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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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661.  映画 プリキュアオールスターズ 春のカーニバル♪
自分の“娘”と初めて映画館へ映画を観に行った。 おそらく、世の中の映画ファンの多くがそうだと思うが、自分の子どもと、初めて映画館へ行くということは、一つのビッグイベントだと思う。 あまり表立ってそういう感情は出さなかったけれど、その“イベント”に対する高揚感は、自分の中でじわじわと、確実に、高まっていた。  映画館での“初鑑賞”として観に行く映画として、まったく不満は無かった。 曲がりなりにも映画ファンとして、「観たい映画」以上に優先されるべき映画など無いことをよく知っている。 彼女が観たい映画であることが最優先だと思うし、僕自身、こういう機会でもなければ絶対に観ない映画に対する好奇心も大きかった。  映画は、前シリーズから新シリーズへの改編期のものらしく“オールスター”と銘打った、良い意味でも悪い意味でも“お祭り映画”だった。 アニメーションの技術的にも、ストーリーテリング的にも、お世辞にも「クオリティが高い」なんてことは言い難い。はっきり言って「低い」。  でもね。 そんなことは、この映画において“ナンセンス”だということを、愛娘と並んで観て、段々と思い知った。  今作の大半は、都合よく集められた歴代プリキュアによる「歌番組」のような描写で占められる。 何も知らない“オトナ”は、たぶん九分九厘「なんじゃこりゃ」と思うことだろう。  しかし、その“ミュージックステーション”よろしく繰り広げられる歌とダンスシーンを目の当たりにして、3歳の愛娘は、初めての映画館の座席の上で歌って踊っていた。  “いつも”の一人で来る映画館の場では決して見ることのない光景に、僕は一寸戸惑った。 けれど、次の瞬間には、“この映画の観方はこれが正しい”と理解した。 この映画の全く正しい観方をする愛娘を、心底微笑ましく眺めた。  それだけでも、僕のこの“映画体験”は何ものにも代え難いものだと思える。 そして、初めて映画館に訪れた3歳児に対して、そういう衝動を起こさせたこの映画の在り方は、全く正しいのだと思えた。   エンドロールまでちゃんと観終えた後、途端に「トイレ!」と言い放った愛娘を連れて走った。 作品自体のクオリティーを超越して、高い満足感を得られた。 そういうことも含めて、映画を観るという価値だということを、改めて思った。
[映画館(邦画)] 7点(2015-03-18 00:23:26)(良:1票)
662.  TOKYO TRIBE
好きか嫌いかで言えば、好き。 キャラクターづくり自体は、原作に忠実なキャラも、映画独自のオリジナリティを出したキャラも、総じて良い。 ただ、ストーリーがあまりに雑すぎた。  “こういう映画”なので、雑多なのは大いに結構だが、ストーリー展開として盛り上がりに欠けたことは否めない。娯楽映画としてのストーリー的な巧さは、もっといくらでも出せたと思う。 そうすれば、もう一味も二味も”サイコー”な映画になったろう、と大変勿体無く思う。  井上三太の原作「TOKYO TRIBE 2」は、ファッション誌「boon」での連載中から単行本を買って愛読していた。 田舎のダサい高校生だった僕が、どうやってこの漫画を知り、単行本を集めるに至ったか全く思い出せない。けれど、自分の住む世界とあまりにかけ離れたこの漫画の「欲望」と「狂気」の世界観を、まるで“いけないものを見るような”感覚で密かに楽しんでいたことを思い出す。  その欲望と狂気の世界観を園子温が撮る!という報は、かつての“いけない”感覚を呼び起こし、“ワクワク”というよりも“ドキドキ”に近い期待感を生んでいた。  結果として、この映画の監督が園子温であったことは、「成功」だったと思う。 この作品とキャラクターたちが表す、熱さも、愚かさも、可笑しさも、恐ろしさも、下らなさも、その要素は総て園子温という表現者が持つ資質に合致していた。  だからこそ、前述の“勿体無い感”が際立つ。 ストーリーは、“馬鹿”がつくほど単純でいい。「ケンカを売った」「ケンカを買った」「どちらかが勝った」それでいいのだ。 ただ、せっかく揃えた濃いキャラクターを巧く使って盛り上げて欲しかった。  プロの役者も、プロのラッパーも、出演陣が総じて良かっただけに、それぞれに印象的な見せ場や、壮絶な死に様を用意してあげて欲しかったと思う。そういう部分が軽薄だったため、映画としての盛り上がりにかけてしまっていた。   “ラップミュージカル”とイントロするだけあって、“プロ”を揃えたラップによるミュージカルシーンは、どの場面も非常にエモーショナルだった。 映画を観終わり、「サウンドトラックが欲しい!」と思えたのは久々だ。それだけでも、この映画の価値は大きいと思える。
[ブルーレイ(邦画)] 7点(2015-03-09 23:02:57)
663.  猿の惑星:新世紀(ライジング)
「まるっきり人間の歴史を繰り返しているみたい」 と、「ドラえもん のび太と鉄人兵団」でしずちゃんが言った台詞を思い出す。 「NO!」という一言から目覚め、人間の支配から独立し、“理想郷”を目指したはずのエイプたちが迎えた“夜明け”の意味が切なく、胸が痛くなった。  SF映画史上屈指の傑作である「猿の惑星」のリブートシリーズ第2弾。 前作「創世記(ジェネシス)」は、とても完成度の高い映画ではあったけれど、個人的には物足りなかった。“なんだか「猿の惑星」っぽくない”と感じてしまい、映画世界に没頭することが出来なかった。 オリジナルシリーズの大ファンなので、かの名作が携えていたSF映画的な驚きの要素が、「創世記」においてはあまり感じられなかったことが、不満足の大きな要因だったと思う。 ただ、リブート作の第一弾として前作の在り方は間違っていなかったとは思う。  そんな個人的な経緯を経た上でのこの第二弾「新世紀(ライジング)」であるが……、成る程、前作を踏まえ、“良い続編”として仕上がっていると思う。  やはり、冒頭に記した印象に尽きる。 愚かな人間の支配から脱却し、偉大なリーダーのもとで理想郷を築いたかに思えたエイプたちが辿る道筋が、悲しい。 決して越えてはならなかった一線を踏み越え、理想郷を去るしかなくなったシーザーとエイプたち。 進化による夜明けは、必ずしもいつも希望に溢れているわけではないという事実が容赦なく描きつけられている。  眩い朝焼けを受けて「覚悟」を固めるエイプ。一方、僅かに残された人間は暗闇の中へ消えていく。 次回作では、1968年のオリジナル第一作に繋がるストーリーが描かれるらしい。 果たして、彼らの「未来」はどこに、どうやって繋がっていくのか。
[DVD(字幕)] 7点(2015-03-04 23:41:45)
664.  アメリカン・スナイパー
クリス・カイルという人物の実人生の最終的な“事実”を知らぬまま、今作を観たので、映画のラスト、敢えて感情的な表現を排除して描かれた「顛末」に対して、虚をつかれた。 そして流れる「無音」のエンドクレジットを目の当たりにして、しばし呆然としてしまった。  このあまりに印象的なエンドクレジットにクリント・イーストウッドが込めた思いとは何だったのだろうか。 戦場の内外で命を落としたすべての人たちに対する鎮魂か、それとも戦争という愚かさの中で生き続ける全人類に対しての無言の怒りか。  いずれにしても、その「無音」の中に何を感じるかということを、この映画は観客に対して問うているように思えた。  この映画は、本国アメリカにおいて政治的な両極端の立場の人たちから、それぞれの思想において賞賛され、また批判されている。 それは両極の者たちが、あまりに利己的に自分の考えをこの映画に重ね合わせ、都合よく解釈している結果だろう。  ちゃんとこの映画を観た人ならば極めて容易に理解できることであると思うが、監督がこの映画に込めたものは、戦争の正当化や戦意の高揚でもなければ、安直な戦争批判でもない。  これは、現在のこの世界に生きる一人の男の「運命」の物語だ。 一人の男が、アメリカという国に生まれ、父親に育てられ、成長し、愛国という名の正義に盲進し、妻となる女性を愛し、戦場に立ち、子を授かり、また戦場に行き、人生に苦悩する話だ。  その一人の男の虚無的な瞳の中に如実にあらわれた戦争というものの真の様。 それは、正義も悪もなく、“それ”を起こした「世界」に対する罪と罰だと感じた。 「敵国」とされる側のスナイパーにも、主人公同様に家族がいるのだ。   この映画で描かれた「事件」が発生してから僅か2年、製作期間としては実質1年余り。 そのあまりに短い期間で、これほどのクオリティーの戦争映画を撮り上げてしまうクリント・イーストウッドという映画人は、その信念の強さもさることながら、やはり「映画」そのものに愛されていると思わずにはいられない。  そして、この映画の「現実」が今なお続くこの世界の“日常”だからこそ、完成を急いだ製作陣に賞賛を送りたい。 
[映画館(字幕)] 8点(2015-02-24 23:30:15)(良:2票)
665.  ゴールデンスランバー(2009)
「逃げる」ということは、大抵の場合否定される。「逃げるな、負けるな」ということを言われ続けて生きている人がほとんどじゃないだろうか。 果たして、それが正しいのかどうかは分からないけれど、この映画の物語が描いているのは、まさにその当然とされる風潮へのアンチテーゼだ。  首相暗殺の陰謀に巻き込まれた主人公。ひたすらに逃げ続ける主人公に対して、彼を知る周囲の人間は、「逃げろ、勝とうとするな」と彼に言い続ける。 無実の人間が巨大な陰謀に巻き込まれるというプロットに、通常求められることは、「報復」そして「真相解明」である。 しかし、この物語は、主人公が苦難を乗り越えながら、巨悪へと立ち向かうという予定調和を無視し、ひたすらに「逃げる」ということのみの描写を貫く。  「逃げる」ということを肯定し、それを真っ向から描く究極の逃亡劇の中に、主人公の運命と周囲の人間との”関わり合い”を織り交ぜ、最高のエンターテイメントを描き出したことが、伊坂幸太郎の原作の凄さだ。  面白い原作に対してその映画化が成功する可能性は、実際極めて低いと言わざるを得ない。それが娯楽作品であれば殊更だろう。 原作を読み終えた時に、「映画化するなら主人公役は堺雅人だな」と思い、その通りの配役が実現した報を聞いても、期待をする反面、危惧は拭えなかった。  が、その危惧は、主人公が逃げ始めた途端に、ものの見事に一掃された。 ほぼ完璧な伊坂幸太郎原作の映画化作品だと思う。 何よりも良かったのは、やはり「配役」だ。個人的に熱望した堺雅人はもちろん良かったが、脇を固めるその他の俳優達が、見事に原作に登場するキャラクターに適合していた。  原作が素晴らしいほど、その映画化作品には違和感が生まれるもので、どうしても居心地の悪さが生じることは多くの場合否めない。 しかし、ベストな配役と、原作の世界観をきちんと踏まえた演出により、非常に居心地の良い映画世界を構築してみせたと思う。 予想以上に完成度の高い映画世界の中で、とても幸福な時間を過ごすことが出来た。
[映画館(邦画)] 10点(2015-02-19 23:20:26)(良:1票)
666.  ゲノムハザード ある天才科学者の5日間
今やトップ俳優の地位を確立した西島秀俊を主演に配し、韓国人スタッフを中心にしたサスペンス・アクションということで、一定の期待はしていたのだけれど、どうやらどこまでいっても日本製の娯楽大作というものは世界標準に遠く及ばない作品しか生み出せないらしい。 韓国映画界も、さすがに右から左まで手練揃いというわけではないようだ。  どういう経緯での日韓合作なのかよく分からないけれど、西島秀俊のアジア向けプロモーション映画という範疇を出ない作品だ。これを観て喜ぶのは、ミーハーな彼のファンだけだろう。  原作小説の物語の完成度は実はもう少し高いのかもしれないけれど、少なくともこの映画化作品において、取ってつけたようなストーリーテリングの連続に対して、サスペンスとしても、ミステリとしても、ドラマとしても、終始チープさを感じ続けてしまった。  エピローグも何やら綺麗めな着地を演出しようとしていることは伝わってくるが、まあ完全に失敗していると思う。 あと、個人的に伊武雅刀の“あいいう役柄”は、もう散々見飽き過ぎていて、本人のパフォーマンス自体の精度は別にして、ただただ陳腐にしか見えない。  最終的には2時間サスペンスドラマのオチのような顛末に失笑してしまう。
[CS・衛星(字幕)] 3点(2015-02-15 20:47:24)
667.  ザ・タワー 超高層ビル大火災 《ネタバレ》 
災害パニック映画好きとしては、是か非かは別にしてとりあえず“語りがい”のある映画であったことは間違いない。  映画史上において数多の災害パニック映画が存在し、その中でも特に名作の誉れ高い「タワーリング・インフェルノ」の“モロパクリ”映画であることに否定の余地はないけれど、同時にまず最初に評価しなければならないこともその部分だと思う。 パクリだろうが、類似品であろうが、れっきとした災害パニック映画として堂々と仕上げている事実に、アジア諸国の中では抜きん出た韓国映画界のエネルギーを感じる。   とういわけで、今作がちゃんとした災害パニック映画だからこそ、災害パニック映画ファンとして、大いに「苦言」を呈したい。  何と言っても気に入らなかったのは、“死亡フラグ”の処理の曖昧さだ。 描き出されるストーリーは、いい意味で捻りのない王道的なものなのだから、そのせっかくの“ベタ”さを徹底して欲しかった。  この手の災害パニック映画ではお決まりである序盤の群像の人物紹介シーンにおいて、善玉と悪玉のキャラクターたちが揃えられてくる。 観客としては、この序盤のシーンの時点で、「ああコイツは初っ端に死ぬな」とか「コイツは惨めな死に方をするな」とか、「この人は英雄死するんだろうな」とか、極めて不謹慎な予測をすることも、パニック映画を観る際の醍醐味である。  今作においても、割と分かりやすい人物描写で、きちんとその“死亡フラグ”は立てられていたと思う。 にも関わらず、最終的のその処理のされ方があまりにずさんだった。  特に悪役における“処理”が、とても気に食わなかった。 ネタバレになってしまうが、この映画では明確な悪役が幾人かいるのだが、その内の筆頭とも言える“二人(二組)”が、のうのうと生き残るという顛末は、パニック映画の王道的観点からしてみればあり得ない。 更にネタバレ覚悟で言及するならば、コメディリリーフとして一貫していい味を出していた“司祭さま”が死んで、高慢な“議員夫婦”(特に悪妻!)が逃げおおせるなんて、どんな神経で描いているのかとすら思ってしまった。  韓国俳優ならではの内面的な“濃さ”が効いて、善玉も悪玉も各キャラクターそのものには総じて味わい深いものがあっただけに、文字通りに“生かされ方”と“死なされ方”に対して大いに腑に落ちない点が残ってしまったことは至極残念。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2015-02-14 21:12:28)
668.  セッションズ
“性行為”に対しての葛藤。それは人間として、いや生物として、誰しもが通る通過儀礼。 勿論それは、身体障害者にとっても同様なことなのだけれど、臆病な社会は、そういうことからついつい目を背けがちだ。  この映画は、「障害者と性」という、浅はかな固定観念を持っていては踏み込みづらく、表現しづらい「題材」に対して、真摯に向き合い、ドラマとユーモアとエロティシズムを絶妙なバランス感覚で表現してみせた“傑作”と言えると思う。  この映画が素晴らしいところは、身体障害者である主人公の境遇に対して、必要以上に“同情”を誘っていないことだ。 主人公のマークは、幼少時からポリオによって全身麻痺となってしまった障害者である。呼吸補助のため、一日の大半を“鉄の肺”と呼ばれる呼吸器の中で過ごさなければならない。 けれど、彼の生き様には決して“悲しみ”が表れていない。自分の境遇を受け入れ、自立し、常に自分の人生を自分自身で歩もうとしている。 そんな彼の人生観が、そもそも勇気に溢れていて、観客は映画の冒頭から主人公の魅力に引き込まれる。  主人公の魅力が序盤からしっかり描かれるからこそ、この難しい「題材」の映画は、ある意味とても普遍的な「童貞喪失映画」に仕上がっていて、とても眩く、とても楽しい。 主人公の身体的特徴を度外視して、特に男の観客は、彼の“童貞喪失”の顛末に対して、己の事のように一喜一憂するだろう。  殆ど顔の動きのみの演技で主人公マークを演じきり、彼の人間的な魅力と、その人生の喜びと悲しみを余すこと無く表現してみせたジョン・ホークスの演技は素晴らしかった。  そして、こういうセンシティブな映画だからこそ、敢えてこう特筆したい。 “ヘレン・ハントのおっぱいが美しい”と。 主人公の相手役となるセックス・セラピストを演じたヘレン・ハントもまた素晴らしかった。 撮影当時49歳らしいが、このアカデミー賞女優の堂々たる脱ぎっぷりと、年齢を重ねても変わらない彼女独特の愛らしさがあったからこそ、この映画は成功していると強く思う。  勇気と慈愛、人間の営みにまつわる輝きに溢れた幸福な映画だ。   BS(WOWOW)放送だったからか必要以上に“ぼかし”が大きかったことは、演者たちの心意気を妨害しているようで、とても残念だったけれど。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2015-02-14 00:28:52)(良:1票)
669.  新しき世界 《ネタバレ》 
ラスト、辛辣な運命に導かれるままに、ついに望まぬ“椅子”に収まった主人公。“新しき世界”を眼下に見下ろし、彼は何を思ったのだろう。 一見、彼の表情は自らの運命に対しての苦悩に苛まれているように見える。 しかし、その先のシークエンスで、彼の中にはそういった苦悩とはまったく別の感情が巡っていたのだろうことが分かる。 ラストのラスト、この映画で主人公が唯一見せる或る“表情”。 観客も、主人公自身もはたと気づく。 彼にとっての“新しき世界”は、とうの昔に始まっていたことに。  いやあ素晴らしい。毎度のことながら、韓国映画には新鮮に感服させられる。 監督の巧さ、俳優の巧さ、撮影技術の巧さ、すべてが高水準であることは間違いなく、総じて「映画づくりが巧い!」と言わざるをえない。  特に個人的に思うのは、ラストシーンの絶対的な巧さだ。 今作においても、ラストシーンの映画的巧さによって、作品自体の質を格段に上げている。 韓国映画のつくり手たちは、本当に映画という“娯楽”をよく理解していると思う。  そして、俳優たちが演じるキャラクターの“実在感”がまた凄い。 一人ひとりの顔つきに、各人物の人生模様が如実に現れていて、細かい人物描写がシーンとして無くとも、彼らがどういう人生を歩んできたのかが見えてくる。  嘘で塗り固められた人生を歩んできた主人公は、「真実」という“偽り”をすべて捨て去り新世界の支配者となる。 その彼の表情が苦悩に満ち溢れていたとしたならば、それはやはり、新世界の景色を共に見下ろすべき存在が誰であったかということに、ようやく気付いたからだろう。 その「孤独」に心が揺さぶられる。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2015-02-08 10:39:18)(良:2票)
670.  NO
“成し遂げたこと”の価値が大きいほど、その当人は感情の置き場所に戸惑うものかもしれない。 主人公一人が信じた「目的」を果たし終えた後、それまでと変わらずに広告を作り続ける彼の瞳が印象的だった。  独裁政権下のチリでようやく許された反対派CM放映の権利。 自らも国外追放を経て帰国した広告マンが、反対派に与し体制の転換を目論む。 事実は小説よりも奇なりとはよく言ったもので、長きに渡り恐怖政治で支配を極めていた独裁政権に対峙する主人公が、あくまでも広告マンとしての戦略・知略を尽くすさまがとてもユニークで興味深い。  恐怖や不幸に打ち勝つものは、それによる悲しみや苦しみを訴えることではなく、それを一蹴する多幸感と未来だということを、この映画は雄弁に物語る。  勿論、現実はそう安直なものではない。 実際に圧政に苦しんだ人々の苦悩はそう簡単に振り払えるものではなく、すぐさま“未来志向”になれるわけではないだろう。 ただし、たとえそのCMを見ていた一時だけでも、打ちひしがれた心が和らいだなら、そこから未来は開ける。  「今、この国は未来志向だ」  主人公がプレゼンの前の常套句としているように、重要なのはこれから見るものが「未来」であると意識することだ。 「NO」という主張と選択。その価値と可能性を“真実”というエンターテイメント性で彩った快作。
[映画館(字幕)] 7点(2015-01-19 22:24:14)(良:1票)
671.  ダンサー・イン・ザ・ダーク
あくまでも徹底的な悲劇に私の心は揺らぎっぱなしだった。基本的に悲劇は苦手だし好きではないのだけれど、この映画が描くものはもはや好きとか嫌いとかそういうレベルではない。辛い現実を覆い隠そうとするかのような濃厚な幻想でのダンスシーン。哀しいまでに躍動的に歌い踊るその姿は、誰が何と言おうとも私は「幸福」そのものだと言いたい。幻想であろうと何であろうと、彼女が生きぬいたその様は、「悲劇」さえも越えた深い深い「幸福」だったに違いない。
[映画館(字幕)] 10点(2015-01-18 08:24:28)(良:1票)
672.  百円の恋
「最高」だ。何が?って、「安藤サクラ」に決まってる。  “どん底”が住処の女。ヤケクソで始めた一人暮らしから、悲惨な処女喪失と失恋が更に追い打ちをかける。 鬱積という鬱積に呑み込まれそうになったとき、彼女はそれを振り払うように、ひたすらに拳を振るい始める。 振るう拳の速度が上がるほどに、彼女は生気を取り戻し、美しくなっていくようだった。  見紛うことなき“サイテー”の状態からの、ささやかだけれど格好良すぎる“ワンス・アゲイン”。 こんな「女性像」を体現出来るのは、いまやこの女優をおいて他にいるわけがない!と、心底納得させられる。  2年前に「愛のむきだし」と「サイタマノラッパー2」を観て以来、安藤サクラという女優の“本物感”はひしひしと感じていたけれど、どうやらここにきてこの女優はとんでもない領域に達してきているようだ。 爆笑問題の太田光が激賞していたように、「バケモノ」という表現が相応しい。  “汚れる”ことが出来る良い女優は他にも沢山いる。 でも、醜いまでに汚れると同時に、可笑しさと、愛くるしさと、格好良さ、さらにはエロティシズムまでも孕ませることが出来る女優は唯一無二だ。 今作ではその上に、驚愕の身体能力まで見せつけてくる。その存在感は他のどの女優にも当てはまらない。まさに「バケモノ」だ。  この映画は、キャッチコピーの通りに呆れる程に痛い恋愛映画であり、遅すぎる青春映画であり、過去最高級のボクシング映画である。 ただ、それらを全部ひっくるめて、最高の“安藤サクラ映画”と表すのが最も相応しかろう。
[映画館(邦画)] 9点(2015-01-17 23:38:28)(良:2票)
673.  劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語 《ネタバレ》 
2014年の大晦日を迎えるのと時を同じくして、“叛逆”の物語を観終える。 しまった。一年間の大詰めのこのタイミングで観るにはあまりにインパクトが大きすぎた。  主人公の神々しいまでの「慈愛」をもって、“正義の味方”の根本的な存在性を守り切って終幕したテレビシリーズからの[新編]。 それに「叛逆の物語」と銘打った理由が明確になったとき、あまりに悲しく予想外な展開に対する衝撃と共に、この物語世界の本当の主人公が誰であったかということに気づき、“彼女”の希望と絶望の真理を思い知る。  あまりに残酷、あまりに悲壮、そのストーリーテリングと表現方法は、もはや狂気の沙汰と言って過言ではない。 しかしそこに物語の展開的な理不尽さは無い。テレビシリーズの最初から、この顛末に対しての布石は確実に打たれており、必然性を着実に育んでいた。その物語構成が本当に見事過ぎる。  思い返してみたならば、“彼女”は一度も「正義」のために戦ったことはなかった。“彼女”が戦う理由は、終始一貫ただ一つだけ。 ただ一つの戦う本当の理由を失い、それでも一人“記憶”を持ち続けて戦いの場に身を投じるしかなかった悲しき魔法少女がダークサイドに落ち込むことは、むしろ必然だったろう。  「残酷」の更にその先に存在した、狂おしいまでに純粋な愛と、それに伴う純粋な闇。 着地した場所は、「暴走」と「破滅」がもたらしたまったく新しい世界。 それは、正義や秩序とは程遠い偽りの世界。 けれど、深淵な闇そのものとなった魔法少女の“魂”を否定することなど誰も出来ない。 もし彼女を救うことができるとしたならば、それはやはり……。  この物語は、光と闇に等しくまみれた最高のエンターテイメントだ。
[CS・衛星(邦画)] 10点(2014-12-31 10:28:03)
674.  劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編] 始まりの物語
とても“意地の悪い”アニメだ。 いかにも少女向けっぽいタイトルとキュートでロリータなキャラクター造形から映し出されるあまりにダークで辛辣な物語世界。 意図的に導き出されたその“ギャップ”は、意地悪で、もはや「悪趣味」に近い。 なるほどこりゃオトナ向けだ、つーかとてもじゃないがコドモには見せられない。  この手のテレビアニメに不慣れなので、そっち方面の声優陣のいかにもな表現方法と台詞回しに対して、嫌悪感に近い居心地の悪さを感じてしまったことは否めない。 が、意地悪な制作陣の狙い通りのショッキングシーンを目の当たりにして、まんまと目が離せなくなってしまったことも事実。  昨今のアメコミ映画が、ヒーローたちのインサイドをえぐり出すことによってファン層を拡大させてきたことと同様に、今作が目指したのはまさに“魔法少女”のインサイドに対する徹底的な追求なのだろう。  「前編」だけではまだ作品として懐疑的な部分も多いが、この先どういうストーリーテリングを見せるのか、興味は高まった。 表面的な嫌悪感が一転して、ハマってしまう可能性は大いに感じている。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2014-12-30 19:07:38)
675.  劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [後編] 永遠の物語 《ネタバレ》 
どこかで予感していたことではあったけれど、この「劇場版」と銘打たれた“総集編”のクライマックスを観ながら、一つの「後悔」を感じずにはいられなかった。 それは勿論、このアニメのテレビシリーズ本編を先に観なかったことへの後悔だ。 結果的に、“総集編”だからという違和感はそれほど感じなかったけれど、やはりカットがないシリーズ本編をじっくり観るべきだったと思わずにはいられなかった。  というわけで、「前編」を観終わった時点で感じていた期待感の通りに、表面的なルックに対しての嫌悪感は早々に転じ、極めて興味深いテーマ性と、作品としての新しい価値観に溢れた秀逸なアニメーションだったと思う。 今更ながら、多くのオトナたちがこの“魔法少女アニメ”にハマった理由が納得できた。 この手のアニメ作品に造詣が浅い者ほど、その衝撃は大きく、ちょっと忘れられない新鮮な印象を抱いたことだろう。  “正義の味方”として存在する者が、「希望」を頂き続けることによって自らのインサイドに潜む「闇」を深めるという業苦。 その描写は、あまりに残酷で辛辣過ぎるけれど、「正義」の名の下に「奇跡」を司るということの本質はそういうことで、「真理」なのだと思えた。 そして、その「真理」を認め踏まえた上で、それでも「愛と勇気」を貫き、世界と現在過去未来総ての魔法少女たちの存在性そのもの守ってみせた主人公の壮大な慈愛に心が震えた。  「希望」と「正義」を志したキャラクターのすべてがハッピーエンドに至るわけではない。むしろ、魔法少女たちは終わりのない戦いをこれからも強いられ続ける。それこそ「永遠」に。 最後まで非常に厳しい悲壮感をこの作品は突きつけてくる。 ただしそこには彼女たちの悲壮感と共に、自らの運命と宿命を受け入れた覚悟とプライドが満ち溢れいた。 年齢とか性別とか趣向とか、知らず知らずのうちに縛られている価値観を一蹴する“熱い”作品だ。 
[CS・衛星(邦画)] 9点(2014-12-30 19:01:54)
676.  言の葉の庭
7年前に観た「秒速5センチメートル」は、最高に好きだった。 観たことが無い程のクオリティーのアニメーションによる美しさと儚さに胸が詰まった。 “新海誠”というクリエイターに類い稀な美意識と可能性を感じた。  が、残念ながらこの作品では、以前のような感動を殆ど感じることが出来なかった。  映し出される映像世界は相変わらず美しい。むせび泣くように降り続ける雨に包まれた街並は、さめざめ物悲しくもあり、美しい。 ただ、正直なところ、特筆すべきはそれだけの作品に終始してしまっている。  ネックとなった要素は、「青臭い」の一言に尽きる。 雨に濡れた新緑の臭いがそのまま漂ってくるように、ただただ青臭い。  経験に乏しい多感な高校生を描いているわけだから、そうなってしまうことはある意味必然だったとは思う。勿論、青臭くても良い映画は沢山ある。  でも、今作においてはその未成熟さが、どこまでいってもただ“浅はか”に映るだけで、徐々に不愉快にさえ見えてくる。  そしてそれは、次第に制作者自身の青臭さに直結しているように見え、紡ぎ出される言葉も、映し出される映像も、安直な自己満足に見えてきてしまった。  ただそれは、自分自身もしばしば陥ってしまいがちな“語り口”で、己の感受性の豊かさを他者に示したいという素人臭い願望の表れの重なるようで、少々身につまされた。  まあ、そんな”素人臭さ”と重なるようでは、やはり駄目なわけで。  主人公の高校生は、密かに靴職人を目指していて、そんな自分の夢と現実社会の厳しさ(のようなもの)との狭間で思い悩んでいる。 その描かれ方は、いかにも夢と現実の折り合いをつけている風だが、実際のところは決してそうではなく、その“折り合い”も含めて葛藤している自分自身に酔っているように見えて仕方なかった。  「靴職人」ってそこまで特殊な仕事かよと思うし、それなら「ヴァイオリン職人」を目指して“青臭さ”全開で突っ走る“天沢聖司”の方がよっぽど偉いわ!とまったく関係ない比較をしてしまった。  とにかく、現実の辛辣さを描くふりばかりで、結局は綺麗事を並び立てたばかりに見える映画世界に対して、まったく感情移入が出来なかった。
[CS・衛星(邦画)] 2点(2014-12-27 00:13:17)
677.  黒薔薇の館
この現世に「魔女」というものが存在するのならば、それは丸山明宏(美輪明宏)のことだと思う。 ちょうど10年前に、今作と同じく深作欣二監督作、丸山明宏主演の「黒蜥蜴」を初めて観た時と同様に、そう感じた。  インモラルなオープニングクレジットを皮切りに、その唯一無二の「存在」に圧倒され、陶酔してしまった。 それはまさに、「性別」という“脆い”概念を超越した「魔女」そのものだ。  勿論、日本には過去にも現在にも優れた「女優」は数多いと思うが、他のどの「女優」がこの映画の主人公の「女」を演じても、丸山明宏を超える存在感を出すことは出来まいと確信してしまう。 それくらいにこの映画と主人公「竜子」というキャラクターは、丸山明宏のためのものだったと言え、彼がいなければ作品自体が存在すらしなかっただろうと思える。 実際、「竜子」という女が、謎に満ち溢れながらも数多の富豪・文化人を虜にしていく様は、年齢・性別不詳で売りだした彼自身のデビュー当時の様そのものだ。  謎の女「竜子」に群がる男どもの面々がこれまた濃い。 男たちが、女に翻弄され人生を崩壊させていく様は、滑稽で禍々しいけれど、あまりに非現実的なこの「女」の妖艶さの前には、それも致し方ないと思えてしまう。 小沢栄太郎、西村晃ら熟練者の存在感は言わずもがなだが、やはりその群がる男どもの中で最も印象的だったのは、若き田村正和だ。  当時二十代半ばの田村正和は、あまりに瑞々しくて一寸誰か分からなかったけれど、“発声”した瞬間に彼と分かる喋り方は、今と全く変わらない。 映画の終盤は、丸山明宏演じる「竜子」と田村正和演じる「亘」との愛の逃避行へと突き進んでいくわけだが、両者の独特の口調が絶妙に混ざり合い、会話そのものが淫靡でクラクラしそうだった。  ストーリー自体は至ってシンプルでむしろ凡庸と言える。しかし、そこに息づくあまりに稀有な「存在」によって、唯一無二な映画に成っている。  今作もソフト化されていないらしい。「黒蜥蜴」と同様に早急にソフト化を求む。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2014-12-24 23:25:00)
678.  オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主
タイトルが示す通り、なんとも「奇妙」な映画だった。 それは霊やら死神やらが登場することによる奇妙さではなく、娯楽映画として妙なバランスを見せる映画だったということ。  監督は、「ハムナプトラ」シリーズのスティーヴン・ソマーズ。愛すべきベタなB級テイストを根底に敷きつつ、小気味良い娯楽大作を毎度提供してくれる、娯楽映画好きとしてはとても信頼できる監督の一人である。  そんな監督に対する信頼感も持ちつつ今作を観始めたが、序盤から様子がおかしい。 映画のつくりが全編通してチープで、製作費がかけられていないことは明らかだった。 ストーリーもなんだか薄っぺらいというよりも、綻びまくりで“おざなり感”が半端ない。 「なんだこりゃ」と蹴散らしてしまっても仕方ないくらいの表面的なクオリティなのだが、同時に不思議な愛着も感じてしまっていた。 出来は極めては悪いけれど気になってしまうという不思議な魅力があったことは確かだ。   主人公を演じたアントン・イェルチンは、リブート版「スター・トレック」の“チェコフ君”役が印象的な若手俳優だが、今作ではなかなかどうしてナイスガイなヒーローぶりを披露してくれている。 憂いを秘めた眼差しは、「ロード・オブ・ザ・リング」のイライジャ・ウッドを彷彿とさせ、今作の役どころには相応しかったと思う。 歳を重ねることでもっと味わいが出てきそうな俳優なので、これからもっと化けそうだ。  ヒロイン役のアディソン・ティムリンも非常に魅力的だった。彼女の魅力が破綻ギリギリのこの映画を繋ぎ止めていたと言っても過言ではない。ラストの顛末も含めて、非常に印象的な余韻を与えてくれている。   どうやら製作過程においていろいろな弊害があったらしく、やっとのことで製作・公開に至った模様。 それでも一つの個性を映画に加味してみせたスティーヴン・ソマーズのエンターテイメント力は流石だと思う。が、製作環境が確保されていたなら、それこそ「ハムナプトラ」並みの人気シリーズにもなっていたかもしれないと思うと少し残念にも思う。 (「ハムナプトラ」といえば、“イムホテップ”のウケ狙いの地縛霊には爆笑してしまった。)
[CS・衛星(字幕)] 5点(2014-12-21 01:28:48)(良:1票)
679.  トラック野郎 御意見無用
物凄くとっ散らかっていて雑で下品な映画である。 しかし、主演俳優のほとばしる「熱量」のみで、無双の娯楽映画に仕上がっている。 諸々の表現やストーリー展開も含めて、決して褒められた映画でないことは明らかだろう。 でも、この映画に当時の多くの観衆が魅了されエネルギーを貰っただろうことも明らかだ。  何をおいても語るべきは、「菅原文太」だろう。 “一番星”という役名の通り、菅原文太という俳優の“映画スター”としてのパワーが凝縮された映画だった。 どんな障壁も、どんな失意も、トラック一つで突っ切って豪快に笑い飛ばす。 その姿はまさに反逆のカリスマであり、役柄を超えて菅原文太という人間そのものの生き様に繋がっているように思えた。  2014年11月、そんな大巨星が墜ちた。世代を超えたすべての映画ファンにとってあまりに悲しい出来事だった。 ただ、僕のような若輩者は、今作もしかりまだまだ観られていない菅原文太映画は数多い。それは映画ファンとして幸福なことだと思うし、死してなお銀幕の世界で生き続けられることこそが、映画スターの価値だとも思う。  この稀代の映画スターは、この先もずっと「一番星」として輝き続けることだろう。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2014-12-21 00:35:17)
680.  ブルージャスミン
ケイト・ブランシェット。現役俳優の中で最も「大女優」という呼称が相応しいと言ってもはや過言ではないだろう。 十数年来この大女優の大ファンで、彼女の出演作品を長年観続けているが、今作がキャリアNo.1の演技であったことは間違いない。 その演技を引き出したのが、ウディ・アレンである事実に、やはり“女優づかい”においてこの女好き監督に敵う者はいないと思い知る。    この映画は、喜劇だろうか、悲劇だろうか。 高慢と虚栄の果てにすべてを失った主人公ジャスミンの言動は、愚かで滑稽だ。その姿には、思わず笑わずにはいられない。 ただし同時に、栄華の極みからド底辺まで叩き落とされた彼女のさらにその先の顛末は、生き地獄そのもの。その姿には、思わず胸が締め付けられる。 詰まるところ、この映画は、喜劇であり、悲劇だ。 ありふれた言い回しを敢えて使うなら、人間の人生は悲喜劇そのものであり、描き出されるそれが生々しければ生々しいほど、喜劇と悲劇は同封されるのだろう。  主人公ジャスミンは、サイテーな人間である。それは間違いない。 けれど、だからといって彼女は「悪人」だろうか。彼女の人生を簡単に断罪できる人間が、この世の中にどれほどいるというのだろうか。 多かれ少なかれ、誰にも「虚栄心」はあるものだ。「嘘」は人間が自分を守るために許された特権かもしれない。 「サイテー」と蔑みつつも、少なくとも僕は、彼女のことを真っ向から否定することができなかった。  「栄枯衰退」なんて言葉にすれば簡単だが、それを己の身一つで体現することは生半可なことではない。 今作の“大女優”が素晴らしかったのは、栄華を極めた過去のシーンも、落ちぶれた現在のシーンも、一貫してメイクや衣装を変えずに、「虚栄」に埋め尽くされた女を演じきっていることだ。 同じ衣装やメイクが、ほとばしる鬱積とともに、みるみるくたびれ、劣化していくようだった。 「演じる」というのは、こういうことかと身が震えた。  監督の非情さを呪いたくなるくらいに、ラストはあまりに辛辣だ。 ただ、そのラストがまた主演女優の演技ともども素晴らしい。
[映画館(字幕)] 9点(2014-12-20 12:36:10)(良:1票)
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