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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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441.  ザ・マミー/呪われた砂漠の王女
御年55歳の稀代のハリウッドスターが、相も変わらず“年不相応”な肉体とアクションをこれでもかと見せつける。 “彼”の映画愛と自己愛が常軌を逸しはじめて久しいが(褒めている)、今作でもその部分においては、世界の映画ファンの満足に足るパフォーマンスを見せてくれていると思う。 詰まるところ、“トム・クルーズ”の仕上がり具合は、近年の傑作・快作と比較しても決して不足のない状態だったことは断言できる。  ただし、最新の娯楽大作としては、きっぱりと、面白くはない。 トム・クルーズの出演映画としては、近年珍しいレベルの「凡作」だったと言わざる得ない。  今作は、ユニバーサルが新たに仕掛ける「ダーク・ユニバース」なるモンスター映画シリーズの第一弾。 「マーベル・シネマティック・ユニバース」の大成功に対抗するといえば聞こえは良いが、要は臆面もなく企画を真似たフランチャイズ化だろう。 しかしながら、今後製作が予定されている「フランケンシュタイン」「透明人間」「ドラキュラ」「半魚人」などなど名だたるモンスター映画のラインナップには、一映画ファンとしていやが上にも高揚してしまう。 その先陣を我らがトム・クルーズが担うというわけだから、期待しないわけにはいかなかったところ……。  モンスター映画シリーズとはいえ、往年のモンスター映画そのままに怪物そのものの「恐怖」だけを描き出したところで、どんなに良質であったとしても“B級映画”の範疇を出ないことは目に見えている。 今の時代に、「ダーク・ユニバース」と銘打ったからには、時代と価値観を越えて、「悪」という存在そのものへの真理の追求や存在意義めいたものが描き出されることを期待した。  ユニバーサルの製作陣の狙い自体は、そういった期待から外れたものではなかったと思う。 トム・クルーズが演じた主人公が辿る運命然り、闇の女王から醸し出される悲哀然り、非常に惜しい要素は随所に見受けられたのだけれど、結局それらの要素が巧く結びつかず、最終的には酷く散漫で凡庸な映画世界の構築に終始した印象を受ける。 監督を務めたアレックス・カーツマンなる人物は、過去様々な娯楽大作において脚本や製作を担ってきた映画人だが、この壮大なフランチャイズの先陣を“初監督作”として纏め上げるには、少々荷が重すぎたのではないかと思わざるをえない。  まあしかし、これほど大規模なフランチャイズのスタートが困難であることは分かりきっていることで、ある程度の失敗も想定のうちだろう。 シャレにならないほど大コケして、次作以降のユニバース展開自体が頓挫しないための“トム・クルーズ”という「保険」だったとも思える。 ニック・フューリー的な立ち位置で登場するラッセル・クロウ扮する“ジキル&ハイド”は贅沢だったし、美しい“闇萌え女王”には是非とも再復活してほしい。  次作は、ハビエル・バルデムの「フランケンシュタイン」か、ジョニー・デップの「透明人間」か。程よくワクワクしながら待つとしよう。
[映画館(字幕)] 5点(2017-11-09 21:39:33)
442.  エージェント:ライアン
かつてハリソン・フォードやアレック・ボールドウィンらが演じてきたCIA分析官“ジャック・ライアン”の若き日を描くリブート作。 リブート版「スター・トレック」の主演としてシリーズ成功の一躍を担ったクリス・パインを新たなジャック・ライアンに起用し、例によってシリーズ化を目論んだのだろうけれど、どうやら失敗に終わったようだ。  アクション映画として決して面白くない映画ではなかったと思う。駆け出しスパイものとして楽しめないわけではない。 クリス・パインは、理想と野心そして才気に溢れた主人公像を好演しており、この荒削りな若者が、年月と経験を経て、「パトリオット・ゲーム」のハリソン・フォードへと変貌していくことを想像するとある種の感慨も覚えた。 お目付け役として登場するケビン・コスナーも存在感があり、シリーズ化が実現したならば、主人公との師弟関係においても展開が期待できたと思う。  期待できる要素は随所にあったのだが、昨今良作が乱立するスパイ映画勢の中にあって、特筆すべき見どころがあったかというと、「ノー」と言わざるを得ない。 アクションシーンにおいても、ストーリーテリングにおいても、目新しさは無く、かと言って各要素が洗練されているかというとそうでもなく、中途半端でありきたりだった。 監督と悪役を担ったケネス・ブラナーに、この手の娯楽映画を巧く仕上げる資質がそもそもないのではないかと思える。  “粗”として最も気になったのは、何と言ってもヒロインのキャラクターとしての魅力の無さ。 婚約者の正体がCISエージェントであることを知って、それに対する驚きはほぼ皆無で、ただただ浮気の疑惑の解消に安堵する女ってどうなの? 彼女が未熟なティーン・エイジャーであるなればその描写も可愛く映るのだろうけれど、医師の肩書を持つ大人の女性だというのだから、正直ただのイタい「馬鹿女」にしか見えなかった。 途中までキーラ・ナイトレイが演じているとは気付かなかった程のこのヒロインの魅力の無さは、娯楽映画として致命的だ。
[インターネット(字幕)] 4点(2017-11-09 21:32:00)
443.  ポテチ
伊坂幸太郎の短編小説の映画化。 原作が短編小説とは言え、一本の映画にするには物語構造自体が薄すぎたように思う。 このお話自体が嫌いなわけではないけれど、醸し出されるポップさが少々あざとすぎるようにも見え、登場するキャラクターたちに総じて実在感がなかった。 現代劇として映画化する以上は、一定以上のリアリティは不可欠なわけで、その部分を担保できなかったことは大きな敗因と言えるだろう。  ストーリーテリングの中心に「野球」が存在するわけだが、そうである以上、「野球」をもっと象徴的に描く最低限の巧さがほしかった。 勿論、低予算の中編であるから贅沢は出来なかったのだろうが、ラストの球場シーンがまったくもって「プロ野球」に見えなかったことには失笑を禁じ得なかった。  流行作家としての伊坂幸太郎の小説は好きだし、いくつかの映画化作品も概ね面白く観ている。 今作も決して全く面白くないということではないけれど、他の作品と比較して捻りと毒気が弱いことが、大いに物足りぬ。
[インターネット(邦画)] 4点(2017-11-09 21:19:31)
444.  薄氷の殺人
邦題の印象から勝手に韓国映画だとばかり思って観始めたが、中国映画だった。 似たようなプロットの韓国映画もあったように思うが、国が違うとこうも映画の空気感というものは異なってくるものかと痛感した。まあ至極当たり前のことなのだが。 そして、残念ながら、個人的にはこの映画に対してとても居心地の悪さを感じてしまい、面白味を感じるまでに至らなかった。 退屈、淡白、ありきたり、否定をするための幾つかの形容が頭をめぐるが、どれもうまく当てはまらない。  寒々しい空虚感が全編通して満ちている。 湯気が立ち上る料理も、白日に打ち上がる花火も、超絶にダサいエンディング曲も、すべてが寒々しい。 勿論、それこそがこの映画のテーマであり、存在意義だとは思う。 ただし、その寒々しさを受け入れられるかどうかで、この映画への価値観は変容するのだと思う。  それを受け入れられなかった者は、この映画が醸し出す寒さと冷たさと空虚さと不潔さに只々苦しめられる。 主人公をはじめ登場人物たちにも一切感情移入をすることができず、困惑する。 そして、一刻も早くこの映画世界から抜け出したくなる。  “面白くなかった”ので、評価はできない。けれど、この独特な中国映画の存在意義は認めざるをえない。
[インターネット(字幕)] 5点(2017-11-09 00:00:14)
445.  メアリと魔女の花
冒頭の一連のシークエンスはまさに“ジブリ的”であり、期待感と高揚感が刺激された。 「天空の城ラピュタ」のようであり、「千と千尋の神隠し」のようであり、「崖の上のポニョ」のようであった。 この映画が、「スタジオジブリ」としての再出発作品だと言うのならば、僕は一定の満足感を得られたかもしれない。  米林宏昌監督としては3作目だが、スタジオジブリから独立し、新スタジオを立ち上げて臨む第一回作品として、彼のこれからのフィルモグラフィーにおいても非常に大切な一作だったに違いない。 選んだ題材は「魔女」。当然ながら観客は特にジブリファンでなくとも「魔女の宅急便」を否が応でも連想する。 キャッチコピーにも「魔女、ふたたび。」と掲げる大胆不敵ぶり。 そして、冒頭からの過去のジブリ作品に対しての過剰なまでのオマージュ性は、敬意と感謝を込めつつも、それを越えていくことの堂々たる宣言かと期待した。  がしかし、最終的に得られた感想は、冒頭のシークエンスで感じた印象に集約されていた。 即ち、「ジブリのような映画」でしかなかったということ。 シーンもキャラクターも台詞回しですら、映画を構成する殆どすべての要素が“のようなもの”だった。  “ジブリの継承”と言えば聞こえはいいけれど、同時に恥ずかしいくらいに“二番煎じ”の域を出ておらず、むしろ“呪縛”めいたものも否定できない。 当然ながら、それではアニメ映画として新しい世界が開くはずもない。 悪いけど、この国のアニメーションはもっと先に進んでいて、そんなところにいつまでも留まってはいない。  奇しくも、昨年の国内映画シーンは、片渕須直監督の「この世界の片隅に」と、新海誠監督の「君の名は。」が席巻し、今年も「夜は短し歩けよ乙女」で湯浅政明監督が改めて新時代への名乗りを上げた。 勿論、最先鋒には庵野秀明や細田守も君臨していて、国内のアニメ映画界は、群雄割拠の戦国時代に突入している。  そんな映画ファンにとってはしびれる状況の中で、米林宏昌監督がこの“二番煎じ”で満足しているというのならば、それはあまりにも残念でならない。 ジブリからの直接的な独立者として色々と難しい立ち位置ではあるのだろう。そうであったとしても、ここまで古巣に対しての目配せをし、媚びへつらう必要があったのだろうか。 エンドロールの最終盤にクレジットされる御大3名に対しての「感謝」の二文字が気持ち悪くって仕方なかった。   “偏屈な天才”がまたもや「引退詐欺」を画策しているという噂も聞く。 米林宏昌監督があくまでも“ジブリ”というブランドの枠組の中で「作画」のみに没頭し、老いた天才と共に心中したいというのであればそれもいいだろう。 けれど、個人的には前作「思い出のマーニー」に多大な可能性を感じただけに、勿体なく思う。  新スタジオの名前はスタジオポノック。「ポノック」とは「午前0時」の意で一日のはじまりを表現しているらしい。 果たして、「午前0時」は一日のはじまりなのか終わりなのか。 残念ながらこの作品からは、過ぎた一日の疲弊感とそれに伴う想像力の欠如しか感じない。
[映画館(邦画)] 4点(2017-11-08 21:24:44)
446.  ハドソン川の奇跡
出張で羽田行きの機内に乗り込む最中、10日前に観たこの映画のことを思い出した。 日々の行いだとか、常日頃の危機意識だとか、事故に遭遇しないための言い様は色々とあるけれど、事故に遭うか否かは詰まるところ「運」次第だろう。 しかし、同時に、不運にも起こってしまった事故に対処する人物が誰であるかということも、「運」次第だと思う。 この映画で描かれた事実を率直に受け取るならば、あの航空事故は、「不運」と「幸運」が同時に邂逅した出来事であり、そのことが即ち「奇跡」と呼べるのだろうと思う。  原題は「Sully」。事故機の機長チェスリー・サレンバーガーの愛称である。 原題が表す通り、今作は「奇跡」の顛末ではなく、サレンバーガー機長の事故前後の心情描写と葛藤、ベテラン機長としての矜持がつぶさに描かれている。  パイロットとして30年以上に渡り飛び続けてきたからこそ抱えた一抹の不安。 彼は、航空において「絶対」が無いということを、他の誰よりも知っていたのだろう。それがたとえ自分自身が生み出した奇跡と、それに対する疑念であったとしても。 紛れもない「一流」だからこそ抱えた葛藤の行く末に心がふるえた。  主演のトム・ハンクスは、「キャプテン・フィリップス」「ブリッジ・オブ・スパイ」そして今作と、実際に起こった事件・事故に対峙した実在の人物を立て続けに演じ、流石の存在感を放っている。 すっかり“アメリカの良心”を象徴する大俳優になった印象を覚える。  そして、監督のクリント・イーストウッドは、映画人として極まった円熟味に更に拍車をかけるか如く、あまりにも手際よく良作を仕上げてみせている。 この題材となった事故は、確かに奇跡的な出来事ではあるが、あまりにも突発的で短時間で収束した事故だっただけに、映画として膨らませることは困難だったはずだ。 しかしながら、イーストウッド監督は、紛れもないキーパーソンであるサレンバーガー機長の深層心理にまで的確に表し、同時にこの奇跡が機長一人の功績ではなく事故に関わったすべての人達による最善の対応結果であったことまで拾い上げ、それぞれの描写を手際よく描ききっている。   冒頭機長は、対応の是非を追求してくる国家運輸安全委員会の「墜落」という表現に対して、断固として「着水」だと言い放つ。 勿論結果として、機長の主張は正しかったわけだが、この映画が伝えることはその正誤そのものではない。 或る英雄的行動も、一つ視点を変えれば、蛮行として捉えられることもある。 事故に関わった様々な人間たちの多角的な視点こそが、この映画のテーマだろう。  そこには、この世界の理、アメリカという国の真の姿を冷静に見続け、表し続けるクリント・イーストウッドの本領が如実に表れている。
[インターネット(字幕)] 8点(2017-11-08 21:18:41)
447.  マッドマックス2
荒廃した地球、入り乱れる暴力と狂気。 「映画」のみならず、漫画、小説、様々な表現において、その後デフォルトとなったこの「イメージ」を発明し、創り上げたこの映画の価値と衝撃は、如何なるものだったのだろう。 今作の製作年と同じ1981年生まれの映画ファンにとっては、伝え聞くその衝撃は、言葉通り“伝説”の範疇を出ず、非常に口惜しく思う。  2015年の大衝撃作「マッドマックス 怒りのデス・ロード(Mad Max: Fury Road)」が、“マッドマックス”初体験だった。 その直後に第一作「マッドマックス」を観て、今回ようやく「2」の鑑賞に至った。 ある意味必然的なことなのかもしれないが、伝説的なこの2作に対して、伝説通りの衝撃を受けることは出来なかった。  “カルト”であることは理解できる。いろいろと、どうかしている映画である。 だからこそ、レジェンド化され過ぎなんじゃないかとも思う。 非常に実験的でもあり、破れかぶれの映画であり、だからこそ世界中のボンクラ映画ファンの心を掴んで離さなかったのだろう。
[インターネット(字幕)] 5点(2017-11-08 20:58:44)
448.  スプリット
冒頭、文字通りに“恐怖”と隣り合わせになった少女の一寸の逡巡。 あまりにも突然な危機との遭遇に対して硬直してしまっているようにも見えるが、どこか逃げ出すことをためらっているようにも見える。 孤独な少女は、逃げることが出来なかったのではなく、直感的に“恐怖”の正体に“何か”を感じ、一人抱え続けてきた地獄を切り裂いてくれる“何か”に期待したのではないか。 即ち、この映画は、主人公の少女が恐怖から逃げ切る物語ではなく、恐怖に対して向かい合うことで、自分自身が抱える恐れを曝け出す物語だったのだと思う。  ある意味予想通りではあるが、変な映画である。 M・ナイト・シャマランの最新作に対して“真っ当さ”を期待することがそもそもナンセンス。鬼才監督の思惑通りに、恐怖と奇妙なカタルシスに覆い尽くされる。  アルフレッド・ヒッチコックの「サイコ」を皮切りに、「多重人格」を描いたサスペンスは世界中の映画シーンで数多く製作されている。 今作も、そういった過去作のテイストを踏まえた類似点やオマージュは見受けられるが、本質的には、そのどの作品とも一線を画する映画に仕上がっていると思う。(好き嫌いは別にして……)  多重人格を描くにあたり、最もキーポイントになってくるのは、やはり演者の力量だろう。 今作で“多重人格者”にキャスティングされたジェームズ・マカヴォイがどうだったか、まあ圧倒的である。 いまやハリウッドきっての芸達者と言えるこのスター俳優が、流石に素晴らしいパフォーマンスを見せる。 そもそもが、人間の光と闇を同時に醸し出す雰囲気を持つ俳優なので、この映画での色々な意味で“新しい”多重人格者役は、まさにハマり役だったと言えよう。 終盤以降、複数の人格がワンカットの中で矢継ぎ早に現れては入れ替わる様は凄まじかった。   この映画は、異常な多重人格者に囚われた少女たちが、絶体絶命な危機的状況から逃げ出そうとする恐怖映画としてイントロダクションされている。 しかし、ある意味当然ながら、それはシャマラン監督による“ミスリード”である。 「恐怖」を描いた作品であることは間違いないが、主人公の少女が対峙する「恐怖」は、それを通じて自らが抱え続けてきた恐れと向き合うことで、強大な力に対しての崇拝のようなものも孕んだ「畏怖」へと変化していく。  その心理の変化は我々観客にも与えられる。 だんだんと、ジェームズ・マカヴォイ演じるこの“異常”な多重人格者が気になって仕方なくなる。恐怖を越えて、何か愛着めいたものすら覚えてくる。 「あれ?何かがおかしい」と心のそこでふと気づく。 主人公の少女の顛末よりも、この“超人的”な多重人格者のこの先が観たくなっている。  「え?どういうことだ」 と、思った瞬間に現れる最終カットのまさかのアイツ! 思わず吹き出し、溢れ出る笑みを抑えきれず「すげえ」と呟いてしまった。 シャマラン好きにはタマラン異常で反則的な展開力。 そして、“あのシャマラン映画”が大好きな者としては、殊更にタマラン結末だった。 いやあ、参った。
[映画館(字幕)] 8点(2017-11-08 20:55:42)(良:1票)
449.  LOGAN ローガン 《ネタバレ》 
軋む。 古い車体が、錆びた鉄扉が、そして満身創痍のヒーローの身体が。 不死身だったはずのヒーローが、老い、拭い去れない悔恨を抱え、死に場所を求めるかのように最後の旅に出る。 メキシコからカナダへ。アメリカを縦断する旅路の意味と、その果てに彼が得たものは何だったろうか。  17年に渡り「X-MEN」シリーズを牽引してきた主人公のラストが、まさかこれほどまでにエモーションに溢れた“ロード・ムービー”として締めくくられるとは思ってもみなかった。 シリーズ過去作のどの作品と比較しても、圧倒的に無骨で不器用な映画である。テンポも非常に鈍重だ。 いわゆる“アメコミヒーロー映画”らしい華やかで派手な趣きは皆無だと言っていい。 だがしかし、どのシリーズ過去作よりも、“ヒーロー”の姿そのものを描いた映画だと思う。  個人的に、長らく「X-MEN」シリーズがあまり好きではなかった。 初期三部作における主人公・ウルヴァリンの、鬱憤と屈折を抱え、あまりのもヒーロー然としないキャラクター性を受け入れるのに時間がかかったからだ。 リブートシリーズと、ウルヴァリン単独のスピンオフシリーズを経て、ようやくこの異質なヒーローの本質的な魅力を理解するようになった。 それくらい、このヒーローが抱える憂いと心の闇は深く果てしないものだったのだろうと思う。  そんなアメコミ界においても唯一無二の「異端」であるヒーローが、ついに自らの闇に向かい合い、決着をつける。 おびただしい数の敵を切り裂いてきたアダマンチウムの爪が、これまで以上に生々しく肉をえぐり、四肢を分断し、血みどろに汚れていく。 そして、同時にそのアダマンチウム自体が体内に侵食し、無敵のヒーローの生命を徐々に確実に蝕んでいく。 それはまさしく、“ウルヴァリン”というヒーローの呪われた宿命と業苦の表れだった。  不老不死故に、他の誰よりも、相手を傷つけ、そして傷つけられてきた哀しきヒーローが、ふいに現れた小さな「希望」を必死に抱えて、最後の爪痕を刻みつける。  過去作におけるウルヴァリンというキャラクター故のカタルシスの抑制とそれに伴うフラストレーションは、今作によってそのすべてが解放され、別次元の感動へと昇華された。  それが成し得られたのは、何を置いても主演のヒュー・ジャックマンの俳優力によるところが大きい。 彼は今作で自らのギャランティーを削って、「R指定」を勝ち獲ったらしい。 そこには、“ウルヴァリン”を演じることによってスターダムをのし上がったことへの感謝と、このキャラクターのラストを締めくくる上での並々ならぬ意気込みがあったに違いない。 結果、ラストに相応しい見事な“オールドマン・ローガン”を体現してみせたと思う。   「This is what it feels like(ああ、こういう感じか)」  最期の最期、哀しきヒーローは、ついに“それ”を得ることが出来た。 墓標の「X」が涙で滲む。 さようなら、いや、ありがとう、ローガン。
[映画館(字幕)] 9点(2017-11-08 20:48:48)(良:2票)
450.  美しい星
ぶっ飛んでいる。 この理解と賛否が分かれることは間違いない映画が、大都市のみならず、地方都市のシネコンにまでかかっていることが、先ず異例だろう。 「桐島、部活やめるってよ」、「紙の月」と立て続けに日本映画史に残るであろう傑作を連発した吉田大八監督の最新作というブランド力が高騰していることが如実に伺える。 そして、その高騰ぶりにまったく萎縮すること無く、この監督は過去のフィルモグラフィーを振り返っても随一にヘンテコリンな映画を作り上げている。無論褒めている。 (亀梨くんの出演のみを目的にした女性客などは大層面食らったことだろう)  三島由紀夫の原作は未読だけれど、あの稀代の小説家が健在の時代であったとしても、たぶん同じように時代を超越したエネルギーに満ち溢れた映画が作られただろうと思う。 そういう意味では、同じく三島由紀夫が江戸川乱歩の小説を戯曲化した「黒蜥蜴」の映画化作品も彷彿とさせる。 即ち、この映画の在り方はまったく正しく、吉田大八監督はまたしても原作小説を見事な“新解釈”を多分に盛り込みつつ素晴らしい映画世界を構築してみせたのだと思う。  この映画は、冒頭から最後の最後まで、SFと幻想の境界線を絶妙なバランス感覚で渡りきる。 そのバランスの中心に描かれるのは、人間の営みの中に巣食う可笑しさと、表裏一体に存在する恐ろしさと愚かさ。 その時に暴力的で破滅的ですらある「滑稽」が、ありふれた一つの「家族」に描きつけられる。  終始、可笑しくて、笑いが止まらない。 ただ、だからこそ、この世界の危うさの核心を鷲掴みにされているような痛さとおぞましさも感じ続けなければならなかった。  人間社会の滅亡を開始する“ボタン”は空洞だった。 人類は許されたのか?勿論、違う。 謎の宇宙人がその強大な力を振るうまでもなく、人類は勝手に滅亡に向けて突き進んでいる。 “ボタン”など端から必要なかったのだ。  優しい火星人が「美しい星だ」と名残惜しんでくれているうちに、なんとかしなければ。
[映画館(邦画)] 8点(2017-11-08 20:43:36)
451.  ウォー・マシーン:戦争は話術だ!
主人公の米軍エリート大将は、ストイックな男。 毎朝の11kmのランニングを欠かさず、食事は一日一回、4時間しか眠らない。 劇中何度も描写される彼の絶妙に滑稽なランニングフォームが可笑しい。 そこには、この「戦争についての映画」におけるシニカルな悪意が凝縮されているように思えた。  さて、この映画は、「戦争映画」だろうか。 勿論、「9・11」に端を発した「アフガニスタン紛争」の“現場”を描いている以上、風刺とコメディがふんだんに盛り込まれてはいるが、「戦争映画」だと認識することが正しかろう。 しかし、この映画の作り手は、描かれていることが「戦争」であるということを絶妙なさじ加減で終始ぼかし続ける。  冒頭、国際空港の便所で用を足した後、意気揚々と闊歩し、「勝ちに行くぞ!」と兵士たちに発破をかける主人公の陸軍大将の姿は、まるでやる気のないスポーツチームを率いる少々間の抜けたコーチのようだ。 その後駐留地を目の当たりにした大将は、「ここの連中は戦争だということを忘れている」と嘆く。 それは米軍の兵士に限ったことではない。連合諸国の兵士は勿論、大使をはじめとする米国政府の面々も、現地のアフガニスタン兵や国家元首すら、それが「戦争」であることの意識が希薄になっている……ように見える。  それでも熱い大将は、あらゆる場所で「熱弁」をふるう。 この「戦争」の意味と価値を、各所で、兵士、政治家、民衆、記者、様々な人に説いて回る。 どの場面でも、大将の演説はとても情熱的だ。 劇中、ティルダ・スウィントン演じるドイツ人議員の指摘にも含まれていたように、「大将は善い人」だと思う。この人物が本当に信念をもって任務に臨んでいることは誰の目にも明らかだ。  しかし、悲しきかな彼の言葉に、説得力を伴う「中身」は無い。 それは、彼が己の人生を通して信念を懸ける「戦争」そのものに、中身がないからだ。 そして、逆説的に彼の存在そのものが、この「戦争」の空虚さとイコールであることが、徐々に確実に露わになってくる。  熱き大将は、嘆く。戦争であることを認識していない本国、そして世界に対しての壮絶なジレンマに苛まれる。 でも、現実はそうではないのだ。 「戦争」というものに、彼が求める「理想」が本来はあったのだとしても、そんなものはとうの昔に無くなっている。  そんな“今”の「空虚な戦争」において、古ぼけた理想を掲げる軍人がいくら熱弁を振るおうとも、何かが伝わるはずもない。 何処から来て、何処へ行くのかすら伝わらない。 そこには、巨大な虚無感が横たわっているようだった。   ブラッド・ピットがあらゆる意味で素晴らしい。 製作者としてネット配信限定の映画製作を担うにあたり、その性質を最大限に活かした題材と手法と作品規模で、オリジナリティに溢れる作品を仕上げてみせたと思う。 そして同時に、スター俳優としてベストパフォーマンスを見せている。時期的にアカデミー賞ノミネートは狙えないのかもしれないが、間違いなくそのレベルであり、少なくともこのスター俳優の新たな代表作の一つとなったことは確かだろう。   空虚な戦争を続ける空虚な大国は反省などしない。 では何をするのか?クビにして後任を送るのだ。 後任として送られてきたまさかの「ボブ」の闊歩を目の当たりにして、最後の最後までブラックな笑いと虚無感の増大が止まらなかった。  それにしても、このレベルの戦争映画がネット配信限定で公開される時代か。 作品内容に対する邦題の的外れ感は罪だが、映画の在り方は今後益々多様化していくのだろうな。
[インターネット(字幕)] 9点(2017-11-08 20:35:12)
452.  メッセージ
人類が、“ただなんとなく”明確な「希望」を見い出せなくなって久しい。 つい昨日も、英国でまたテロ事件が起きた。不安と脅威に怯え、「対話」する勇気を持つことが出来ない愚か者たちによる蛮行が後を絶たない。  時の流れに縛り付けられ、今この瞬間にも訪れるかもしれない得体の知れない恐怖に、全人類は焦り、怯え続けている。このまま希望を見出だせない人類には、進化はなく、必然的に未来も無くなってしまうだろう。  このSF映画は、そんな今この瞬間の人類全体に対しての警鐘と救済を等しく描き出す。  「言語」とは、「思考」の具現化であり、即ち未知なる言語との邂逅と会得は、それまで想像すらもし得なかったまったく新しい思考を繰り広げられるようになるということ。 そしてそれが、人類が長らく縛り付けられていた「時間」という概念を超越する手段になる、という科学的空想。  突然現れた“前後ろ”のない来訪者が、時間の概念が存在しない「円」で表された言語を人類に提示する。 荒唐無稽ではある。 幻想的かつ錯綜的な表現も手伝って、非現実的に美しい映画世界はファンタジーのようにも見える。 だけれども、これは紛れもない“SF”の傑作であると思う。 科学的に説明尽くせることがSFではない。科学的に説明できないことの空想こそがSFであり、その追求こそが「科学」なのだ。  来訪者によって与えられた「武器」=「言語」を、全人類に先駆けて受け取った主人公は、自らの運命とその意味を即座に理解し、受け入れる。 それは、“進化をしていない”人類にとっては、あまりに過酷で、残酷で、受け入れ難い運命かもしれないけれど、彼女を通じて、その進化の意味の一端を理解した我々は、感動的な充足感に呑み込まれる。  ふと、自分自身のことを顧みてみる。 自分の子が生まれて早くも6年の月日が経とうとしている。二人の子に恵まれ、幸福な日々を過ごしていると思う。 ただ、この6年間ずうっと心の片隅で押し黙るように抱え続けてきたことがある。 それは、幸運にもかけがえのない大切な存在を抱えるということは、同時に、それを失ってしまうかもしれないという恐怖を抱えるということでもあるということ。 それは、悲観的だとか、不謹慎だということではなく、必然的な事実であろう。 その恐怖を否定することは、同時に存在する幸福をも否定することであり、決して逃れることはできない。  この映画の主人公が、「言語」を理解したと同時に解したことは、そういう人生における普遍的な真理だ。  大切なものを失ってしまう悲しみよりも、その大切なものに出会えなかったことを想像する方が、何倍も、いや何万倍も悲しい。 SF映画の新たな傑作を目の当たりにして、涙が止まらなかった。
[映画館(字幕)] 10点(2017-11-08 20:18:12)(良:2票)
453.  映画 はなかっぱ 花さけ!パッカ~ん♪蝶の国の大冒険
ゴールデンウィークの最中、子どもたちの暇つぶしに、某動画配信サービス内で見つけた今作を観始めた。 「はなかっぱ」は、今現在幼児を育てている家庭であれば、圧倒的な割合で毎朝観ているアニメ番組ではなかろうか。 因みにウチでは、この番組が終わるタイミングまでに身支度を終わらせ、全員で家を出るのが日課となっている。  自分の子どもが生まれるまでは、「はなかっぱ」というアニメキャラクターの認知すら殆ど無かった。 最初のうちは、完全なる幼児向けアニメだろうと流し見していたけれど、次第にナンセンスでシュールなキャラクターたちに愛着を持ち始めてきた。  頭から花を咲かせるって、なんて能天気なキャラクターなんだと思っていたが、「成長を通じて自分らしい花を咲かせよう」というそのテーマ性を知ってからは、「なんて真っ当な子供向けアニメなんだ」と思うようになった。 さすがはEテレである。  とは言え、「はなかっぱ」の映画化なんて、作品規模に似つかわしくなく大袈裟だろうと思っていたが、これが意外にも泣けた。 クライマックスで見せるはなかっぱの怒涛の攻撃シーンには、まさかの高揚感を覚え、そして横たわる母に向かって号泣するさまに涙腺が緩みそうになった。  アニメの悲しいシーンや可哀想なシーンでは必ずと言っていいほど泣き出してしまう我が愛娘は、はなかっぱの号泣シーンを我慢してじっと観ていたが、ふいに背後に自分の母親の存在を感じたらしく、途端に大号泣。 その様子を見ていた僕は、彼女が泣き出す瞬間の表情の変化を目の当たりにして、より一層胸が熱くなった。  人の親になって日々身に沁みていることだが、子の成長ほど感動的なことはない。 当たり前だが、それは自分のすべてを投げ売ってでも、守るに値するものだ。 自分の子どもたちが、頭にどんな「花」を咲かせるのか。 まんまとこのゆるーいキャラクターに感化されてしまっているが、楽しみでならない。
[インターネット(邦画)] 5点(2017-11-08 20:03:15)(良:1票)
454.  仁義なき戦い 頂上作戦
ドン底からの暴力による抗いを描きつけるシリーズ第4弾。 東京五輪を間近に控え、時代が生んだアウトローたちの一寸のカタルシスは、権力と時代の激流により徐々に確実に淘汰されていく。 暴力のカリスマ二人が、極寒の留置所で諦観じみた掛け合いをする様が哀愁に満ち溢れる。 菅原文太、そして小林旭、稀代の映画スターの存在そのものが、今作における圧倒的娯楽である。  いつの時代であれ、暴力団という存在を肯定するつもりは一切ないけれど、敗戦に伴う喪失と屈辱、国全体の貧困と飢えが、彼らを暴力に駆り立てたこともまた事実だろう。 言うなれば、この稀代の暴力映画シリーズの根底にあるものは、この国の覆い隠された生身の姿なのだろうと思う。  だからこそ、ひたすらに繰り広げられるバイオレンス描写と愚かしいヤクザ世界の人間模様に、一抹の滑稽さと多大な娯楽性と共に、どこか拭い去れない侘しさを感じてしまうのだ。  クエンティン・タランティーノをはじめ、世界の映画ファンからも愛される日本のヤクザ映画だが、日本人にとってのヤクザ映画には、時代を越えた特別な感慨がじっとりと染み付いている。 それは、ヤクザ稼業の人種に関わらず、この国のすべての人達がかつて味わった「侘しさ」を思い起こすからだろう。  この「仁義なき戦い」シリーズをはじめ、この国のヤクザ映画が老若男女に愛された理由は、そういうところにあるのではないかと思える。
[インターネット(邦画)] 8点(2017-11-08 19:56:41)
455.  ハードコア(2015)
新宿バルト9、上映終了が0時近くのレイトショー。 クライマックスを“走り抜ける”につれ、自身の脳内メモリが激しく消費されていくのを体感。 誤解を恐れずに言うと、刺激的な映像世界に対する高揚感に相反するように、特に終盤、“欠伸”が止まらなかった。 無論、退屈だったわけではない。脳内メモリが尽きかけ、思考が停止しかけていたのだと思う。  きっと世界中の映画人たちが一度は思いついたものの実行には移せなかった“全編FPS視点”でのアクション映画。 今作のつくり手たちは、その禁じ手とも言える破天荒な映画企画を、時に緻密に、時に強引に、見紛うことなき“新しい”エンターテイメントとしてまかり通している。  何はともあれ、「映画」として成立させたことがまず見事だと思う。  前述の通り、鑑賞者のタイプやタイミングによっては、“メモリ”のキャパオーバーで、映画としての許容範囲を越えてしまうことも致し方ない文字通りに「不安定」な作品であることは間違いない。 ただし、決して“全編FPS視点”というアイデア一発に頼り切った映画ではないことも確か。  ある意味「主人公不在」の映画であるため、その分周囲のキャラクターを演じた俳優たちがそれぞれ印象的である。  まず主人公の愛しき妻(?)としてファーストカットで映し出されるヘイリー・ベネットがいきなりエロい。 はっきり言って悪趣味なエログロ映画でもある今作において、この女優が醸し出す善悪を超越した淫靡さは必要不可欠な要素だったと思う。  そして何と言ってもこの作品を語る上で外すことが出来ないものは、実は特異な撮影手法などではなく、シャールト・コプリーその人。 彼が扮する“ジミー’s”の縦横無尽、奇々怪々、魑魅魍魎な存在感こそが、今作の最大の見所だと言っていい。 盟友ニール・プロムカンプ監督の「第9地区」で鮮烈なデビューを果たして以降、一気に“怪優界”のトップに躍り出たこの人の俳優力はやはり本物だ。   途中、喋ることが出来ない主人公を指して「チャップリンだったとはな」という台詞があるが、これは言い得て妙な巧い台詞である。 完全なる主人公視点により、まさに映画世界を「体感」する今作の体験は、映画の黎明期に“チャップリン映画”を観た当時の観客たちの「体感」に通じるものがあるのではないか………。 とまで言ってしまうと流石に大袈裟だけれど、つくり手たちの意欲そのものは、映画史の偉人たちに対しても胸を張っていいと思える。
[映画館(字幕)] 7点(2017-11-08 19:53:50)
456.  夜は短し歩けよ乙女
「“偽電気ブラン”を飲みたい」 22時過ぎ。歌舞伎町の映画館で今作を観終えて、そのまま“偽電気ブラン”を求めて当てもなく彷徨い歩きたくなった。 10年前に森見登美彦の原作小説を読んだ時とまったく同じ「衝動」を駆り立てた時点で、この映画化は大成功だと思えた。  大変な満足感を覚えた反面、この映画の面白さを言葉にしようとすると、どれも陳腐な表現になり纏まらないことに苦慮した。 幾晩かを越えて、その理由がようやく分かった。 「先輩」と「黒髪の乙女」のめくるめく“一夜”を描き出したこのアニメーション映画が繰り広げるあまりにも自由気ままなイマジネーションとアバンギャルドな世界観は、まさに一夜で見た「夢」の如き体験だったからだ。  僕は“色付きの夢”をわりとよく見る。 印象的でエモーショナルな夢から目覚めることもしばしばあり、「ああ、昨夜見た夢を映画化すれば大傑作になるかもしれないぞ」と一寸思う。 しかし、次の瞬間、その夢を言語化しようとするととても陳腐で他愛のないものとして表れ、大変がっかりする。 またはそういった夢の中で、とても魅力的な女性に出会い恋に落ちることもある。当然ながら夢から覚めた時点で、その恋も終わり、失恋したような感覚が一日中残ることもある。  「夢をエンターテイメントとして具現化することはできない」というのが、個人的な結論だった。 しかし、この映画は、僕のその持論を呆れるくらいの自由闊達さで一蹴してくれた。  これほどまでに自由で、勝手気ままなご都合主義的で、自己陶酔的で、馬鹿馬鹿しくて破茶目茶でありながら、何とも楽しくエモーショナルで稀有なエンターテイメントとして完成していることに、愉悦を越えて嫉妬すら感じる。  人生は短い。夜は短い。  それはまったくその通りだけれど、「一夜」を四季を駆け抜ける一年間のように濃密な時間にするかしないかは、本人の歩き方次第。 ならば、許される限り長く、愉快に歩かなければ、勿体無いというもの。
[映画館(邦画)] 9点(2017-11-08 00:02:01)
457.  アドレナリン:ハイ・ボルテージ
相変わらず「馬鹿」過ぎるテンションに面食らう。ギリギリ良い意味で。 前作の衝撃的なラストカットから間髪をいれず始まるこの続編、正直色んな意味でイカれている。 あまりにも劣悪な状況下での心臓移植手術シーンから始まり、すべての設定、展開が、“悪ふざけ”のオンパレード。エログロ展開は完全に前作以上。 もしも、前作を踏まえずに今作を観たならば、いきなりの暴走ぶりに対してひそめた眉が戻らないだろう。  前作は謎の“中国毒”によって常にアドレナリンを出しっぱなしにしておかなければ心臓が停止するという、文字通りの暴走馬鹿映画だったが、今作は謎の中国フィクサーによって無理矢理心臓を抜き取られ、“充電式”の人工心臓を強引に埋め込まれ、常に感電し続けなければ死んでしまうという前作に輪をかけた超暴走馬鹿映画。  この映画に携わるすべての人間が“悪ふざけ”を楽しんでいるが、誰よりもそれに興じているのは、他でもない主演のジェイソン・ステイサムだろう。 アクションスターとしては現役トップスターであろうこの英国人俳優が愛されるのは、どんな映画においても「全力」で挑むからだろう。寡黙で屈強な殺し屋を演じることにも、一転して馬鹿すぎるジャンキー野郎を演じることにも、一切躊躇がない。 彼がテンションを上げっぱなしのイカレ野郎をてらいなく演じているからこそ、この馬鹿映画は成立しているのだと思える。  二作目にしてもはやお約束の「公開○○○シーン」も健在。しまいには既にクセになっちゃってるヒロイン役のエイミー・スマートちゃんが、馬のアレを見て興奮するシマツ。  「馬鹿な映画だなー」と何度呟いたか分からないが、同時にニヤニヤが止まらないことも事実。 前作も“どーかしてる”テンションの映画だったが、それを越えて完全に頭がイカれている領域。ここまでされては、ただ笑うしかない。
[インターネット(字幕)] 6点(2017-11-07 23:53:06)
458.  パッセンジャー(2016)
“Starring  Jennifer Lawrence Chris Pratt” エンドロールのクレジットで、先ず表示されたのは主演俳優二人のクレジットだった。 それはハリウッド映画において大して珍しくないことのように思えるかもしれないが、往年の娯楽大作ならいざ知らず、昨今の映画において、「〜の主演映画である」という情報を、エンドロールでわざわざ真っ先に伝えてくる作品はあまり記憶にない。  製作陣が意図的にそのクレジットで表したかったことは、詰まるところこのSF超大作が貫いた“スタンス”であり、即ちこの映画が“スター・システム・ムービー”であることへのてらいのなさだと思う。 昨今の価値観に合わせるならば、“スター・システム”という姿勢は、安易に主演のスター俳優に頼っただけの映画だとも捉えられかねないため、極力避けるのが普通だ。  しかし、この映画は、主演俳優の絶大なスター性を臆面もなく全面に押し出し、美しさと格好良さを表現することに対しての「逃げ」がない。 結果として、美しいスター俳優同士の共演が、ハリウッドの古き娯楽大作にも通ずる堂々たるエンターテイメント性を醸し出していたと思う。  ジェニファー・ローレンスはすべてのシーンが尽くエロ……いや艶っぽいし、クリス・プラットは無精髭が伸びっぱなしだろうが尻を丸出しだろうが格好良い。それぞれの振る舞いがそれだけで娯楽要素になり得ている。  と、ここまでであれば、この映画は結局のところ今をときめくハリウッドスターの華やかさを追求しただけの作品で、ストーリー性には乏しい映画だと思われるかもしれない。  でも、実はそうではない。  “スター俳優の華やかさ”は、このSF映画が「娯楽超大作」としてのバランスを成立させるために必要不可欠な要素だったのだと確信する。 もしこの映画のキャスティングにおいて、もっと地味で堅い印象が“売り”の俳優をチョイスしていたならば、それはそれは重々しく破滅的な全く別物の映画に仕上がっていたことだろう。  なぜならば、このSF映画の持つ「罪と赦し」にまつわるストーリー性とテーマ性は、想定外に深く辛辣であるからだ。  もっと重苦しいキャスティングによって、このストーリーが孕む人間の業を深掘り、丸裸にしたならば、それはそれで傑作に成り得たかもしれない。 ただ今作の製作陣はそういう選択をしなかった。華やかなキャスティングによる娯楽性を優先したのだ。  そしてその選択は決して間違いではなかったと思える。  この物語が伝えるべき人生観と哲学性を表現しつつ、娯楽大作として様々な観点から楽しみがいのあるエンターテイメントに仕上がっている。 そしてそれは、主演の両ハリウッドスターが華やかさだけではなく、演技者として押しも押されもせぬ実力を備えているからこそ成し得ていることだ。 両者が演じたキャラクターの瞳にふいに垣間見える“狂気性”がそのことを雄弁に表している。   当初、“デートムービー”推しの安直な国内プロモーションを目の当たりにして、鑑賞意欲が大いに削がれたのだが、某映画評の冒頭で「賛否両論」という情報を聞くにつけ、一転して食指が動いた。 “賛否両論のSF映画”は、大概の場合観ておいて損はない。その持論は幸いにも的中した。  そして、結果として“デートムービー”としてのプロモーションはある意味的を射ているのだと思う。 このSF映画で描かれるストーリーは極めて特異な状況のように見えるが、実のところとても普遍的な男女関係の機微や不自由さを孕んでいる。 美しい二人の美しいデートシーンにうっとりすると同時に、男女関係における地獄のような居心地の悪さを感じることも必至。 この映画を共に観ることで、二人の付き合い方には波紋が広がることだろう。 それがデート中の二人にとって良い方向に繋がるか、悪い方向に繋がるかは知ったこっちゃないが、二人の将来を推し量る上では重要な「材料」になり得るだろう。  これこそ“デートムービー”と呼ぶに相応しいではないか。
[映画館(字幕)] 8点(2017-11-07 23:48:38)(良:3票)
459.  プリデスティネーション 《ネタバレ》 
「お袋でも分からないな」  冒頭、顔面の大怪我により形成手術を受けた“男”が、鏡に映った自分自身を見ながら自嘲気味につぶやく。 あまりにもさりげなく発せられるこの台詞が孕む意味と闇の深さを知ったとき、全身が粟立った。  “タイムトラベル”とそれに伴う“タイムパラドックス”描いた映画としてすべての整合性が取れている作品だとは言わない。 綻びは当然あるし、独善的で強引なストーリーテリングだと言えばその通りだろう。 極めて“いびつ”な映画である。だが、その歪さこそがこのSF映画が持つ真価であり、揺るがない独自性だと思う。  普通の人間が無意識レベルで携えている倫理観や禁忌すらも大胆に超越して描きつけられる“SF”。 まるで見てはいけないものを見てしまったような驚きと当惑が堪らない。  「自分の尾を永遠に追い続ける蛇」というフレーズがまさに象徴的なストーリー展開は、明らかな「矛盾」を生む。 しかし、その「矛盾」そのものが堂々巡りとなり、物語の帰着を許さない。 一つの疑問に対する答えがまた別の疑問を生み、繰り返され、最初の疑問に戻ってくる。まさに時空の螺旋。観客も登場人物同様に時空の狭間に閉じ込められる。 と、これ以上の言及は未鑑賞者の興を冷めさせてしまうので控えなければならない。   初見の当惑のまま、すぐに観返したくなり、再鑑賞に至った。  「お前や私のような細身の顔」  「恋に溺れた経験は?」「一度だけ」「なら分かるだろ」  「不思議だよな この顔を見ると人生を壊した男を思い出す」  「娘もその父親も過去の亡霊だ」  「俺を爆弾魔かと?」「かもな」「お前かも」  冒頭の台詞を皮切りに、劇中で繰り広げられるあらゆる台詞にこの物語の真意が込められていた。   惜しむらくは、ただ一点。 主演のイーサン・ホークの初登場は、“バーテンダー”として現れるべきだったと思う。 “掴み”として、最初のシーンが必要だったことは理解できるが、あの時点で彼の「顔」までを晒す必要はなかった。  「俺たちには この職しかない」  というメインタイトル前の台詞を“リピート”させてラストシーンを締めたなら、この作品の特異な構造は更なるエモーションと共に際立ったのではないかと思う。  まあしかし、そんなことは些末なことだろう。 そういう鑑賞者個々人の考察も含めて、様々な感情が思い巡らされることが今作の最大の魅力だと思う。 サラ・スヌークという驚異的な才能、監督スピエリッグ兄弟の確かな映画的センス、綻びを補って余りあるストーリーテリングの力、このSF映画が掘り出したモノの価値は、極めて大きい。
[インターネット(字幕)] 10点(2017-11-07 23:36:32)(良:1票)
460.  X-ミッション
1991年のヒット作「ハートブルー」のリメイクというが、正直おこがましい。非常に浅く、薄っぺらいアクション映画だった。 今作の無名俳優たちに、「ハートブルー」のキアヌ・リーヴスとパトリック・スウェイジと同等の“華”を求めることは酷だしせんないことだとは思うが、やはり何をおいても主人公キャラクターの二人の魅力があまりにも無さすぎた。  主人公はエクストリームスポーツYouTuber上がりの新人FBI捜査官という設定にオリジナルから改変されている。 「YouTuber」という設定で時代性を出したかったのかもしれないけれど、調子に乗った危険行為の挙句、巻き込んだ友人を死なせてしまうなんていう愚かなプロローグをいきなり見せられて、正直引く。 そんな愚行のせいでいくら傷心していても同情できないし、そんな状態で僅か数年でFBI捜査官に転身するなんてくだりにも、リアリティがまるでなく馬鹿馬鹿しく思える。  そんな主人公と共鳴し、立場上許されない友情と信頼を育んでいく犯罪集団のリーダーにもキャラクターとしての説得力が無かった。 とある崇高な思想でエクストリームスポーツの限界点に挑み続けるキャラクターだということは理解できるが、その描かれ方はただただ破滅的にしか見えず、人間としての魅力を感じることが出来ない。 このキャラクターに対して、主人公の捜査官も、我々観客も、犯罪者という立場を度外視した「憧れ」を抱かさなければ、そもそもこの映画は成立しないと思う。  「ハートブルー」がヒットしたのは、初主演で初々しいキアヌ・リーヴスのスター性と共に、パトリック・スウェイジが扮した“カリスマ犯罪者”に確かな魅力が備わっていたからだろう。   一方で、そういった人間ドラマを覆い隠すように全面的にプロモーションされていたエクストリームスポーツによるアクションシーンに見応えがあったかというと、それも正直弱い。 あらゆるエクストリームスポーツの限界点をクリアすることで不可能犯罪を可能にする犯罪集団という設定が、このリメイク企画の最大のウリだったはずだが、実際にそれらのシーンが描かれたのは主人公が直接操作に絡む前の“プロローグ”のみ。 特に主人公が実際に潜入捜査に関わってから以降は、カリスマ犯罪者が、ただ純粋に人間の限界に挑戦することのみを目的とするシーンの羅列のため、物語の推進力が著しく低下していたと思う。  それに、当初の触れ込みでは「CG無し」ということだったので、現実世界のエクストリームスポーツのプレイヤーたちがすべてのアクションシーンを見せてくれるのだろうと期待していたのだが、実際は明らかに現実離れなシーンが多く、CGも大いに多用されていたように見えた。  そして、ラスト。死にゆく友を見送る様は「ハートブルー」と同じだが、いかんせん人間ドラマ的にもアクション的にも求心力が皆無のため、その様はただただ希薄で滑稽に見える。  詰まるところ、愚行で始まり、愚行で終わる映画にしか見えなかった。
[インターネット(字幕)] 2点(2017-11-07 23:29:08)
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