。それは哀れな負け犬の無様なセンチメンタルかもしれない。目を覆うほどに醜くみっともない男の滑稽な死に様かもしれない。フェニックスの声は彼の耳にはついに届かなかったかもしれない。それでも、そう、それでも。フェニックスはようやく言うのだ。その亡骸を抱きしめて。存在を奪われ、この世から消されてしまったはずの彼の名を。ウィンスロー、と。
[DVD(字幕)] 9点(2010-02-23 02:01:01)(良:1票)
37.  デス・プルーフ in グラインドハウス 《ネタバレ》 
冗長なガールズトークは嫌いじゃない。無意味にスクリーンいっぱいに接写されるメール送信画面にブライアン・デ・パルマ監督『BLOW OUT』の流麗なサントラをこれまた無意味にかぶせてしまうタランティーノ流お遊びも、楽しい。だがこの映画には決定的に欠けているものがある。復讐を描くには美意識が要る。例えば悪趣味かつ馬鹿丸出しな『キル・ビル』が、それでも一方で張りつめんばかりの緊張感を持ち得たのは、『修羅雪姫』や『女囚さそり』シリーズへのリスペクトを基にタランティーノが描くその復讐劇が、前述の映画に存在した(梶芽衣子式とでも呼ぶべき)気高い美学にきちんと則っていたからだ。わが身に降って湧いた卑劣な裏切りへの報復を誓い、時に敵の四肢を斬り落とすほどの非情さを見せるユマ・サーマンだが、彼女はその前提として自らの命を賭すだけの悲壮な決意をもって、血みどろの闘いに臨んでいた。それこそがつまり、復讐の美意識だ。だが一転、『デス・プルーフinグラインドハウス』にそんなものは微塵も存在しない。何のためらいも葛藤もないまま変態殺人鬼と同じレベルに堕し、野放図にそして嬉々として行われる汚らわしいだけの復讐。それは、真珠湾攻撃の報復に原爆を投下しカタルシスに浸る、そんな類いの正義にもどこか似ている。低俗なB級C級映画を敢えて再現するというコンセプトの上に成り立つこの映画にとって、批判こそが最大の賛辞なのは百も承知だ。そうして小狡く舌を出すタランティーノの茶目っ気もよく解っているつもりだ。そもそもそれ以前に、復讐などに美醜を求めることこそが間違っているのかもしれない。だがそれでも、と、爆笑と歓声に沸くとある被爆国の映画館で、私は一人寒々しく思った。復讐という名の下ただ卑しいだけのこんな蛮行に愉快痛快と拍手喝采を送る感覚を、少なくとも私は、持ちあわせていない。
[映画館(字幕)] 0点(2010-01-28 22:54:25)(良:1票)
38.  ぐるりのこと。 《ネタバレ》 
処女作『二十才の微熱』から一貫してゲイを主人公に作品を撮り続けてきた橋口亮輔監督だが、『渚のシンドバッド』の浜崎あゆみや『ハッシュ!』の片岡礼子のように、主人公のかたわらには常に、自身も心の奥底に何らかの傷を抱えた女たちが、それでもか弱い彼らを護り支える女神のように毅然と立っていた気がする。彼女らは時に自らの自由や可能性を犠牲にしてまで、弱者たる主人公たちを力強く庇護する存在としてそこにいた。『ハッシュ!』を観た時、魅力的な映画とは思いつつ、ふと、どこかしら共感しがたいものを感じた。それは片岡礼子演じる孤独な朝子に、それでもいつか生涯の伴侶と巡り会うかもしれない可能性を軽率に唾棄させてしまう(それがたとえ本人の強い意志でむしろ彼女自身から強引に持ちかける提案として描かれてはいても)ことへの違和感だった。彼女の存在意義が、主体となるゲイのカップルにとってある種都合のいい、母なる女神として、そこに置かれてしまっているように思えたのだ。ゲイであるどうこうは、このさいどうでもいい。『ぐるりのこと。』でリリー・フランキー扮する夫もまた、ゲイではないが、橋口がこれまで描いてきた心やさしくも不甲斐ない男性像をそのままに踏襲している。だがここで彼が描くのは一転、糸が切れたように力尽きてしまった出来損ないの女神と、そんな彼女を今度は自分が支え返そうとする男の、その姿なのだ。橋口が初めて、か弱い男を庇うヒーローとしてのヒロインではなく、傷を負った一人の生身の女を腰を据えて見つめようとした本作には、だからこそとても大きな意味がある。少なくとも私にはそう思える。そして橋口映画史上もっとも弱々しくカッコ悪いそんな女性像を託された木村多江が、その意味に、見事に温かい血を通わせている。癇癪を起こし泣きじゃくる妻と、そんな彼女にそっと洟をかませる夫。これほどみっともなく、けれどこれほどに美しいラブシーンを、私は他に知らない。夫婦とは何なのだろう。共に生きるとはどういうことなのだろう。それは支えあうこと、そして見つめあうこと、時には横たわり同じ天井を見上げること、足でそっと蹴りあい手をつなぐこと。たったそれだけのことなんだと映画は語りかける。金屏風の前でささやかな記念写真を撮る前も後も、それこそ病める時も健やかなる時も、彼女たちはただシンプルにけれど力強く、夫婦なのだと。
[DVD(邦画)] 9点(2010-01-28 15:26:50)
39.  Wの悲劇 《ネタバレ》 
時代の移り変わりを経て、幸か不幸かその毛色がガラリと変わってしまう映画がある。『Wの悲劇』はまさにそんな映画の代表例だろう。女優の野心やエゴ渦巻く演劇界を描いた本作だが、20年以上の時を経た現在、公開当時のシリアスドラマとしての機能は完全に破綻し、もはやブラックコメディーのごとき様相を呈している。驚くのは、作者本来の意図に反してサスペンスからコメディーへとそのジャンル自体がガラリと一変してしまったこの映画が、それでも途轍もなく面白いということだ。密室殺人を描いたありきたりな原作ミステリーを敢えて劇中劇とし、そこで起きる殺人と、それを演じる女優の身に起こるスキャンダルとが「身代わり」という共通項でシンクロしていく二重(W)構造。そしてその身代わり役としての和辻摩子を「演じる」ためにスキャンダル女優を「演じる」劇団研究生三田静香をさらに「演じる」薬師丸ひろ子の姿から、人間の人生における二重三重の演劇性にまで言及する脚本の巧さ。この練りに練られた巧みさが本作に骨太な厚みを与えているのは間違いない。たとえ表層のシリアスが時を経て突っ込みどころ満載の滑稽な笑いに変色はしても、その根本の重厚な骨組み自体はゆるがないということだろうか。さらに言えば薬師丸ひろ子、三田佳子、高木美保(新人)ら女優陣の過剰に大仰な舞台型熱演もまた、もはや迫真性を超えて観る者の笑いを誘いつつ、けれど本物の人生を虚構のように「演じ」ざるを得ない人間の滑稽や悲しみを根底に謳う本作には実にふさわしい。駆け出しの劇団研究生におろおろと泣きすがる三田佳子も、スキャンダラスな裏事情を腹式呼吸で説明しながらナイフ片手に突進していく高木美保(新人)も、そしてスカートの裾を拡げていじらしい泣き笑いを見せる薬師丸ひろ子も、彼女たちはいついかなる時も悲しいほどに、その役を演じる一人の女優として、そこに立つ。たとえ心から愛した男のためにフラッシュライトを浴び涙を流せなくても、たとえそのナイフが本物の血に染まってしまっても、あるいはたとえその別れが本物の永遠の別れであっても、彼女たちが人生を演じるその舞台から降りることは、決してないのだ。
[DVD(邦画)] 9点(2010-01-24 02:38:05)
40.  ブタがいた教室 《ネタバレ》 
例えば英語圏でPIGをPOAKと呼び換えるように、一頭の家畜が「肉」となり店先に並ぶまでの過程を、人は忌み嫌う。他の生命を奪い食べるという自然の摂理、その正当性と残酷を正しく認識する以前に人はそこから目をそらしてしまう。大人ですら真に理解しているとは言い難い(そしてそれゆえに避けて通ろうとする)この難題を子どもたちに語りあわせるコンセプトは素直にすばらしいと思う。しかしそれをきちんと描ききるだけの確固たる志が、残念ながらこの映画には無い。通り一遍の大風呂敷を広げ、あたかもタブーに挑むかのように見せながら、映画は肝心の核心に近づくたび安全地帯へと逃げ帰る。これが子ども向け映画で出来る限界であったと言われればそれまでだが、禁忌を語るに足る厳しさや中立性を一切欠いたその姿勢はあまりに生ぬるい。子どもたちが仔ブタを家畜ではなくペットとしてPちゃんと名付けてしまう発端の姑息な「誤算」からして、物語はさっそく肝心の食育から弱々しく目をそらし、語るべきテーマから大きく逸脱してしまっている。さらにはその生半可さが、ペットとして可愛がったブタを家畜として送り出すという、食育とはまるで別次元の(本来なら不必要な)辛い決断を子どもたちに迫るのだからなんともたちが悪い。トラックの荷台に乗せられたPちゃんを、まるで転校生を見送るように泣きながらセンチメンタルに追いかける子どもたち。だがPちゃんの行き先は、新しい学校などではなく、血腥い精肉工場なのだ。それでも映画は美しい別れの感傷にただひたるばかりだ。彼の行き先を自分たちで決定した(させられた)ということ、そのことの重い意味を子どもたちに最後まで理解させることなく。中途半端な食育の名の下に訳もわからぬまま決断を下させられた子どもたち、そんな彼らの胸に去来するのはおそらく学舎を共にしたクラスメイトとの単なる別れの悲しみでしかないだろう。例えば性教育を語るのに即物的なポルノ映像が必要ないように、精肉工場で屠殺され血を抜かれスライスされるブタを子どもたちに見せる必要は勿論無い。しかし食育を題材としながら終始核心から目をそらし続けるだけの無害きわまりないこの映画は、血の痕跡を丹念に洗われ清潔にパック詰めされたスーパーの豚肉と何ら変わりない、無難で欺瞞にみちたシロモノだ。私たちは今日もその安全な肉を買い、能天気においしいねと舌鼓を打つのだろう。
[DVD(邦画)] 0点(2010-01-24 02:30:59)(良:2票)
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