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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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121.  あらくれ(1957)
彼女の亭主になりたいとは思わないが、脇で見ているぶんには実に小気味のいい女の半生もの。不機嫌な人物を見ていると、普通はその不機嫌が伝染してきてしまうものなのだが、彼女の場合は違う。共感でもないの。小さいのによく動き回る相撲取りを見ているときの快感、と言っちゃ女性の高峰秀子に対して失礼か。森雅之との関係はあいかわらず「ズルズル」の世界で、でも『浮雲』みたいに黴の生えるようなジメジメした雨じゃなく、爽快な夕立であることが本作の魅力(あの夕立はホースで撒かれた水の延長線上にあるんだろう)。全編にあふれる物売りの声も、いつもながらとは言え、いい。変に好きなのは、洋服屋の下働きをしてるとき、からの大八車を引いての帰り道、ちょっと置いて一服する、そのしゃがみぶりというか、いや、いったい何がいいんだか分からないんだけど、成瀬の映画ではこういう瞬間を心待ちに待っている。「道行きシーン」と勝手に呼んでて、一人歩きものと二人歩きものと二種類あるんだけど、とにかく道を行きながら放心しているシーンてのが、私は成瀬映画では無性に好きでたまらない。
[映画館(邦画)] 8点(2011-01-03 14:54:10)
122.  奇跡(1955) 《ネタバレ》 
ほとんど室内劇として進んできて、常に窓は室内から外に向いていたのに、医者の車を見送るシーンで、カメラは窓の外から父と三男を捉える。なにか今までと違う緊張が生まれたところで、室内にヨハネスが歩いてきて不吉なことを言う。壁を這っていく車の光。するとドアから、ミゲルが現われインゲの死を告げる。ここからラストまでは、ずっと石のように硬質な時間が続き、この充実した手応えは滅多に味わえるものではなかった。葬儀の場、人々はより確かな自分の立ち位置を求めるかのように、ゆっくり室内を経巡る。隠されたルールに基づいているかのような、確固とした移動。中央に動かないインゲが、最も安定した姿勢で横たわっている。人々の移動の果てに、ヨハネスと幼子の導きによって奇跡が訪れ、インゲとミゲルが支えあって立つ。一人で横たわっている姿勢ほど安定はしていないが、二人の生者としての安定した姿。キリスト者でない私が、この後段で心を震わされた理由をなんとか言葉にしようとすると、こんなことになるだろうか。この映画、初めて観たときは、ヨハネスの言葉に捉われ過ぎ、キリスト教に無知な者だからキチンと味わえなかった、と思わされてしまった。まして1930年代のデンマークの田舎における宗派対立なんか、理解できるはずもないし。でもこれは、愛と死と聖なるものをめぐる普遍性を持った映画だったのであり、この後段の、時間が石と化したあの固さを体験すれば、特定の宗教と関係なく、「味わえた」と言ってもいいのではないか、という気になっている。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2011-01-02 14:55:35)(良:1票)
123.  夜と霧
本物の凄みと言うか、スゴイスゴイと繰り返すしかないですな。ブルドーザーで押していくときの、カタマリのグニグニとした動き。柔軟な物体集合の完全に物理的な動き。桶に集められた首の山、毛髪の丘。きれいに畳まれた皮膚。「なんで」こういうことが起こったのか、という考察より(そういうのは映像より文字のほうが得意だろう)、「なにが」起こったのかを検証する姿勢。フィルムは、なにより「記録」で強い。出来れば、当時のナチの気持ちでこの映像を見る気分の体験にまで行ければ良かったんだけど、それは見てるこっち側の課題だろう。この際立った残虐という「特殊」が、そこだけで閉じてしまわずに、誰もがやれたかも知れない、という「普遍」にまで持って行かなければいけないんだろう。ニコニコ笑ってる看護婦。こういうことに関わらずに一生を終えたい、と思うが、現在だって似たようなことやってるかもしれない収容所と化した国や地域はあるわけで、無関心でいいのかという思いも、柄にもなくうずく。とにかく『広島・長崎の記録』とかこの映画などは、写されただけですでに人類の重い財産となっているフィルムで、本来採点という行為になじまない。
[映画館(字幕)] 7点(2010-12-28 12:23:50)
124.  世界の全ての記憶
『マリエンバート』へ向けた練習のような習作。ひたすら移動し続けるカメラ、記憶の詰まっている迷宮として図書館を捉える。後半は、新刊が棚に置かれるまで、という文化映画的なのだが、台車の移動、エレベーターの上昇、係りの人がボーっと立ってたりして、かなり意図的な演出がなされていると見た。無表情の人々。移動し続けるってことは、立ち止まって対象を一点に絞らない意志の表明であり、観察ではなく観賞ってことなのか。これから何かを発見していこうとしている気分、というか。図書館好きにとっては、裏側が見えて文化映画としても面白かった。思えばこの手の記録は映画の初期からドキュメンタリーの基本で、たとえば英国の『夜行郵便列車』なんてのは、手紙が私たちの手に届くまでの夜の旅を見せてくれたし、普段の生活を支えている(しかし滅多に目にすることの出来ない特殊な)仕事場を、覗かせてくれる興味ってのが、ドキュメントの基本中の基本なんだな。
[映画館(字幕)] 7点(2010-12-26 19:35:23)
125.  山の音 《ネタバレ》 
若いときに一度観ていて、チンプンカンプンだった。こちらもヨワイを重ね、そろそろ作品の滋味がしみじみ堪能できるようになったかも、と観てみたが、まだ駄目だった。ポイントは、舅と嫁の、思いやり以上・恋情未満の心の揺らぎなんだろうが、なんか作り手がそこに焦点を当てないように当てないようにしているみたい。それがデリケートな味わいを出すためというより、別のモチーフを隠すために撹乱しているような気もして、どうも素直に観られない。「つんけん」とか「鬱陶しさ」とか「不和」とか、成瀬のモチーフは遍在している。いつもならそれらが「納まるべきところに納まらない」我々の世界への微苦笑へと解消されていくんだけど、これは苦いだけ。成瀬作品では珍しく上流階級が舞台になっていることと関係があるんだろうか。男たちは東京に通勤していてもその世界は鎌倉と会社に閉じており、かえって出戻り娘や上原謙の愛人ら女たちが、外の世界の荒々しい風を作品に導いている。その現代の戦後女性群に対し、嫁の菊子だけが古風な戦前女性として設定されていて、その彼女が中絶するところに当時はもっと衝撃があったのかも知れない。山村聡が杉葉子と路地を歩くあたり(原作によると本郷)に成瀬の味が匂いたち、やっぱり鎌倉よりこっちのほうが似合う監督なんじゃないか。
[DVD(邦画)] 6点(2010-10-19 09:57:49)
126.  白夜(1957)
ささいなことだが、エキストラの動きがとっても自然で印象的だったことをまず記しておく。で、内容。主人公の優しさの異様な膨らみ、ヒロインの残酷さのあどけなさ。美談を裏から見たような話で、やはりドストエフスキーの匂いがする。女たらしマストロヤンニが、コロッと純情青年もやれちゃうってのがすごい。ハッとさせるのは、暗い閉じたセットの焚火から昼のじゅうたんの部屋にパンしていくとこ。冒頭の迷い犬がラストのマストロヤンニにまつわりついてくるなどのポーズのつけ方のうまさ。ダンスホールのシーンの解放されていく感じ。ここで、ああ同時代の話になってるんだな、と納得していると、橋の下の乞食なんかとっても19世紀的で(主人公の下宿部屋も)、不思議に時代がゆらゆら揺れている感じがあった。典型的な「良くできた文芸映画」であって、しかしそれ以上のものではない。『ベニスに死す』は文芸映画であって、しかもどこを切っても映画で充満していた。
[映画館(字幕)] 7点(2010-09-28 09:51:09)
127.  石中先生行状記(1950)
これは「成瀬的」というもののイメージをことごとく裏切りつつ、それでも観終わってみれば、やはり成瀬の映画を観た、という気分にさせてくれる不思議な作品である。まず成瀬的「うじうじ」がなく、「朗らか」である(多くの作品ではそのうじうじぶりがたまらなくいいんだけど)。これはまあ原作のせいかもしれない。次に狭い「下町の路地」を得意とするのに、これはいたって「牧歌的」。道を撮ると印象的なのは同じだが。そして「中年」の話で多くの名作を残しているのに、これは「若者」。若山セツ子と三船敏郎(当時は若者なのだ)の第三話など、愛すべき作品。でもみずみずしさがあまりほとばしらないところが、なんか成瀬らしい。加えて達者な役者たち。欲もあり人もよし、というところは進藤英太郎以外に考えられず、藤原釜足と中村是好のコズルサを出す会話の妙には堪能させられた。最終話の囲炉裏を囲むシーン、健康そのものの若山セツ子とブスッとしている三船敏郎の対比、それまで若い娘のいなかった家庭のこれまでを想像させてくれる(若山が『青い山脈』の自分のシーンを観ているなんて、似合わぬジョークもやっている)。成瀬の代表作ではないかも知れないが、こういう明朗・牧歌的・若者の作品もあるって嬉しい。
[映画館(邦画)] 8点(2010-09-24 09:53:03)
128.  くちづけ(1955) 《ネタバレ》 
第1話。いいなあ昭和30年の青春。肯定の精神。この手の朗らかさは今やるとシラけちゃうだろうが、やっぱり映画ってのはその時代固有の条件の中で生まれてくるものなんだなあ。だから時代の記録にもなるんだ。第2話。女湯でたてた波が小泉君のほうへ伝わっていくとこなんかよかった。第3話。オムニバスのリズムとしては、2と3入れ替えたほうがいいかもと思ったが(このコント的な味は中間部にふさわしい)、でもやっぱ監督の序列があるんだろう。『浮雲』の年で、肩の力を抜いた成瀬が楽しんで撮ってるような感じが好ましい。前の道をホッケの太鼓やチンドン屋がちゃんと通る。これで一番記憶に残ってるのはラストの八千草薫で、美貌の女優さんなら誰でもいいようなもんだけど、あの人のどこか非現実的な笑顔がピタリ合ってる。あの女優さんは、けっこう気のふれた人とか、ちょっと現実とずれた人やることが多いでしょ。「男はつらいよ」シリーズで一番最初にパターンを崩したのも八千草さんだったし(あれはシリーズ中でもかなり好きな一本)、ああいう役を観客に納得させて演じられる貴重な人。本作の一瞬の登場も、そういう彼女のキャラクターがあって、オチとして実にフンワリと心地よく決まる。
[映画館(邦画)] 7点(2010-09-22 09:56:37)(良:1票)
129.  野いちご
「お前のベストワン映画は何か?」と尋ねられたら「いろんな方向でのベストワンが十数本はあり、とうてい1本に絞れない」と答える。しかしそこで出刃包丁を突きつけられて「これでも選べない?」と畳み込まれたら、たぶんさして迷わず本作を挙げるだろう(でも決して人生の最後に観たい映画ではない、最後に観るならMGMミュージカルかキートン)。初めて観たのが若い多感なときだったせいか、こころにじっくり沁み込んだ作品。その沁み込み具合は、半端じゃなかった。作品中で主人公イサクが、サラに鏡を突きつけられるシーンがあるが、まるでスクリーンが鏡となってこちらに突きつけてきたような映画であった。人の世のわずらわしさから逃げようとしたものの受ける罰。前半の回想で、サラがイサクへの想いを語っているのを、心地よい回想として眺める階段の場の老イサク、しかし中盤の夢で、彼はサラに裁かれる。サラ夫婦の家庭を窓越しに眺めるイサクの孤独。バッハの平均率の変ホ短調のフーガ。サラたちのように生きたい、しかしそう思う人間はそうは成り得ない、という絶対の壁がこの窓にはある。そして重ねて裁きが続く。イサクの孤独は、彼がそうしか成り得ない人間であったということじゃないか。そういう厳しい認識の果てに、ラストの回想が来る。この釣りの図の見事なこと。これは一人称の映画であり、登場する人々は主人公と照らし合わされるためにのみ存在している。そういう厚みを持てない構造が生かされ、その構造によって深くえぐりこめた作品だろう。
[映画館(字幕)] 10点(2010-08-13 09:56:54)(良:1票)
130.  ミラノの奇蹟 《ネタバレ》 
大風が吹くあたりまでは文句のつけようがない。日向ぼっこのシーンなんかはイタリア映画の真骨頂。『終着駅』もそうだが、この監督は大勢の人を細かくスケッチしていくのがうまい。占いでヨボヨボのおじいさんに、あんたは将来大物になれると約束したり、風船売りが飛ばされそうになると仲間があわててパンを食べさせてやるとか。ネオ・リアリズムから寓話へと踏み出している。面白いのはイタリアの映画監督って、リアリズムから出発して、みなリアリズム離れのそれぞれの個性に踏み出していっちゃうこと。デ・シーカはメロドラマ作家として洗練し、まだリアリズムの精神を残しているほうだが、フェリーニはああなっちゃうし、ロッセリーニは神がかる、ヴィスコンティはかえって後で初期の作品を観て「この人ネオ・リアリズムやってたんだ」と驚かされたくち。で本作だが、後半は鳩の魔法のいろいろ。ラストを寓話として逃げたと取るか、現実に対する壮烈な批判と見るのか。カトリックの国であることも関係しているのか。ネオ・リアリズムだけでは映画として狭くなっていってしまうという気持ちもあったかも知れない。この飛躍はイタリア映画史にとっても重要なものだっただろう。
[映画館(字幕)] 8点(2010-05-18 11:59:01)
131.  くちづけ(1957) 《ネタバレ》 
なんで川口浩と野添ひとみのカップルに感動してしまうのだろう。今観てもみずみずしい。オートバイすっ飛ばして江の島へ走るとことか、ローラースケートとか、水着の撮影会のスケッチとか、当時みずみずしかったってより、そういったものをちょっとおかしがって捉えてるってこと自体がみずみずしいんじゃないか。カッコよく爽やかなはずの青春が、選挙違反とか公金横領とかつまんない犯罪者を家族の中に持ってることで屈折を持つのが本作のユニークなとこで、ユーモアにもなっている。メソメソしかけてもそれをユーモアに捩じ伏せてしまう。「また小菅で会おうぜ」がいいやね。哀れみを受けるのだけはヤだ、という女の子の強さがこれからの監督の一貫したモチーフになっていく。ヒロインの惨めな気分を描くときはとても優しい。ナプキンの住所を電話帳に挟んだままにしといて観客をヤキモキさせるあたり憎い。住所探しがどんどん真剣になっていくところが見せ場。工事現場が美しい。簡単なトロッコ用の斜面が奥へ続いていて、ザラザラしたコンクリートの感触。こういうみずみずしさの発見も新鮮だったのだ。
[映画館(邦画)] 8点(2010-05-06 11:58:07)
132.  果しなき欲望 《ネタバレ》 
上と下の緊張。二階の渡辺美佐子と下の階で二階を気にしている男ども。あるいは画面そのものが上と下を同時に捉え、上で近所づきあいのやりとりしてて、下で西村晃や小沢昭一が穴開いたガス管で苦しんでるカット。あるいは上を行くトラックと、下で穴の崩れを支えている連中。表面の日常のなにごともなさと、下での汗水たらした欲望の渦巻き。今村の世界を象徴するような二分割カットが秀逸。川縁での長門裕之のデートと、下に潜む男たちってのもあった。独特のコッテリしたユーモアになっている。加藤武の脚や小沢昭一の手なども、グロテスクな笑いを誘う。独立志向の中原早苗は今村ヒロインの原型のようで、やがて『豚と軍艦』の吉村実子につながるキャラクター(もっとも体型的には『赤い殺意』の春川ますみにつながり、原作は同じ藤原審爾だ。ついでに言っとくと、この藤原さんて、あと『秋津温泉』とか『泥だらけの純情』とか『馬鹿まるだし』とか『ある殺し屋』とか、60年代を代表するユニークな映画に原作を提供していて、気になる作家。藤真利子のお父さん)。欲望渦巻くさまを喜劇として捉え、渡辺美佐子の描きかたなど、非難せず、どちらかというとそのバイタリティにただただ感嘆しているよう。緊迫した瞬間に入る門づけのチリーンの音が、絶妙。
[映画館(邦画)] 8点(2010-04-28 12:05:35)(良:1票)
133.  半魚人の逆襲 《ネタバレ》 
てっきりラストで科学者が「惨忍なのは我々人間の方だったかも知れんな」と反省するのかと思ってたら、しなかった。かってにアマゾン奥地から拉致してきて、電気棒で突っついていじめて(水中でやって科学者のほうは感電しないのはどういう仕組みになっているのか)、鎖で自由を奪って、こういうのはすべてラストで反省させるための伏線かと思っていたら、東西冷戦下のアメリカはそんなに甘くなかった。へっちゃら。第三世界の人々への疚しさが奥にあるのか、なんて考える映画ではなかった。このころはまだ水中撮影が珍しいらしく、それだけで売りになったよう(クストーの『沈黙の世界』が翌年)。ちゃんと半魚人が水中を泳ぎ回るのは偉い。頭からあぶくが出てるのは愛嬌。男科学者と女科学者がいちゃいちゃ泳いでいるところに、ストーカーと化した半魚人が重なって泳ぎ出すあたり、サスペンスというより水中レビューショーのような味わいがあった。半魚人がさらった女科学者を浜に放置して助けに来た人を襲うってのがよく分かんない。目的は人類を襲うことなのか、女ではないのか。おっと、これの売りは無名時代のC・イーストウッドが出てるってことだっんだけど、つい半魚人にばかり気を取られて探すのを忘れた(まさか半魚人役で中に入ってたりとか)。かつて「ウルトラQ」の「海底原人ラゴン」の回には無名時代の黒沢年男が漁師役で出ていて、半魚人みたいのに襲われてアワアワやってたっけ。
[DVD(字幕)] 5点(2010-04-24 11:59:20)
134.  嵐が丘(1953) 《ネタバレ》 
この映画、個々の文章は文法間違っていないのだが、全体を読み通すと異様な文体、って感じ。エキセントリックな登場人物たちが、なんのフィルターも掛けられずに、そのまま動き回る。普通だったら、もうちょっとドラマとして整えようと、理解しやすい面も取り入れるのに、愛と憎しみの感情以外はすべてシャットアウトし、煮詰めてしまう。ラテンの血か。だから登場人物たちは、ボヤーッとしている時間は許されず、いつもパンパンに感情が詰まっている。そういう人物が存在することを観客に説得させようなんて気はなく、もう既定の事実として画面にある。こんな夫婦ありえないだろ、なんて疑問をはさむ余地を与えない。ここにあるんだ、と突きつけてくる。そうして観客はブンブン振り回されて、ラスト、ワーグナーが渦巻く中、銃を持った憎しみの男と、愛する女性の花嫁姿が重なる瞬間、なるほど、感情というものの原質はこれか、とそれに立ち会った気にさせられるのだ。ここの高揚感はすごい。数ある『嵐が丘』のなかでも私が知る限り一番不親切な映画化であるが、作品の核心だけを描いているからだろう。冒頭が『スサーナ』とまったく同じで(魔は窓からやってくる)、中盤の結婚が『エル』と同じ(式を挙げたら変な男)。ブニュエルの世界はつながりあっている。怯える子どもってのも、ブニュエルの好むモチーフか。怯えながらも、豚を屠殺する木の串を一心に削っているのが不気味。
[映画館(字幕)] 6点(2010-04-08 12:00:18)
135.  スサーナ 《ネタバレ》 
至って分かり易い展開なんだけど、どこか常軌を逸している。家族の男たちが、みな自分から悪女にのめり込んでいく凄みのようなもの、雨のなか三人の男たちがそれぞれスサーナの戸口を眺めているあたりの、庭に欲望が渦巻いている感じ。すごく濃い。悪女よりも、男が焦らされたり翻弄されたりすることのほうを描きたい監督なんだ。フェルナンド・レイそっくりのお父さんがこっそりスサーナのスカーフの匂いかいだりするの、もうそれだけでブニュエル映画とわかってしまう。皮肉なのは、この悪女が冒頭で神に脱獄させてください、って祈ると奇跡が起きてあっさり鉄格子窓がはずれちゃうってとこ。そもそも彼女が過去にどういう悪事をしてたのか触れてないので、純粋な悪として存在し(そしてブニュエル映画ではいつも女性は昂然としている)、もうそれは超絶者としての神とさして違わない。これ、パゾリーニの『テオレマ』と好一対になるような話、キリストのような美青年と、神によって野放しにされた悪女が、家庭をかき回す展開。どちらも濃厚なカトリック国の出身で、比べるのも面白いが、あちらがムッツリ陰気に展開していくのに対して、こちらは裏で監督が大笑いしている感じがある。とりわけ、取って付けたようなハッピーエンディングに。
[映画館(字幕)] 7点(2010-03-30 12:04:38)
136.  昇天峠 《ネタバレ》 
行きたいところになかなか行けないバスの旅、っていうブニュエルの基本モチーフが全編展開。じらされ続ける主人公。バスの中では家畜がうろつき回り、お産もあれば棺も担ぎ込まれ、当然主人公は夢も見る。バスの中に樹木が繁り、果実の皮が誘惑する女とつないだかと思うと、その皮は母親が銅像のような台の上で剥き続けている、ってな夢、運転手やほかの乗客たちがバンドを組んでBGMを流しているのがおかしい。でも一番ブニュエル感じたのは、バスの運転手が、ちょっと寄っていってくれと、自分の母親の誕生パーティに乗客を招待する展開。主人公をじらす段取りを次々に仕組んでいった果てにこれがくる。この発想はなかなか出来ないよ。乗客の一人がスピーチして、トリオ・ロス・パンチョスって感じのが歌い出し、みなが踊る。ひとり主人公だけがヤキモキする(主人公が急いでいるのは、母親の危篤に関してで)。ブニュエル映画において宴のモチーフってのは繰り返されるが、これなんか忘れ難いシークエンス。でドラマとして見ると、新婚の主人公は女の誘惑に負けちゃうし、そのために大事な時に間に合わないし、悪辣な兄弟に対抗するためとは言えこっちもちょいと汚い手を使うし、と普通に予想される展開から微妙に踏み外している。この微妙に引っかかるストーリーとは別に、全体のトーンから踏み外したような死児の顔の厳粛なアップの映像も引っかかった。単に母の状態の予告ってこと以上に、この作品全体を包み込む重要なカットだった気がする。あの映像で、『昇天峠』という題名も膨らんでくる。
[映画館(字幕)] 7点(2010-03-29 12:03:55)
137.  愛なき女 《ネタバレ》 
よくまとまった小品というところ。特別ブニュエルならではってとこは感じられなかったけど、憎悪を描くと微妙に過剰になる感じはある。けっこうブニュエルってうじうじした男を描くのが好きで、これもそう。弟や母へのうじうじした不完全燃焼の思いが、これでもかこれでもかと続く。だからラストの和解がちょいとアッケなさすぎる気もしたが、とってつけたような八ッピーエンドはこの監督でよく見かけ(『スサーナ』とか)、なんか陰でブニュエルが大笑いしているような感じもあって安心できない。窓越しにうじうじ見るって場面がブニュエルはことのほか好きらしく、『嵐が丘』や『エル』にもあった、ここでも弟と婚約者を窓越しにうじうじ。あと老人と若い妻って組み合わせもよくこの人の映画で見かける、しかしブニュエルだけのモチーフと決めつけるのは早計かも知れない。映画とは関係ないけど、モーパッサン嫌いだった夏目漱石がこの「ピエールとジャン」だけは気に入っていた、ってのは、なんか「行人」につながるものがあるからだろうか。
[映画館(字幕)] 6点(2010-03-26 12:00:09)
138.  乱暴者【ルイス・ブニュエル監督作品】
社会派的メロドラマ、あるいはその逆。立退き反対の人たちを英雄的に撮る、ってことは絶対にしない監督で、裏から攻める。裏切り者の視点。当人に裏切ってるなんて意識はない。なんかBC級戦犯に通じる話だ。肉はあるけど頭はない、これこそ庶民、ボスの言いなりにハイハイと実行していくあたりはいじらしくさえある。「親方のご恩を忘れるな」というのが彼に植えつけられたイデオロギーなの。娘への恋で自分の行為を発見していくってのは、安易といえば安易だけど、話はスッキリした。肉屋で働いていて肉がいっぱいあるのは監督の好みか。親方のとこのキャンディーじいさんが面白味を出す。ブニュエルが老人に対して、こういう愛嬌を感じさせる演出をするのは珍しい。ラストで鶏がパロマをにらみつけるのは、『忘れられた人々』との関係よりも、ブルートがかわりに持ってきた鶏だってことで見たほうがいいと思う。これは『エル』との二本立てで観たので、こっちはちょっと印象が薄くなった。三百人劇場という新劇用のホールで、ときどき映画もやってて、こういう「メキシコ時代のブニュエル」なんて嬉しい企画が不意にあったりし、要チェックのとこだった。しかしここもなくなったと聞く。
[映画館(字幕)] 7点(2010-03-22 11:59:20)
139.  夜ごとの美女 《ネタバレ》 
戦前の下町人情ものコメディのトーンを堂々と残しているだけでなく、さらにサイレント期のシュールリアリストとしての味もあって、クレールの映画人生を縦断したような眺め。夢の中でのオペラの序曲演奏、オーケストラの中に真面目な顔して近所の連中が加わり、削岩機やら掃除機やらそれぞれの騒音をかき鳴らしている、学校の悪ガキたちも入っている。あるいは夢と現実の関係、約束した時間に寝遅れると、夢の中でも美女を待たせてしまう。処刑の夢が待っているので、寝ないで頑張ろうとしたりする。こういった夢が変に律儀なところに、シュールの精神が感じられる。そしてラスト近く、夢の中の過去が時代を無視して混交しだし、それらを貫いて原始時代から現代へと車が疾駆する楽しさ。クレールのサインのように、異なる時代の人々が手をつないで輪舞する。また「ジェラール・フィリップ七変化」といったスター映画にもちゃんとなっていて、まことに至れり尽くせり、やりたいことやってサービスも満点と職人仕事のカガミです。
[地上波(字幕)] 8点(2010-03-20 11:56:30)
140.  エル(1952) 《ネタバレ》 
普通こういう話だったら、妻を主人公にするよね、スリラーとして。たしかに語りはおもに妻だけど、主人公としての焦点は狂ってく夫に絞られている。スリラーとしての楽しみもあるけど、それが精神病の症例記録ってリアリティも持ってて、なんとも得体の知れない手触りの映画になった。主人公は正義の人なんです、不正が許せない。祖父の代の土地問題を裁判していて、どうもかなり無理な訴訟らしいんだけど、自分が正しいという信念があって、正しいことが負けるはずがないと思い込んでいる(こういう訴訟を抱えている人は『昇天峠』にも登場した。ブニュエルの近辺に実在したのかな)。いいかげんに生きてる奴らへの軽蔑と憎悪が煮えたぎっている。ここに愛する人が登場し(というか愛する脚を所持する女性)、嫉妬の苦しみが生じる。自分の厳格で高貴な世界に彼女を囲い込みたい。嫉妬で荒れては、許しを求めてひざまずく、その繰り返し(落とした食器を拾おうとして妻の脚を見ると、許しを乞い出すの)。自信過剰と自己卑下の壮大な空中ブランコを眺めているような躍動感がある。教会の鐘楼に上って、いいかげんに生きている他人どもの世界を見下ろす、彼らに対する軽蔑だけならいいけれども、そういう他人どもとも生活していく上で接触しなければならない、そこで自分と妻の高潔が汚されるのが我慢ならないわけ、そりゃ追いつめられていきますわな。その果てに、階段で手すりの間を叩くシーンが来る。あそこは妻の立場に立って怖いのではなく、あくまで主人公が追い込まれている状況が怖い。そして街に飛び出すと、軽蔑して止まない他人たちが嘲笑を浴びせてくる…。狂おしいまでの愛の物語ってのは映画史上たくさんあるが、ここまで狂ってて、しかもそれを冷酷に観察してる作品ってのはあんまりないぞ。
[映画館(字幕)] 8点(2010-03-18 12:09:25)
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