541. ビジターQ
びっくらこいた。家族の体を成していない家庭に異物が混入することで化学変化が起こる。いわば『家族ゲーム』なんだけど、かなりエログロい。こんな映画ありかよ!とひたすらびっくらこくんだけども、エログロの過激さの大半は映画に必要だったものではなく、こんな映画ありかよと思わせるためだけにあるような気がしてならない。見てる間中頭に浮かぶのは、よくこんなの引き受けたなってこと。あるいはカット!の声のあとの役者たちの反応を想像したり。とにかく映画の外のことばかり気になってしまった。「うんこじゃねえか!!」には大爆笑したが。父親の問題は男としての自信を取り戻すことで解決し(むちゃくちゃな取り戻し方だが)、母親の問題は女であることの確認を得て解決し、子供たちの問題は親の問題をクリアしたことで解決する。たんまりとありすぎた諸問題は全て両親から派生していた。実に簡単な構図(むりやりに簡単にしている)がこのナンセンスエログロ映画をちょっとだけ哲学チックにしてみせている。ほんのちょっとだけ。 [DVD(邦画)] 6点(2009-06-03 16:38:31) |
542. ウンベルトD
《ネタバレ》 50年代のネオレアリズモ映画で描かれた高齢者の孤独、貧困問題、年金問題が古びるどころか普遍性を増し、新しくさえあることに驚かされる。とはいってもけして社会問題を描いた映画ではなく、それらは背景に過ぎないことはネオレアリズモ映画に共通する。主人公の老人はけして弱々しい老人ではない。実に人間らしいずるさも見せる。頑なに弱者とならんとするプライドもある。そこがネオレアリズモであり生々しさの源泉となっている。老人だけでなくアパートで働く若い女もまた社会的弱者として登場するところがまた「現実」の非情さを助長している。「暗い」と言われるネオレアリズモ映画にあって老人の庇護すべき子供のような、それでいて最高の理解者であり友人である雑種犬の健気な仕草が作品全体を和やかな雰囲気にしている。と同時にラストの感動的なシーンを見事に演じている。 [映画館(字幕)] 7点(2009-06-02 14:04:41) |
543. プロジェクトA
先日『チョコレート・ファイター』(面白かった!)を鑑賞して椅子やテーブルを巧みにアクションに取り入れる様にこの作品を想起したのですが、同時にジャッキーのアクションシーンって見てて全然疲れなかったなあと。昨今のアクションシーンって躍動感を出すためなのか被写体に寄り過ぎて速い動きがよく見えなかったり、カメラがやたら瞬間的に動いたりして疲れるんだけど、ジャッキーのアクション、少なくとも『プロジェクトA』の頃はカットの切り替わりが速くても速さを感じないし、ちょっと長めの連続したアクションシーンのカメラの動きもその動きをあまり感じさせない。けしてジャッキーの動きが遅いわけじゃないのに。この作品は『ヤング・マスター/師弟出馬』で当時がっかりさせられたせいで(5年ほど前にレビューしてます)映画館では見てないんだけど、その後コレだけはビデオをダビングして何度も楽しませてもらってます。アクションそのものも凄いんだろうけど、その類稀なる肉体の動きを全て「笑い」へと昇華させているってことがもっと凄いように思う。それってサイレント喜劇の基本だったりする。だから何度でも楽しめちゃうのかもしれない。 と言いつつ長らく見てないので今見ても楽しめるかは確信持てないんだけど・・。いや、楽しめるはず・・・。 [ビデオ(字幕)] 7点(2009-06-01 17:24:32)(良:1票) |
544. L change the WorLd
Lのキャラを崩してゆくところに面白さがあるので本編ありきの作品ではあるのだが、筋が全ての本編よりもずっといい。「子供」という未知なる生物を相手にする困惑とそれでも放っておけないワタリ譲りの親心がLを変える。走り、電車に乗り、自転車に乗り、背筋を少しだけ伸ばしてみて、優しい顔をして、世界を案じて、語る。ただ、ストーリーと演出はこれでいいのか?南原の登場は作品にコメディ色を入れたかったのだと思うが、それにしたってえらく唐突だし、例えば囮として運転したあとの再登場でLが「お願いがあります」と言ったあとの画はお約束でまたまた囮で車を走らせる画じゃなきゃいけないのにその一つ前に別の画(電車シーン)が入るのってなんかノリが悪いなあ。あと、悪党軍団の中の若い女。目がぎらつきすぎ。子供向けヒーロー番組の怪人みたいに現実感が乏しい。この女のボス、高嶋政伸の特殊メイク顔はまさに敵方改造人間だから、あえてこういうキャラと演出なんだろうけど、なんだかなあ。即発症のとんでもウイルスやら全部日本人やら(FBIの手帳見せてんのに「うそつけ!オマエ日本人じゃねえか!」って信用してもらえないシーンは笑ったが)、どこまで本気なんだかわからん作品。 [DVD(邦画)] 3点(2009-05-28 16:03:48) |
545. M(2006)
日常の中にある非日常が描かれていて、それはフィクションとしてはありふれてはいるんだけど映画初出演のヒロインのぎこちなさとモデル出身という現実離れした存在感が独特の雰囲気を出していて面白い。主婦という日常と主婦ではない非日常を行き来する女の危なっかしさにドキドキもさせられる。のだが、この作品はそのドキドキを堪能するものではなく、非日常的あれこれも単なる背景にすぎない。ではこの作品は何が描きたかったのかというと、おそらく女の中にある性質という目に見えぬもの。性的な不満が描かれることでベースを作り、その不満が非日常を呼び込み、その非日常をきっかけとして本来持っていたのだろう性質を表出させるという物語はいいのだが、はたしてその目に見えぬ性質とやらが画面に現れていたのかというとビミョー。だから母親に対するトラウマを抱えた青年の暴力にヒロインが性的に感じてしまうクダリは唐突感を拭えない。この青年のエピソードもえらく濃厚なのだが、そこまで濃厚にする必要はなかったような気がする。 [映画館(邦画)] 4点(2009-05-27 15:16:39) |
546. H[エイチ]
すでに見たけど未レビューの作品をずらりとタイトルだけ書きなぐったメモがあって、どの映画をレビューしようかとたまに見るんだけど、これはタイトルだけじゃなくその横に大きく「1」と書いてあった。おそらく、いや間違いなくこれは1点ってことだ。思い返して2点くらいかと思ったがその書きなぐられた「1」にはどうも怒りが込められているふうに見える。その「1」にはナメンナヨという見た直後の私のメッセージが込められているような気がする。『カル』が良いか悪いかは別にしてヒットしたことは間違いなく、コレはおそらくは二匹目のドジョウ狙いだと思われ、それだけを達成できればいいというサモシイ商品でしかないように思われ。オリジナリティ皆無。陳腐なシナリオ。かっこつけの役者。まやかしの衝撃。これらは作り手たちの本気度の薄さの表れでしかない。 [DVD(字幕)] 1点(2009-05-26 14:02:59) |
547. B
擬似ドキュメンタリー風なんだけど中盤に出てくる本当のインタビューの本当っぽさを見るまでもなくものすごく芝居じみている。しかもヘタクソ。いかにも脚本どおりにしゃべってますみたいな。わざとらしくはにかんだり、意味ありげにニヤリとしたりとイチイチ不自然。セリフの無いシーンになると怒涛のカット割りがミュージッククリップ的なかっこよさをまとっていてそれなりにイキイキとしているようにも見えるが、基本、最初から最後までこのノリなのでちょいキツイ。ドラマは最後に音楽の効果もあってそこそこの盛り上げを見せてくれるのが救い。 [ビデオ(字幕)] 2点(2009-05-25 14:03:02) |
548. ラルジャン
冒頭に映されるのはいかにも現代的な裕福な家庭。ごく普通の家庭の普通の会話が少しだけ映される。しかしその「普通」の中に、そしてその「少し」の中に、息子の甘え、親の無関心、責任のなすり合いといった醜悪なものを凝縮させている。この一見「普通」でありながら実は「醜悪」なものはこの後も延々と映され続ける。これが現代社会なのだ。ブレッソンは「醜悪」なものをけして大袈裟に映像化しない。「普通」の中にあるものを巧みに見せてゆく。『少女ムシェット』で少女が何かに怒っているように『ラルジャン』の青年もまた何かに怒っている。「何か」とは社会に他ならず。が「何か」はあまりに大きく、且つ漠然としているためにその怒りもまた矛先を持ち得ない。弱者は殺人者になるか死ぬか。強い者のために弱い者が虐げられ、強い者のために弱い者が作り出される社会。ブレッソン思想、ここに極まり。それでいてブレッソンが早くから確立させていたモンタージュの完璧さと「手」「足」「扉」に代表される印がこの作品を「ブレッソンの映画」たらしめている。「ブレッソンの映画」とは最高級ブランドである。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2009-05-22 16:15:07)(良:1票) |
549. 少女ムシェット
《ネタバレ》 貧しいことがまるで罪だと言わんばかりの世間の目。大人が課した少女の過酷な人生は、仮に小さな幸せが訪れたとしても不幸という大きな波にさらわれてしまう。野鳥が罠にかかってもがく。誰かが罠から外すという奇跡が訪れないかぎりこの野鳥の行く末はもう決まっている。どんなに抗おうとも無駄。弱い者の定め。どこかに少女の人生が好転する機会があっただろうかと再見してもやはり見当たらない。少女の人生は少女以外の罪深い大人たちと大人たちの作った社会によって決められているのだ。そのことを実に簡潔にして深く描いている。しかも少女の行動を通してのみで。少女は最後の最後に運命を捻じ曲げる。いや、ここでも彼女は自らの意思での行動を拒否しているのかもしれない。高いところから低いところへ転がるという現象に身を任せる。転がることにけして抵抗はしまい。これは運命なのだ。そう思って転がっているのだとしたら、キッツイなあ。映画はこの悲しい転がりを美しく映してしまう。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2009-05-21 15:41:46) |
550. バルタザールどこへ行く
ロバの憂いをおびた瞳が印象的。もちろんロバが演技をしているのではなくそう見えるようにしているのだ。これが演出というもの。ロバの歩く足元のアップが映される。道を変え、速度を変え、足が太くなり、、と次々とロバの歩く足元のアップが映される。冒頭シーンから数年後に舞台が移ったこととその数年の時間の重さを言葉以上に知らしめる。プロの俳優を嫌うブレッソンの映画をきっかけにこの世界に入った女優の一人で、後にゴダールのミューズとなるアンヌ・ヴィアゼムスキーの初々しさと初々しいからこそのエロスが淡々とした画面に潤いを与え、また全裸に剥かれた姿がいっそう痛々しく映される。と、ここまでは絶賛。例えばロバをこき使うという行動、女を手篭めにするという行動、金を盗むという行動こそを映像に置き換えるのがブレッソンの映画であって物語を映像に置き換えるものではないというのはよく解かるが、その物語がシンプルならそれでもいいのだが、これはちょっと散漫にすぎないか。よくわからない箇所がちらほらとあって困った。もちろん私の理解力にも問題があるのだろうが。父親の訴訟のいざこざも3度見てやっと(それでも漠然と)わかった。人殺し呼ばわりされてた酔っ払いのおっさんはいまだによくわからん。 [CS・衛星(字幕)] 6点(2009-05-20 17:56:52) |
551. スリ(1959)
才能ある一部の特別な人間は罪を犯してもよいという哲学はまぎれもなくドストエフスキーの「罪と罰」だが、様々なテーマを内包するこの小説とは違いブレッソンはテーマを無視し物語すら端に追いやりひたすら「動き」を映すことに専念する。ただ泥棒が泥棒をして捕まるという筋があってそれらが映されるだけでそこに主人公の罪に対する葛藤のドラマもなければ貧困あるいは不信や不満といった社会背景が描かれるわけでもない。映画は動くものを映すものという原理のみを追求する。それだけでも楽しめるのが映画なのだ。というかこれが映画。スリの場面は手がアップで映される。その動きの美しいこと!物語は消失し画面では堂々と「手」が主役を張っている。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2009-05-19 14:16:52) |
552. 罪の天使たち
修道院内というほぼ限定された場所を舞台としているせいか、その後のブレッソン映画には見られない「劇」的なものを感じた。もちろん「罪」をテーマとしているところやその「罪」が元来人間に備わったものであるかのような描き方はいかにもブレッソンなのだが、「劇」的であることでブレッソン独特の生々しい厳しさが緩和されているような気がする。さらにブレッソン印の無感情な人たちとは相反する主人公も「劇」的であることに貢献している。長編デビュー作ゆえというところだろうか。でもそれはけして悪いことではなく、後年確立されたブレッソンの作風とは異にするというだけのことだ。むしろブレッソンのノワール(この作品自体はノワールじゃないけど)を見られる喜びがある。室内に差し込む計算づくの光があたりまえのように映されている。「罪」よりもその「救済」のほうが色濃く描かれた作品。 [映画館(字幕)] 7点(2009-05-18 16:36:30) |
553. 007は二度死ぬ
私が生まれた年の作品。この作品を面白い!笑える!と思えるのは日本人の特権だろう。特権なのだから存分に笑いましょう。当時の欧米人の日本のイメージがどういうものかを知る文化的資料にもなり得るかもしれない。日本人が世界的ヒット作品に出ているという優越感も得ることができるかもしれない。あるいはその違和感を楽しめるかもしれない。それ以外になにがある。いやあった。トヨタ2000GT。しかも本来あるはずのないオープンカー!って、なんでオープンよ。クローズドのほうがいいのに。だいたい正面からの画が少ないぞ。それからブロフェルドがついに登場!って、これまで頑なに姿を見せなかった謎の首領が出し惜しみなくフツウにいるよ。フツウにいすぎるよ。だいたいあの火山の基地はやりすぎだ。そうとうに金はかかってると思うがあれじゃ子供向け特撮怪獣ものだ。もしかしてリスペクトってやつ? [DVD(字幕)] 4点(2009-05-15 17:48:14)(良:1票) |
554. 007/サンダーボール作戦
さすがに人気絶頂期だけに金かけてんなあ、派手だなあと。悪口じゃなく。これまでのチープ感が不満の一つでもあったわけだから。善悪ボンドガールもべっぴん。NATO爆撃機ごと核弾頭強奪というスパイ映画らしいスペクターの悪行もそのスケールのでかさも大満足。これこそが「007」。と思うところもあるんだけど、『ゴールドフィンガー』のレビューでも触れた現地諜報員の自害というスパイ映画ならあって当然の苦味がショーン・コネリーのいつもの緊張感ゼロのダンディぶりを常套とする「007」に合ってない。クライマックスの海中バトルも殺し殺される描写が動きがスローなぶん実に生々しい。「007」の最大のウリであるボンドのキャラが仇となる。無駄というか冗長なシーンも多々あり。でもまあ総じて「007」らしい映画だと思う。 [DVD(字幕)] 5点(2009-05-14 15:10:51) |
555. 007/ゴールドフィンガー
主題化が素晴らしいうえに一度聴いたらけして消えないインパクトを持っているため作品そのものも良かったような気にさせられる。べつに悪くはないのだが主題歌の荘厳さは作品には全く無い。とにかくボンドがへぼい。次回作『サンダーボール作戦』(ちょいネタバレあり)ではボンドの助手にすぎない現地諜報員が捕まったときには自害しているというのに、このボンド君てばレーザー光線がとりわけボンドにとっての大事な大事な部分を切り刻もうとしたときの嘘八百並べて必死に助かろうとするチキンぶりに唖然。かっこわる。そのくせそれでもダンディに振舞うってんだから笑うしかない。捕まってるのにこの緊張感の無さもボンドの有能さゆえの落ち着きというより危機意識の欠如したスケベ親父にしか見えん。だいたいその前のゴルフだってどっちもどっちの姑息なやり口。飛行部隊がみんな女ってのもその無意味なサービス精神に笑う。どうせならセクシー衣装にしろ。ガスをまく飛行機が上空を通過するだけで町中が眠ってしまうシーンだけ見るとコメディ映画にしか見えん。というかコメディなのか?これ。悪ふざけが過ぎるのか足りないのか、まあ中途半端ってこと。 [DVD(字幕)] 5点(2009-05-13 16:59:38)(良:1票) |
556. 007/ロシアより愛をこめて
『ドクター・ノオ』の陳腐なSFから一転、敵対するのがソ連であることだけでもかなりスパイ映画らしくなっている。といってもソ連を利用しているのはスペクターなのだが。続編であること、そしてこれからも続いてゆくシリーズであることを前提にしながらも1本のスパイ映画として上々の出来。前半のイスタンブールを舞台としたスパイ合戦は複雑なうえに「007」らしからぬ緊迫感を持っているが状況が緊迫感を持っているだけで演出でもっと緊迫感を煽ってもよさそう。アクションよりもサスペンスに重心を置いたのだろうがアクションが無いわけじゃない。ただそのアクションがイマイチ。見せ場のためのムリヤリな展開(ヘリ追跡やボートチェイス)を感じなくもなく、見せ場自体もこの作品ならではのものが乏しいようにも思う。それでもサスペンスの部分と随所に存在感を発揮する敵キャラが作品を向上させている。 [DVD(字幕)] 6点(2009-05-12 12:41:21) |
557. 007/ドクター・ノオ
私にとってのジェームズ・ボンドはロジャー・ムーアだった、というか「007」を大いに楽しんだ小学生から中学生の間ジェームズ・ボンドだったのはロジャー・ムーアだったんですが、やっぱりボンドはショーン・コネリーでしょ、とか言う大人たちの発言にショーン・コネリー版007に秘かに期待を膨らませてもいたわけです。おそらくはもっと本格スパイアクションだったのが回を進めるごとにお子様向けとまでは言わないが娯楽度が濃くなっていったのだろうと。と思って見たのが失敗だったのか。殺し屋三人組の淡々とした仕事ぶりが「本格」の期待を裏切らないオープニングを飾ってくれたが、ボンドのキャラは現実離れしたダンディさを纏い、ムーア版を超えるフェロモンをプンプンとさせて「本格」の「ほ」の字も見当たらない。ボギーをスケベにしただけじゃないか。しかもドクター・ノオのアジトへ入るとSFの世界が広がる。1962年という年代を考えればこのSF的展開こそが観客を興奮させたことは間違いないだろうし、ダンディなスケベというキャラもまた観客を魅了させたに違いない。そして子供時代に映画の楽しさを教えてくれた「007」の原型がここにあることも納得したうえで、やっぱり見せかけ重視の映画って古びるなあと。 [DVD(字幕)] 4点(2009-05-11 18:31:19) |
558. グラン・トリノ
悪党たちが罪なき人々を苦しめる。立ち向かう一人の男、クリント・イーストウッド。なんて単純な話なんだろう。しかもこのパターンって西部劇ではないか。もっと言うなら『荒野のストレンジャー』の『ペイルライダー』に次ぐリメイク、、とは言いすぎか。二つの西部劇の主人公は人間とは言い難い。神の化身と解釈して初めて合点のいく物語となっている。イーストウッドの中にある神、あるいはキリスト教への不信が自らを神へと変えた。『グラン・トリノ』の主人公は二つの西部劇とは違い、コワルスキーという人間の名前を持っている。しかし彼が最後にとった行動はキリストそのものではないか。これまでの作品で散々キリスト教をコケにしてきたイーストウッドは、神にすがることなく、神にしかできないと誰もが思っている行動を人間としてやり遂げさせてしまう。これはこれまで描き続けてきたことの一つの答えなのかもしれない。集大成で言えば私は『チェンジリング』のレビューで『ミスティック・リバー』以降は全てイーストウッドの集大成と書いたが、『グラン・トリノ』はたしかにこれまでのイーストウッド作品を彷彿させるシーンがたっぷりとあるが『ミスティック~』以降の流れにある重さがない。話の単純さもそうなのだが、話の流れもかなり強引だ。例えばあんなに嫌がっていた隣家のパーティに行く理由が弱い。例えば若者たちが集う地下室へ導かれる展開がムリヤリ。これって『ブラッド・ワーク』以前のイーストウッド作品にある所謂予定調和ってやつ。でも『グラン・トリノ』ではそこにつっこむ気を起こさせない。だってこれは映画だもん。そう言われそうだし、そう思ってしまうのだ。そのことを観客に承知させる境地に辿り着いたということか。イーストウッドは映画を崇高なものだととらえていない。もっと身近なもの。もっと手軽なもの。芸術や娯楽という前に映画は映画でしかなく、そして当たり前のように作り物なのだ。マカロニウエスタンってその世界自体が嘘の世界。そこから生まれたイーストウッドの当たり前の世界。グラン・トリノという車の顔形よりもイタリア語を冠した名前がさりげなくイーストウッドの起源を語ってくれているように思った。 彼の映画の本来の武器は映画はしょせん映画と割り切ってもいいという安心感なのかもしれない。そしてその安心感が映画を身近にする。『グラン・トリノ』は愛すべき手軽な映画だ。 [映画館(字幕)] 8点(2009-05-08 17:05:47)(良:2票) |
559. バニシング・ポイント(1971)
何度かテレビで見ていて印象に残っているシーンはところどころあるんだけど、どんな話だったか全く思い出せず「デス・プルーフ」後に再見した多くの映画ファンに漏れず私もやっぱり再見したのだが、そのおかげでどんな話か思い出せないことに納得できた。だってストーリーなんて無い。ただ爆走するのみ。あるにはあるのだが、爆走する以外のものはムリヤリにとってつけたようなものばかりだ。そのムリヤリにとってつけたものってのはアメリカの60年代後半から70年代初めの社会をあまりに分かりやすく再現したものなのだが、この分かりやすい情景による説明があってもアメリカン・ニューシネマを体験していない者にはイマイチピンとこないのではなかろうか。つまりその情景と無謀な爆走の関係にピンとこないということ。それほどにコワルスキーの心情はこの時代背景なら当然のものとして理解できることを前提にされているように思う。ヒッピー・ムーブメント、フリーセックス、ベトナム反戦運動、ドラッグ、、、。そんな時代にハリウッドに対抗するようにして生まれた反体制派の映画群。この映画はアメリカン・ニューシネマという枠に収まる映画というよりもアメリカン・ニューシネマそのもの。というかコワルスキーの爆走がアメリカン・ニューシネマそのものか。鬱屈した、それゆえに反抗的な社会はただひたすらアンチヒーローを求めて止まない。だからどうしたと言われればどうしようもない。ただ、時代背景を無視した、ただひたすらに爆走する青春映画として見たってそれなりの感慨は得ることのできる映画でもある。 [DVD(字幕)] 6点(2009-05-07 13:43:49) |
560. ハプニング
《ネタバレ》 ヒッチコックの『鳥』を念頭に置いているとかいないとか。たしかに原因不明のままに人が攻撃されてゆく展開は『鳥』そのものだ(いや、敵の姿を全く見せずにここまで引きつける力は『鳥』をも凌駕している)。そして何よりも初めて画面に登場するズーイー・デシャネルのどこかいってる目はまぎれもなくヒッチコック映画、とくに『鳥』の女だ。ご親切にも「あの顔は妻になれる顔じゃない」とジョン・レグイザモに言われたあとにこのいっちゃってる目をしたズーイーが映される。しかも彼女はどうやら後ろめたい何かを隠している。そんな女は『サイコ』よろしく殺される運命にある。しかしである。どうも浮気だと思ったらティラミス(だったっけ?)を食べただけらしい。そうなると話は変わってくる。レグイザモに「守り抜けないなら触るな」と言い放たれた後に少女の小さな手をしっかりと握るその姿に少なくとも少女は死なないことを確信させる。そしてズーイーもまた少女に向ける優しい目を画面にさらけだすことで彼女の死もないことを確信させる。もともとシャマランがそんなことするはずもないのだがこの確信させてくれるシーンをちゃんと見せてくれるのが嬉しい。何故毒素が発生したのか?何故主人公たちは助かるのか?そんな野暮なことを聞いちゃいけない。それでも聞かれればこう答えるしかない。それが「ハプニング」であり「奇跡」であると。シャマランはこれまでも「奇跡」を描いてきた。奇跡に何故?はない。そして奇跡はハプニングなのだ。もしかしたら「奇跡」「ハプニング」は神の啓示かもしれないと他の作品では示唆していた。毒素発生も救済も、そして夫婦の危機も円満もまた「奇跡」であり「ハプニング」なのだ。シャマランにとってのみならず映画はこの「奇跡」と「ハプニング」で成り立つ。映画は何が起こっているかを描くものであってその意味を描くものではない。昨今、こんなにも映画に素直に向き合った作品もそうはない。この作品が酷評されることのほうが私には「何故?」である。 [映画館(字幕)] 7点(2009-05-01 14:13:23)(良:3票) |