821. 病院坂の首縊りの家
冒頭からヨコミゾ先生が登場(一緒に出てるのは、本物の奥様なのか?)、たどたどしいながらもセリフの多い役をこなし、いやもしかして、最終的にこのヒトが犯人だったりして、とちょっと警戒、まではしないけど(ところでここは、本物のご自宅なのか?) 事件の背景とか動機とかに関して言うと、あおい輝彦の存在が(顔も)ワケわからんような気がしつつ、それでも作品自体は、ほどほどに錯綜し、ほどほどにわかりやすく、意外にうまくまとまっているように思われます。勿論、ミステリとしては、原作自体が面白すぎる上にギミックにも事欠かない『犬神家の一族』と比べると、地味な印象は拭えませんが、趣きある古い日本家屋の中で、時に動きのあるシーンを織り込んだりして、映画としての魅力は決して負けていないのではないか、と。 というより、凝った映像を作ろうにもやりつくした感があって、犬神家で見たようなシーン(町を歩く二人を上から捉えたカメラとか)の蒸し返しが、ちょっとパロディみたいな可笑しさにも繋がっていたりして。 舞台となっている古い町並みも風情がありますが、肝心の「病院坂」だけが妙に都会。この坂をロケで使いたいのなら、そもそも田舎を舞台にしなきゃいいのに・・・と思わんでもないけど、やっぱり古い町並みは、このシリーズによく似合う。だから、我慢しよう。 桜田ズン子は重要な役どころでなかなかの熱演。だけどそれにもまして、草刈正雄のこの自由奔放過ぎる演技は、一体何なんだろう、と。ホントいい度胸してると思います。 [CS・衛星(邦画)] 7点(2020-09-22 20:33:43) |
822. TENET テネット
《ネタバレ》 「人が食事をしているシーン」を逆再生すると何だかグロテスクな光景になるけれど、それではすでに充分グロテスクな「人が排泄しているシーン」を逆再生すると逆にグロテスクではなくなるのか、というとそんな事はなくって、おそらく数倍グロテスクになっちゃうのであろう。これは大変不思議なコトだ。と一瞬思ったけど実はそんな事もなくって、要するにウンコとはそういうものなんだ。 ってな事はこの映画とは何の関係もないけれど、アクションシーンを単純に逆再生にしただけで、そこそこ面白いシーンに化ける、というのが意外な盲点で、それを大真面目に全面的に取り上げた、ありそうで無かったタイプの作品、と言えるかとは思います。 ただ、これはもう誰もが感じる通り、ストーリーの提示の仕方は、不必要なまでにゴチャゴチャしてます。最後まで観たら、正直、そんな大したオハナシではなかった、という気もするのですが。物語の収束点が予想以上にショボい。 ゴチャゴチャしてる中に、さらに謎の逆再生アクションシーンが挿入されると、もはや何が何やら、という事になりかねないけれど、後半、主人公自身が時間の逆行に身を投じることで、謎のシーンだったものの背景が解き明かされていく。というシステムなワケですが、過去の「?」なシーンに対する納得感とそれに伴うワクワク感、で言うなら、例えば『カメラを止めるな!』などの方がよほど成功していると思います。本作は、後半、いくらオハナシを単純化しても、最後までゴチャゴチャしてて野暮ったい。 「反物質は時間を逆行しており、物質とぶつかると対消滅する」などというブルーバックス的なネタも取り入れられているけれど、特にサスペンスにはつながらず、大した効果を上げていないし。 とは言え、まあ、逆再生というバカバカしくも魅力的な映像を武器にしつつ、こうやって多少イライラさせるようなものを我々にぶつけてくる、というのも、貴重と言えば貴重。しかも新型コロナウィルスの影響で大作の延期が続く中での公開。心意気だけは買いたいですね(←映画自体は買わくていいのか?) 冒頭のコンサート会場のシーンで、オーケストラがチューニングらしからぬ音を立てていて、不安を誘う一種のBGMのような効果を上げています。それ以外の音楽は、何だか、ヘンだったけど。 [映画館(字幕)] 6点(2020-09-20 04:55:11) |
823. イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密
《ネタバレ》 映画のラストでは、チューリングの悲劇的な死は直接描かれず、書類を燃やす映像に重ねられるテロップでのみ示されます。 勿論、書類が焼かれているのは、直接的な理由としては「用済みの極秘書類だから」ではあるのですが、それにとどまらず、このシーンには独特の楽しさと果敢無さが漂っています。一つの大きな仕事を成し遂げた後の、ひっそりとした有終の美。「個人的なお祭り」とでもいいますか、ちょっとキャンプファイヤーみたいなイメージから来る楽しさ。しかしその一方で、この映像にはナチスの焚書のようなイメージも感じられて。後にチューリングが同性愛を理由として社会的に抹殺されたように、ここでは彼の業績が、燃え盛る炎の中で消されていく、という果敢無さと哀しみ。 アラン・チューリング個人をコンピュータの始祖みたいに言うのが適切なのかどうかはちょっとわかりませんけれども、チューリングと言うと、ゲーデルの不完全性定理の「後日談」的に紹介される、チューリングマシンの停止問題(ゲーデルが因数分解の一意性を用いてあらゆる命題をゲーデル数に置き換え、対角線論法によって不完全性定理を証明したように、チューリングは対角線論法により、計算機が計算を完了しうるか否かを完璧に判定することはできない、ということを示した・・・超曖昧でテキトーな理解です、間違ってたらゴメンナサイ)、あるいは、AIの注目度が高まってる昨今では、チューリング・テストなどによって、名前を耳にする機会がありますが、我々庶民からすると、浮世離れしてて、どうもピンと来ない。 しかし実は、浮世離れどころか、我々の今があるのももしかしたら、彼の抹殺され(かけ)た業績、戦時中の暗号解読のお陰かもしれないのだよ、というオハナシ。これとは別途、暗号解読されまくって大勢の命が失われた日本の立場からすると、複雑な気持ちも無いでは無いけれど、それはともかく。 主人公を無闇に美化したり逆に過度にエキセントリックに描いたりすることなく、ちょっと風変わりで周囲になかなか溶け込めない人物の、いわば「居場所探し」みたいな物語として、映画は彼を描いています。しかし、戦時中に自分の居場所を見つけた彼、社会もまたその才能に多くを負ったはずの彼を、戦後、社会の一方的な価値観が追い詰めることになる、という皮肉。 映画は、子供時代、戦時中、戦後の時間軸を行き来して描いており、見てて混乱するという程ではないにしても、戦時中と戦後とはもう少しうまく描き分けて欲しかった気もするんですけどね。しかしこの構成自体は対比として効果を上げており、見応えのある力作、であることは確かだと思います。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2020-09-14 09:19:52)(良:1票) |
824. マンハント(2017)
子供の頃、街で見かけるハトはどうして皆、ハト色をしていて、手品で見かけるような真っ白なヤツがいないんだろう、とか思ってたけど(だからちょっと白っぽいヤツを見かけただけで、妙に嬉しくなった)、なるほど、あの頃はまだジョン・ウーが日本でロケ撮影してなかったから、なんだな。 という訳で、『君よ憤怒の河を渉れ』をジョンウー・カラーで染め上げ、さらにはその上から福山カラーで染めまくった、謎の怪作がコレ。ストーリーに関係なく、無理やりアクションを挿入し、無理やりハト小屋をぶっ壊す。敵が唐突に襲ってくる上に、福山雅治も唐突に現れて大乱戦。 『君よ憤怒の河を渉れ』と言えば高倉健、高倉健と言えばブラックレイン、ブラックレインと言えば大阪。という事なのかどうかは知りませんが、大阪らしいテキトーさのお陰で、堂島川?土佐堀川?での水上バイクチェイスとか、大阪上本町駅での大立ち回りとか、なかなかエグいロケが敢行されています。 一方で、ハルカスからの眺めなども、なかなか悪くないですな。 國村隼率いる天神製薬。いやこんな楽しそうな企業、日本に無いでしょ。でももしももしもバブルが崩壊してなかったら、やっぱり日本はこんな企業だらけになってたんだろうか。惜しい事をした。 で、それはともかく、映画の中身ですが・・・これがもう、ワケがわかりません。いやワカランことは無いけど、すべてにおいて繋がりが悪い。単発。作り手もどこか「やりたいことだけ押し込めたら、それでいいや」と割り切ってるみたいな気が。 チャン・ハンユーと福山雅治のダブル主演、と言いながら、どちらも物語の中心にいない、どこが中心かよくワカラン映画、でした。 ところで、終盤近くで流れる音楽は、プッチーニの「トゥーランドット」第3幕ですね。 [CS・衛星(字幕)] 5点(2020-09-13 16:12:51) |
825. 空手バカ一代
マス大山の半生を描くシリーズ第3弾(他は見てないけど。スミマセン)。 これが実話ってんだから、スゴイよね。だなどと思う人がいる訳もなく、まあ、ムチャクチャです。 まずは、冒頭の道場破りの場面から、千葉チャン空手が炸裂しまくり。さらには沖縄に渡って、プロレスとの異種格闘技戦。プロレス技が決まるたびに技の名前がテロップで出る、という親切設計で、プロレスを知らない人でも大いに楽しめる、かどうかは保証の限りではありません。 命じられた八百長に従わなかったことから、マフィアを敵に回してしまった大山たち。少年たちとの交流とか、夏樹陽子との出会いとかが描かれつつ(彼女の都会的な色白さが目を引きます。正直、沖縄っぽさは皆無)、クライマックスは敵の巣窟に乗り込んで、襲い来る者どもをバッタバッタと蹴散らしまくる。ははは。実話なワケが無かろう。 この辺りになってくると、ノリは完全に、燃えよドラゴン。サモ・ハンが主演したカンフー映画には「燃えよデブゴン」なんていう邦題がつけられていましたけれど、それに倣うなら、本作はさしずめ、「燃えよチバゴン」といったところ。 ダメ押しするかのように、最後は、鏡の間、みたいな場所での戦いまで登場して。 それにしても、千葉チャンたちに斃された敵が、異常なまでにピクピクと痙攣して悶絶しまくるのが、今見るとなかなか新鮮ではあります。 [CS・衛星(邦画)] 6点(2020-09-13 14:28:10) |
826. 座頭市海を渡る
《ネタバレ》 座頭市、ついに海を渡る。って言っても、お四国に行くだけですけどね。国内旅行です。 おっ、邦衛さんが出てるぞ! とか、あばれはっちゃくの親父さんが出てるぞ! とか、色々と驚きがあるのですが、しかし何と言っても、脚本が新藤兼人。だから、と言ってよいのかどうか、とにかく何だか、変です。これこそが新藤兼人ワールド、なのでしょうか。 これまで大勢を斬ってきたけど、斬りたくて斬ったんじゃありません、どうかもうこのような事が繰り返されないように、と願掛けする座頭市。だけどそれをお願いする先が「金毘羅さん」。何となく、この神様の守備範囲を超えているような気も。 さらにこの後、八十八ヶ所を回る、とか言ってる座頭市ですが、本当に回っているような気配は感じられず、結局、金毘羅さん以外には四国を舞台にした理由も特に見当たらないのですが、それはともかく。 やはり自分の殺生を金毘羅さんに相談したのが筋違いだったのかどうか、座頭市が旅すれば、やはりそこには死人が出てしまう。残されたのは彼の馬と、座頭市。登場人物はなかなか増えず、物語が動き出す気配もまだない。一向にエンジンがかからない本作。いつもとはだいぶ雰囲気が違うなあ。 馬について旅する座頭市がたどり着いたのが、彼を襲った男の家。そこには妹がいて、紆余曲折の後、何となく二人はイイ感じに。うれし恥ずかし水浴シーンとか(別にエロい描写は何もないけど)、座頭市がめっきり「青春」してしまってるではないですか。こんなヒトだったのか、座頭市。 ついでに、シリーズ恒例の(今の観点では問題の多い)盲目ネタも、本作では、まるで初めて思いついたかのごとく、しつこく繰り返されて。新藤兼人は、これがシリーズものだということをわかってるんだろうか。わかってるからこその独自色、なのかも知れませんけれども。 悪役の親分格が、山形勲。ガサツで粗暴だということはわかるけど、そんなに極悪なんだかどうなんだかが、よくわからない。単なるガキ大将、ってのが正直な印象。 クライマックスでは当然のごとく、山形一味と座頭市が対決するのですが(オープンセットなのかロケなのか? 雰囲気よく出てます)、ここでまた妙なヒネリが加えられていて、「村人はみんな隠れてしまい、座頭市がひとりで戦うことになる」という展開。真昼の決闘の見過ぎ、ではないでしょうか。どうせ座頭市だから、ひとりで充分、敵が何人いようと勝つに決まってる。と我々は思うけれど、新藤兼人は思わなかったのか。 ま、脚本がそうなっている以上、座頭市も今回は若干、危機に陥ったようにも見えるのですが、ヒロイン、そこで大暴走。座頭市を見捨てるのかと村人を焚き付けまわった挙句、何を勘違いしたか、はっちゃく親父こと東野英心(クレジットは東野孝彦)が飛び出してしまい、案の定、一撃で殺されてしまう(オイオイ!)。 見てはいけないモノを見ちゃったような、後味の悪さ。座頭市は「よくやった」的なコト言ってるけど、いやいやいや。そういう問題では。 という、実に実にツイストの効きまくった、ちょっと困っちゃう作品でした。 [CS・衛星(邦画)] 5点(2020-09-13 14:04:05) |
827. スターリングラード 史上最大の市街戦
冒頭、なぜか東日本大震災が描かれて、しかもどういう訳か、ロシアの救援隊が瓦礫の中からドイツ人を救出する。で、さらにどういう訳か、「五人の父親」というよくワカラン話を初めて、そこから本編に至るのですが、うん、やっぱりどうしてこんな構成なのか、よくワカラン。 それにしてもこの、デジタル時代に戦争映画をどう撮るか、という難しさ。CGが使える、使ってしまう。 スターリングラードにおける市街戦。映画における市街戦というと、破壊された、あるいは破壊されていく街、という、日常と非日常との接点。はたまた、画面上に配置された建物や瓦礫の中での銃撃における遠近感。とかいったものを、つい見どころとして期待してしまうのですが、それが、CGだと「多少は動く書き割り」みたいになってしまって、どうも雰囲気が出ない。気分が乗らない。 「五人の父親」などという話を冒頭でブチ上げた割には、この五人もさほど際立った印象を残す訳でもなく、少々厭戦的なドイツ側将校のエピソードの方が、むしろ印象的か。あくまで前者に比べれば、ですけれども。 [CS・衛星(字幕)] 5点(2020-09-13 03:24:23) |
828. ネバダ・スミス
冒頭いきなり、3人組に両親を惨殺され、そこから主人公の、やたらと回りくどい復讐の旅が始まる。というオハナシ。 主人公はどうやらまだ若者らしいのだけど、それを、30代半ばのスティーブ・マックイーンが演じてます(設定の倍以上ですかね)。ははは・・・。 だもんで、最初のうちは、どういうイメージで捉えてよいのやら、見てて戸惑う部分もあるのですが、しかしやっぱりこのヒトの、一本気というか、どこか思いつめたような印象は、役柄に意外にマッチしています。 復讐の旅に出かけて早々、いきなり無関係の3人に襲い掛かってしまうという、先の思いやられる展開。そこから主人公は、さまざまな人とめぐり合って。 一人、また一人と、復讐を果たしていくのが、物語の節目になってはおりますが、あくまで、主人公の「出逢い」の方に主眼が置かれていて、彼と出会う人それぞれが、物語の中で印象を残します。仇との再会すら、印象的。 そして、敵と対峙し、放たれる銃声。その重さが、胸に残ります。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2020-09-13 02:53:45)(良:1票) |
829. ミッドウェイ(2019)
映画開始早々、前置き的な描写もそこそこに、いきなり真珠湾攻撃が始まるのですが、見た瞬間に頭に浮かんだ言葉が、「リメンバー・『パール・ハーバー』」(=『パール・ハーバー』というトンデモ映画があったことを思い出せ)。 せっかく、忘れかけてたのに、ねえ。 このシーンに限らず、本作全体に言えることですが、CG主体の描写が、裏目に出てしまってます。実写では絶対に見られないモノを見せてやろう、ってのはワカルのですが、どこもかしこも、「いかにもスタジオの中です」「今、グリーンバックに囲まれてます」という雰囲気がプンプンと。 それでも演出次第ではもうちょっと、緊迫感なり、焦燥感なりを、出せると思うのですが、CGを連発するばかりではどうにもならない。真珠湾攻撃シーンでも、「襲われる側」の人間の描写はいかにも少なく、CG風味の爆発が繰り返されるばかりで、どこか絵空事。申し訳程度に、並べられた死体袋の描写などはあるものの、意図的に「悲惨さ」を抑えたかのような印象があります。逃げ惑う群衆、とか、驚きや恐怖の表情、といったイメージをもう少し前に出すだけで、だいぶ印象が変わると思うのですが。 これは、映画全般の戦闘シーンにも当てはまって、アメリカ側の中心人物が多少軽いノリで描かれるのは、仕方ない(?)としても、迎え撃つ日本兵の、やけに淡々としていること。どうしてここまで、描写から「焦り」のようなものが、排除されてしまうんだろうか。 史実を追うことに意識が向かいすぎたのか。しかしそれにしては、正直、この映画だけで戦況の流れをつかみ取るのは難しそう。戦史関連の本でもパラパラめくった方が、よほど理解できます。ドキュメンタリ調に徹することでドラマチックに仕上げる方法もあるだろうに、本作は、どうにも中途半端。魚雷から陸攻用の爆弾への積み替え、という判断ミスはこの海戦における一種のハイライトだと思うのですが、これもやけに、アッサリと。 日米両側から公平に描いた、というのがポイントのようですが、むしろ、どの国のマーケットにも受け入れられやすいように配慮してみました、ってのが正直なところなのではないでしょうか。無難に無難に描いた挙句、緊迫感まで無くなっちゃった。こういうパターンが、「中国資本アメリカ映画」の定番になっていくんですかね。 まあ、エメリッヒは、あくまでエメリッヒとして健在だ、ということだけはよくわかる作品ではありました。 [映画館(字幕)] 4点(2020-09-13 02:17:43)(良:2票) |
830. さすらいのカウボーイ
《ネタバレ》 ロードムービー風ですが、むしろ、ロードムービーの終盤の「旅の終わり」の部分にスポットを当てたような映画。 旅する3人組、その一人が射殺され、命を落とす。何でも、他人の妻に襲い掛かろうとして、成敗されたらしい。残された二人にしてみれば、おそらくは納得いかない話なのだけれど、反論する術もない。それが放浪者の、運命なのか。 ってな訳で、残された二人のうちの一人、ピーター・フォンダが、ついに妻子の元へ帰ってくる。というオハナシ。 しかし、娘は母より、父親はすでに死んだと聞かされており、彼が父だとは思っていない。妻も、夫の不在中には使用人と寝床を共にしていたらしい。もはや父親失格、使用人と何ら変わらない立場。 だけど、そういう人間関係がドロドロしたものとしては描かれておらず、むしろ、大自然の営みの一環であるかのように大らかに描かれていて。 予想に違わず、主人公は、ウォーレン・オーツとのさすらいの生活と完全に縁を切ることはできず、またそこには、ニューシネマらしい「悲劇への誘惑」みたいなものがあって。 悲劇と言えば勿論悲劇なんだけど、それらすべてを抱擁するような、大らかさ。それが魅力ですね。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2020-09-06 20:05:18) |
831. 戦場(1949)
誰が主人公ということもなく、ある部隊の行軍が描かれていきます。誰に特別スポットが当たる訳でもない代わりに、各々がある程度個性的に描かれていて、それぞれが主人公。それぞれの存在が心に引っかかりのようなものを残します。 いやそれこそ、映画の前半で言えば、一人の兵士がかっぱらってきた「生卵」だって、主人公の一人と言ってもいいかも知れません。はたしてこの卵は、誰かに無事食べられるのか否か。目が離せません。 後半は、「雪」も重要なファクターになります。兵士のヘルメットに降りかかっては解ける雪、あるいはすでに降り積もってサラサラとした雪。非常に印象的です。 一連の戦闘を潜り抜けた後の、映画ラストの行進。それはやっぱり、訓練の時とは明らかに異なる行進、なんですよね。で、そのまま他の隊とすれ違って映画が終わる。これをカッコイイと言ってよいのかどうかわからないけれど、感無量、絵になるラスト、です。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2020-08-31 21:42:01) |
832. 座頭市関所破り
冒頭、行きずりの男から手紙を託されたり、はたまた宿で女性と相部屋になってしまう座頭市。こういったエピソードがうまく絡み合っていき、剣豪風のライバルも1~2名ほど登場したりして、なんだかよく出来たオハナシのような気はするものの、その割にはピンと来なくって。 大映の「準主役級俳優の層の薄さ」みたいなものが、こういう映画ではどうも悪い方に出てしまいますね。座頭市以外がなかなか目立たない。あまり大映のイメージが無い平幹二朗がライバル格だけど、端正で行儀よく、そしてイマイチ目立たない。 そんな中で、上田吉二郎のダミ声が唯一、存在感を示していますが、このヒトも、大映映画だったらやはり、ガメラ対ギャオスの方が光ってましたかねえ。 ついでに、何のために出てきたのかワカランけれどとりあえずそれなりに目立ってしまっているのが、「青火がパーッ、ボヤがポーッ」でお馴染み、ダイラケ師匠。ただしストーリーにはあまり絡まない、単なる賑やかし。 という訳で、せっかくのよくできたオナハシの割には、どうもチグハグな印象。ラストの殺陣も、もう一息盛り上がるかと思ったらいきなり終わっちゃうので、なーんか、不完全燃焼。 [CS・衛星(邦画)] 6点(2020-08-31 21:02:45) |
833. ワイルドカード(2014)
ジェイソン・ステイサムがワイルドスピードに出演したから、とりあえず彼の出演作に「ワイルド〇〇」と邦題つけて売り出すことにしたのか、と思ったら、さにあらず、本作は原題そのまんま。主人公の名前がワイルド、なんですね。 で、彼が主演だからバリバリの格闘映画なんだろう、と思ったら、これが微妙。中盤はバクチ映画になっちゃう。確かにカードの映画、だから、ワイルドカード、ってか。何だか騙されたような。 そりゃま、あくまでジェイソン・ステイサムですから、戦えば、やたら強いんですけどね。ただ、あまり戦わない。というか、この主人公、イマイチ何もしない。いや、彼が何もしないというより、周囲の人物の方はエキセントリック過ぎるのかも知れない。彼も敵に囲まれて危機に陥れば、己が肉体(プラス、ちょっとした小物)を武器に敵を蹴散らすけれども、女のアソコを銃でどうした、とか、男のアソコを植木バサミでどうする、とか、そんな話にはついていけず、またバクチの世界に戻ってしまう。 どんなカードが出てくるか、それを待つだけ。運の方が、勝手に彼のもとを訪れたり、また去って行ったりして、結局は何も変わらない。 冒頭のエピソードにおける、狂言を依頼するハゲ親父の方が、よほど行動的かもしれない。 という、主人公のグダグダ感と、グダグダな主人公がいつ「行動」を起こすのか、ってのがいかにもハードボイルドで、そういや、ジェイソン・ステイサムのこの「何も考えていません」という顔立ちこそがまさにハードボイルド顔、という気もしてきます。 結局、彼にせよ、彼につきまとう金持ちに兄ちゃんにせよ、どうしようもない日常は、どうしようもなく続いていってしまうのだけど、そんな中にもちょっとした転機が起こり得る、というその転機を切り取ってみせた、なかなかユニークな作品でした。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2020-08-30 06:36:02) |
834. ミッドナイト・イン・パリ
《ネタバレ》 冒頭、パリの街がいくつものショットで描かれていて、つまり、空間的な積み重ねとしてパリが描かれるのですけれども、これはパリという街の一面でしかなくって。物語の中で主人公がタイムスリップ(?)して、1920年代のパリに集っていた文人・芸術家だちと出会うことで、パリの街が時間的な積み重ねとしても描かれます。 街が持つ多層性。それは、街の今の姿と、街が辿ってきた歴史。 レイチェル・マクアダムス演じる、主人公のフィアンセってのが、顔は可愛らしく、体はエロっぽく、性格は鬱陶しい、という、三拍子そろった存在で、身近にはあまりいて欲しくないけれど、ハリウッド映画にはヒロインとしてぜひ登場して欲しいタイプ。主人公はこの映画の物語を経験し、結局は彼女と別れることになって。 そして、この街の歴史を知るパリ娘と結ばれることを匂わせて、映画は幕を閉じます。一見、忘れられたような過去でも、現在のどこかに必ずその余韻が残っていて、こういう娘っ子の中に息づいている、それがパリの街。 主人公自身も「くだらない」ハリウッド映画の脚本を書く生活から、パリへの移住を決意した今後は、この街で文学を目指すのかもしれない。 浅はかなハリウッドよ、さらば。 という、何だか、結果的には「ニューヨークの映画作家ウッディ・アレンが例によって例のごとくハリウッドにイヤミを言う映画」になってしまった感もありますが、ま、そうでなくては。シャレた感じで、イヤミを言いつつ、古き良き文化の香りを謳い上げる。それがまた、シャレてるんです。 しかし、1920年代のパリというと、音楽はコール・ポーター、となるんですか、ねえ・・・例えば「フランス6人組」とかではなくって。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2020-08-29 17:29:17) |
835. 水戸黄門 助さん格さん大暴れ
本作はちょっと意表をついて、若き日の助さん格さんが黄門様と知り合って弟子入り(?)するオハナシ。ラストを見てると、ここからまたシリーズが始まっていきそうな感じもあるのですが、後が続かなかったようで、結果的には、月形黄門様シリーズの番外編みたいな位置づけ、でしょうかね。 助さん、格さんはそれぞれ松方弘樹、北大路欣也が演じていて、若さ爆発、元気溌剌、息の合ったコンビぶり。見方によってはちょっと、昨今流行りのBLモノか?とも思えてくるのですが、もちろん、そんなススんだ映画ではありません。 藩の登用試験におけるカンニング騒動など、単細胞のふたりがタイトル通り大暴れする映画ですが、それを支えるべく、あちこちのシーンでエキストラを大量に動員したりして、東映時代劇らしいスペクタクル感も感じさせます。 さらにはミュージカル仕立てのシーンまであったりして、娯楽要素には事欠きません。 それにしても、月形龍之介演じる黄門様、普段は優しく、時に厳しく、まさにバツグンの包容力で、これぞまさに理想の上司像ナンバーワン。かどうかは知りませんが、若き助さん格さんとのやりとりには、なかなか味わい深いものがあります。 [CS・衛星(邦画)] 6点(2020-08-29 10:01:22) |
836. さいはての用心棒
映像が安っぽいとか何とかいう以前に、カットが切り替わるたびに映像の色温度が激変したりして、見てて途轍もなくイヤな予感がしてくるのですが、まあ、その割には、面白い。いや、それでもなお、面白いんです。 南北戦争を背景に、陰謀劇みたいなのが描かれていて、例によってジュリアーノ・ジェンマ演じる主人公が大活躍するワケですが、彼のアクションスターとしての身のこなしはやはり、さすが、と言えるものがあります。持ち前の運動神経で、中盤の乱闘シーンでは宙返りなんぞも披露して、ここまでくると完全に浮世離れしておりますが、ジェンマだからこそ許されるのです。 マカロニウェスタン恒例(?)の見せ場のひとつに、主人公が敵につかまってリンチにされる、ってのがありますが、本作ではなんと、炎天下に放置されてメダマを目玉焼きにされてしまう、という奇抜な拷問が登場。顔に変な網をかけられての放置プレイ、ジェンマの端正な顔立ちが、顔にかけられた網のせいで「オマエ一体誰なんだ?」と言いたくなるブサイク顔になっていて、これは必見と言えましょう。 クライマックス、彼は果たして北軍と南軍の激突を阻止できるのか、そして陰謀の行方は。ジェンマの協力者となるジイサンの存在も忘れ難く、なかなかの盛り上がりを見せます。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2020-08-29 09:31:29) |
837. フォードvsフェラーリ
タイトルは『フォードvsフェラーリ』であって、実際に題材もそうなんですけれども、でも何かちょっと違う。 高級車フェラーリに大衆車フォードが挑む、という図式だけど、では一種の「下克上」かというと、むしろ正反対。資本力ではフォードの方が圧倒的で、金に飽かせてル・マンに乗り込んでくる。 主人公のひとりであるマット・デイモンはまだしも、もうひとりの主人公であるクリスチャン・ベールはカツカツの生活を送っていて、このフォードとフェラーリとの対決の物語において、当然、中心的な存在になるのであろうとは予想されるものの、いくら物語が進めども、いつまで経っても蚊帳の外。本人が偏屈なこともあって、なかなかこの対決に絡めず、見てる我々もヤキモキする。 だから、これは、クリスチャン・ベール演じるケン・マイルズにとっての、「下克上」の物語。 いくつかのレースを経て、クライマックスである本番のル・マンが近づいてきても、「さあ、いよいよ!」などと煽るような演出も無く、むしろ淡々と開始しちゃうのですが、それは逆に言うと、迫真のレースシーンの演出に自信があってこそ、とも言えるでしょう。いざレースが始まったら、その緊迫感に、目が釘付け。 レース会場でもヘリで移動したりと、何かと派手なフォード2世。打倒フェラーリに向け、フォード側のチームとしてレースを戦う主人公ふたりだけど、本当に彼らを理解する者は、本当にレースを愛する者は、一体誰なのか。 この映画には、夕日や夕暮れのシーンが、再三登場します。もともと“黄昏”の映画なんですね。で、ラストはケン・マイルズの家の前。そういやこの芝生の前でかつて、ふたりは取っ組み合いしたんだっけ、などと思うと、観ている我々もどこか、懐かしさのようなものを感じてしまう。 夕日。 [DVD(字幕)] 7点(2020-08-24 20:38:37) |
838. 2分の1の魔法
まずはこの、溢れ出んばかりのサービス精神に、ありがとうと言いたいですね。 伏線の回収、などというと安っぽいけれど、劇中に示される様々なモチーフが、思わぬ場面、思わぬ形で再登場して嵌るべきところにピタリとハマり、驚きや感動を呼び起こす。100分少々の作品に対していささか詰め込み過ぎて、オハナシがどんどん進められてしまい、もうちょっと余白とかタメとかがあってもよいのでは、とも思わなくはないですけどね。ただ、基本的にはここで再現されているのはRPG的な世界、だから展開がやや機械的になるのも仕方ないですかね。というよりここでは、ガサツで大胆な兄貴に対する、臆病で決断力に乏しい弟(主人公)、という対比があって、この本作の展開の早さから我々は「兄貴になかなかついていけない弟の気持ち」を共有することにもなります。 大体、「魔法で亡き父を蘇らせるチャンスは明日の日没まで」というタイムリミットだけでも充分に物語になり得るのに、「魔法不足で今は下半身しか蘇ってません」というヒネリ、どうやったらこんなコト思いつくんですかね。この下半身だけの父親の存在ってのがとにかくナゾで、本人はどういう状態で何を考えているのか(そもそも意志があるのか)最後までワケがわかんない存在なんですけれども、とにかくユーモラス。周囲の目をごまかすためにダミーの上半身を付けられてさらに動作がカオスとなり、笑いを呼びますが、一方で下半身だけあればダンスはできちゃって、親子共演と相成る感動も。 この作品の世界では様々な外見の登場人物が普通に入り混じって暮らしており、「外見での差別」という問題は解決(あるいは保留)されている世界なのですが、母親が付き合う男、つまり将来の父となるやも知れぬ男は、下半身が馬になっていて、主人公家族とは異質な存在。この男には無い「2本足の下半身」のみが復活するという設定は、ユーモラスでありつつも、何となく引っかかりも感じさせます。 そしてだからこそ、この将来の父も、必然的にストーリーに大きく絡んでくることになります。彼は旅に出た兄弟をこれ見よがしに心配して見せたりはしないけれど、彼らの冒険に振り回されることが、家族の一員になるための通過儀礼ともなっています。兄のポンコツ車のバンパーは簡単に外れてしまい、兄のガサツさを示す一方で、別の場面では将来の父に対する道標にもなる。1つのモチーフが複数の意味を帯びる瞬間。 あるいはポンコツ車の中に大量にある違反キップもまた、兄のガサツさの表れだけど、たくさんのそれが撒き散らされるシーンでは、何だかポンコツ車の涙のようにも見えて。 その他、様々なモチーフが様々な形で再現し、映画を彩るのだけど、そんな中でも、テーマは単純に「家族愛」というものを、ストレートに描き切っています。いや、「家族愛」と一言で言えば単純だけど、実は「家族愛」には多様な側面があるのだ、という事が、ここでは見事に描かれています。 優柔不断な弟が最後に見せる決断。この決断があってこそ、彼が、そして我々が、垣間見ることを許される、美しい瞬間・・・ [映画館(吹替)] 9点(2020-08-23 12:28:34) |
839. 霊幻道士
後続作品の人気に、やや呑まれた感はありますが、一応、本家本元キョンシー映画。 先代の墓を掘り返したことから巻き起こるキョンシー騒動と、オバケの姑娘(というにはやや年増か。「美人」と「ブサイク」の中間の、「なんかエロい」という領域のオバケ)に憑りつかれるオハナシとが、脈絡なく同時並行で描かれて、それをオモシロいと感じるか、散漫と感じるか。わたしゃ、好きなんですけどね、こういうの。 それまでキョンシーなんて、日本に住む我々にはまるで馴染みがなかったけど、独特のコスチューム(?)に、「息を止めれば見つからない」とか「餅米が苦手」とか、ワケわからんけどとてもわかりやすいルールを提示して、非常に親しみを湧かせてくれます。 オバケ映画とカンフー映画を融合して、終盤は2つの物語が(噛み合わないまま)クライマックスに突入。キョンシーの親玉みたいなヤツとの死闘は、ちょっと『スパルタンX』なども思い起こさせて、サモ・ハンの息がかかっていることが関係しているのか、どうなのか。 そういや、親玉キョンシーのエラの張った顔立ちを見ていると、ベニー・ユキーデを彷彿とさせるような、させないような。 何にせよ、このクライマックスの死闘の「しつこさ」みたいなものが、しっかりとカンフー映画魂を感じさせてくれます。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2020-08-22 05:06:02) |
840. 女王蜂(1978)
《ネタバレ》 市川崑&石坂浩二の金田一シリーズ4作目になる訳ですが、ここまでが、犬神家の一族・悪魔の手毬唄・獄門島と、どれもこれも一種の見立て殺人モノなもんで、私も子どもの頃には、「金田一モノって、もしかして全部同じパターンなのか?」とか思ってたりもしたんですけど、この4作目『女王蜂』ではちょっと趣向が変わって。 見立てらしい見立ては無く、アヤシイ脅迫状が届くだけの、正直、映画化するにはちょっと地味な作品。特定のローカルな地域を舞台を限定せず、作中で舞台がアチコチ移動するのがまた、雰囲気を出しにくいところでもあります(ついでに言うと、原作では事件の発端となるのが月琴「島」だけど、映画では月琴「の里」と変更されて、これまた雰囲気が掴みにくい。さらには中盤の舞台を京都に変更しており、ちょっと移動し過ぎの感も)。 さて、多彩な登場人物の中で、犯人は一体誰なのか。 ってったって、約3名ほどの方は、過去の3作品で〇〇役をすでに演じたヒトたちなので、まさかまたこのヒトたちが〇〇ということはあるまい。いや、その裏をかいて、実はまた〇〇なのではないか・・・とかいう深読み・浅読みも、ご自由に。 ラストの真相が明らかになる場面は二段構成になっていて、これはちょっと原作に近いのだけど、原作では最後の惨劇の後で真相が語られ、ミステリとしては工夫っちゃあ工夫だけど、何となく、死人に口無しの欠席裁判めいたイヤな感じもあって。その点、本作の方が、疑問を感じる余地のないスッキリした真相の提示になってます。だけど、その分、終盤が蛇足めいてしまったのが皮肉なところ。 それにしてもこの映画、ミステリ作品としては、どうなんでしょうねえ。奇抜な映像表現で遊びまくる一方、肝心の事件や人物関係の描写があまり丁寧ではなく、作り手もあまり「推理」というものには興味が無かったのではないか、と。さらに言えば、単に、加藤武をまた登場させたかっただけなのではないか、と。 [CS・衛星(邦画)] 6点(2020-08-17 20:56:35) |