鱗歌さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

スポンサーリンク
プロフィール
口コミ数 4031
性別 男性

表示切替メニュー
レビュー関連 レビュー表示
レビュー表示(投票数)
その他レビュー表示
その他投稿関連 名セリフ・名シーン・小ネタ表示
キャスト・スタッフ名言表示
あらすじ・プロフィール表示
統計関連 製作国別レビュー統計
年代別レビュー統計
好みチェック 好みが近いレビュワー一覧
好みが近いレビュワーより抜粋したお勧め作品一覧
要望関連 作品新規登録 / 変更 要望表示
人物新規登録 / 変更 要望表示
(登録済)作品新規登録表示
(登録済)人物新規登録表示
予約データ 表示
スポンサーリンク
>> カレンダー表示
>> 通常表示
141.  プロゴルファー織部金次郎2 パーでいいんだ
主人公のオリキンこと織部金次郎、前作でプロゴルファーとしての生き様を取り戻すも、年齢からくる肉体の衰えに加え、腰痛を発症して思うように体が動かせず、また引退を考えるようになる。そこに、川谷拓三演じる初老のゴルファーが、長年の夢である初勝利を目指し、オリキンに弟子入りするサイドストーリーが絡みます。 って、いや、これは大変な事態ではないでしょうか。なにしろ、日清「どん兵衛」が、マルちゃん「赤いきつねと緑のたぬき」に弟子入りして軍門に下る訳ですから。いや、カップうどんについては東洋水産の方が歴史が長いので、これでいいんだっけ。 とかいうCMの話はどうでもよくって。 今作のオリキンは、劇中で何度か声を荒げるシーンもあり、感情の起伏が表に現れるようになってきました。1作目はやっぱり、異様だったと思います。狙いとしては「スポーツ人情喜劇」とでもいったところなんだろうけれど、ようやくコメディらしくなってきたな、と。喜怒哀楽があってこそ、喜劇も活きるというもの。 浅草が舞台ということで、1作目でも浅草近辺の光景を取り入れて下町風情のようなものを出していましたが、2作目でもそれは健在。さらに種子島にも舞台を移して、「ゴルフ」と「海」なんて一見関係無さそうだけど、しっかり融合させてみせる。 タイトルでは「パーでいいんだ」とか言ってますけど、パーでは勝てない訳で、人生ときには冒険が必要、攻めの姿勢が必要。好きならば、それができるし、やらなきゃいけないし、やってダメだったらそれもまた良し。ってなところですかね。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2024-07-07 09:09:05)
142.  プロゴルファー織部金次郎 ネタバレ 
あの素晴らしかった刑事物語シリーズがなぜ、たった5作で終了し、なぜこんなよくわからないゴルファー映画のシリーズを始めてしまったのか。 と世の中の誰もが思っていたのなら、そもそも刑事物語が打ち切りになることも無い訳で、ま、そうは思われてなかった、ってことですね。 新シリーズ開始ということで(最初からシリーズ化が決定していたのかどうかは知らんけど)、この織部金次郎なる人物像を紐解きつつ、彼と周囲の人々との関係を描いていけば、これといって大きな事件など無くとも充分に映画になるんじゃないかと思うのですが(そもそも、人と人との出会い、というものが映画における「事件」なのだろうけれど)、意外に物語が「伸びない」という印象。 これは、この主人公が、縮こまった人物、として描かれていることとも関係しているのかも知れませぬ。あるいは武田鉄矢自身が縮こまってしまっているのか?  そういう、縮こまってしまったヒトの、再生の物語。プロゴルファーって言っても、それはあくまでプロ資格を持ってるというだけで、トーナメント出場だけでメシを食っていけるのはそのごく一部だけ、とはよく聞きますが、なるほど、大会に出るだけでは金は稼げないし、稼げない中では大会に出るだけでも負担が大きく大変、ってことですね。そんな生活してりゃ、家庭もギクシャクしてしまい。 その彼の、再生の過程、というのがもう一つピンと来ません。アマチュアにバカにされつつも勝っちゃったりするのは、実はスゴイ実力の持ち主、スーパーショットの持ち主、ということなんでしょうけれど、そうなるとなぜこれまで一勝もできなかったのかが、よくわからなくなってくる。あるいは、そんなヒトでも勝てないくらい厳しい世界と言うのなら、その中でどうやって彼の再生を、描くのか。 彼の娘、ってのも登場しますが、一瞬だけ。エピソードとしては弱いし。周囲に後押しされての再チャレンジ、ではますます弱い。 結局のところこれは、「この中で一番、笑顔がステキな大人って、だ~れ?」ってヤツなんですかね。チコちゃんじゃないけど(いや、チコちゃんだな)。ヒロインたる財前直見の笑顔よりも何よりも、あの大滝秀治の笑顔が、主人公を導く。この笑顔こそが、主人公のパワーの源泉。主人公の再生ってヤツ、きっかけは何でもよくって、要は、再生を成し遂げるためには大滝秀治の笑顔が必要である、ということ。 これは、説得力ある! なにせこの無類の笑顔。もはや妖怪(笑)。 プラス、武田鉄矢のあの(阿部寛が並ぶことによりさらに強調される)短躯から発せられる、あの少しはにかんだような、少し寂しそうな、笑顔。 このシリーズやってた頃だったか、武田鉄矢が何かのテレビ番組で、プロゴルファーの打つ球は気迫が違う、みたいな事を言ってた記憶がありますが、この作品でも、その「球の気迫」を伝えんとばかり、カメラが飛球の行方を追いかけます。武田鉄矢自身も、プロゴルファーの名を映画で汚さぬよう、見事なフォーム(かどうか、すみません私にはよくわからんのですが、多分)を披露し、カップインを決めてみせる。 その辺りは、さすが、妥協ナシ。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2024-07-07 05:54:29)
143.  快盗ルビイ ネタバレ 
ほぼ常軌を逸したようなあの80年代アイドルブームの中、小泉今日子は「アイドルはやめられない」などと歌いながらも、当然ながらいつまでもアイドルを続けられるものでもなし。で、こうやって映画に主演したりして出口戦略を取ったりもする訳ですが、とは言ってもこの作品では、求めらているのはまだまだ、アイドル的な可愛らしさ。いや正直、アイドルブームの頃も小泉今日子の何がいいのかサッパリわからんかったけど(ごめん)、しっかしコケティッシュな魅力を振りまいて、マスコット的な存在感を映画の中で示しています。急には、変われない、変わらせてもらえない。けれどどこか、変わり始めている。 一方、「爽やかなアクションスター」なんてのも、いつまでも続けられるものかと言えば、真田サンなら続けられちゃったりするのでは、とか思っちゃうけれど、役の幅は限られてしまう訳で、真田サンもここではアクションを封印し、ダサくてコミカルな役に挑戦。ソファの上でクルリと回転してみせたり、ツボにぶつかって落としそうになるのをあわやキャッチしたり、と、封印しきれない身のこなしをところどころで見せつつも、基本的にはダサさ全開。プロレスラーが被っているマスクを剥がされた瞬間、待ってましたと言わんばかりに瞬時に顔を隠すように、真田サンも度の強いメガネを外した顔を決して我々に見せようとせず、悪夢にうなされて飛び起きるや否や、真っ先にメガネをかけてます。勿論、メガネを外した顔は、最後のお楽しみ、ということですね。 監督・脚本が、イラストレーターの和田誠。星新一のショートショート集の挿絵というと、まず思い出すのは真鍋博さん、ですが、和田誠さんのイラストも忘れ難いですね。という、別ジャンルから進出の監督さんで、いわば、本職じゃないけど「どマニア」な人の作品。マニアならではの大胆さがあり、マニアならではの思い入れみたいなものが、ひしひし伝わってきて。『麻雀放浪記』からも大きく路線を変え、雰囲気を変えて、こういうシャレた映画もしっかり守備範囲に収めてます。 ただ、多少安っぽくなってしまってるのは、残念ですね。当時の(娯楽)邦画界の限界か。邦画が勢いを取り戻した今なら、こういう映画ももっとおカネと人手をかけて作れそうな。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2024-07-06 10:48:49)
144.  ブレージングサドル ネタバレ 
メル・ブルックス作品な訳でして、だからパロディ映画な訳でして、西部劇のパロディ。 どういう訳か、メル・ブルックスの作品からは、こういう作品を楽しめないヤツはダメだ、こういう作品で笑えないヤツはセンスが無い、という無言の圧力を感じてしまうのですが、、、、、そんな事ないですか? いずれにせよ、笑えませんでしたと正直に告白するしか、無いんです。いや、『ヤング・フランケンシュタイン』は確かに楽しめたはずなのだけど、、、妙に不安になってきたり。 いや、笑えることだけが映画の魅力ではないはず、まずは西部劇としての世界がちゃんと作られていて、人種差別を笑い飛ばす心意気があって、悪くはないはず、なんですが、どうももう一つ、ついていけませぬ。 「ここで笑わないと、笑うところないよ」と開き直ったのは、孤高の芸人テントか、はたまた東北訛りの関西弁漫才、酒井くにお・とおるか。この作品ではメル・ブルックスご本人が澄ました顔で登場するも、どこでどのくらい笑ったらいいのか迷っている私のような人間の悩みなど知る由もなし、といった感じで、自信満々の表情。さらには別の役でも登場して二人一役、まさにノリノリ。そういえば、私はなぜ、メル・ブルックスの顔を知っているのだろう? と、またこれが私の不安を誘ったり。 終盤、ベニヤか何かででっち上げた街のセットで敵の目を欺くところから、映画の舞台はさらにカメラの外へ、「映画を見る者の目を欺く」映画スタジオの現場へと移り、もうこれ以上ないと言っていい程のハチャメチャな展開。ついていけない、というより、そうかこれは「どうだついてこれるか」という映画だったんですね。しかしこのギャグ、実は、「ウソを本当に見せる」という映画作りというものに対する、自己懐疑の無意識の表れ、なのかも知れませぬ。そう思えばなかなか深い・・・かどうかは知らんけど、まあ、貴重。
[インターネット(字幕)] 3点(2024-06-30 17:52:34)
145.  ザ・エージェント ネタバレ 
広告代理店に勤めているかつての知り合いに久しぶりに会うと、下世話な私などはつい「芸能人にもしょっちゅう会うんでしょ」などと訊いてしまうのですが、すると若干困ったような(困ったヤツだというような)表情で、「そりゃまあ、タレントさんって、自分達にとっての“商品”だからね」という返事が返ってきて、“商品”という言い回しに一瞬ギクリとはするけれど、しかし何だか妙に納得してたりも。実際は、ある人たちの「才能」が商品なのであって、しかし「才能」は人物と不可分なので、すなわち人物ごと「商品」として扱われることになる。スポーツ選手ならその人のスポーツの才能が提供されるだろうし、音楽家なら音楽の才能、芸能人なら、ある一定時間、ある空間を盛り上げる才能が提供されるかもしれない。その才能には値段がつき、そこには無形有形の一大産業が生まれる。才能の提供者にあまりにスポットが当たるが故に、目に見えていることが全てだという大きな勘違いを消費者にしばしば与えてしまうけれど、当然ながら、実際には表舞台以外の大勢の人々が産業を動かしているのだし、またこれもいたって当然のことだけれど、表舞台で提供されるパフォーマンスは、その提供者の持つ商品としての「才能」であって、そのパフォーマンスが提供者の実像そのものではない、ということ。私生活だって、あるんです。 で、まあ、この映画では、スポーツ業界において自身のスポーツの才能を商品として提供するスポーツ選手―――の代理人、といういわば裏方さんの姿が描かれます。で、これを演じるのがトム・クルーズ。手振り身振り全開のオーバーアクトで、まったく「裏方」感ナシ。ははは。あ、これがトム・クルーズの実像と思っちゃ、いけないんだっけ・・・。 で、その相手役がレネー・ゼルウィガー。トム・クルーズに負けじと、こちらも大袈裟な表情でもって、それを迎え撃つ。この演技の応酬。誰も止めなくていいのか。いや、いいんです。いろいろウソ臭く見えちゃいますが、これも映画の華。 レネー・ゼルウィガー演じるヒロインがシングルマザーで、息子はまだ幼い上に喘息の症状があったりもして、大変そう。だけどこの息子というのがいかにも人懐っこくって、いい味出していて。トム・クルーズの腕にぶら下がってクルクル回って、こんなことされちゃったら、いくらあのトム・クルーズでも、だんだんパパの顔にもなろうというもの。 会社をクビになったおっちょこちょいのトム・クルーズ、彼がいなくなっても会社は何も変わらずこれまで通りの業務が続けられ、ただ、こちらもおっちょこちょいのレネー・ゼルウィガーだけが一緒になって道を踏み外し、トム・クルーズと新たな活動を開始する。例の息子のお陰なのか何なのか、二人の間も接近して行き。 この映画、主役二人の演技が大袈裟な分、バランスを取ろうというのか演出の上では淡泊なところもあって、劇伴の音楽は(実際に劇中で音楽が流れるシーン以外は)控えめ。二人が接近した挙句、トム・クルーズがついにプロポーズするシーンなどですら、安直に音楽で盛り上げたりはしません。 裏方が中心の物語とは言え、表舞台に立つ選手たちにも、いろいろな立場、いろいろな私生活がある訳で、ゼロからの再出発となった主人公のように、自身も這い上がろうとするアメフト選手(キューバ・グッディング・ジュニア)の物語がそこに絡んできたりもする。裏でも表でも、それぞれが成功を夢見つつ、大事な私生活も抱えていて。 トム・クルーズとレネー・ゼルウィガーが互いに視線を交わし、なにせこの二人なのでそれがいかにもウソ臭いというかウサン臭いのですが、それでも何でもこの二人がラストで間に子供を挟んで、夕日に尾を引く影を後ろに、歩いていく姿には、家族という私生活が投影されて、やっぱりしみじみとしてしまうのでした。 ところでこの映画。主人公が最初勤めていた大企業ではオフィスの窓から都会の景色が見えていて、一方、クビになって独立すると、窓からの景色ものんびりしたものとなるのですが、とにかくこの窓からの景色が、トム・クルーズの演技などよりはるかにウソ臭く見えてしまうのですが、もしかして合成映像???とか思っちゃったり。
[インターネット(字幕)] 7点(2024-06-30 16:59:35)
146.  65 シックスティ・ファイブ
白亜紀末期、巨大隕石の落下を目前にした地球に不時着した宇宙船の乗務員の男と、乗客の少女とのサバイバル。 登場人物が極端に絞られている上に、二人の言語が異なるため殆ど会話が通じないという設定。何やら親切な装置が状況をわざわざ解説してくれたりはするものの、基本的にはセリフも抑え気味となって、そこは良かったかな、と。 徐々に主人公の過去が明らかとなって行き、クライマックスにおける感情の高まりに繋がっていくのも、悪くない。 だけど、大自然の中のサバイバルが、「時たま恐竜が襲ってきます」程度で、いいのかなあ、とも。 例えば、雨が降ったり風が吹いたり、とか、夕闇が迫ってきて「ああ、また不気味な夜が来るなあ」とか、そういう味付けがもうちょっとあってもよかったのでは。なんか淡々と、昼と夜とが繰り返されてるだけ、の印象。 と思ってたら一応、最後は夜明けが描かれて、ああ、これがやりたかったのね。 アダム・ドライバーは、スターウォーズ出演したのは失敗かと思ったけど、スターウォーズが微妙にハズレてくれたお陰で型に嵌ることもなく、しっかりと曲者俳優の道を歩んでいるようで。本作品でも確かな存在感を示していると思います。
[インターネット(字幕)] 6点(2024-06-30 12:08:22)
147.  セトウツミ
どうも世の中、ストーリー信仰みたいなのがあって、ストーリーがつまらないと作品もつまらない、一般性もない、みたいに捉える向きがあるんですけれど、実はそんな事は無くって。もしそうなら、なぜ、あのストーリーがほぼ無く、オジサンがメシを食うだけの「孤独のグルメ」なるテレビ番組が、シーズンを重ね、何度も再放送されるのか? ストーリーが面白けりゃそれに越したことはないけれど、それ「だけ」だったら、一回見てスジが頭に入ればそれで終わりな訳で、でも実際はそうではなく、だから実際は、作品の魅力は他のところにある。その魅力を支えるスパイスとして、「ストーリー」というものがあったり、「美味しそうな料理」があったり、例えばこの『セトウツミ』では主人公ふたりのアホらしい会話があったり、するんですね。 そういう直截的な魅力以外に、午後の川べりの気だるくも何だか可笑しい雰囲気やら、二人の関係に微妙に入り込んでくる周囲の人々(謎のオジサン、イヤな先輩、バルーンアートの人、家族、といった人たちから、背景の通行人まで。あ、中条あやみを忘れてた。笑)やら、といった要素が加わって。 「おや」と思わせる瞬間があったり、そういった瞬間が積み重ねられることによる前後の連関があったり、作品を通じての大きな流れ、あるいは世界観があったりして、広義の「物語」が作られていく、結局はその広義の「物語」こそが作品の魅力なんだと思います。でなかったら、私がどうしてこの一見会話ばかりの映画を楽しめたのか、どうして見終わった後に充実感を覚えたのか、よくわからなくなっちゃう。 ここで語られている「物語」は、高校生としての「今」。誰だって、自分の高校生時代を「青春」のただ一言で括れる訳じゃない。漠然とした不安もあっただろうけど、だからと言って「不安」の一言で括れる訳でもなし。ただそこには、今しかない「今」がある。 ところで、メイン3人のうち池松壮亮だけが、関西ネイティブではないだけにイントネーションに微妙なズレがあります。が、違和感というほどではなく、作中で小さからぬウェイトを占める会話劇を、よく支えています。・・・しかしこの映画、関西弁じゃなかったらどんな作品になっていたんだろうか? このアホらしいオフビートの会話を成立させるには関西弁がマストのように思えるだけに、逆に、関西が舞台でなければ作品がどう化けるのか、ちょっと気になりました。
[インターネット(邦画)] 7点(2024-06-23 07:38:06)
148.  ビヨンド・ザ・エッジ 歴史を変えたエベレスト初登頂
エベレスト初登頂の模様を描いたドキュメンタリー。と言っても頂上までカメラマンが同行していた訳ではないので、再現映像が交えられた作品になっています。再現と言ってもセリフ仕立てではなく、流れるのは関係者の証言ナレーション、なのであくまでドキュメンタリーの構成。 実際の映像と再現映像とが区別なく流れていくのですが、これが正解だったかどうか。わざわざ区別するような断り書きを都度入れるのも興ざめ、という声もあるかもしれないけれど、断り書きが無いなら無いで、これも気になるもの。再現映像は確かに迫真の出来、であるシーンも多々あるのですが、残念ながらあまり迫真ではなくってそれこそ目のやり場にちょっと困るようなシーンもあって。 ドキュメンタリーに紛れ込む作り物感、ってのは、どうも始末が悪いのです。 再現ドラマが悪い、って訳ではないんでしょうけれど、ラストももう一息、何か、事実の重みを感じさせるものが欲しかったなあ。
[インターネット(字幕)] 5点(2024-06-22 18:53:11)
149.  劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン ネタバレ 
出来事よりも風物を主体に描こうとする、静かさみたいなものがあって、それをアニメでやろうというのが、なかなか大胆。で、それは一定の成功を収めているとは思うのですが、しかし。 全般的には、違和感が。正直言うと心のどこかに「京アニのことはあまり悪く言いたくない」というバイアスがあるのですが、それでも違和感が拭えません。 いかにも美少女キャラな主人公、戦争で両手を失い義手になっている、逆に言えば、それを除くと表面的には、顔を含め他には何もダメージを受けていないように見える。いや勿論、それ自体が問題という訳ではないのだけれど、過去の悲惨さが義手という「符号」に置き換えられて、美少女キャラの単なる添え物みたいになってしまうと、どうもピンと来ません。義手ゆえの苦労なり不便さなり、といったものも見受けられず。また、心にも傷を負っているのであろう、とは想像しつつも、このヒト単に無口なだけなんじゃないの、とも。「過去」が重要なはずなのに、どうも「現在」の中に「過去」へと思いを至らせるものがあまり無く。 当然ながら、主人公が元上官に対し、どういう気持ちを持っているか、映画から「知る」ことはできても、その気持ちをなぜ持っているかを含め、映画から「感じる」ことができない。 これってもしかして、テレビアニメ版も見てたら印象が変わったりするの? もしかして、見てない私が悪かったりするの? 終盤、主人公は元上官との再会かなわず、船で島を去ることになるけれど、彼女を求めて港に現れた上官の姿を目にして、船から海へと飛び込む。この場面、船の欄干に向かって画面手前を横切る姿として描かれるのは上手いと思うんですが、いざ海に飛び込んだら、「義手なのに大丈夫なのか」とヒヤリとするところじゃないですか。また、それを乗り切るのが再開への通過儀礼でもあるはず。しかるに、気が付いたらアッという間に浅瀬に辿り着いてるだなんて、肩透かしもいいところじゃないですか。 海の真ん中で直立するのは、ゴジラだけで充分。 で、まあ、ハッピーエンドっぽく終わるんですけど、一応この作品、これら登場人物がもう存命ではないであろう、さらに未来を視点にして、過去の出来事を追いかける構成になっていますが、この構成を取っている時点で、主人公は孤独に代筆業を続けて生涯を終えたんだろう、ということの暗示だと思ってたんですけどね。まさかのハッピーエンド。いやほんと、まさかと思いました。 あと、主人公が名前を「ちゃん」付けで呼ばれる、という感覚もよくわからん。何のためにそんな国籍不明感を出すのか?
[地上波(邦画)] 6点(2024-06-22 09:24:34)
150.  Mr.ノーバディ
冴えないオヤジがバリバリ戦いまくる痛快さをたっぷり楽しませてもらって、こんなことを言うのも何なんですが、結構、既視感があるなあ、と。 ノリのいい音楽の中、繰り広げられる殺戮は、キングスマンとか何とか。敵の襲来に備えて様々なトラップを仕込んでおくのも、ランボーがラスト・ブラッドで披露したばかりだし。ジイサンが参戦するような展開もどっかで見た気がしたんだけど、これは例が思い出せないので私の負けですね。すみません。 とにかく、これはユニークな映画なんだ、そのはずだ、と思いながら見ている割には、思ったほどユニークな印象が残らないのですが、「映画よ常に斬新であれ」というのもなかなか酷な話かとは思います。 しかし冒頭、まるで運命の日がやってきたとでも言わんばかりに曜日を表示しつつ、実は平凡な日々の繰り返し、ってのは、これはやたら可笑しかったです。冒頭だけ斬新過ぎてハードル上がっちゃったかも。 ノリのいい音楽で大殺戮、と言いながらも、中盤のバスでの乱闘シーンなどは劇伴無しだったりして、単なるアクションの垂れ流しではなくメリハリもつけられてます。 総じて楽しめたので、まあ、良かったんじゃないかと。
[インターネット(字幕)] 7点(2024-06-22 08:36:29)(良:1票)
151.  キャノンレース
ノルウェー製の公道レース映画。邦題通りというか何と言うか、冒頭のクレジットでこの作品、ハル・ニーダムに捧げられてます。そりゃこの映画を無理やり誰かに捧げるとしたらそうなるかも知れんけど、そもそもハル・ニーダムってヒト、映画を一本、捧げる対象ではないんじゃないかと。 カッチョよいクルマがフィヨルドの国を走りまくる。あの素晴らしくダサいハル・ニーダム作品よりは、ワイルド・スピードに近くって、そこに若干の、TOKYO DRIFT風味。笑っちゃうほど見事なドリフト走行。ただし主人公とそのライバルは、いい感じにダサい。 お姉さんドライバーも出てきたり、ジャック・イーラムほどポンコツではないけれどいい感じのジイサンも出てくるあたり、微妙にキャノンボールに対する目配せも。 あくまで公道レースなので、アホらしいクラッシュシーンなどは無く、まあ、一部の荒唐無稽なアクションを除けば、走っているだけなんですけど、そんな映画をなぜノルウェーで作らにゃならんのか、と言えば、これは見て納得。舞台は、アメリカには無い景色。夜中に始まったレースから、夜が明けてくるとそこには素晴らしい眺望が広がります。その北欧の自然を、クルマが駆け抜ける。草原に刻まれる、タイヤの跡。 そうやって展開されるレースの中に、親子の物語が織り込まれますが、それが決して押しつけがましいものではなくって、「そうそう、親子ってのは結局、こんな感じだよね」という、味わいがあります。夕刻とともに近づいてくるゴール。 なーんか、ジワっとくるものがあります。 で、大満足の8点! のはずだったんですが、ラスト1秒で急遽、9点になりました。ごめんなさい。けど、この気持ち、ご覧になった方には、理解していただけるんじゃないかと。 この作品、ハル・ニーダムも草葉の陰で喜んでいると思います。
[インターネット(字幕)] 9点(2024-06-16 18:37:03)
152.  007/スペクター ネタバレ 
バットマンだってちゃんと撮ったらちゃんとした作品になるだろう、というのがノーラン版バットマン映画だとしたら、007だってちゃんと撮ったら・・・というのがこのサム・メンデス版007映画、ってことなんでしょうか。で、その「ちゃんと撮ったら」という部分のベクトルが間違っている気がしてしまうのが、両者に共通するところ。 この作品、メキシコシティの「死者の日」を大規模に再現した長回しっぽい冒頭シーン(何となく、実際はカットが切られている気がする)がやたらカッコよくって。その後に待ち受ける一連のアクションもあの手この手で盛り上げて小気味よく、「全編の中で、結局、タイトル前が一番カッコいい」という点ではこれ、007映画らしい作品と言えなくもなく・・・。 その後も、アクションシーンか否かに関わらず、カッコよく撮ろうとしているのは伝わってくるのだけど、はたまたそれっぽくエピソードも散らしておこうとはするけれど、トータルでは中身が薄い印象のまま、この長尺。ちと、つらい。007映画に中身が無いのは今に始まったことではないからそれ自体はもうどうでもいいんですけどね、中身が無い代わりにしっかりとバカ映画であった007映画から「バカ」を取ったら、何が残るのか。何を残せるのか。 長尺を引っ張り過ぎた挙句、本来なら盛り上がるであろうクライマックスシーンまで、尻すぼみに感じられてしまうのは、いかにも残念。 拷問にあってもそれをタフに乗り切るのが、やはりクレイグ=ボンドの持ち味でしょうか。今回は相当ヤバいところまで追い込まれますが(ってか、手遅れでは。ははは)、その直後には何事も無かったかのように涼しい顔で戦いまくり。タフと言うより、ここまでくると正直、不気味です。
[CS・衛星(吹替)] 5点(2024-06-16 06:10:41)
153.  がんばれ!!タブチくん!!
昨今のテレビ番組とかで、いろいろと規律のユルかった昭和の時代を「あの時代は良かった」的に振り返ってるのも、正直どうかと思いつつ(これは私ら昭和世代が悪いんですが)、しかししかし、この『がんばれ!!タブチくん!!』なる作品が許され、メチャクチャな形で描かれている本人を含めて、皆が笑って受け入れ、素直に楽しんでた、ということを思えば、やっぱり昭和は良かったんじゃないかと(笑)。これぞ昭和を代表する作品!と言っちゃってもよろしいのでは。 一話10分くらいの寄せ集めというテレビアニメのノリなもんで、纏まりも無いし、絵の方もいたってシンプルでこれもテレビアニメ風。手抜きのようにすら思えますが、しかしそれを逆手にとったような、デフォルメされた世界観、これがやたら楽しかったりします。現実の野球選手をネタにして、現実にはあり得ないようなギャグをかましまくっているもんで、絵の方も非現実、というか超現実。シュールレアリスムですね。 絵が手抜きったって、一部のシーンではちゃんと人物の影を描きこんでいたりして、いや、手抜きなんかしてないんですよ、きっと。 西武ライオンズの対戦相手はなぜかいつも(?)阪急ブレーブスで、ピッチャーはなぜかいつもヤマダさん。アンダースローで器用に投げるシーンが器用に描かれ、実在の山田久志さんの方がよほど動きがメカニックでギクシャクしてたんじゃないか? とも思えてくる。 その他、懐かしい選手や監督が出てきますが、西武ライオンズ時代のノムさん、ってのは、ちょっと貴重なんじゃないでしょうか。 西田敏行さんによるタブチくんのアテレコは、西川のりおさんのテツの声と並んで、本職の声優ではない人が演じる名アテレコだと思います。代わりに務まりそうな人は全く思いつかない・・・ あと、ミヨコ夫人のチャーミングさってのは、アニメ界でもトップクラスだと思うんですが、どうでしょうか。
[インターネット(邦画)] 7点(2024-06-15 07:22:20)
154.  座頭市の歌が聞える
座頭市シリーズは90分に満たない作品も多く、コンパクトな印象がありますが、この作品などはその代表で、結局このヒトとこのヒトとは実はこういう関係で・・・というのを辿っていくと、何だかやたら世間は狭いなあ、となってしまうのですが、良く言えば、まとまりのあるオハナシ。旅先で知り合った少年一家を助け、町を牛耳る悪辣な一味に立ち向かう座頭市。 はたまた、座頭市が知り合う女郎のお蝶さんというのが登場しますが、これが小川真由美。どこか妙に現代的ですねえ。で、妙に色っぽい。さらにそこに絡んでくる浪人風情の男が「あの」天知茂で、座頭市のライバルとして超重要な役どころですが、何なら、このヒトが一番、存在感無いかもしれない(笑)。いや、無い訳じゃないけど、ちょっと収まりが悪くって、もっとしっかり描くか、いっそ今回は割愛するか。なんか、勿体ない。けど、まあいいや。 どうしてこんなオカルト映画か何かみたいな不気味なタイトルにしたのか、内容はオカルトでも何でもなく、しかし大映時代劇なので、画面の暗さはオカルト映画以上かも知れませぬ。そんな中、クライマックスの殺陣が、シルエットが闇を切り裂くように引いたカメラで描かれて、不気味さここに極まれり。実際は明るい場所で撮影し、処理によって暗く見せているので、振り回される白刃が光を反射し、うごめく黒い人影に妖しい彩りを与えます。やたらカッコいい。死神たる座頭市の、面目躍如。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2024-06-09 11:46:32)
155.  陽のあたる場所 ネタバレ 
原作の「アメリカの悲劇」は読んだことが無いのですが、この映画からは少し、ジェームズ・M・ケインの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」を連想したりもします。「郵便~」ほど主人公が直情的でも行動的でもなく、むしろ優柔不断にも見えるけれど、それでもやはりその行動は刹那的で短絡的。それをどこか、突き放したように描く・・・。 という観点では、この映画、さらにハードボイルドタッチの乾いた語り口でもよかったのかも知れませんが、それはともかく。 主人公のモンゴメリー・クリフトがヒッチハイクをしている冒頭。金は無いけど希望はある、って感じの好青年。いい人に見えるのはここだけで、まあ、あとは、サイテー男なんですけどね。彼が見上げた看板は、叔父の経営する大企業のもの。手の届かないような高さにあるその幸せが、徐々に彼のもとに転がり込んでくる。最初は労働者仲間の女性との恋愛、という、ある意味現実的で、こう言っちゃなんだけど世間的には「身の丈にあった幸せ」。ただしここですでに、会社の規則違反。今だったら横暴な企業としてネットで炎上するところかも知れませんが、とにかく不条理な悲劇のタネってのは、主人公自身が抱えているだけではなく、社会の中にも色々と転がっている。 で、最初、手に入れた小さな幸せの後、会社で出世したり、金持ち美人のエリザベス・テイラーと知り合ったり、という「大きな幸せ」(ってか、んなワケないやろ、こんなヤツに、と言いたくなるような、信じ難き僥倖の数々)が主人公のもとに降り注いでくる。小さな幸せと大きな幸せ、同時に手に入れようったってそうはいかないとなった時、どちらを手放すか?  「大きな幸せ」の方が実は単なる幻想でした、というのであれば、そりゃそうだよね気をつけようね、という一種の教訓話としてオチがつくところですが、この作品では最後まで、エリザベス・テイラーはあくまでモンゴメリー・クリフトを想い続ける「大きな幸せ」としての存在であり、もはや自分には決して手に入れることができない「大きな幸せ」はやはりそこに「大きな幸せ」として在り続ける皮肉。 小市民的な悲劇ではありますが、それだけに普遍的、とも。
[インターネット(字幕)] 8点(2024-06-09 06:04:52)
156.  悪と仮面のルール
中高生くらいまでは私も、特定の作家の小説を片っ端から読むような事をしていたのですが、それ以来、特にどの作家に入れ込むこともないまま久しく、それが最近になって「この人の小説であればどれでも読みたい」と思わせてくれたのが、中村文則氏。 この「悪と仮面のルール」も、心に刺さりました。物語としては破綻寸前の危ういところまで攻めていると思うのですが、氏の筆力が支えとなってバランスを保ちながら、独特の小説世界を作り上げています。 映画を作ることの、難しさ。小説をまるまるコピーするように映画を作ることはできないから、当然、割愛される部分はあるし、アレンジも加えられる。一人称で語られるこの小説では、主人公の感覚――温度であったり音であったり臭いであったり――が繰り返し織り込まれ、「このことを覚えておこう」という現実認識も再三、描かれますが、こういう手法は映画には不得手かもしれません。また映画としてのまとまりを考えれば、各登場人物が物語の中で持つウェイトも変更され、例えば小説のラストシーンが映画では省略されたりもする訳で。 何より、映画では、過去のパートのウェイトが下がっているように感じますが、これは果たしてこの物語に対し良かったことなのかどうか。原作と映画と単純比較する愚は犯したくないとは言え、やや、作品の「弱さ」に繋がっているように思えてしまって。 しかし問題はむしろ、原作との違いではなく逆に、「変に原作を網羅しようとしてませんか?」というところあって。申し訳程度に入れた描写、原作未読の方に本当に伝わっているのかが心配になってきます。例えば、少年時代の主人公が瓶の中に何を貯めていたか、画面から汲み取れましたでしょうか? 物語において母の存在のウェイトが下げられている(父と母との関係も含め)ことを思えば、他のものに置き換えて描写するのもアリだったかも(少女が主人公のすべてを受け入れることさえ描けていれば)。 あるいは例えば、『JL』というグループがどんな無意味なテロをやっているか、映画から汲み取れましたでしょうか? 終盤、「ヘアバンド」のプレゼントが出てきますが、これは納得いただけましたでしょうか? そもそも、ですが、セリフで「じゃ」という言葉を聞いて、すぐに「邪」という漢字が浮かびましたでしょうか? 大きなお世話かもしれませんが、いろいろと心配に。 という、原作からのピックアップがやや断片的でつかみ取りづらくなっている中で、またさらに、セリフも比較的感情を抑えて小声になることが多い中で、劇伴が鳴りすぎるせいでセリフが聞き取りづらい場面があり、こういうのは興を削いでしまいますよね。この辺り、もう少しうまくやっていただけたら。 玉木宏はこの難しい役を、見事にこなしていたと思います。
[インターネット(邦画)] 6点(2024-06-02 09:58:26)
157.  さいころ奉行 ネタバレ 
正直、こんなタイトルの映画を誰が見たいと思うのか、一体誰が見たがると思って作品を製作したのか・・・という思いに負けて結局見てしまうんですけどね、例によって。 見てみると、たしかに「さいころ」が劇中の重要アイテムになっています。が、別にサイコロである必然性は特になく、結局、ハメられたのは私だった、と言うわけで。 千恵蔵が演ずるは、ご存知遠山の金さん・・・と思いきや、映画の最初の方では身分が定かではなく、むしろ、「遠山金四郎」という人が他にいたらしいことが匂わされ、もしかして千恵蔵、今回は金さん役ではないのか?・・・もちろんそんなワケはないのですが、一応、驚いておきます。 ひょんなことから、乱暴者の大男(というほどデカくはないかもしれないけど、一応、進藤英太郎)を子分にした金さん。コイツがなぜか「遠山金四郎」を名乗っているのですが、その理由が、以前遠山金四郎なる男をやっつけた記念に名前もパクってやった、とのこと。つまり、ニセ「ニセ遠山金四郎」なのですが、この際、これはどうでもよくって。 二人が船に乗っていると、スリ騒ぎが発生。というか、その騒ぎが大きくなる前に金さんがそれを察知して、何となく場を収めてしまう。財布を掏られた浪人体の男はかなり困っている模様だが、スリの手からこっそり巻き上げられた彼の財布は、素知らぬ顔でいる金さんの懐の中。そりゃまずいんじゃないのーーーと思うところ、ですが、後で財布の中身を調べると、中から出てきたのは謎のサイコロ。やたらカラフルです。怪しいです。 で、そこから物語は、世を騒がせている「世直し党」なる一味の陰謀、そして、それを探り彼らのテロを阻止すべく、下男として料亭に潜り込んだ金さんたちの活躍へと。 どうも千恵蔵、料亭でマメマメと働く姿はいいのですが、貫録があり過ぎて、雇われの身というより、まるで、会社の重役が引退後も顧問として残り、今日も元気に現場に顔を出しています、といった風情。この主人公、設定上はどうやら、それなりに若い役みたいでして、父親との会話シーンなんかもあったりするのですが、もう違和感しかない。。。でも、その手の苦情は受け付けない、それが大スターの風格。 で終盤、華やかなる演芸舞台と、その最中に行われようとしている暗殺計画。どこかで似た話を聞いたような設定ですが、それはともかく、オリジナリティが高すぎるのが、どういう訳だか金さんまで舞台に上がって大活躍、という展開。しまいにゃ舞台にお白洲のセットが登場して観客の面前でお裁きが始まり、いやはや、何でもアリにも程がある。金さん、よくもまあ、こんなセットを作らせたもんです。そのクライマックスシーンをさらに劇場ごと、観客ごと描いた東映も、よくやるなあ、と。 いざお裁きが始まると、完全に千恵蔵にスイッチが入って、パワー全開で啖呵切りまくり、もはや何を言っているのかわかったようなわからんような、とりあえずその迫力には圧倒されます。 「〇〇奉行」の〇〇の部分に何が入ろうが結局みんな、これが見たいんですよね。
[インターネット(邦画)] 6点(2024-06-02 07:35:38)
158.  007/美しき獲物たち ネタバレ 
どういう訳か私にとって妙に印象の薄い、この第14作。何でこんな印象薄いんでしょうね。劇中でいろいろ派手な事やってくれてるんですけれども。「007映画=おバカ映画」という図式を我々にしっかり植え付けてくれたロジャー・ムーアも、今回がボンド役最終作。ということで、ゴジラ同様、実際の元号とズレはあるものの、この作品までが私にとっての、昭和007。 だもんで。どうもこの作品のイメージが『メカゴジラの逆襲』と微妙に重なってしまうんです。すみません。これは私が悪い。こんなイメージ持たれちゃ、ねえ。 実際は、ジョン・グレン監督はこの後のダルトン=ボンド時代も続投するので、そういう意味ではこの第14作と次の第15作に断絶は無いはず、なんだけど、しかし到底、そうは思えません。やはりこの第14作でもって、一時代の終わり。やっぱり、ボンド役が作品のカラーを決定づけますね。そもそも、「007映画の監督と言えば?」と聞かれたら、普通はテレンス・ヤングか、せいぜいガイ・ハミルトン。あるいは最近の人だったら、答えとしてマーティン・キャンベルとかサム・メンデスとかの名を挙げるかもしれない。もしここで、「ルイス・ギルバート」とか「ジョン・グレン」とかを挙げる人がいたら・・・たぶんそれ、悪意があります(笑)。でも、ロジャー・ムーアのおバカ007映画時代を主に支えたのが、この二人。ヒドいことをしてくれたもんだ、などと言うなかれ。全部、ロジャー・ムーアのせいです。多分。 さて、ボンド役最終作と言うだけあって、、、と言うか、「さすがにそりゃ最終作にもなるわなあ」と言うか、ムーアさん、正直、すでに結構なお歳です。しかし飄々としてクールでエロくてコミカルで。まだまだ余裕のエロダンディぶり。アクションシーンはスタントマン多用しているんでしょうが、そりゃ、あんなスキーやらスノボやらが上手かったら、ホントにMI6で秘密諜報部員できちゃいますよね(?)。しかし、潜水シーンなんかでは、本人が実際に潜って演じているように見える場面もあったりしますが、これ、この歳で実際に本人がやってるんだったら大したもの。役者になっていなかったら、本当にスパイになれたのでは(???)。 今回もおバカアクションの見どころ盛り沢山。タイトル前の雪山の死闘に始まり、エッフェル塔から開始される追跡劇ではパリを舞台にしたカーアクション(最近の映画でこそ、名所でのこういうアクション、増えてきましたが)、007映画らしいアクロバットな演出も。これに対し終盤は金門橋が舞台の、飛行船を使ったアホらしくも派手な戦い。だけどやっぱり目を引くのは、中盤の火災シーンですかね。ややシリアスなテイストで、迫力あり。それからもちろん、あの大洪水の修羅場。巨大セットでの撮影がもたらす臨場感に、息を呑みます。 ここまで言っといて、「印象が薄い作品」も何もないだろ、ってなところですが、悪役のクリストファー・ウォーケンが、ちと弱い。ってか、私は昔、このヒトは本当にヤバい人なんじゃないかと思ってた頃があり(もちろんそんなワケ無いと思いつつも、何となく狂気を身に纏っている感じがして)、それを思うとこの作品では、彼にしてはスケールが小さく、小悪党止まりの印象。冷酷極まり無いことを言ったりやったりしてるんだけど、狂気よりセコさが感じられてしまいます。うん。作品の印象の薄さは、これのせいだ。きっと。メカゴジラのせいにしてはいけません。 ボンドガールは今回は結局、何人いたんだっけ? メインとなるタニア・ロバーツは、これまたイマイチ存在感無いですが、ゴージャス感はありますねえ。そういう意味ではいかにもボンドガールらしいボンドガール。昔、『シーナ』とかもよくテレビで放送してたので有名な女優さんかと思ってたんですが、いや、まあ、どうなんでしょ。ははは。一方の敵方のコワモテ用心棒のグレイス・ジョーンズは、これはインパクトあり過ぎ。最後まで見せ場を作りまくりで、確かにイイんだけど、ムーアおバカ路線にはややそぐわない気もしうつつ。昔、『キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2』とかもたまにテレビで放送してたので、有名な方かと思ってたんですが、その理解で合ってますよね?
[CS・衛星(吹替)] 7点(2024-05-26 21:35:51)
159.  任侠清水港 ネタバレ 
これぞ、オールスター映画。善玉悪玉主役脇役、多彩な俳優が目白押し。やはりこの頃の俳優の皆さんは個性的で、そういう皆さんがこれでもかとばかりに次々登場するのが、まず見てて楽しいですね。もっとも、個性的と言っても、片岡千恵蔵と市川右太衛門では幾分、互換性があるような。大川橋蔵と東千代之介では互換性しか無いような、気も(山形勲は、、、このヒトは誰とも互換性が無いなあ)。 まず冒頭の富士山の遠景、その手前に小さく、列をなして歩く人影が。もちろん言わずと知れた、次郎長一家。映画の中ではこういうロングショットが随所に見られ、効果を上げています。中盤、船に乗った森の石松の背景に、ひっきりなしに川岸を行き交う人々が描かれれている、なんてのも、実に雰囲気があって。 それ以外にも、カメラを振ったり、クレーンで上下したり、身振り手振りを交えた会話シーンで細かくカットを繋いだり、とにかくダイナミック。演出の方も張り切ってます。ストーリーの方まで張り切り過ぎて、映画開始早々からあれよあれよと、殴り込みに突入。いやはや、なかなか忙しい・・・。 森の石松を演じるのが中村錦之助で、さすが石松、さすが錦之助、落ち着きが無いの、なんの(笑)。この喋り方でカミシモ切ったら、ほとんど落語家のノリです。で、この石松が後半、大活躍。 そんでもって映画はますます加速し、いよいよクライマックスでは、次郎長一家と黒駒・都鳥連合軍との一大バトルへと。 実に賑やか、楽しい映画でございました。
[インターネット(邦画)] 8点(2024-05-26 06:38:35)
160.  ドッペルゲンガー ネタバレ 
『ドッペルゲンガー』というタイトルで、実際にドッペルゲンガーが登場する映画。ここまではえらく真っ当。 自分のドッペルゲンガーと出会うと死んじゃうらしい。とは昔からよく聞くけど、本人だけが死ぬのか、分身もともに死ぬのかは、よくわからず。はたまた、自分の分身と出会って、もしもその分身と同性愛関係なんかになってしまったら、自己愛そのまんま自分の肉体に溺れてしまったら、もはや絶対に歯止めが利かないこれこそ真の無間地獄じゃないか、と思ったり。ただし無間地獄ではあってもドラマは生まれ無さそうな気も。 この作品では幸いというか、これはこれで困るというか、登場するドッペルゲンガーは途轍もなくイヤな奴で、その手の無間地獄には陥らない。いわば、自分のイヤな面をそのまんま体現しているような感じですね。ははは。確かにこの状況は、イヤだと思う。これもまた困った状態。霊的な、超自然的な、幻想的なテイストからはどんどん遠ざかり(冒頭の永作博美とその弟とのやり取りにおける、やたら風に揺れるカーテンにだけはそういうテイストがあったけれど)、むしろ現実的に、主人公が追い詰められていく。当初の予想から外れて物語は、よりコミカルに、よりブラックに。ホラー映画らしいタイトルが選ばれたこの映画は、ホラー路線から離れて未知の領域へと。 やがて確かに、自分のドッペルゲンガーとの出会いは、「死」に繋がるけれど、死んだのは分身の方らしい。らしいけれど、実際はどっちがどっちなのか、どうでもよくなってくる。よくわからなくなってくる。はっきりしているのは、もう元には戻れないということ。ただし、元に戻るべきなのかどうか、元に戻って欲しいと誰かが思っているのかどうかも、よくわからない。とすれば、戻る必要も無いのかもしれない。登場人物たちの誰もが我こそ事態を操ろうとして、誰も操ることができず、無制御のロボットのように迷走した先には結局、崖が待っているだけなのだけれど。 この映画、役所広司が主人公とその分身とを一人二役(一役?)で演じていて、両者が一つの画面内に登場するシーンは、巧みな合成で違和感を感じさせません。しかし全部のシーンがそのように撮られている訳ではなく、当然、一方を代役が演じているシーンも多々ある訳で、下世話にも「いや、そうじゃなくて、見たいのは特撮なんだよ」と思っちゃう。いやホント下世話ですみません。さらには画面分割も。いやそうじゃなくてさ、と思っちゃうのですが、ある意味、一人二役を口実に画面分割を映画にちゃっかり取り入れてる訳で、しかもこれはこれで上手く演出しているので、ちょっと、してやられた感が。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2024-05-19 08:54:23)
030.07%
1190.47%
2431.07%
3781.94%
41644.07%
53749.28%
666516.50%
7127431.61%
892522.95%
93829.48%
101042.58%

全部
スポンサーリンク
スポンサーリンク

■ ヘルプ
© 1997 JTNEWS