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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1521.  ハート・オブ・ストーン
終始一貫して、スパイ映画シリーズの“米英の両巨塔”のいくつもの過去作、あらゆるシーンのオマージュ、焼き直し、丸パクリのオンパレードではあった。特に、もはや「神」と化したAIを巡る攻防は、「ミッション・インポッシブル」の現在公開中の最新作そのままだったとも言えよう。 ただ、全編通して“二番煎じ”ではあったが、繰り広げられるアクションシーンの質は総じて高かったと思う。 そして、何と言っても、我らが“ワンダーウーマン”が、相変わらず強く、美しいので、良しとしたい。  Netflixのオリジナルアクション映画において全般的に言えることだが、良い意味でも悪い意味でも感じる“ライトさ”は、インターネット配信で楽しむには、個人的にちょうどいい。 これが、紛れもなく重厚で面白い娯楽大作の傑作であったとしたら、映画ファンとして劇場公開されないことを口惜しく思うことだろう。  僕自身が子供の頃は、週末のロードショー番組で放映されるアクション映画やSF映画を、特に何も考えずに気楽に観ていたものだが、Netflixオリジナルの娯楽映画はちょうどそんな感じがする。 週末の余暇時間に、特に期待せずに観始めて、「意外と面白かったな」とエンドロールを迎える。それくらいの映画がちょうどいい時もある。
[インターネット(字幕)] 6点(2023-08-20 00:33:26)
1522.  地球防衛軍
東宝特撮映画が大好きで、その第一人者である本多猪四郎監督の作品はほぼ観てきた。 特技監督の円谷英二と組んだ数々の特撮映画作品は、時代を超えてクリエイティブの真髄を僕たちに見せてくれ、世界中のクリエイターたちに今なお影響を与えて続けている。 本多猪四郎の最後の特撮映画作品は、1975年の「メカゴジラの逆襲」なので、1981年生まれの僕には劇場のスクリーンで観る機会は無かった。  そんな折、古今東西の名画を映画館でリバイバル上映する企画「午前十時の映画祭」で、「地球防衛軍」が上映されるという情報を得て、これは観に行かなければと数ヶ月前から心に決めていた。 「地球防衛軍」は、本多猪四郎監督作の中で数少ない未鑑賞作品だったので、これを逃す手は無かった。  普段は選択しないが、シアター内の前方席を予約し、やや見上げ気味の体勢で東宝特撮を堪能することにした。角度的にやや見辛かったことは否めないが、稀代の特撮映画を見上げながら味わうことも、この機会ならではだと思えたし、多少の観心地の悪さは、本作が公開された当時の映画館の環境を擬似的に味わえているようにも感じた。(途中聞こえてきた男性の寝息に対する不快感もまた一興) 冒頭、幾度も見てきた「東宝」のオープニングロゴに続き、「本多猪四郎」、「円谷英二」とクレジットが大写しになった時点で、感慨深さを覚えた。 モゲラによって倒壊する山村、伊福部昭の劇伴にと共に出動する自衛隊の兵機、それらの描写は、これまでも東宝特撮映画をつぶさに観てきた者にとって決して目新しいものではなく、幾度も鑑賞してきた光景ではあったけれど、劇場のスクリーンに映し出されているということが、やはり感動的だった。  映画のストーリーテリング自体は、極めてチープで大雑把なものだが、この味わいこそが特撮映画の妙味でもあるので、終始微笑ましく鑑賞することができた。 本作は、自分が想定したよりも東宝特撮映画としても、本多猪四郎監督作としても初期の作品だったようで、平田昭彦、佐原健二、志村喬ら、常連俳優たちの若々しい姿も新鮮だった。  東宝特撮映画に限らず、往年の名作、大作を、今の時代に改めて劇場鑑賞できる機会は、極めて重要に思える。地方でもこういう機会が増えることを望む。  翌日、起床した途端に首から背中がやたら痛く身動きが不自由になっていた。寝違えたのかと思ったが、このレビューを書きながら、「ああ、前方席で無理な角度で映画を観たからだ」と気づいて、激しく後悔した。
[映画館(邦画)] 6点(2023-08-19 14:25:20)
1523.  ブラックアダム
DCコミックスきってのダークヒーローに我らがドウェイン・ジョンソンが扮する。 そりゃあハマるに決まっているし、俳優単体の存在感のみを捉えたならば、数多のアメコミヒーロー映画の中でも指折りの「説得力」を示したと言っても過言ではないだろう。 DC精神全開のケレン味に振り切った描写は、スペクタクル性に溢れ、その絶妙なバカさ加減(好物)も含めて、さながらインド映画の超大作を観ているようだった。  ただ、その主演俳優のドハマリぶりの一方で、新鮮味は皆無だったことも否めない。 MCU、DCと、これだけアメコミ映画が飽和状態の中にあって、あまりにもオーソドックスで豪腕ド直球なストーリー展開が、本作のテイストに相応しいことは理解しつつも、やはり退屈だったことは否定できないところ。  マイナス要因だったのは、主演俳優のド直球なハマりぶりに呼応というか、依存するかのように、周辺のキャラ設定や描写までもが、あまりに工夫なくチープだったというところだと思う。 ダークヒーローの一種のバディとなる少年や、その母親で学者のキャラクター性が類型的で魅力に欠けていたり、主人公と共闘するヒーローチームの面々のオリジナリティが弱かったことが、本作の魅力を底上げすることができなかった大きな要因だろう。  「アイアンマン3」でトニー・スタークを救った少年だったり、トム・ホランド版「スパイダーマン」でマリサ・トメイが演じたメイおばさんのような愛すべきキャラクターを登場させることができていたならば、本作自体がもっと愛すべき作品になっていただろう。  MCUのような世界観の完成度は皆無で、その代わりにケレン味あふれる描写で瞬間的な沸点を追求するDCのアプローチは決して嫌いではない。 次作でこのダークヒーローと対峙するのは、スーパーマンか、それともシャザムか。いずれにしてもこの路線をさらに追求する形でエンターテイメントのクオリティーを爆上げしていってもらいたい。
[インターネット(字幕)] 6点(2023-05-09 15:10:02)
1524.  クライシス(2021)
“オーバードーズ(Overdose)”というキーワードで伝えられる薬物中毒に関する事故や事件に対して、遠い国の生活環境や価値観が異なる人たちの中で起こることだと、認識が浅い自分のような者にとっては、本作が描き出そうと試みた「危機感」を正しく理解するために、時間と知識が必要だったと思う。  アメリカの現代社会の中で蔓延する合成鎮痛剤にまつわる犯罪や陰謀、実害を3人の異なる環境の主要登場人物の視点から紡ぎ出すストーリーテリングは、かつてスティーヴン・ソダーバーグ監督が描いた「トラフィック」と酷似していた。 「トラフィック」は、取り扱われる題材がコカインの密輸ルートであり、ある意味分かりやすい麻薬犯罪とそれに伴う暴力や悲劇が描きされるので、危機感の実態も認識しやすく、映画としても娯楽性を高めやすかったと思う。  だが、本作で題材とされる合成鎮痛剤オピオイドは、あくまでも合法の薬剤であり、その問題の実態を理解していない無知な者には、ストーリーに張り込みづらかったことは否めない。 事実に対する無知は、鑑賞者側の責任が大きいと痛感する一方で、同時に本作のストーリーテリング自体も、決して上手くは無かったと思う。  本作の一番大きな弱点は、3つのストーリーラインが、最終的に上手く絡み合ってこないことだろう。 前述の「トラフィック」には、国境や生活環境を超えた全く異なる数々の人生がまさに“交錯”することに、ストーリ展開の面白さがあった。 しかし、本作の3つのストーリーラインは、ラストの顛末において、部分的に重なり合う部分もあるが、そこに物語としての必然性やロジックがなく、強引な印象を受けた。 ゲイリー・オールドマン演じる大学教授のストーリーラインについては、結局絡むこともなく、他の2つのラインとは題材自体が微妙に異なっているようにも感じてしまった。  主要キャラを演じたゲイリー・オールドマン、アーミー・ハマー、エヴァンジェリン・リリーは、それぞれ熱演していただけに、ストーリー的な充足感に欠ける帰着は残念だった。(エヴァンジェリン・リリーって何の映画に出てた人だっけと思いつつ鑑賞を終えて、“ワスプ”か!と後で気づいた) みんな大好きミシェル・ロドリゲスの出演や、ジョニー・デップの娘リリー=ローズ・デップが麻薬中毒者役を印象的に演じていることなど、出演陣のトピックは豊富だったので、もっと脇役を含めたキャラクターたちの顛末をしっかり描いて群像劇としての見応えを深めてほしかったとも思う。   映画作品としての仕上がりには難点があるが、本作が描くテーマ自体は、自分自身をはじめ無知な者にとっては事程左様に重要なものだったとは思う。 違法薬物ではない麻薬問題だからこそ、この映画が伝える危機感は、より身近なものとして着実に私たちの生活に忍び寄っている。いや、もはや蔓延していると認識すべき事象なのかもしれない。
[インターネット(字幕)] 6点(2023-01-15 00:12:26)
1525.  罪の声 《ネタバレ》 
昭和の大事件や未解決事件を題材、モチーフにした社会派サスペンス映画は好きだ。 戦後の高度成長期を経て貧富の格差が大きくなるに連れ浮き彫りになる社会の病理と、それに伴って巻き起こった数々の大事件は、現代社会向けて警鐘を鳴らし続けていて、その歪がふとしたはずみで裂けて顕になっているように感じる。そこには、多様な時代的転換と、人間ドラマを孕んでいる。  本作も、物語の題材になっているのは、1984年から1985年にかけて発生した「グリコ・森永事件」であり、実在する企業名こそ架空のものに差し替えられているが、その他諸々の要素は比較的多く用いられている。 私自身は、事件当時3歳で、当然ながら事件についての記憶はほぼ無いが、青酸ソーダが混入されたというグリコ社のお菓子もよく食べていた年頃だろうから、自身の記憶以上に身近な事件だったのかもしれない。  また本作のキーポイントとなる“声の主”の登場人物らとはほぼ同世代であり、彼らが辿った人生模様や、時代感は想像しやすく、感情移入しやすかったことも間違いない。 特に、妻子を持つ身として、星野源演じる曽根俊也に突きつけられた衝撃の事実と陥った苦悩と葛藤は如実に伝わってきた。  「グリコ・森永事件」という事実に着想を得て、フィクションを肉付け、展開していったストーリーテリングも巧みで引き込まれた。 過ぎ去った時間と真相に翻弄されつつも、現代を生きる当人たちが、かつて「闘争」という名目において掲げられた「正義」の浅はかさと、それが取り返しのつかない不幸を生み出したという事実を突き付ける帰着はとても良かったと思う。 非常に重厚な物語構造であり、ぜひ原作小説も読んでみたいと思った。  ただ、ストーリーの重厚さを認める一方で、映画的はどこかあっさりとした印象も否めない。 一つ一つの演技や演出が稚拙だったとは決して思わないし、それぞれが適切なパフォーマンスを見せていたとは思うのだが、この物語に相応しくない“軽さ”を感じてしまった。  その理由として考えられる要素が二つ。 一つは、土井裕泰監督がどちらかと言うとテレビ畑寄りの作り手なので、良い意味でも悪い意味でもテレビドラマ的なライトさが垣間見えてしまっているのかもしれない。  もう一つは、主演俳優の存在感の軽さ。 主演の小栗旬は、決して悪くなく、役柄に合った役作りで真っ当な演技をしていたと思う。しかしながら、演じた阿久津英士というキャラクターに深みを感じることができなかった。 バックボーンを映し出す描写がないことなど、そもそもキャラクター描写が薄かったこともあるが、いずれにしても主人公としての厚みが足りなかったように感じる。  ラストシーンで、テーラーの曽根俊也が、阿久津の着ていた背広のサイズが合っていないことをずっと気にしていたと言う。確かに、劇中小栗旬の容姿がいつもと比べて何か格好悪いなという違和感は付きまとっていた。 でも、もっと存在感が“重い”俳優であれば、サイズの合わない背広を着ていてそれが不格好に見えたとしても、その不格好さも含めて“役に似合わせる”ことができるのではないかと思う。 そういう実在感が、本作の小栗旬には表現しきれていなかったように思った。  星野源の配役がマッチしていただけに、小栗旬の役に対する適性が余計に際立ってしまっているのかもしれない。 最後に、配役という点で言うと、過去の復讐心を思い出す曽根俊也の母親役に梶芽衣子をキャスティングしているのはナイスだと思った。「修羅雪姫」の主題歌が聴こえてきそうだった。
[インターネット(邦画)] 6点(2022-12-24 17:53:18)(良:1票)
1526.  トロール 《ネタバレ》 
北欧の寓話に登場する“トロール”が、現代のノルウェーに出現してパニックを引き起こすというプロットを半笑いで見ながら、一体どんな映画だと懐疑的に鑑賞を始めた。 が、割と早々に本作の立ち位置は判明する。 ああ、なるほど、これは北欧ノルウェー産の“怪獣映画”なんだなと。  想定外に真っ当な怪獣映画であったことは、嬉しい驚きだった。 「ゴジラ」シリーズをはじめとする日本が誇る特撮映画を愛好してきた者のとしても、本作には充分に楽しみがいのある“特撮精神”の心得があり、日本の特撮に対するリスペクトも存分に感じられた。 無論、本作そのもののクリエイティブに特撮技術が用いられているわけではないけれど、きっとこの映画の制作陣は、日本の「ゴジラ」や、ハリウッドの「キングコング」を愛し、憧れているのであろうことはしっかりと伝わってくる。  そういうリスペクト精神を前提として、北欧の寓話や神話ではお馴染みの“トロール”を、未知なる巨大生物として描き出し、ノルウェー産怪獣映画に仕上げてみせたことはユニークだったし、独自性のあるエンターテイメントを生み出していたと思える。  また、個人的には、おそらく初鑑賞だと思われる“ノルウェー映画”に対する新鮮味も感じられることができた。 どこまでリアルなのか分からないが、ノルウェーの国防総司令部的な施設が洞窟を利用した秘密基地みたいな場所だったり、広大な自然環境や、公用語であるノルウェー語の響きの新鮮さだったりと、随所に垣間見える“お国柄”が、なかなか馴染みの薄い国の映画らしくで印象的だった。   ストーリーが収束する最終盤に至るまで、独特の雑多感も含めて楽しい映画だったことは間違いないし、最後の最後まで自分の中での高評価は確信されていた。 が、しかし、最終的な物語の帰着と、登場人物たちの言動の描かれ方が、ラストあまりにも残念だった。  人間のかつての蛮行や、現代の人間社会の自然破壊に起因して、目覚め、怒りの進行を展開するトロールが、太陽の光を浴びて絶命するクライマックスの展開自体は極めて良かった。 それは、「ゴジラ」や「キングコング」など、怪獣映画史の数々の傑作を踏襲するものであり、王道的とも言える描写だったと思う。 だが、それを目の当たりにした人間たちの描写があまりにもお粗末だった。 大怪獣の悲しい最期を見て、人間たちが自分たち自身の過ちを認め、悔い改めてこそ、映画的な余韻が深まるというものだが、本作のノルウェー人たちはそういう感情がほぼ皆無で軽薄に見えて仕方がない。 せめて主人公だけは、浮かれる人々の中で、悲しみに沈むなり、虚無感を感じるなりの描写で終わってほしかった。  そういう人間たちの情感も“お国柄”と言ってしまえばそうなのかもしれないが、もう少しで愛すべき怪獣映画として記憶に残りそうだっただけに、ラストの数カットのせいでそうならなかったことが、ただただ残念だ。
[インターネット(字幕)] 6点(2022-12-24 17:45:53)(良:1票)
1527.  THE BATMAN-ザ・バットマン-
「バットマン」の映画化において最も重要で、取り扱いが難しい要素は、“リアリティライン”の引き方だと思う。 架空の超犯罪都市の大富豪が、夜な夜な真っ黒なコウモリのコスチュームに身を包み、街の悪党たちを殲滅する。元来アメコミであることを鑑みても、圧倒的にマンガ的であり、どう言い繕っても“馬鹿っぽい”設定である。 それでも、ほとんど絶え間なく映画化されてきたのは、この“馬鹿っぽい”世界観が、多様な創造性を孕んでいるからだろうと思える。 マンガ的な物語世界を実写映像化するにあたって、リアリティラインをどのように引くか。 あくまでも寓話的なダークアクションに振り切るのか、現実社会の鬱積や病理性を盛り込んだ哲学的なストーリー展開を深堀りするのか、はたまた筋肉隆々の“冷凍男”が主人公を押しのけて登場するようなエンタメに突っ切るのか、その「線引き」によって映画作品の印象は大いに変わるし、その分幅広い層に熱狂し得る。  そういった観点からは、新たなリブート作品として製作された本作も、明確な意図によって他のシリーズとは異なるリアリティラインが引かれているとは思う。 ただ、個人的には本作のその線引きは、ややアンバランスだったと感じた。  現実路線で、どこか映画「セブン」を彷彿とさせる猟奇サスペンス要素との融合は面白い試みだった。過去シリーズにおいては異世界の象徴として存在感を出すヴィランたちの風貌やキャラクター性も、極めて現実的な造形に振り切って、リアリティラインをより現実に近い位置に寄せていると思う。 主人公バットマンに“探偵”の役割を与え、他のアメコミヒーロー映画とは一線を画した作風に仕上がっていることは間違いない。  が、しかし、その現実路線のテイストがバランス良く成立しているとはどうしても思えなかった。 その最たる理由は明らかで、舞台である犯罪都市“ゴッサム・シティ”のあり方自体がファンタジーすぎるからだと思う。 あれだけ常軌を逸したレベルで治安が悪く、景観や公共サービスが崩壊しているとしか思えない劣悪な環境下において、今更政治家や警官の汚職がどうとか、薬物が濫用されていたり、マフィアが裏で糸を引いているとか言われても、「そりゃそうだろうよ」と正直鼻白んでしまう。 故に、そんな中で、バットマンや、真っ当な警察や政治家たちが、「正義」や「人生」をかけて苦闘するしている事自体が“非現実的”に感じてしまい、どうにも乗り切れなかった。  主演のロバート・パティンソンのバットマンぶりは悪くはなかったと思うが、徐々に解明されていく事実に対して総じて思慮が浅く、バットマンである以前に人間的に未熟な主人公の姿はやはり魅力的ではなく、必然的に映画的な魅力の欠如に繋がっている。 用意されていたストーリーテリングについても、稚拙で、ただ鈍重であったことを否めない。 リブート作品として、特別なバッググラウンド描写や、新機軸の展開があるわけでもなく、この内容でほぼ3時間の上映時間はさすがに冗長すぎた。  一方で、ビジュアル的なクオリティは過去最高レベルで素晴らしかったと思う。 “重さ”までを表現するバットマンのコスチュームや、臨場感の高い迫力あるカーチェイスシーンなど、印象強いカットやシーンは全編通して散りばめられている。 もっと作り込まれたストーリーさえ備えていれば、もっと素晴らしい「バットマン」に仕上がるであろうことは明白なので、次作に期待したい。
[インターネット(字幕)] 6点(2022-12-12 00:51:40)(良:1票)
1528.  すずめの戸締まり
「脅威」に対する人間の無力と儚さ。だけれども、一時でも長く生き続け、存在し続けていたいという切望。 廃すてられた場所に眠る思いを汲み取り、悔恨が漏れ開きっぱなしになっていた“戸”を締めるという行為が織りなすファンタジーは、想像以上に「現実的」で「普遍的」だったと思う。 現実社会における災害やそれに伴う悲劇を果敢に題材として取り込み、秀麗なアニメーション表現の中で描いた試みと、ストーリーテリングの方向性自体は、間違っていなかったと思う。 ただし、その結果が、映画としての面白さや、オリジナリティとして結実していたかというと、必ずしもそうではなかったと思う。  我が子二人と連れ立って劇場鑑賞して、決して残念な映画ではなかったし、無論観たことを後悔する類いの作品ではない。 この国のアニメーション監督として紛うことなきトップランナーである新海誠の作品である以上、見逃すべきではない。 ただそれ故に、その新作に対しては、高いハードルが用意されることは避けられない。  社会現象ともなった「君の名は。」、そして個人的にはそれ以上の傑作だと確信した「天気の子」。 本作は、その過去2作とも時代背景を共有しており、「災害」という共通のテーマを扱っている点を踏まえても、三部作の一つとして捉えられる作品だろう。そしてより直接的なファンタジー描写や、アドベンチャー展開など、三作の中でも最もエンターテイメント性の高い作品だったと思う。 ただ、何かが圧倒的に物足りなかった。それが映画的なエネルギー不足に直結しているように思えた。  それは何だったか? 上手く言葉を選べていないかもしれないが、個人的な感覚から浮かんだことは、“エゴイズムの欠如”だった。  僕が新海誠の過去2作品から得たエモーショナルは、主人公たちが発し貫き通す圧倒的な“エゴ”によるところが大きい。 流星が町に降り注ぐその間際であろうとも、ようやく訪れた焦がれた相手との逢瀬に没頭し、過ぎ去った時間すらも覆す。 この世界の理も仕組みも無視して、無責任だろうが、独善的だろうが、世紀の我儘を押し通す青臭さ。 不可逆を覆そうとも、世界が水没しようとも、それでも「大丈夫だ」と言い切る若い生命の猛々しさと瑞々しさ、それをまかり通すアニメーション映画のマジックに僕は感動したのだと思う。  そういった映画的なエゴイズムが、本作からは薄れてしまっているように感じた。 それはもちろん、現実世界の災害や悲劇を取り扱ったことによる真摯な態度とも言えよう。 でも、それによって映画的な面白さが表現しきれないのであれば、本末転倒であろうし、その題材を取り扱う意味が果たしてあったのかとも思う。  自然災害をはじめとする脅威に対して人間は為す術もない。特にこの十年あまりの時代の中で、この国の人々は改めて痛感している。 そういう現実がある以上、安易なハッピーエンドなどは描くべきではないだろう。 しかし、それが現実だからこそ、せめて映画世界の中では強烈なエゴイズムを貫き通す人間たちの姿を見たいという思いも、今この世界の多くの人が秘める思いではないか。  本作の主人公たちが何も成し遂げていないなどというわけではもちろん無い。 けれど、悲劇的な現実を超越するほどのマジックは、この映画から感じることはできなかった。
[映画館(邦画)] 6点(2022-11-15 22:21:24)
1529.  グレイマン 《ネタバレ》 
「“超人的”はやめろ バカっぽい」  “キャプテン・アメリカ”役を卒業して、ある意味「自由」になったクリス・エヴァンスをサイコパスな悪役に配し、この台詞を放たせたことが、本作のハイライトかもしれない。   「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」から「アベンジャーズ/エンドゲーム」までの各作品の指揮をとり、MCUの“インフィニティ・サーガ”を見事に締めくくってみせたルッソ兄弟による本作におけるアクション描写の手腕は流石だった。 アクション映画としての“見せ方”と“魅せ方”は、作品全編において「工夫」が張り巡らされていて、楽しく、引き込まれる。  前述のクリス・エヴァンス含め、キャスティングも良かった。 主演のライアン・ゴズリングは鍛え上げられた見事な“肉体美”と、この俳優持ち前の“憂い”で、アクション映画の主人公として申し分ない魅力を放っていた。 「007/ノー・タイム・トゥ・ダイ」の記憶もまだ新しいアナ・デ・アルマスは、「007」での少ない出演シーンで世界中の映画ファンを虜にした魅力を存分に見せてくれた。 また個人的には1996年の「スリング・ブレイド」以来のビリー・ボブ・ソーントンという俳優のファンなので、久しぶりの出演作鑑賞が嬉しかった。  と、アクションもキャストも最高だったのだけれど、いかんせんストーリー展開がありふれておりチープ過ぎた。 スパイ・アクションの部類である以上、もう少しストーリーテリングにおけるケレン味や小気味よさがほしかったところ。 キャストのパフォーマンスはそれぞれ安定していたはずだけれど、演じるキャラクターの言動があまりにも予定調和的過ぎるので、結果的に「凡庸」に見えてしまったことは否めない。  続編を狙っているためか、諸々の設定が未回収な箇所も多く、本作単体の結末にカタルシスが得られなかったことも大きなマイナス要素だった。
[インターネット(字幕)] 6点(2022-08-15 22:25:11)
1530.  ONE PIECE FILM RED 《ネタバレ》 
「ONE PIECE」の映画作品の鑑賞は、「STRONG WORLD」、「FILM Z」に続いて3作目。 原作漫画ファンなので、アニメシリーズは殆ど見ておらず、映画作品も公開時に評判の良かった前述の2作品を観たきりだった。 ただ、今年になって小2の息子がアニメに夢中になっており、シーズン1から延々と観続けている。 そんなこともあり、夏休みどこにも行けず暇を持て余していた子どもたちを連れて、4DXで観てきた。   本作のテーマは、「歌」を通じた「自由」という渇望とその危うさ。  「自由」とは何か? 抑圧や支配、苦しみや悲しみを安直に拒否し、それらが皆無の限られた世界に閉じ籠もることは、果たして自由か。 自由の渇望とは実はとても曖昧な概念であり、それを悪意はなくとも浅く捉えてしまったとき、自由の追求そのものが独善的な狂気になり得るということ。 これは決して大仰なテーマではなく、僕たちの普通の生活や人生の中でも、往々にして起こることだと思う。  歌手のAdoを歌唱パフォーマンスにキャスティングし、ほぼアテ書きのと思われる「UTA」というオリジナルキャラクターを造形することで、歌い手のパフォーマンスに振り切り、そういうテーマの浮き彫りに絞ったストーリーテリングは好感が持てた。 そのテーマとストーリーは、Adoを世に出したヒット曲「うっせぇわ」のセルフアンサーのようにも感じ、作品としての立体感につながっていたと思う。  オリジナルストーリーの映画であるがゆえに、キャラクター設定やストーリー展開の強引さはある。 避けられない不運が重なったとはいえ、シャンクスが娘同然の少女を十数年も放置していたことには違和感があるし、それによってウタが辿った運命は悲痛すぎる。(そのあたりについては、せめて連載漫画の扉絵シリーズなどでフォローしてほしい)  とはいえ、25年に渡って「ONE PIECE」を読み続けているファンとしては、ほぼ初披露と思われるシャンクスをはじめとする赤髪海賊団の面々のバトルシーンと、従来の敵味方が入り混じった“ドリームチーム”に、想像以上に興奮した。(まさかブルーノが萌キャラとして登場するとはな)
[映画館(邦画)] 6点(2022-08-12 22:29:04)
1531.  フリー・ガイ
ゲーム(仮想現実)の世界を“救世主”が救う。 そのプロットは、この20年程の間で数々の映画で何度も描き出されてきた。 「マトリックス」を皮切りに、「シュガー・ラッシュ」、「LEGO® ムービー」、そして「レディ・プレイヤー1」に至るまで、主人公たちは広大で果てしないゲームの世界を縦横無尽に巡り、その世界の真理を見出していく。 そしてその救世主となる主人公たちに共通していること。それは、彼らがゲームの中の小さなプログラムの一つ、詰まるところの“モブキャラ”に過ぎない存在だったということだ。  泡沫のプログラムが、世界を構築する巨大なプログラムを“書き換え”影響を及ぼしていく。 それは、一つ一つの小さな生命が蠢き、社会を構築するこの現実(リアル)世界にも直結する要素であり、そこに人々は熱くなるのだろう。 僕自身も含め、世界中の殆どすべての人間たちが、社会という巨大なプログラムの歯車の一つである以上、プログラムの反抗というプロットに熱狂せずにはいられないのだと思う。  そしてここに、“熱狂”不可避の新たな“救世主”が誕生した。 ゲームの中のモブキャラがヒーローになるというストーリーテリングは、「マトリックス」から20数年が経過した現在においては、もはやベタベタであるが、だからこそ娯楽映画としての安定感は保証されているとも言える。  更には、主人公を演じるのがライアン・レイノルズとくれば、このニューヒーローが幾つもの「見えない壁」を越えてくれることは折り紙付きであり、そういう娯楽映画の文脈を踏まえたメタ要素も含めて楽しい映画だった。  ただ、ディズニー資本の影響からか、良い意味でも悪い意味でも毒っ気がないことも否めない。ライアン・レイノルズ主演のコメディ映画なのだから、もっと風刺的な要素も欲しかったところだ。 ベタなストーリーの王道は良しとしても、「想定の範囲」から少しも脱線することが無いので、一定以上の高揚感には欠けたと思う。  そういえば、正規プログラムのヒーロー役にチャニング・テイタムがキャスティングされていが、冒頭シーン以降登場しなかったのは残念。終盤もう少し上手い使い方があったのではないかな。
[インターネット(字幕)] 6点(2022-01-30 01:57:38)
1532.  男はつらいよ フーテンの寅
あいも変わらず車寅次郎という男は、馬鹿で、愚かで、滑稽だ。 まったく自分自身とは関わりの無い映画の中の世界の他人であるにも関わらず、馬鹿さ加減には、時に苛立ち、若干の憎しみすら感じる。 でも、ぎりぎり、本当に紙一重の部分で、憎みきれず、愛おしい。 そのキャラクター性は、映画というマジックが生み出した一つの奇跡だとすら感じる。  シリーズ第三作目にして、監督が山田洋次から変更になっていることが影響しているのか、作品としてどこか勢いの無さみたいなものは感じる。 無論、分かりやすい派手やさや勢いがある類の娯楽作品ではないのだが、第一作、第二作には、ささやかで何気ない描写の中で、言葉では表しきれない演出や演者の大胆さや迷いの無さが、極上の娯楽を生み出していたように思える。  三重県が舞台ということもあり、全編に渡って随所に挟み込まれる工業地帯の背景や、行き交うトラック、公害による患いを想起させるキャラクター描写など、少々作品のテイストにそぐわない社会性が不協和音になっていたようにも感じた。 それはそれで、作品当時の社会性や風俗を映し出しているとも捉えられ、興味深いポイントではあったのだけれど、“寅さん”という娯楽に求められるものとはやや乖離していたように思う。  倍賞千恵子の登場シーンが極めて少ないことなど、この後何十年にも渡ってシリーズ化されることなど想像もしていないのだろう製作現場の空気感も伝わってくる。  とはいえ、車寅次郎というキャラクター造形と、彼が織りなす人生の機微は益々深まっていく。 プロローグとエピローグで共通して、寅次郎が存在しない自分の家族を朗々と語るさまは、なんとも切ない。  毎年正月(1月)に、「男はつらいよ」」を観ることを決めて早3年。 3年で3作目では、流石に50作もあるシリーズを負いきれないので、少しペースを上げて車寅次郎が越えていく時代を追いかけようと思う。
[インターネット(邦画)] 6点(2022-01-21 23:43:09)
1533.  ワイルド・スピード/ジェットブレイク
「ワイルド・スピード/ジェットブレイク」という邦題だとつい忘れがちになってしまうが、「Fast & Furious 9」という原題を見ると“第9作目”という事実に少々唖然としてしまう。 「007」のようにキャストが刷新されたり、「スター・ウォーズ」のように章立てられた物語が時代を跨いで続いているシリーズは思いつくが、単一の時系列の中でほぼ同じ主要キャストによってシリーズ作が作り続けられているハリウッド大作が他にあるだろうか。 無論、人気のない作品がこれほどシリーズ作を積み重ねられるわけもなく、紆余曲折を経ているとはいえ、世界中から愛されている映画であることは、先ず称賛されるべきだと思える。  かくいう自分自身も、この娯楽大作シリーズを愛するファンの一人であり、最新作を楽しみにし続けている。 ファンとして敢えて断言するが、9作目にして完全なる「バカ映画」が爆誕している!と思う。 いや、とうの昔からバカ映画シリーズなんだけれども、本作はいよいよそのバカさ加減のメーターが振り切っている。  ストーリー展開や、物語のおける過去作との整合性云々は、もはや突っ込みだしたら泥沼にハマってしまうのでやめておこう。 そんなことよりも、味方のキャラクターが生身でどんなに吹き飛ばされても車のボンネットや天井で受け止めたら無傷で済むという謎ルールや、世界各国の路駐されている車はすべて無人で破壊し放題という治外法権ぶりや、宇宙航行を可能にする車体の超科学的頑丈さ等々を、「磁力最強!カッケー!」言いながら馬鹿になって楽しむべきだ。  そして、世界中の映画ファンが悲しみと共に納得し、諦めているのに、それでも彼の名前を呼び、彼の“席”を空け、彼を生き続けさせるこの映画のあまりにも熱い「家族愛」を見せつけられては、どんなにバカ映画の連作となろうとも、僕はこの映画シリーズを愛さずにはいられない。
[インターネット(字幕)] 6点(2021-12-30 00:35:31)(良:1票)
1534.  ジェントルメン(2019)
「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」から23年、「スナッチ」から21年も経つのかと、少々感慨深さを感じると共に、「変わらんな、ガイ・リッチーは」とまず思った。 見慣れたスローモーションやスピードランプによるアクション描写はもはや懐古的ですらあったが、この映画監督が生み出す軽妙(悪ノリ)な犯罪映画のテイストは、既に英国映画の文化と言ってもいいだろう。 英国の“悪童”の健在ぶりにひとまず安心した。  マシュー・マコノヒーを主演に迎え、アクの強い個性的な悪党どもが騙し合い、罵り合い、殺し合うストーリーテリングは、やはり「ロック、ストック〜」や「スナッチ」を彷彿とさせた。 大麻王の引退に伴う利権争いを軸にしたストーリーそのものは、シンプルで、特に新鮮味があるわけではなかったと思うが、ヒュー・グラント演じる悪徳私立探偵による虚実織り交ぜられた“狂言回し”よって進行する展開は、その真偽性を含めて面白みがあったと思う。(ヒュー・グラントはこのところ汚れ役がすっかり板についてきて良い) その他のキャラクターでは、コリン・ファレル演じる格闘技ジムの“コーチ”が、人徳者であると同時に実は地味にしっかりとイカれていて良かった。彼が率いるアマチュア格闘技集団の馬鹿っぷりと、彼らによる“騒動”が作品の中の良いアクセントになっていた。  というわけで、“ガイ・リッチーの映画”として、期待した楽しさは備わっていたし、大きなマイナスポイントがあるわけではない。 けれど、かつてこの監督が生み出した前述の傑作たちと比較すると、やはり一抹の物足りなさは残る。 群像劇として登場するキャラクターそのものは良かったけれど、配役的にはもう少し華が欲しかったかもしれない。 マシュー・マコノヒー、チャーリー・ハナム、コリン・ファレル、ヒュー・グラントと、十分の豪華ではあるが、あと一枚か二枚、登場シーンは短くても良いので、大スターが“カード”として揃っていたならばと思う。 例えば、同監督作「シャーロック・ホームズ」主演のロバート・ダウニー・Jrなんかがキャスティングされていたならば、エンターテイメントの質は大きく上がっただろう。  個人的に一つ明確に不満だったのは、主人公の妻役のミシェル・ドッカリー。冷酷な大麻王である主人公が一転して溺愛する愛妻役としては、今ひとつパンチが無かったと思う。ストーリーのキーとなり、大立ち回りもある役どころだっただけに、もっと女優として華やかなキャスティングが欲しかったところだろう。当初はケイト・ベッキンセイルで進んでいたらしいので残念。  と、少々不満があるにはあるが、ガイ・リッチー監督には引き続き彼らしい犯罪娯楽映画を作り続けてほしい。 とりあえず久しぶりに「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」でも観ようかな。
[インターネット(字幕)] 6点(2021-10-31 00:17:53)
1535.  クレヨンしんちゃん 謎メキ!花の天カス学園
子どもたちの夏休み真っ只中、例によってコロナ禍の影響で“春休み公開”から順延になった“クレしん”映画最新作を我が子らと共に鑑賞。 今作のテーマはずばり「青春」と「エリート」、シリーズ初の“学園ミステリー”なストーリーテリングの中で、“クレしん”らしいおバカなコメディと、時にハッとしたり、グッとくる展開が用意されていた。  元来エリート志向の強い風間くんに誘われて、かすかべ防衛隊の面々が、最新鋭の超エリート学園に体験入学する。 過剰にオートメーション化された評価システムに支配された学園を舞台にしたハチャメチャな展開は、クレしん映画らしく楽しい。 体験入学する冒頭シーンなどは、大晦日のバラエティ番組の定番「笑ってはいけないシリーズ」まんまであり、映画らしい大冒険展開は無い。ストーリー的にはとても小規模であり、多少話運びは雑多で稚拙だったけれど、ミニマムなコメディに振り切っていたとは思う。  ただそんな小規模なストーリー展開の中でも、“エリート”の育成に固執するあまりに闇と悲劇を生み出しかねない現代社会の縮図のような学園模様が描き出されていた。 そのあたりは、2018年の「爆盛!カンフーボーイズ〜拉麺大乱〜」でも、かすかべ防衛隊の活躍を主体にして「正義」を掲げることの功罪を深く浮き彫りにした、高橋渉監督+うえのきみこ脚本のコンビネーションが、今作でも発揮されていたと思う。  “エリート”という言葉に縛り付けられることで、子どもたちも、大人たちも見失ってしまったものは何なのか、その功罪を表しつつも、それでも風間くんがエリートを目指し続けること自体は否定せず、尊重する帰着が、実にクレしん映画らしく好感が持てた。  そして、その中であわせて描かれる「青春」というもののキラメキ。 形の無いものに憧れ、悩み、苦しみ、だからこそ光り輝く若者たちの姿は、ベタベタではあったけれど、ストレートに感動した。 まだまだ無限の可能性を持つ自分の子どもたちを横目にしながら、願わくばきらめく青春の日々を送ってほしいと強く思った。
[映画館(邦画)] 6点(2021-08-10 23:23:40)
1536.  ブラック・ウィドウ
兎にも角にも、まずは、「おかえり、ナターシャ」と心の中で唱えずにはいられない。 コロナ禍の影響も重なり、実に2年ぶりのMCU映画の劇場鑑賞。 スクリーンに映し出される「MARVEL」のお決まりのオープニングクレジットを目の当たりにした瞬間、高揚感が一気に高まり、思っていた以上に自分がMCUの新作映画を“欲していたこと”を痛感した。 正直なところ、その高揚感を感じつつ、MCU“フェーズ4”の幕開けを迎えられただけで、一定の満足感は得られたことは否定できない。  このブラック・ウィドウ単独主役作品を、ドラマシリーズとしてではなく単体映画作品として製作し、コロナ禍により数々の映画作品が劇場公開を諦めネット配信に切り替わっていく中においても、何とか劇場公開(+プレミア配信)にこぎつけたのは、何と言ってもブラック・ウィドウ(a.k.a ナターシャ・ロマノフ)というキャラクターのMCUシリーズを通じた貢献度の高さと、演じたスカーレット・ヨハンソンに対するリスペクト故だろう。  MCUシリーズ作の中で都度垣間見えたブラック・ウィドウの過去を踏まえると、彼女を主役にした単独映画が、シリアスな女性スパイ映画になるであろうことは想像に難くなかった。 壮絶かつ残酷な生い立ちや、スパイとしての成長描写を踏みつつ、スタイリッシュなスパイ・アクションを期待していた。 結果的に、その想像と期待は、半分当たり、半分外れたと言える。  まず意外だったのは、思ったよりもコメディ演出が多かったことだ。 主人公のナターシャも、フローレンス・ピュー演じる“妹”のエレーナも、そのあまりにも非人道的な生い立ちに反比例するかのように、自らの半生をシニカルに半笑いで語る。 そして、こちらも壮絶な人生観と業を孕んでいるはずの、“父”と“母”のキャラクター性も、どこか間が抜けていて、思わず吹き出してしまうシーンが多々あった。  その映画的テイストは、近年各国の映画作品で表現されている女性スパイ映画の悲愴や苛烈さというよりも、ずばりスパイ映画の王道である「007」シリーズの系譜だった。 MCUの中で描き出される女性スパイ映画として、そのバランス感は結果的に適していたと思う。 スパイ映画としての娯楽の本流を貫きつつも、現代的な問題意識を根底に敷き詰めたストーリーテリングに対しては、「流石MCU」の一言に尽きる。  ただし、だ。 今作を、MCUの大河の中で、アベンジャーズの面々の中でも常に中心に存在し続けたナターシャ・ロナマノフ(=ブラック・ウィドウ)の映画であることを捉えると、どうしても腑に落ちない要素も大きい。 最も納得できないのは、「インフィニティ・ウォー」の後、「エンドゲーム」冒頭の彼女の孤独感についてだ。  サノスに敗れ去り、完全に崩壊したアベンジャーズが、彼女にとっての“唯一の家族”だとナターシャは孤独感に苛まれつつも、光の見えない可能性を模索していた。 でも、今作の結末を踏まえると、彼女には“もう一つの家族”が確実に存在していたことになり、「エンドゲーム」の冒頭で描かれていた孤独感が揺らいでしまう。 サノスの“指パッチン”により、実は存在していた「家族」たちも同時に失ったという風にも捉えられるかもしれないが、どうしても後付感が拭えない。  要は、今作の結末が、ちょっと“ハッピーエンド”過ぎるのではないかと思うのだ。 今作は、主人公が過去に失った「疑似家族」と再び巡り合うと同時に、そこの孕む罪と罰と向き合い、贖罪を誓う物語であるはずだ。 であるならば、その業を背負った“家族”全員が結果的に無事に存在し続けるというのは、少々都合が良すぎるのではないかと思えてしまう。 特に、“父”と“母”は、どう取り繕ったとしても“悪”の根幹を担っていたことは否定できない事実であり、何かしらの「禊」が描き出されて然るべきだったのではないか。  今作の結末で、その然るべき“悲しみ”を背負っていたのならば、ナターシャの「インフィニティ・ウォー」に臨む悲壮感も、「エンドゲーム」おける孤独感も、もっと説得力のあるものとして高まったと思う。 とはいえ、冒頭にも記したとおり、ブラック・ウィドウの最後の勇姿をしっかりとスクリーンで堪能できたことは満足だ。 どうやらこれで完全にスカーレット・ヨハンソンはMCU卒業ということのようなので、トニー・スターク同様に、ナターシャ・ロマノフにもこの言葉を捧げたい。  Thank you Natasha,3000
[映画館(字幕)] 6点(2021-07-15 23:49:13)(良:1票)
1537.  スポンジ・ボブ/スクエアパンツ
「僕はグーフィーグーバーさ♪君もグーフィーグーバーさ♪」と、息子(小1)が謎の歌を歌っていた。 何の歌かと聞いてみると、“スポンジ・ボブ”の映画だと言う。 息子はこの映画を既に5回以上観ているらしく、一部の台詞を空で言えるようになっていた。 日曜日の午前中、また観ると言うので、一緒に観てみることにした。  「スポンジ・ボブ」は、テレビ放映を何度か観たことがある程度で、アメリカのアニメらしい不条理でナンセンスなコメディだなという印象だった。 数話しか観ていないけれど、社会風刺や下ネタも散りばめられたブラックユーモアの強烈さは明らかで、NHKも中々攻めるなあと思っていた。  キャラクターのビジュアルや、キャラクター性も当然ながら強烈で、クセが強いので、「コレ、日本の子どもにウケるのか?」と懐疑的な印象も持っていたが、何のことはない我が息子がハマっているのだから、子どもの向けアニメとしてのコンセプトも間違っていないのだろう。  どうしても“大人”は、「子どもはかわいくてふわふわしたものが好き」というレッテルを貼りがちだけれど、実際そうとも限らない。 もちろん、“ふわふわしたもの”も大好きだけれど、もっと別の“ギラギラ”したものも、“トゲトゲ”したものも、区別せずにどんどん触れていくし、広く興味を持って大好きになり得るのだ。 そういう嗜好性の柔軟さと広さが、子どもの可能性そのものなんだなと思える。  で、今作はというと、主人公のスポンジ・ボブが、窮地に陥った仲間のために冒険に旅立ち帰ってくるという王道的なお話。 ベタなストーリーテリングではあるけれど、やはりそこにはこのアニメらしい毒々しさと禍々しさが随所に溢れている。 息子が「好きだ」という、前述の“グーフィーグーバー(パブ的なレストラン)”でアイスクリームを食い漁るシーンなど、スポンジ・ボブが完全に酔いつぶれたジャンキーと化していて、「これ子どもに見せていいのか?」と自問しつつも笑ってしまう。  アメリカでは日本以上に大人気のアニメらしく、キャスト陣も想定外に豪華だ。 今回は当然ながら吹替版での鑑賞だったが、オリジナル版では声の出演にスカーレット・ヨハンソンやアレック・ボールドウィンという名だたるハリウッドスターも名を連ねていた。 そして、実写との融合シーンにおいては、往年のスター俳優デヴィット・ハッセルホフが本人役で登場し、スポンジ・ボブらアニメキャラの強烈さを凌駕するほどの破天荒な役柄を演じてくれている。  繰り返しになるが、全編通してブラックユーモアに溢れ毒々しいので、必然的に大人でも充分に楽しい。 そして、息子は歌唱シーンやダンスシーンになると意気揚々と歌って踊っていた。 日本で「子どもから大人まで楽しめる作品」という触れ込みだと、大体そのテイストは「感動」という方向性に絞り込まれてしまう。 しかし、アメリカの娯楽作品の場合は、只々「楽しい」というエンタメの本質を追求している。 そういう懐の“深さ”、そして“吸収力”の強さが、この作品にも内包されていると思った。 深海に住むスポンジが主人公のアニメだけにね。
[インターネット(吹替)] 6点(2021-06-28 00:11:07)
1538.  地下室のメロディー 《ネタバレ》 
ロートルと青二才の悪党がコンビを組んで、或る犯罪計画に挑む。 今作の後に製作された多くのケイパー映画(強盗映画)で、同様のプロットが幾度も用いられてきたことからも、公開当時この映画がとてもセンセーショナルだったのだろうなということは充分に感じられる。 基本プロットのみならず、エレベーターの天井裏に潜むサスペンスだったり、エアダクトからの侵入のスリリングさだったり、後世の様々なサスペンス映画やアクション映画で登用され続けているアイデアの数々が印象的だった。  また久しぶりに古いフランス映画を観たけれど、この国の映画表現の手法や感覚は、日本映画のそれととても近しいものを感じた。 冒頭の老犯罪者とその妻のぬったりとしたやり取りや、良くも悪くもある鈍重なストーリーテリングなど、特に古い日本映画とは空気感的な類似性を強く感じる。 フランスで、日本のアニメや、北野映画が愛される理由が、改めてよく分かる。  60年代の犯罪映画として、とても味わい深い作品だとは思う。 ただ、娯楽映画単体として面白かったかというときっぱりとそうは言い切れない。 やはり、内容のわりにストーリー展開が鈍重に感じてしまったことは否めないし、クライマックスからラストシーンに至る一連の話運びにおいても、唐突で希薄な印象を受けてしまった。  犯罪行為の愚かさと無常さは、印象的なラストシーンによって如実に感じることはできたけれど、全体的にもう少し歯切れよく展開してくれた方が、今作の物語性には合っていたように思える。   主演したジャン・ギャバンとアラン・ドロンは、両者とも流石の存在感を放っていたと思う。 アラン・ドロンは、中々特異な人生経験の上で俳優になり一気に世界的スターになったようで興味深い。 彼の主演映画は「太陽がいっぱい」くらいしか鑑賞していないので、引き続き他の作品も観てみようと思う。
[インターネット(字幕)] 6点(2021-06-27 12:30:50)
1539.  映画ドラえもん 新・のび太の大魔境 ペコと5人の探検隊
新ドラ世代(声優陣が一新された新シリーズ)の劇場版第9作品目は、“旧世代”にも懐かしい「大魔境」。 オリジナル映画である1982年公開「ドラえもん のび太の大魔境」は、無論子どもの頃の何度も観た作品の一つだ。 のび太たち主要キャラに限らず、出来杉君の「ヘビースモーカーズフォレスト!」という言い回しに至るまで、記憶の中に染み込んでいる。  ストーリーそのものは、例によってアドベンチャーに憧れるのび太たちが、アフリカの秘境を探検するというドラえもん映画としてはシンプルなものだが、そこに盛り込まれたF先生のアイデアがやっぱり素晴らしい。 行き着く先が、大昔の地殻変動によって独立した進化を辿った犬の世界という設定や、絶体絶命の窮地を救うのが“10人の外国人”だというタイムパラドックス的趣向が、実にドラえもんらしいSF性とファンタジー性に溢れている。  そしてそんなストーリー展開の中で、ほぼ主人公的な立ち回りをするのがジャイアンであるという点も、オリジナル作品から変わらず、ガキ大将故の不器用さや葛藤を抱え込みながら、作中随一の感涙ポイントである「男気」をしっかりと見せてくれた。(ちなみにジャイアンはこの映画の中で5回位確実に死にかけている)  全体的にほぼ忠実なトレースをしたリメイク作なので、特に不満もないが、同時に特筆すべき新しい発見や表現も無かったことは否めない。 「のび太の恐竜」や「魔界大冒険」などその他のリメイク作が、傑作であるオリジナル作品に対して果敢に改変に挑み、新たな傑作として生まれ変わっていたことを踏まえると、そういった要素が無かったことはやや残念だった。
[インターネット(邦画)] 6点(2021-03-14 23:40:52)
1540.  劇場版ポケットモンスター ココ
息子があと1ヶ月ほどで小学生になる。 休日は自宅でアニメを観るのが好きで、一丁前にAmazon Prime VideoやNetflixを駆使して、TVアニメやアニメ映画を延々と観ている(ただの出不精のような気もするが……)。 世の中のトレンドの例に漏れず「鬼滅の刃」の熱狂が一段落した後、このところは「ポケットモンスター」に、姉(9歳)と共にご執心だ。  そんな息子を隣に、僕自身初めて“ポケモン映画”を劇場鑑賞した。  “ポケモン”自体、もはや歴史の長いエンターテイメントなので、僕自身ギリギリ触れていてもおかしくはない世代ではあるが、ゲーム、アニメとも殆ど接した機会がなく、完全なる無頼漢だった。 現在放送中のアニメシリーズ最新版を子どもたちが熱心に観るようになって、ようやく“ピカチュウ”以外のモンスターたちの固有名詞を幾つか覚えた程度である。  そんなわけで、僕自身は“ポケモン”自体にさほど興味があるわけではないのだが、今作は、プロモーションを見る限り、シリーズの大筋のストーリーラインとは少し独立した物語のようであり、紛れもなく親子の物語を描いていることは明らかだったので、せっかくだし子どもたちと一緒に観てみたいと思った。  そして映画は、想像通り、てらいなくあまりにもド直球な“親子”の物語を描いていた。 そこにストーリー的な工夫や、目新しい踏み込みはほぼ無く、話の筋としては王道であり、ベタベタであったと言えよう。  映画ファンとして、「面白かった!」と言える作品ではないかも知れない。だがしかし、だ。 愛情とそれ故の対立。尊敬と敬愛。そして、旅立ち(巣立ち)。 父と息子、その普遍的なストーリーを、己の息子と共に目の当たりにして、涙せずにはいられなかった。  またアニメーションとしてのクオリティは想像していたよりもずっと高品質で、木漏れ日や、水しぶきや、空気の揺れに至るまで、ジャングルを舞台にした映画世界を見事に表現していたと思う。   この映画に登場する「父親」と同じく、僕自身、まだまだ本当に父親になりきれているのかは甚だ疑問だし、不安に思うことも多い。 おそらく、この思いは僕が父親であり続ける限りずうっと存在するものなのかもしれないし、子に限らず、親も様々な状況からの巣立ちを重ねて成長していくものなのかもしれない。
[映画館(邦画)] 6点(2021-03-04 12:55:16)
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