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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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161.  ゴジラ(1954)
改めて観ると、やっぱりいろいろ凄い。 60年前の特撮映像そのもにフレッシュな驚きは勿論無いが、60年前にこの映画をリアルタイムで観た日本人はの恐怖と興奮は容易に想像でき、その「驚愕」が大変羨ましい。  ゴジラ映画の本質であるこのオリジナル作品の根底にあるものは、やはり「畏怖」だと思う。 未知なる巨大生物への畏怖、それにより生活が人生が文字通り崩壊される畏怖、そしてその発端は我々人類の所業そのものにあり、この悲劇自体が何ものかによる戒めであろうという畏怖。  この60年前の特撮映画が、ただの娯楽映画として存在したわけではなく、日本国内はもとより世界中において尊敬の念をこめて愛され続けたのは、まさにその神々しいまでの恐怖感によると思う。   一方で、改めてこの映画を鑑賞しなおしてみると、当時の日本の風俗や人々の価値観が如実に表れていてそれはそれで興味深い。  “オキシジェンデストロイヤー”を開発した芹沢博士は、実は時代に翻弄された悲恋をまとった人物で、映画的に捉えるならば本来もっと自暴自棄になってもいいはずなのに、最終的にはあくまで人道的に己の命を捧げる様は、悲しくて仕方がない。  名優・志村喬が演じる山根博士も、いかにも人格者的な古生物学者として振る舞ってはいるが、一人ゴジラの生態究明に固執する様は少々異様ですらあり、その目は時に狂気じみていた。  細かい所だと、菅井きんが演じていた婦人代議士の国会での熱弁の様だったり、死を覚悟して最後の放送を続けるテレビ塔のアナウンサーの様だったり、時代を感じる人間性やキャラクター設定が、60年後の今だからこその味わい深さになっていると思える。  また随所に散りばめられている戦争の傷跡と、反戦・反核へ警鐘も、決して仰々しいわけではないが実に切実に生々しく描かれている。 通勤電車での「また疎開はいやだなあ」という会話だったり、「もうすぐお父ちゃまのところへ行けるのよ」という母親の言葉だったり、ゴジラ急襲後に放射能反応を示される子どもたちの姿だったり……。  前代未聞の娯楽性の中に、この国が背負った明確な傷跡と、自らを含めそれを起こした人類への怒りを刻み込んだからこそ、この特撮映画は「特別」なものになったのだろうと思う。 
[CS・衛星(邦画)] 10点(2003-09-29 12:12:36)(良:2票)
162.  大誘拐 RAINBOW KIDS
夏の訪れを感じる豪雨の中、山間の自動車道を走っていた昼下がり、この映画を思い出す。 それなりに沢山の映画を観てきたが、ふと思い出したならば、もう無性に観たくなるという作品が幾つかある。 岡本喜八監督のこの娯楽映画は、そういう映画の確固たる一つだと思う。   日本が誇る娯楽映画の大巨星、岡本喜八が描き出したこの数奇な誘拐劇は、映画としての痛快さや爽快さを大胆に散りばめた上で、真っ直ぐに「娯楽」という要素を極めている。 主演女優の偉大さからストーリー展開の巧みさまで、特筆すべき点は多々あるが、この映画の場合、台詞回しを覚えてしまう程、何度観ても心底面白いその「愛着感」こそが、最大の価値だと思う。   「ああ、今日もお山が綺麗や」  映画のラスト、この物語に登場する総てのキャラクターと、この映画を愛する総て観客を魅了した“主人公”がそう言い、締める。  これから先も、夏の山の美しさを感じる度に、この日本娯楽映画史上の最高傑作を、幾度も観たくなることだろう。
[CS・衛星(邦画)] 10点(2003-09-29 12:06:30)
163.  七人のおたく cult seven
なんともう26年も前の映画であるということに、少々引いてしまう。 滅茶苦茶にご都合主義で、バブル臭を引きずったテレビ屋が作ったのであろうテレビ局映画だけれど、好きなんだから仕方がない。 個性派揃いのチームものは大好きな娯楽ジャンルのの一つだが、その趣向の発端となったのは、この映画だと思う。 26年前の映画なので何せ皆さん若い!山口智子色っぽい! 実は全然“おたく”ではない山口智子演じるりさが、一番体を張っているのも面白い。あのグライダーはどうやって降りたのか?危険すぎるやろ。 バブルガムブラザーズの主題歌によるエンディングが、満足感と高揚感に拍車をかける。
[インターネット(邦画)] 10点(2003-09-29 11:39:39)(良:1票)
164.  ターミネーター2
怒涛のアクションシーンや秀逸なVFXもさることながら、この映画に漂う金属的で無機質な世界観はとても見事だと思う。このような統一された世界観を作り出すことができるのが優秀な監督の手腕だと思う。名セリフ、心に残るラストシーン、この映画が残したものは映画史に残る偉大なエンターテイメント性だった。
10点(2003-09-29 01:45:58)
165.  ターミネーター
最新作「新起動」を観る前に、オリジナルを“おさらい”しておかなければ!と思いたち、相当久しぶりに1984年の第一作を鑑賞。  改めて観返してみると、記憶に無いシーンが随分と多かった。続編である「T2」は散々繰り返し観たものだが、よくよく考えてみればこの第一作目は、子供の頃に観たきりだったかもしれない。 そして、忘却してしまっているというよりも、民放のテレビ放映版を観たことしかなかったため、大部分がカットされていた可能性が高いようだ。 そういうこともあり、僕自身が3歳の頃の映画を殊更フレッシュに楽しむことができた。  エンターテイメント性の高い「T2」に比べて、この第一作目が“疎遠”になっていた理由は明らかだ。 それは、少年時代にこの映画を初めて観た時の“恐怖心”に対してのトラウマが確実に残っていたからだと思う。 今、大人になって観返してみても、ラストの恐怖感と緊迫感は物凄い。それこそ、30年前の映画であることを忘れさせるくらいにフレッシュで、ただただ面白い。  “無名のボディービルダー”を感情を持たない殺人マシーンに配し、その肉体を剥ぎ取られてもなお執拗に追わせることにより、類まれな「恐怖」という娯楽性を生み出したこの映画の「発明」は、あらゆる意味で映画的価値に溢れている。  ただ逃げ惑うだけのウェイトレスだったヒロインが、クライマックスでは自らを助けにきた未来の戦士に対して「立ちなさい!」と叱咤する。 それはまさに、ヒロインが自らの運命を受け入れ、“未来”に向けて覚醒した瞬間だった。
[CS・衛星(字幕)] 10点(2003-09-29 01:38:57)
166.  アウトブレイク
新型インフルエンザが流行し、新しい言葉に弱い日本人は「パンデミック」という言葉に踊らされ、少々過剰な反応を連日していると思う。 「パンデミック」の真の恐怖とはこういうことだということを、再確認するべく、何年ぶりかに「アウトブレイク」を観た。  ドイツが生んだエンターテイメント映画監督の名匠ウォルフガング・ペーターゼンによる今作は、“死のウィルス”の感染拡大によるパニックを恐怖と娯楽性たっぷりに描き出した優れた映画だ。 1995年の映画だが、そのストーリー展開は決して当時の一過性のテーマではなく、今まさに現実に起こり得る「恐怖」を巧みに描き出していると思う。  現実的な恐怖を浮き彫りにするストーリー性もさることながら、あくまでエンターテイメント映画としての要素をそつなく盛り込んでいることに、この監督の作家性を感じる。 主演のダスティン・ホフマンがまだまだ元気で、彼の演じる軍の医官の有り余る行動力がヒーロー的過ぎたり、解決の顛末があまりにご都合主義だともとれるかもしれない。 がしかし、そういうものこそが、娯楽映画の「王道」であり、決して否定すべきことではない。  主人公がワクチンを作成し、ウィルスに感染した元妻(レネ・ルッソ)を死の直前で救うことでラストを迎える。快復した元妻に復縁を望む主人公に対し、元妻は笑顔でこう応える。  「免疫もできたしね」  上手い。  名優ダスティン・ホフマンを筆頭に、モーガン・フリーマン、ケビン・スペイシー、ドナルド・サザーランド、キューバ・グッティング・Jr.らが脇を固め、とても深い面白味がある映画だと思う。
[映画館(字幕)] 10点(2003-09-28 17:54:12)(良:1票)
167.  ジュラシック・パーク
最新作「ジュラシック・ワールド/新たなる支配者」の劇場鑑賞前に、シリーズ全作を見返してみようと思いたち、1993年の第一作を久しぶりに鑑賞。 劇場での初鑑賞から二十数年あまり、幾度も見返していると思うが、映画史に残る娯楽超大作のエンターテイメントは決して色褪せない。 巨大な恐竜たちを造形するCG技術は、当然ながら最新技術のそれと比べると見劣りはするけれど、映像としての見せ方、映画としての表現方法の巧さは、むしろこの時点で完成されていて、見劣るものではない。 スティーヴン・スピルバーグが映画の神様として、今なお数十年以上に渡って映画界の頂点に君臨し続ける理由が凝縮されている。  本作を彩る魅力は映像技術、演出、キャスト様々だと思うが、今回改めて鑑賞して特に感じたのは、子役二人の多彩な表現力だ。 多感で活発な姉弟を演じたアリアナ・リチャーズとジョセフ・マッゼロが、本作のアドベンチャー性の根幹を担っていると言っても過言ではないだろう。 夏休みのレジャー感覚でパークに訪れた二人が、突如恐怖とパニックのるつぼに放り込まれ、泣き、叫び、決死の冒険の果てに、勇気を身につける。そのジュブナイル描写もスピルバーグ監督の十八番であり、ホラーとアドベンチャーのバランス感覚が絶妙である。 そんな中で、泥と血に塗れながら、主人公のグラント博士(サム・ニール)と共にサバイバルを生き抜く姉弟を体現したこの二人の子役の存在感は何にも代えがたい価値を放っていた。  勿論、サム・ニールをはじめ実力者揃いのキャストの布陣にも隙はなく、当時まで黎明期だったCGによる映画製作の中であっても、安定感がありかつ魅力的な演技をそれぞれが見せてくれている。(ブレイク直前のサミュエル・L・ジャクソンの存在も見逃せない)  そんなオリジナルキャストも揃うらしい最新作。そりゃあ楽しみだ。
[映画館(字幕)] 10点(2003-09-28 17:06:38)
168.  トレマーズ
映画好きであれば避けては通れない作品がこの「トレマーズ」である。そう言っても過言ではないほどもはやこの映画は世の中に知れ渡っている(と、確信する!)。まさにB級モンスター映画であるこの作品のパワーは計りしれない。地底に潜む謎の巨大生物が地上の人間に襲い掛かる!と、あまり言葉を並び立ててもB級映画の枠を出ないので、とにかく観てもらうしかない☆
10点(2003-09-28 02:33:36)(良:1票)
169.  レオン/完全版
この作品に漂うあらゆる「感情」。脚本・演出・カメラワーク・演技・音楽、すべてが完璧なこの映画のもっとも秀逸なものはそれらが紡ぎ出すすべての「感情」だ。愛・恋・恨み・妬み・絶望・希望・開放……私の大好きなこの映画にはすべてがある。
10点(2003-09-27 19:28:53)(良:1票)
170.  レオン(1994)
この映画がなければ私は今ほど映画が好きではなかったかもしれない。そう思うほど私にとって今作は衝撃的かつ感動的であった。脚本、演技、カメラワークとあらゆる面で私の映画における可能性を広げてくれた作品だった。
10点(2003-09-27 19:12:50)(良:1票)
171.  デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション[前章]
本当は直視しなければならない「日常」の中に潜む「非日常」を、具現化して、切実に茶化して、女子高生たちを中心にした群像劇に落とし込む“くそやばい!”寓話。
[映画館(邦画)] 9点(2024-04-09 20:37:57)
172.  オッペンハイマー
流石に凄まじい映画だった。 題材ゆえに日本公開が先延ばしになったが、これは日本人だからこそ鑑賞して、様々な感情をめぐらせるべき映画だろう。 歴史や人間の功績は、常に闇と光を併せ持ち、“視点”によって、断罪と称賛は入れ替わり続ける。
[映画館(字幕)] 9点(2024-03-31 22:17:15)
173.  別れる決心
出会ってしまった男と女。 刑事と被疑者の二人が、惹かれ、癒やし、慈しみ、そして「崩壊」へと突き進む。  描き出されるストーリーを表面的に要約してしまえば、ありがちなメロドラマであり、古典的なサスペンスに思えるけれど、映画の中の人物たちの心象風景と、卓越したビジュアル表現が織りなす映像世界の情感が、パク・チャヌク監督によるありとあらゆる映画表現で見事に融合し、とてもとても豊潤で複雑な人間模様と世界観を構築している。  観終わった後に、本作がパク・チャヌク監督作であるということを知り、納得と驚愕が同時に生まれた。 全編通して繰り広げられる特異で挑戦的な映画表現は、監督が只者ではないことを雄弁に物語っていたけれど、この淡々とした語り口の映画が、「オールド・ボーイ」や「お嬢さん」等のフィルモグラフィーにおいて血みどろで烈しい映画世界を生み出してきたパク・チャヌクとは直結しづらかった。 主人公の刑事は敏腕で屈強だが血みどろの現場が“苦手”という設定や、これまでの作品と異なり過度なセックス描写を排するなど、これまでの作風とは一線を画する作品づくりからは、監督の自らの作風に対しての挑戦も感じる。  刑事と被疑者、遠くて近い関係性が、純愛を織りなす。  取り調べも、監視も、尾行も、殺人現場の検証も、刑事の男と被疑者の女が共に過ごす時間のすべてが、二人にとっては何にも代え難い逢瀬の一時に見えてくる。 (取り調べの最中、美味しい高級寿司を二人でもぐもぐ食べた後、テキパキと机の上を片付ける阿吽の呼吸で、会って間もない二人の人間的な相性の良さを表現するなど、何気ない描写の一つ一つがとにかく巧い) そこには当然ながら、職責や打算も存在していただろうけれど、事件を通じた逢瀬を重ねるに連れ、そんな思惑すらも相手を想う感情へと同化していく。  主人公の刑事チャン・ヘジュンは、元来殺人事件の被疑者に没入し、彼らを身近な人間と捉えて捜査を進めるタイプで、そんな彼がファム・ファタールのように現れる被疑者の女にのめり込んでしまうのも、必然だったのだろう。 一方の夫殺しの被疑者ソン・ソレは、或る事情で中国から逃れてきた不法移民で、夫からのDVと果たすべき本懐を秘め続ける中で、事件を起こし、ヘジュンと出逢う。 出自も社会的地位も全く異なる彼らは、出逢うべくして出逢い、非業な運命を共にしたようにも見える。  ただ、彼らのすべての言動や感情は、その運命を支配するものから俯瞰されているかのように映し出される。蟻が這う死体の眼球、骨壺の中の遺灰、スマートデバイスの画面……。 ニーチェの「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」の如く、凝視したり、監視したり、見つめたりする彼らの視線は、常に“何か”から見つめ返されている。  その深淵たる“何か”とは、神なるものかもしれないし、運命そのものかもしれないし、彼ら自身の深層心理かもしれないけれど、それはきっとすべての人間が時に感じる“視線”の正体なのだろうと思える。 そういった人間の本質的な業にも当てはまる或る種の哲学性を根底に敷き詰め、その営みの愚かさや滑稽さや愛おしさもすべてひっくるめて映画表現の中に詰め込んでみせたことが、本作の類まれな豊潤さに繋がっている。  休日の午後に字幕版で鑑賞して、とてもとても一言では言い表せない映画に対する感情に悶々としつつ、その日の深夜に吹替版で再鑑賞した。 無論まずは字幕版で鑑賞すべきだと思うが、本作の映画的物量の多大さは、初見で字幕を追いながらでは本作の本質を処理しきれていないことも否定できなかった。吹替版で鑑賞し直したことでよりすっきりと本作の情感が腑に落ちたことは間違いない。ただ、本当は、韓国語も中国語もある程度理解したうえで、オリジナルを鑑賞できることが理想的だろうと思う。   彼らが辿り着いた決別は、あまりにも切なく、あまりにも哀しいけれど、彼女の隣でのみ深く眠ることができた束の間は、二人にとって何にも代え難い時間だったのだろう。 その一瞬の微睡みのような逢瀬に心が締めつけられる。
[インターネット(字幕)] 9点(2024-02-23 17:06:08)
174.  女神の見えざる手 《ネタバレ》 
“ロビー活動”という政治活動自体に対する認識が、僕自身はもちろん、日本の一般社会においてはまだまだ薄いことは明らかで、その活動を専門的に請け負う“ロイビスト”と称される職業があることもよく知らなかったことは否定できない。 ただだからこそ、そのロイビスト業界と、その中で辣腕をふるう天才ロイビストを主人公にした本作は、とても興味深く、エキサイティングだった。  「勝利」に対して努めて冷徹で、職務に対して極めてソリッドな主人公をジェシカ・チャステインが抜群の存在感で演じている。 冷ややかな美貌を携え、最小限の感情表現しか見せないその佇まいは、この主人公のキャラクター性にまさしく合致しており、見事に役柄に憑依していたと思える。 完全無欠の主人公像ではあったが、彼女が時折垣間見せる僅かな感情や、確実に存在する人間的な脆さや一寸の隙が、とても丁寧に描写されており、ジェシカ・チャステインはその感情の機微も含めて素晴らしい塩梅で演じきっていた。  銃規制法案を巡るキャンペーン活動をストーリーの軸として、現在のアメリカ社会における様々な立場の人間たちの思惑が入り交じるストーリーテリングも、深刻な社会的課題と、個々の人間の本質を浮き彫りにしていく巧い脚本だった。 個人的な見解として銃規制そのものは「正義」だと思うけれど、劇中でも描き出されるように、銃によって“結果的”に守られた安心や命があることも事実として存在している。 アメリカという良くも悪くも多様性が極まる社会環境においては、一つ一つの環境や個人の人生観によって、物事の価値観が180度食い違うことも必然だろう。  そんな難しい社会環境において、では何を「正義」とし、何を「悪」と断ずるべきかということを、本作の主人公は最後の最後、変わらない冷徹な眼差しで真っ直ぐに伝える。  勝利という唯一無二の目的を達成するために、敵も味方も含めて周囲の人間総てに対して「真意」を隠し通す主人公は、多くの疑念や困惑、そして憎しみを生み出していく。 でも、そんな彼女もシーンの端々で、一瞬の人間臭さを見せる。終始冷徹で自信と確信に満ちた目線で周囲の人間と社会そのものを睨みつける主人公だけれど、その一瞬に垣間見せる目線は一転して酷く弱々しく、また優しく見える。 そんな彼女の根幹的な部分に見え隠れする人間らしさこそが、最終的には彼女自身を救った要因だったようにも思えた。   ラスト10分、積み重ねたキャリアを放棄してしまうことよりも、必要な“休暇”のために、自らの“偽証”を本当の奥の手として秘め続けたロイビストの矜持に震える。 そしてストーリー上では何も明示されていないけれど、彼女自身にもこの仕事に人生を捧げる理由や過去が存在していたようにも感じられ、その敢えて描き切らないストーリーテリングの在り方も素晴らしいと思った。  おそらくは1年余の“休暇”を終え、外に出た主人公が目にした相手は誰だったのか。 本作に登場したすべての人物に加えて、描き出されていない人物すらも、その対象として想像できる。 ジェシカ・チャステインの読み取りきれない眼差しによる何とも巧いラストカットにまた震える。
[インターネット(字幕)] 9点(2024-01-07 01:18:40)
175.  チィファの手紙
映画の“リメイク”は、古今東西数多あるけれど、同じ映画監督が「製作国」を違えてリメイクをすることは、実はなかなか珍しい事例なのではないか。 どうやら、そもそも同じ物語を別々の国(日本・中国・韓国)で映画化するという企画だったようだが、岩井俊二監督自身によるその着想は、とてもエモーショナルな映画世界上の多様性を生み出していた。  2020年に公開された「ラストレター」の中国版リメイクという認識のまま、ハイティーンからの岩井俊二ファンでありながら、今の今まで未見だった本作。 そこには、中国市場に向けた安易なリメイクなんだろうという誤解と、何となく日本版以上のクオリティは期待できないだろうという勝手なレッテルが存在していたと思う。  ただ、よくよく考えてみたならば、「作者」である岩井俊二自身が、両作とも監督している以上、そこにオリジナル、リメイクの境界などそもそも存在しなかったのだろう。 しかも、企画の経緯と、実際はこの中国版の方が先に製作され公開されていたことを知って、つくづく自分の浅はかさを感じた。 そして、繰り広げられたのは、見紛うことなく岩井俊二の映画世界であり、日本版と同等の傑作だったと思う。  出演する中国人俳優たちのことをまったく知らないので、松たか子、福山雅治、広瀬すず、神木隆之介ら日本版キャストに感じた華やかさは当然ないけれど、日本版と比較して何か違和感を生じるようなキャラクターや演技は皆無で、俳優たちの確かな実力と魅力が滲み出ていたと思う。  必然的に殆ど同じストーリーテリングでありながらも、国と文化の違いにより、この物語そのものが孕む“光”と“闇”の陰影が、より一層くっきりと深まって見えたことがとても印象的で、興味深かった。 特に「死」に対する諦観めいたドライさが、この中国版では際立っており、その仄暗さに対する、ストーリー展開上のコメディやノスタルジーとの対比が、日本版とは異なる芳醇な人間模様を映し出していたように感じた。  それは、映画的に日本版と中国版のどちらが優れているとかそういうことではなくて、同じストーリーを同じ映画監督が撮っても、明確に「差異」が生まれ、それがまた一つの創作物の魅力になることの証明だった。まさにこの「差異」こそ、岩井俊二の“たくらみ”だったのだろう。  悔恨と絶望の淵に立たされた小説家の男が、二人の眩い少女との偶然の邂逅により、癒され、救済がもたらされるシークエンスに、日本版と同じくふるえて泣いた。
[インターネット(字幕)] 9点(2023-09-26 22:31:50)
176.  ザ・メニュー 《ネタバレ》 
「料理」というものを突き詰めた結果、たどり着くのは果たして、“奉仕”だろうか、“芸術”だろうか。いや、“狂気”だった。 人間にとって不可欠なプロセスである「食事」を対象にして、更にその欲求を高め、娯楽性を生み、古くから享楽の境地にまで達した「料理」には、元来人を狂乱させる要素を多分に孕んでいるものなのかもしれない。  何のために料理をするのか、誰のために料理をするのか。 いつしかそれを見失ったまま、その“行為”を極限まで追い求め、高め抜いた結果、そこに群がる高慢と強欲の餌食となってしまった一人のシェフによる、狂気的な芸術と奉仕。 それは一見すると、究極的な“逆恨み”による復讐劇のようにも見えるけれど、本作が最終的に描き出したものは、もっと達観していて、もっとイカれた、至高の料理人による「表現」であった。 彼にとっては、自分自身の料理に群がり渦巻く愚かな人間たちの“業”そのものと、それに対する怒りや悲しみや絶望が、もはや料理を彩るための“スパイス”や“隠し味”にしか捉えられなかったのだろう。  シェフの絶望と狂気は、彼と彼の料理を妄信的に信奉するすべてのスタッフ、そしてさらにはゲストたちにも伝染していく。 料理、そして食事の本質を見失い、“高額な美食”というステータスに執着する人間たちが、このレストランに来る前からそもそも抱えていた虚無感と闇が、ラストの“デザート”を迎える頃には充満していたように思える。  そして最終的には、ゲストも含め、レストラン内に残った全員がこの“メニュー”の終着を心から望んでいたようにすら見えた。 劇中シェフ自身からも言及されている通り、“メニュー”による理不尽や暴力に対して、客たちは結託していくらでも抗い闘うことができたはずだが、彼らは「美食」というレッテルにただ支配され、殆ど抵抗らしい抵抗をすることもなく盲目的に受け入れてしまっている。 その虚栄心に満ちた客たちの無理解と浅はかさこそ、このシェフが狂気に殉じた起因なのだろう。  そうしたすべての顛末を、達観した強い眼差しで眺めながら、冷めたチーズバーガーを頬張るアニャ・テイラー=ジョイの表情が堪らない。 アニャ・テイラー=ジョイが主演としてメインを張った時点で、彼女がこの地獄絵図を生き残ることはある意味必然(「スプリット」の“ビースト”から生き延びたのだから)だったろうが、相変わらずの眼力でシェフと観客を魅了している。  主演女優をはじめ、配役とそれぞれの演技も素晴らしかった。 狂気の料理人を体現しきったレイフ・ファインズは、彼の芳醇なキャリアにおいても特筆すべき印象的な演技を見せ、劇中のレストランのみならず、本作そのものを支配していたと思う。 個人的に長らくファンのバイプレイヤー、ジョン・レグイザモの安定した存在感、ベトナム系女優ホン・チャウのおぞましい立ち位置も見事だった。 彼らを筆頭に、様々な人種が混在するレストラン内の面々がこの世界の縮図を表していたのだとも思う。 そして、実はシェフよりもよっぽどサイコパスだったグルメマニアを演じたニコラス・ホルトのキャスティングも抜群にハマっていた。  冒頭のスタッフの宿舎を案内するシーンでの「燃え尽きることはないのか?」というゲストの何気ない発言だったり、「シェフは死と戯れる」、「すべてを受け入れて赦すのです」といった序盤の様々な台詞回しが、“メニュー”の伏線となっていくストーリーテリングも見事。
[インターネット(字幕)] 9点(2023-09-16 23:45:12)
177.  ワイルド・スピード/ファイヤーブースト
えっ!?ええっ!!?えええっっ!!!の連続。それは、このアクション映画シリーズを愛し、この第10作に至るまで堪能してきたファンにのみ許された特典的なエキサイティング性だったかもしれない。 無論、必ずしも“一見さんお断り”というわけではなく、圧倒的物量のアクションシーンと怒涛のスペクタクルは、誰が観ても高揚する娯楽性を放っていたけれど、その根底にあるのはやはり、本シリーズのファンも含めた“仲間”に対する「家族愛」であり、シリーズを追い続けてきたからこそ得られる高揚感が確実に存在していた。  「ワイルド・スピード(原題Fast & Furious)」の最新10作目にして、最終章の前編となる本作は、常識や現実なんてものは、もはや遠い彼方に置き去りにしたアクション&ファンタジーとして、堂々と仕上がっている。本作の“あり得ない”描写に対して、揶揄したり、鼻白んだりすることしか出来ないのであれば、もうそれはこの“車”からお降りいただくしかない。  最終章を描くにあたって、敵味方を含め過去9作に登場してきたキャラクターたちを“総動員”させようという心意気も嬉しい。 それは、“ファンサービス”と言ってしまえば確かにその通りかもしれないけれど、去ってしまった仲間に対する敬愛、そして倒してきた敵からの憎悪の連鎖とが入り交じる本シリーズの人間模様の総決算でもあり、相応しい顛末に感じた。  シャーリーズ・セロン演じる最凶の敵サイファーが、いきなり呼び鈴を鳴らして訪ねてくる冒頭シーンに驚き、絶対に死亡していたはずの“ワンダー”な女性キャラの再登場に高鳴り、“不仲”が伝えられていた最強捜査官の復帰に歓喜した。  そして、ジェイソン・モモア演じる本作の敵ダンテのイカれジョーカーぶりも最悪で最高だった。 本作においてドムの追撃をことごとく阻み、ついには“ファミリー”を「崩壊」にまで至らしめたこの悪役の暴れっぷりと狂いっぷりは、近年のヴィランの中でも随一の存在感を放っていたと思う。  キャラクター的にはもう一人、前作で悪役として登場したドムの実弟ジェイコブも、その“キャラ変”ぶりが最高の一言だった。ドムの息子“リトル・B”との道中のやり取りは、その微笑ましさと痛快さに終始ニッコニコ状態。この叔父・甥コンビのロードムービーだけで1本の映画が作れるのではないかとすら思えた。 ジェイコブは、前作からの禊も含めた涙腺崩壊必至の“離脱”となるけれど、本作の世界観が描いてきた「常識」を踏まえると、ほぼ確実に、「ジェイコブ叔父さんは帰ってくる」だろう。  というわけで、本作は「前編」として、ある意味最高にエキサイティングな終幕を迎える。2025年公開の次作が待ちきれないところだが、本シリーズが積み重ねてきた10作分をじっくり観返して待つとしよう。  何度も何度も大切な仲間たちを生き返らせてきた「ワイルド・スピード」の最終作であれば、しばらく不在の“もう一人の主演俳優”も、まるで何もなかったように復活するに違いない。と、非現実的なことを信じずにはいられない。
[インターネット(字幕)] 9点(2023-09-03 01:07:37)
178.  ザ・フラッシュ 《ネタバレ》 
エンターテイメントとしてのシンプルなエキサイティングさで言うならば、本作の娯楽性は、この2〜3年でトップクラスだ。 クライマックスで映し出される“異様”なビジュアルの通り、まさに破綻し混濁したストーリーテリングを、あらゆる側面から申し分ないボリュームで描き出している。 その上で、最終的にはきっちりとこの世界観に合致したテーマ性と哲学性、さらには普遍的な感動を浮かび上がらせみせたちょっと奇跡的な映画だったとすら思える。  当初のDCコミックのユニバースとして製作されていた“DCエクステンデッド・ユニバース”は、紆余曲折、すったもんだを経た上で結果的に頓挫する格好となってしまったようだ。 なんだかんだ言って「ジャスティス・リーグ」は、劇場公開版も、ザック・スナイダー版もスーパーヒーロー映画として「アベンジャーズ」にも勝るとも劣らないエンターテイメント性を備えていたと思うし、その前後に製作された「ワンダー・ウーマン」、「アクアマン」の単体作品は傑作だったと断言できる。 ベン・アフレックが演じたバットマンも、ヘンリー・カヴィルが演じたスーパーマンも、そしてもちろん本作でエズラ・ミラーが演じたフラッシュも、一癖も二癖もあるとても魅力的なスーパーヒーロー像を体現していただけに、もう事実上“ジャスティス・リーグ”として再結成されないことはとても残念に思う。 がしかし、それと同時に、その決して纏まりきらず、我の強い圧倒的「個性」こそが、DCコミックのスーパーヒーローたちの真髄だったのではないかと思える。  そして、その個性と個性がぶつかり合うことで起き得る混濁や化学変化や消滅(すなわちインカージョン)こそが、本作「ザ・フラッシュ」が描き出した世界観にメタ的に繋がっているように思えた。  この世界は常に無数の現実と、それらに連なる無数の可能性連続の中で、フェナキストスコープ(回転式アニメ)のように存在していて、誕生と消滅を繰り返し続けているということを、本作は、極めてダイレクトな映像表現と、超高速ヒーローのひたすらの疾走によって映し出している。  最愛の母が死んでしまった少年がスーパーヒーローとなり、“ジャスティス・リーグ”の一員として世界を救うユニバースもあれば、同時進行の別次元では、母の死は免れたけれどスーパーマンもバットマンも現れず、異星人に地球が征服されてしまうユニバースも確実に存在するということ。  それがすなわち“マルチバース”ということに他ならないが、本作はそれを更にメタ的に踏み込み、この世界に“実現した映画”と、この世界で“実現しなかった映画”を大胆に絡み合わせて、あまりにもユニークに我々に見せてくれている。  そういう、無数の運命の無限の可能性と同時に、一つの運命の不可逆性にも気づき、対面した主人公の“決断”が、非常に悲痛であり、故にスーパーヒーローに相応しいエモーショナルを生み出している。 全編通して娯楽大作らしい大スペクタクルを映し出しながらも、その主人公の最後の葛藤を描き出すシークエンスは、とてもありふれた“ある場所”で描き出されていることも、本作のテーマの本質に相応しい演出であり、素晴らしかったと思う。  ズッコケ演出のオープニングクレジットから始まる、貫かれたコメディ演出にも、優れたバランス感覚と「娯楽映画」そのものに対する意地を感じた。 マイケル・キートンの大活躍を観ながら、「そういえば“あの人”も一瞬バットマンだったよなー」という全映画ファンの思惑に呼応するラストカットも実に小気味いい。  “トマト缶”の位置を変えた影響が、ハリウッド屈指の映画人同士の立ち位置をあべこべにしてしまったのかしら?とメタ的空想を巡らせると、益々面白い。
[映画館(字幕)] 9点(2023-07-01 00:19:45)
179.  花束みたいな恋をした 《ネタバレ》 
この2年あまりの間、いつ観ようかいつ観ようかとずうっと思いつつも、そのタイミングを逸し続けていた恋愛映画をようやく観た。 巷の評判から想像はしていたけれど、やっぱりものすごく堪らない映画だった。  公開当時、最初にこの映画の予告をテレビCMで観たときは、何とも甘ったるいタイトルと、人気の若手俳優を配置した安直なキャスティングに対して、なんて安っぽい映画なんだろうと嘲笑してしまった。 実は個人的に、菅田将暉と有村架純という本作の主演俳優の両者をあまり好んでいなかったこともあり、全く興味を持てなかった。 ただその直後、脚本が「最高の離婚」「カルテット」他数多くのテレビドラマの傑作を生み出している坂元裕二であることを知り、各方面からの評判が耳に入ってくるようになり、次第に「あれ、まずいな」と思うようになった。さてはこれは「未見」は不可避な作品なんだろうと。 そうして鑑賞。僕は結婚をして12年以上になる。「恋愛」という概念からはもう遠く離れてしまったれっきとした中年男性の一人としても、本作が放つ短く淡い輝きは、儚く脆いからこそ、忘れ難いものとなった。   最初のシーン、カフェに居合わせた主人公の二人が、同じ価値観のもとにある行動を起こそうとしてふいに目を合わせる。 そのさまは、誰がどう見ても恋の“はじまり”に見える。 そこから紡がれる二人の5年間の恋模様と到達点が、美しく、切なく、愛らしく描き出される。 決して、特別な恋愛を描いた作品ではない。 本作の終盤でも描き出されるように、世の中のあらゆる場所、あらゆる時代において、まったく同じように若い男女は出会い、花束みたいな恋をする。 ただし、その恋は、両者の成長や変化と共に形を変え、次の全く別のステージへと両者を促す。 花束は、次第にしおれて枯れてしまうこともあろうし、別の場所で根をはることもあろう。  彼らの道のりはとても美しかった。あと一歩だった。 それ故に、あまりにも瑞々しくて輝かしい新しい“花束”を目の当たりにしたとき、もうあの時と同じには戻れないということを思い知り、届かない一歩の大きさを痛感したのだ。  はじまりは、おわりのはじまり。 有村架純演じる絹は、自らの恋のはじまりに、その言葉を思い浮かべる。 菅田将暉演じる麦は、自らの恋の終わりのその先に、ささやかな奇跡を見つける。  そう、この映画の終わりが、“おわり”なのか“はじまり”なのかは、実は誰にも分からない。
[インターネット(邦画)] 9点(2023-05-22 10:59:04)
180.  バビロン(2022)
“映画史”そのものが混濁とした映像の渦となって映し出されるラストシーン。 映画という表現の「革新」と「核心」を目の当たりにして、積年の感情が満ち溢れる主人公を大写しにしたラストカットで、スクリーンに映写された画面がぴたりと止まった。 3時間に渡って映画がもたらす魔法と虚構、そして狂気を見せつけられてきた私は、その“フリーズ”状態に困惑しつつも、デイミアン・チャゼル監督による何らかの意図だと信じ切って、体感にして10分以上、そのまま静止したスクリーンを観続けた。 暗がりの中、他の観客がみな席を立ち、ひとり取り残される格好となっても、その真意を探ろうと、映画世界を思い返しながら、微動だにせず凝視していたところ、おずおずと劇場スタッフが現れた。  なんと、映画館側の映写トラブルだった。 映画館に通うようになって30年以上経つが、こんな経験は初めて。こんなことが、この映画の、このラストカットで発生するとは。 無論、映画館側の失態であることは明らかで、今後無いようにしてほしいが、これはこれで稀有な映画体験だったと思う。残念な気持ちも無くはないが、何かの奇跡が働いて、イカれた映画世界に取り残されてしまったような感覚も覚えた。   「世界で最も魔法に満ちた場所」  ブラッド・ピット演じる無声映画時代の大スターは、映画製作の現場(セット)を「世界で最も魔法に満ちた場所だ」と言う。それは、本当に間違いないことだ。 どれほど狂気と非常識が渦巻いていても、フィルムに写し込まれた虚構がもたらす感動が、そのすべてを凌駕する。 その様はやはり「魔法」という言葉が相応しい。  だがそれが「魔法」である以上、非情な“リミット”と共に解けてしまうことも必然。シンデレラは夢のような一夜の後、冷酷な継母の元へ戻らなければならない。 まさしく栄枯盛衰。本作が、かつてメソポタミアに存在した世界最大の古代都市の名称を冠されていることは、そのあまりにも盛大な虚構の儚さを、ダイレクトに表している。  だがしかし、だ。 たとえ魔法のような“一時”であったとしても、そこで輝くことの業と意義を、この映画は奇声のごとく叫ぶ。 ゴシップ誌の記者が諭すように、一瞬だろうとなんだろうと、一度フィルムに焼き付けられた輝きは、時代を超えて残り続け、生まれてもいない見ず知らずのどこかの誰かに感動を与え続ける。 そう、それが「映画」なのだと。   冒頭のイカれたパーティーに象徴されるように、正直、というか絶対的に、“綺麗”な映画ではない。 “文字通り”クソとゲロに彩られた汚物まみれの映画であることは間違いない。 作品的も支離滅裂な要素が多々あり、全世界的に渦巻く賛否両論も多分に理解できる。 でもね、その汚物まみれの映画世界を描きぬいているからこそ、これほど“映画愛”に満ち溢れ、逆流しているような映画も他にないと思える。  「映画」を構築するすべてが、嘘や欺瞞、虚栄と虚構で成り立っているという本質を、この映画に登場するすべての人物、作品の作り手、そして我々鑑賞者の全員が「理解」している。 それでも、私たちは、映画を作り続け、映画を観続け、映画を愛し続ける。  「映画」はクソだ!でも、なんて素晴らしい! “奇跡的”にも、時間が静止した10分間のラストカットで、私はその映画愛にまんまと侵食されてしまったようだ。
[映画館(字幕)] 9点(2023-02-19 06:51:10)
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