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やましんの巻さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 731
性別
自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


…………………………………………………


人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


…………………………………………………

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61.  神の子たち
ドキュメンタリー作品を見ていて、どんなに悲惨な情景であろうとカメラを向け続ける作り手たちの“勇気”や“覚悟”に感嘆すると同時に、心のどこかでそんな「他人の不幸」を直視することの“やましさ・うしろめたさ”を感じずにはいられない。ましてや、その「不幸」に涙することなんて、許されるのだろうか…と。  フィリピンの巨大なゴミ山でくず拾いによって生計を立てる3組の家族。だが、山の崩落事故によってゴミの搬入が止まってしまい、彼らは生活の糧を失ってしまう。 もともと貧しかった彼らを見舞う、さらなる困窮の日々。近所で米を分けてもらい、塩だけで食べる夕飯(父親は幼い娘に、「おかずがなくてゴメンよ」と詫びる…)。ゴミ捨て場の片隅にイモを植え、「泥棒するくらいなら、飢え死にする方がいい」とつぶやく少女。汚染された中で生活するゆえ障害児や未熟児も多く、せっかく産まれてもすぐ死んでいく赤ん坊になすすべもない両親。そして、水頭症で寝たきりの少年を、それでも懸命に育てようとする家族たち。 …そんな、あまりにも苛酷な日常を、カメラはただただ追い続ける。  それを、何て無慈悲な行為だと思うだろうか。カメラを向ける前に援助したらどうなんだ! と。 けれど映画を見ているぼくたちは、彼らが生死ギリギリの生活のなか、親がどれほど子どもたちのことを想い、子どもたちもそんな親の想いをしっかりと受けとめているかに、いつしか心からの敬意を抱くようになる。家族の、人間としての、真の尊厳と愛を彼らのなかに見出していく。 そして気づくのだ、このぼくたちの、彼らに対して抱く敬意と賛嘆の眼差しこそ、この映画の作り手たちのものだったのだと。監督やカメラマンたちがこの3組の家族を通じて、人間の本質がやはり〈善〉だったことを知っていく過程こそ、この映画の主題だったことを。  映画の最後、水頭症の少年アレックス君が、笑顔のままひと粒の涙を流す。その涙の美しさは、間違いなくぼくたちの魂こそを“救済”してくれるだろう。同情や憐れみだなんて、とんでもない! ぼくらの方こそが、彼らに「救われる」のだ。  こんな世の中だからこそ、ぜひこの映画をご覧になってください。
10点(2004-07-14 19:35:20)(良:1票)
62.  エンジェル・アット・マイ・テーブル
↑の【ひのと】さんの作品紹介で、あることを思い出した。リルケもまた、かつてセイシンブンレツビョウと呼ばれていた“心の病い”のぎりぎり寸前で、常に踏み止まり続けていたことを。  統合失調症の危機を迎えた人は、ある時、それまで散々悩まされてきた幻聴や幻覚などがふいに治まってしまうのだという。とは言え、それは治癒ではなく、逆に症状が激烈に悪化する直前の状態…「嵐の前の静けさ」にすぎない。たいてい、この状態はたちまちにして終わってしまう。しかしリルケは、例外的にこの状態のまま生き続けたのだった。  その「静けさ」とは、ちょうど夏休みの学校の誰もいない校庭のセミしぐれが、不思議と静かな印象を与える、あの感じに似ているんだろうか? ひしめきやざわめきが、むしろ世界の「沈黙」を際立たせる…。リルケの詩とは、そんな「沈黙」から産まれた。  この映画の主人公であるジャネット・フレイムも、実はそうしたざわめきと「沈黙」のはざまにとどまり続けた人だったのではないか。実際に彼女はセイシンブンレツビョウとされ、病院で何年にもわたって過酷な…というより非人道的な“治療”を受けさせられる。普通なら、これだけで精神が荒廃しかねないほどの仕打ちを。しかし、彼女はこの「沈黙」に耳をすませ続け、それを言葉にした。  ジェーン・カンピオンのこの映画は、そんな彼女が聞いた「沈黙」を、ひしめきとざわめきの中からうまれる「静けさ」を、フィルムにとどめようとする。そしてそれは、確かに成し遂げられたのだと思う。何故なら、ぼくもまたこの映画を見ている間じゅう、その「沈黙」を、あの、詩が産まれる前の声なき「言葉」を、聞いたように思えたのだから。  …その「沈黙」、その声なき「言葉」こそが“天使”のものであるのなら、この映画は天使たちのそうした「沈黙」や「言葉」で満たされている。ぼくたちはそんな「沈黙」を聞き、「言葉」を感じ取ることができるだろう。画面の端々に、“天使たちの息吹き”を感じ取ることができるだろう。だからこそこんなにも悲しく、美しく、そして強いのだ。  これは、ひとつの“エピファニー(顕現)”としてこの世に遣わされた「天使的作品」 にほかならない。
10点(2004-06-26 13:40:50)
63.  わが谷は緑なりき
炭坑で働く屈強な兄貴たちが、ひ弱な末っ子にケンカの仕方を教えたり、何かとさりげなく気を配る。 ああ、これってジム・シェリダン監督が『マイ・レフトフット』で美しく“再現”していたなぁ…と、しみじみ思い出す。 その末っ子がある日病気で立てなくなり、神父の励ましにより、大きな樹の下でよろよろと立ち上がる。 …少なくともこの映画を見ている間は、これ以上崇高なシーンなど、これまでもこれからも絶対にあり得ないとかたく信じ込む。 そして、主人公一家の長女を演じるモーリン・オハラの、何という美しさ! 彼女こそ映画の中で描かれた最高の女性だと、これも見ている間じゅうぼくは狂おしく“恋”してしまう。  この世界が耐え難く醜く思えたり、自分を含めた人間が嫌いになった時、ぼくはいつもこの映画に「還る」。そうすると、ふたたび生きていけるような気がする。 そういう意味において、これはぼくにとっての「理想の映画」に他ならない。ジョン・フォードにとっても、この作品よりも完成度の高いものや優れたものはあるだろう。ぼくだって他に好きな作品、感服する作品はいっぱいある。けれど、間違いなく、この映画は「特別」な一本なのだ。単なる「映画」としてでなく、「人生」においての。  ところで、貴方にとって「映画」とは何なのでしょう?
10点(2004-06-21 21:57:38)(良:4票)
64.  フラットライナーズ(1990)
映画の中で、臨死体験ののちに様々な過去のトラウマの「実体化(!)」に悩まされる医学生たち。その中のひとり、子どもの頃にいじめた女の子への罪の意識に追い立てられるケビン・ベ-コン扮する青年は、あらためて彼女の家を訪ね、心から赦しをこう…。  彼女が青年の謝罪を受け入れて、ぎこちなく微笑を浮かべた時、ぼくは不覚にも涙がとまらなかった。…そう、ぼくもそんな「女の子」を知っている。小学6年生の時の同級生で、クラス全員の男子から嫌われいじめられていた彼女。ぼくもまた、友人がふざけて頭に被せた彼女のカーディガン(赤い色だったこと、左わきのところが少しほころんでいたいたことまで覚えている…)を、床に叩き付けたことがあった。その時は何も思わなかったのに、笑っている友人たちの顔と、黙ってそれを拾い上げる彼女のことは、その後もふとしたことで蘇ってくる。…繰り返し、何回も、何回も。 …あまりにも「個人的」な、他人にとっても、映画にとってもどうでもいいことだろう。けれど、ぼくにとっては何よりも切実な「記憶」にこの作品が触れたこと、そして、映画のなかであの青年が赦された時、ぼくもまた「救われた」気がしたことだけは記しておきたいと思う。ぼくには、あの彼女の所に赴き、昔のことを謝罪する“勇気”などない。しかし(というか、だからこそ)青年に自分を重ねあわせ、見ている間だけは自分も「赦された」と思えたことを映画に感謝したいのである(もっとも、あれから一度も見直していない。やっぱり、つらすぎるので)。 ありふれた流行歌が、どんな言葉にもまして深い“なぐさめ”を与えてくれることがあるように、とるに足りないようなただの娯楽映画が、ある者にとってどんな高尚な芸術作品よりも人生の「真実」を開示してくれることがある。だからぼくたちは、映画をこんなにも愛し、あるいは求めてしまうんだろう。  ぼくも死ぬ直前に、「K.H」さんに“会う”のだろうか。その時、あの赤いカーディガンを着ているんだろうか。ぼくはきちんと謝れるんだろうか。… 
10点(2004-06-13 18:06:22)(良:3票)
65.  クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦
幼なじみ同士で、秘かにお互い好意をいだきあっている武将と姫は、相手のことになるとふたりともすぐに赤くなって、うつむき、口ごもる。こんな風に“はにかむ人”というのを、映画のなかで本当に久しぶりに見たような気がする。…そう、かつての日本映画には、こういう“はにかみ”が溢れていたのではなかったか。男も、女も、誰もが何かあると恥ずかしげにうつむき、赤くなる。そんな、今やすっかり忘れかけていた日本人の、そして映画の美しい「表情」に、まさか『クレしん』で出会えるとは…。確かに、もはやこの長篇アニメーションを、テレビの『クレしん』ファンである大多数の子どもたちは理解しきれないかもしれない。けれど、又兵衛がいつしか未来からきた幼稚園児と対等に心開いたように、観客である子どもたちを相手にこんな世界観…というか“死生観(!)”をぶつける作り手たちの誠実さを、ぼくは信じる。それは、きっと何かを幼い心に残すはずだ…と。ともかく、この作品は、この近年でも最も「日本映画」らしい日本映画だ。素晴らしい!   
10点(2004-05-28 21:39:26)(良:6票)
66.  ピーター・パン(2003)
この手の映画にあれこれ理屈をコネるなど、野暮って言われそうなんで、代わりに「10点」満点を献上して、ぼくがこの映画から受けた感銘に応えたいと思います。何なら、「今年のベスト作品(のひとつ)」と言い切ってもいい。ビジュアル面では明らかにディズニーのアニメ作品に追従しているかもしれないけれど、この映画には、いかにもディズニー的な「アメリカン・」ヒーロー然としたピーターはいない。永遠に「子どものまま」でいるとは、「時のとまった者」のことであり、それは「死んだ者」のことだ。そして、ネバーランドとはまさしく「黄泉の国」にほかならない…という、深い、深い、深い悲哀の感情と感傷こそを、ぼくは本作から受けとめる。そう、12歳で死んだ子どもは、永遠に12歳のまま彼を知る者の心の中で“生き”続ける。それが、ピーター・パンだ。その透明な孤独を、純粋な哀しみを、それゆえの愛しさを、ぼくはこの映画とともに共有し、慈しみたいと思う。…ピーター・パンが「死んだ子ども」だって? そんなこと原作にだってどこにも書いていないじゃないか! とおっしゃるだろうか。あまりにも強引なこじつけだと。…ならば、こう言い直させていただこう。この、一見するとただ可愛らしいファンタジーには、少なくともそういった、見る者の感情を揺さぶり、内省へと導き、切ないまでの感動で打ちのめすエモーションが満ち満ちていると。美しい、本当に、心から美しい映画だ。(…理屈はコネないと言いながら、長々とスミマセン。) 
10点(2004-05-06 17:38:55)(良:1票)
67.  さらば美しき人 《ネタバレ》 
原作は、故・太地喜和子も演じたことがあるジョン・フォード(映画監督とは別人っすよ!)の古典的戯曲。中世イタリアを舞台に、禁断の愛に殉じた兄妹の凄惨な悲劇を描いていくもの。…とにかく、何という映像美だろう。徹底して奥行きを強調し、蝋燭やかがり火がゆらめく屋内シーンと、湿った空気感まで伝わってくるかのような屋外シーンのいずれもが、端正な構図に収まっている(おそらく、キュ-ブリック監督の『バリー・リンドン』をもしのぐ完全主義ぶり!)。さらに、濡れた肌からたちのぼる湯気のなまめかしさや、血の赤さの鮮烈な視覚的衝撃はどうだ。「光と色彩の魔術師」と称される撮影監督ヴィットリオ・ストラーロとしても、ここまで絵画的な美を極めた作品もないのではあるまいか。そのぶん、ドラマ的な面白味に欠けると指摘する向きもあるだろうけれど、若きシャーロット・ランプリングの圧倒的な存在感が、近親相姦の果ての悲劇も、当時の貴族社会の退廃的な“空気”も、もはやすべてを語り尽くしているじゃないか! クライマックスのスプラッター(!)な血で血を洗う大殺戮シーンすら一遍の甘美な「悪夢」に見せてしまう、知られざる名作と断言してしまおう。 
10点(2004-04-22 19:11:42)
68.  岸和田少年愚連隊
ただひたすら喧嘩を繰り返す。やったらやり返され、やり返されたらまたやることの繰り返し。いくら「岸和田」とはいえ、こんな中学生どもがおるかいっ! …と思う前に、その徹底した「反復」の“無意味さ”こそに井筒カントクは勝負を賭けたのだな、と思う。ナイナイ演じる主人公たちは、その際限のない喧嘩の「反復」の中で決して人生(!)を学んだり、人間的に成長(!!)したりしない。主人公の父親と祖父がいつも見ている、テレビの動物番組の野生動物みたく、果てなき闘争だけがどんどん“肥大化”していくだけだ(主人公たちを動物番組で暗喩する、心憎い語り口!)。しかし、一方で彼らは、この「反復」の外へ出なければならないことにも薄々と気づいている。だのに「出口」が見つけられないことの焦躁と無力感が、この一見ハチャメチャな土着(?)コメディに微妙な陰影を与えていることは間違いないだろう。…悪い冗談ではなく、この映画は何かとてつもなく「悲劇的なるもの」を漂わせていると、ぼくは本気で信じている。シジフォスの神話を思い出すまでもなく、果てしない堂々巡りを生きざるを得ないこと、無意味であることを承知しながらもその円環から抜けだせない“無間地獄”に陥ること、そういった「反復」こそが真に「悲劇的」でなくて何だろう。…たぶんカントク自身が「そんな屁理屈はいらんわいっ!」とおっしゃるだろうゲロ、ぼくはそれゆえに本作を“畏怖”し、愛するッパ! (←ゴメン、ぐるぐるさん。つい…)
10点(2004-04-16 16:39:05)(良:4票)
69.  キッチン(1989)
公開当時いろいろと賛否両論あった映画ですが、ぼくにとっては今もなお忘れ難い1本。お互いに一定の“距離”をとりながら、それでも(というか、だからこそ)どこかで“ぬくもり”を求めている「現代人」の肖像が、ここまで見事に、美しく描かれた作品も稀有でしょう。唯一の身内である祖母を亡くしたヒロインと、彼女を同居させる青年、そして青年の「母親(演じるのは、橋爪功…)」の関係は、あくまでも優しく、思いやりとおだやかさに満ちている。けれど、そこには常に“距離”があって、それがこの映画の独特な「空気感」を形づくっています。そう、ベタベタとも、カラカラとも違う、さらりとした「空気」を。それを醸し出すのが、函館の風土であり、青年たちの住むマンションのとんでもなくゴージャス(かつ無機質)なインテリアだったのでしょう(この映画を批判する向きは、そういったディテールを「現実離れ」として攻撃していたっけ。…そんな「非日常性」が、逆に登場人物たちの“関係性”をリアルなものにしているハズなのに)。…映画は、彼らの“間”にある「空気」が、少しずつお互いのぬくもりを伝えていく様子を、淡々と描いていく。「優しさ」が「愛」へと移ろいゆく様を、静かに、少しのユーモア(喜劇とはロングショットで見られた人生、とは誰の言葉でしたっけ)をたたえながら見つめていく。そう、もはや「愛」とは、人と人とがひとつになろうとするナマナマしさや暑苦しさじゃなく、ふたりの“間”にある「空気」をあたためるということなんだ…。原作者の吉本ばななよりも、むしろ村上春樹に通じる真に「現代的」なコミュニケーションを語った寓話として、ぼくは高く高く評価するものであります。
10点(2004-04-16 15:15:14)
70.  揺れる大地
貧しい漁村を舞台に、素人の役者を使ってイタリア社会の“現実と悲惨”を告発するという、「ネオレアリスモ」とひと括りにされる映画を撮っても、ビスコンティの手になればかくも「贅沢(!)」なものになる。そもそも、この当時に2時間40分もの映画を、しかもクレーンまで使って(…とは、ぼくの記憶違いかもしれない。けれど、確かにクレーンを使ったショットがあったという“驚き”が、今も生々しく残っている)撮るなどという贅沢な真似を、ロッセリーニもデ・シーカもやりたくても出来なかったろう。内容にしても、権力者に搾取される漁民たちと、それに抗った若者の悲劇という、いかにも共産党の資金を得たという「プロパガンダ臭」が漂う物語ながら、ビスコンティの主眼は、決して「告発」に向かうことなく、ただ「滅びゆく者」への大いなる共鳴を、悲歌(エレジー)ではなく交響楽(シンフォニー)として奏でるのだ。…そう、この時からすでにビスコンティはビスコンティそのものだった。貧しい漁師の若者も、ルードヴィッヒも、「人間、この卑小なるもの」として、この巨匠の前では「等価」なのだ。ビスコンティの「リアリズム」をいうなら(そして、その真の偉大さは)、たぶんその一点に尽きるとぼくは思うのであります。
10点(2004-04-13 15:51:35)(良:2票)
71.  港祭りに来た男
マキノ雅弘の映画は、いつも「にじんで」いる。笑いがにじんでいる。涙がにじんでいる。情感がにじんでいる。諦観がにじんでいる。まごころがにじんでいる。優しさがにじんでいる。人の強さが、弱さがにじんでいる。日本らしい風景がにじんでいる。…それは、外国人がオズやミゾグチの映画に見出す「日本」とはちがう、はるか昔から連綿と受け継がれてきた「日本(人)そのもの」がそこにあるのだ、と言っていいだろうか。オズやミゾグチは確かに“汎世界的(!)”に偉大だろう。けれど、マキノは何より“日本のこころ”そのものとして、真に偉大な存在なのだと思う。…たとえば、この映画だ。藩主に愛する女性を奪われた漁師が、彼女を取り戻そうと、居合い抜きの達人となってふたたび故郷に戻ってくる。しかし待っているのは、愛する者たちの「死」でしかなかった…という笠原和夫の脚本は、まるで西洋の騎士道ロマンスもののように直線的な「悲劇性」に貫かれている(同じく彼の脚本作『総長賭博』が、まさしくそうだったように)。しかし、この映画を見る者は、そこに荘重な劇的展開ではなく、祭りの囃子の物悲しい調べや唄声を、主人公たちの伏し目がちな所作を、牽牛と織女のように(題名の「港祭り」とは七夕祭りのことだ)主人公たちはあの世で結ばれたのだと自分に言い聞かせるかのような“なぐさめ”を見て、感じて、ただ涙するばかりだろう。…こういう映画を前にすると、本当に素晴らしい作品は、才能でも技術でもなく、作り手と観客との〈間〉で成立する「魂の共鳴作用」ゆえに成立するのだと、ぼくなどは確信する次第です。ビデオがあるかどうかは知らないけれど、テレビででも放映することがあるならぜひご覧になってください。もちろん、他のすべての「マキノ作品」も同様に。
10点(2004-04-06 21:16:42)(良:1票)
72.  チャック&バック
う~ん、「コメディ」というカテゴリーに分類してしまったけど、本当のところどうだろう。例えば、アナタがこの映画を見て、はたして「笑える」だろうか? …ちょっと、自信ありません。だって、かくいうぼくも思わず「引いた」のだから。少年時代から心の成長がとまってしまったチャックと、かつての親友で、今は映画会社のヤング・エグゼクティブであるバック。久しぶりに再会したチャックは、何とかバックの「愛(!)」を取り戻そうと、彼につきまとう。このあたり、チャックはバックの家に侵入して、彼と婚約者のセックスを覗いたりと“ストーカー”そのものと化すチャックを、たぶん大多数の観客は「ブキミな奴」と思うに違いない。…けれど、一方でこの映画はあきらかに「アメリカ人」そのもののメンタリティをカリカチュア(戯画化)したものであり、チャックとは「孤独に苛まれ、実は傷つきやすい」アメリカ人の肖像そのものじゃないか。そう、たとえるならチャックとは大人になったハックルベリー・フィンであり、バックとはトム・ソーヤーに他ならない。そんなふたりの確執めいた、ねじれた「関係」を、しかし映画はやはり「コメディ」として、「笑い」によって説き明かし、解きほぐそうとする。だからこそ映画は、最後にホロ苦くも爽やかな「結末」を迎えられたのであり、そのことでアメリカ人たちは、きっと“救われた”。と同時に、ぼく(たち)もまた“救われた”思いで主人公2人を祝福できるのだ。…「自己」を直視することをおそれず、しかもそれを「笑える」ことこそが最高の〈セラピー〉に違いない。だから脚本・主演(チャック役!)のマイク・ホワイトと、監督のミゲル・アルテタは、少なくとも本作において真に偉大な、本物のセラピストたり得たと言えるだろう。素晴らしい!
10点(2004-04-06 20:22:11)
73.  マスター・アンド・コマンダー
混乱の極致といった海戦シーンで、しかし、当時の戦い方がどんなもので、乗員たちはどう行動したのかをきっちりと描いているあたりに感心。物語の時間軸が今イチ分かりにくいという難点はあるものの(いったいラッセル・クロウ扮する艦長の船は、どれくらいのあいだ敵のフランス艦と追いつ追われつしていたんだろう…)、この手の「海洋戦記もの」としては、ベストの出来でしょう。一方で、自分の“弱さ”ゆえに海に身を投げた青年将校が、ゆっくりと暗い海の中を沈んでいく姿や、ガラパゴス諸島でのシークエンスに見られるほとんど「崇高さ」に達した詩情は、やはりピ-タ-・ウィア-監督ならでは。この人、限りなく「芸術(アート)」に近く、しかしあくまで『娯楽(スペクタクル)」としての“矜持”を失わない商業(エンターテインメント)映画の担い手として、おそらく現代屈指の監督でしょう。そう、ウィアーならどんな題材でも、素晴らしくハイブロウな、そして「面白い」映画に仕立て上げられる。この〈作家性〉と〈職人〉の完璧な均衡が、逆に彼の才能を見えにくくしている面は確かにあるかもしれない。そう、この監督は「物語」や、時には「映画」すらも超えてしまうような「天才たち」のひとりではないでしょう。が、今のハリウッド映画の水準(!)を真に支えているのは、同じ“ピーター”でも決して『ロ-ド・オブ・某』の監督じゃなく、このオーストラリア出身のピーター・ウィアーの方だってことを、ぼくは声を大にして言いたい。…興行的に失敗し、アカデミー賞でも完全にアテ馬扱いにしたことへの憤りを込めて、満点献上。
10点(2004-03-19 14:39:25)
74.  足ながおじさん
相変わらず優雅な、あまりにも優雅なフレッド・アステアの踊りと、『リリー』に続いて“孤児”を演じるレスリー・キャロン、うぶで、でもはつらつと舞うレスリー・キャロンのバレエとが、画面のなかでひとつになる時、ぼくたちは間違いなく「この世で最も高貴なもの」を目撃することになる。あの抽象画めいたシンプルなセット(思えば、20世紀フォックス社のミュージカル映画は、常にミュージカルナンバーのセットが奇妙に「モダン」で、それが面白かったり、物足りなくあったりするんだけど…)をふたりが踊る、舞う、ひとつになる。もう、それだけで、ぼくにとってこの映画は永遠です。傑作であるとか、駄作であるとか、もうそんなことを超越したところで、ぼくはこの映画を愛する。アステアとレスリー・キャロンの存在ゆえに、この先何度でも見て、陶然としたいと思う。…そりゃ、確かに2時間以上あるってのは長過ぎるかもしれない。ドラマ部分が、今や淡白すぎてタイクツする向きもあるだろう(けれど、ニューヨークのホテルのペントハウスにおける朝食のシーンなど、『プリティウーマン』に引用されていたことをぼくはうれしく思い出す)。しかし、ぼくが映画において本当に見たいのは、もはや作り手の才能や思惑を超えたところに、何かの間違いのように時として実現してしまう「奇蹟的瞬間」なんです。そして、この映画の場合(もちろん全編すべてに、とは言わないけれど…)ふたりの偉大なダンサーがそういった「奇蹟」をぼくたちに見せてくれる。当然の満点です。
10点(2004-03-09 12:42:05)(良:1票)
75.  汚れなき悪戯
映画の初めの方で、主人公の男の子マルセリーノが、道ばたで架空の友だち「マニュエル」と遊ぶシーン。“マニュエル、それはね…”とか、“マニュエル、ほら…”とか言いながら独りで遊ぶそのマルセリーノの姿は、あまりにも無邪気で、無垢で、愛しくて、そして悲しくて、もう、涙なくしては見られなかった…。最後に見てからもう10年以上は経っているはずなのに、いまだこの映画(から受けた感動)はありありと鮮明に覚えている。それはきっと、この映画が、キャメラだの、構図だの、カット割りだのといったものにとらわれることなく、ただ「小さな奇蹟」をあるがままに物語ろうとした、その“てらいのない「純粋さ」”ゆえじゃないでしょうか。そんな眼差しの中でなら、たとえ屋根裏のキリスト像がマルセリーノの“相手”をしてあげるために動きだそうとも、ぼくたち観客は素直に納得させられてしまう。もはや宗教的な意図を越えて、このひとりぼっちの幼い男の子のために彼(キリスト)は“復活”したのだと納得させられる。そのために、この子が神の国へと召されることになっても、ひとりの「天使」がふたたび天上へと帰っていったのだと、たとえキリスト教とは何の関係もないぼくたちですら、素直に心打たれ、祝福できるのでしょう…。芸術であるとか、娯楽であるとかいったこと以上に、「映画」というメディアは、時に“この世で最も美しい何か”を現出するという「奇蹟」を実現してみせる。それを《神の顕現(エピファニー)》と言いうるのなら、ここにはまさしく「神」が宿っている。…にしても、「7歳までは神のうち」という箴言は、洋の東西を問わないんですね…。
10点(2004-03-05 12:56:53)(良:3票)
76.  ラルジャン
「たまげた」とは、漢字で書くと“魂消た”となる。タマシイが消えるほどの驚愕ということの本当の意味を、ぼくはこの映画で知りました…。少年の作った稚拙な「偽札」が、人の手から手へと“流通(!)”していくことの不条理。その1枚のために、投獄され、妻子を失い、遂には善良な一家を惨殺する男の顛末は、運命というより、あたかもそれが「必然」であるかのように、寸分のブレもなく進んでいく。…フランケンシュタインの怪物は「感情」を持っていたがために悲劇を招いたけれど、この映画の男は、徹底的に感情を喪失した「怪物(モンスター)」として映画の最後に君臨する。ゆえに、もはやこれはどんな悲劇でも不条理劇でもない、究極の「ホラー映画」に他ならない…。繰り返すけれど、ぼくにとってこれほど恐ろしい映画はなかったし、これからもないだろう。単なる“好き・嫌い”を超越した次元でこの作品は、《映画の極北》として、絶対零度的な寒々しい輝きを放ち続けている。…ヘタに近づくと、あなたのタマシイも凍りついちゃいますよ。
10点(2004-03-03 13:47:26)(良:3票)
77.  PNDC-エル・パトレイロ
赤茶けた荒野を貫くハイウェイ。石と泥土の家並み。峡谷に架かる吊り橋。そして、突発的に繰り広げられる銃撃戦…。どこまでもドライでありながら、ここには「西部劇」への愛、「メキシコ」の地への愛が満ち満ちている。若く正義感に燃えた新米パトロール警官が、またたく間に“堕落”していく姿を、アレックス・コックス監督は一見ノンシャランないつもの「軽さ」と醒めた眼差しで追う。が、そこには、これまたこの監督独特の冷笑(シニシズム)と厭世(ニヒリズム)を超えた“叙情(リリシズム)”がかすかに、しかし確かに画面から漂ってくるかのようなのだ。だからぼくたちは、この主人公に対してコックス作品としては例外的(!)に感情移入できるのだろう。彼の抱える虚無感や閉塞感は、この現代を生きる我々にとっても実にリアルかつストレートに迫ってくる。その中で、なお人間性を見失わずに「生きる」ことは可能なのか…。単純で薄っぺらな「アクション(なんて言えたもんじゃありませんが…)映画」のようで、実に様々な“思索”へと見る者を誘う、これは小さな大傑作だ。…少なくとも、小生にとって。
10点(2004-03-03 12:25:50)
78.  ザ・デッド/「ダブリン市民」より
ぼくが愛するジョン・ヒューストンは、あくまで『王になろうとした男』の、『アフリカの女王』の、『キーラーゴ』の監督なのです。そんなヒューストンが、こんなにも美しい、あまりに美しすぎる「白鳥の歌」を歌うなんて、ほとんど“背信行為(!)”じゃないか…。そう思いつつ、いつ見てもただナミダさせられるのが、口惜しい。特に、あのラストシーン…。もはや「死者の眼」で見られたあの風景に心震えない者がいたとしたら、何と不幸なことだろうとすら思う。そして、階段に立ちすくみ、聴こえてくる歌声に微笑みながら涙を流すアンジェリカ・ヒューストンの、崇高までの美しさはどうだ。自らの娘のイメージ(映像)を、見た者すべての心に「永遠化」してみせたヒュ-ストン監督には、もはやどんな賞賛の言葉も無力だ。繰り返す、たとえ“遺言”にしても、ジョン・ヒューストンにこんな美しい「歌」は似合わない。けれど、それは間違いなく存在し、ぼくたちの前に残されたのだ…。
10点(2004-02-23 19:16:21)(良:2票)
79.  アイアン・ジャイアント
何の予備知識もなく、「どうせアメリカのおたくが日本のアニメの影響を受けて作った、巨大ロボットものなんだろ」とタカをくくっていたものだから、作品の冒頭、人類初の人工衛星スプートニクが登場するところで思わず虚を突かれる。ああ、これって米ソの「冷戦」を背景にした、1950年代SF映画へのオマージュであり、ノスタルジーなんだ。つまり、まさに“アメリカン・オリジナル”なんだと。だから、あの執拗に巨大ロボットを追う捜査官にも、当時の狂信的な「赤狩り」的風潮を読み取れるし、主人公の父親がおそらく朝鮮戦争で戦死したことをさり気なく写真一枚で語らせるあたりの見事な演出も、1957年という時代設定だからこその巧みさ。そしてそれゆえ、宇宙から飛来した巨大ロボットに《ハート》があり、地球の少年と心通わせるという『E.T』あたりのスピルバ-グ風展開にも、よりいっそう豊かな陰影を与え得たというべきだろう。これは、真に「知的」な映画、本物の映画です。間違っても“アニメ”だからと馬鹿にしてはいけない。これだけ豊かな映画的センスと、それ以上に「歴史意識」をもった作品など、ただアドレナリン湧出の量だけを競うかのような、今の幼児化した「痴的」なほとんどのアメリカ映画において、きわめて稀れなのだから。…ウチの息子にとっても、本作のDVDはまたとない「財産」になってくれそうです。
10点(2004-02-16 16:10:40)(良:5票)
80.  プラットホーム
1980年代の中国において、若者たちはいかに生きたか。そのクロニクルを4人の巡業劇団員を中心とした群像劇として物語っていく。とにかく、彼らの日常たるや「ダサい」し「暗い」し、彼ら自身もまったくもって冴えない。そんなダウナーな面々を、あまりにも広大な中国大陸的な風景のなかにポツンと置き、ゆるゆると長回しのキャメラで追うばかりの映像は、ほとんどテオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』の“縮小再生産”みたいだ。…と思わせつつ、この映画が、1989年の天安門事件に至るまでの10年間の物語であること。あの、結局は若者たちの挫折に終わる天安門での出来事を、まったく描かないからこそ逆説的に思い起こさせること。この2点において、ぼくはジャ・ジャンク-監督の「政治的・人間的」な気魄(ガイスト)を見る。ここに描かれた主人公たちは、あの天安門で殺された学生や市民たちと同世代だ。彼らが「あらかじめ挫折を運命づけられた者たち」の哀しさと無力こそを象徴し、その心情が映画全体のトーンを決定していることに思い至るとき、ほとんど圧倒的な「感動」がわき上がってくる…。それゆえ、この映画は現代において最高の「政治」的映画になり得たし、最高の「青春」映画になり得たのではないか。何故なら、政治とは常にこうした過酷な運命を若者たちに強いるのだし、青春とは常にこうした挫折の連続なのだから。…正直、テレビのモニターでみるのはしんどいかもしれない。でも、素晴らしい映画です。スパッツ(?)姿の双子の娘はちょっとイケてますし、ね(とは、蛇足でしたか…)
10点(2004-01-26 11:41:51)
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