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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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161.  地下室のメロディー 《ネタバレ》 
ロートルと青二才の悪党がコンビを組んで、或る犯罪計画に挑む。 今作の後に製作された多くのケイパー映画(強盗映画)で、同様のプロットが幾度も用いられてきたことからも、公開当時この映画がとてもセンセーショナルだったのだろうなということは充分に感じられる。 基本プロットのみならず、エレベーターの天井裏に潜むサスペンスだったり、エアダクトからの侵入のスリリングさだったり、後世の様々なサスペンス映画やアクション映画で登用され続けているアイデアの数々が印象的だった。  また久しぶりに古いフランス映画を観たけれど、この国の映画表現の手法や感覚は、日本映画のそれととても近しいものを感じた。 冒頭の老犯罪者とその妻のぬったりとしたやり取りや、良くも悪くもある鈍重なストーリーテリングなど、特に古い日本映画とは空気感的な類似性を強く感じる。 フランスで、日本のアニメや、北野映画が愛される理由が、改めてよく分かる。  60年代の犯罪映画として、とても味わい深い作品だとは思う。 ただ、娯楽映画単体として面白かったかというときっぱりとそうは言い切れない。 やはり、内容のわりにストーリー展開が鈍重に感じてしまったことは否めないし、クライマックスからラストシーンに至る一連の話運びにおいても、唐突で希薄な印象を受けてしまった。  犯罪行為の愚かさと無常さは、印象的なラストシーンによって如実に感じることはできたけれど、全体的にもう少し歯切れよく展開してくれた方が、今作の物語性には合っていたように思える。   主演したジャン・ギャバンとアラン・ドロンは、両者とも流石の存在感を放っていたと思う。 アラン・ドロンは、中々特異な人生経験の上で俳優になり一気に世界的スターになったようで興味深い。 彼の主演映画は「太陽がいっぱい」くらいしか鑑賞していないので、引き続き他の作品も観てみようと思う。
[インターネット(字幕)] 6点(2021-07-03 15:14:06)
162.  映画大好きポンポさん
映し出されるアニメーションを食い入るように見つめながら、なぜ、涙が出るのかよく分からなかった。 ただ、その「理由」を認識するよりも前に僕は、奮えて、泣いていた。  この世界のすべての映画フリーク、そしてあの世界に憧れ、夢破れ、今なお“表現”することを秘め続けている人たちにとって、このアニメ映画は“唯一無二”になり得る。 映画館を出て、しばし呆然と立ち尽くす中で、かろうじてそういうことを思った。     原作漫画「映画大好きポンポさん」を読んだのは数年前になる。 僕の嗜好性をよく知っていて、誰も知らないようなマニアックな映画漫画(映画を題材にした漫画)をよく貸してくれる友人から、単行本を借りた。 他の映画紹介系漫画とは異なり、ハリウッド(作中では“ニャリウッド”)の映画製作現場を描いたアプローチが新鮮で、とても楽しく読んだ。 キャラクター造形のポップさと真逆を行くような、王道的な舞台裏モノのストーリーテリングが、驚くほどに芯を食っていて興味深かった。  面白い漫画ではあった。ただ、結果的に各漫画賞にも入賞しているとはいえ、元々は漫画投稿サイト「pixiv」に掲載され沸々とビュー数を伸ばした“マイナー漫画”である今作が、まさか“映画化”されるとは思っていなかった。 だから、映画館で大判のタペストリーを見つけて、今作の公開を知った時は、驚きつつも、「酔狂なことをするものだ」と、完全に舐めきっていた。  そんな“舐めきった”映画に完全ノックアウトされてしまうのだから、まったくもって「ざまぁない」。  コミックの1巻のストーリーをほぼ忠実に描いたストーリーテリングは、やはり王道的な内幕モノ+シンデレラストーリーであり、そこに特別な工夫や斬新さがあるわけではない。 ただそこには、主人公ジーンの偏執的なまでの「映画愛」と、彼がそこに至らざるを得なかった人生模様が、より強く、より深く刻み込まれていた。  なぜ僕たちは映画を観るのか、なぜ私たちは映画を作るのか。 その理由や経緯は、実際様々なのだろうけれど、少なからず僕たちは、スクリーンに映し出された“光”を通じて、自らの人生を「投影」している。 そのあまりに本質的な真理に辿り着いた主人公は、自らの存在のすべてを叩きつけ、削り込むように、“映像”を切り取り、そして“映画”として繋ぎ合わせる。  「ようこそ、夢と狂気の世界へ」 というポンポさんの台詞が、クライマックスの展開と共に、より深く突き刺さってくる。 そして同時に、僕にはそのイカれた世界に突き進む「覚悟」が無かったのだなと思い知った。     ちょうど一年くらい前から、趣味で動画作成をするようになった。 今の仕事とか、コロナ禍の生活とか、様々な状況が重なって始めた趣味だったけれど、やっぱり僕はこの“行為”が好きだったのだなと思い知った。 幸か不幸か、僕はこの作品の主人公のように、映画制作に命を懸けているわけではないけれど、それでも彼がPremiere Pro(編集ソフト)の画面を睨みながら、もはや半狂乱的に編集作業に臨む姿には共感を覚えた。  気の遠くなるような膨大な作業量を目の当たりにして、ゾッとすると同時に、さあどう仕上げてやろうかとほくそ笑む。 ヘタクソで冗長な撮影素材の中から、2秒前後のカットを選び取り、1フレームレベルで調整する。 その作業を延々と繰り返して、「作品」と呼ぶにはおこがましいたった数分間の映像を作り出す。 極めてマスターベーション的な行為ではあるけれど、かつての夢の残り香を追うように、僕は動画を作成している。  「才能」も、「覚悟」も無かった自分には、到底辿り着けなかった世界だったろうし、今現在の自分自身の人生に後悔があるわけではないけれど、漫画であれ、アニメであれ、その世界で「自分」を貫き通した人間の姿には、感動を越え、尊敬をせずにはいられない。 その主人公をはじめとする「映画製作」という狂気的な世界の中で生きる人間たちの様相に対して、僕は、色々な感情が渦巻き、高まり、奮えたのだと思う。     映画館から出た直後、すぐさまこの漫画を紹介してくれた友人にメッセージを送った。 「控えめに言って、傑作だった」と。
[映画館(邦画)] 10点(2021-06-24 00:30:43)(良:1票)
163.  るろうに剣心 最終章 The Beginning
予想通り、ビジュアルは爆発している。 「雪代巴」のあまりにも美しく、あまりにも残酷な斬殺の様。雪景色の白と、血しぶきの赤の、無慈悲な色彩。 あのシーンを、実写映画の中で表現しきったことが、この映画における唯一無二の価値だろうと確信した。  原作漫画の「人誅編」の中で主人公緋村剣心によって語られる“回想シーン”の映画化というよりは、やっぱりTVアニメシリーズの放送終了後にOVA作品として制作された「追憶編」の実写映画化という位置づけが相応しい今作。 個人的に、「追憶編」を観た翌日に今作を鑑賞したこともあり、それぞれの作品の良さや、再現性、そして難点も含め比較しつつ堪能することができた。  まずこの映画シリーズ通じての最大の強みでもあるキャスティングのマッチングについては、今作もその例にもれず良かったと思う。 ストーリー展開上、過去作と比べると登場人物自体がそれほど多くはないが、新たに登場する主要キャラクターを演じた俳優陣は、皆それぞれ素晴らしかった。  高橋一生演じる桂小五郎は、倒幕を掲げる長州藩の長としての非情さと、人心を掌握する人間味の深さを併せ持っており、この俳優らしい“あやしさ”を放っていた。 安藤政信が演じた高杉晋作も、「るろうに剣心」に登場するキャラクターらしい良い意味での実在性の無さが、史実における高杉晋作という人物の傾奇者的なイメージとも相まって魅力的だった。  アクションの見せ場を盛り上げてくれる「新選組」の面々も、ビジュアルのアンバランス感がとても漫画的で良かったと思う。 新キャラではないが、斎藤一役として主演の佐藤健以外では唯一の皆勤賞を果たした江口洋介のダンダラ羽織姿もセクシーだった。  そして、キャスト陣の中で最も印象的だったのは、冒頭にも記した通り、雪代巴の美しさと儚さを表現しきった有村架純だろう。 実はこれまで有村架純という女優に対してあまり好印象を持つ機会がなかったのだけれど、今作の有村架純は、まさに雪代巴そのものだと思えた。 何を考えているか分からない表情の無さ、名が表す通りまるで雪のような儚さと美しさ、そしてその中でふいに垣間見える慈愛と強さ。 有村架純の女優としての存在感と、雪代巴というキャラクター性が見事にマッチしていたのだと思う。     映像作品としてのビジュアル、そしてキャスティングには物凄く満足した。 ただその一方で、ストーリー展開、物語の起伏において、もう一つ物足りなさ無さを感じてしまったことも否めない。 それは、OVA版の「追憶編」を観終わった後にも少なからず感じたことだった。  その要因は明確で、即ちこの二つの作品(「追憶編」と「The Beginning」)で描き出されるストーリー展開が、原作漫画における緋村剣心の“回想シーン”の範疇を出ていないということに他ならない。 もちろん、主人公をはじめとするキャラクターたちの心理描写は、より深く掘り下げて表現されている。 ただ、話運びおいては、どうしても中途半端で、感情的に盛り上がりきれない状態で終わってしまう印象を受けてしまう。 それは、必ずしもハッピーエンドや、分かりやすい大団円で終えてほしいとうことではない。  原作においては、この“回想シーン”を「発端」として、怨念と復讐の権化と化した雪代縁との壮絶な戦いの末に、剣心が時代を越えて長らく抱え続けた悲痛と後悔が、本当の意味で“雪解け”を迎えるという展開に帰結する。 言わば、クライマックスに向けての“前フリ”なわけで、そのストーリーだけを単体で捉えてしまうと、どうしても尻切れ感が拭えないのだと思う。 (「追憶編」はOVAという形態であることもあり、「番外編」という位置づけだったのでまだ受け入れやすかった)  この前日譚を敢えて映画シリーズの最終作に据えた試み自体は、面白いと思えたし、決して間違っていなかったと思う。 連作として先に公開された「The Final」や、第一作「るろうに剣心」を思い起こして、今作の後の物語を鑑賞者側が補完することは可能だろう。 けれど、10年も続いたシリーズの最終作とするからには、今作単体で高揚感を極める何かしらのエッセンスがあっても良かったのではないかと思う。  安直だが、倒幕を果たし血塗られた刀を戦地に突き刺して去った緋村剣心の足元が、次第に“るろうに”として新時代の道を歩む姿になり、「おろ?」と振り返る様で終幕する。 そんな1シーンがポストクレジットでもいいので映し出されたなら、それだけでも、この映画シリーズを追ってきた原作ファンとしては十分に高揚できただろう。
[映画館(邦画)] 7点(2021-06-13 14:19:13)
164.  資金源強奪
溢れ出る「昭和」のギラつく雑多感。 人からも、服装からも、街並みからも、すべてから放たれるそのギラギラに圧倒される。 展開される犯罪アクションの卓越したエンターテイメント性もさることながら、映し出される「昭和」そのものが揺るぎない「娯楽」だった。  ムショ帰りの主人公(北大路欣也)が、塀の中で知り合った仲間と共に、自身の組が主催する賭場の資金強奪を謀る。 計画は見事に成功するが、そこから報復と裏切りが織りなす容赦ない強奪金争いが始まる。  ハリウッド映画などでは、玉石混交に描きつくされたプロットであるが、それがこの時代の日本映画で、これ程まで娯楽的な完成度の高い作品として存在していたことにまず驚く。 ストーリーテリングのテンポの良さとユニークさ、そして何よりも、登場するキャラクターたちの個性がそれぞれ際立っていて、そのアンサンブルが娯楽映画としての質を高めていると思う。  北大路欣也の決してヒーロー然としてはいない悪党としての男臭さ。梅宮辰夫演じる悪徳刑事の軽妙さと曲者ぶり。そして何と言っても、川谷拓三の泥臭すぎる雑草魂。 最終的に“三つ巴”となって、「金=命」を奪い合う三者のキャラクター性が、俳優本人の個性とも掛け合わさり、特に印象的だった。     匂い立つような昭和娯楽の匂いにクラクラしっぱなしだった。 各種動画配信サービスの普及に伴い、これまでその存在すら知り得なかった“昭和映画”にも容易に触手を伸ばすことができるようになった。今一度、昭和娯楽の真髄を掘り起こす沼にハマっていきそうだ。
[インターネット(邦画)] 8点(2021-06-08 21:16:44)
165.  るろうに剣心 最終章 The Final 《ネタバレ》 
原作者の和月伸宏が自他共に求めるアメコミファンであるが故に、今作は原作の段階からアメコミ色が強い。 僕自身は、アメリカン・コミックスそのものへの造詣が深いわけではないが、アメコミ映画は大好き。その自分の根本的な趣向が週刊ジャンプ連載当時からの「るろうに剣心」ファンに至らしめているのだろうと、今となっては思う。  そして、この実写映画化シリーズも、原作漫画が持つ趣向をビジュアル的にはきっちりと再現しているからこそ、MCUをはじめとするアメコミ映画に最も近い日本映画になり得ていると思える。 原作ファンとしても、アメコミ映画ファンとしても、それはとても嬉しいことではあるが、だからこそ口惜しい部分も大いに感じるシリーズであり、この最新作においてもその惜しさは拭いきれなかった。  公開を心待ちにしていた、というわけではないけれど、実は密かに期待はしていた。 原作ファンとしては、今作で描かれる“人誅編”も無論実写で観てみたかったし、このエピソードを「二部作」で描くことは、映画の連なりとして効果的に作用すると思えたからだ。  原作のストーリー展開を正確に映し出すとしたら、「前編」となるであろう二部作のうちの一作目は、見紛うことなき「悲劇」で幕を閉じるであろうことが一原作ファンとしては想定できた。 そして、圧倒的「絶望」によって文字通りのどん底に叩き落されたヒーローが、再び立ち上がることができるのか、否か。 それは「後編」として控える次作に向けての極上の前フリであり、それこそアメコミ映画の最高峰「アベンジャーズ インフィニティ・ウォー」から「エンドゲーム」に向けての連なりを彷彿とさせるに違いなかった。  が、しかし、実際に映し出されたこの二部作“前篇”のストーリーテリングは、その想定から大きく外れていた。 そもそも、今作においては一言も「前編」という表記はなく、「The Final」と銘打たれていたわけだから、当たり前といえば当たり前なんだが、今作は原作漫画で言うところの“人誅編”の「前編」という位置づけではなく、あくまでもシリーズの「完結編」として、この一作のみで物語の終幕まで描ききってしまった。  ヒロインの○○シーンを今か今かと身構えながら、クライマックスに臨んでいた者としては、「アレッ?」と肩透かしを食らったことは否めない。 原作の“あの展開”をすっ飛ばしてしまったことは、敵役である雪代縁のキャラクター性や、彼の動機・目的を踏まえても、整合性と説得力に欠けた。 また、ストーリー展開が性急に感じてしまうと同時に、ドラマ的にあまりにも味気ないものになってしまっているとも感じた。 ヒロインの「悲劇」に伴うヒーローの「絶望」の様は、このエピソードのみならず、「るろうに剣心」という物語の根幹に関わる部分だけに絶対に描くべきだったと思う。   ただその一方で、現在の日本映画きってのエンターテイメントシリーズとしてしっかりと楽しめたことも確かだ。 “チャンバラ”というよりは“ワイヤーアクション”のテイストが強い縦横無尽のアクションシーンは、これまでのシリーズ作同様にケレン味に溢れ、素直に楽しい。 日本の時代劇というよりも、亜細亜全体の異国情緒や文化をミックスしたような世界観も、原作漫画の副題にもある“明治剣客浪漫譚”に合致していると思える。  そして、これも今映画シリーズを大ヒットに至らしめた大きな要素であるが、キャスト陣のキャラクターへのマッチング抜群だったと思う。 今作においては、やはり雪代縁に扮した新田真剣佑がちゃんとハマっていた。 父親(千葉真一)譲りの体躯の素晴らしさと美貌は、大いに心をこじらせたシスコン武闘派キャラクターを見事に体現していた。 また、神木隆之介演じる瀬田宗次郎を再登場させて、剣心(佐藤健)と背中合わせて戦わせる映画オリジナルシーンは、同じくジャンプ漫画の映画化作品「バクマン。」の主演コンビでもあり、そういうメタ的要素も含めて胸熱だった。   というように、なんだかんだ言いつつも娯楽映画として堪能している。 そして、「The Beginning」と銘打たれた次作は、言わずもがな、アニメファンのみならず、時代劇ファンからも評価の高いOVA「追憶編」の実写化という位置づけなのだろう。 そういうことならば、この「完結編」を無理くりにでも一つにまとめて、敢えて先に公開したことも理解はできる。 おそらくは、「The Beginning」の撮れ高が想定よりもずっと良かったものだから、公開順を逆にしたんじゃないかとすら思えてくる。 未見のOVAも鑑賞してみつつ、ひとまず次作を楽しみにしておこう。
[映画館(邦画)] 7点(2021-05-17 15:27:17)
166.  おとなの恋は、まわり道
高校生の頃、自室に初めてハリウッド女優のポスターを飾った。それがウィノナ・ライダーだった。 あれから20年余りの年月を経て、画面に映る主演女優は、流石に老けてはいたけれど、その分自分自身も老けているわけで、感慨深さを覚えると同時に、久しぶりの主演映画で振り切ったキャラクターを演じる彼女は魅力的だったと思う。  「おとなの恋は、まわり道」なんてユルい日本語タイトルがつけられているけれど、このラブコメが描き出すストーリーと人物描写は、決してユルくもヌルくもなく、極めて痛々しく、辛辣だ。 そしてだからこそこの上なく、可笑しい。  おそらく、映画史上、最も無様であけすけで何のロマンティックも感じさせないSEX。 その様を大笑いで見届けながら、「人間」の動物としての本質的な滑稽さと、イロイロあって「恋」というよりも人間関係そのものに対して面倒になり、臆病になる“おとなたち”の愚かさと愛らしさを等しく感じた。  その痛々しい主人公二人を、30年に渡ってハリウッドきっての美貌を保持しつつも、皆から“変わり者”のレッテルを貼られてきた二人のスター俳優が演じることの醍醐味。そのキャスティングセンスが何よりも見事だったと思える。  キアヌ・リーブスに至っては、風貌的には近年の大ヒット作「ジョン・ウィック」そのままなので、かの映画の劇中でも確実に“変人”の部類であるジョン・ウィックのプライベートを見ているような錯覚にも陥る。 植物に二酸化炭素を吐きかけて「光合成して〜」と語りかけ続けるウィノナ・ライダーの様も、なんだかんだあって精神的に追い込まれた彼女のリアルな私生活を見ているようで、苦笑いが止まらない。  そういう具合に、主演俳優それぞれのメタ的な要因も絡み合いながら、シンプルだからこそ人間模様の芳醇さを感じることができるラブコメに仕上がっていたと思う。  30年に渡ってハリウッド映画を観てきた一映画ファンとして、この映画と、“まわり道”しつつも第一線で輝き続ける主演俳優たちを愛さずにはいられない。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-05-07 23:09:44)
167.  愛がなんだ
たぶん、この映画を観たほとんどの人たちは、登場人物たち(特に主人公)に対して、痛々しさと、ある種の嫌悪感を覚えるのだろうと思う。 恋の沼に溺れ(どっぷりと沈み込んでいる)、自分を好いている人に都合よく甘え、相手を悪者にしたくないと物分りいい風に恋を諦める“彼ら”の様は、正直目も当てられない。 でもね、僕たちのほどんどは、その彼らの無様な姿から目を離すことができない。そして、嫌悪感を示しつつも、否定もしきれない。 それは、誰しもその無様さと自分自身の経験とを重ね合わさざるを得ないからだ。  誰だって、「正論」とは程遠い恋に溺れたことがあるだろうし、「不誠実」なセックスで誰かを傷つけてしまったこともあるかもしれない。 なぜそうしてしまうのか? それは、劇中でも吐露される通り、本当は誰も自分自身に対して「自信」なんて持てず、弱さや情けなさを隠しつつ、寂しさに覆い尽くされてしまわないように必死に生きているからだ。  主人公のテルコは、恋に溺れ沈み込む自分の愚かさも、相手の男の情けなさも、友人たちの弱さもズルさも、みんな分かっている。 それがもはや「恋」でもなければ、「愛」でもないことも。 それでも、彼女は、“沈没”を止めない。止められない。 友人に現実を突きつけられても、無垢な少女時代の自分自身に疑問を呈されても、「は?何それ」とすべてをシャットアウトする。  彼女は無意識下で知っているのだ。 それがどんなに愚かで精神的に不衛生な選択であろうとも、沈んで沈んで沈み込んで、“底”に足をつけなければ、浮き上がることができないことを。   この映画が描き出していることは、必ずしも色恋を主体にした恋愛模様ではなく、もっと泥臭くて滑稽な人間模様だった。 脳天をガツンと叩かれた感じ。この感覚は、2年前に鑑賞した「勝手にふるえてろ」を彷彿とさせる。 打ちひしがれた主人公が唐突に歌いだして心情を吐露するシーンなど類似点も多かったと思う。  そして、「勝手にふるえてろ」鑑賞時に松岡茉優を発見したことと同様に、また一人大好きになるべき女優を発見した。 主人公テルコを演じた岸井ゆきの。この女優がまた素晴らしかった。 不安定なキャラクターを演じきったその表現力もさることながら、個人的にツボだったのは彼女の風貌だ。 とても美人にも見えるがよく見るとそうでもなかったり、とびきり可愛らしくも見える時もあればまったくそうじゃない時もある。一つの映画の中でビジュアルがくるくると入れ替わるようだった。 例えるならば、“のん”のようなキュートでコミカルな繊細さ、“田畑智子”のような儚げな芯の強さ、そしてBiSHの“セントチヒロ・チッチ”のような秘めた熱さをかけて混ぜ合わせたようなマーブル柄。それが様々な表情を見せているようなそんな感覚を覚えた。 要するに女優としてどストライクだったということ。   「会社辞めたら象の飼育員になるわ」 と、動物園の象を見ながら、馬鹿な昔の男が馬鹿なことを言っていた。 それを聞いて泣いた私は、もっと馬鹿な女だったな。 と、彼女は、彼(象)に餌をやりながら懐かしむ。
[インターネット(邦画)] 10点(2021-05-04 09:00:23)(良:1票)
168.  マ・レイニーのブラックボトム 《ネタバレ》 
二人の黒人の若者が、闇夜を逃げ惑うように疾走するオープニング。 そのシーンが彷彿とさせるのは、言わずもがな、逃亡奴隷の悲壮感。 しかし、そんな観客の思惑を裏切るかのように、彼らがたどり着いたのは、ブルースの女王のライブだった。 多幸感に包まれながら、多くの黒人たちが、彼女の歌に魅了されている。 ブルースの起源は、奴隷時代に自由を奪われた黒人たちが労働中に歌っていた音楽らしい。 時代は1920年代。そこには、「人種差別」などという表現ではまだ生ぬるい、「奴隷制度」の名残がくっきりと残っていた。  人類史上に、闇よりも深い黒で塗りつぶされた怒りと、悲しみと、憎しみ。 登場人物たちの心の中に色濃く残るその「黒色」が、全編通して、ブルースのリズムに乗るような台詞回しの中で表現されていく。 その「表現」は、まさに黒人奴隷たちの悲痛の中から生まれた音楽のルーツそのものだった。  テーマが明確な一方で、この映画が織りなす語り口はとても特徴的だった。 前述の通り、時にまるでブルースの一節のように、熱く、強く、発される台詞回しも含め、人物たちの感情表現が音楽の抑揚のように激しく揺れ動く。 あるシークエンスを経て、登場人物たちの感情が一旦収まったかと思えば、次のシーンでは再び抑えきれない激情がほとばしる。 そしてその激しい感情の揺れの様が、ほぼ小さな録音スタジオ内だけで展開される。  今作は、舞台作品の映画化ということで、監督を務めたのも演劇界の巨匠であることが、このような映画作品としては特徴的で、直情的な表現に至ったのだろう。 特徴的ではあったが、その演出方法こそが、“彼ら”の抑えきれない怒りと悲しみを如実に表現していたと思う。  主人公となるのは、“ブルースの母”と称される伝説的歌手と野心溢れる若手トランペッター。 二人の思惑とスタンスは一見正反対で、終始対立しているように見える。ただし、彼らが白人とその社会に対して抱いている感情は共通しており、その中で闘い生き抜いていこうとするアプローチの仕方が異なっているに過ぎない。 そこから見えてくるのは、白人に対して根源的な怒りと憎しみを抱えつつも、それを直接的にぶつけることすらできない彼らの精神の奥底に刷り込まれた抑圧の様だ。  行き場を見いだせない怒りと憎しみの矛先は、本来結束すべき“仲間”に向けられ、物語は取り返しのつかない悲劇へと帰着する。  ようやく開いた開かずの扉の先にあったもの。将来に向けた希望の象徴として購入した新しい靴。 若きトランペッターが抱き、必死につかもうとした“光”は、無残に、あっけなく潰える。  そして、もっとも愚かしいことは、この映画で描きつけられている描写の一つ一つが、決して遠い昔の時代性によるものではないということだ。 交通事故処理に伴う警官とのトラブルも、白人プロデューサーによって奪われる機会損失も、収入格差と貧困も、彼らに向けられる“視線”すらも、今現在も明確に存在する「差別」の実態そのものだ。  アメリカの黒人奴隷制度が生み出した250年に渡る「闇」。時を経てもなお、憎しみの螺旋は連なり、悲劇と虚しさを生み出し続けている。 この映画が本当に描き出したかったものは、100年前の悲劇ではなく、今この瞬間の「現実」だった。   最後に、今作が遺作となってしまったチャドウィック・ボーズマンの功績を讃えたい。 この物語が表現する怒りとそれに伴う虚しさを、その身一つで体現した演技は圧倒的だった。 がん治療の闘病の間で見せたその表現は、文字通り「命」を燃やすかのような熱量が満ち溢れていた。 この世界が、若く偉大な俳優を失ってしまったことを改めて思い知った。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-04-18 10:03:09)(良:1票)
169.  ポーラー 狙われた暗殺者
まずは、マッツ・ミケルセンの“佇まい”一発で、ノックアウトは必至だ。 これまでも出演作を幾つか観てきたつもりだったが、どうやら私は、彼の本当の魅力を理解していなかったらしい。 「北欧の至宝」と称されるその俳優としての存在感は、通り一遍な男前感やダンディズムでは収まりきらない「異質」なものを感じた。 それはもはや変質的と言っても過言ではなく、その特異な雰囲気が、今作の引退間際の最強暗殺者“ブラックカイザー”役と奇跡的なマッチングを見せていたと思う。   会社組織化された暗殺者集団という馬鹿みたいな設定(好き)や、引退予定の伝説的暗殺者に集団で襲いかかるという展開に対しては、言わずもがなキアヌ・リーブスの「ジョン・ウィック」が頭に浮かぶ。 主人公のキャラクター性や、対峙する暗殺者集団のエキセントリックさ、諸々の小ネタに至るまで、「ジョン・ウィック」との類似点は多く、下手を打てば「二番煎じ」と揶揄されることは避けられなかっただろう。   しかし、確かに「ジョン・ウィック」をはじめとするこの手のジャンル映画と似通っている作品ではあるけれど、同時に圧倒的な独創性も揺るがない娯楽映画だったと断言したい。   主演俳優の稀有な特異性に牽引されるかのように、映画そのものが少々、いや随分と常軌を逸している。 バイオレンスアクションとハードボイルド、そしてブラックユーモア、それらがミックスされた破綻気味なアンバランス感が、オリジナリティを創出している。   そして、やはり何と言っても主人公“ブラックカイザー”ことダンカン・ヴィスラのキャラクター性が抜群だった。 圧倒的に強く、全身からほとばしる男の色香は、言うまでもなく魅力的。 その一方で、ただ渋くて格好良いだけではなく、悪夢にうなされ飼い始めたばかりの愛犬を撃ち殺してしまったり、渋ってた割には小学生相手にドヤ顔で世界を股にかけた暗殺講座を繰り広げちゃったり、とっくにハニートラップであることは気付いているにも関わらずギリギリの瞬間までヤルことはヤッちゃったり……。 “ジョン・ウィック”もどこか頭のネジが抜け落ちている男だが、それ以上にこの人も何本もネジがぶっ飛んでしまっていることは明らかだ。   ストーリーの収束の仕方も的確であり、忘れがたきエンターテイメントを堪能した充足感と、まだまだこのイカれた殺し屋の暗躍を観たいぞ!という期待感に包まれる。 ここまで似通ったキャラクター性と世界観であれば、「ジョン・ウィックVSダンカン・ヴィスラ」という夢の競演を妄想してしまうな。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-04-08 08:21:58)(良:1票)
170.  映画ドラえもん 新・のび太の大魔境 ペコと5人の探検隊
新ドラ世代(声優陣が一新された新シリーズ)の劇場版第9作品目は、“旧世代”にも懐かしい「大魔境」。 オリジナル映画である1982年公開「ドラえもん のび太の大魔境」は、無論子どもの頃の何度も観た作品の一つだ。 のび太たち主要キャラに限らず、出来杉君の「ヘビースモーカーズフォレスト!」という言い回しに至るまで、記憶の中に染み込んでいる。  ストーリーそのものは、例によってアドベンチャーに憧れるのび太たちが、アフリカの秘境を探検するというドラえもん映画としてはシンプルなものだが、そこに盛り込まれたF先生のアイデアがやっぱり素晴らしい。 行き着く先が、大昔の地殻変動によって独立した進化を辿った犬の世界という設定や、絶体絶命の窮地を救うのが“10人の外国人”だというタイムパラドックス的趣向が、実にドラえもんらしいSF性とファンタジー性に溢れている。  そしてそんなストーリー展開の中で、ほぼ主人公的な立ち回りをするのがジャイアンであるという点も、オリジナル作品から変わらず、ガキ大将故の不器用さや葛藤を抱え込みながら、作中随一の感涙ポイントである「男気」をしっかりと見せてくれた。(ちなみにジャイアンはこの映画の中で5回位確実に死にかけている)  全体的にほぼ忠実なトレースをしたリメイク作なので、特に不満もないが、同時に特筆すべき新しい発見や表現も無かったことは否めない。 「のび太の恐竜」や「魔界大冒険」などその他のリメイク作が、傑作であるオリジナル作品に対して果敢に改変に挑み、新たな傑作として生まれ変わっていたことを踏まえると、そういった要素が無かったことはやや残念だった。
[インターネット(邦画)] 6点(2021-04-05 12:44:30)
171.  星の王子ニューヨークへ行く2
30年ぶりの続編。30年の月日を経ても変わらない“エディ・マーフィ”というエンターテイメント力が圧巻で、懐かしさを存分に携えた爆笑は、次第に週末の夜のささやかな多幸感へと変わっていった。  30年後の続編という企画において、敢えて新しいことに積極的に挑まず、オリジナル作品のキャラクター性や映画的な雰囲気の「再現」に努めた制作陣の意向は正しかったと思う。 必然的に“新しさ”なんてものはなく、ほぼオリジナル作品のファン層のみをターゲットにした“同窓会映画”であることは否めないが、そうすることが、この映画が持つエンターテイメント性を過不足無く引き出していると思える。  何よりも嬉しかったのは、エディ・マーフィをはじめとするオリジナルキャストが勢揃いしていたことだ。 主人公の親友役セミを演じたアーセニオ・ホールは勿論、ヒロインのシャーリー・ヘドリー、父国王のジェームズ・アール・ジョーンズ、バーガーショップ経営者(義父)役のジョン・エイモスら、懐かしい顔ぶれが見られただけでも、感慨深いものがあった。 そして勿論、エディ・マーフィとアーセニオ・ホールによる“一人四役”も健在で、楽しかった。  新キャラクターでは、主人公の婚外子として登場するラヴェルのビジュアルが、完全に「ブラックパンサー」の“キルモンガー”パロディで愉快だったし、3姉妹の娘たちもフレッシュな魅力を放っていたと思う。 そして、隣国の独裁者として登場する“イギー将軍”に扮するのはウェズリー・スナイプス。鑑賞前にクレジットを見ていなかったので、90年代を代表する黒人アクションスターの登場には、益々高揚感を高められた。演じるキャラクターのバカぶりも最高すぎた。   繰り返しになるが、二つほど時代を越えて制作された「続編」として、何か新しい発見や挑戦がある類いの映画ではないし、オリジナル作品のファン以外が観てもピンとこない要素も多いのかもしれない。 ただ、かつて週末の民放ロードショーで「星の王子ニューヨークへ行く」を観て、エディ・マーフィというエンターテイメントを楽しんだ世代としては、問答無用に爆笑必至だった。  今作はパンデミックの影響で劇場公開が断念され、Amazonでの配信と相成ったとのこと。 制作陣やキャスト陣にとっては残念なことだっただろうけれど、かつてオリジナル作品を観たときと同様に、週末の夜、自宅で、“日本語吹替版”で観られたことは、ファンにとってある意味幸福な映画体験だったと思うのだ。
[インターネット(吹替)] 7点(2021-03-15 12:14:15)(良:1票)
172.  すばらしき世界 《ネタバレ》 
この映画に登場する人物のほぼ全員は、主人公・三上正夫に対して、悪意や敵意を示して接することはない。 むしろ皆が、偽りなき「善意」をもって彼に接し、本気で彼の助けになろうとしている。 そして、三上自身も、その善意に対し感謝をもって受け止め、“更生”することで応えようと、懸命に努力している。 その様は、「やさしい世界」と表現できようし、この映画のタイトルが示す通り、「すばらしき世界」だと言えるだろう。  でも、それでも、この世界はあまりにも生きづらい。 その、ありのままの「残酷」を、この映画は潔くさらりと描きつける。 西川美和という映画監督が表現するその世界は、いつも、とても優しく、そしてあまりに厳しい。   僕自身、ようやくと言うべきか、早くもと言うべきか、兎にも角にも40年の人生を生きてきた。 平穏な家庭に育ち、平穏な成長を経て、そして自らも平穏な家庭を持っている。 決してお金持ちではないし、生活や仕事において不満やストレスが全く無いことはないけれど、今のところは「幸福」と言うべき人生だと思う。  だがしかし、だ。 その平穏という幸福を自認し噛み締めつつも、僕自身この世界における“生きづらさ”を否定できない。 人並みにアイデンティティが芽生えた少年時代から、40歳を目前にした現在に至るまで、「生きやすい」と感じたことは、実はただの一度も無いかもしれない。 人の些細な言動に傷つき怒り鬱積を募らせ、僕自身も“本音”を吐き出す程に周囲の人間を困らせたり、怒らせたり、傷つけたりしてしまっている。 どんな物事も思ったとおりになんて進まないし、「失敗」に至るための「行動」すらできていないことが殆どだ。 自分自身の幸福度に関わらず、人生は失望と苦悩の連続で、この世界はとても生きづらいもの。 それが、殆ど無意識下で辿り着いていた、現時点での僕の人生観だったと思う。  そしてそれは、この世界に生きるすべての人たちに共通する感情なのではないかと思う。 そういった個人の閉塞感を、この世界の一人ひとりが持たざる得ないため、その負の感情は縦横無尽に連鎖し、社会全体が閉塞感に包まれているように感じる。  この映画で西川美和監督が、社会に爪弾きにされた前科者の男の目線を通じて描き出したことは、決して一部の限られた人間の人生観ではなく、この世界の住人一人ひとりが共有せざるを得ない“痛み”と一抹の“歓び”だったのだと思う。  確かに、この世界はすばらしい。 美しい光に満ち溢れているし、エキサイティングで、エモーショナルで、ただ一つの命をまっとうするに相応しいものだ。少なくとも僕はそう信じている。  そんな世界の中で、人は皆、誰かに対して優しくありたいし、誰しも本当は「罪」など犯したくはない。 それでも、結果として「罪」が生まれることを避けられないし、すべての人が無垢な「善意」のみで生きられるほど、人間は強くない。 この映画の登場人物たちは皆優しい人間だと思うけれど、主人公に対する「善意」の奥底には、それぞれ一欠片の「傲慢」が見え隠れする。 取材をするTVディレクターも、身元引受人の弁護士とその妻も、スーパーの店長も、役所のケースワーカーも、ヤクザの老組長も、心からの善意で主人公を助けているけれど、同時にその心の奥底では彼のことをどこか見下し、自分の優位性を感じていることを否定できない。  無論、だからと言って、彼らを否定する余地などはどこにもない。 彼ら自身も、この生きづらい世界の中で、自分の心の中で折り合いをつけながら、必死に生きているに過ぎないのだから。   自分の感情に対して「正直」に生きることしかできない主人公は、それ故に少年時代から悪事と罪を重ね、人生の大半を刑務所内で過ごしてきた。 理由がどうであれ、犯した罪は擁護できないけれど、誰にとっても生きづらいこの世界が、益々彼を追い詰め、ついには自分自身で、文字通り心を押し殺さざるを得なくなっていく様を目の当たりにして、悲痛を通り越して心を掻きむしられた。 それは、単なる暴力による報復などとは、比べ物にならないくらいに残酷な業苦を見ているようだった。  ラストの帰り道、どこか都合よくかかってきたように見える元妻からの電話による多幸感は、果たして「現実」だったのだろうか。 そして、とある人物から貰った秋桜を握りしめ、最期の時を迎えた主人公の心に去来していた感情は、如何なるものだったのだろうか、救済だったろうか、贖罪だったろうか、悔恨だったろうか。 僕自身、様々な感情が渦巻き、鑑賞後数日が経つがうまく整理がつかない。  空が広く見えた。 人間は、この「すばらしき世界」で、ただそれのみを唯一の“救い”とすべきなのか。
[映画館(邦画)] 10点(2021-03-04 12:30:38)(良:1票)
173.  アップグレード 《ネタバレ》 
得体の知れない「悪意」によって、愛する妻と自身の体の自由を失った不遇な男が、“機械”を体に埋め込み、文字通りの“殺人マシーン”と化して復讐に挑む。 翌日への憂鬱を抱えた休日の夜に観るには相応しい、B級SFの娯楽性を存分に堪能できる映画だった。日曜洋画劇場と淀川長治氏が健在な時代であれば、きっと何度も放送されたであろう。  サイボーク化の悲哀、AIの人格化と暴走、隠された陰謀……、この映画の娯楽を彩るテーマは、過去の幾つもの作品でもはや使い古されたものかもしれないが、描き方、映し出し方がとても丁寧でフレッシュなので、終始飽くことがなかった。 「機械」という悪魔に見初められてしまった男の過酷で壮絶な運命が、「寄生獣」や「ヴェノム」を彷彿とさせるある種の“バディ感”と共に展開していくストーリーが、とてもユニークだったとも思う。  決して、全てが目新しい映画ではないけれど、オリジナル作品として、監督と脚本を務めたリー・ワネルという監督の手腕と創造性は中々のものだ。先日観た現代版「透明人間」でも監督・脚本を務めたこの映画人には今後も期待したいと思う。  映画は、この手のダークSFに相応しい辛辣なエンディングを迎える。 それがただ後味の悪い悲劇に見えるのではなく、現代の社会に対する警鐘として妖しき光の中に浮かび上がってくることが、この映画が“質の高いB級SF映画”であることの証明だろう。  この世界に喜びを見いだせず、苦しみに耐えかねる人類は、そのうち皆、仮想現実に押し込められてしまうのではないか。 そう考えると、この映画が「マトリックス」の前日譚のようにも見えてくる。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-03-01 13:16:11)
174.  Mank マンク
「ハリウッドは人を噛んで吐き捨てる」  これは、映画「エド・ウッド」の劇中で、実在の悪役俳優ベラ・ルゴシを演じたマーティン・ランドーの台詞だ。 エド・ウッドは、奇しくもオーソン・ウェルズと同時代に“史上最低監督”として悪名を馳せ、ウェルズとは対照的な立ち位置で、今もなおカルト的な人気を博している映画監督である。  ティム・バートン監督作の「エド・ウッド」は個人的なオールタイムベストの上位に長年入り続けている大好きな作品なのだが、今作を観ていて、その“悪役俳優役”の台詞を思い出さずにはいられなかった。  それは、この映画が、時代を超えて、業界や、社会や、もしくはもっと大きな“仕組み”の中で使い捨てられる人々の苦闘と反抗を描いているからに他ならない。 今、このタイミングで、今作がWeb配信主体で全世界公開された「意図」は明らかであり、現代社会に対する社会風刺的かつ政治的なメッセージも強い作品だったと思う。  まさに今の時代も、ハリウッドの内幕に留まらず、社会全体が人を噛んで吐き捨てている。  巨大な組織、社会、国家に対して、「個」の力は小さい。そして、脆弱な「個」は、この世界の傲慢さに都合よくないがしろにされ、“消費”されている。 でも、だからと言って、「会社が悪い」「社会が悪い」「国が悪い」などと、ただ愚痴を並べたところで何も好転はしない。 状況を打開するのは、いつの時代も、小さくも強かな「個」の力なのだ、と思う。  「市民ケーン」の共同脚本を担った主人公ハーマン・J・マンキーウィッツ(マンク)は、業界に対する失望とアルコール依存に押し潰されそうになりつつも、後に映画史の頂点に立つ作品の脚本を書き上げる。 それはまさしく、業界に使い捨てられた者の意地と抗いだった。    80年前の時代を懐古的な映像表現で精巧に描き出しつつも、前述の通り、そのテーマ性は極めてタイムリーな作品だった。 Netflix配信の映画らしく、忖度しない踏み込んだ表現ができたことは、デヴィッド・フィンチャーとしても監督冥利につきたことだろう。 デヴィッド・フィンチャー監督に限らず、マーティン・スコセッシやスパイク・リーなど、多くの巨匠が「Web配信」へと映画表現のフィールドを変えていっていることはある意味致し方ないことだろうと思える。 作家性が強い映画監督であればあるほど、その主戦場を「劇場公開」から「Web配信」へ移行しようとする潮流は、もはや止められないとも思う。  ただ、その一方で、今作が映画作品として完璧に「面白い!」と思える「作品力」を備えているかというと、一概にそうは言えないと思う。 その他のWeb配信映画にも総じて言えることだが、作り手の作家性やメッセージ性が強くなる半面、ともすれば独りよがりになっていたり、作品時間が長すぎるなど、小さくないマイナス要因も見え隠れする。  新作映画のWeb配信が活性化することで、映画表現の幅が広がることは、映画ファンの一人として複雑ではあるが、喜ぶべきことだろう。 しかし、何事においても、“「自由」になればなるほど「自由」ではなくなる”、という矛盾した真理を孕んでいるものだ。 「自由に作ってくれ」と言われて、喜ばない映画監督はいないと思うが、その上で、結果として万人が面白い映画を生み出すことができる映画人は相当限られるだろう。 映画表現の幅が広がるということは、同時に、これまで「制限」の中で才能を発揮してきた映画人たちの新たな資質を問われるということなのだと思う。  「映画」という表現が、その形態を変えざるを得ない時代において、この先どのように進化していくのか。 それこそ、80年前にオーソン・ウェルズが成したような「革新」が今まさに求められているのかもしれない。
[インターネット(字幕)] 7点(2021-02-26 12:56:16)(良:1票)
175.  映画ドラえもん のび太の人魚大海戦
祝日の午後、息子と二人の留守番中にダラダラと鑑賞。 自らの鑑賞スタイル以上に、ダラダラとした作品だったことは否めない。  声優陣が刷新された“第2期”の映画シリーズは、完全なる“第1期”世代のドラえもんファンとして長らく敬遠していたが、近年子どもたちと鑑賞するようになったことをきっかけに改めて観ていくと、意外にも“高評価”な作品が多い。 特に、「のび太の恐竜2006」をはじめ、「のび太の新魔界大冒険」、「新・のび太と鉄人兵団」などのリメイク作においては「傑作」と断言できる作品もあり、嬉しい発見となっている。  が、しかし、今作においてはきっぱりと「駄作」と言えよう。  コミックスの一つのエピソードに過ぎない「深夜の町は海の底」を、強引に話のすそのを広げて映画化したような印象で、あまりにもストーリーがおざなりすぎた。 脚本は人気作家の真保裕一が担当しているようだが、やっつけ仕事なのは明らかで、特にこの人の作品を読んだこともないが、作家としての程度が知れているなと思ってしまう。  “海底”が舞台ということもあり、随所に第1期の名作「のび太の海底鬼岩城」を連想させる描写やひみつ道具が登場する。 同作の大ファンとしては、そんなシーンを観るとついつい小さな期待感を膨らませてしまうが、どれも部分的なトレースにとどまっており意気消沈してしまう。  もし、この中途半端なトレースが影響して、「海底鬼岩城」のリメイクが回避されているとしたら、それは今作自体のつまらなさ以上に、あまりにも残念なことだ。  作品中で唯一感慨深かったことは、挿入歌を武田鉄矢が歌っていたこと。 ドラえもん映画の中で、武田鉄矢の歌声が広がるだけで、つい琴線が揺さぶられてしまうのは、オールドファンの性だろうか。
[インターネット(邦画)] 3点(2021-02-25 23:19:42)
176.  ナポレオン・ダイナマイト
推しの“アイドル”が、自身がボーカル&ベースを務めるバンド名に「PEDRO」と名付けた理由が、今作に登場する主人公の唯一の友人の名からとったと知り、鑑賞。 ああ、なるほど、彼女がその名を付けた意味がよくわかった気がする。  さえない容姿、さえない友人、さえない家族、さえない生活、人生は往々にして“クソったれ”だけれど、それでも人生は、何かささやかなきっかけで、いくらでも光り輝く。 その輝き方は人それぞれで、他人の“眩しさ”と比べてみたって意味はない。  決して劇的な存在でなくとも、自分にとってはかけがえのないモノは必ず存在する。 それは、気になる同級生かもしれないし、転入してきた友人かもしれないし、下手くそなマンガかもしれないし、荒削りな音楽かもしれない。  そう、人生に必要なのは、ささやかだけれど何にも代え難い心の“拠り所”なのだ。  この青春コメディ映画は、国籍や年齢、性別にとらわれない普遍的な人間の馬鹿馬鹿しさと、それに伴う愛らしさをオフビートなユーモアの連続の中で、ワリとストレートに伝えてくる。  スクールカーストの底辺で、日々フラストレーションを溜めつつも、自分の“在り方”をブラさない主人公は、決して格好良くはないけれど、不思議な魅力を備えていた。 そして、前述の友人“ペドロ”をはじめ、主人公の周囲を取り巻くキャラクターたちも皆独特でクセが強い。 彼らが織りなすおかしな人間模様は、アメリカの片田舎の開放感と閉塞感が入り混じったような何とも言えない空気感も手伝って、どこか哀愁めいたものも感じる特異な喜劇を構築していた。  久しぶりにこの手のアメリカンコメディを観て、何だかフレッシュな気持ちにもなり、満足度は高い。 明らかにお金がかかっていないチープな映画だけれど、ランチの皿で表現したオープニングクレジットの愛らしさからも伝わってくるように、愛着を持たずにはいられない作品だった。  「VOTE FOR PEDRO」のTシャツ欲しい。アレを着て、「PEDRO」のLIVEに行きたい。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-02-25 22:31:53)
177.  透明人間(2020)
深夜、自室で今作を鑑賞後リビングに入ると、薄暗いいつもの室内が何だかとても恐ろしく感じた。 ぽっかりと空いた何もない空間に“何かがいる”かもしれないという感覚。それはまさしく、この恐怖映画が描き出した「恐怖心」そのものだ。 全編通して、主人公のみならず、観客にもそういう“怯え”を生み出したこの映画のアプローチは、“透明人間”という怪奇映画の伝統を引き継ぎつつ、圧倒的にフレッシュだった。  この新機軸の透明人間映画が、これまでの透明人間映画と異なる最たる点、それは「視点」だろう。 伝統的な透明人間映画が、透明人間となってしまった人物自身の恐れや悲哀、または透明人間としてのモンスター性を描き出してきたことに対して、今作は透明人間に襲われ、「凝視」し続けられる女性を主人公に配し、徹底的に彼女の「視点」でストーリーが展開される。  「何かに見られている」という不安やおぞましさをシンプルかつ洗練された映像表現で徹底的に描きつけ、“何もない空間”に恐怖を生み出した映画的手法が見事だったと思う。 主人公の背後に浮かび上がる“吐息”や、バスルームの“手形”など、ヒタヒタという物音すら全く立てずに主人公に歩み寄る恐怖演出も巧みだった。 主人公の女性の愛称が“シー(see)”であることも、シチュエーションスリラー「ソウ」を生み出した作り手らしいこの映画のテーマ性に対する隠喩であろう。   ただし、この映画が描き出す「恐怖」の真髄は、そういう映像的に表現されている要素のみには留まらない。  夫から支配的なハラスメントを受け続けていた主人公は、その夫婦生活から逃げ出した後も彼の精神的支配から脱却することができずに、苦しみ続ける。 夫の死を知らされても、一人それを信じることができず、見られ続けていることに恐怖し、究極的に追い詰められる。 結果的に方法としての“透明人間”は存在し、夫は死を偽装してまでも妻である主人公を支配し続けようとする……。  が、果たして本当にそうだったのだろうか? “透明人間”による凶行は現実だったけれど、それが本当に夫による策略であったかどうかは最終的に明確にならない。 凶行はすべて夫の兄によるものだったかもしれないし、夫にまつわる恐怖心のすべては心を病んだ主人公の誇大妄想だったかもしれないという可能性が、最後の最後まで拭い去れない。  そういったまた別の「視点」を生む演出も見事だし、主人公を演じたエリザベス・モスの演技と、狂気性を孕んだ表情も素晴らしかったと思う。   人間同士の関係性、もっと言い切ってしまえば「夫婦」という関係性から生じた綻びが導き出してしまった憎しみと怖れ。 この恐怖映画が最終的に紡ぎ出したものは、その普遍的な人間関係が内包する“危うさ”だったのではないか。  そういうふうに、この映画の結末を捉えると、同じく“恐怖夫婦映画”の傑作である「ゴーン・ガール」的なゾクゾクとしたおぞましさに包まれ、思わずこう呟きたくなった。 「こ、怖えぇ」と。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-02-23 12:19:27)(良:2票)
178.  ザ・ファブル
原作は某マンガアプリの無料枠で途中までしか読んでいないが、南勝久による漫画の世界観は、絵柄、キャラクター性、テンション、すべてにおいて独特で、シンプルに「面白い」の一言に尽きる。  なんと言っても、この原作漫画が描き出した主人公・ファブルのキャラクター設定が独自性に溢れ、秀逸だと思う。 不殺さずの殺し屋という「矛盾」を成立させたキャラクターの立ち位置と、この作品の世界観は、極めて漫画的であり、同時に今の“日本映画向き”だとも思った。  映画文化に対するリテラシーが低いと言わざるを得ない国内の一般ユーザー層に対して、あまり振り切ったバイオレンス映画がウケづらいことは明らかであり、また「暴力」をエンターテイメントとして大衆に問答無用に受け入れさすことが出来得る映画の作り手も限られている。  だから、この作品が内包する“バイオレンス”と“コメディ”が絶妙に入り混じった作品世界は、今の日本映画界において手を出しやすい題材だったのではないかと思える。 そこに、岡田准一という当代きっての“スター”をキャスティングすることで、布陣は盤石になったと言えるだろう。  事実として、今作は“国産アクション映画”としては間違いないく一等級の部類に仕上がっていると思うし、“岡田准一”というアイドル俳優が体現する「説得力」には脱帽だ。  “アイドル俳優”という言い回しは、少々否定的な意味合いに聞こえるかもしれないけれど、まったくそんなことはなく、彼の映画俳優としてのスター性と魅力は絶大だと思っている。 国民的アイドルとしてのルックスと人気を持ち、本格アクションからコメディまでこなす岡田准一の映画俳優としての立ち位置は、まさしく「ポスト真田広之」であり、彼がこの国を代表する「名優」として映画界を牽引していくことはほぼ間違いないだろう。  そんな特異な主人公及び主演俳優を主軸にして、脇を彩るキャラクターも非常に魅力的だった。  見紛うことなき「悪役たち」を演じた、柳楽優弥、向井理、福士蒼汰のイケメン俳優陣は、それぞれが三者三様の「悪」を表現しており、フレッシュだったと思う。 ファブルの「妹役」役の木村文乃、ヒロイン役の山本美月の二人の女優陣も、表面的な明るさの裏に孕む深い影を持った女性像を印象的に演じていた。  そして、ファブルを預かる大阪の組組織の若頭(社長)を演じた安田顕は、悲哀と暴力性に満ちたヤクザの長を見事に演じきっていたと思う。  兎にも角にも、気になりつつも劇場鑑賞を逃してしまったことを後悔するくらいに、満足度の高い娯楽映画だった。 コロナの影響で公開延期となっている続編だが、こりゃあ(“てち”出演を抜きにしても)観に行くしかないな。
[インターネット(邦画)] 7点(2021-02-23 00:36:37)
179.  仁義なき戦い 完結篇
昼寝から目覚めた土曜日の夕刻、この「完結篇」を鑑賞。 思い返せば、シリーズ第一作目の「仁義なき戦い」を初鑑賞したのは、2004年だった。つまり、足掛け17年でこのヤクザ映画シリーズ5部作を観終えたことになる。 この17年の間で、菅原文太をはじめ、松方弘樹も、梅宮辰夫も、今シリーズに限らず、この国の“ヤクザ映画”という娯楽を彩った名優たちがこの世を去ってしまった。なんとも寂しいことだ。  感傷に浸る一方で、驚かされるのは、この5部作が1973年から1974年の僅か一年半あまりで、怒涛の如く製作され、公開されているという事実だ。 日本映画界そのものがギラギラと隆盛を極めたプログラムピクチャー全盛の時代だったとはいえ、「映画製作」に対するあらゆる意味での今はなき「熱量」を感じずにはいられない。  今シリーズは、本来前作の「頂上決戦」で“完結”する予定で、ストーリー的にも綺麗に収束していたのだけれど、東映社長・岡田茂の一声で、半ば強引にこの「完結篇」が製作されたらしい。 そういう映画会社の権威性やその重役の豪腕ぶりも、この時代ならではのことであり、是非はあろうけれど、今の時代にはないエネルギーが満ち溢れている。  時代劇研究家の春日太一の著書「あかんやつら」などを読むと、当時の東映映画は、その撮影現場そのものが文字通りの“修羅場”であったことがよく分かる。 会社重役も、監督や脚本家をはじめとするスタッフも、俳優たちも、すべての“映画人”たちが血気盛んに入り乱れ、その延長線上に映画作品が結実していたのだろう。  実際、これまでの「任侠映画」の概念を打ち破り、実録映画として実在のヤクザ・暴力団組織をモデルに描いた今シリーズは、“ホンモノ”の方々と密接に繋がりながら製作されており、まさしく“命がけ”の製作現場であったことは想像に難くない。  今作単体としては、シリーズにおける「蛇足」感を拭えないけれど、そういうフィルムに映し出されているもののすぐ裏面に焼き付いている“戦い”を思うと、メタ的かつ重層的な新たな娯楽性が見えてくる。  その壮絶な「内幕」にこそ悲喜こもごもの娯楽性が溢れていることは明らかだ。 当時の撮影現場の空気感をリアルに汲み取って、ぜひとも映画化に挑んでほしいものだ。
[インターネット(邦画)] 7点(2021-02-14 17:51:37)
180.  続・男はつらいよ
昨年の正月にシリーズ第一作目の「男はつらいよ」を初鑑賞して、一年ぶりに第二作目の今作を鑑賞。 来年以降も、年のはじめに“寅さん”を観ることを恒例化していこうと思っている。  自分自身が今年で40歳になる。 「不惑」という言葉の意味に対して、自分の精神年齢が程遠いことは否めないけれど、それでも人生の機微というものを何となく感じ取れるようにはなってきた。 自分の人生において何が大切で、何がそうではないのか。そういうものがおぼろげながらも見えてきた今、この国民的喜劇映画が描き出す「娯楽性」は、ことほど左様に心を満たす。  渥美清演じる「車寅次郎」というキャラクターはもちろん強烈だけれど、劇中において何か劇的なことが起こることはない。 が、しかし、なんでもないシーンで笑いを生み、なんでもないシーンでしみじみとした感動を生む。 これぞこの国の「喜劇」の真骨頂だろうと思える。  このシリーズ第二作においては、脇を固める豪華俳優陣の存在感も際立っている。 寅次郎の恩師役の東野英治郎は、個人的に幼少期に観ていた「水戸黄門」の印象が強く、あの特徴的な声の響きがとても懐かしかった。 若き山崎努は、30代前半にして既に映画俳優としての稀有な雰囲気を醸し出しており、今作ではヒロインの恋人という「普通」の役柄を演じていることが逆に印象的だった。  そして何と言っても、寅次郎の生き別れの母親役として登場するミヤコ蝶々の存在感が抜群。 数少ない登場シーンの中で、稀代の女漫才師ならではの“しゃべくり”と、この国の喜劇を牽引し続けていたのであろうコメディエンヌとしての表現力が圧倒的だったと思う。  渥美清も、東野英治郎も、ミヤコ蝶々も、既に亡くなって久しい。 けれど、彼らが昭和の時代に生み出した数々のまだ観ぬ「娯楽」を、これからまだまだ堪能できることは幸せなことだと思える。
[インターネット(邦画)] 8点(2021-01-28 13:15:21)
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41716.59%
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