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かっぱ堰さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 1283
性別 男性
自己紹介 【名前】「くるきまき」(Kurkimäki)を10年近く使いましたが変な名前だったので捨てました。
【文章】感想文を書いています。できる限り作り手の意図をくみ取ろうとしています。また、わざわざ見るからにはなるべく面白がろうとしています。
【点数】基本的に個人的な好き嫌いで付けています。
5点が標準点で、悪くないが特にいいとも思わない、または可も不可もあって相殺しているもの、素人目にも出来がよくないがいいところのある映画の最高点、嫌悪する映画の最高点と、感情問題としては0だが外見的に角が立たないよう標準点にしたものです。6点以上は好意的、4点以下は否定的です。
また0点は、特に事情があって採点放棄したもの、あるいは憎しみや怒りなどで効用が0以下になっているものです。

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121.  剣の舞 我が心の旋律 《ネタバレ》 
アルメニア人の作曲家アラム・ハチャトゥリアンを主人公にした映画である。 基本的には題名の曲を作った時期を扱っているが、この曲限定の秘話というよりは、この時期に取材する形で作曲家の人物像を表現している。当然ながらソビエト政権の統制が芸術の世界にも及んでおり、さらに戦争の脅威も迫っていた(音が覆い被さって来る感じ)が、そういった世相や世間の醜さに構わず、黙々と自分の道を行く芸術家だったと見える。「俺は音で考える」というのはなるほどと思った。 曲目としてはバレエ音楽「ガイーヌ」から、題名の曲のほか「子守歌」、「レズギンカ」(音だけ断片)、「バラの娘たちの踊り※」が出ている。しかし主人公が本当にやりたかったのはこういうものではなかったようで、終盤近くになって白紙の五線譜に向かう場面以降、背景に流れていた交響曲第2番が実はこの映画のメインだったと思われる。この曲はショスタコーヴィチの第7番と同じく戦争をテーマにした曲と思われてきたようだが、それをこの映画では、死んだ爺との約束だった「心の叫び」を表現したものと解釈したらしい。 音楽関連の映画として見た場合、まずは題名の超有名曲で人目を引いておきながら、そんなのは実は体制側に強要された急造品でしかなく(それでも名曲)、本当に大事なのは交響曲だからぜひ聴いてみろ、と観客に勧める映画かと思った。確かに聴いてみる気にはなった。 ※公式サイトの監督インタビューではなぜか「ピンクガールズの踊り」と書いている。  アルメニアという国の関係では、大小アララト山の雄大な山容を望む「ホルヴィラップ修道院」の場面があったのは単なる現地PRのようでもあるが、ここはトルコ国境の川から1km程度しかない最前線であり、故郷を追われた人々の悲痛な思いが心に迫る場所という意味らしい。また音楽関連では「子守歌」の原曲であるかのように聞こえなくもない歌や、民族楽器「ドゥドゥク」の名前も出ていた。 政治的な主張としては、かつての「アルメニア人虐殺」を世界が傍観したことが後にナチスのユダヤ人虐殺につながった、という考えを述べていたが若干飛躍がある。それより近場の「ホロドモール」(1932-33)は知らないふりかと思うわけだが、別にこの映画としてソビエト政権を擁護する意図はなく、独裁者や体制腐敗への反感は自然な形で表現されていた。ちなみに戦争の非人道性の描写も若干ある。 最後のニュース映像のような部分を見ていると、心ならずも書いた曲が世界で大人気になってしまったが、そのことでソビエト政権もこの作曲家を重視せざるを得なくなった、という意味かと思った。現在はアルメニアの偉人として扱われているようだが、ここで改めてその真価を問い直そうという映画だったかも知れない(「ミスター剣の舞」ではなく)。なお顔の好き嫌いは人によると思われる。  その他のこととして、題名の曲の中間部にあるサックスパートを生かした話の流れもできている。出来の悪い弟子がいきなり名手になったのは、民族楽器「ドゥドゥク」がサクソフォンと同じくリード楽器だからということらしい(二枚リードだそうだが)。 またオイストラフとショスタコーヴィチが主人公を訪ねてきた場面は、音楽家仲間の馴れ合いの雰囲気が出ていて面白かった。「レニングラード」第1楽章の真相をこんな場所でしゃべっては危ない(同志スターリンに聞こえている)。当代一流の音楽家が揃って大道芸をしていたのはユーモラスだったが、ここは特にショスタコーヴィチの人物像が可笑しかった。 ほか毎度決まったように殴られる奴がいたのは笑った。昔「ノーメンクラツーラ ソヴィエトの赤い貴族」という本を読んだ時に、ソビエト高官が性的な動機からバレリーナのパトロンになりたがる話が書いてあった気がするが、劇中バレリーナに関しても、「仮面舞踏会」のワルツの場面で本人が言ったとおり悲劇に終わったようでもある。しかしうまくやれば劇中の役人を後ろ盾にして、舞踏界での地位を高めていける可能性もあるのではと皮肉なことを思ったりもした。 全体としてドラマにそれほど深みはなく、また何かと話を作り過ぎでウソっぽいようでもあるが、個人的にはいろいろ見どころがあって結構楽しめる映画だった。調子に乗って長文を書いてしまったが一般にはお勧めしない。 [2023/2/18追記] 少し時間が経ってみると、ショスタコーヴィチが心情を吐露する場面と、「ピンクガールズの踊り」を見ている若い連中の顔が強く印象に残っている。
[インターネット(字幕)] 6点(2023-02-11 09:44:44)
122.  グラウンドブレイク 都市壊滅 《ネタバレ》 
1988年のアルメニア大地震を扱った映画である。ソビエト連邦解体の3年前なので、当時まだアルメニア・ソビエト社会主義共和国といっていたわけだが特にソビエト色もなく、かえって時代は変わってきているとの雰囲気を若干出していた。 主なスタッフやプロデューサーはアルメニア出身者が中心で、劇中人物と演者もアルメニア人が多かったようだが、出所した男の一家4人はロシア人だったらしい(演者もロシア出身)。また主人公が助けた女性もロシア人だったようで、劇中の人間関係の変化でアルメニア人とロシア人の融和を表現していたようだった。  地震の被害はほとんど建物の倒壊によるもののようだったが、そもそも設計・施工の面で壊れやすくできた建物だらけだったらしい。ネズミがわずかな予兆になって突然地震が起きて、いきなりそこら中が瓦礫の山になったのは驚きがあったといえなくもない。病院が一瞬で潰れる場面があったが、現実にも病院の倒壊で医療関係者や機器類の被害が大きかったとのことだった。 ドラマとしては、感傷的で軽薄な音楽がうるさいのでTVドラマかと思うところもあるが、震災の悲劇をきっかけとした和解と再出発の物語は一応できている。親を亡くした子どもがいたが、最後のテロップで孤児はみな引き取り手がみつかったという話に結び付けていたのは悪くない。またエンディングで記録写真らしいものと劇中映像を並べて見せていたので、残された記録写真の映像化ということを意識していたかも知れない。  ほか映画のキャッチコピーは「世界を一つにした悲劇」とのことで、この時に支援を寄せた各国に改めて感謝する意図もあったらしい。フランスの犬は実際に来ていたようだが、ただ現実問題としては世界から支援が殺到したため大混乱になり、その後に国際支援のルールが定められるきっかけになったとのことだった。 日本からも国際緊急援助隊が行ったはずだが言及がないのはまあいいとして(タイミングに問題?)、"地震のエネルギーは広島原爆の10倍"という説明にだけ日本が出るのは無神経なようでもある。東日本大震災(2011)後の製作ながら日本人に見せるつもりはなかったようだが、別にそれほど友好国なわけでもなく、どうせあっちの方の国の話だからどうでもいい、と突き放したことを考えていたら、先日2023.2.6に隣国トルコでまた大地震が起きて惨事になっている。やはり災害時にはどこの国とも助け合うのが大事だ(当然だ)。
[インターネット(字幕)] 5点(2023-02-11 09:44:42)
123.  赤い闇 スターリンの冷たい大地で 《ネタバレ》 
映画のタイトルでRをЯに、NをИにしていたのは、中学時代に同じことをやっていた奴がいたので精神年齢が低く見える。それ以外はまともな映画だった。 邦題は観客の意識を過去の国家犯罪に誘導しようとしているが、英題はジャーナリストである主人公の方を前面に出している。監督インタビューによれば、ジェノサイドだけがテーマならこの仕事は受けなかっただろうが、持ち込まれた脚本に「今の世の中にも通じる要素を大いに感じた」からこそ受けたとのことだった。  少なくとも現代では、一党独裁の全体主義国家は警戒するのが普通と思われる。経済成長を期待して投資の誘いに乗るにしても、ビジネス渡航者がいつ人質にされるかわからないのではリスクが大きすぎないか。人権抑圧だけでなく、国力増強のためには住民の生命を犠牲にまでする政権の機嫌を取るなど恥ずべきことだというのが、政財界はともかく一般庶民の感覚のはずである。 問題はそこに報道機関も加担して、自分らに都合のいい情報だけ流し、都合の悪い事実はなかったことにして一般庶民を欺くことである。報道業界も別に一般庶民に貢献するために存在しているのではないだろうが、それにしてもあからさまに虚偽報道をしておいて誤りを認めないというのでは、ジャーナリズムの崇高な理念など仮にあったとしても飾りでしかないのかと疑うことになる。 ただし報道機関とジャーナリストは同じでもないという考え方はあるかも知れない。本人がジャーナリストを自称しているだけで信用するわけにもいかないが、中には使命感をもって事実を明らかにしようとするジャーナリストもいるだろうとは思うので、ぜひ結果を見せてもらいたいと期待する(生命は大事だが)。  ところで映画は冒頭が「動物農場」から始まっていたが、実際の執筆時期は映画の物語よりもかなり後のようなので、当初は単純な社会主義者だったジョージ・オーウェルが、主人公の示した事実に心を動かされた結果がこの著作につながった、という流れを作ったらしい。主人公は若くして世を去ったが、いわば連携プレーで全体主義の脅威を世界に知らしめたという意味と思われる。 主人公の伝えた事実は、そのままならこの時代またはこの場所限定のこととして捉えられかねないが(邦題のように)、オーウェルの著作は具体的な事実を背景にしながらも、寓話や空想小説の形にしたことで後世にも通用する普遍性を持ち得たと思われる。この映画でもあえてオーウェルを登場させたことで、そのような普遍性を感じ取ってもらいたいとの意図があったのかと思った…そのようなことを監督インタビューでも説明していたので間違いないと思われる。  その他のことに関して、邦題は本当の闇なら色が見えないだろうから変な表現だと思ったが、劇中で実際に夜空が赤く見える場面があったことからの発想かも知れない。またエスニック調で不穏な歌詞の児童合唱は凄味があって効果的だった。 人物としては、ヴァネッサ・カービーという人が目を引いた。また序盤でやたらに目立っていた大使館員?は、「ゆれる人魚」(2015)で魚役(妹)をやっていたミハリーナ・オルシャニスカという人だった(ワルシャワ出身)。目立って当然だ。
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2023-02-04 10:23:40)
124.  チャイルド44 森に消えた子供たち 《ネタバレ》 
原作は読んでいないがこの映画に関しては、どちらかというと見て損した部類だった。時間が137分もあるが、それでも恐らく原作での詳細な設定や描写が断片化して半端になっているところが多々ある。 社会性という面でいえば、2015年の時点でこの物語を映画化することの意図がわからない。日本国内向け公式サイトでは一応、「全体主義国家がいかに人間の精神を崩壊させていくかという普遍的なテーマ」を扱っていると書いてあるが、結局はこの時代またはこの場所限定のことにしかなっておらず、誰も今の自分に関係あることとは思わない。ちなみに楽園に殺人は存在しないという建前は当時本当にあったのか知らないが、そういう現実度外視の観念論は東洋でも好まれそうな気はする(大陸でも半島でも列島でも)。 ドラマとしては、悪人顔の主人公を始めとして主要人物に誠意が感じられず信用できそうにもなく、この連中は何をやっているのかと中盤くらいまで突き放した気分でいたが、終盤にかけてやっと人々の意思がはっきりして来てまともに見られるようになる。それはそういう構成にしたのだろうが、それにしても結果的には話がうまく出来すぎで、最後は勧善懲悪物のようになっていたのはどうかと思った。アメリカの娯楽映画だからこれでいいのかも知れないが。 ちなみに世界のどこの場所の映画でも英語で作るのはさすが世界帝国だと思ったが、昔の邦画にもそういう例(大陸系)があったと思うので他国のことはいえない。
[インターネット(字幕)] 4点(2023-02-04 10:23:38)
125.  美しすぎる議員 《ネタバレ》 
不快な場面が多いので好んで見るようなものではない。同じ監督の「レミングスの夏」(2016)に続き、今回も某県某市やその市議会が協力しているが、よくこんな微妙な映画に協力しようと思ったものだ。ここの議会では常にあんな質問・答弁のやり取りをしているのか(会議録を見るとそうでもないようだが)。 劇中議員は生活相談のようなことをしていたが、市民の個人生活に踏み込んでも深みにはまるばかりで、それが市政につながらなければ議員の仕事とはいえないだろうと思ったが、しかし一期目の新米議員として、こういうことをしながら自分の活動スタイルを作る過程だったとするなら否定できるものではない。個人的に背負うもの、失うものがないのはかえって強みでもあり、また極端に清廉潔白でもなく「100やりたくないこと」もあえてする人物だったが、ちなみに芸能界に関する発言は、演者本人にも関わることなので少々微妙だった。 一方の劇中ディレクターは物事をきれいな表と汚い裏と単純化して捉えていたようだったが、しかしそれはマスメディア本体や、マスメディアが想定している視聴者も含めた世界観がそうなっているということらしい。実際に議員は表面を取り繕っているところもあったが(当然だが)、さらに奥の奥まで暴いていけば、マスメディアの期待した真実が見えるかと思えばそうでもなく、実は初めから表層に見えていたのが真実だったということではないか。それがわかったのも「100の画を撮って」きた結果ということか。 またディレクターはなぜか売名ということにこだわっていたが、それはそれとしてその先にまた本来の目的があると思っていなかったとすれば残念な奴ということになる。しかし自分が「野心」を指摘されてそうではないと返した時には、実は自分も議員も同じだったことを自覚していたという理解でいいか。 個人的な感覚としては、映画人の語る政治や社会などどうせマスメディアと同種同質のものであり、得にも足しにもならないので知りたいとも思わないわけだが、しかしこの映画は結果的におおむね妥当なことを言っているようだと思ったので、点数は悪くしないことにする。 ちなみに川村ゆきえという人は嫌いでない。題名通りの「美しすぎる」というよりは、生の人としての顔が見えていたようで悪くなかった。ラストの遠景の表情にちょっと泣かせるものがある。
[DVD(邦画)] 5点(2023-01-28 21:12:42)(良:1票)
126.  たそがれの東京タワー 《ネタバレ》 
「宇宙人東京に現わる」(1956)という映画のブルーレイを入手したところなぜかこの映画のDVDが一緒に入っていた。他の視聴方法もあるのかも知れないが、もしかしてそういう特殊な趣味の人間しか見られない映画ということか。ちなみに東京タワーは映画前年の1958年に完成したが、1961年には早くもモスラに破壊されていた。  内容としてはいわゆるメロドラマだそうで、東京タワーでたまたま出会った男女の恋の行方を描いている。序盤では都会に馴染めない主人公の疎外感や不安定感が自分のことのように感じられ、さらに「悪い子」になってからは気が気でなくなって見るのがつらくなる。これで最後がハッピーエンドだったら話を作りすぎだろうと思っていたが、終幕は意外に納得感があって悪くなかった。エレベーターガールの人は困惑していたが、大事な場面というのはわかったと思われる。BGMのアニーローリーが心に染みる。 荒唐無稽とはいえ単純なシンデレラストーリーではなかったようだが、これと当時の世相の関係をどう受け取ればいいのかわからない。社会階層の違いがあるのは当時も今も同じだろうが、この映画では上流を目指すというよりも、新しい居場所を自分らで作ろうとしたと思えばいいか。そういう可能性を期待したくなる上向き感が当時の社会にあって、東京タワーというものをそのシンボルにしたのかと思っておく。  ところで鏡の中の主人公は本人の反転像であって、本人が内向的で実直とすれば外向的で奔放な人格といえる。これが主人公に悪事を唆したことで新しい世界が開かれた一方、悪事への悔いから人としての正しい道を主人公に再認識させ、本来の性格を補強する役割もあったのかも知れない。単純に本人のダークサイドでもなく、これ自体が複雑性を持ったキャラクターだったらしい。 また複雑といえば男の許嫁もそのように見える。未来の社長夫人の道は絶たれたものの、経営者につながる立場は確保できたと思われるので実利は失っていない。一方、終盤で思いがけず主人公の真心に感じ入ったのは本当と思われるので、その上で幼馴染を幸せにしてやろうという善意を働かせた結果が最後の展開と思われる(自分は選ばれなかったという落胆を隠して)。さすが上流階級の人はいろいろ考えがあると思わされるが、それに快く協力した社長も大人物だったらしい。社会階層の上下はあっても人の心は通じることを信じる映画だったようである。
[DVD(邦画)] 7点(2023-01-21 13:47:15)
127.  東京のバスガール 《ネタバレ》 
ジャンルとしては「歌謡映画」だそうで、歌手本人が主人公の先輩役で出演して、題名の歌を車内で歌う場面が最初と最後にある。物語としては主人公の仕事と恋愛を中心に、巨額の遺産相続問題という変な要素を絡めてドタバタ喜劇の印象も出している。  観光バスの映画なので昭和33年の東京周辺の風景が映り、開業直前らしい東京タワーも見えている。戦後10年以上を経てGHQも昔の話になっていたが、主人公に身寄りがないとの設定は戦災孤児ということだったかも知れない。また南アジア風の君主国の皇太子から求婚されるエピソードがあったのは、現実にわが国皇太子の結婚が話題になっていたからか、または「王様と私」(1956)の影響もあったかどうか。 主人公は最初に「山形県落合村農業会」といういかにもそれらしい団体を案内していたが(無理にいえば現在の山形市落合町?)、すぐに遺産狙いの変な連中が出て来て邪魔されてしまう。不純物を入れないで、まずはお仕事映画としてちゃんと見せてくれと思っていたが、その後に施設の子どもらを案内したことで、仕事の意義を再確認する場面もあったので結果的には安心できた。 恋愛に関しては、順風満帆だったはずが遺産相続問題で邪魔されて、さらには主人公の明らかな失策もあってそのまま破局に至ったのは非常に意外だった。その後の唐突な挽回は都合よすぎに見えたが、まあ先輩の人徳あってこそのハッピーエンドだったと思っておく。 主人公は親しみやすい可愛らしさのある人で、変なことに惑わされない良識があり、また8時に行くと決めたら通す律儀な(確実性の高い)人物だった。河口湖での顛末は、実は本人にも迷いがあってのことだったかも知れないが、最終的には仕事も恋愛も本当に価値あるものを掴んだらしい。 現実のバスガールが「明るく走る」ばかりではなかっただろうというのは容易に想像できることだが、そもそも歌詞もつらさに負けず職業人として明るくふるまう内容になっている。つらいことの中にいいこともあるのが人生だろうし、また社会全体としてもこの後は経済成長が続くこともあり、劇中2人の未来も明るいはずだと思っておこう、という気にさせられる映画ではあった。  なお主人公の会社は「東京観光バス」という名前だったが、現実問題としては「はとバス」のこととしか思えない。この映画を見て、今どき改めて観光バスで東京を回ってみるのもいいかと思わされた。「はとバス」のPR映画になっている。
[インターネット(邦画)] 6点(2023-01-21 13:47:13)
128.  怪猫トルコ風呂 《ネタバレ》 
DVDの最初に「現在では不適当と思われる表現」があるとの警告が入るが、そもそも題名からして不適当である。映画の冒頭から、売春防止法の施行により昭和33年3月31日限りで吉原の遊郭が廃止され、その後は風俗店に転換していったという歴史的経過が描写されるが、後年さらに来日トルコ人からの抗議がもとで一斉に名前が変わったことまでは当然出ていない。  内容としては風俗営業をからめた独自色のある怪奇映画かと思っていたが、終盤で猫耳を立てた人型の化け猫が出現したのを見ると、伝統的な化け猫映画のバリエーションということかも知れない。 序盤からの出来事を劇中ネコがずっと見ていたが、悪人に対抗しようにもネコだけでは非力だったようで終盤で惨殺されてしまう(なんとネコの首が飛ぶ)。その直後に出た化け猫は、黒ネコだったはずが白装束なのは変だったが猫耳だけは黒かったので、これは死んだネコが殺された者の死体に乗り移って化け猫になったという意味か。あるいは人とネコの魂が一体になって悪人を成敗したのかも知れないが、それならラストの昇天時に人がネコを抱いている形にしてもらいたかった。 終盤の破滅に至る展開には緊迫感が一貫しておらず、劇中人物が次々に殺害されて2人だけになり、いつまた化け猫が襲って来るかわからない状況なのに「泡踊り」を始めたりするのは気が抜ける。結果的に何ともいえない映画だったが当時はこの程度でよかったのか。ちなみにエロい場面は特に目を引かなかった。  なお人の悪事をネコが見ている場面で、ネコの目から見た光景を映像化してみせていたのは悪くない。人の目で見るより明るさがあり、またモノクロームだったのは当時ネコには色が見えないと考えられていたからかも知れない。ほか人が倒れていた場所が白と黄の菊のある植え込みだったのは、すでに死んでいるのを一瞬でわからせる効果があった。この菊のほかに古井戸もそうだったが、これから何か起こる場所を予告的に一瞬映す場面があったのは当時の映画制作の一手法ということか。
[DVD(邦画)] 3点(2023-01-14 14:42:21)(笑:1票)
129.  怪猫謎の三味線 《ネタバレ》 
戦前の古い映画だが無声映画ではなく台詞も音楽も入っている。 江戸の芝居小屋(中村座とのこと)をめぐる復讐談で、劇場付きの三味線奏者や役者、及びこれに関わる武家の人々が登場する。昭和に入ってからの映画だが、現代で見る時代劇よりは本物に近い江戸文化に触れた気にさせるところがある。  怪猫といえば、役者の扮した化け猫が出て恨む相手を取り殺すのかと思うが、この映画ではそういう化け猫は出ない。復讐の主体は人であり、公演中の舞台上で憎むべき相手に復讐(仇討ち)する場面がクライマックスになる。 化け猫というより題名の三味線が物語の進行に関わっており、怪しい因縁のある三味線が一度失われてから方々を転々として、最後に本来あるべき場所に戻ってから復讐に参加する展開になる。なお三味線というのはネコの皮を使うことから、皮を取られたネコの怨念が籠っていたりするのではないかと昔から思っていたが、この映画では三味線奏者が愛猫の形見にするため愛用の三味線をあえて張り替えたとのことで、なるほどそういう考え方もあるかと思った。 特殊効果としては当時なりの技術だが、二重露光か何かで半透明の手が三味線を掴もうとする映像は悪くなかった。また幽霊と話したと思っていたら実は眠っていて目が覚めた、という場面は夢オチのようだったが、やたら生々しい心霊現象よりは奥ゆかしく見える。 ユーモラスな場面もあり、怪しい三味線を捨てようと思った人物が、なかなか捨てられずに途方に暮れた様子は微妙に笑わせる。また広間にいた人々が、あっちを向けと大名に言われて一斉にあっちを向いた場面も笑いを狙っていたかも知れない。 困ったのは終盤の部分が映像表現だけではわかりにくいことだったが、ラストの場面の天気を見れば明らかにハッピーエンドなのでまあいいかという感じだった。  人物関係では、後に「日本のおかあさん」と言われた森光子という役者の18歳頃(1920年生まれとして)の姿が見られるのは注目点である。絶世の美女でもないが役柄にふさわしく可憐で可愛らしく、まだ若いのに台詞も動きもちゃんとした印象で、昔の役者はさすが違うと思わされた。また劇中の三味線弾きの男(常磐津清二郎)に対し、その同門の女性(常磐津文字春)は秘めた思いがあったようでいて不明瞭なまま終わったようなのは変だったが、ちなみにこの役者2人(浅香新八郎・森静子)はこの時点で夫婦だったらしい。
[DVD(邦画)] 6点(2023-01-14 14:42:20)
130.  きさらぎ駅 《ネタバレ》 
今どきまた「きさらぎ駅」など持ち出して来たかと思ったが、話によれば今でも人気の都市伝説として扱われているとのことで、舞台とされた遠州鉄道でも迷惑がらず営業に生かしているらしい。郊外の撮影は別の鉄道会社の駅を使ったそうだが(上田電鉄別所線八木沢駅)、遠州鉄道に関しては政令指定都市の都市内交通の印象を出していて、新浜松駅近くの超高層ビルも見えていた。  もともと単純な話なので、この映画でも原話の各種要素をほとんど取り入れた上で登場人物も増やしている。それでも単純すぎて映画にならないので、後半を探求心旺盛な大学生による実地検証パートにしてサイズを倍加している。都市伝説の真否を探るなど民俗学でやることかと思うが、「異世界エレベーター」という別の話と組み合わせての解釈は、民俗学というより都市伝説自体の愛好者だからこその発想と思われる。実際そういう学生も多いだろうという気はする。 物語としては、最後に少し捻ったところはあるが軽い感じで、エンドロール後の追加場面も含めてあまり深みは感じない。しかし難解ならいいわけでもないので、劇場公開映画として多くの人々が楽しめるようまとめたのは制作側の見識と思われる。 なお原話のイメージと全く違うのは現地がほとんど昼間だったことだが、これはどうせ異世界だからどうでもいいということなのか。一回目は映像を青くしてお手軽な異界感を出していたが、二回目になるとそれはなく、一方で場面ごとに天気が全く違ったりして、これは同じような風景を二度見せないこだわりがあったのだと思っておく。  キャストに関して、恒松祐里という人は今どきこんな映画で映画初主演だそうで、「くちびるに歌を」(2015)などは主演でなかったのかと改めて思った(本当の主演が誰だか忘れた)。本田望結という人は個人的には久しぶりに見たが、2004年生まれなので原話の発祥と同年ということになる。また「牛首村」(2021)で見た莉子という人も出演していたが、あまり可愛く見える場面がないのは残念だ(地は可愛い人だ)。 永江監督に関しては、「真・鮫島事件」(2020)に続くネット発祥怪談の映画であり、本当にこういうのが好きでやっているように見える。ちなみに助監督は「廣瀬萌恵里」といういかにも若そうな名前の人で、主人公と似たような趣味だから手伝ったのかと勝手に思ったら違うようだった。美大を出て少し経ったくらいの人らしい。
[インターネット(邦画)] 5点(2023-01-07 13:37:38)
131.  N号棟 《ネタバレ》 
映画紹介で「考察型」と書いてあるのがいかにも面倒臭そうに見える。実話をもとにしたとされているが、もとの事件から取ったのは場所と騒霊現象が起きることくらいで、他はほとんど創作だろうという気がする。 12月の話とはいえ雰囲気は確かに「ミッドサマー」だろうが(見てないが)、死への恐怖を扱ったという点では高橋洋脚本・監督の「恐怖」(2009)に近いかと思った。要は登場人物の発言のとおり、霊も死後の世界も存在するので死ぬのは怖くない、という考えが根底にあるようで、確かに自分が存在しなくなると思うと底知れない怖さを感じるというのはわからなくはない。 死んだら何もなくなるという信念を持つ人は多いのかも知れないが、しかし現実問題として古今東西の伝統社会で死後の世界はあると信じられてきており、これは根拠がどうとかいうよりも、そう思いたがるのが人類共通の心理だからと取れる。それならそれを素直に受け入れても構わないのであって、主人公が何の義理で頑なに死後の世界を認めないのか個人的には全くわからない。どうせ死ぬときはみな一人なので、客観性も合理性もなく気持ちの問題と割り切って、自分が安心できる適宜の考え方を選べばいいではないか。その考えに他人を巻き込もうとしなければいいだけのことである。 死への不安を解消するためには、例えば劇中人物も若干触れていた(多分)ように、臨死体験をした人々が死を恐れなくなったと言っていることを知るのはいい。向こうへ行ってしまった家族や知人が迎えてくれると思うのも安心できる要因と思われる。また無難なのは既成の大宗教に合わせることで、例えばキリスト教徒の人々なら天国へ行こうと思うのだろうし、また仏教一般でいう輪廻転生を想定すれば少なくとも今回だけで終わりにはならない。あるいは阿弥陀如来を信じて称名念仏していれば西方極楽浄土に行けるとか思えばとりあえず安心できる。 そこで大事なのは当然ながら、死への恐怖を悪用する変な教団に取り込まれないことである。劇中では登場人物にカップで何か飲ませる場面があったので、薬物で精神を操作するか何かしていたと思われる。そういう面ではカルトを扱った映画だろうが、実は教祖と信者(住人)のほとんどがすでに心霊だったというのが特色ではないか。人を集めていた動機は不明だが、来世へ行けない寂しさを紛らわすためというようなことかも知れない。 真面目に作ってあるのは認めるが、娯楽としての面白味は特に感じない。映像が全体的に茶色がかっていて、薄汚れたしょっぱい印象(醤油が染みついたような)だったのも好きになれない理由だった。点数は前記「恐怖」を5点にしたのでそれより下げておく。  なお登場人物の関係では、若手女子が可愛く見える場面は特にない(アイドルホラーではない)。個人的には山谷花純さんと飯田祐真さんのキスシーンがあったのが意外で、一般向けの見どころともいえないが自分としては注目点だった。
[インターネット(邦画)] 4点(2023-01-07 13:37:36)(良:1票)
132.  カルメン故郷に帰る 《ネタバレ》 
日本初の総天然色映画として百科事典で特記されていたので大昔から名前は知っていたが、子どもが見るものではないと思っていた。今回デジタルリマスター版というのを見ると、浅間山を背景にした牧草地に登場人物の華やかな衣装が映えている。山から噴煙らしいものがずっと出ていて、まともに構図に取り入れている場面もあったが、気象庁の記録によれば1950~51年に火山活動があり、噴火で死傷者が出た事件もあったらしい。実は危険な撮影現場だったのではないか。 それはそれとして基本的には喜劇のようで、深刻そうな場面もユーモラスで笑ってしまうところがある。父親はやたらに主人公をバカ扱いしていたが、特に知能に問題があるわけでもなさそうで、これは当時の社会通念から自由なことをそう言っていただけではないか。昔バスガールをしていた(婿を連れて帰った)姉はどちらかというと主人公の価値観の理解者だったようだが、父親の方は(妻を亡くして?)娘たちに十分手をかけてやれなかったという悔いがあり、その自責の念がバカの木に象徴されていたと思われる。  物語の中心テーマは芸術文化に関することだったように見える。 まず、金儲けが目的なら芸術文化ではないという趣旨の発言があったが、それをいうなら映画も似たようなものといえる。実際に今どき映画を芸術の部類に入れる人々も多くないだろうが、しかし芸術性皆無の映画というのもあまりなく、芸術では絶対ないともいい切れない。また劇中例でいえば、観客の色欲を刺激するのが目的なら芸術とはみなされにくいが、しかし例えば食欲を満たす場合は生の食材そのままでなく調理するところに文化性があり、また主人公についても生のものをただ見せるのでなく歌や踊りの技量、さらに衣装を含めてどう見せるかで価値を高めようとしていたはずである。その点で、目的が不純であっても芸術性・文化性を伴うものはあるといえる。 また興行収入の使途に関する校長の発言には、裸芸術と本物の芸術は隔絶したものではないという認識が示されている。本物の芸術というのも実は範囲が明瞭でなく、元教員が作った歌は芸術寄りではあろうがシューベルトの歌曲と同列ではない。そういったものを全部まとめた、いわば芸術文化連続体の中に裸芸術も本物の芸術も含まれているということだ。 ラストでは、さんざん色々やらかした主人公と同僚が悪びれることもなく去る一方、それとは別に元教員が元のとおりにオルガンを弾いていて、両者の出会いで何か変化がもたらされたようでもなかったが、これは新奇/古風、都会/田舎、高尚/卑俗で良否を分けず、それぞれが併存していて構わないという大らかさの表現に思われる。結果的には、世界の様々なものが持つ芸術性や文化性を広く認め、みながそれぞれにアーティスティックな創意を発揮または評価する時代を志向する映画なのかと思った。 なお主題歌(主人公が歌う方)は結構耳に残る。芸術とまでいうかは別にして華があってモダンだ。
[ブルーレイ(邦画)] 7点(2023-01-01 22:58:41)
133.  シン・ウルトラマン 《ネタバレ》 
ゴメスで始まりゼットンで終わる。映像面が旧作と段違いなのは当然として、そもそも荒唐無稽な怪獣モノに各種突っ込みを入れておいて「理に適ってる」とか言いながら言い訳していたのが微妙に可笑しい。巨大生物が繁殖もせず単体で生息しているかに見えるのは、もともと生物兵器だからということらしい。 また宇宙人(外星人)が組織的な動きでなく、単独行動で侵略しに来たようで小スケールに見えるのは、宇宙では個体で活動するのが普通だからということのようで、それで××星人という名前でないのかと思った。ちなみに個体で活動する宇宙人から見た地球人は、例えていえば人間から見たアリの群れのようなものかと思った(旧作のメフィラス星人がアリと言っていた)。  この映画では人類の特性として「群れ」を作ることを挙げていたが、別にそれが悪いのではなく弱いからこその事情であって、その群れの内部で支え合い、時には他人のために自分を犠牲にすることもある、ということだと思われる。また人間はウルトラマンに頼っていればいいのかという問いは旧作でも出ていたが、さらにこの映画では無力感が依存/服従につながることへの懸念を示し、求められるのが自律/自立であることを明瞭にしていた。 最終的に人類の未来は人類自ら担うことになったようで大変結構だが、それにしても劇中政治家が心許ないのはまことに困ったことで、ザラブというのが日本に来たのも世界で最もちょろい国だからでないのかと思った。どうもこの映画では最初から「国」という群れの単位を当てにしておらず、代わりに地球という「星」の人々に期待をかけていたようで、これは元の子ども番組に由来する考え方かも知れない。「シン・ゴジラ」が「この国はまだまだやれる」なら、今回は地球が”やればできる子”くらいの扱いではあった。 結末はよくわからなかったが最低限、ウルトラマンが仲間や相棒を大事に思ったというのは共感ポイントかも知れない。あまり楽観的に語ってしまうと現実味が薄れるが、あえていえば地球の人間と他星の人間が、史上初めて同じ群れの仲間になった物語ということか。あるいは遠い未来において、「光の星」にとっての地球という星が、挑戦者でも脅威でもなく対等な「バディ」になる日を夢見る映画だったとも取れる。 そのようなことで、古きよき怪獣特撮のリメイクということだけでなく、旧作のメッセージを踏まえて現下の内外情勢も反映し、現代なりの希望を語る映画に見えなくはない。またけっこう可笑しい場面が多いので娯楽性も高い。特に期待していなかったが悪くなかった。  以下その他雑記: ・劇中日本の対米関係は笑えない。/「鼓腹撃壌」という言葉に特定のニュアンスを込めていた可能性がある(不明)。/zero-sumが領土切取りのイメージとすれば、それとは違うwin-winの関係を目指すべきという考え方でもあったのか(不明、断片的)。 ・職場に趣味関係の雑多なものを持ち込んでいる奴がいて、サンダーバード・スタートレック・マイティジャックとSRIのトータス号は見えたがウルトラシリーズは存在しない世界になっていた。 ・山中に怪獣が出現する風景はウルトラマンらしい。「虫が多くてやだ」という台詞があったが、都市部にもいるハエ程度を嫌がるようでは甘い。山間の農地が破壊されていたのは痛々しいが、上手の水田は既に耕作放棄地だったようでもある。 ・子どもを保護すると言い出して山道を走る後姿は、何でお前が行くのかという突っ込みを誘うが、これはこれでお約束というか開き直りのおとぼけと見える。 ・特にザラブ編では、もとの番組の場面や展開がまともに生かされている。 ・「河岸を変えよう」というのが古風で粋だ。ここだけは「ウルトラセブン」第8話を思わせる場面で、オチも含めて圧巻の印象だった。これほど複雑に表情を作る宇宙人など怪獣モノにかつてあったか。 ・ウルトラマンの超能力として、1キロ先(だったか?)の針が落ちたのを聞き取るとは言われていたが嗅覚も犬並み?犬以上?だったのか。意識の高い宇宙人に悪態のネタを提供してしまっていた。 ・公安調査官役の人が好きになって来た。生物学者役の人もいい感じを出している。
[インターネット(邦画)] 7点(2022-12-31 10:12:24)(良:3票)
134.  トップガン マーヴェリック 《ネタバレ》 
導入部分が旧作をなぞる形になっていて、個別の場面や背景音楽にも見覚え・聴き覚えがある。日章旗と青天白日滿地紅旗も復活していて大変結構だった。 最初は極超音速機で始まるが、本番になるとF-35でもなくF/A-18で、敵の第5世代戦闘機にかなわないとされていたのは寂しい設定だったが、これはそもそも任務の性質ということもあり、また要は「パイロットの腕」が勝敗を決する話にしたかったからだと納得した。 劇中の敵国は、核兵器の開発を企む「ならず者国家」であって、今もF-14があるといえば実在の特定国家を思わせる。しかし現地に行ってみれば積雪や針葉樹林のようなのがあり、また第5世代戦闘機を自力開発するとかヘリコプターの姿が別の特定国家を思わせるので、結果的に2つの国を組み合わせた形になっていた。  前回は、ストーリーはともかくとして飛行機の迫力で見せている印象だったが、加えて今回は物語がちゃんと作られているのが感動的だった(それで普通だが)。特に初めから主人公が先頭切って突っ込んでいくのが当然というわけでもなく、最初は違っていたが行きがかり上そうなった、という展開だったのはまともである。結果的には上官にとっても経歴上の問題にはならず、最後にみんなが(敵以外は)笑顔で円満に終われる話ができていたのは幸いだった。 主人公は昔と大して変わらないようでも、かつてのライバルがなんと太平洋艦隊司令官だというのが年月の経過を表している。同時代を生きていたはずでも先に世を去る者がいて、自分はまだまだと思っていてもいつか退くべき時が来る、という男の最後の花道だったようで、終幕時には愛する妻?とその娘、さらに息子代わりの男もいて、ちゃんと次世代へのつながりができていたのは他人事ながら嬉しい。あとは好きな飛行機を飛ばす暮らしが待っていたということか(海もあるだろうが)。 それにしてもF-14も役者もさすがに年はとったが格好いい。トム・クルーズも今年はもう還暦で(壬寅、寅年だ)、旧作との関係で見れば本人の人生を重ね合わせた続編のようでもあるが、役者としてはまだまだ先があるのだろうと思う。後向きの懐古趣味に浸っていればいいのでなく、自分の現在地を確かめてから前を見ろ、という映画かと個人的には思った。
[インターネット(字幕)] 7点(2022-12-31 10:12:22)
135.  T-34 レジェンド・オブ・ウォー 《ネタバレ》 
昔の「鬼戦車T-34」(1965)を下敷きにした映画で、収容所から戦車で脱走してチェコ国境を目指すという基本的な流れは同じである。もとは砲弾なしの戦車が徒手空拳で暴れる形だったが、今回は主人公が捕虜になる前段階から始めることで戦車同士が戦う場面を入れ、また脱走時にも都合よく砲弾を持っていたことにして最後まで砲撃の機会を用意していた。 加えて旧作で、戦車を追いかけたが置いて行かれた女性に相当する人物を、この映画では最後まで同行させる形にして、旧作を見た観客の満たされなかった願いを気持ちよくかなえる話を作っている。終盤で出たクリンゲンタールKlingenthalというのは実在の地名だが、ここは街外れがすぐチェコとの国境になっている場所で(ストリートビューでチェコ側から見られる)、ここまで来たからにはもう脱出目前という意味だったらしい。 そのほか、のどかな道端で戦車とドイツ婦人が出会うとか、ちょっとした街に入ってビールをもらうといった展開にも見覚えがある。略奪はしないといいながら、結局いろいろ恵んでもらったりして和ませる雰囲気も出していた。当然ながら一般の人々を害するようなこともなく、前にも増して穏健で角を立てない作りに見える。なお最後に大戦中の戦車兵らへの献辞が出ていたのは旧作の形式を尊重したと思われる。  戦車映画としては当然旧作よりも派手に見える。別に戦車好きでもないので特に突っ込んで語りたくなることもないが、砲弾の行方にこだわった映像化は面白くなくもない。また弾が当たった衝撃がガーンというのは印象的だった(女性が気の毒)。 世間的には戦車がバレエ曲に合わせて踊るのが話題になっていたようだが、残念ながらあまり華麗でも可憐でもなく、やはり戦車には戦車にできることしかできないと思わされた。また星空の下のラフマニノフはいかにも通俗的に聞こえたが、世界的な作曲家はチャイコフスキーだけでなく人材豊富だということのアピールかも知れない。 なおヒロイン(プスコフ出身22歳おひつじ座168cm)はにっこり笑うと可愛い人だった。演者のイリーナ・スタルシェンバウムという人はドイツ風の名字なので、ドイツ語の通訳をしているのも自然に見える。最近ではDie stillen Trabanten (2022)というドイツ映画にも出演したそうで、西欧にも活躍の場を求めているらしい(国際情勢が厳しいが)。
[インターネット(字幕)] 7点(2022-12-31 10:12:18)
136.  ゾンビ・プレジデント 《ネタバレ》 
原題を「逃げ出し立法院」と読むとユーモラスな語感になる。劇中の「プレジデント」は男なので蔡英文総統のことではないが、イケメンでないので馬英九総統でもない。 まず化学工場というのは実際に起きた反対運動が背景にあったと思われる。工場建設を目論む強国の名前は「聖雅利安」だそうだが、「雅利安」とはアーリア(人)のことのようで、実在の国名でなく正体不明の世界勢力のせいにしておけば波風立たないだろうという思惑か。ウイルスを扱った映画であるから、公開時には誰もが新型コロナウイルス感染症を想起しただろうし、またWHO参加の件に関連して、台湾が防疫面で世界に貢献できるはずとの意識も高まっていただろうが、そういうことまで最初から考えて作ったのかはわからない。 ラストはうまいことを言ってみせたようでもあるが、個人の家から "世界が家" という考えに直接つながってしまい、その間にある "国家" を飛ばしてしまって大丈夫なのかとは思った。防疫の主役が国家でなく個人だったにもかかわらず、その個人が国家の英雄として戦史陳列室に展示されていたのは国家というものの存在に否定的な態度にも見える。しかしそもそも立法院が荒れ気味だとか立法委員の志が疑われる様子など、国内の政治全般をおちょくってみせる映画という程度に理解しておくべきか。冒頭と終盤のコメントで、人々の投票行動に働きかける形になっていたのは民主主義の根本を外していないとはいえるが、立法委員をほとんど総取り換えしても結局同じだったというのは、まあ世の中そんなものだと笑い飛ばす寛容さ? 諦念? 適当さ?も感じられる。 なお日本との関係では、露天風呂の芸者?+サルとか核爆発とか盆栽とかが出るのは好意的なようにも見えなかったが、これで特に悪意もないということか。選挙の宣伝文句に「鼻血の王者」と書いてあったのは一瞬何語かと思った。  そのほか本筋に関していえば、ジャンルに「ホラー」が入っているのはゾンビが出るからというだけの形式上の分類であり、実態としてはひたすら目まぐるしく騒がしいドタバタコメディである。プロレスやゲームやカラオケといった大衆文化的な要素その他よくわからない各種ネタが盛り込まれていて、実際に笑うところもなくはない。こういうのが好きな人々もいるだろうが、少なくともホラー映画という先入観は持たない方がいい。個人的には特に褒める気にならないがそれほど嫌いでもない。
[インターネット(字幕)] 5点(2022-12-03 12:00:49)
137.  金門島にかける橋 《ネタバレ》 
1958年の「金門砲戦」を題材にして、当時国交のあった中華民国の映画会社と日活が共同製作した映画である。 ちょっと深刻味のある恋愛ドラマ程度かと思って見ていたが、「中華民國國軍」が協力しただけあって意外に戦闘場面の扱いが大きい。高雄から金門島に向かう艦船は結構な大艦隊のように見えたが、そこへ中共軍の砲撃や航空攻撃があって、やたらに水柱が立ったりして登場人物が危険にさらされていた。ちなみに5隻くらいいた背負い式の単装砲の戦闘艦は、アメリカに貸与されたベンソン級かグリーヴス級の駆逐艦かと思った。 本筋の恋愛物語については微妙だったというしかない。日本側ヒロイン役の芦川いづみという人は個人的に馴染みがなかったが、笑顔の口元に可愛らしさのある人だと思った。中華民国側ヒロインは怖い顔の場面が多かったが、脚がすらりとしてきれいなのはさすがと思った。  当時の国際情勢を背景にした映画のため、当然ながら現在とは世界観が違っている。中華民国側の人物が日本語を話すのは日本統治時代の影響かと思えばそうでもなく、ヒロインの養父は戦時中に日本と戦った大陸出身者だった。また島の人々が自分らを「中国人」と言う場面があったのは、中華民国=中国だったので当然としても、現在のような台湾アイデンティティとは無縁な世界と思わせる。それは金門島という場所柄(台湾省でなく福建省)からしても当然か。 戦って故郷を取り返したいと願う人物に対し、戦争以外の方法は考えられないのか、と主人公が言ったのは戦後日本的な平和主義だろうが、実際はその後年数を経て両岸の往来も容易になったので、結果的に主人公の願いが実現したとはいえる。しかし現実問題として平和を願えば平和になるわけでもなく、次にまた何かあった時は日本も他人事としては見ていられないという気にはなる。  その他の事項として、劇中出た「そうじゅうせつ」とは重要行事らしいが何なのかと思ったら、中華民国の建国記念日である「双十節」だとわかったのは少し勉強になった。 またこの映画とは別に少し前、日本の高校のマーチングバンドが台湾に招かれて大歓迎されたという記事をネットメディアで見た気がしていたが、これも実はこの記念日のゲストとして参加したのだそうで(2022/10/10)、日本と台湾の友情のかけ橋として期待されていたらしい。何か大昔の映画を見たような気がしていたが、現在にちゃんとつながったのが意外で少し感動した。
[インターネット(邦画)] 5点(2022-12-03 12:00:47)
138.  モルグ 死霊病棟 《ネタバレ》 
南米パラグアイの映画というのが最大の注目点である。撮影場所は国土の南東端にあるエンカルナシオン(Encarnación)という小都市だそうで、映像に出る建物は現地にある病院、公営墓地も実際にあるものらしい。  映画としては、病院の死体安置所など裏方で起きる怪奇談の形になっている。前半は大したことが起こるわけでもなく、変にものが動くとか音がするとか人影が見えるなどは病院という場所柄ありそうな話で、これなら気のせいにして無視しておけばいい程度のことだろうが、後半に入るとそれなりに多彩なドッキリの仕掛けがあってお化け屋敷の風情になる。しかしコップの動きとか、終盤で部屋に引っ張り込まれる間合いなどユーモラスなところもあって笑わされる。 映画宣伝には「恐怖の実話」と書いてあるが、全体の顛末からすれば実話らしいところは何もない。しかし脚本兼監督によると実際の医療機関に勤務している警備員・看護師・医師といった人々に取材したとのことで、そうすると前半で何気なく起きる地味目の出来事や、最後のコメントが実話相当の部分とも取れる。死体安置所では様々な連中が脈絡なく出現して一貫性がないように見えたが、要はこれまでここに来た多種多様な人々がいつまでも滞留しているという意味かも知れない。  主人公は最初から人格低劣で遵法精神に欠けたところを見せるので、多少ひどい目に遭っても笑って見ていられるものがある。序盤で出る彼女とのやり取りや優等生との再会エピソードは話全体との関係が曖昧だが、これは主人公の性格や境遇を説明するためのパートだったと思っておく。 終盤の格言のようなものはキリスト教の聖書に由来するものらしく、字幕では意味が若干不明瞭だが要は「自業自得」と解される(悪い播種→悪い収穫)。主人公は根から悪い奴でもなかったようだが、それはそれとして自分がやらかしたことの報いは避けられないということらしい。ラストの展開は意味不明だったが、要は酔っ払いの男と交代で今後は主人公が夜間警備をしなければならなくなったという意味か。 そういうことで細かく見るとよくわからない点も多々あるが、気楽に見ている分にはそれほど悪くない映画だと思った。医療現場では変な体験がありがちだというのは、日本だけでなく世界のどこでも同じということを改めて認識した(学びがあった)。ネコが侵入すると糞をするので嫌われているのも同じだ。
[インターネット(字幕)] 5点(2022-11-19 10:15:47)
139.  死体語り 《ネタバレ》 
ブラジル映画である。場所はサッカーチームの名前や警察(サンパウロ文民警察)からして同国第一の大都会サンパウロである。Vila Gustavoという地名は主に中流層の住宅地だそうで、犯罪集団のボスがこの名前を聞いて怪訝な顔をしたのは、対立勢力の居場所として不自然だからと思われる。  最初は面白い設定で始まったと思ったが、結局最後は普通一般の心霊ホラーに移行してしまった感がある。死体と話せることの背景設定として、いわゆる霊魂というものが死後に身体を離れるのでなく、キリスト教でいう「最後の審判」までは遺体にとどまったまま墓にいる、という考え方ならユニークだと思ったが、劇中妻が家にまで押しかけて来たからにはそうでもないということか。あるいは墓にいられず神の世界にも行けない連中が、終幕時に外を歩いていたという意味か。 また「マーク」したのが誰かの説明はなかったが、少なくとも家族殺しを許さないのが神だというからには、キリスト教の神様がこの映画での行動主体として存在していたはずである。一方で序盤から神と悪魔について語る声が聞こえたり、TVの悪魔祓いを映したりして悪魔の存在を匂わせた上で、神がいるなら悪魔もいる、とまで言わせたからには悪魔も存在しなければ変なはずだが、悪魔の関与を明瞭にする場面は最後までなかったように見えた。例えば劇中の出来事を神と悪魔が分担していて、神が家族殺しの罪で主人公を見放してしまい、そこに悪魔が付け込んで破滅させようとしたのなら、劇中妻だけが極悪人であるかのように思わなくていいかと思ったが、そのように確信できる証拠もない。本来はそれなりに子のことを思っていたはずの母親(自分の無惨な姿を見せるなと言っていた)も死後に変わってしまったのなら残念だ。 なお題名に関して、原題は意外にも「死体は語らない」という意味である(nãoはnot)。これも例えば死体が話すように見せておいて、実は悪魔や神が話していたというなら間違っていないわけだが、実際はそうとも言えない場面が多かった。ただ少なくとも、全部が主人公の妄想だったというのはこの映画としてありえない。  そのようなことで、どのように筋を通そうとしているのかわからない映画だったが雰囲気は悪くない。最後に子どもらと一緒に助かった人物は最初から清楚系に見えたが、実際に信仰心の篤い真面目な人だったらしい。それにしても神だの悪魔だのと無関係にやたらに人が死ぬお国柄のようだったので、渡航時には十分注意してください。
[インターネット(字幕)] 5点(2022-11-19 10:15:45)
140.  108時間 《ネタバレ》 
製作国はアルゼンチン・スペイン・ウルグアイとのことで、監督がウルグアイ人、主な出演者はアルゼンチン・スペインの混成になっている。場所設定としては映画解説によるとブエノスアイレスだそうで(撮影地は別)、閉鎖された精神病院が舞台ということで陰鬱な映像になっている。 なお時代設定が1975年と1984年である理由はわからない。その間の1976~1983年はアルゼンチンが軍事政権だった時代であり、いかにも意味ありげなので誰か解説してもらいたい。  長時間寝ないでいるとどうなるかという映画だとすれば、多少変な現象が起きてもどうせ幻覚だろうからサイコホラーかと思っていると、結局最後は心霊オカルトホラーに移行した感じだが、あるいは最初から両者がシームレスにつながっていたようでもある。序盤から出ていた「辺獄」という言葉は宗教用語らしいが、日本的にいえば死者が成仏できないでいる霊界くらいに思っておけばいいのではないか。 特徴的なのは演劇をテーマにしていることだが、要はいわば降霊術で死人を役者に憑依させて本人役をやらせていたらしい。演出家としては断眠によって役者が霊界とつながることを意図したのだろうが、その段階まで近づけない者(親友)がいる一方、霊界の影響で自ら破滅してしまう者(共演の男女)もいて危険なのはわかっていたようである。ただその霊界につながる力は実は狂気と同質のものであり、現世において狂気を知る者だった主人公は霊界の住人に乗っ取られることもなく、自分を保ったまま演技として成功させたということか(?)。これこそが本来の演出家の意図だったのかも知れない。 最終的には、主人公は現世にいながら狂気・霊界の両方とつながる者として、両方の存在に頼られる立場になったらしい(?)。向こうに行ってしまった演出家ともいつまたつながるかわからない、というのが最後のオチかも知れないが、それがいいことか悪いことかはわからない。  全体として、いろいろ考えて作ったようだが何かと面倒臭い話で、悪くもいえないが特に好意的にもなれない映画だった。なお他のレビューサイトでも書かれていたが、確かに主人公はショートヘアの方が可愛く見える。 ちなみに関係ないが、いつまでも寝ないでいると「ねないこだれだ」と言っておばけが出る(怖い)。
[インターネット(字幕)] 5点(2022-11-05 10:11:50)
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