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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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81.  Adam by Eve: A Live in Animation
どういう類いの作品であるかをろくに確認せずに、Netflixのピックアップに上がっていた中から作品時間のコンパクトさに惹かれて鑑賞。 実写とアニメーションが融合した興味をそそる映像世界ではあったけれど、存在すら知らなかった気鋭アーティストの“長編MV”だった。  こういう作品もあるのかと、“おじさん”なりに興味深かったけれど、何せ楽曲をほぼ聴いたこともないアーティストだったので、短いドラマパートの間に挟み込まれるMVの連続に入り込めなかったことは否めない。  映像自体はそれなりに作り込まれていたし、Tik Tok世代に向けられた歌詞表示付きの演出は、ファンにとってはエモーショナルなものなのだろう。  ただしそれが「独創的」であるかどうかは少々疑問。 「渋谷」を舞台にした少女たちの葛藤や鬱積を主軸にして展開される世界観は、既視感があり、特にアイドルグループ「欅坂46」が表現した世界観に重なる部分が多かった。 主役の女の子は魅力的だったが、完全に平手友梨奈に寄せたキャスティングだったと思う。  ともかく、結果的に面白かったかどうかは別にして、自分の興味の範囲外の作品に触れる機会はそれほど得られるわけではないので、そういう意味では良い機会だったと思う。 最後の楽曲でようやく「ああ呪術廻戦の主題歌の人か」と気づく始末。新しいアーティストももっと積極的に知らなければと思う。
[インターネット(邦画)] 3点(2022-12-15 23:08:16)
82.  バットマン・フォーエヴァー
個人的に初めて観た「バットマン」の映画は、本作の直接的な続編である「バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲」だった。1997年に映画館で鑑賞したあの映画は、イロイロな意味でどうかしている作品で、当時高校一年生だった僕に、偏ったバットマンのイメージを植え付けてしまった。 その結果、前作であった本作はおろか、ティム・バートン版の2作品も観ることなく、2005年のクリストファー・ノーラン監督作「バットマン ビギンズ」が公開されるまでバットマンに触れることは無かった。 そして更に時が経ち、ティム・バートン版に触れつつ、ノーラン監督の三部作を終え、ベン・アフレックがバットマンとなった「ジャスティス・リーグ」を経て、今年また新たなバットマン映画が公開される矢先に、ようやくこの「フォーエバー」の鑑賞に至った。“Mr.フリーズ”から実に25年、無駄に感慨深い。  僕の中では“残された”バットマン映画だったが、率直な感想としては、今まで鑑賞に至らなかったことを少し後悔するくらいに、魅力的な娯楽映画だったと思う。 クリストファー・ノーランが描いたバットマンや、サム・ライミが描いたスパイダーマン以降のアメコミ映画ファンとしては、良い意味でも悪い意味でも極めて“マンガ的”な本作のテイストは、一周回ってフレッシュで、ヒーロー映画の原点を観たような感覚さえ覚える。  監督こそ異なるが、一応はティム・バートン版からの流れを汲むシリーズ3作目という位置づけもあり、余計な説明描写は差っ引いて、冒頭からいきなりメインのヴィランとの攻防を描く展開が、アクセル全開という感じで小気味いい。 各アクションシーンを彩るケレン味たっぷりの美術や装飾も90年代のヒーロー映画の味わいを象徴しており、シンプルに観ていて楽しい。  そしてなんと言っても、キャスト陣がみな良かったと思う。 先ずは、トミー・リー・ジョーンズ&ジム・キャリーが演じるヴィランズのイカれっぷりがサイアクでサイコー。それぞれのキャラクターがヴィランに落ちた経緯やバックグラウンドなんてそこそこにして、名優二人が嬉々として狂人を演じるさまが素晴らしかった。 ヒロインを演じるのは、こちらも大女優ニコール・キッドマン。当時既にスター俳優だったとは思うが、その風貌はまだまだ瑞々しく、麗しいヒロイン像を体現していたと思う。  そして、個人的に最も不安視していたのは、バットマン役に抜擢されたヴァル・キルマーだったけれど、想像以上にバットマン=ブルース・ウェインというキャラクターにマッチしていたと思う。 本作では、ヒーローとヒロインのキスシーンが繰り返し映し出されるけれど、それも納得のセクシーな口元が印象的だった。何故次作の「Mr.フリーズの逆襲」ではバットマン役が交代になったのか、少々疑問が残る。  と、想定外の満足感と共に鑑賞。この流れで「Mr.フリーズの逆襲」も25年ぶりに観てみようかな。
[インターネット(字幕)] 7点(2022-12-15 22:36:42)
83.  Mr.ノーバディ
無慈悲に去っていくゴミ収集車、何の変哲もない通勤と職場、愛想のない思春期の息子、毎夜距離の空いた夫婦の寝室、家族の冷たい視線と小言、延々と繰り返される鬱積の日々……。 積もりに積もった欲求不満と、持って生まれた“或る狂気”がついに抑えきれなくなり、猫ちゃんのブレスレットが奪われたことを“きっかけ”に、地味な親父はブチ切れる!  破天荒で痛快。 「ジョン・ウィック」、「96時間」、「イコライザー」の系譜に位置する“舐めてたパンピーが実は殺人マシーンもの”の新たな傑作と言って相違ない。 もはやジャンル映画化されているキャラクターの基本設定はそのままに、主人公ハッチ・マンセルの人間性が独特で良い。  地味で大人しく、妻や息子からはやや蔑視され、毎日路線バスに揺られ、Excel入力を日がな繰り返す会計士の男が、突如秘めた暴力性を呼び醒ます様は、荒唐無稽で狂気的だけれど、同時に多大な娯楽性とカタルシスを孕んでいた。  自宅に押し入って去っていった強盗に対して、意気揚々と報復に行ったはいいものの、予想外の展開で“不発”に終わる主人公。悶々としたまま帰りのバスに乗り込んだところに、街のゴロツキどもが乗り込んでくる様子を見るやいなや思わずニヤニヤを抑えきれない主人公の様相からは、長年抑え込んできたのであろう彼の真の狂気性が溢れ出ていた。  そう、この男、間違いなく狂っている。 他の同系譜の映画のように、愛する家族を守るためにひた隠しにしていたその凶暴性を不本意に解放したのではなく、日頃の鬱積が堪らなくなって、意識的に“暴発”させたと言ったほうが正しい。それは、家族との安穏な生活を自ら放棄したと言っても過言ではなく、明らかに“やりすぎ”であろう。 だがしかし、その“暴発”の様こそが、多くの鑑賞者、特に彼と同じように日々鬱積を抱える我々“親父”層には堪らないカタルシス解放の起因となったのだと思える。  このアクション映画が描き出した娯楽の本質は、まさしく世界中の“親父たち”が抱える「欲求」の実現化。 唯一の得意料理を家族に振る舞いたいし、贅沢な海外旅行を計画したいし、高級クラシックカーを乗り回したい。そして、娘には好かれたいし、息子には尊敬されたいし、妻とはいつまでも愛し合っていたいのだ。  無論、普通の親父には、そのためにロシアンマフィアを壊滅するなんてことはしないし、できないけれど、小さくても自分自身が孕む「力」を解放することは、できるかもしれない。 この映画のカタルシスの正体はそういうことだった。   主人公の父親役で登場するのは我らがクリストファー・ロイド。施設暮らしの老いさらばえた爺さんと思いきや、主人公以上の狂気性を爆発させて見せてくれる。 最高、続編も期待大。
[インターネット(字幕)] 8点(2022-12-15 22:31:36)
84.  ドライブ・マイ・カー
僕は、コミュニケーションが上手くない。 決して「嫌い」なのではなく、上手くない。 日々の生活の中で、伝えたいことはあまりにも多いのに、それがあまりにも伝わらない。 そういうことが、ストレスや、怒りになってしまって、結果、コミュニケーションを避ける傾向にある。  幾つもの異なる言語が飛び交い、表現方法が入り混じり、過剰なまでの間接表現を散りばめてこの映画は紡ぎ出されている。 村上春樹の原作は、未読だが、作者の独特の文体とそれが織りなす物語の世界観も、この映画の或る種異様な空気感に直結していると思う。  この映画の中で繰り返し繰り返し表現されている通り、そもそも自分以外の人間のことを完璧に理解することなど不可能。 コミュニケーションの肝とされる「会話」にしたって、果たしてどれだけ相手のことを本当に理解できているか分からない。 劇中の演劇練習でも語られていた通り、世の中のすべての会話も、ただ自分の意思を一方的に伝えるための“きっかけ”に過ぎないのかもしれない。  多重言語による奇妙な作劇、セックス後の断片的な物語創造によってかろうじて関係を繋ぎ止めてきた或る夫婦、鏡越しに発覚する裏切り、車の中での直接目線を合わせない会話……。 映画を彩るすべての要素は、この世界における残酷なまでの行き違いと、コミュニケーションそのものの困難さ、そしてそれでも相手のことを知ろうとすることの重要さを物語っていた。  「本当に他人を知りたいなら、自分自身を見つめるしかない」  結局、本当のことを知り正しく理解できるのは、自分自身のことでしかない。 それは時に、億劫で、怖くて、困難なことだけれど、それをしなければ、伝えたいことが相手に正しく伝わることはないのだろう。 僕は、コミュニケーションが上手くない。けれど、自分自身のことを見つめるというプロセスは、人生においてとても大切だと思っている。今一度、自分が何を伝えたいのか、そのために何ができて、何をすべきなのか、少し落ち着いて考えていこうと思った。   幾重にも重なる多重表現、間接的表現は、必然的に映画の尺を長くし、テンポを鈍重にしている。 映画的な表現として、上手い映画だとは言えないと思うし、すべての人が正しく理解できる映画だとも思わない。 ただ、その長い長い鈍重さと、そこから生まれる分かりにくさや、もどかしさ、そして不意に訪れる人間の再生。それらをすべて含めて、3時間身を委ねてみる。これはそういう映画だと思う。
[映画館(邦画)] 7点(2022-12-15 22:23:34)
85.  フリー・ガイ
ゲーム(仮想現実)の世界を“救世主”が救う。 そのプロットは、この20年程の間で数々の映画で何度も描き出されてきた。 「マトリックス」を皮切りに、「シュガー・ラッシュ」、「LEGO® ムービー」、そして「レディ・プレイヤー1」に至るまで、主人公たちは広大で果てしないゲームの世界を縦横無尽に巡り、その世界の真理を見出していく。 そしてその救世主となる主人公たちに共通していること。それは、彼らがゲームの中の小さなプログラムの一つ、詰まるところの“モブキャラ”に過ぎない存在だったということだ。  泡沫のプログラムが、世界を構築する巨大なプログラムを“書き換え”影響を及ぼしていく。 それは、一つ一つの小さな生命が蠢き、社会を構築するこの現実(リアル)世界にも直結する要素であり、そこに人々は熱くなるのだろう。 僕自身も含め、世界中の殆どすべての人間たちが、社会という巨大なプログラムの歯車の一つである以上、プログラムの反抗というプロットに熱狂せずにはいられないのだと思う。  そしてここに、“熱狂”不可避の新たな“救世主”が誕生した。 ゲームの中のモブキャラがヒーローになるというストーリーテリングは、「マトリックス」から20数年が経過した現在においては、もはやベタベタであるが、だからこそ娯楽映画としての安定感は保証されているとも言える。  更には、主人公を演じるのがライアン・レイノルズとくれば、このニューヒーローが幾つもの「見えない壁」を越えてくれることは折り紙付きであり、そういう娯楽映画の文脈を踏まえたメタ要素も含めて楽しい映画だった。  ただ、ディズニー資本の影響からか、良い意味でも悪い意味でも毒っ気がないことも否めない。ライアン・レイノルズ主演のコメディ映画なのだから、もっと風刺的な要素も欲しかったところだ。 ベタなストーリーの王道は良しとしても、「想定の範囲」から少しも脱線することが無いので、一定以上の高揚感には欠けたと思う。  そういえば、正規プログラムのヒーロー役にチャニング・テイタムがキャスティングされていが、冒頭シーン以降登場しなかったのは残念。終盤もう少し上手い使い方があったのではないかな。
[インターネット(字幕)] 6点(2022-12-15 22:19:03)
86.  レッド・ノーティス
“Rock”のような強大な筋肉系アクションスター、“Wonder”に強く神々しい美女、不遇という俳優としての“Dead”を幾度も越えてきた愛すべき人気俳優、今やハリウッドにおいても最も愛されていると言ってもいい3人のスターによる三つ巴。そんな娯楽大作が面白くならないわけがない。  勿論、今年ナンバーワンの傑作!だとか、映画史に残るアクション映画!などと言うつもりはない。 アクション映画の「質」としては有り触れたものであり、新鮮味などは殆ど皆無だ。 “ベタ”で、幾つもの過去作の“トレース”と言ってしまっていいだろう。けれど、同時に、そういう娯楽映画の系譜をしっかりと踏襲した真っ当な娯楽映画であることも間違いない。  監督は、ローソン・マーシャル・サーバーなる人物。誰かと思えば、同じくドウェイン・ジョンソン主演のパニックアクション「スカイスクレイパー」の監督じゃんか。 「スカイスクレイパー」も、過去のパニックアクションの“お約束”をもれなく踏襲した隠れた傑作だったので、本作の娯楽力も納得だ。  最新のNetflix映画ではあるが、作品自体のコンセプトやアプローチは、もはや古典的で古臭いとも言える。 でも、1980年代生まれで、90年代のハリウッド映画で育ってきた映画ファンとしては、こういう映画には愛着を持たずにはいられない。  終盤唐突に発される“ヴィン・ディーゼル”ネタのジョークには笑った。
[インターネット(字幕)] 7点(2022-12-15 22:00:30)
87.  男はつらいよ フーテンの寅
あいも変わらず車寅次郎という男は、馬鹿で、愚かで、滑稽だ。 まったく自分自身とは関わりの無い映画の中の世界の他人であるにも関わらず、馬鹿さ加減には、時に苛立ち、若干の憎しみすら感じる。 でも、ぎりぎり、本当に紙一重の部分で、憎みきれず、愛おしい。 そのキャラクター性は、映画というマジックが生み出した一つの奇跡だとすら感じる。  シリーズ第三作目にして、監督が山田洋次から変更になっていることが影響しているのか、作品としてどこか勢いの無さみたいなものは感じる。 無論、分かりやすい派手やさや勢いがある類の娯楽作品ではないのだが、第一作、第二作には、ささやかで何気ない描写の中で、言葉では表しきれない演出や演者の大胆さや迷いの無さが、極上の娯楽を生み出していたように思える。  三重県が舞台ということもあり、全編に渡って随所に挟み込まれる工業地帯の背景や、行き交うトラック、公害による患いを想起させるキャラクター描写など、少々作品のテイストにそぐわない社会性が不協和音になっていたようにも感じた。 それはそれで、作品当時の社会性や風俗を映し出しているとも捉えられ、興味深いポイントではあったのだけれど、“寅さん”という娯楽に求められるものとはやや乖離していたように思う。  倍賞千恵子の登場シーンが極めて少ないことなど、この後何十年にも渡ってシリーズ化されることなど想像もしていないのだろう製作現場の空気感も伝わってくる。  とはいえ、車寅次郎というキャラクター造形と、彼が織りなす人生の機微は益々深まっていく。 プロローグとエピローグで共通して、寅次郎が存在しない自分の家族を朗々と語るさまは、なんとも切ない。  毎年正月(1月)に、「男はつらいよ」」を観ることを決めて早3年。 3年で3作目では、流石に50作もあるシリーズを負いきれないので、少しペースを上げて車寅次郎が越えていく時代を追いかけようと思う。
[インターネット(邦画)] 6点(2022-12-15 21:50:27)
88.  THE FIRST SLAM DUNK 《ネタバレ》 
実際に映画鑑賞に至るまで、正直懐疑的だったことは否めない。 「完成」されている原作漫画を四半世紀以上経過した今(1996年連載終了、え、マジ?)、敢えてアニメーション化することの意義があるのだろうかと思ったし、原作者本人の手によってそれを侵害するようなことになれば、悲劇でしか無いと思った。  が、鑑賞し終えた今となっては、多大な満足感とともにこう断言したい。 紛れもない、完全な、「漫画の映画化」だった、と。  それはかつてのTVアニメシリーズでは遠く到達する余地も無かった領域だった。 桜木花道の跳躍、流川楓の孤高、宮城リョータの疾走、三井寿の撃手、赤木剛憲の迫力……、「SLAM DUNK」という漫画世界の中心で描きぬかれた“バスケットマン”たちの一コマ一コマの“躍動”を、まさしくコマとコマとの間を無数の描写で埋め、繋ぎ合わせ、動かす(Animation)という崇高な試み。 敢えて語弊を恐れずに言うならば、この映画作品に映し出されたものは、いわゆるアニメーションではなく、稀代の“漫画家”が己のエゴイズムを貫き通した先に到達した漫画作品としての極地だったのではないかと思える。  「THE FIRST」と銘打ち、まさかの“切り込み隊長”のバックボーンを描いた本作。 殆どすべての原作ファンにとって、そのストーリーテリングは、是非はともかく驚きであったことは間違いないだろう。 賛否が大きく分かれていることからも明らかなように、その追加要素が雑音として響いてしまったファンも少なくないのだろうと思う。  ただ、個人的には、この加えられた物語こそが、連載終了から四半世紀経った今、井上雄彦が描き出したかった物語であり、「SLAM DUNK」という漫画をもう一度クリエイトする理由に他ならなかったのだと思う。 例えばもっとシンプルに「山王戦」のその激闘のみを精巧に描き出した方が、特に原作ファンのエモーションは更に高まったのかもしれない。 でもそれでは、井上雄彦本人が監督・脚本を担ってまで本作に挑む価値を見い出せなかったのだろうし、そもそもこの企画自体生まれていなかったのだろう。  井上雄彦は、時代と価値観の変化と混迷の中で、「バガボンド」、「リアル」という彼にとってのライフワークとも言える作品を、その終着点を追い求めるかのように描き続けている。 漫画家という立ち位置を崩すことなく、ただひたすらにその表現力を進化させ、思想を発信し続けるクリエイターの矜持が、本作には満ち溢れていた。  そのすべてを井上雄彦自身が生み出している以上、無論これは後付などでは決してなく、原作漫画「SLAM DUNK」の研ぎ澄まされた1ピースであろう。 いや、四半世紀前から知っちゃいたけど、「天才」かよ。
[映画館(邦画)] 9点(2022-12-15 21:20:53)
89.  ラストナイト・イン・ソーホー
“ソーホー”とは、ロンドン中心地に位置する1エリアのこと。古くは性風俗店や映画施設が並ぶ歓楽街として栄え、現在では高級レストラン、メディア関連企業が立ち並ぶロンドンにおける文化・ファッションの中心地となっているようだ。 そういうイギリス及びロンドンという街の歴史や、文化的な文脈に精通していれば、より一層この映画の魅力は増大したことだろう。 僕自身はそういったロンドンの風俗や文化に傾倒しているわけではないので、何となくの「雰囲気」のみでしか本作の魅力を感じ取ることはできなかったけれど、それでもこの映画世界が発する色香や艶めかしさ、そしてのその真裏に蠢く罪や闇は、如実に感じることができた。  往年のロンドンの歓楽街が発する輝きとそれに対する憧れ。表裏一体に存在する悲しみと憎しみ。 国内外問わず、過去の文化やファッションに対するリスペクトは尽きないけれど、それらが成立していた当時の社会の本質が、現代社会の価値観によって露わになったとき、そこには「恐怖」や「憎悪」として蘇る要素が溢れかえっている。 ファッションデザイナーを志す主人公の田舎娘が、上京に伴うあらゆる刺激と共に感じ取ったものは、長い年月の中で累々と積み重ねられた女性たちの“怨念”そのものだったのだろう。  描き出されるストーリーの顛末自体は、ありふれており、サスペンスとしてもホラーとしてもオーソドックスだと言える。 ただしそこには、監督エドガー・ライトのシネフィルらしいエッセンスが散りばめられ、必ずしもストーリー展開に依存しない映画的魅力が詰まっている。  現代と60年代の“ソーホー”という歓楽街自体が巨大な“キャラクター”として存在し、この特異な映画世界の骨格を担っている。 そして、その中で文字通りくるくると入れ替わるように立ち回る二人の若き女優が、互いに輝き、照らし、光と影を表現している。 トーマシン・マッケンジーとアニャ・テイラー=ジョイ、幾つもの話題作で印象的な存在感を示している両女優の競演こそが、本作の最大の魅力だと言ってもいい。 ストーリーの展開共に、合わせ鏡のような二人が置かれた立場と心象風景は交錯し、作品テーマとしての陰と陽を織りなしていたと思う。  前述の通り、練られたストーリーや深いドラマ性があるタイプの作品ではなく、歪に偏った映画であることは間違いないが、それ故に忘れがたきカルト性を備えた作品に仕上がっている。
[インターネット(字幕)] 8点(2022-12-12 10:48:35)(良:1票)
90.  すずめの戸締まり
「脅威」に対する人間の無力と儚さ。だけれども、一時でも長く生き続け、存在し続けていたいという切望。 廃すてられた場所に眠る思いを汲み取り、悔恨が漏れ開きっぱなしになっていた“戸”を締めるという行為が織りなすファンタジーは、想像以上に「現実的」で「普遍的」だったと思う。 現実社会における災害やそれに伴う悲劇を果敢に題材として取り込み、秀麗なアニメーション表現の中で描いた試みと、ストーリーテリングの方向性自体は、間違っていなかったと思う。 ただし、その結果が、映画としての面白さや、オリジナリティとして結実していたかというと、必ずしもそうではなかったと思う。  我が子二人と連れ立って劇場鑑賞して、決して残念な映画ではなかったし、無論観たことを後悔する類いの作品ではない。 この国のアニメーション監督として紛うことなきトップランナーである新海誠の作品である以上、見逃すべきではない。 ただそれ故に、その新作に対しては、高いハードルが用意されることは避けられない。  社会現象ともなった「君の名は。」、そして個人的にはそれ以上の傑作だと確信した「天気の子」。 本作は、その過去2作とも時代背景を共有しており、「災害」という共通のテーマを扱っている点を踏まえても、三部作の一つとして捉えられる作品だろう。そしてより直接的なファンタジー描写や、アドベンチャー展開など、三作の中でも最もエンターテイメント性の高い作品だったと思う。 ただ、何かが圧倒的に物足りなかった。それが映画的なエネルギー不足に直結しているように思えた。  それは何だったか? 上手く言葉を選べていないかもしれないが、個人的な感覚から浮かんだことは、“エゴイズムの欠如”だった。  僕が新海誠の過去2作品から得たエモーショナルは、主人公たちが発し貫き通す圧倒的な“エゴ”によるところが大きい。 流星が町に降り注ぐその間際であろうとも、ようやく訪れた焦がれた相手との逢瀬に没頭し、過ぎ去った時間すらも覆す。 この世界の理も仕組みも無視して、無責任だろうが、独善的だろうが、世紀の我儘を押し通す青臭さ。 不可逆を覆そうとも、世界が水没しようとも、それでも「大丈夫だ」と言い切る若い生命の猛々しさと瑞々しさ、それをまかり通すアニメーション映画のマジックに僕は感動したのだと思う。  そういった映画的なエゴイズムが、本作からは薄れてしまっているように感じた。 それはもちろん、現実世界の災害や悲劇を取り扱ったことによる真摯な態度とも言えよう。 でも、それによって映画的な面白さが表現しきれないのであれば、本末転倒であろうし、その題材を取り扱う意味が果たしてあったのかとも思う。  自然災害をはじめとする脅威に対して人間は為す術もない。特にこの十年あまりの時代の中で、この国の人々は改めて痛感している。 そういう現実がある以上、安易なハッピーエンドなどは描くべきではないだろう。 しかし、それが現実だからこそ、せめて映画世界の中では強烈なエゴイズムを貫き通す人間たちの姿を見たいという思いも、今この世界の多くの人が秘める思いではないか。  本作の主人公たちが何も成し遂げていないなどというわけではもちろん無い。 けれど、悲劇的な現実を超越するほどのマジックは、この映画から感じることはできなかった。
[映画館(邦画)] 6点(2022-11-19 22:02:33)
91.  アムステルダム
戯曲のように自由闊達で雄弁な語り口。そして、人物たちの強い眼差し。 想像以上に突飛で、時にアバンギャルドな映画世界中で、唖然とするシーンも多かったが、それ故に明確な意思の強さを感じる作品だった。 その彼らの意思の強さは、今この混迷極まる世界、そして時代の最中において相応しく、大きな存在感を放っていたと思えた。  第一次世界大戦の戦場で知り合い親友となった男女が、1930年代のニューヨークで再会し、陰謀渦巻く殺人事件に巻き込まれる。 冒頭から見るからに常軌を逸した“変人”医師として登場する主人公“バート”を演じるクリスチャン・ベールが、特異な存在感を放ち、観る者に対して、本作が良い意味で“マトモな映画ではない”ということを半ば強制的に呑み込ませてくる。 そして矢継ぎ早に展開される解剖シーンと殺害シーンで、観客をドン引きさせると共に、本作が描く時代の混迷へと引きずり込む。 その観客の感情や心の準備なんてお構いなしに、本作が描き出すべきテーマと、それを織りなす時代を表現する冒頭の展開は、極めて強引で暴力的だけれども、同時にシニカルで痛快でもあり、本作が孕む本質的なエンターテイメント性を伝えていたと思う。  タイトル「アムステルダム」は、主人公ら3人が意気投合し、束の間の安寧を謳歌した街として映し出される。 戦禍の悲痛を経て、喜びと多幸感に溢れる青春の様を描いたその短いシークエンスは美しく、3人がその後の人生においてもその日々を心の拠り所として生きてきたことがありありと伝わってくる。 その中で、マーゴット・ロビー演じる“ヴァレリー”は、まさしく太陽のような輝きと強さを併せ持ち、圧倒的な魅力を放っていたと思う。その後時を経て再登場し、一転して月のような儚い輝きと陰影を表現していたことも印象的だった。(マーゴット・ロビーは、今やハリウッドにおいてその出演作にもっともハズレが無い女優の一人だと思う)  次々に登場するオールスターキャストもみな印象的で素晴らしい。 ジョン・デヴィッド・ワシントン、ゾーイ・サルダナ、クリス・ロック、マイク・マイヤーズ、マイケル・シャノン、アニヤ・テイラー=ジョイ、ラミ・マレック、そしてロバート・デ・ニーロ。殆ど事前情報を入れずに鑑賞に至ったこともあり、個性的な豪華キャストが登場するたびに驚き、高揚した。  特異なストーリーテリングとテンションが全面的に繰り広げられる作品なので、必然的に“お手本通り”に“万人受け”するタイプの映画ではないだろう。正直、間延びしていたり、展開的な違和感を感じる場面も少なくはない。 ただその映画的な歪さや、ある意味での居心地の悪さも含めて、本作が試みたブラックユーモアであり、現実の世界にも通ずるシニカルな批評性の表れだったのだと思う。  主人公は、文字通り満身創痍の身体と己の人生を受け入れて、引き続きこのクソみたいな世界で生き続けることを決心する。 その先に本当の愛はあったのだろうか。3人の親友たちはいつか再会して再び歌い合うことができたのだろうか。 アムステルダムの街は、また美しく、彼らを迎えてくれたのだろうか。 この映画の終幕の後に展開する世界の行く末と、彼らの人生模様を想像して、少し胸がキュッとなった。
[映画館(字幕)] 8点(2022-10-30 16:58:31)
92.  さかなのこ
「普通って何?ミー坊はよくわからないよ」  「普通」じゃない人生に嘆く幼馴染に対して、主人公の“ミー坊”は純粋にそう言い放つ。 そこにあったのは、安易な“なぐさめ”でもなければ“やさしさ”でもなかった。 ミー坊自身、普通じゃない生き方をしていることへの自覚があったわけでもないだろうし、好きなものをただ「好き」と言い続けることの価値なんてものを「意識」していたわけでもないだろう。  ただボクは“お魚さん”が好き、だから、“お魚さん”のことばかり考えて生きていきたいし、生きていく。 もし、ただそれだけのことが「普通」じゃないとされるのなら、しかたがない。  彼の根幹にあり続けるものは、雑味のないその「意思」ただぞれのみであり、それ以上でもそれ以下でもない。彼は自ら選択したその生き方に対して、他者からの意味も価値も求めていない。だからこそ、決して揺るがず、ブレない。  それが、この映画の主人公の魅力であり、彼を描いた本作の魅力だろう。 誰しも、自分自身に対して嘘偽りなく、まっすぐに生きていたいと心の中では思っているはずだ。 でも、残念ながらこの世界はそういうことを簡単にまかり通せるほどやさしくできていないし、そういう意思表示をすることさえ難しい。 そんな「意思」を貫き通す主人公が登場しても、「こんなのファンタジーだ」と、普通の大人なら感じてしまうだろう。  そう“普通”なら、こんな馬鹿げたヘンテコリンな映画は、まともに観ていられないはずなのだ。 だがしかし、この映画の中心、この映画を生み出したプロジェクトの中心に存在するモノが、「さかなクン」という“リアル”であることが、この作品を奇跡的に成立させているのだと思える。 どんなに“変”な人間たち、どんなに普通じゃない人間模様を見せられていたとしても、そこにさかなクンという現実に存在する人間の人生が存在する以上、この物語が破綻することはなく、私たちはこの映画世界に没入することができる。  また、いびつで愛おしく多幸感に溢れる映画ではあったけれど、この映画は決して“綺麗事”や“理想論”を都合よく並び立てているわけではない。 あからさまにネガティブなシーンは敢えて一つも見せていないけれど、この映画世界の中では、常に苦悩と孤独、人生における辛酸がぴったりと寄り添っている。  その極みこそが、さかなクン自身が演じる“ギョギョおじさん”の存在だろう。 社会から拒絶され疎まれ、孤独に生きる“ギョギョおじさん”は、まさにさかなクン本人の“ありえたかもしれない姿”であり、主人公ミー坊自身の未来像かもしれなかった。 藤子・F・不二雄の短編漫画「ノスタル爺」のように、子供の頃に出会った孤独な大人は、自分自身の未来の姿だったという悲壮な展開すらも容易に想像できた。   作品のイントロダクションから伝わってくる情報を大きく越えて、全編に渡る“多幸感”とそれと合わせ鏡のように存在する“闇”を孕めた特異な映画だったと思う。 フィルム表現のザラつき、エモーショナルな時代の風景、性別なんて概念を超越したアクトパフォーマンス、そして好きなものを好きと言い続ける崇高さ、映画表現を彩るあらゆる面で、意欲と挑戦に溢れた傑作。
[映画館(邦画)] 10点(2022-10-02 09:08:37)
93.  9人の翻訳家 囚われたベストセラー 《ネタバレ》 
久しぶりに、「良いミステリーサスペンス映画を観た」という充足感に包まれた。 マクガフィンとして物語の中心に存在するベストセラー小説の「デダリュス」というタイトルが最後まで覚えられなかったけれど…。  世界的大ベストセラーの最新作の多言語化に際し、世界各国から9人の翻訳家が秘密裏に集められる。 その翻訳家たちを人里離れた洋館の地下室に隔離して、徹底した情報管理体制のもとで翻訳作業を行わせるというプロットはなるほど映画的だなと思ったが、なんとこれは実際に行われた手法だというから驚く。ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」シリーズ最新作「インフェルノ」の出版の際に、同様のスタイルで翻訳作業が行われたらしい。  そんな事実に着想を得て練り上げられた脚本が、ずばり見事だったと思う。 慢性的なネタ不足で、世界的に小説や漫画の映画化が溢れる昨今において、この脚本のオリジナル性は価値が高い。 フランスの低予算映画で、それほど有名なキャストも揃っていないので(知っていたのはボンドガールを演じたオルガ・キュリレンコくらい)、最後まで登場人物たちに対する“焦点”が定まりきらなかったことも、サスペンス映画として効果的に機能していたと思う。  プロットの必然性により、国籍の異なる9人が集まり、彼らが織りなす言語と思考が入り混じることで、ストーリーの推進力と、巧妙な“ミスリード”を生み出していた。作中、アガサ・クリスティーの「オリエント急行の殺人」を引き合いに出したことも、巧い誤誘導だった。  もう少し、9人の外国人が群像劇を展開することによる現代的な視点や問題意識を盛り込めていれば、もっと映画作品として深みが出ていたような気もするので、その点はまたリメイク等にも期待したい。 ストーリーの顛末を知ってしまった今となっては、逆に各国出身のハリウッドスターを揃えたオールスターキャスト版も観てみたい。  ともあれ、サスペンス映画を観て純粋に“驚く”という機会も中々少なくなっているので、それを得られた時点で本作の価値は揺るがない。
[インターネット(字幕)] 8点(2022-09-23 09:50:28)
94.  ブレット・トレイン
“ニッポン”は、世界中の外国人にとって、我々日本人が思っている以上に、唯一無二の「娯楽」の塊なんだと思う。 サムライ、ニンジャ、フジサン、アニメ、コスプレ、そしてシンカンセン。時代を越えて積み重ねられたその累々とした娯楽要素こそが、この国を愛する多くの外国人が求めるモノであり、憧れなのだ。  長年、そういった“ニッポン”を愛する外国人が生み出す映画を観ていると、日本人が見せたい“JAPAN”と、外国人が見たい“ニッポン”とでは、そもそものベクトルが異なるということをつくづく感じる。 昔は、そんな“トンデモ”日本描写に対して鼻白むことも多かったけれど、今は、逆輸入の新しい娯楽性として純粋に楽しめるようになったし、それほどまでこの国を愛してくれている海外クリエイターたちに感謝を覚えるようになった。 そう、そこにあったのは、日本文化に対する「無理解」ではなく、圧倒的な「愛」だったのだ。  結論を言うと、本作「ブレット・トレイン」(a.k.a「弾丸列車」)は、想像を遥かに超えた“トンデモバカ映画”だったが、紛れもなく日本がルーツのこの作品は、日本人にとっても圧倒的娯楽だった。 ずばり、エンターテイメント大作として“ケッサク”である。   私は伊坂幸太郎の小説のファンなので、原作「マリアビートル」も既読。 というよりも、ブラッド・ピット主演で映画化という情報を聞き入れてから、一年ほど前に読んだ。 伊坂幸太郎らしい軽妙さと人生観を孕んだ楽しい娯楽小説で、読了時点から本作を鑑賞するのが楽しみだった。 小説のストーリーラインを忠実に映画化しているというわけでは勿論なく、ハリウッド映画化にあたって文字通り大いに「脱線」していることは間違いない。 でも、その「脱線」こそが、ハリウッド映画化の意義であり、ブラッド・ピットが主人公を演じ、デビッド・リーチ監督がクリエイトすることによる付加価値だろう。  小説の語り口と比較すると、全く別のお話のようにも見えるかもしれないが、原作が描くテーマや精神性は、荒唐無稽の映画世界の中でもしっかりと反映されている。 疾走する高速列車の中で、登場人物たちの「悪運」と「幸運」が、絡み合い、鬩ぎ合い、運命を切り開いていく。 殺し屋たちが織りなすその群像劇そのものは、非現実なファンタジーだけれど、現実世界であってもおびただしい人間たちの悪運と幸運が入り混じっていることには変わりなく、その一つ一つの結果が「人生」であるということ。 理不尽な状況下の中で、悪運を撒き散らしながらも、自身の信念を持って存在し続ける主人公の姿こそが、今この世界で「生きる」ということの本質なのかもしれない。   ともあれ、ちょっと珍しいくらいに嬉々として娯楽映画の主人公に扮するブラッド・ピットを堪能しつつ、“トンデモ”が止まらない本作の暴走ぶりを楽しむのがよろしかろう。 本作の舞台となる“弾丸列車”の名称は「ゆかり」。 そう、ほっかほかの“白飯”に、極彩色豊かな“ふりかけ”をたっぷりかけて味わうつもりで。
[映画館(字幕)] 9点(2022-09-23 09:50:07)(笑:1票) (良:3票)
95.  スパイダーヘッド
イントロダクションと映画世界への導入はとても良かった。 孤島に建設されている近代美術館のような刑務所施設の出で立ち、無機質な室内空間、そしてクリス・ヘムズワースの渇いた笑顔。 敢えて、意識的にポップに仕立てられたオープニングクレジットは、逆説的にこの映画世界の不穏さを雄弁に物語っており、興味をそそられた。  「とても面白そうな映画」 それは、Netflixオリジナル映画の一つの特徴となりつつある。  もちろん、映画の予告編やあらすじを見せて、「面白そう!」と感じさせることは極めて大切なことだ。 特に、映画に限らず、これだけありとあらゆる娯楽コンテンツが溢れ返っている現代社会においては、何を置いても、「再生ボタンをクリックさせる」というユーザーアクションの創出以上に重要なことなどないのかもしれない。 “面白そう”なオリジナル作品が常にラインナップされる以上、映画ファンの一人として、“そこ”から離れることはなかなか難しい。  が、結果的には、面白そうな映画で、実際面白い部分もあったけれど、ガツンと心に残り続ける作品に仕上がっていることが少ない。というのが、Netflixオリジナル映画の実態だ。  本作も、前述の通り、非常に興味をそそる映画世界を構築していたのだけれど、最終的な印象としては、極めて薄っぺらく感じた。 結局は、ストーリーが“ありきたり”の範疇を出ておらず、話が進むにつれて尻つぼみになっていった。 この手のストーリー展開にリアリティなんて求めても仕方ないことだし、近未来を舞台にしたディストピア設定なのだから、もっと振り切った展開を見せるべきだったろうと思う。  “ソー”からの「脳筋」イメージ脱却を図るクリス・ヘムズワースは、大いに屈折した製薬会社の人間を怪演していたと思うし、今年は「トップガン マーヴェリック」の記憶がまだまだ鮮烈なマイルズ・テラーも印象的な雰囲気を醸し出していたとは思う。 ただ、それぞれのキャラクター性も今ひとつ踏み込みきれぬままストーリーが収束していくので、何とも中途半端な人間描写に留まってしまっている。  それこそ、本作の監督は「トップガン マーヴェリック」のジョセフ・コシンスキーなわけで。 同じ監督、同じキャストであっても、何か要素が異なれば、映画的なエネルギーはここまで差が出てしまうということ。 詰まるところ、それが「トップガン」でトム・クルーズがエゴイスティックに拘り抜いたことであり、Netflixに限らず配信作品に何か物足りなさを感じてしまう要因なのではないかと思える。
[インターネット(字幕)] 5点(2022-09-17 22:15:05)
96.  ムーンフォール 《ネタバレ》 
やっぱり僕は、ローランド・エメリッヒ監督の「馬鹿」がつくほどの超大作が大好物らしい。 中学生の頃に観た「インデペンデンス・デイ」以来のその趣向を改めて思い知った。 Amazon Prime Videoで公開されたこの超大作、ネット上の評価は概ね芳しくないようだけれど、僕は断然「大好き」だった。  タイトルそのままに「月が落ちてくる!」というイントロダクションに嘘偽りは全く無い。 あらゆる科学的考証なんて完全無視するかのごとく、突如として月が地球に迫ってくる。 まさしく読んで字の如しの「天変地異」、映画史上最大クラスの“災害映画”であることは間違いないだろう。  ただし、時代は2022年、今更大仰なディザスタームービーを謳われても、特に日本での劇場集客が難しかったろうことは理解できる。 それこそ同監督の超大作が立て続けに公開された90年代後半ならいざしらず、もはや“地球が崩壊する有様”なんて、特に映画ファンでなくとも見飽きているというもの。 そういう意味では、本作のプロジェクト自体が、安直だったことは否定できないし、日本国内では配信公開となったことは賢明だったとは思う。  が、しかしだ。 前述の通り1996年の「インデペンデンス・デイ(ID4)」に熱狂し、世評の揶揄や嘲笑を感じながらも、「GODZILLA」「デイ・アフター・トゥモロー」「2012」と、一種ジャンル化した超大作ディザスタームービーを楽しんできた世代の映画ファンとして、2022年に観る本作は、ある意味感慨深く、やはり楽しかった。  流石にただの「災害映画」一辺倒のストーリーテリングだとマンネリは避けられないかと思っていたけれど、そこに月にまつわる“都市伝説”と“オカルト的学説”を強引にねじ込み、トンデモSF映画に「昇華」させている。 もちろん、このトンデモ展開を是と捉えるか、否と捉えるかは人それぞれだろうし、きっと多くの人たちは否定するのだろうけれど、SF映画ファンとしてこの強引な展開は非常に好ましかった。  キャスト的にも、長らくファンのハル・ベリーは女優として良い年のとり方をしていると思えるし、パトリック・ウィルソンを主演に配することによる良い意味での“B級映画感”も個人的には好印象。 少ない出演シーンながらドナルド・サザーランド、マイケル・ペーニャと脇役のキャストも意外に豪華だった。(マイケル・ペーニャは最後生きていてほしかったが……)  クライマックスの展開などは、言うまでもなく「ID4」やその他作品の焼き直しだし、既視感は否定できなかったが、それでもド定番な“負け犬たちのワンスアゲイン”展開には胸熱にならざるを得なかった。  もし日本で劇場公開されていたならば“大コケ”は不可避だったのかもしれないけれど、それでも僕はこの馬鹿映画を大スクリーンで観たかった。
[インターネット(字幕)] 8点(2022-09-04 10:05:08)(良:3票)
97.  モービウス 《ネタバレ》 
夏時期になると自宅の周りにコウモリが多くて困っている。 以前などは、いつの間にか室内に入り込んでいて、恐怖におののいた。 本作で、主人公モービウスがコウモリの化け物に変態してしまって、天井の片隅に張り付いている様は、その時のおぞましさを思い出すとともに、禍々しくて良かったと思う。  作品全体を総じて、ハイセンスなビジュアルは流麗で独創的だったと思えた。 怪物化したモービウスが煙のような形態で、縦横無尽に飛び回り襲いかかる描写も、美しさと禍々しさを併せ持った印象的なビジュアル表現だった。  主演のジャレッド・レトは、“変態前後”で見事な肉体改造を見せ、新たなダークヒーローを熱演している。 主人公の親友でありヴィランとなる“マイロ”を演じたマット・スミスも、独特な風貌と佇まいで好演していたと思う。ヒロイン役のアドリア・アルホナも良かった。  映像表現も、キャストのパフォーマンスも優れていたのだが、いかんせん話運びが稚拙で上手くない。 ストーリー展開が破綻しているということはないし、主人公やその親友の悲痛な人生や、ヒロインとの関係性など、エンターテイメント映画として高揚感や感動を生む要素は確実に孕んでいたと思える。 適切なストーリーテリングで深めるポイントを間違わなければ、もっとストレートに胸に響く味わい深い作品になっていたのではないかと思う。  MCU作品「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」でのマルチバース展開を経て、ソニー・ピクチャーズに舞台を移した新たなユニバース展開を広げていくためのポストクレジットシーンも、少々物足りない。 マイケル・キートン演じるトゥームスの登場自体は良いが、それだけではやはり弱いし、本作における主人公の帰着に対して違和感は拭えなかったなと。  残念ながら満足感の高い作品では無いが、続編と計画されているユニバースの展開には期待したい。 本作のモービウスのケムリ移動に、スパイダーマンやヴェノムのアクションが入り混じった光景は、想像するだけでもアメージングだ。 何よりも、ジャレッド・レトには、アメコミ映画におけるせっかくの熱演・好演が報われなかった過去(無きものにされた元祖“スーサイド”)があるので、今回は何とか報われてほしい。
[インターネット(字幕)] 5点(2022-08-28 10:17:34)
98.  グレイマン 《ネタバレ》 
「“超人的”はやめろ バカっぽい」  “キャプテン・アメリカ”役を卒業して、ある意味「自由」になったクリス・エヴァンスをサイコパスな悪役に配し、この台詞を放たせたことが、本作のハイライトかもしれない。   「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」から「アベンジャーズ/エンドゲーム」までの各作品の指揮をとり、MCUの“インフィニティ・サーガ”を見事に締めくくってみせたルッソ兄弟による本作におけるアクション描写の手腕は流石だった。 アクション映画としての“見せ方”と“魅せ方”は、作品全編において「工夫」が張り巡らされていて、楽しく、引き込まれる。  前述のクリス・エヴァンス含め、キャスティングも良かった。 主演のライアン・ゴズリングは鍛え上げられた見事な“肉体美”と、この俳優持ち前の“憂い”で、アクション映画の主人公として申し分ない魅力を放っていた。 「007/ノー・タイム・トゥ・ダイ」の記憶もまだ新しいアナ・デ・アルマスは、「007」での少ない出演シーンで世界中の映画ファンを虜にした魅力を存分に見せてくれた。 また個人的には1996年の「スリング・ブレイド」以来のビリー・ボブ・ソーントンという俳優のファンなので、久しぶりの出演作鑑賞が嬉しかった。  と、アクションもキャストも最高だったのだけれど、いかんせんストーリー展開がありふれておりチープ過ぎた。 スパイ・アクションの部類である以上、もう少しストーリーテリングにおけるケレン味や小気味よさがほしかったところ。 キャストのパフォーマンスはそれぞれ安定していたはずだけれど、演じるキャラクターの言動があまりにも予定調和的過ぎるので、結果的に「凡庸」に見えてしまったことは否めない。  続編を狙っているためか、諸々の設定が未回収な箇所も多く、本作単体の結末にカタルシスが得られなかったことも大きなマイナス要素だった。
[インターネット(字幕)] 6点(2022-08-20 10:50:52)
99.  ONE PIECE FILM RED 《ネタバレ》 
「ONE PIECE」の映画作品の鑑賞は、「STRONG WORLD」、「FILM Z」に続いて3作目。 原作漫画ファンなので、アニメシリーズは殆ど見ておらず、映画作品も公開時に評判の良かった前述の2作品を観たきりだった。 ただ、今年になって小2の息子がアニメに夢中になっており、シーズン1から延々と観続けている。 そんなこともあり、夏休みどこにも行けず暇を持て余していた子どもたちを連れて、4DXで観てきた。   本作のテーマは、「歌」を通じた「自由」という渇望とその危うさ。  「自由」とは何か? 抑圧や支配、苦しみや悲しみを安直に拒否し、それらが皆無の限られた世界に閉じ籠もることは、果たして自由か。 自由の渇望とは実はとても曖昧な概念であり、それを悪意はなくとも浅く捉えてしまったとき、自由の追求そのものが独善的な狂気になり得るということ。 これは決して大仰なテーマではなく、僕たちの普通の生活や人生の中でも、往々にして起こることだと思う。  歌手のAdoを歌唱パフォーマンスにキャスティングし、ほぼアテ書きのと思われる「UTA」というオリジナルキャラクターを造形することで、歌い手のパフォーマンスに振り切り、そういうテーマの浮き彫りに絞ったストーリーテリングは好感が持てた。 そのテーマとストーリーは、Adoを世に出したヒット曲「うっせぇわ」のセルフアンサーのようにも感じ、作品としての立体感につながっていたと思う。  オリジナルストーリーの映画であるがゆえに、キャラクター設定やストーリー展開の強引さはある。 避けられない不運が重なったとはいえ、シャンクスが娘同然の少女を十数年も放置していたことには違和感があるし、それによってウタが辿った運命は悲痛すぎる。(そのあたりについては、せめて連載漫画の扉絵シリーズなどでフォローしてほしい)  とはいえ、25年に渡って「ONE PIECE」を読み続けているファンとしては、ほぼ初披露と思われるシャンクスをはじめとする赤髪海賊団の面々のバトルシーンと、従来の敵味方が入り混じった“ドリームチーム”に、想像以上に興奮した。(まさかブルーノが萌キャラとして登場するとはな)
[映画館(邦画)] 6点(2022-08-20 10:15:02)
100.  ジュラシック・ワールド/新たなる支配者
1993年の「ジュラシック・パーク」から約30年、時間を越えて、時代を越えて、一つの映画シリーズを“体感”するというプロセスは、映画ファンとしての一つの醍醐味だと思う。 かなり破茶滅茶な作品に仕上がっていることは否定しないが、30年間このシリーズを観続けてきた一恐竜映画ファンとして、“胸アツ”だったことも否定できない。  30年前、10歳かそこらだった私は、父親と劇場のスクリーンに蘇った恐竜の闊歩を目の当たりにした。 映画制作におけるCG技術もまだまだ黎明期だった時代、スティーヴン・スピルバーグによってもたらされたその“恐竜世界”は、まさにアメージングであり、エキサイティングな体験だった。 個人的にも、映画を映画館で観るという娯楽体験の本質を、心に植え付けてくれた作品だったと思える。  そんな映画史的にも、個人的にもエポックメイキングな作品の「完結編」と謳われる本作に対して、熱くならないわけがないのだ。 前述の通り、破茶滅茶な映画であり、ストーリーテリング的に破綻している箇所もあるだろう。 ただし、そういう破茶滅茶をまかり通すのが、SF映画であり、娯楽映画であると、私は思う。  SF映画に対して、「科学的ではない」などというクレームをつけるのは、そもそもナンセンスだ。なぜなら、「SF」とは科学的に説明できないことを空想で物語るものであり、そもそも「科学」とは未知なるものを想像し、探求する学問だからだ。 暴論を恐れずに言うならば、「科学的ではないことこそが、科学なのだ」と私は信じている。  “ジュラシック・パーク”の創始者ジョン・ハモンドが、空想し、想像し、巨万の富を駆使して“実現”したのは、まさにそういう世界だった。だからこそ、人々は倫理観を越えて熱狂し、30年間に渡って繰り返し“恐竜世界”を求めたのだと思う。   と、ついつい“空想”と“現実”が入り混じった感情を抱いてしまうが、とにかく私はそれくらいこの映画シリーズが大好きだった。 そして、ついには恐竜たちが世界中に蔓延り、地球上の生命の「種」を混ぜっ返すようなSF世界まで到達してみたこの最新作もとい最終作を私は断然支持したい。  ああ、楽しかった。 映画鑑賞においてその多幸感に勝るものなどない。
[映画館(字幕)] 8点(2022-08-11 07:27:12)(良:1票)
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