1621. ツィゴイネルワイゼン
難解ということでリンチの名前が挙がるんでしょうが、鈴木清順という人はどちらかというとゴダールの系統だと思います。映画文法を意図的に壊してますから。でもその部分だけであとは完全な独自の世界感を持っている。この作品では”あの世”というあいまいなものを彼の独特なセンスでもって描いているので余計に奇怪なものとなってます。驚かされるシーンは挙げればキリがないのですが、ひとつ。青地の現実と妄想(妄想も現実かもしれない)の中、小稲(あるいは園)が着物を脱ぎます。そこでオッパイもあらわにニッコリとポーズをとるカットが一瞬映し出される。ゴダールの踊らないミュージカル『女は女である』のアンナ・カリ-ナを彷彿させますが、こちらはオッパイ付きですからこちらの勝ち、、(冗談ですよ)。もうこのシーンだけでこの映画を愛せます。大正浪漫三部作の中でこの作品だけ未見のままで、本年ようやく観ることが叶った作品なのですが、期待を裏切らない傑作でした。これは今後、何度も観ることになると思います。 8点(2004-10-19 15:34:30)(良:1票) |
1622. けんかえれじい
清純なマドンナとひとつ屋根の下という設定の中、主人公が日々男を磨く為にケンカに明け暮れる、、、というなんとも青臭い青春ドラマなんですが、まずはこのときからすでに斬新なつくりになっていることに驚いた。別の部屋でピアノを弾く道子と自分の部屋にいる主人公・麒六を同じひとつのセットで撮る。部屋から飛び出したかと思うとソコは麒六の頭の中。会津で学生がしゃべりながら歩くシーン、それをカメラは追わずカメラの前を通りすぎるカットを繋ぎ合わせる。鈴木清順、あなた凄すぎ!当時は受け入れられたのでしょうか。弱い先生(たしか浜村純)が生徒にバカにされるシーンの怒涛の細かいカット割は観客にけんか売ってますね、絶対(笑)。で、青臭い青春ドラマで終わらないから尚凄い。男を磨くという若者の向上心が時代の渦に巻き込まれようとする手前で映画は終わります。道子のラストシーンが「暴力がもたらすもの」を象徴しているように感じる。一瞬しか映らない北一輝役の俳優の目がまたいい。 7点(2004-10-18 14:09:21)(良:1票) |
1623. 僕たちのアナ・バナナ
宗教のおそらく本質とは違うだろう”形”にこだわることの意味の無さを、極端に立場の違う3人のストーリーにうまくリンクさせている。ラビと神父とキャリアウーマンという設定が面白い。でも3人ともかなりデキル奴等なんですよねぇ。一応ノートンが三枚目ということなんですが、もっとどんくさいキャラで笑わせてほしかった気もします。それぞれの説法(?)は楽しかった。あんなに楽しいんだったら教会に足を運んでもいいかな。 5点(2004-10-15 12:08:58) |
1624. はなればなれに
ゴダールがカラー大作『軽蔑』の翌年に作った低予算モノクロ映画です。原点回帰ということでしょうか。劇中、英会話教室の黒板に書いてあった「古典的(クラシック)=現代的(モダン)」という文字がゴダールの映画感を表しています。私の愛すべき作品『女は女である』でもとことん女のかわいさを描いていましたが今度は、ちょっとオバカな女もカワイイよ、てとこかな?自転車に乗るアンナ・カリ-ナが誰もいない道を手信号で曲がっていく姿を遠まきにとらえます。すごくバカっぽくてかわいい。舌をベローンと出してキスを待つカリーナ、やっぱりバカっぽくてかわいい。で、そんな女はやっぱりコカコーラを注文する。ゴダール自らのナレーションも面白い。「ここは3人の心情を語らずに映像で語らせ括弧を閉じよう」ってわざわざ説明してくれるゴダール。やらしいお人だ(笑)。「ここは括弧を開けて心情を語ろう」はダンスのシーン。すべての音が消えゴダールの声が心情を語る間、黙々と踊る3人。またこのダンスがかわいい。絶妙な構図から男二人が消え、一人ダンスを踊る女の変な(映画の)間(マ)も絶妙。そのまえには1分間黙ってみようというシーンで、ここでもすべての音が消えるのですが、ついつい頭の中で時間を計ってしまいます。計りかけたら黙るのをやめちゃうというイジワルなシーンです(笑)。いちいちストーリーを遮断させるがそれが楽しくてしょうがない。ベリー・キュートな作品です。 9点(2004-10-14 12:26:18)(良:1票) |
1625. 冒険者たち(1967)
飛行機乗り、エンジニア、芸術家と三者三様の夢を追いかけるのですが三人とも浅くて青い。挫折してすぐに方向転換してしまうことからも明白。三人が大人になっていく様を描くものと思ったら青いまま終わってしまった。いい年の大人たちがなにしてるんだ、しかしながら青いままでいられることって羨ましい。青いままだからお金が手に入っても友情に亀裂が入らない。そういう意味では理想の三人組。冒険家というのはこういう青い部分をもってる人達なんでしょう。ただ、ストーリーの展開にも浅さを感じてしまった。 6点(2004-10-13 10:25:46) |
1626. 突然炎のごとく(1961)
後にトリュフォーが語っています。「この原作を映画化したいために映画監督になりたかった」と。それほどまでに愛した原作、その美しさを損なわないように、ナレーションがストーリーを綴るというカタチにしたそうです。三人の関係を形作るそれぞれの複雑な心情は映像だけでは理解不能、かと言ってセリフで説明されたんじゃたまらない。それゆえにナレーションが効果的だったと言える。そして読書しているときのように映像にないものまで頭の中に映す。それでも「わからない」という人が多いようにたしかに理解しずらい関係(というより共感できない関係)ですが、女神像とかぶるカトリ-ヌ、いつも先頭を歩くカトリ-ヌ、浮気を対等だからと理由づけるカトリ-ヌ、男装するカトリ-ヌ、彼女の言動が理解せずとも現実的なものにしている。「二人が同時に一人を好きになる」という三角関係ではなく「それぞれ一人が二人を愛する」という関係。ラストは悲しみよりも肩の荷が下りたような安堵感を味わった。最期の瞬間の三人の顔が目に焼き付く。 7点(2004-10-12 14:01:05) |
1627. 黄金の馬車
舞台の幕が上がりこの映画は始まる。主人公は旅芸人一座の女優。ルノワールの映画に主役はいないと言われるが、この作品の場合はまぎれもなく主役がいる。アンナ・マニャーニの強烈な存在感がそう感じさせているのかもしれない。上流階級の世界に、その世界の枠にはまらない異国の女がひとり入ることで無様な醜態を見せる貴族たち。国民のためと称した欲のために築かれてきたルールの崩壊。まるで『ゲームの規則』を別の視点からとらえた映画だ。女の元を去り軍隊に入り帰ってきた男が、敵は悪い奴等じゃなかったと言う。むしろその思想に同調しそこで暮らすと言う。『ゲームの規則』の「人にはそれぞれ言い分がある」という救いの無いセリフの答えのひとつを提示しているように感じる。劇中劇という手法とマニャーニの最期の独白に「映画」と「役者」に対しオマージュをささげた作品とも感じた。全く存在意義のなかった欲の象徴の「黄金の馬車」が最期には価値を見出すというくだりといい、この映画は非情に多面的な側面を持っている。これもまた傑作。 8点(2004-10-08 17:20:40)(良:1票) |
1628. ゲームの規則
人物をアップで映しその表情で語る、といったことはせず、ただ登場人物たちの滑稽なまでの行いの一部始終を余すところなくカメラがとらえる。別邸の廊下を皆が自分勝手にあっち行きこっち行き、画面から出たり入ったりする様をカメラは誰を追うでもなく映し出す。画面の手前でも奥でもそれぞれのドラマが展開されていく様を同時にとらえる。今見ても前衛的なシーンの数々。公爵も妻も愛人も使用人も密猟者も英雄もすべての人が幸せを望んでいる。人間誰しも言い分がある、そう、決して悪意が無くても誰しもが持つ言い分が不幸を招く。人間ってなんてバカなんだろう。この映画は悲劇であると同時に喜劇でもある。まさに人生そのもの。すばらしい。 9点(2004-10-07 17:39:26)(良:1票) |
1629. 獣人
《ネタバレ》 冒頭の延々と走りつづける機関車からとらえた迫力ある映像と、ギャバン、カレットのコンビが見せる、もう何十年もその機関車を動かしてきたかのような極めて自然な機関士ぶり、この二点だけでも見る価値がある。セットじゃないです。本物を動かしてます。なんでも、乗客には内緒で本当にこの二人が運転していたとか、、、本当ならちょっと怖いものがあります。ルノワールの映画は基本的に人間を描いているので、昨今のハリウッド・サスペンスに馴れ親しんだ者にはちょっとあっけなく感じるかもしれない。そういう私も初見時は、すべてを病気でかたづけたエンディングに物足りなさを感じました。でもそれは病気のことを忘れるくらいに見入ってしまっていたからかもしれません。発作で殺人鬼と化すギャバンの目も怖いが、もう一人の殺人者(紳士的だった男が妻への嫉妬心から人を殺す)の目も狂気に満ちている。二人の殺人者、一人は獣人から人間に戻り自殺する。もう一人はこの先人間に戻れるのだろうか。 7点(2004-10-06 12:11:09)(良:1票) |
1630. 大いなる幻影(1937)
戦争そのものを描かずに戦時下での男たちのドラマを描く。戦時においてあたりまえのタテの関係が捕虜収容所内では様々な階級の男たちがヨコで繋がっているというのが面白い。戦争であることを忘れてしまいそうなくらいの和やかで楽しい雰囲気。鱗歌さん同様、私もあの楽しげな演芸会を見ていたかった。しかしドゥオ-モン奪還の報が戦争という現実世界へ引き戻す。収容所所長との敵味方を越えた友情も戦争という現実が悲劇へと導く。「幻影」と「現実」は常に「現実」が勝つ。もしかしたらエルザにまた会いに戻るという誓いも「現実」に負けるかもしれない。それでも「幻影」を見つづけること、「幻影」を追い続けることが人として大切であると言っているように感じる。一人一人が思いつづけることが平和への道。「幻影は大いなるもの」と、とりました。 8点(2004-10-05 12:13:48)(良:1票) |
1631. ジャン・ルノワールのトニ
《ネタバレ》 実際におこった事件を映画にするとき、いかにドラマチックに脚色し演出するかがキーになる。しかしこの時代においてドラマチックに仕上げるのではなくリアルに撤したルノワールはやはり凄い。リアルに仕上げることによってよりドラマチックになる。泣かせようとせずとも泣ける。殺人事件が主ではなく、季節労働者と彼等の暮らす町全体が主として描かれる。殺人事件てのはそのもの自体がリアルと相反するもの。そのリアルと相反するものがリアルな世界に唐突に訪れる。その殺人事件の裏には男と女のドラマがある。そのドラマでも感動をあおらない。女が自首したことを男は知らない。男が死んだことを女は知らない。すごく悲しい。作られた悲しみではなく本気で悲しい。そしてその後はいつもどうり季節労働者はこの町にやってくるし、我々も普段の生活に戻るのです。リアリズム映画の祖であると共にリアリズム映画の傑作です。 8点(2004-10-04 12:59:41)(良:1票) |
1632. 話の話
初めて見た時は、なんじゃこりゃ?でした。点数にしてせいぜい5点がいいところか。ただあまりにも意味不明だったのでもう一度見てみました。ところどころの意味がわかってきました。全てはわかりません。でも少しわかっただけでたまらなく好きになってしまいました。もう一度見ました。今度は考えずに眺めました。どんどん好きになってきました。さらにもう一度見ました。なんなのでしょう、この感じ。映像詩という言葉がぴったり。いろんな時代を見てきたオオカミの子供。牛や猫がでてくる家族団欒の画は理想郷?光は眩しく火は温度を感じ、さまざまなエピソードに季節が宿る。また見たくなってきた。 8点(2004-10-01 16:24:37)(良:1票) |
1633. 霧につつまれたハリネズミ
《ネタバレ》 こぐまに会いに行く途中でハリネズミのヨ-ジックが霧に包まれて右往左往。ここで私はヨージックを応援するのではなく完全にヨージックになります。霧に包まれた世界は不安でいっぱい。枯葉の下からかたつむりのオバケが~!実際は小さいかたつむりもヨージック自身が小さいのと不安な気持ちがそう見えさせるのでしょう。川に落ちちゃったときは冷たかった。無事にたどりついて「よかったね」とはならない。「よかった」となる。ヨージックと共に馬のことを思い、そして「心配かけてごめんね、くまさん」と心の中で言うのでした。 8点(2004-09-30 11:35:55)(良:2票) |
1634. ママ
さすがに強盗の心配はしたことないですけど、窓から落っこちるんじゃないかという心配は常々あります。ヨメさんが家にいるのに。(ウチの子供は昼寝をしないがヨメさんは昼寝をする。オイオイ!)最近窓に柵がわりの小さなベランダ(と言っていいのか)をつけました。でもその気になれば簡単に乗り越えられます。他にも危険はいっぱい。玄関から吹きぬけの二階から落ちることだってあり得る。(実はつい最近、そういう事故を目撃しちゃったんです。)ひとときも目を離さずに子供を見るのは不可能。一方、好奇心旺盛な子供は何をしでかすか予測不可能。今日も無事でいることに、健康であることに、子供を守ってくれたすべての者に、すべての偶然に感謝です。ママの涙に共感します。毎日が感謝。もちろんヨメさんにも感謝。 7点(2004-09-29 11:00:19)(良:1票) |
1635. レター
人形の顔は無表情なのに何を想っているのか痛いほど伝わってくる。実写映画の場合、どんな大根役者でも人形よりは多くの表現方法を持っているわけですから、それを生かすも殺すも監督の演出次第なんだなあと改めて思った。この作品の話は個人的に、単純に共感できる部分が少ないのですが、監督の演出が想像力を掻きたててくれます。男の子がいくら母親を想っても母親の想い人にはなれない。そんなもどかしさの中、母親の笑顔を見るためにがんばる男の子がいじらしい。これは親が見て、もっと子供を愛してやらなきゃってなる作品だと思いました。 7点(2004-09-28 12:08:14) |
1636. ミトン
娘といっしょに何度も見てます。娘は2歳なのでどこまで理解しているのかわかりませんが、手袋にミルクを与えようとしているシーンで、それまでニコニコして見ていたのが真剣な顔に変わり「ヨシヨシ..」とつぶやいてます。寂しげな雰囲気が伝わってくるのでしょう。これは演出の素晴らしさであり、感情豊に成長するウチの娘の見る力であり...すみません、親ばか炸裂してしまいました。とにかく娘が大好きな作品なので当然私も大好きです。 7点(2004-09-27 10:37:43)(良:1票) |
1637. 死刑執行人もまた死す
ナチスから逃れる為にアメリカに渡ったという経緯を持つラングですから当然と言えば当然なのですが、「ナチス=悪」を鮮明に打ち出しています。対するプラハ市民の誇り高さと結束を描くことでその勧善懲悪ストーリーはより強固なものになります。しかし、ナチスの暴挙に対して反ナチスのレジスタンスもまた暗殺という「暴力には暴力を」という手段。その結果ナチスの無差別殺人を招き、それに対して結束した民衆もまた殺人を。脚本にラングのほかに二名の名がありますが、誰の功績か、とても娯楽サスペンスとして楽しめる作品になっていますが、この映画の本質は上に書いたように現代のテロ戦争にもあてはまる「暴力の連鎖」の悲劇ではないでしょうか。「暴力の連鎖」はさらなる悲劇を生みます。だから「Not TheEnd」なのでしょう。 7点(2004-09-24 13:21:28)(良:1票) |
1638. M(1931)
トーキーでありながらサイレントさながらの演出がふんだんにある。中でもラングといえば影の演出。幼女連続殺人というおどろおどろしい題材に、この影の演出がいっそう効いている。そしてこのおどろおどろしい雰囲気は殺人鬼だけが醸し出しているわけではない。誰もが犯人に見える(犯人に見たてる)民衆心理、私刑に及ぼうとする群集の危険性。むしろこちらの恐怖が際立つ。子供を守るという目的がいつのまにか犯人を探すことが目的に変わり、裁くことが目的に変わる。『メトロポリス』でも書いたが、この作品ではラングの群集心理の危険性への警笛がいっそう濃く反映されているように思う。ともあれ、ただの犯人探しではないゆえに全編に異様な緊張感を持続させます。犯人が潜む部屋がどこか判明するのが”音”であるのは初トーキー作品ゆえのご愛嬌か。 8点(2004-09-22 12:04:32)(良:1票) |
1639. メトロポリス(1926)
C-3POの前身となるあのロボットのデザインだけでも見る価値あり。人間そっくりにロボットを作れるのにメーターの針をランプが点灯したところに死にもの狂いで動かさなければいけない機械って..て、そんなこと考えちゃダメですよ。この作品のパイオニア的価値はたくさんの方が語っておられるのでもう言いません。では、そういった価値を無視して楽しめるか?..楽しめます。サイレントであっても、あれだけ多くの労働者の暴動を生身の人間で見せられたら、その迫力たるや圧巻の一言。ラングは(時代が時代なだけに)集団心理の異常さを常々警戒していたのだろうか。他の作品でもよく描いている。この作品でも、自分たちの子供の命すら忘れてしまう群集の異常心理を描きます。真相を知り冷静な判断ができる人間がいなかったら恐ろしい結末を迎えるということを警笛しているようにもとれる。そういった部分をさらっと描いて娯楽映画に仕上げるのが実に巧い監督です。 8点(2004-09-21 15:39:21)(良:2票) |
1640. シカゴ(2002)
現実の世界とミュージカルの世界を完全に分けることでミュージカル映画特有の違和感を排除し、同時に舞台で見るミュージカルの豪華さを堪能させるというのは、舞台が本業の人間らしいアイディアで、又、本領も発揮できるつくりと言える。個人的にはソコが不満だったりするんですが、見ているうちに知らず知らず足がリズムをとりだし、ミュージカルを堪能している自分がいました。でも映画を楽しんだのではなく、ショーを楽しんだにすぎないことも事実。もちろん映画がショー的な要素を多分に含んでいるものであることを否定しません。それにショーを映画で見せる、というのがそもそも監督の狙いだと思うので、ショーを楽しむ、という見方で正解なのでしょう。 ずるい者勝ちという中身が人によっては受け入れ難いものになっているようですが、「ショー」だと思って見ればかえって爽快ですらあります。キャサリン・ゼタの豪快なダンスとレニーのマペットが見所です。 6点(2004-09-17 13:08:53) |