101. 海へ行くつもりじゃなかった
《ネタバレ》 海へ行くつもりはなかったが行ったらそれなりだったという話らしい。生活圏内に海があるのはいいことだが、大阪の都心(多分)から一体どこの海に行ったのかは不明だった。 行っても大したことは起きないがそれなりに変なこともあり、逃げられて追われて盗んだバイクで走り出す(放置自転車?)とかもしていたが、途中の凧には驚きと感動があった。写真に撮りたくなるだけのものはある。 結果的によくわからない話だったが、最近は政治的・社会的な背景のある面倒くさい外国映画ばかり見ていたので、久しぶりに心安らぐものを見たと思わせる短編だった。いい雰囲気だ。 ところで映画と関係ないが仕事上、会話時に読唇を使う人が身近にいたので、この3年間マスクを強要されていたのは困った。自分がしゃべる時に外せばいいだけだがわざとらしくもあり、ちょっとした何気ないコミュニケーションが取りづらい。自分の配慮不足もあったかと思うと後悔が残る。 劇中で金髪娘が声を出す場面はなかったが、とりあえず今回は声を出さなくても気持ちが通った体験ということか。また男の方も自分の考えをわからせる/相手のこともわかろうとする点で一歩踏み出す機会になったかも知れない。パントマイムを社会生活で使うわけではないにしても、身振りがコミュニケーションに役立つこともあるとはいえる。 最後に渡された黒髪の写真はいわば生来の姿であって、そのうちこの状態に戻るので、この顔で憶えていてもらいたいとの意味かと思った。それなりの未来を感じさせるものはある。 [インターネット(邦画)] 6点(2023-06-03 15:09:26) |
102. チャンシルさんには福が多いね
《ネタバレ》 いわゆる何も起こらない映画である。これまで監督が映画制作に携わった経験が主人公の人物像にも反映しているとのことで、この映画自体も映画愛を感じさせるものになっている。 序盤で主人公が男を飲みに誘った場面では、行ったのがなぜか日本語の表示しかない居酒屋で、韓国映画に日本が出るとろくなことがないので警戒感が一瞬高まった。しかしそこで主人公が小津安二郎の名前を出したのでなるほどそうだったのかと思って、変に疑ってしまってすいませんでしたという気分だった。その後の「東京物語」の話の中では、主人公が日本人戦死者の存在に触れた(※)のがかなり意外に感じられた。 また同じ場面で「何も起こらない」(※)という言葉を、観客が言うならともかく映画関係者のはずの人物が言ったのは、映画関係者でない立場からしてもかなり心外に思われた。まさにそのような映画に関わってきた主人公からすれば、まるで異次元人とか不倶戴天の敵に見えたのではないかと思ったが、しかしそれで別に対立関係になるわけでもなく、それはそれとして他に共感できる部分を探そうとする展開だったらしい。 一般に、内部をまとめるために外部に敵を作るのはよくあることとして、内部でもわざわざ対立軸を作って誰かを攻撃したり争ったりするのでは生きづらい社会になるだろうが、この映画はそういう世界からは距離を置き、人々が何となく穏やかに協調して生きる社会を志向しているように見える。はっきりしないがそのように感じさせるものはあり、実際にそう思っていたとすればその点で非常に好感の持てる映画だった。 ※字幕の翻訳が正確だという前提で。 物語としては、人生の中間点を迎えた主人公の再出発の話ということらしい。いろいろ言葉が出て来るのでまとめにくいが、話全体としてはないことを嘆くのではなく、あるものに目を向けた上で前に進めということかと思った。また捨てることは大事だが、全部捨てればいいわけでもないとも言っていたかも知れない。人生の転機にふさわしい提言にも思われる。 ちなみにエンディングテーマは祝詞の詠唱のようなものを現代風にアレンジした感じの曲だったが、これが映画の内容を端的に表現していたようで最後の締めにふさわしい。歌詞は "チャンシルは福も多い" という意味の文章を起・承・結の3回繰り返して、そのうち一行目が原題と同じ、その後は文末を少しずつ変えて変化を出している。字幕も原文を生かした邦訳になっているが、歌の最後だけ前にはない「福まみれ」にしたのは翻訳段階での悪ノリのようで、ユーモラスな人間ドラマの印象を強調していたのは悪くなかった。 [インターネット(字幕)] 7点(2023-05-27 10:50:16) |
103. 英雄都市
《ネタバレ》 原題は「ロング リブ ト(タ) キング:木浦 英雄」で、英語の部分をカタカナ表記のように書いているがvとthの子音がないのは日本語と同じである。英語のLong Live the Kingは、従来の支配者に取って代わった者を讃えるニュアンスがあるようだった。 場所は全羅南道木浦市なので、前に見た「木浦は港だ」(2004)のリメイクかと思ったが別の話になっている。ただ主人公がヤクザでヒロインが法律家だとか、タコの丸のみとか郷土愛といった点で微妙に通じるところもなくはない。監督はこの前に「犯罪都市」(2017)で評価された人物のようで、その映画の主役も特別出演している(光州ヒグマ役、短時間)。 内容としてはヤクザ映画のようだが暴力沙汰は多くなく、それより政治の素人が選挙に出るドラマをメインにしてラブストーリーを兼ねている。気楽な娯楽映画という点では前記「木浦は港だ」と同様だが、15年も経っているのでかなり上品に見える(洗練されたというべきか)。性的に下品な場面はなく、排泄物関係もわずかに便所掃除の場面がそれらしいだけで現代日本人にも見やすい映画といえる。 社会的な面では、政治家が悪という設定は普通のこととして、検事が政治や悪事にまで関わって来るのはよろしくない感じだが、しかし現実にも韓国では検察が政治に多大の影響力を及ぼしている実態があるらしい。そのことへの反発としてこの映画では、検事に政治をやらせるよりもヤクザにやらせた方がまだましだ、という皮肉を込めたのかも知れない。2023年現在の大統領も元検事総長なので、現在の政治情勢にも関わる問題を扱っていたことになるか。なお全羅南道は実際に投票率の高い地域らしく、その点でも選挙映画にふさわしい舞台設定といえる。 主人公に関しては、通常の政治権力とは別次元の強さに誠実さを兼ねた人物造形にしたと取れる。警察官の支持も得ていたようで、これは日頃から最前線で接していたため「ロビン・フッド」的な義侠心も理解されていたということと思われる。現実味のある話でもないが娯楽としては悪くなかった。 ほかの登場人物に関しては、劇中の国会議員と顔の似た地方議員をたまたま知っていたので変な気分だったが映画と関係ない。また弁護士役(ウォン・ジナ/원진아 元真兒)は小柄で可愛い感じの人だったが、こんな般若のような顔をしなくても、と思う場面が多かったのは残念だ。お国柄だろうから仕方ないか。 [インターネット(字幕)] 6点(2023-05-27 10:50:14) |
104. 整形水
《ネタバレ》 原題は漢字で書くと「奇奇怪怪 整形水」だが、これはウェブコミックの「奇奇怪怪」というオムニバスの1作ということで、映画に出るタイトルは単に整形水/성형수である。グロい場面が多いので実写化すると目も当てられないことになりそうだが、アニメなのでファンタジーの範囲に収まる形で作ってある。 整形水とは美容液というより人体に可塑性を生じさせるもので、「肉」を材料として粘土のように使い、不要な部分は削って不足な部分を足していくことになる。いくらマンガにしても皮膚と筋肉と脂肪の別もなく、骨や血管も度外視した均質な「肉」というのは安直な発想だが、これはもしかするとアニメキャラなどのフィギュア制作からの思いつきではないか。粘土で作るフィギュアのように、人間の身体も自由に作れればということかと思ったが、ただし目は作れないという設定だったのか。あるいは鼻や唇などでも、人には作れない優れた自然の造形物があるという考え方かも知れない。 なお主人公が「施術者」に豚女と言われた場面では、材料不足なら豚肉を使えばいいということになるのかと思って心配したがそうでもなかった。 ストーリーとしては、要は整形水を使った主人公が破滅に至る話である。最後の展開(コレクター)はぶっ飛んだ感じで行きすぎに見えたが、本当に価値があったのは作り物でなく生来のものだった、という皮肉にはなっている。 社会的な面で見た場合、美醜に関わる劇中男女の態度は、程度の差はあっても一応どこの社会も共通とはいえる(日本よりは向こうの方がきついだろうが)。芸能界などは特殊な世界として、他にもジャンルによっては技能と別の「見えない壁」があるという指摘は確かに厳しいが、それでも壁を越えて活躍する例もなくはない(あった)と思うので、絶対的なものでなくしていくことはできると思うべきか。 登場人物では、整形後の主人公は絵に描いたようなカワイイ系美女だったが、日本はともかく現地ではこういうタイプの顔を志向していない気がして、アニメならではのキャラクターデザインに思われる。また日本で最近いわれる親ガチャ的な感覚も出ていて、主人公の両親は気の毒に見えた。整形は親の存在を否定することになるがそれでもいいのかという問いかけかも知れない。 [インターネット(字幕)] 6点(2023-05-20 10:57:09) |
105. 哭悲/THE SADNESS
《ネタバレ》 「哭声」という映画と似た名前だが1時間近く短いので、その点では見るのが楽だ。 残虐場面を見せることに特化した映画のようで、あらかじめその方面に関心のある観客が見て何らかの感慨が得られるかの問題になり、基本は間口の狭い映画ということになる。笑える要素もないので全く洒落にならない。 対象外の立場から突っ込むと、まず感染者から涙が出ていたのは設定上の説明があったらしいが、見ていた限りでは黒目が変になる病気なので涙が出るのかとしか思われず、結果として題名の意味も不明になっていた。また人間誰しも残虐性があるという話で製作姿勢を正当化していたが、見ている側としてはお前らと一緒にするなというのが率直な感想だった。ただ確かに、残虐行為を好んでする人間が同様の扱いを受けて当然と思うのは普通の感覚であり、その点で中年変態男が復活不可能なまでの打撃を受けていたのは痛快だった。ゾンビでないとすれば復活しないのかも知れないが。 ちなみにエンドロールで台北市、新北市などの各部局が多数協力していたが、国家をコケにして悪意だけをまき散らす映画を公的機関が平気で支援するのは鷹揚な国だと感心する。台湾映画ということで一応見たわけだが(「哭声」のついでということもあるが)、国の名前で見るのも大概にしておくかと思わせる映画ではあった。自由な社会で結構なことだ。 [2024/7/13変更] 最初は2点くらい付けたが半端だったので0にする。一般庶民が一生懸命守っている良心を踏みにじって嘲笑するがごとき制作態度であり、西洋でいわれる悪魔というものが実在するとすれば、そういうものを宿す映画として作ったのかと思った。こんなのを作っていて台湾は大丈夫なのか。 [インターネット(字幕)] 0点(2023-05-20 10:57:08)(良:1票) |
106. 哭声/コクソン
《ネタバレ》 ソウルなどの大都会ではない地方の町や集落、森林や山の風景が美的に映像化されている。場所は実在の全羅南道谷城郡とのことで、郡内に「谷城邑」という町があり、その町の中に谷城警察署(中央路161)や谷城愛病院(谷城路761)というのもある(派出所は不明)。 ホラーとして終始不穏な雰囲気は出ているが、特に前半では娯楽映画に不可欠な?コメディ要素がちゃんとくるめてあるのが可笑しい。登場人物では「目撃者」がなかなかいい感じで、石を投げて来る場面は好きだ。また祈祷師の儀式はダイナミックで迫力があったが、その後のゾンビは出ない方がよかった。 物語としては何が起きていたのかわからない。世評によるとキリスト教の知識がなければ気づかないことが多いようで、基本は間口の狭い映画ということになるか。自分としては手の穴くらいはわかったが、「ヨブ記」についてはアメリカのホラー映画で出ていたにもかかわらず、そこまで頭が回らなかった。 宗教関係には突っ込まないとして、一つ思ったのは一連の事件が登場人物のうちの誰かのせいだと思い込んでいていいのかということだった。王朝時代の宮廷で呪いのかけ合いをしている状況ならともかく、現代の祈祷師でも病気平癒などの祈願をする際に、近隣の誰かが絶対呪いをかけているとまでは思わないのではないか。表面的な事象だけでなく、背景に何らかの動きがあるとすればそれも含めた全体像を捉えなければまともな答えは出ない気がする。 しかし一般論としてはそのように思っても結局何もわからないので、邦画によくあった独りよがりな難解ホラーのようなものと思って投げてしまいたくなる。監督はこの映画が「混沌、混乱、疑惑」を描写していると言ったらしいがそれでわかった気になるわけでもなく、残念ながら個人的には見えないものの多い世界が映されていたと思うしかない。全体的な印象は決して悪くなかったが、結果として好意的な評価はできない映画だった。残念だ。 なお一連の事件を全部キノコのせいだったことにしてしまうと映画にならないわけだが、これが現実世界の話ならそれだけで全部説明がつく(つけられてしまう)とはいえる。この映画に関して、自分は報道だけ見てキノコは危ないと思っていた現実世界の人間の立場だったと思っておく。 [インターネット(字幕)] 5点(2023-05-20 10:57:06) |
107. TSUNAMI-ツナミ-
《ネタバレ》 津波映画である。津波は原語でスナミと言うようで(쓰나미/sseunami)、台詞でもメガスナミと言っていたがtsという子音はないらしい。 今どき特に考えもなく見たが、東日本大震災の後でわざわざ見るようなものでもなかった。冨嶽三十六景「神奈川沖浪裏」の超拡大版イメージで津波が迫り、高層ビルを倒壊させるほどの破壊力でもちゃんと生き残る者がいるのが信じられない。2011年の津波はこれほど大げさな見た目ではなく、また釜山都市圏ほど人口稠密でない地域でも広域的に2万人近い犠牲者が出たわけで、2004年スマトラ島沖地震の後になってもこんな映像化というのはファンタジックとしかいいようがない。ちなみに日本地図は正確に描いてもらいたい。 何で釜山に津波が来るかの説明もあまり納得できなかったが、しかし20世紀後半には秋田県で子どもらが犠牲になった「日本海中部地震」(1983)や、奥尻島に悲惨な被害を出した「北海道南西沖地震」(1993)の発生もあり、北米プレートとユーラシアプレートの境界が日本海東岸にあることもわかってきて、日本海でも津波がなくはないとの認識はすでにあったと思われる。特に日本海中部地震の時は日本海西岸の江原道でも死者・行方不明者が出たとのことで、この映画もその記憶があってのことかも知れない。 なお現代につながる真面目な話として、この映画では電力線が脅威になっていたが、最近の問題としては太陽光パネルが壊れてからもそれ自体で発電を続けるため、水害時に水に浸かると被災者が感電する危険があるといわれている。東京都などは危ないかも知れない。 その他、基本は娯楽映画なのであまり本気で語るものでもないが、それにしても全編のほとんどを占めるドラマ部分がかったるいので見ていられない(耳障りだ怒鳴るな)。災害場面は一応の緊迫感が出て、登場人物が多いだけ被災描写も多様になるが、それでもケーブルが切れそうになってから落ちるまでの感情表現が長かったりするのはダレる。まあこういう作り方が普通だったとすれば苦情をいう筋のものでもないだろうが。 なおとんでもない人災(日本船TOYAMA?が大爆発)を起こした男の母親の心情は若干切なかった。その他の主要人物は当時すでに有名俳優だったのかも知れないが個人的に知らない。漁港の男女は、この映画では松たか子と大泉洋の組み合わせに見えた。 [インターネット(字幕)] 4点(2023-05-13 22:09:43) |
108. 紅い服の少女 第二章 真実
《ネタバレ》 前回は「魔神仔」を扱った妖怪映画のようだったが、今回は都市伝説としての「紅い服の少女」の正体を本格的に解明する話を作っている。この映画では都市伝説の解釈のうち、山の魔物というより身代わりを探す幽霊という説を採ったようで、邪悪なコダマのようなのがもとから山にいた連中、少女とガは90年代に発生したものとして整理したように見える。場所も台北から台中に移し、都市伝説の発祥地や実際にある「卡多里遊樂園」などの廃墟も使ったご当地映画ができている。 目新しいものとしては「俯身葬」というのが出ていたが、これはどうも考古学上の概念を適当に使っただけらしい。また新登場の道教寺院や「虎爺」は次の第3作にもつながっていくものだが、今回あまり決定的な役割を果たすことなく終わったようで、この段階でこの要素を盛り込んだ意味が不明な気もした。 ドラマに関しては、主要人物の数が多いので混乱させられるが最後はちゃんと決着がつく。今回はラストで笑わせる場面もあり、脅威はまだ残るといいながらも一応さっぱり終わる形になっていた。少なくとも当面は、新生児は若い男に守られていくことになる。 具体的な場面では、若い男のトラ歩きやCGのトラ造形がちょっとどうかと思うのはまあいいとして、勅令女と少女の対決場面はなかなか迫力があった。額に御札を貼ればいいのかと思ったらそれほど簡単ではないらしい。また前回主人公は眉毛が抜けるほど壮絶な体験をしたと思わせるのが恐ろしい。 ところで可愛く見える主人公と、中学生くらいに見える高校生(高中生)が親子だったというのは序盤でいきなりのサプライズだが、その事情に関しては終盤で説明がある。当然ながら産む/産まないの選択はありうるわけだが、産む選択をしたのであればその結果は尊重されなければならない。また自らこの親を選んで生まれてきたとあえて信じることで、親を含めた自分の生を全肯定するというのも、人が前向きに生きるためにはありうることと思われる。 結果的には人の生命を次代に引き継いで、またその引き継がれた生命をさらに次代に引き継ぐことで、人が未来に生命をつないでいくことを肯定した映画に思われた。自分としては若干感動的だと思ったが、しかし2023年現在の感覚では、これがすでに古き良き時代の価値観でしかないと感じられるほど社会情勢が変化している気はする(少子化は止まらない)。 [インターネット(字幕)] 5点(2023-05-06 14:14:06) |
109. 紅い服の少女 第一章 神隠し
《ネタバレ》 題名は1998年のTV番組から生まれた都市伝説の名前だが、内容としては冒頭に説明が出ていた「魔神仔」に関する妖怪談のようなものになっている。これは台湾や福建などに昔からいたサルとか子どもの姿の精霊または幽霊で、山中に入った人を迷子にさせるものらしい。映像中に見えたweb百科事典には日本の伝説でいう「神隠し」に類似すると書いてあるが(要は中文Wikipediaからの転用)、現実に2013年に日本人観光客(当時78歳)が行方不明になり、数日後に無傷で発見された件に関しても、現地では魔神仔の仕業ではないかと噂になったとのことだった。 実際は人が死ぬほどのことはあまりないようだが、食事と思っていたら昆虫や糞便を食わされていたというような、日本でいえば狐狸の類に化かされたような話もある。対策としては爆竹が効果的とのことで、劇中では発煙筒も代用できることになっていたが、本来は光より騒音の方を嫌うものらしい。爆竹の本来の用途が賑やかしというより邪気払いだったことが知れる。 映画では、山中にいるはずのものが台北市内にも出現して、都市部を舞台にした心霊ホラー的な雰囲気も出している。「山が開発され居場所を失った魔神仔が山を下りて来た」という発言があったが、台北は山地に接しているからそういう発想にもなるわけで、日本なら札幌市内(南区など)にクマが出るようなものかと思った。 やたらに出ていたガに関しては、字幕の「クロメンガタスズメ」だとすると特に珍しくない実在の種ということになる。「羊たちの沈黙」に合わせたのかも知れないが、映像に出ていた名前は「紅翼鬼臉天蛾」だったので、架空の種と解して「アカメンガタスズメ」とでもした方がよかったのではないか。メンガタスズメ属は背中に人の顔の模様があって「人面天蛾」(=人面スズメガ)とも言われていて、ここからシリーズ第3作の「人面魚」につながったらしい。 終盤は山中に出向いての決戦となるが、ほかに家族に関わる人間ドラマもできていて、一応各種の趣向を盛り込んだ娯楽映画にはなっている。なお現実と夢が突然交代するのは少し嫌な感じだった。 ところで最近は世界的に昆虫食が注目されているが、映画のラストでは家族で夕食をとる場面があり、もしかしてこれは知らない間に昆虫を食わされているのではないかとの不安感があった(食い物がみな昆虫に見える)。その不安感を次の第2作につなぐ形になっている。 [インターネット(字幕)] 5点(2023-05-06 14:14:03) |
110. 親愛なる同志たちへ
《ネタバレ》 ソビエト連邦時代の1962年に、工場労働者と市民の抗議活動が弾圧されて死者が出た「ノヴォチェルカッスク虐殺」を扱った映画である。劇中の出来事がどこまで厳密に事実なのかは不明だが、KGBが写真を撮っていた件など現在までに知られたことをもとにして、おおむねこんな感じだったかと思わせる話を作ってある。ただ本当の悪はKGBであって、軍は悪くなかったというのはこの映画独自の考え方なのか、そういう説が本当にあるのかは確認できなかった。 キャストとしては、主演の人が実際にこの場所の出身、その娘の役も近隣の別の町(北約100km)の出身だったらしい。 もともと主人公は、作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの「戦争は女の顔をしていない」で描写されたような、第二次世界大戦時に自ら望んで戦地に出向いた従軍女性だったらしい。戦後もその延長で共産党員としての地位を築いてきたのだろうが、しかし若い頃とは時代が変わり、自分の信じたものが否定されつつあることに苛立ちを感じていたと思われる。さらに今回の事件は主人公に破壊的な作用をもたらしたようで、これまで形成してきた党員としての人格がはぎ取られ、いわば剥き身の人間像が露出していたようだった。 主人公にとって社会が自分の望んだ姿でなかったとしても、生きるためには社会に合わせた外向けの人格を作り、その内部で本当に大事なものを守ろうとする意思を固める必要がある。ギャップの大きい多層構造の人格形成を迫られるのは不幸な社会だが、それでも心の奥底で大事なものを共有できる、いわば志を同じくする者と信じあう関係を作れるかどうかが重要だ、と言いたい映画なのかと思った。仮にKGBの男が信用できる人物だったとすれば、車を止めた軍隊の男も隠れた同志だったということかも知れない。 結果としては全体主義社会に生きる人間の苦難と、それでも失われない(失ってはならない)希望を描写した映画なのかと思った。また人間ドラマとしては主人公が脱皮を迫られた物語ということで、最後には労働者が酔っぱらう理由もわかったと思われる。ほか劇中では父親と主人公、その娘の三世代がそれぞれ違う世界観のもとにいたようだが、今回は主人公が父親の体験を別の形で再現したようで、いわば世代の順送りのようなことも表現された映画だったらしい。当然だろうが世代間ギャップはソビエト連邦にもあったのだと認識させられた。また個人的には「じきに死ぬ俺は幸せだ」という台詞は同感だと思った(まだ死なないが)。 音楽に関しては、美容院に流れ弾が飛んできた時に、背景に流れていた陽気でモダンな曲との対比が印象的だった。 また主人公が覚えていたTovarishch, tovarishch! という歌は、KGBの男が言っていたように映画の劇中曲(「恋は魔術師」1947年ソ連、原題「春」Весна / Spring、コメディ・ミュージカル・ロマンス)であって、現地では今も「春の行進曲」(Весенний марш)の名前で演奏されることがあるらしい。この明るい曲がエンディングに流れたのがまた皮肉のようでもあるが、これは戦争が終わって主人公が実際に感じた解放感の表現であって、これからの世界にも持ち続けていかなければならない希望の象徴だったと自分としては思っておく。 [2023/5/20追記] KGBの男が信用できるかどうかは、墓地での出来事をどう解釈するかで左右される気がする。自分の考えが間違っていないという前提で点数を1点上げておく。 [DVD(字幕)] 8点(2023-04-29 13:50:32) |
111. 戦争と女の顔
《ネタバレ》 第二次世界大戦に参加したソビエト連邦の従軍女性の証言集を「原案」としているが、具体的に誰かの証言を題材にしたわけではなく独自の話を作っている。もとの証言集は主に戦争中の話であり、まだ検閲のある時代に発表されたこともあって悪いことばかりが書かれているわけでもないが、この映画では戦後を対象にして負の側面に集中した形になっている。 映画全体としての主張はよくわからない。もとの証言集の題名と映画の邦題の印象からすれば、要は戦争が悪い、戦争を起こす男が悪いと言いたそうではあるが、確かに戦争が原因で多くの人々が苦しんでいるのはわかるとして、少なくとも加害者と被害者を性別で分けているようには見えない。 しかし、両性一組を中心とするのが本来の家族という保守的な考え方を前提にすれば、劇中女性が戦争のせいで本来の家族を実現できなくなったのが不幸だったとはいえる。さらに死んだ負傷兵のように多くの家庭が破壊されたことに関して、要は全部戦争が悪いのだ、という言い方をするなら比較的納得しやすい解釈にはなる。そのように考えれば戦争と女性というより戦争と家族の映画なのかとは思った。爺さん連中も家族を欲していたらしい。 一方で、主人公と戦友の間に同性愛的な関係が見えるのは理解が難しい。主人公の名前が「スミレ」の意味だというのは、現実にスミレが同性愛の女性をイメージさせる花として扱われてきたことが背景にあると思われる。もう一人の主人公である戦友に関しては、もともと上昇志向や支配欲が強く、自ら戦って勝ち取るタイプの人物だったのではないか。いわば主人公が娘役、戦友が男役であって、女性性と男性性の違いを身体的な性別とは別物として描写していたように見える。色ではこれを緑と赤で表現していたのかも知れないが、ただ終盤では逆転していたようでもあって固定的なものではなかったらしい。 最終的な2人の状態は、現代でいえば同性愛カップルが子を迎えて家族を作ろうとする姿のようで、現代の西欧リベラル的な価値観からすればこれ自体は悪いとはいえない。例えば主人公が提案していたように、孤児を養子にすれば家族が作れる希望はあるわけで、その上で身体的な性別にこだわらず、家族内で女性性と男性性の役割分担をすればいい、と提案している映画なのかも知れないが、ラストの場面でそういうことまで見通していたかどうかは何ともいえない。いろいろ難しいことが多いので、自分としてはここまでだということにしておく。 その他雑記として、共同浴場の場面は日本でいえば「夕凪の街 桜の国」の銭湯を思わせた。 また、もとの証言集ではネコがいてこそ「本物の家」だという話があった(岩波現代文庫P435)ので、この映画の2人もまずはネコと同居することから考えればいいのではないか。レニングラードでは犬だけでなくネコも食われていなくなっていたかも知れないが。 [インターネット(字幕)] 5点(2023-04-29 13:50:25) |
112. リパブリック Z
《ネタバレ》 シベリアにある「サハ共和国」(旧・ヤクート自治共和国)を舞台にした映画である。監督・脚本家と劇中人物はほとんどヤクート人で、台詞もほとんどヤクート語らしい。言語の系統としてはトルコ語に近いのだそうだが、人種としてはまるきり「平たい顔族」であって、兵隊姿の女性などは場面によって上戸彩を思わせるといえなくもないが、男連中は渥美清か阿部サダヲかとも見える。邦画というよりは、どちらかというとモンゴルの映画とか昔の韓国映画の風情だった。 ロードムービーとのことで、いかにも人がいなさそうな平地や川や森林や町村が見えている。どこからどこへ行ったのかは不明瞭だったが、南部にある第二の都市ネリュングリへ行こうとして、レナ川を渡って首都ヤクーツクを通りすぎて森林に入って終わったようなので、どちらかというと北から南へ移動してきたのかも知れない。ちなみに冒頭で旅客機が墜落していた場所は、ヤクーツク市街地南部にあるサイサリ湖Озеро Сайсарыだった。市街地の北にある空港を離陸してすぐ落ちたらしい。 映画の分類としてはゾンビ映画だろうが特に怖いところはない。設定上は「先史時代の人間の腕」の発掘が発端になってゾンビが蔓延したとされていたが、現実世界でも2016年にシベリアの別の場所で土中から出た炭疽菌に感染した事例があり、また最近は永久凍土層から新種のウイルスが続々と発見されたりしていて、温暖化による永久凍土層の融解は「感染症の時限爆弾」だとの指摘も出ている。それは今風にいえば脱炭素向けのネタなわけだが、この映画ではよりオーソドックスに、現地で行われてきた鉱物資源の採掘が自然破壊につながったのだと主張していた。ちなみに映画と関係ないが、現在のサハ共和国では永久凍土が融けてきたことでマンモスの発掘が産業化しているとのことで(ハンコ用の象牙)、これも危ない感じを出しているといえる。 原因はともかくとして、土中から出た病原体により冬は休眠して春~秋に活動するゾンビが発生したというのは、この場所の特性を生かしたユニークな発想と思われる。劇中人物はアメリカに難癖つけていたが実はここが真の発生地であって、その解決策もセットで提供した形のご当地ゾンビ映画になっていた。 ドラマの面では、終末世界ながらそれほどの悲壮感もなく、どことなく抜けた感じの緩さがある。青春ロードムービーのようでもあり、また最終的には英雄物語でもあったらしい。個別の場面としては、遊牧民の長老のような顔をした爺の「…誰でもが希望を持つべきだ…」という素朴で率直な発言が心に染みた。こういうことを言って死にたいものだ。 残念だったのは終盤の展開がかなりいい加減で、唐突に最後を切り上げたようで何だこれはと思わされることである。何か事情か考えがあったのか、あるいは単に制作側の姿勢がいい加減だったのも知れないが、珍しいヤクート映画なのでまあいいことにしておく。監督には今後も頑張ってヤクート映画を作ってもらいたい。 [インターネット(字幕)] 6点(2023-04-22 13:01:03) |
113. ワールドエンド
《ネタバレ》 152分はさすがに長いが、もとは50分×6話のTVシリーズだったそうで、これで半分くらいに落としていることになる。短縮版のせいか、説明がつかないままで終わってしまったところもあった気がした(クマも宇宙人に操られていたのか?など)。なお原題のAvanpostとは劇中にも出た「前哨基地」のことである。 宇宙人の侵略目的として、故郷の星の喪失による移住というのはわりと古風な発想のようで、また都合よく地域を限定してしまっているので全地球的なスケール感も出ていないが、映像面はそれなりに現代的で悪くない。各種ドローンの普及とか、四足歩行の軍用犬?ロボットが部隊に同行したりする(勝手に歩いて来る)などは近未来感を出している。 また軍隊が主役なので戦闘場面はけっこう迫力がある。近年のゲームの広告映像で見るような、ゾンビの大群を軍隊がなぎ倒す感じの映像もあってなかなか壮絶だった。 物語に関して、宇宙人Idは人類の本質をいわば悪とみなしていたようだが、別にそれが客観的で公正な判断とも思えない。顔が濃い方の男は典型例だとしても、それ以外で劇中に見えていた反例や、個々の事情や動機や心情などと関係なく、一面的に悪と断じて洗脳しようとしただけのようでもある。また映像的な欺瞞による敵味方のすり替えは、現実世界でいえば各種メディアによる大衆の意識操作のようで現代的ともいえる。一方の宇宙人Raは宗教で大衆を統御する昔ながらの手法ということだったらしいが(古代エジプト時代から?)、近年ではそれがかえって波乱要因になっていたということか。 別に宇宙人2人のどちらに正義があるわけでもなかったようだが、人類側にしても宇宙人の指摘を含めた善悪様々な性質が実際にあるわけで、それを初期条件としてうまくやっていくにはどうするか、という問いを投げかけた映画なのかと思った。顔が濃い方の男の遺伝子はその後の人類にも受け継がれることになるが、そこは母方の資質によって牽制される形になる。またラストの出来事は、人類がなぜか子どもを慈しむという習性(人だけでなく他の動物に対しても同様)を挙げ、これも人類の美点と捉えようと提案しているようでもあった。 結果的には人類の本質をテーマにした映画のようだが、続編(TV)もあったとのことで、この映画限りであまり考えても仕方ないか。とりあえず娯楽としては悪くない映画だった。 [インターネット(字幕)] 6点(2023-04-15 16:48:03) |
114. スペースウォーカー
《ネタバレ》 ソビエト連邦の宇宙開発を扱った映画である。主人公のアレクセイ・レオーノフは、アーサー・C・クラークの「2010年宇宙の旅」(映画「2010年」)の宇宙船の名前に採用された宇宙開発史上の著名人である。 注目点としては人類初の宇宙遊泳ということだが、正直若干地味な題材ではある。ただ少し意外だったのは、この時使った「エアロック」というのが宇宙船内部にあるのでなく、外部にでかいもの(相対的に)をくっつけた形になっていたことで、これにより今回は宇宙遊泳を目的として、エアロックを宇宙に持って行ったロケットだったというのが見た目で認識できた。 物語の面では、アメリカとの競争で予定を早めたために生じた各種トラブルにより緊迫感を出している。宇宙遊泳の場面は地味だがまともに作ってあり、飛行士の様子が映画「2010年」の序盤の場面を思わせるところもある。また帰還時にはヒゲがプルプル震えていたのが大気圏への突入開始の表現になっていた。そのほか個人的には最初のMiG-15戦闘機に目を引かれた。 これで完全な事実ということでもないようだが、「監修」として主人公の名前が出ていたので(公開2年後に逝去)、少なくとも本人が見て納得できる物語ではあったらしい。単純な宇宙映画なら、帰還後に死にそうになった(寒い)話などは適当に捨象するだろうが、個人を顕彰する映画としてなら苦労談の一部ということになる。また少年時代のエピソードや、かつて助けられた男の恩返しなどでドラマ性を加えている。 本人は気さくな人柄だったとのことで、劇中人物としてもフレンドリーな印象を外見に出しており(小日向文世風)、同僚との軽口や家族撮影の茶番感などユーモラスな場面も結構ある。他の同種映画と比べれば、生真面目な印象の「ガガーリン 世界を変えた108分」(2013)と、やりすぎ感のある「サリュート7」(2016)の中間くらいでほどよい感じの娯楽性だった。なおレオニード・ブレジネフの眉毛はギャグかと思った。 なお劇中で「設計主任」と言われていた人物はウクライナ生まれで母親がウクライナ人のため、ウクライナでは自国の偉人として扱われているらしく、出生地にはセルゲイ・コロリョフ宇宙博物館というのもあるようだった。これがウクライナ映画だったら別の作り方になったかも知れないと思ったが、どうせ当時はみなソビエト人民であるから何人かで区別すべき理由も義理もないとも思う(当時の日本にとってはみな敵性国家の民)。 [インターネット(字幕)] 6点(2023-04-15 16:48:02) |
115. ある娼婦の贖罪
《ネタバレ》 南米エクアドルの映画である。監督が同国の出身で、キャストは娼婦役が隣国コロンビア、相手の男役はボリビアの出身だが、ほかに地元の役者も出ているようだった。外部情報によると場所は首都キトとのことで、高地の街(標高2,850m)であることを思わせる映像も見えた。なお最初に起きていた地震というのは、エスメラルダス県やマナビ県で被害を出した「エクアドル地震」(2016)のことかと思われる。 テーマに関して、日本国内向けの宣伝では「性的搾取」として一般化した印象だが、特にこの映画が焦点を当てていたのは人身の拘束を伴う「性的奴隷」(esclavitud sexual / sexual slavery)の問題だったらしい。多くは人身売買や誘拐によるものらしく、具体的な場面はあまり出なかったが、被災地からの孤児の誘拐というのはストーリーの根幹にも関わっていた。これは他の国の話としても聞いたことがあり、決してエクアドルだけの問題とはいえない。 普通に映画として見た場合、エロい場面もなくはないがそれほどではなく、また「性的搾取」に関しても、良識ある人間が見て嫌悪を催すほどのショッキングな映像はない。物語の面では、最初から結末が見えているとまでは言わないが、普通に想像可能な範囲の(少し無理を通した形の)終幕になっている。主人公本人は罪深い人間とも思えないので邦題の「贖罪」は意味不明のようだが、「江戸の敵を長崎で討つ」的な雰囲気表現だったかも知れない。 ジャンルにある「ドラマ」「サスペンス」「エロティック」という面で十分かどうかは不明だが、特に上記esclavitud sexualを告発する社会派映画として見るべきものかと思った。 なお映画の撮影は2017年とのことだが、娼婦役のNoëlle Schönwaldという人は1970年生まれだそうである。もともと美形の人であって、劇中人物としてもまだ美貌を保って愛嬌のある表情も見せていたが、営業面ではさすがに厳しい雰囲気もあり、そのうちどうにもならなくなる行き詰まり感も出していた。ラストがこの人物なりの幕引きになったというのはわからなくはない。 ほかどうでもいいことだが原題に関して、"La mala noche"とは(特定の)「悪い夜」(単数)の意味だが、これは字幕の「店には行かない」という言葉やエンドクレジットの表示からしてポールダンサーのいた店の名前だったらしい。この映画以外では、18世紀のメキシコの鉱山名(転じて鉱山主の邸宅名)や米TVドラマのマフィア組織の名前にもマラノーチェという言葉が使われているが、どういうイメージを持たれている言葉なのかが結局わからず、映画の題名に込めたニュアンスも受け取れなかった。少し突っ込んで調べても結果が出なかったのは心残りだ。 [インターネット(字幕)] 5点(2023-04-08 09:39:24) |
116. タブロイド
《ネタバレ》 TV報道を扱った映画である。劇中TV局はマイアミに拠点を置き、広くラテンアメリカを放送エリアにしたスペイン語放送ということらしい。 内容的には一応見たがだから何ですかという感じで、こういうことは実際あるだろうとは思うが、特に感慨深いものはなく面白味もない。原題/英題のCrónicas / Chroniclesは、普通にいえば年代記の意味だろうから意図が不明瞭だが、例えばこういう報道の連なりがやがて歴史になってしまうのはまずいと言いたいということか。また邦題は、普通はタブロイド版の印刷物のことだろうから看板に偽りのある印象だが、これは例えば劇中放送局の報道姿勢を表現するために、日本でいえば大衆紙のイメージの方がふさわしいという意味か。別に日本のTVが高級というわけでもないだろうが。 ところで日本語の解説文を読むと、1991年の湾岸戦争に関連して「当時テレビ局が流したニュースの中にはPR会社によって巧みに演出された映像が挿入されていた」などということが書いてある。またそれとは別に、1992-95年のボスニア紛争の関連でも「戦争広告代理店」という言葉が出ていた記憶があり、そういうことまで考えていいのであれば今日的な意義も当然ある映画ということになる(実際さんざん騙されている)。しかし邦題はまるでゴシップ紙の話であるかのように矮小化した形になっており、また実際見た印象としてもそれほどスケールの大きい問題提起にはなっていない。何にせよ20年近く前の映画なのでオールドメディア限定の世界ではある。 ところで製作国としてはメキシコの名前も出ているが、映画で見えているのは南米エクアドルのババオヨ市(Babahoyo)という設定になっている。実際そこで撮った映像も多かったのだろうが、他もエクアドル国内での撮影だったようである。 風景として特徴的だったのは高床式の家と、そこへ通じる高架の木橋が多く見えていたことで、これは実際にババオヨ市街地の南にある湿地だか沼だかに面した場所で見られるもののようだった。貧しい人々の住居という意味なのか不明だが、そんな家々にもちゃんとTVアンテナらしいものが立っていたのはこの映画のテーマにも結び付く風景だったのかも知れない。 そのほか夕方の街に多数の鳥が飛来(就塒前集合)していたのは、日本ならカラスとかムクドリだろうがエクアドルのこれは何だったのか。映画のテーマと関係ないようだが映像的にあえて目を引くよう取り上げられていた。 [DVD(字幕)] 4点(2023-04-08 09:39:20) |
117. スガラムルディの魔女
《ネタバレ》 まずはスガラムルディという地名にそそられるものがある。バスク語らしいが意味不明というのが謎めいて怪しい(「荒れたニレの木の多い場所」?)。ここは登場人物も言っていた通り本当に「魔女の村」として有名なようで、「魔女博物館」というものや、撮影に使われた「魔女の洞窟」というのもあって観光客も来るらしい。なお村からフランス国境までは直線で1.5km前後だが、国境の向こうも同じくフランス領バスクである。 映画としては、どうせ魔女屋敷のようなところでドタバタをやらかすだけの安いホラーだろうと思っていたら(そういう感じのところもあるが)、最終的にはエキストラを動員して巨大モンスターが暴れるファンタジー大作風になっていたのは意外だった。またコメディ映画としても笑わされるところがなくもなく、特に主人公がいつの間にか魔女の恋人にされたと思ったらいきなり痴話喧嘩に発展して惨事にまで至る急展開には笑った。子役も愛嬌があって可笑しい。 ストーリーの大枠としては、太古の昔からヨーロッパにいた女神(有名な「ヴィレンドルフのヴィーナス」風)を奉じる魔女集団が、外来のキリスト教がもたらした男優位の社会に宣戦する形になっている。今回は何とか収まったようだが完全に勝敗が決したわけでもなく、今後も男女の戦いは続いていくということらしい。 なおこの映画では人類を二分する戦いの中で性的少数者も男女どちらかに分属していたようだったが、将来的には既存の区別をこえた新勢力も参入して、さらに混戦状況になったりするのではないか、というのが公開10年後の時点で見た感想だった。 以下余談として、スガラムルディ周辺ではかつて本当に魔術信仰があったとのことだが、「魔女の村」とまで言われたのは1610年の魔女裁判で多くの村人が刑死した事件がきっかけのようで、劇中の魔女集団がキリスト教社会に強烈な恨みを持っていたのは自然な設定に思われる。現地の魔女博物館というのも魔女を面白おかしく見せるというよりは、事件の犠牲者を追悼する意図(及び観光資源としての意義)があるとのことだった。この博物館は古い病院の建物を使って2007年に開館した施設とのことで、魔女の洞窟へ向かう道の村はずれにある。2013年10月のストリートビューで見ると晴れた日の長閑な風景で(少し寂しい)、久しぶりに外国へ行ってみたいという気分にさせられた。 [DVD(字幕)] 6点(2023-04-01 08:49:34) |
118. PLAN 75
《ネタバレ》 邦画のようだが製作国が多く(フランス・フィリピン・カタール)変にグローバルな印象を出している。個人的な感覚としては、この映画の公開年と同じ2022年の世界を扱った「ソイレント・グリーン」(1973年米)の現代版かと思わされる映画だった。 劇中世界はよそよそしいが平穏な普通の日本社会であって、その中に違和感なく自然に尊厳死制度がはまり込んでいる。制度は完全な自由意思によるもののようで、そのことが富裕層など死ぬ事情のない人々が平気で生きていられる保証になっていると思われる。 高齢者へのあからさまな迫害などは意外に見られず、登場する若年者は良心的で、ボウリング場の若い連中までもが友好的だった。これは制度の導入によって高齢層への反感が解消され、世代・年代間の対立のない世界が実現したとの意味かも知れない。 また関連ビジネスで1兆円の経済効果というのは現代らしい発想だった。満足できるサービスを得るには費用がかかるにしても、産廃業者でよければ無料というのはソイレント・グリーン的な雰囲気も出している。ほかに生活保護制度も利用可能のようだったが、それはそれで貧困ビジネスの商売ネタにされるようで、そうならなくて済むのもこの制度の利点ということか。 なお現代日本は外圧には弱いが自分からは何もしない国とのイメージがあったので、この映画のような思い切った政策を自ら発案して実行するなど全く考えられないと思ったが、しかし何かの理由で世界の先頭切ってやらかすこともなくはないという気はしてきている(最近は常識外れのことが普通に起きる)。世間の風潮に素直に従う日本人は人類社会のモデルケースになれるかも知れない。 ところで困ったのは、どういうメッセージをこの映画から受け取ればいいのかわからないことである。都合よく人を死なせる制度に反発するのは人として自然な反応だろうが、それにしても劇中設定がうまく出来すぎていないか。自分がすでに高齢者に近づいて来た状況では、このまま生きているよりさっさと死んだ方がいい、と思わされたというのが正直なところだった。 製作側の真意はわからないが(公式サイトは一応見たが)こんな世界にしてはならないというよりは、逆にこんな世界の現実化を前提にした下地づくりが目的のようでもある。日本政府も国際社会も各種メディア(映画を含む)も何も信用できない世の中と思えば、とても素直に見る気にならない映画だった。点数はどっちつかずの数字にしておく。 [追記] 上記で終わりにするかと思ったが気分的に収まらないのでさらに書いておく。 まず、どんな人にもそれぞれ来歴や思いがあるのは相応の年齢になれば誰にでもわかる当然のことである。少なくとも自分にとってはわざわざ映画で見せてもらうようなことではないが、そこをこの映画であえて強調していたのは、やはりそういうことにまだ意識が向いていない若年層へのアピールということになるか。近い将来、この映画のように尊厳死を選ぶ高齢者がいたときに、やっと死ぬのかさっさと死ね、といった罵詈雑言を背後から浴びせるようなことをせず、みなそれぞれに人生があったのだから敬意をもって送り出しましょう、と言いたいのだとすれば、やはり年代間で理解し合える円満な社会を志向した映画と取れなくはない。大変良心的だ。 結果的に劇中高齢者は同情すべきかわいそうな存在という扱いになっていたが、個人的には高齢になった自分の姿に悲哀など感じてもらいたくはない。憐れまれるより死ねと言われる方がまだましだ(勝手にさっさと死ぬ)。それこそ尊厳の問題だ。 [インターネット(邦画)] 5点(2023-04-01 08:49:29)(良:1票) |
119. 竜とそばかすの姫
《ネタバレ》 仮想空間と田舎を対比させているのは「サマーウォーズ」の系列作に見える。仮想空間には警察がいないそうだが、どうせ運営側が直接統制をかけるだろうがと思えばそういうことでもなく、これはいわゆるweb3.0か何かで誰にも支配されない世界が実現しているという設定か。50億の集合意識で本当に価値あるものが自ずと見出されていくという都合のいい展開は、監督が基本的なところでインターネット空間の発展に期待を寄せているという意味かも知れない。 また本物の顔を見せてこそ信頼が生まれるという考え方はわからなくはない。本人似のアバターを提案する方式も人格的なつながりを持たせる意図のようで、またSNSと紐づけ可能という設定からも、完全に別人格になれるメタバースというよりは実名登録で写真付きというフェイスブックの原点を忘れるなというようでもある。「新しい人生を始めよう」という言葉は、新たに見出された可能性を仮想空間内で完結させず、現実世界に持ち帰った上で新しい人生を自分で作っていけという意味かと思った。仮想空間の映像表現を売りにしながらも、「サマーウォーズ」と同様に現実世界とのつながりを意識していたようではある。 ところで素人が水難救助をしようとすると、結果として助けようとした方が亡くなってしまうことが現実に多い気がする。そういう時は無理せず公的機関に通報する一方、自分は安全な場所から助ける努力をするのが適切だろうが、しかしそれでも主人公の母が自分で助けに行ったのは、理性的判断というよりそうせずに済ませられない性のようなものがあったのか。まさにその点を主人公が受け継いだのだとすれば、そういう理屈抜きの衝動にそのまま共感できるかどうかがこの映画の評価を分けるかも知れない。主人公の方は今回たまたまいい結果を出せたということらしい。 全体的にみて、作り手側の思い優先で現実性度外視のところが多いのは作家性の強さと取るべきか。またそれとは別に、映像で観客の感情を動かす力を持った映画だとは思った。点数は作中の"半分が批判、半分が評価"というのを一人分の数字に反映させておく。 なお今回は少女の大泣きは控え目だった。主人公は「こんなに普通の子だったなんて」と言われていたが、普通未満と思われなくてよかったともいえる。仮想空間はとても人とは思えない連中だらけで、主人公がちゃんと歌姫の姿をしていたのはかえって特異なようでもあった。 [インターネット(邦画)] 5点(2023-02-25 09:16:26)(良:1票) |
120. ラフマニノフ ある愛の調べ
《ネタバレ》 題名の作曲家兼ピアニストの人生を扱った映画である。故国を出る前と後で半分ずつくらいの分量かと思うが、撮影場所はサンクト・ペテルブルクとスペインのアンダルシアだそうで、ほかに汽車や街など当時の白黒映像を着色して使ったようなところもある。場所がアメリカであっても現地住民が誰も英語をしゃべっていなかったのは、一応は吹替のイメージだろうがさすがに変だった。 劇中で曲をしっかり聴かせる場面はないが、個人的にはこの作曲家をなぜかイロモノのように思い込んで敬遠していたので、改めてちゃんと聴いてみるかという気にさせられる映画ではあった。知っている曲もなくはないが、プロポーズの場面での「エレジー」(幻想的小品集第1番)などこの作曲家のものだったかと改めて認識させられた場面もある。ロマンティックでメロディアスで聴きやすいので、今後はこういうのに親しむと気が休まりそうだ。この映画にちなんで「ライラック」Op.21-5というのを馴染みの曲にするのはいいかも知れない。 ほか個別の曲に関しては、不評に終わった交響曲第1番の再評価を促す形にはなっている。ツェーザリ・キュイの評論を聞いていると、最初に酷評すると決めておいてから貶めるための表現ばかりに注力し、具体的に何が悪いと言っているのかわからなかったのは困る。また当時の革命思想への反発と、その対極にいた「守護天使」の存在がピアノ協奏曲第2番を生んだという感じの話になっていたかも知れない。 なお主人公以外の有名人についてはちゃんとした説明がなかったが、リムスキー=コルサコフ(字幕)、キュイ(その隣?)、グラズノフ(酔っ払い指揮者)、フョードル・シャリアピン(フェージャ)が出ていたらしい。チャイコフスキーは出そうで出なかった。 物語としては、大まかな史実の流れを意識しながら適宜の話を作っていたようで、時間が前後することを除けば大河ドラマ程度のものかとは思われる。主人公がやたらに悩んでいたのも大体は実際言われている理由のようだったが、ただし行く先々にライラックの花束が届けられたということに関して、この映画として意外な(大して意外でもないが)真相を用意していたのが特徴的とはいえる。一応は最初がライラックで始まり、最後をライラックで締めた形になっていた。 ラストは雨がわざとらしいがそれなりに感動的で、ここで流れた「パガニーニの主題による狂詩曲」第18変奏はこの場面のために作った曲のようでもある。世間の評判がどうかは別として個人的にはそれほど悪くない映画だと思った。 なお序盤でソ連大使に紙礫が飛ぶのは痛快だった。また主人公には悪いがサルの件は笑った。微妙に可笑しい場面もなくはないので娯楽性もそれなりにある。 その他雑談として、ピアノの師匠の言葉で「水の精」と字幕に出ていたのは、別映画「黒人魚」(2018)にも出ていたルサールカのことだったようだが、本気で妖怪の話をしていたのではなく夜遊びをたしなめていたのかと思われる。またピアノ協奏曲第2番の作曲中、従妹が廊下の向こうに立っていたのはホラー映画の構図だったが、これは全部真直ぐお見通しというような意味だったか。 [インターネット(字幕)] 6点(2023-02-18 13:21:56) |