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81.  東京上空いらっしゃいませ 《ネタバレ》 
まず驚くのは、力技で組み伏してくるようだった80年代の一連の相米映画とのそのあまりの差違だ。わからない奴はわからなくていいとばかりにやりたい放題だった荒くれ者がジェントルマンのたしなみを身につけたかのように、相米はこの映画を相米らしくもとても真っ当な映画に仕上げている。続く『お引越し』で彼がその正しい真っ当さと相米的力技の最もバランスのとれた完成形を見せ、以降はよりその真っ当さを強めていったことを考えると、『東京上空いらっしゃませ』は相米映画の過渡期に位置した記念碑的作品でもある。おもちゃ箱をひっくり返したような美術にファンタジー的特撮、牧瀬里穂のやけくそのような芝居の非リアルなリアル、相米印とでも呼ぶべきそれらを長回しで生き生きと捉えながらこれまたおなじみの荒唐無稽なストーリーを、けれど彼はとてもとても丁寧に大切そうに語る。たとえるならば『ローマの休日』方式の、はじめから終わりを運命づけられた二人のタイムリミット付きの恋の物語を。天国までの猶予の時間を生きる主人公ユウは、貰ったばかりの薔薇をちぎって屋形船の上から夜風に飛ばす。一見共感しがたい刹那的なその行為はしかし大切な花束を前に彼女が出来うる、最大限の愛の表現だ。かけがえのないその花を枯れるまで慈しむ時間すら、彼女にはないのだ。そんな彼女が、今の自分がいちばんいい!と高らかに宣言するかなしさ。影踏みのやりきれなさ。途方にくれながら球体のジャングルジムをぐるぐると回し飛び乗るシーンの抒情。あるいはそれこそ大昔のハリウッド映画のように開きなおった吹き替えのミュージカルシーン、作りものめいた画面の中に牧瀬里穂の躍動だけが今を生きる本物としてくっきりと浮き上がる、そのせつなさ。大口を開けて笑い、喜び、怒り、また笑う、そんな美しくも当たり前の日常を彼女が生き生きと生きれば生きるほどに、すぐそこに迫りくる終わりを予感させる、その逆説がたまらなく胸をしめつける。やがてあらかじめ決められた終わりがやって来て、それでも相米はそれまでの彼からはとても考えられない、ささやかだがそれでいてとびきりすてきなラストシーンを見せてくれる。あとにもさきにもこんなにやさしい相米は見たことがない!へたくそな牧瀬里穂のすばらしい笑顔はオードリー・ヘップバーンにだって負けていないと思う。天国の相米もパラソルの下、地球を眺めながら日焼けしているだろうか。
[DVD(邦画)] 10点(2009-07-25 00:09:24)(良:2票)
82.  リトル・ミス・サンシャイン 《ネタバレ》 
『悪魔のいけにえ』『ホテル・ニューハンプシャー』『アダムスファミリー』『アメリカン・ビューティー』などなどアメリカ人の大好きなモチーフの一つである「フリーキーな家族像」の映画は、周囲をドタバタと迷惑なトラブルに巻き込んで進行するのが常だが、この映画もまさにそれそのものだ。オフビート気取りのシニカルタッチもこう頻発されると食傷ぎみだなぁとイジワルく観ていたつもりが、ロードムービー開始早々しょっぱなでポンコツワーゲンが故障するあたりからおやおや?っと思いはじめる。みんなで力をあわせなければ動かないし乗り込めない役立たずなポンコツワーゲン。けれど、てんでんバラバラだった一家がワーゲンのために仕方なしの一致団結をくりかえすたびに、それぞれの心の垣根がどんどん消えていく。ついでに気づけば観ているこちらの垣根までもがいつしかスルリと取り払われている。そんな中、負け犬と勝ち馬の法則にこだわる父親リチャードだけが、最後までその垣根を完全には捨て去れずにいる。そんな彼が意を決して幼い娘オリーブのために選ぶ行動は、だからこそ涙が出るほどうれしく、頼もしく、そして感動的だ。とってもとってもとってもバカらしくはあるけれど、それでも。力の限りに頑張る家族が人に後ろ指をさされ笑われるのなら、自分も胸をはって笑われよう!家族みんなで胸をはって笑われよう!それは単に親バカになることとは違う。愛するものを誇りに思い、愛するままに両手をひろげて、恥ずかしがらずに力いっぱいその胸に抱きしめるってことだ。それはあの悪態ばかりの下品なジジイが、率先して実行していたことでもある。まるでその遺志を引き継ぐ決意表明のようにリチャードが踊りだす時、彼はオリーブを家族を、そして亡き父を、ありったけの愛で力いっぱいに抱きしめるのだ。生まれてはじめての泣き笑い(それも爆笑と号泣)をこの映画に捧げてしまったが、こんなにすてきな彼らのためなら後悔はない。やっぱりみんなに迷惑をたっぷりかけたうえ最後っ屁までカマして去っていく彼ら。鳴り響くポンコツワーゲンの壊れたクラクションもまた、やっぱり迷惑で、そしていとおしい。それにしても、ダンスレッスンしてるはずが豹のモノマネごっこに興じるジジイと孫、のシーンにちゃんと意味があったなんて!
[DVD(字幕)] 10点(2009-07-25 00:03:46)(良:3票)
83.  ガタカ 《ネタバレ》 
近未来を舞台としたSF映画でありながら『ガタカ』は、建築、自動車、衣装、さらには登場人物たちの髪型などといったあらゆるデザインを、ことごとくクラシックに描いている。そんな未来像がまず目をひく。そしてそれはうわべの美術的なデザインだけにとどまらない。遺伝子工学の発達という設定こそ未来的ではあるものの、生まれながらにして階級が決定しその階級が人の人生を左右するという思想は、旧時代にこそ色濃く社会を支配していたものだったはずだ。科学は飛躍的に進歩しても、ファッションや社会構造は循環し過去に遡行するという発想が面白い。つまりこの物語は、近未来に舞台を借りて現代人が描いた古典映画なのである。たとえば、兄弟での遠泳競争といった未来どころか前時代的な男同士のチキンレースは『理由なき反抗』を、そして不適正者としてのコンプレックスや屈折を見せる主人公ビンセントの姿は『エデンの東』のジェームス・ディーンを彷彿させるほどだ。あるいは宇宙飛行士として旅立つ「ジェローム」を見送る検査官が、旧き佳き時代の遺物のような伊達男っぷりを発揮するのもまた、それゆえだろう。そう考えるとアンドリュー・ニコル監督は、現代劇や時代劇として描くにはあまりに率直でアナクロニズム溢れるこの物語を語る照れ隠しとして、あえて近未来を選んだのではないかとさえ思えてくる。そんなすばらしきこのクラシック映画の中でもっとも現代的なのは、輝かしいはずの適正者の側の屈折を表現するユージーンの存在だろう。不適正者であるがゆえあらかじめ可能性を奪われたビンセントと、適正者でありながら自らその可能性を唾棄せざるを得なかったユージーン。対照的なはずの二人でありながら、それぞれに隠し持つ魂のその等しい痛みが重なりあいジェロームという1人の人物を創り出す展開が見事だ。ユージーンの最期は、尿や血液のサンプルとしてのみかろうじて存在してきたその肉体の抹消に他ならない。宇宙に旅立ったのはユージーンのサンプルをまとったビンセントではない。2人で1人のジェロームなのだ。ビンセントとユージーンそれぞれの魂を共に乗せて、ロケットは新たな地平を目指すのだろう。
[ブルーレイ(字幕)] 10点(2009-07-24 23:59:13)(良:1票)
84.  トト・ザ・ヒーロー 《ネタバレ》 
主人公トマは、向かいに住む金持ちの息子で同じ日に生まれたアルフレッドと自分は産院の火事で取り違えられてしまったのだ、と固く信じている。あらかじめ奪われた人生。そんな子どもの頃に思い描く貴種流離譚はつまり自分の置かれた環境や劣等感から逃避する手段としての夢物語であるが、そうした空想にふけるのは決して不遇な子どもに限ったことではないだろう。事実、トマの子ども時代は、愛する家族に囲まれて、彼の人生で唯一輝いていた時代でもあるのだ。にもかかわらずトマとしての自分の人生を否定し、アルフレッドへの羨望やトト・ザ・ヒーローへの憧憬をいつまでも捨て去れなかったことに、トマの不幸はある。この映画がすごいのは、子ども時代の空想やトマの姉アリスの美しい思い出に囚われつづけるそんな人生を、トマと相対するはずのアルフレッドにも等しく課してしまう点だ。終盤、老人となったアルフレッドが同じく老人となったトマに語る一言は、トマがアルフレッドだったようにアルフレッドもまたトマであったことを意味している。自ら創り出した空想が真実をも呑み込んでしまった時、きちんと与えられていたはずの本物の人生を、まがいものの人生として共に生きざるをえなかった2人。それを踏まえて行動するトマの最期は、ややもすれば被害妄想を貫きとおしたようにも見える。しかしそれは違う。自分の人生を一から否定しつづけてきたその思い込みの間違いに、彼は気づいている。彼がすべきは、真実を否定することでも人生を嘆くことでもなく、自分の手で台無しにしてしまった人生そのものをそれでもありのままに受け入れ肯定すること。アルフレッドとなって死んだトマだが、そうすることで彼はアルフレッドの人生ではなく、アルフレッドになりたかったトマとしての人生を見事に生ききったのだ。間違いだらけであっても灰色であってもそれでもすばらしい、彼の本物の人生を。灰となって空を飛ぶトマの笑い声はだからこそ底抜けに陽気で、そして人生賛歌のように薔薇色の世界に燦々と降りそそぐ。ぼくの人生はこんなにもすばらしいぞ、と。こんな思いがけないラストを用意してくれたジャコ・ヴァン・ドルマル監督に心から拍手を送りたい。
[映画館(字幕)] 9点(2009-07-23 22:01:11)(良:3票)
85.  台風クラブ 《ネタバレ》 
『ションベンライダー』が思春期一歩手前の少年少女の子ども時代との決別を描いていたとするならば、『台風クラブ』は望まぬ思春期を真っ只中にむかえてしまった少年少女の反撃の映画である。画面には常に後ろめたいような性の匂いが横溢し、いまだ無邪気に見える彼らの背後には、小学生でも高校生でもなく中学生特有の自分の体が大人になっていくことへの畏れと悲しみがそこはかとなく漂う。そんな台風到来直前の思春期的性衝動と渦巻くような胸さわぎ、そして後半の原始的な台風がもたらす不思議な昂揚感と開放感、さらにはそれらをねじ伏せんばかりに見せつける生々しい映画的興奮とがないまぜとなり、まさに台風のように徐々に強大化し、また収束していくさまが圧巻だ。この規格外の豪速球っぷりは、ただごとではない。それほど衝撃的で、それでいてこの映画の粒子一つ一つがまるで自分の細胞の一つ一つであるかのような、あたかも自分の心象風景をまるごと映写されているかのような、そんな懐かしさがこみあげるのはなぜなんだろう。夜のプールの空気感、木造校舎のたたずまい、大西結花が朗々と読みあげる高田敏子の詩「忘れもの」もたまらなくいいが、相米印の型破りな選曲センスも抜群だ。バービーボーイズからはじまりPJのレゲエ、歌謡曲わらべの「もしも明日が」に、エンドロールは運動会の実録音源って!そんな破天荒なDJされちゃった日にはもう、全面降伏でシビレるしかない。恐るべし相米慎二。台風がのこした爪痕である校庭の巨大な水たまり。それを軽々と進んでいく工藤夕貴は、心にのこるであろう爪痕もまた乗り越えていくんだろうか。
[DVD(邦画)] 10点(2009-07-23 21:58:42)(良:3票)
86.  マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ 《ネタバレ》 
魔法をかけられたみたいに回をかさねて観れば観るほどに大好きになっていく不思議な映画だ。主人公イングマルはまだ子どもなのに、決してさびしいとは言わない。悲しいとも言わない。人工衛星に乗せられて死んだライカ犬や新聞で読んだ不幸な事故に遭った人たちと比べて自分は幸せだ、とただ思うだけだ。それは悲しみをやり過ごす手段というよりも、それこそが、彼にとってできるただ一つの悲しみの表現だからだ。だから、ライカ犬を思う時、それはつまり彼が年相応に泣くことすらできない時なのだ。それがなんともたまらない。両手を広げてむかえてくれるやさしいおじさんおばさん、友だち、そんなあたたかい村の人たちに囲まれて、笑ってはいても彼はいつもどこか所在なさげだ。彼にとっては、どんなに恵まれていようがそこは本当の居場所ではないのだ。彼が行きたい場所は、浜辺でのでんぐり返りに笑ってくれた母親とのまぶしい光景の中にしかない。そんな彼がはじめて泣きわめき、庭の東屋に立てこもるエピソードは、彼が等身大の自分に還るために必要な通過儀礼でもあったのだろう。人工衛星のような闇夜の東屋で、彼は何を思ったのか。やがて朝が来てライカ犬とは違い無事帰還をはたしたイングマルが見つけたのは、あらかじめ用意されていたその場所こそが自分の本当の新しい居場所であるということ。彼はもうライカ犬と自分を比べたりはしないだろう。悲しい時は悲しいと、さびしい時はさびしいと、言うだろう。自分の手でようやくそんな居場所を勝ちとったイングマルが遊び疲れてソファでうたた寝するラストシーンは、戦士のつかの間の休息のようで、ほほえましくも、とてもたくましい。
[DVD(字幕)] 10点(2009-07-23 21:56:37)(良:5票)
87.  天使の涙 《ネタバレ》 
ウォン・カーウァイの映画では、登場人物たちは縦横無尽に街を疾走し、すれ違い、出会い、別れ、また出会い、あるいはまたすれ違う。せわしない彼らの疾走が止むことはない。それは60年代の香港であっても現代の香港であってもブエノスアイレスであってもニューヨークであっても、変わらない。街の動きとはそういうものだと言わんばかりに。撮影監督クリストファー・ドイルが描出する過剰にスタイリッシュな、色と光の洪水のごとき映像。行き当たりばったりなストーリー。ときにポップ、ときに絢爛な美術。スター俳優ばかりを起用した贅沢なキャスティング。カーウァイ映画は、とかくこれらの要素ばかりに着目して毀誉褒貶が下されがちだが、それはとても無意味に思える。なぜならそれらはウォン・カーウァイ独特の目くらましにすぎないからだ。手を変え品を変え装飾されたその表層の下には、常に同じシンプルな主題が恥ずかしそうに息を殺して隠れている。広角レンズを多用し、ひときわ強調される目くらましとはうらはらに、『天使の涙』は彼がもっともすなおにその素顔を見せた作品でもある。ウォン・カーウァイの映画は憑かれたように一瞬を描きつづける。腕時計の秒針の一周を共に見守る一瞬、明け方のグラウンドでポケベルが鳴る一瞬、固い握手をかわす一瞬、そして二人乗りのオートバイの背中に体温を感じる一瞬。心と心が通いあい、魂がことりと音をたてるようなその一瞬。ときに人は永遠を夢みてしまう。『欲望の翼』でマギー・チャンがせつなく演じたスーのように、一瞬の輝きに囚われ、それをつなぎとめたいと必死に願う。そして打ち砕かれる。『天使の涙』では、過去に出会ったはずの男女の片方がまるごとその記憶を失くしているというおよそ現実ばなれしたシークエンスが二度くりかえされる。失恋女は失恋の痛手から救ってくれた武(モウ)をきれいさっぱり忘れ、金髪女は今度こそ忘れられない一瞬を刻むため自分を忘れた殺し屋の腕に力の限りかみつく。人と人に永遠などない。すれ違い、出会い、別れ、またすれ違っていく。それでも人は疾走を止めない。いとおしいその一瞬を少しでも引き延ばすかのようにスローモーションへと変わっていくラストシーンは、奇跡のように美しい。ウォン・カーウァイは描く。その一瞬こそが、永遠なのだ、と。
[映画館(字幕)] 10点(2009-07-22 22:57:13)(良:2票)
88.  BOY A 《ネタバレ》 
この映画には重大な欠点がある。話の核に凶悪少年犯罪を持ってくる以上はどうしたって社会派映画として、まず、描かれなくてはならないはずなのだ。しかしこの映画は社会派映画としてはあまりに甘く、そして弱い。息苦しく痛ましいまでに厳正でストイックな描き方に徹した『デッドマン・ウォーキング』のような映画と比べれば、その差は歴然だろう。『BOY A』は主人公ジャックの心やさしい人間性にふれる描写ばかりをたんねんにくりかえしながら、殺される少女はわずか10才にして不純と悪態のかたまりのような存在として描く。さらには殺害の経緯や、彼がどこまで事件に加担したのかなどといった、彼に分の悪い核心はことごとく省かれてしまう。どの国においても他人ごとではない、のっぴきならない問題を提示しておきながら、たとえば日本における酒鬼薔薇などには該当すべくもない特例のような少年像を打ち立ててしまう「逃げ」は、反則以外のなにものでもない。しかし、なのである。そこまで徹底してジャックを現実社会における我々の偏見や先入観から切りはなしたおかげで、この映画の青春映画としてのもう一つの側面が、まぶしいばかりの輝きをもって胸に迫ってくるのもまた、事実なのだ。巣立ちをむかえた雛鳥のようなジャックの姿を、映画は丁寧に切りとっていく。たとえば友だちができること。友だちとクラブで踊り、酔っぱらうこと。遊園地に行って笑い転げること。ビールを片手にたまには真剣に友情を誓い合うこと。恋人ができること。恋人とデートすること。本来ならば空白の時間に当たり前に起こるはずであったそんな他愛のないありふれた青春の光景の一つ一つを、はじめて触れるものとしてまぶしそうに恥ずかしそうにそして何よりうれしそうにかみしめる彼の笑顔は感動的だ。画面は自然光に満ちている。父親がわりのソーシャルワーカーからナイキのエスケープを贈られる冒頭から一貫して彼には柔らかな光が差している。それはまるで神の赦しを表しているかのようにとてもやさしい。人間社会の不穏に反して。まぶしい夢がある日突然終った時、塵のようにあっけなく吹き飛ばされて行く彼の姿が胸を貫く。総武線から見るディズニーランドしかり、遠まきに眺める遊園地はなぜあんなにも荒涼としていて、そしてさびしいんだろう。致命的な欠陥をもつ、けれどたまらなくいとおしいこの映画を愛していこうと思う。
[DVD(字幕)] 9点(2009-07-21 21:36:25)(良:1票)
89.  ミッドナイトクロス 《ネタバレ》 
デ・パルマ映画の主人公たちは常に脛に疵持つアウトサイダーである。『BLOW OUT』のジャックもまたその例に洩れない。刑事時代の潜入捜査で、自分の判断ミスから同僚を失った過去は、映画の音響技師となってもなお彼に暗い陰をおとし続ける。そんな彼が愛すべき売春婦サリーと出会ったことにより英雄的行動に打って出るさまは、描かれる意味合いこそ全く違えど、どこか『タクシードライバー』のトラビスを想起させる。だが、トラビスが人格障害的不気味さを常にまといつつもある種のパンクなかっこよさを表現していたのに対し、ジャックはあまりに善良で、その善良さゆえに非力だ。かっこ悪くブザマですらある。そこがなんともデ・パルマらしい。落伍者を皮肉たっぷりに英雄に仕立てあげるのがマーティン・スコセッシなら、英雄になり損ねた落伍者の背中を痛みをもって描くのがブライアン・デ・パルマなのだ。場違いなほど美しい花火と、それにかぶさる場違いなほど美しいピノ・ドナジオの音楽。そして映画をしめくくる悪趣味なラストのジャックの選択。それらすべてが再び負け犬へと逆戻りする彼の屈折と悲哀、そして痛みをきわだたせていて圧巻だ。そんな映画なのだから、非難されて当然といえば当然だ。事実本国アメリカでの公開時、かなりの酷評をうけたと聞く。しかし、雪の公園のベンチに茫然と座り続ける彼の背中にどうしようもなく涙してしまうような人間もまた少なからずいるのだ、と信じたい。負け犬のかなしみと悪趣味な感傷、それこそが、ブライアン・デ・パルマがせつないほどにくりかえしくりかえし描きつづける主題なのだから。蛇足ながら、原題のBLOW OUTは、タイヤがパンクする、ヒューズが飛ぶ、明かりを吹き消すなどのほか、名詞としては大敗を意味する言葉でもあるらしい。とりあえずミッドナイトクロスと改題したヘラルド映画の担当者出てこい!と言いたい。
[DVD(字幕)] 9点(2009-07-21 19:12:00)(良:1票)
90.  さびしんぼう 《ネタバレ》 
映画の冒頭、主人公ヒロキはそのモノローグの中で、手の届かない女子校の生徒たちに過度な幻想を抱き、反対に女性らしい潤いのかけらもない母は子どもの頃から美しい夢など一度も見たことなんかないのだろう、と語る。ものごとの片側だけしか見えない夢見がちなそんな少年の前に、母親の隠されたもう片側の美しい夢(さびしんぼう)が形となって現れるという展開が秀逸だ。けれど彼にとっては見たくない側のさびしんぼうの存在は迷惑でしかなく、思いをよせる少女百合子にたいしても、ヒロキはそのもう片側を決して見ようとはしない。自転車を押しながら憧れだった百合子と歩く奇跡の中でさえ、いつも見つめていた自分の知る側の彼女だけを見ようとする彼は、恥ずかしいからと家の前まで送られるのを拒んだり、ありふれた口うるさい母親の話になぜかステキねとほほえむ百合子のもう片側に、気づくことができない。「あなたに好きになっていただいたのはこっち側の顔でしょ?どうかこっちの顔だけ見ていて。」別れの場面で少女は言う。その台詞は、それがヒロキの失恋であると同時に百合子の失恋でもあったことを意味している。ラストシーンのようにヒロキのかたわらに百合子がいる日がくるとすれば、おそらくそれはヒロキがもう片側をも抱きしめられる男になれたときなのだ。もう1人のヒロキが弾いてくれた別れの曲のメロディとその恋を一生忘れないと16才のヒロキに語る16才のままのさびしんぼう。邪険にあつかってきたそんな母親の悲しい片側をわけも解らずそれでもせいいっぱい強く抱きしめる彼の姿や、木魚ばかり叩いて何を考えているか解らない父親がもう片方の顔を見せて語る風呂場の台詞は、それゆえに熱く深く胸にしみる。極私的な意見だが、坂道で自転車に乗った橘百合子がすれ違うヒロキに見せるそのお辞儀の美しさは、時をかける少女で芳山和子が深町君の家の縁側で靴を揃えるシーンとならんで、大林映画のベストショットだと思う。秋川リサ先生の三度にも及ぶパンティーはワーストショットであるけれど。そしてそれもまた大林映画のもう片側だと言えなくもないけれど。
[DVD(邦画)] 10点(2009-07-20 22:51:59)(良:3票)
91.  花蓮の夏 《ネタバレ》 
おさななじみの少年2人、康正行と余守恆のあいだに、ある日、転校生の少女慧嘉が現れる。そのことにより生じる少年たちの関係性のゆらぎ、それがこの映画の主題である。しかし、群像劇でありつつも物語が正行の抱える秘密(守恆への恋)に沿って綴られていくため、正行のせつない心情や、それを知り板挟みとなる慧嘉の苦悩は痛いほど繊細に伝わる反面、終盤まで一貫して無邪気で単細胞であるがゆえ鈍感な守恆の描写には漠然とした違和感がつきまとう。クライマックスで彼がとる「行動」などは、美しくも都合のいいファンタジーのようにすら見えてしまう。けれどそんな守恆がラストシーンで、映画のもう一つの核となる彼の側の秘密を吐露するに至る時、それまでずっと不自然に浮き上がって見えていた彼の言動のその一つ一つが、まるでジグソーパズルのピースのようにピタリと空白に嵌っていく。朝の出迎えのうるさいくらいの熱烈さ。いつでも正行の姿を探しているその姿。正行を見失うと途端に不安でたまらないその表情。恋人にたいするような幼いやきもち。そして事故の夜の「行動」すらも。二者択一のクイズは彼の耳に届いていたのだろうか。だとすればどんな思いで彼は聞こえないふりをしたのだろうか。 「康正行、お前は俺のいちばんの親友だ!」 恋も友情も区別のなかった子どもの頃の宣言とまったく同じ言葉で、大好きな気持ちをただただ告げるしかできない守恆。その言葉に滂沱し立ち尽くすしかできない正行。そのあまりに唐突な幕切れはそのまま冒頭へとつながり、同じ場面が今度は守恆の秘密に寄り添うように隠されてきた彼の痛みを一から語りだす。 若書きゆえの稚拙さは否めないものの、これほどまっすぐ胸を貫く映画はそうはない。 
[DVD(字幕)] 9点(2009-07-20 06:42:38)
92.  BU・SU 《ネタバレ》 
森下麦子はキャリー・ホワイトである。ブライアン・デ・パルマ監督の『キャリー』は、家庭にも学校にも居場所を見出せない孤独な少女を悲劇的に描いた傑作だが、市川準監督は怒りと悲しみのなかで死んでいくしかできなかった少女キャリーへのレクイエムとして、この映画を撮ったのではないか。そう思えてならない。『BU・SU』の主人公森下麦子は、キャリーのようにいじめの標的にされるわけではない。むしろ陰湿ないじめを目撃すれば独り敢然と立ち向かうような少女である。つまり彼女の孤独は周りのだれかのせいではなく、彼女自身が選んだ自分自身で乗り越えなくてはならない問題として描かれていく。周囲の人々も、キャリーを助けようとした熱心な教師や同級生のような慈善的な人物は描かれない。彼女の叔母や担任教師ら大人たちの、柔らかくも程よく距離感をもって接するような描写が秀逸だ。麦子は決して救いの手を乞うているわけではないからだ。世界の片隅でじっと押し黙り所在なさげに生きるこの少女を、カメラもまた一歩引いた距離をおいて捉え続ける。切り取られた東京の風景、そこに異物として埋もれるように溶け込む麦子、あるいは学校の駅を乗り過ごし千葉の住宅街をあてどなく彷徨する彼女の姿は、孤独な青春の心象のように忘れがたい印象をのこす。文化祭の演目で失態を演じ、会場の笑い者となる麦子。市川は、『キャリー』においては悲劇の引き金となったそのシーンをそっとスライドさせ、その哄笑のなかにキャリーが決して見ることのできなかった、笑わず真剣に彼女を見守る幾人かの顔を映し出す。それはおそらく麦子を見つめる市川準の視線でもあるのだろう。その目はさりげなくも温かく、そしてとてもやさしい。キャリーのように体育館を火の海にすることなくファイヤーストームに火を灯す麦子。彼女にそうさせたのは同級生津田君の半ば強引な牽引なのだが、劇中麦子にだれかの手がさしのべられる唯一のそのシーンの、なんと力強く感動的なことか!青春とはバイオレンスのない闘いなのだろう。自分との孤独な闘いを一旦終え、晴れ晴れとした顔を蛇口で洗う麦子。青春は決して美しいものではない。けれどだからこそ最後の最後ではじめて見せる彼女の笑顔は、たまらなくいとおしい。個人的には、青春映画において森下麦子を超えるヒロイン像はこの先も出ないだろうと思う。
[レーザーディスク(邦画)] 10点(2009-07-20 00:11:26)(良:2票)
93.  藍色夏恋 《ネタバレ》 
 時代は現代なのにどこか懐かしい台北の町並み。その町の風景に溶け込むように描かれる清く正しい少年少女。傷つき悩みながらもまっすぐな彼らの姿からは、襟を正して生きることの大切さが真摯に伝わってくる。おそらく自分が女の子にモテることを知っているのであろう少年の不敵で屈託のない笑顔。その自信とうらはらのほほえましい悩みと純情。そして頑なな潔癖さと負けん気でそんな少年を突き放そうとする少女。この二人が、なりゆきで校舎の中庭の床に貼られたラブレターを足で蹴ってはがそうとするシーンが面白い。躍起になって互いの足を蹴っ飛ばしているようにも、それでいて二人楽しそうに軽やかにステップを踏んでいるようにも、見える。さらに後半で対比的に描かれる、もう一人の少女が恋の遺品焼却を思い直して火を消そうとする場面の、ひとりぼっちで踊るためらいと嘆きのステップもいい。彼らの足の生き生きとしたその躍動が、青春のジタバタを文字どおり体現していて見事だ。あるいは夜の体育館で二人が衝突するシーンでは、体当たりでぶつかりあう二人を表情が判然としない距離から延々と長回しで写し、彼らが体全体から思いをほとばしらせ格闘する様をまるごと切り取るように描き出す。風をうけて走る自転車の心地よさ、夜のプールや体育館のその秘密めいた緊張感、だれかとならんで眺める校庭と青空、だれかを好きになる気持ち、片思いの胸の痛み、だれにも言えない思いをこめたそれぞれの壁の落書き、そして夏の匂い。そんな青春映画的ガジェットの過剰さが良くも悪くもこの映画の持ち味なのだが、その反面、易智言監督の描写は意外なほどに簡潔で無駄がなく、そして的確だ。少女が少年に告白するある秘密。それが本当なのかあるいはうそなのか、最後まで答えはわからない。それは彼女自身にもまだわからない答えなのだろう。この映画はとってつけた説明や答えなど、一切提示したりはしない。そうして描かれるのはただシンプルに、彼らがその夏を共にしたということ、真正面からぶつかりあい、認めあい、そして最後に笑いあえたということ、それだけだ。その潔さがとてもいい。ならんで自転車に乗る二人。友だちでも恋人でもなく、けれどその夏を懸命に生きたかけがえのない同志として、それぞれの足で未来へとペダルを漕いでいく彼らの姿は、力強く、美しく、まぶしいばかりだ。
[映画館(字幕)] 10点(2009-07-20 00:03:32)(良:2票)
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