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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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501.  Mr.ノーバディ
無慈悲に去っていくゴミ収集車、何の変哲もない通勤と職場、愛想のない思春期の息子、毎夜距離の空いた夫婦の寝室、家族の冷たい視線と小言、延々と繰り返される鬱積の日々……。 積もりに積もった欲求不満と、持って生まれた“或る狂気”がついに抑えきれなくなり、猫ちゃんのブレスレットが奪われたことを“きっかけ”に、地味な親父はブチ切れる!  破天荒で痛快。 「ジョン・ウィック」、「96時間」、「イコライザー」の系譜に位置する“舐めてたパンピーが実は殺人マシーンもの”の新たな傑作と言って相違ない。 もはやジャンル映画化されているキャラクターの基本設定はそのままに、主人公ハッチ・マンセルの人間性が独特で良い。  地味で大人しく、妻や息子からはやや蔑視され、毎日路線バスに揺られ、Excel入力を日がな繰り返す会計士の男が、突如秘めた暴力性を呼び醒ます様は、荒唐無稽で狂気的だけれど、同時に多大な娯楽性とカタルシスを孕んでいた。  自宅に押し入って去っていった強盗に対して、意気揚々と報復に行ったはいいものの、予想外の展開で“不発”に終わる主人公。悶々としたまま帰りのバスに乗り込んだところに、街のゴロツキどもが乗り込んでくる様子を見るやいなや思わずニヤニヤを抑えきれない主人公の様相からは、長年抑え込んできたのであろう彼の真の狂気性が溢れ出ていた。  そう、この男、間違いなく狂っている。 他の同系譜の映画のように、愛する家族を守るためにひた隠しにしていたその凶暴性を不本意に解放したのではなく、日頃の鬱積が堪らなくなって、意識的に“暴発”させたと言ったほうが正しい。それは、家族との安穏な生活を自ら放棄したと言っても過言ではなく、明らかに“やりすぎ”であろう。 だがしかし、その“暴発”の様こそが、多くの鑑賞者、特に彼と同じように日々鬱積を抱える我々“親父”層には堪らないカタルシス解放の起因となったのだと思える。  このアクション映画が描き出した娯楽の本質は、まさしく世界中の“親父たち”が抱える「欲求」の実現化。 唯一の得意料理を家族に振る舞いたいし、贅沢な海外旅行を計画したいし、高級クラシックカーを乗り回したい。そして、娘には好かれたいし、息子には尊敬されたいし、妻とはいつまでも愛し合っていたいのだ。  無論、普通の親父には、そのためにロシアンマフィアを壊滅するなんてことはしないし、できないけれど、小さくても自分自身が孕む「力」を解放することは、できるかもしれない。 この映画のカタルシスの正体はそういうことだった。   主人公の父親役で登場するのは我らがクリストファー・ロイド。施設暮らしの老いさらばえた爺さんと思いきや、主人公以上の狂気性を爆発させて見せてくれる。 最高、続編も期待大。
[インターネット(字幕)] 8点(2022-02-23 00:02:37)
502.  プロミシング・ヤング・ウーマン 《ネタバレ》 
キャリー・マリガンが好きだ。 類まれな愛らしさと、そこから滲み出るような薄幸と繊細な狂気。「ドライヴ」、「華麗なるギャツビー」、そして「SHAME -シェイム-」、どの作品においても、大スターの主演俳優を喰らう演技と存在感で魅了されてきた。 個人的には、随分と前から「最もアカデミー賞に近い女優」と確信してきたが、しばらく出演作の鑑賞機会がなかった。 久しぶりのキャリー・マリガン。少し年を重ねたその表情には一瞬見紛うたけれど、冒頭のシーン、泥酔(のフリ)からの狂気的覚醒に一気に釘付けになった。  女が、夜な夜な危険を犯してまで酔っ払った男たちへの復讐を無差別に繰り返す理由。それは、男、そして過去に対する終着なき怒りと復讐。 世の中のすべての男たちの過ぎ去った泥酔の夜に、恐怖と後悔と懺悔を。  一人の女の狂気的な怒りを描きぬいた振り切ったストーリーテリングが白眉で、その狂気そのものを体現するかのような主演女優が素晴らしい。 実際、話の筋は突拍子もなく強引だが、それをまかり通しているのも主人公の特異なキャラクター性とそれを演じきったキャリー・マリガンの表現力そのものだろう。  最終的な顛末は、決してハッピーエンドなどではなく、きっぱりと最悪な悲劇だ。(気恥ずかしいくらいの多幸感に溢れたドラッグストアでのデートシーンが「残酷」への前フリであることは明らか……) にもかかわらず、心の中では一抹の爽快感みたいなものがジワジワと広がる。その感覚がとても奇妙でもあり、フレッシュでもあった。   正直なところ、自分自身、思い出すこともはばかられる泥酔の夜は記憶の片隅に存在する。 その薄ぼんやりとしていた後悔を、血みどろの輪郭で浮き上がらせるような、そんなキケンな映画だ。   P.S 主人公の優しい父親役のクランシー・ブラウン、絶対なにかの映画の「悪役」で見たことあるなあと思っていたら、「ショーシャンクの空に」の悪徳刑務官の俳優だった。
[インターネット(字幕)] 8点(2022-01-29 23:46:23)
503.  劇場版 呪術廻戦 0
“最強呪術師”五条悟が言う「愛ほど歪んだ呪いはないよ」と。 「呪い」を司る“善”と“悪”が、呪い合い、そして愛し合う。 呪怨×純愛の構図が生み出すストーリーテリングは、少年漫画の王道であり、この漫画の“エピソード0”として相応しいものだった。  昨年(2020年)の「鬼滅の刃」フィーバーが一段落した頃、我が家の子どもたちの流行も、世の中のトレンドの流れに沿うように「呪術廻戦」にシフトしていった。 僕自身はしばらくノータッチだったけれど、この映画化作品を鑑賞する前にテレビアニメ版はフォローしておこうと、年の瀬のクソ忙しい時期だったがアマゾンプライムで一気観。映画の鑑賞日前日になんとか見終えた。  話が逸れるが、齢40にもなると新しいものに手を出すにはなかなかのモチベーションが必要だ。若い頃ほど潤沢に時間があるわけではないので、新しいものに触れ、それが自分の趣向に合わなかった時の時間的ロスのショックを警戒してしまい、ついつい尻込みしてしまう。  「呪術廻戦」に対しても、正直なところ最初は億劫だったけれど、幸いにもすぐにハマることができた。 前述の通り、物語構成はまさに少年漫画の王道であり、特に“異形の者”を扱う数々の名作の要素が散りばめられていた。 冨樫義博の「幽遊白書」や「HUNTER×HUNTER」をはじめとするジャンプ漫画は勿論、椎名高志の「GS美神 極楽大作戦!!」や、アメコミの要素も多分に取り込まれている。そして勿論、その根底には、手塚治虫の「どろろ」や、水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」も確実に息づいている。 そういった累々とした過去作の系譜の上に誕生したストーリーテリングやキャラクター設定は、僕たちアラフォー世代にとってもどストライクだった。  その一方で、描き出されるビジュアルのグロテスクさや、キャラクターが吐露する言動から垣間見れる闇深さは、現代社会を投影したものとも言え、そのバランス感覚が非常にフレッシュだった。  テレビアニメシリーズのクオリティもとても高いと感じていたが、映画化によってそのアニメーションクオリティは格段に研ぎ澄まされている。 縦横無尽に動き回るキャラクターの動作の立体感や、陰影や目線の表現、背景の秀麗さ等、映画化の意味、映画館で見ることの意義が高められた映画作品だった。  また、本編の“前日譚”を映画化したことも、極めて懸命な判断だったと思う。 “乙骨憂太”というテレビアニメ(シーズン1)ではまだ名前しか登場していない重要人物を映画の主人公とすることで、原作やテレビアニメに未接触の鑑賞者にとっても見やすく、ファンにとっては彼を始めとする“2年生”キャラへの愛着を深めることに成功している。(狗巻棘が好きさ!) さらには、「悪」である“夏油傑”のキャラクター造形も深まり、本編の今後の展開とそれに伴うドラマに対しても興味を高められていたと思う。  そして、この映画におけるハイライトは、主人公・乙骨憂太と“特級過呪怨霊・祈本里香”の関係性と、そこから織りなされる“呪い”と“愛”、その混沌と昇華に他ならない。 愛するがゆえに呪い、呪うほどに愛は深まる。 その一見矛盾する事象を己の体一つに内包する主人公の苦悩と、それでも純愛を貫いたからこそ得られた力の解放は、ストーリー展開としても、アニメーションのビジュアルとしても、とてもエモーショナルでエキサイティングだった。   呪うことと、愛することは、表裏一体であるということが、本作及び原作のテーマだと言えるだろう。 それを踏まえると冒頭に記した五条悟の台詞、そして彼と退治する夏油傑の「思う存分、呪い合おうじゃないか」という台詞との連なりも深い意味を孕んだものになってくる。  さて、テレビアニメシリーズのシーズン2が待ちきれないので、とりあえず原作の単行本を買いに行こうと思う。
[映画館(邦画)] 8点(2021-12-29 16:17:54)(良:2票)
504.  ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ 《ネタバレ》 
中盤、主人公のエディと“彼に居候”するヴェノムが殴り合い罵り合いの大喧嘩を繰り広げる。 ヴェノムは部屋を半壊させた挙げ句、エディが大切にしていたテレビとオートバイをこれ見よがしに破壊して、なんとエディの体から出ていってしまう。 寄生生物が宿主の体から怒り任せに“家出”してしまうという“反則技”。 ただ、このシークエンスこそが、今作において実はハイライトであり、今作が前作に対して大きく進化したポイントだった。  前作は、マーベル・コミックの中でも人気の高いスーパーヴィランでありダークヒーローでもあるヴェノムを、ファンも納得のビジュアルとキャラクター性で映し出していたとは思う。 主人公エディとヴェノムの両方を演じたトム・ハーディのキャスティングもナイスだった。  ただし、前作には看過できない大きな欠落要素があった。 それは、エディとヴェノムの間に生じてほしかった“キャッキャ感”だ。 主人公の体に無理やり寄生(居候)し、文字通り一人芝居の丁々発止の掛け合いを繰り広げながら、危機に打ち勝っていく。 このダークヒーローの映画化に当たって最も重要な娯楽要素はその部分であり、前作ではそれが無かったとは言わないが、圧倒的に物足りなかった。  前作は新ヒーローの誕生を描く一作目ということもあり、諸々の設定や説明描写に尺を割かざるを得なかったという限界もあっただろう。 だが、続編である今作は、そういった説明的描写はすっとばして、すっかり“共同生活”にも慣れた二人の息のあった掛け合いを序盤から見せてくれていた。  映像技術を駆使した“二人羽織”のようなキャラクターを体現したトム・ハーディのパフォーマンスは前作に引き続き良かった。トム・ハーディは脚本にも参加しているとのことなので、この作品、このキャラクターへの愛着が、鑑賞者にとっても愛すべきキャラクター像として昇華されていたと思う。  そして、監督を務めたアンディ・サーキス。 モーションアクターとして2000年代から現在に至るまで数々のキャラクターを表現し続けてきたこの特異な俳優は、今作で監督としても見事な手腕を発揮している。 撮影開始時の掛け声からも明らかなように、映画監督の仕事において、最も重要なことは、俳優に“アクション”を付けるということだろう。 そのためには、人間がどういう風に動き、そしてどういう風に見えるのかということを熟知していなければならず、その点において、数々の映画で人間のみならず多種多様な生物を演じ続けてきたアンディ・サーキスが秀でていることは明らかだ。 エディ+ヴェノムという特異なキャラクターが、前作にも増して愛着あふれるキャラクターに進化した背景には、そういう監督の適性も如実に反映されていると思う。   俳優とキャラクター、そしてキャラクターと監督、諸々の要素がフィットし、高められ、求めるべき娯楽性に特化した今作は、問答無用に楽しい映画に仕上がっていると想う。 ストーリー的にも、キャラクター的にもまだまだ深まるであろうシンクロ率が、このシリーズのエンターテイメント力を高めていくことは間違いない。 そして、ついには、次元とメタ的なしがらみを超えたあの“隣人”とのクロスオーバー。そりゃワクワクが止まらんよ。
[映画館(字幕)] 8点(2021-12-20 22:31:08)
505.  エターナルズ
極めて壮大で、美しく、そして同時に「未完成」な映画作品だと思った。 それは決してこの作品そのものの完成度が“低い”ということではなく、この新たなヒーロー映画を通じて表現し伝えようとした「テーマ」そのものが、この現実世界において未成熟であることの表れではないかと思った。 そして、この世界は常にそういう“不完全な美しさ”の中に存在し続けるものなのではないかとも思えた。  実は7000年前から地球人を見守っていたという“守護者たち”が主人公のこの映画は、これまでのアメコミヒーロー映画の系譜の中でも極めて異質で、“フェーズ4”に突入した“マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)”の大河の中においても「特異点」となり得る作品だと思う。 異なったあらゆる「性質」を持つヒーローたちが戦い、惑い、運命を体現するこの映画のテーマはまさしく「多様性」。 神か、天使か、それとも悪魔か、いずれにしても存在性そのものが神秘的でファンタジックなヒーローたちではあるが、彼らがそれぞれのキャラクター性を通じて表現していたものは、この星に巣食う「人間」の葛藤と苦悩そのものであり、あまりにも普遍的なものだった。  能力、性格、身体的特徴、得手、不得手、様々な要素が異なる彼らは、不完全で、時に脆い。 ただし、だからこそ、“エターナルズ”として「結束」した時に生み出された力は強固で果てしない。 それは、今まさにこの現実世界で声高に求められ、命題となっている我々のテーマ性と合致する。  だが、その現実世界で命題となっている「多様性」そのものが、まだまだ曖昧で、あるべき世界、たどり着くべき価値観が定まっていないから、その表現方法自体が、ある側面において表面的で類型的になってしまっていることも否めない。 「多様性」を謳う映画であるが故に、そこで表現されるテーマに強烈な違和感や希薄さを覚える人も少なくないだろう。  ただ、未熟で不完全であるからこそ、この新しく難しいテーマをマーベルのヒーロー映画の中で表現しようとした試みそのものは、正しくて、意義深い。   そしてその監督に「ノマドランド」で非白人女性として初めてアカデミー監督賞を受賞したクロエ・ジャオを起用し(オファーはアカデミー賞受賞前)、そのクリエイターとしての資質を存分に発揮させてみせたマーベルの先見性と懐の深さには、あいも変わらず感心する。  テーマ性に相応しい多彩なキャスティングも印象的だった。 年齢や人種、国籍を超えた多様なキャスト陣は、それぞれのキャラクター像を見事に表現し、あたかも「家族」のようなチーム感をこの一作のみで構築して見せていた。 個人的に特に印象的だったのは、文字通り神々しくてそれ故に危なっかしいアンジェリーナ・ジョリー演じる最強戦士“セナ”。 アンジーのMCU初参戦そのものが映画ファンとしては熱いが、最強故に精神を乱していく様は、彼女自身が女優としての地位を確立した1999年のアカデミー助演女優賞作「17歳のカルテ」を彷彿とさせ感慨深かった。(更に、マ・ドンソクとの最強カップルは近年随一のペアリングだった!)   はてさて、MCUが広げる“大風呂敷”は、いよいよ際限がなくなってきたようだ。 原作である数多のアメコミ作品のクロスオーバーの範疇を超えて、現実社会、さらにはこの先の未来世界にまでその視野を広げようとしているようにすら感じる。 量産されるドラマシリーズも含めてすべてを追いきれなくなっていることは、MCUファンとして焦るところだが、決して世界観が破綻しないであろうことに対するMCUへの信頼は揺るがない。  “完璧ではないもの”に対する寛容と、その多様性を愛することの価値。 この「未完成」な映画を新たな特異点として、この「宇宙(ユニバース)」は広がり続ける。
[映画館(字幕)] 8点(2021-11-28 23:12:28)
506.  まともじゃないのは君も一緒
「普通」に生きることの難しさと、それを同調圧力で押し付けられるこの世界の愚かしさ。 そんな普遍的な社会のいびつさの中で、“フツー”じゃない二人が繰り広げる全く噛み合わない会話劇が絶妙なラブコメだった。 ストーリー的に練り込まれた工夫や発見があるわけではないけれど、ベタなコント劇のような展開の中で、「人間」としての在り方そのものが不器用な二人が、ドタバタと滑稽な恋模様を交錯させる。 ただその不器用な恋模様と人間模様は、彼らと同じように“フツー”に生きることが下手くそな人間にとっては、事程左様に突き刺さり、終始笑いっぱなしだった。  かく言う自分も、決して人間的に器用ではなく、上手ではない生き方をしているとしばしば感じる。 他人と同調することや、強要されることを嫌い、そのことで周囲を不快にし、自分自身も抱え込まなくてもいいフラストレーションを溜めている。 もっと割り切って、「普通」に合わせて、「常識」に従順に生きられたなら、もっと楽になるのかもしれない。  でも、自分自身誤解してはならないのは、そういう生き方をしているのは、他の誰でもない自分であり、誰のせいでもないということ。 「普通」に生きることがどんなに滑稽で、愚かしく思えたとしても、それがこの世界で生きていく上で求められる常識であるならば、それは理解しなければならないし、それに反して我を通すのならば、それなりの「覚悟」を持たなければならない。  そういうことを、この映画の二人の主人公も充分に理解していて、だからこそ「普通」になってみようと彼らなりの努力をしてみるし、その上で、自分たちはどういうふうに生きていこうかと、道筋を見出していく。 果たして、普通でもなく、まともでもない彼らは、望んでいた何か、憧れていた何かを失ってしまうけれど、ものすごく狭小だったその視界は、確実に広がっている。  昔のアニメ映画の台詞にもあったように、普通じゃない生き方、人と違う生き方は、それなりにしんどい。 でも、そんな“自分”を無かったものにして、誤魔化して、妥協して生きていくことも同じようにしんどい。 どちらの“しんどさ”を選ぶことも自由だし、避けられないことならば、せめて自分自身だけは自分に対して「納得」して生きていきたい。 そんなふうに、鑑賞者の「視界」も広げてくれる映画だった。   主演は、清原果耶+成田凌。奇しくも今年見通した朝ドラ「おかえりモネ」+「おちょやん」コンビ。 成田凌は、良い意味でアニメのキャラクターのようなまるで実在感のない存在感が独特で良い。 そして、清原果耶。めくるめく季節のように切り替わる表情と感情表現は、女優として唯一無二のものを感じる。 この若き女優の天性は、まだまだ計り知れない。
[インターネット(邦画)] 8点(2021-11-14 00:17:09)(良:1票)
507.  ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ
盛夏が過ぎて一気に秋めいてきた夜半、“ヒッチコックライク”なサスペンススリラーに興じる。 例によってコロナ禍の影響で劇場公開中止を余儀なくされた結果、Netflix配信となった今作は、中々掘り出し物的な良作だった。少なくとも秋の夜長のひとときを充分に満たしてくれる作品だったと思う。  前述の通り、サスペンス映画の帝王アルフレッド・ヒッチコックの幾つかの名作(「裏窓」「めまい」「サイコ」...etc)を統合して、現代版にリメイクしたような映画だった。 舞台となるマンハッタンのしなびた高級住宅街の雰囲気も相まって、現代の設定ではありつつも、時に「怪奇映画」や「恐怖映画」と敢えて呼称したくなるようなクラシカルかつアバンギャルドな映画世界が個人的には好みで、秀逸だったと思う。  極めて古典的で懐古的な映画手法やストーリーテリングを全面的に押し出しつつも、随所に斬新で挑発的なカットも挟み込んでおり、そういう映画づくりにおける意欲的な部分も含めて“ヒッチコックライク”だと言えよう。  主演のエイミー・アダムスは大好きな女優の一人だが、明らかに虚ろな瞳や、見るからに不健康でくたびれた体つきも含めて、“病める女性”を内外含めた全方向的に体現して見せており、実力派女優としてのレベルの高さを遺憾なく発揮している。 少ない登場シーンながら、物語のキーとなる女性を演じたジュリアン・ムーアの存在感も言わずもがな抜群だった。 (“別人”として登場する女優の絶妙な不気味さも最高だった) 「女優」という要素が、映画を彩る娯楽の中心にあることもまたヒッチコック映画を彷彿とさせる点だろう。  今作では、作為的に、映し出されるシーンの「時間帯」が即座に判別できないように演出されている。 物語全体が一週間の出来事として曜日のテロップは都度入るものの、主人公が薬と酒の影響で終始微睡んでいるような状態も重なって、「今」が一体いつなのかわけが分からなくなる。 その不安定さと曖昧さにより、主人公の精神状態同様に観客の意識もグラグラと揺らぎ、まさしく本来の意味通りの“サスペンス”を生み出していたと思える。  おそらく、気づいていない描写においても、様々な“仕掛け”が散りばめられているのであろう。 巧みなミスリードや数多くの伏線回収も含めて、良い意味で“混濁”した見応えのあるサスペンス・スリラーだった。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-09-26 22:39:12)(良:1票)
508.  ノマドランド
近年、インターネット環境の普及、発達に伴い、「時間と場所にとらわれず働く」というスタイルを表す言葉として「ノマドワーカー」というフレーズが市民権を得ている。 ただ、今作「ノマドランド」が表す「ノマド」とは、そんな昨今の先進的なワークスタイルを華やかに描くものでは当然ない。 この映画は、現代のアメリカ社会の“ひずみ”の中で、行き場を失い、それでも存在し、必死に生き抜こうとしている人々の生々しい様を、圧倒的なリアリティと説得力で描きつけた力作だった。  自らの人生に打ちのめされ、世知辛い社会から追いやられた人たち(=ノマド)、その多くは高齢者だ。 住処も、財産も、健康も、機会も、急速に先細り喪失していく中で、彼らは期間労働者として、アメリカ各地を転々とする生活を送り続ける。 その生活の様は、「ノマド」の本来の意味である「遊牧民」や「放浪者」という印象がやはり強く、人生の黄昏に、流浪の生活を送らざるを得ない高齢者たちの姿は、率直に身につまされる。  ただし、今作は、そんな現代社会の中で、或る意味“蚊帳の外”に追いやれている彼らに対して、ただ単純に同情を誘ったり、社会システムの是非について安直に問うような作品ではなかった。  本質的な意味合いの“ノマドワーカー”として流浪する高齢者たちの姿は、無論悲壮感に溢れ、とてもじゃないが安閑として見てはいられない。いつ何時吹き消されてしまうかもわからないようなか細い蠟燭の火を、消えないように消えないように必死に灯し続けているように見える。 でも、その生活、その生き方自体は、それぞれ苦慮の果てではあろうが、彼らが選び取った「道程」であることを、理解し、直視すべきであろう。  フランシス・マクドーマンド演じる主人公も、最愛の夫に先立たれた挙句、企業城下町として栄えた居住地が企業の倒産により街ごと消失してしまったという憂き目にあったとはいえ、人生の岐路において他の“選択肢”があったことは明確に描かれている。 ふと遭遇したかつての隣人は敬意と共に手助けを進言してくれていたし、“普通”の結婚生活をしている姉も心から妹のことを心配しているし、道中で知り合った同じノマドの老紳士は彼女のことを好いてくれていた。 主人公は、教養もあり、人徳もある魅力的な人間であり、彼女が、流浪の生活から抜け出すための“きっかけ”は、全編通して散りばめられていたと言っていい。  それでも、彼女がノマドの生活を脱却することは、ついに最後の最後まで明確には描かれなかった。 それは、彼女が人生の黄昏に自らの手からこぼれ落ちてしまったものが、決して物質的なものではなく、精神的な拠り所だったことに他ならない。 そしてそれは、この映画に登場するリアルなノマドの高齢者たちの表情や人生模様からも如実に伝わってくる。  “ノマドランド”に集積し、充満し、やがて儚く霧散していく彼らの存在は、この世界全体が慢性的に孕む「喪失感」そのものだったのだと思った。     僕自身、人生40年、まだまだ若いつもりだけれど、この先の“生き方”というものを最近よく考える。それは10代、20代の頃の青臭いものとは明確に異なっているように思う。  その先にあるものが「死」であることは間違いない。 それでは、僕はこの先、死ぬために生きるのか、生きるから死ぬのか。 40代を経て、50代、60代、さらにその先の道程で、その感覚はより現実的な人生観と共に変わり続けるのだろう。  その感覚の変化そのものが、まさに「流浪」であり、すなわち「人生」なのかもしれないな。と、今は思う。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-09-11 09:28:27)(良:1票)
509.  ALL YOU NEED is PUNK and LOVE
楽器を持たないパンクバンド“BiSH”の2017年当時の軌跡を追ったドキュメンタリー。 念の為最初に言っておくと、僕はれっきとした“清掃員”(BiSHファンの総称)なので、偏ったレビューになっていることは否定しない。あしからず。   エリザベス宮地という、現状ほぼBiSH及びその所属事務所WACKの関係者に位置する映像作家の作品なので、かなり内向きで、揶揄すればマスターべション的な作品に仕上がっているのであろうと「予感」していた。 そして、その予感は概ね外れていなかった。いやむしろ、この作品はBiSHのドキュメンタリー作品というよりも、エリザベス宮地という映像作家が「BiSH」という“沼”にズブズブとはまり込んでいく様を追ったセルフドキュメンタリーであり、もっとダイレクトに「自慰的」な作品だった。  おそらく、“清掃員”でない人間、もしくはBiSHファンになる可能性が1ミリも無い人間が この作品を観たならば、「気持ち悪い」の一言で一蹴されることは間違いなかろう。  しかし、「BiSH」を知って約3年、大袈裟ではなく彼女たちの楽曲、動画を視聴しない日は無い者にとって、この作品で描き出される一人の男の「醜態」と言ってしまってもいい無様な一部始終は、ただただひたすらに胸を熱くする。  そんな自分自身の無様さも俯瞰しつつ、よくよく今の世の中を見回してみたならば、この世の中、“それ”を本当に欲している人たちに作られていないものが多すぎる、と思う。 その「作品」は一体誰のためのものなのか、と疑問と不満を抱えることが極めて多い。  そんな中で、このドキュメンタリーは、独りよがりで、極めて“個人的”な映像記録に終止している。 でも、だからこそ、この作品は多くの“清掃員”にとって、欲すべきものになり得ているのだと思う。 だからこそ、すべての“清掃員”が、こう思ったに違いない。  ズルい。羨ましい。ズルい。と。   2021年、この夏、彼女たちは「不在」だった。 例によってコロナ禍による影響で、昨夏に続き、ツアーやフェスはことごとく中止。極めつけは、メンバー3人がコロナ感染により休養を余儀なくされた。 ただ、今の時代、リアルタイムの露出が無くとも、“推し”の活躍を追うことはいくらでもできる。 過去に遡って“掘り起こす”楽しみ。それがオタ活の醍醐味だろう。
[インターネット(邦画)] 8点(2021-08-30 23:48:35)
510.  資金源強奪
溢れ出る「昭和」のギラつく雑多感。 人からも、服装からも、街並みからも、すべてから放たれるそのギラギラに圧倒される。 展開される犯罪アクションの卓越したエンターテイメント性もさることながら、映し出される「昭和」そのものが揺るぎない「娯楽」だった。  ムショ帰りの主人公(北大路欣也)が、塀の中で知り合った仲間と共に、自身の組が主催する賭場の資金強奪を謀る。 計画は見事に成功するが、そこから報復と裏切りが織りなす容赦ない強奪金争いが始まる。  ハリウッド映画などでは、玉石混交に描きつくされたプロットであるが、それがこの時代の日本映画で、これ程まで娯楽的な完成度の高い作品として存在していたことにまず驚く。 ストーリーテリングのテンポの良さとユニークさ、そして何よりも、登場するキャラクターたちの個性がそれぞれ際立っていて、そのアンサンブルが娯楽映画としての質を高めていると思う。  北大路欣也の決してヒーロー然としてはいない悪党としての男臭さ。梅宮辰夫演じる悪徳刑事の軽妙さと曲者ぶり。そして何と言っても、川谷拓三の泥臭すぎる雑草魂。 最終的に“三つ巴”となって、「金=命」を奪い合う三者のキャラクター性が、俳優本人の個性とも掛け合わさり、特に印象的だった。     匂い立つような昭和娯楽の匂いにクラクラしっぱなしだった。 各種動画配信サービスの普及に伴い、これまでその存在すら知り得なかった“昭和映画”にも容易に触手を伸ばすことができるようになった。今一度、昭和娯楽の真髄を掘り起こす沼にハマっていきそうだ。
[インターネット(邦画)] 8点(2021-06-05 14:55:59)
511.  おとなの恋は、まわり道
高校生の頃、自室に初めてハリウッド女優のポスターを飾った。それがウィノナ・ライダーだった。 あれから20年余りの年月を経て、画面に映る主演女優は、流石に老けてはいたけれど、その分自分自身も老けているわけで、感慨深さを覚えると同時に、久しぶりの主演映画で振り切ったキャラクターを演じる彼女は魅力的だったと思う。  「おとなの恋は、まわり道」なんてユルい日本語タイトルがつけられているけれど、このラブコメが描き出すストーリーと人物描写は、決してユルくもヌルくもなく、極めて痛々しく、辛辣だ。 そしてだからこそこの上なく、可笑しい。  おそらく、映画史上、最も無様であけすけで何のロマンティックも感じさせないSEX。 その様を大笑いで見届けながら、「人間」の動物としての本質的な滑稽さと、イロイロあって「恋」というよりも人間関係そのものに対して面倒になり、臆病になる“おとなたち”の愚かさと愛らしさを等しく感じた。  その痛々しい主人公二人を、30年に渡ってハリウッドきっての美貌を保持しつつも、皆から“変わり者”のレッテルを貼られてきた二人のスター俳優が演じることの醍醐味。そのキャスティングセンスが何よりも見事だったと思える。  キアヌ・リーブスに至っては、風貌的には近年の大ヒット作「ジョン・ウィック」そのままなので、かの映画の劇中でも確実に“変人”の部類であるジョン・ウィックのプライベートを見ているような錯覚にも陥る。 植物に二酸化炭素を吐きかけて「光合成して〜」と語りかけ続けるウィノナ・ライダーの様も、なんだかんだあって精神的に追い込まれた彼女のリアルな私生活を見ているようで、苦笑いが止まらない。  そういう具合に、主演俳優それぞれのメタ的な要因も絡み合いながら、シンプルだからこそ人間模様の芳醇さを感じることができるラブコメに仕上がっていたと思う。  30年に渡ってハリウッド映画を観てきた一映画ファンとして、この映画と、“まわり道”しつつも第一線で輝き続ける主演俳優たちを愛さずにはいられない。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-05-03 23:32:00)
512.  マ・レイニーのブラックボトム 《ネタバレ》 
二人の黒人の若者が、闇夜を逃げ惑うように疾走するオープニング。 そのシーンが彷彿とさせるのは、言わずもがな、逃亡奴隷の悲壮感。 しかし、そんな観客の思惑を裏切るかのように、彼らがたどり着いたのは、ブルースの女王のライブだった。 多幸感に包まれながら、多くの黒人たちが、彼女の歌に魅了されている。 ブルースの起源は、奴隷時代に自由を奪われた黒人たちが労働中に歌っていた音楽らしい。 時代は1920年代。そこには、「人種差別」などという表現ではまだ生ぬるい、「奴隷制度」の名残がくっきりと残っていた。  人類史上に、闇よりも深い黒で塗りつぶされた怒りと、悲しみと、憎しみ。 登場人物たちの心の中に色濃く残るその「黒色」が、全編通して、ブルースのリズムに乗るような台詞回しの中で表現されていく。 その「表現」は、まさに黒人奴隷たちの悲痛の中から生まれた音楽のルーツそのものだった。  テーマが明確な一方で、この映画が織りなす語り口はとても特徴的だった。 前述の通り、時にまるでブルースの一節のように、熱く、強く、発される台詞回しも含め、人物たちの感情表現が音楽の抑揚のように激しく揺れ動く。 あるシークエンスを経て、登場人物たちの感情が一旦収まったかと思えば、次のシーンでは再び抑えきれない激情がほとばしる。 そしてその激しい感情の揺れの様が、ほぼ小さな録音スタジオ内だけで展開される。  今作は、舞台作品の映画化ということで、監督を務めたのも演劇界の巨匠であることが、このような映画作品としては特徴的で、直情的な表現に至ったのだろう。 特徴的ではあったが、その演出方法こそが、“彼ら”の抑えきれない怒りと悲しみを如実に表現していたと思う。  主人公となるのは、“ブルースの母”と称される伝説的歌手と野心溢れる若手トランペッター。 二人の思惑とスタンスは一見正反対で、終始対立しているように見える。ただし、彼らが白人とその社会に対して抱いている感情は共通しており、その中で闘い生き抜いていこうとするアプローチの仕方が異なっているに過ぎない。 そこから見えてくるのは、白人に対して根源的な怒りと憎しみを抱えつつも、それを直接的にぶつけることすらできない彼らの精神の奥底に刷り込まれた抑圧の様だ。  行き場を見いだせない怒りと憎しみの矛先は、本来結束すべき“仲間”に向けられ、物語は取り返しのつかない悲劇へと帰着する。  ようやく開いた開かずの扉の先にあったもの。将来に向けた希望の象徴として購入した新しい靴。 若きトランペッターが抱き、必死につかもうとした“光”は、無残に、あっけなく潰える。  そして、もっとも愚かしいことは、この映画で描きつけられている描写の一つ一つが、決して遠い昔の時代性によるものではないということだ。 交通事故処理に伴う警官とのトラブルも、白人プロデューサーによって奪われる機会損失も、収入格差と貧困も、彼らに向けられる“視線”すらも、今現在も明確に存在する「差別」の実態そのものだ。  アメリカの黒人奴隷制度が生み出した250年に渡る「闇」。時を経てもなお、憎しみの螺旋は連なり、悲劇と虚しさを生み出し続けている。 この映画が本当に描き出したかったものは、100年前の悲劇ではなく、今この瞬間の「現実」だった。   最後に、今作が遺作となってしまったチャドウィック・ボーズマンの功績を讃えたい。 この物語が表現する怒りとそれに伴う虚しさを、その身一つで体現した演技は圧倒的だった。 がん治療の闘病の間で見せたその表現は、文字通り「命」を燃やすかのような熱量が満ち溢れていた。 この世界が、若く偉大な俳優を失ってしまったことを改めて思い知った。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-04-16 23:43:41)(良:1票)
513.  ポーラー 狙われた暗殺者
まずは、マッツ・ミケルセンの“佇まい”一発で、ノックアウトは必至だ。 これまでも出演作を幾つか観てきたつもりだったが、どうやら私は、彼の本当の魅力を理解していなかったらしい。 「北欧の至宝」と称されるその俳優としての存在感は、通り一遍な男前感やダンディズムでは収まりきらない「異質」なものを感じた。 それはもはや変質的と言っても過言ではなく、その特異な雰囲気が、今作の引退間際の最強暗殺者“ブラックカイザー”役と奇跡的なマッチングを見せていたと思う。   会社組織化された暗殺者集団という馬鹿みたいな設定(好き)や、引退予定の伝説的暗殺者に集団で襲いかかるという展開に対しては、言わずもがなキアヌ・リーブスの「ジョン・ウィック」が頭に浮かぶ。 主人公のキャラクター性や、対峙する暗殺者集団のエキセントリックさ、諸々の小ネタに至るまで、「ジョン・ウィック」との類似点は多く、下手を打てば「二番煎じ」と揶揄されることは避けられなかっただろう。   しかし、確かに「ジョン・ウィック」をはじめとするこの手のジャンル映画と似通っている作品ではあるけれど、同時に圧倒的な独創性も揺るがない娯楽映画だったと断言したい。   主演俳優の稀有な特異性に牽引されるかのように、映画そのものが少々、いや随分と常軌を逸している。 バイオレンスアクションとハードボイルド、そしてブラックユーモア、それらがミックスされた破綻気味なアンバランス感が、オリジナリティを創出している。   そして、やはり何と言っても主人公“ブラックカイザー”ことダンカン・ヴィスラのキャラクター性が抜群だった。 圧倒的に強く、全身からほとばしる男の色香は、言うまでもなく魅力的。 その一方で、ただ渋くて格好良いだけではなく、悪夢にうなされ飼い始めたばかりの愛犬を撃ち殺してしまったり、渋ってた割には小学生相手にドヤ顔で世界を股にかけた暗殺講座を繰り広げちゃったり、とっくにハニートラップであることは気付いているにも関わらずギリギリの瞬間までヤルことはヤッちゃったり……。 “ジョン・ウィック”もどこか頭のネジが抜け落ちている男だが、それ以上にこの人も何本もネジがぶっ飛んでしまっていることは明らかだ。   ストーリーの収束の仕方も的確であり、忘れがたきエンターテイメントを堪能した充足感と、まだまだこのイカれた殺し屋の暗躍を観たいぞ!という期待感に包まれる。 ここまで似通ったキャラクター性と世界観であれば、「ジョン・ウィックVSダンカン・ヴィスラ」という夢の競演を妄想してしまうな。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-04-04 17:16:01)(良:1票)
514.  アップグレード 《ネタバレ》 
得体の知れない「悪意」によって、愛する妻と自身の体の自由を失った不遇な男が、“機械”を体に埋め込み、文字通りの“殺人マシーン”と化して復讐に挑む。 翌日への憂鬱を抱えた休日の夜に観るには相応しい、B級SFの娯楽性を存分に堪能できる映画だった。日曜洋画劇場と淀川長治氏が健在な時代であれば、きっと何度も放送されたであろう。  サイボーク化の悲哀、AIの人格化と暴走、隠された陰謀……、この映画の娯楽を彩るテーマは、過去の幾つもの作品でもはや使い古されたものかもしれないが、描き方、映し出し方がとても丁寧でフレッシュなので、終始飽くことがなかった。 「機械」という悪魔に見初められてしまった男の過酷で壮絶な運命が、「寄生獣」や「ヴェノム」を彷彿とさせるある種の“バディ感”と共に展開していくストーリーが、とてもユニークだったとも思う。  決して、全てが目新しい映画ではないけれど、オリジナル作品として、監督と脚本を務めたリー・ワネルという監督の手腕と創造性は中々のものだ。先日観た現代版「透明人間」でも監督・脚本を務めたこの映画人には今後も期待したいと思う。  映画は、この手のダークSFに相応しい辛辣なエンディングを迎える。 それがただ後味の悪い悲劇に見えるのではなく、現代の社会に対する警鐘として妖しき光の中に浮かび上がってくることが、この映画が“質の高いB級SF映画”であることの証明だろう。  この世界に喜びを見いだせず、苦しみに耐えかねる人類は、そのうち皆、仮想現実に押し込められてしまうのではないか。 そう考えると、この映画が「マトリックス」の前日譚のようにも見えてくる。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-02-23 23:29:16)
515.  ナポレオン・ダイナマイト
推しの“アイドル”が、自身がボーカル&ベースを務めるバンド名に「PEDRO」と名付けた理由が、今作に登場する主人公の唯一の友人の名からとったと知り、鑑賞。 ああ、なるほど、彼女がその名を付けた意味がよくわかった気がする。  さえない容姿、さえない友人、さえない家族、さえない生活、人生は往々にして“クソったれ”だけれど、それでも人生は、何かささやかなきっかけで、いくらでも光り輝く。 その輝き方は人それぞれで、他人の“眩しさ”と比べてみたって意味はない。  決して劇的な存在でなくとも、自分にとってはかけがえのないモノは必ず存在する。 それは、気になる同級生かもしれないし、転入してきた友人かもしれないし、下手くそなマンガかもしれないし、荒削りな音楽かもしれない。  そう、人生に必要なのは、ささやかだけれど何にも代え難い心の“拠り所”なのだ。  この青春コメディ映画は、国籍や年齢、性別にとらわれない普遍的な人間の馬鹿馬鹿しさと、それに伴う愛らしさをオフビートなユーモアの連続の中で、ワリとストレートに伝えてくる。  スクールカーストの底辺で、日々フラストレーションを溜めつつも、自分の“在り方”をブラさない主人公は、決して格好良くはないけれど、不思議な魅力を備えていた。 そして、前述の友人“ペドロ”をはじめ、主人公の周囲を取り巻くキャラクターたちも皆独特でクセが強い。 彼らが織りなすおかしな人間模様は、アメリカの片田舎の開放感と閉塞感が入り混じったような何とも言えない空気感も手伝って、どこか哀愁めいたものも感じる特異な喜劇を構築していた。  久しぶりにこの手のアメリカンコメディを観て、何だかフレッシュな気持ちにもなり、満足度は高い。 明らかにお金がかかっていないチープな映画だけれど、ランチの皿で表現したオープニングクレジットの愛らしさからも伝わってくるように、愛着を持たずにはいられない作品だった。  「VOTE FOR PEDRO」のTシャツ欲しい。アレを着て、「PEDRO」のLIVEに行きたい。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-02-23 00:12:33)
516.  透明人間(2020)
深夜、自室で今作を鑑賞後リビングに入ると、薄暗いいつもの室内が何だかとても恐ろしく感じた。 ぽっかりと空いた何もない空間に“何かがいる”かもしれないという感覚。それはまさしく、この恐怖映画が描き出した「恐怖心」そのものだ。 全編通して、主人公のみならず、観客にもそういう“怯え”を生み出したこの映画のアプローチは、“透明人間”という怪奇映画の伝統を引き継ぎつつ、圧倒的にフレッシュだった。  この新機軸の透明人間映画が、これまでの透明人間映画と異なる最たる点、それは「視点」だろう。 伝統的な透明人間映画が、透明人間となってしまった人物自身の恐れや悲哀、または透明人間としてのモンスター性を描き出してきたことに対して、今作は透明人間に襲われ、「凝視」し続けられる女性を主人公に配し、徹底的に彼女の「視点」でストーリーが展開される。  「何かに見られている」という不安やおぞましさをシンプルかつ洗練された映像表現で徹底的に描きつけ、“何もない空間”に恐怖を生み出した映画的手法が見事だったと思う。 主人公の背後に浮かび上がる“吐息”や、バスルームの“手形”など、ヒタヒタという物音すら全く立てずに主人公に歩み寄る恐怖演出も巧みだった。 主人公の女性の愛称が“シー(see)”であることも、シチュエーションスリラー「ソウ」を生み出した作り手らしいこの映画のテーマ性に対する隠喩であろう。   ただし、この映画が描き出す「恐怖」の真髄は、そういう映像的に表現されている要素のみには留まらない。  夫から支配的なハラスメントを受け続けていた主人公は、その夫婦生活から逃げ出した後も彼の精神的支配から脱却することができずに、苦しみ続ける。 夫の死を知らされても、一人それを信じることができず、見られ続けていることに恐怖し、究極的に追い詰められる。 結果的に方法としての“透明人間”は存在し、夫は死を偽装してまでも妻である主人公を支配し続けようとする……。  が、果たして本当にそうだったのだろうか? “透明人間”による凶行は現実だったけれど、それが本当に夫による策略であったかどうかは最終的に明確にならない。 凶行はすべて夫の兄によるものだったかもしれないし、夫にまつわる恐怖心のすべては心を病んだ主人公の誇大妄想だったかもしれないという可能性が、最後の最後まで拭い去れない。  そういったまた別の「視点」を生む演出も見事だし、主人公を演じたエリザベス・モスの演技と、狂気性を孕んだ表情も素晴らしかったと思う。   人間同士の関係性、もっと言い切ってしまえば「夫婦」という関係性から生じた綻びが導き出してしまった憎しみと怖れ。 この恐怖映画が最終的に紡ぎ出したものは、その普遍的な人間関係が内包する“危うさ”だったのではないか。  そういうふうに、この映画の結末を捉えると、同じく“恐怖夫婦映画”の傑作である「ゴーン・ガール」的なゾクゾクとしたおぞましさに包まれ、思わずこう呟きたくなった。 「こ、怖えぇ」と。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-02-21 00:07:08)(良:2票)
517.  続・男はつらいよ
昨年の正月にシリーズ第一作目の「男はつらいよ」を初鑑賞して、一年ぶりに第二作目の今作を鑑賞。 来年以降も、年のはじめに“寅さん”を観ることを恒例化していこうと思っている。  自分自身が今年で40歳になる。 「不惑」という言葉の意味に対して、自分の精神年齢が程遠いことは否めないけれど、それでも人生の機微というものを何となく感じ取れるようにはなってきた。 自分の人生において何が大切で、何がそうではないのか。そういうものがおぼろげながらも見えてきた今、この国民的喜劇映画が描き出す「娯楽性」は、ことほど左様に心を満たす。  渥美清演じる「車寅次郎」というキャラクターはもちろん強烈だけれど、劇中において何か劇的なことが起こることはない。 が、しかし、なんでもないシーンで笑いを生み、なんでもないシーンでしみじみとした感動を生む。 これぞこの国の「喜劇」の真骨頂だろうと思える。  このシリーズ第二作においては、脇を固める豪華俳優陣の存在感も際立っている。 寅次郎の恩師役の東野英治郎は、個人的に幼少期に観ていた「水戸黄門」の印象が強く、あの特徴的な声の響きがとても懐かしかった。 若き山崎努は、30代前半にして既に映画俳優としての稀有な雰囲気を醸し出しており、今作ではヒロインの恋人という「普通」の役柄を演じていることが逆に印象的だった。  そして何と言っても、寅次郎の生き別れの母親役として登場するミヤコ蝶々の存在感が抜群。 数少ない登場シーンの中で、稀代の女漫才師ならではの“しゃべくり”と、この国の喜劇を牽引し続けていたのであろうコメディエンヌとしての表現力が圧倒的だったと思う。  渥美清も、東野英治郎も、ミヤコ蝶々も、既に亡くなって久しい。 けれど、彼らが昭和の時代に生み出した数々のまだ観ぬ「娯楽」を、これからまだまだ堪能できることは幸せなことだと思える。
[インターネット(邦画)] 8点(2021-01-28 10:31:52)
518.  GODZILLA 決戦機動増殖都市
ゴジラ映画初の長編アニメシリーズ(三部作)の第二弾。 世間の評判の悪さから長らく敬遠してしまっていたのだが、ようやく鑑賞した前作「怪獣惑星」が、思いのほかゴジラ映画ファンの琴線をくすぐってきたので、同日に続けて今作を鑑賞。  「決戦機動増殖都市」というこの副題が、中二病的でとても良い。 このタイトルを堂々と掲げることで、この映画は“そういう映画だ”ということを宣言しているのだと思う。 詰まりは、この国が長年に培ってきたアニメ文化、特撮文化、そしてオタク文化を愛し続けた者たちが、寄ってたかって“自己満足”を積み上げた作品であるということ。 そして、「それの何が悪いのか?」ということを、開き直るように力強く叩きつけている作品であるということだ。  前作のラストで、ようやくゴジラを討伐した歓喜も束の間、ほぼ間髪入れずに現れた真の絶望。 あまりにも巨大な絶望に対する次なる対抗手段として描き出されるのは、共闘する異星人がかつて地球に持ち込んでいた“メカゴジラ”の「構成素材」で2万年の間に勝手に出来上がっていた“増殖都市”という、完全にワケガワカラナイ代物。 ワケガワカラナイが、だからこそケレン味に溢れ、極めてSF的だと断言したい。  “メカゴジラ”のビジュアルを一切登場させることなく、その“素材”と、それを扱う異星人たちの異質な“思考原理”のみで、もはや地球環境そのものとなっている“ゴジラ”と対峙し、ストーリーをテリングしていくこの作品のあり方は、やっぱりマニアックでぶっ飛んでいる。  肝心要のゴジラの描写すらもそこそこにして、舞台であり、兵器である“増殖都市”そのものの禍々しさを突き詰め、その中で異なる思考をぶつけ合う人間同士の消耗戦と、それに伴う悲劇に主眼を置いていくストーリーの顛末が極めて興味深かった。  そして、そんな異質なストーリーテリングを展開しながらも、しっかりとゴジラファンの高揚感を煽る描写、伏線が張り巡らされている。 双子の美少女、卵を崇める民族、隠された異星人の思惑、そして「ギドラ」という忌まわしき言葉。  世間の評価がどんなに低かろうが、前作に続き今作もしっかりと“ゴジラ映画”であり、“SF映画”であったと思う。 主人公を見つめるヒロインの目線が絶妙に合っていない不気味さすらもはや味わい深い。 さあ、次はいよいよトリロジーの最終作。“地球最大の決戦”に向けて準備は万端だ。
[インターネット(邦画)] 8点(2021-01-18 00:21:32)
519.  ミッドナイト・スカイ
世界の終末。放射能汚染によって住むことができなくなった地球を残して、人類は宇宙へと逃げ出す。 だが、人類が生き残るための道筋を誰よりも早く見出していた科学者は、一人北極の観測所に居残る。 彼が自らの命をとしてその選択をした理由が、淡々と、そして情感的に描き出される。  「メッセージ」や「インターステラー」など、壮大なSFの上で綴られる普遍的な人間ドラマが大好物な者としては、とても好ましく興味深い映画だった。 人類が滅亡の危機に瀕している具体的な理由などの細かい状況説明を意図的に廃して、ジョージ・クルーニー演じる主人公の残された時間と、それと並行して展開する帰還船の描写に焦点を絞って映し出されることで、より一層登場人物たちの「孤独」と「絶望」が浮き彫りになっていくようだった。  そう、この映画が表現しようとすることは、まさにそういった人間の孤独感と絶望感、そして悔恨だった。  恐らくは核戦争によって地球を捨てざるを得なくなってしまった人間全体の愚かさ。 宇宙への望みを追い求めるあまり、結果的に愛すべき人を捨てることになってしまった一人の男の哀しさ。 人間という生物全体の後悔と、その中の一個体の後悔が入り交じり、この映画全体を覆っている。 それは、決して遠くない未来の現実の有様のようにも見え、鑑賞中とても安閑とはしていられなかった。  地球全体を覆い尽くすような99%の絶望。そんな中で、ただ一つの“光”が描き出される。  ただ一人残ったはずの主人公の前に突如現れた“少女”は、彼にとって、悔恨と希望そのものであり、同時に、人類が存続するために与えられた最後の奇跡だったのだと思う。     ジョージ・クルーニー自身が監督も担った作品だけあって、登場人物の感情を主軸にした極めて内面的な映画に仕上がっている。 前述の通り、ストーリーテリングの上で論理的な説明が無い分、話自体のシンプルさのわりに分かりにくい映画になっていることは否めない。 難解という程ではないけれど、これほど主人公の内情に焦点を当てるのであれば、ジョージ・クルーニーは俳優業に専念すべきだったのではないかとは思う。 彼の豊富な監督実績を否定はしないし、今作においてもそつない仕事ぶりを見せてくれてはいるが、監督か俳優どちらかに専念したほうが、もっと深い映画表現にたどり着いたのではないかと思えた。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-01-02 00:26:34)(良:1票)
520.  ザ・コール
序盤から充満している不穏な空気感は、やはり韓国映画ならではのものであり、洗練された映像世界の中で主人公にひたひたと迫りくる「恐怖」が、この映画のクオリティーの高さを物語っていた。  「ザ・コール」という端的なタイトル、インフォメーションビジュアルから伝わってくるテイストは“ホラー映画”のそれだったが、実際、今作で展開されたストーリーは、ホラーでもあり、サスペンスでもあり、スリラーでもあり、SF・ファンタジーでもあり、普遍的な親子ドラマでもあった。 様々な映画的エッセンスが、重層的に、巧みに混ざり合い、独創性に溢れたストーリーテリングを見せていたことが、素晴らしく、なかなか忘れ難い作品に仕上がっていると思えた。  1本の電話が20年の時間を超えて、過去と現在を繋ぐ。 似たような着想やアイデアが組み込まれた映画は世界中に沢山ある。 ただそれらの作品の多くは、心温まるファンタジーや、家族愛を描いたものが多く、ここまで恐怖に振り切った映画は記憶にない。  オカルト、タイムパラドックス、シリアルキラー、映画的娯楽要素を極めて大胆に織り交ぜつつ、主人公の苦悩と絶望が二転三転しながら確実に深まっていく展開が斬新だった。 そして、ヒロインとして立ち回る主人公の合わせ鏡のように、存在し、悪魔的な存在感を高めていく過去の世界の連続殺人犯のキャラクター造形も素晴らしかった。  この殺人犯が、その異常性と残虐性を深めつつ、徐々にヒロインと対峙する“ダークヒロイン”として際立っていくことが、この映画のエンターテイメント性を更に高めた要素であることは間違いない。  このヒロイン、ダークヒロインを演じた二人の若い女優たちが両者とも素晴らしい。 主人公を演じたパク・シネは、この直前に鑑賞した「#生きている」での勇敢なヒロイン像も印象的だったが、華やかさと哀愁を併せ持った良い女優だなと思う。(コロナ禍の影響で主演映画が2作とも劇場公開中止になってしまったことは不憫だ) 一方、殺人鬼を演じた新星チョン・ジョンソは更に強烈だった。病んだ心を更に拗らせ、悪魔的な素養を覚醒させていく“禍々しさ”を見事な狂気で表現し切っていた。 今年観た「The Witch/魔女」の主演女優キム・ダミの見せた狂気も鮮烈だったが、韓国映画界の肥えた土壌は、若手女優層の面でも芳醇だなと思う。     映画は最後の最後まで加速を緩めずに、恐怖と絶望を突き詰める。  20年の年月を超えて鳴り響くコール音。 「奇跡」は、文字通り悪魔的な「災厄」に転じ、恐怖の螺旋が未来をぐるぐると絶望へと追い込んでいく。 絶望の“ベール”をめくられた主人公。その戦慄の極地で彼女は痛感しただろう。  誰が、悪魔を“コール”したのか?  私が、悪魔を救ってしまったのか?  いや、私が悪魔を生んだのか……と。
[インターネット(字幕)] 8点(2020-12-29 00:18:15)
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