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フィンセントさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 202
性別 女性
自己紹介 閲覧&良票を入れて頂いた皆様ありがとうございます(*^-^*)
良票を頂けると励みになります!作品に対する意外なヨミと、読んでいて楽しいレビューを心がけています。楽しんでいただければ幸いです☆

ジャンルを問わず鑑賞していますが、ホラーを観るときは手で目を覆って指の隙間から観ますw

★好きな俳優★
M.ファスベンダー、E.マクレガー、J.ロウ、D.クレイグ、O.ブルーム、ジョナサン・リース=マイヤーズ・・・・・はい、そうです。イギリス俳優好きですw
さらには、ドナルド・サザーランド、S.ブシェミ、M.フリーマン、フランコ・ネロ、B.ウィリス、H.ジャックマン、C.イーストウッド、女性では、ユマ・サーマン、M.ジョヴォビッチ、C.セロン、A.セイフライド・・・などが好きです。

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161.  フッテージ 《ネタバレ》 
ミスターブギーが関連する、一家惨殺事件。定期的で、必ず8mmで撮影されていて、でも子供1名だけが殺害されていなくて失踪、現場に謎のマーク・・・こういった規則性が存在する頭脳派連続殺人事件モノは大好きである。「次はどんな手口で?」という、ゾクゾク感が大好きである。  ところが、「フッテージ」は恐怖が右肩下がりだ。その理由は”話しが進むにつれ、つくりが雑になっていく”から。  8mmのタイトルには「バーベキューパーティー」「プール遊び」など、朗らかな家族の記録の雰囲気がただよっていて、また映像の冒頭もそういった家族の幸せそうな様子が写し出されているからこそ、映像後半の残虐な殺害シーンが痛ましく、そのギャップゆえに面白いのである。  ところが、その後で再生される「おやすみの時間」や「芝刈り」は、家族の朗らかな場面がなく、いきなり殺害シーンのみの映像になる。 あっけないその殺しっぷりに、「あれ?ゾクゾク感はどこへ?」となる。  そしてイーサンホーク一家の殺害に至っては、記録される8mm映像は娘がいきなりオノでバッサリやってる場面だけの映像になっているわけで、もうまったく怖くもなんともない。  考えてみればそもそも、殺害された一家は、”幸せで仲良く暮らす家族”であるからこそ、突然まとめて処刑という悲劇性とのコントラストが素晴らしいのだが、イーサン一家は当初から夫婦関係も親子関係もうまくいってないから”仲良く暮らす家族”の映像もとれないし、お金もないからバーベキューだのプールだのといった映像もとれないのも当然だ。 そういうイーサン一家を主役にすえたこと自体が大失敗なシナリオとしかいいようがない。  私だったら、家族関係も良好な大金持ちの大人気作家が、興味本位で事故物件に移り住み、休日は家族仲良く庭遊びを楽しみつつも、好奇心本位から見た8mm映像でノンフィクション作品を執筆することを思いつき、不安をあおられつつ、いつのまにか連続殺人の輪に加わっていたという流れにしていただろう。   連続殺人の規則性は、引越し先の問題なので、どうしても”殺される一家は幸せで仲良しな暮らしっぷり”である規則性は要求されないのかもしれない。 でも、当初の8mm映像の編集が  ”前半:家族の幸せそうな休日風景” ”後半:いきなり惨殺で悲惨な風景”  という構成で来ていて、そういう悪趣味なつくりが恐怖心をあおるのだから、8mm映像は一貫してそういった編集であってほしかった。  それにイーサン一家の殺し方も、デッキチェアにしばりつけた家族をロープでプールに引き込むとか、クサリでぐるぐる巻きの自動車の中に家族を入れて着火とか、首吊り前の状態から木の枝が折れるにしたがってだんだん首吊り状態になるというタメをきかせた殺し方といった、殺害現場の舞台演出がまったくないところがガッカリである。  イーサン一家こそ、庭の木でジワジワ首吊りの刑をやって、娘が木の影からランララ~ンみたいに無邪気にスキップして出てきたほうが、ラストシーンとしては衝撃だっただろう。  冒頭にその首吊りシーンをもってきてツカミはOK。からの、作りが次第に雑になっていき、ラストシーンで一番の手抜き。とんだ尻つぼみ作品である。  手足をしばって口をふさいでオノでバッサリとか、歴代の殺しかたでは一番ツマンナイではないか! それって「おやすみの時間」の二番煎じではないか! エグゼクティブ・プロデューサーであるミスターブギー氏もダメ出ししてくるような内容ではないか! ブギー氏にお姫様だっこされてる場合じゃないぞ長女!  とりあえずミスターブギーの正体は両刀使いのロリコンであることは分かった。
[CS・衛星(字幕)] 1点(2017-08-09 07:41:50)(良:1票)
162.  ダーク・プレイス(2015) 《ネタバレ》 
この映画のテーマはズバリ「A BRAND NEW DAY」。  ヒロインは、幼い頃に母や姉妹を殺され遺児となった成人女性だ。 痛ましい事件を経て、さぞトラウマを抱えて繊細で弱々しい女性になっているかと思いきや、自分にも他人にも心を閉ざし攻撃的な性格で、寄付金頼りで仕事もせず自堕落な生活を送っている・・・という意外性で冒頭からグっと引き込まれた。  彼女は寄付金が減ってきた対策として、世間が自分を思い出し寄付金が増えたり印税が入る事を期待して自叙伝を出版していた。 だが本は売れず、金の集まりも悪い。  後見人は「世間は忘れっぽいし、新しい殺人事件で遺児がいるし、君はもう大人だ。」と解析するが、実はそうではないところが、この作品をただの”陳腐な殺人の真相ドラマ”ではないものに仕上げている。 では本はなぜ売れなかったのか?  彼女が書いた本のタイトルは「A BRAND NEW DAY」(新たな日)。 しかしそれは彼女自身が自分の言葉で綴ったものではないと、殺人クラブで軽く告白している。  彼女自身が、本当の意味で過去を清算し、自分の思いを赤裸々につづった自叙伝であれば、ある程度売れたはず。そこに心に響く言葉があるはずだから。 しかし寄付金目当ての他人の言葉による中身のない自叙伝。売れなくて当然だ。  殺人事件から30周年になる区切りとして出版した自叙伝なら、著者自身も自らのトラウマをカタルシスすることで、心をオールクリアし、新しい人生をスタートする区切りにもなる。 しかし「A BRAND NEW DAY」と高らかな宣言をしながらも、彼女の心の闇(ダークプレイス)の中では、けして「A BRAND NEW DAY」はスタートしていないのである。  ところが見返りの金をもらうために真相を追った結果、犯人とされていた兄の冤罪の判明と和解。 そして憎しみと恨みによって痛みだけで生きてきた彼女が「ベンだけが学んだ。”許す”ということを。」と気づいた時に、初めて彼女はベンを、彼女を殺そうとしたディオンドラの娘を、そして何よりも自分を許すことができた。 それにより殺人事件とその後の屈折した人生にも区切りがついたのである。  兄の釈放の前の面会の後、車を運転している場面。ディアローグの最後の台詞は心地よく心にしみる。 「I know I start.」。  かつて偽りの A BRAND NEW DAY ではなく、本当に心の底からの変化によってもたらされた、真実のA BRAND NEW DAYが、彼女に訪れたことを彼女は客観的に確信したのだと感じさせる、重みのある一言だ。  サスペンスやミステリーに家族問題や思春期の恋愛をからめながら、ヒロインの新たな人生の始まりまでを描く、一本筋の通ったこの作品は、テンポ、シナリオ、後味もよく、何度も見たくなる秀作である。  ****************************************  ところで、罪人を”許す”というキリスト教の教えを、よりによって悪魔崇拝に興味を持っていたべンが誰よりも守っていたというのは、皮肉で面白い。 結局、誰もが想像する以上にベンは純粋な青年だったのだ。  さらに、一回見て面白かったので二度見たら、ベンの幼女猥褻疑惑を心配して母親が彼の部屋を捜索して彼のノートをペラペラとめくる場面で、彼の純粋さをもう一つ発見。 美術が得意な彼らしく悪魔のイラストが上手に描かれていた最後のページに、  ”ヘザー、ニコール、クリスタル、クリシー、クリシー、クリシーデイ”  と書かれていたが、一回目で見た時は内容をしっかり理解できていなかった。 自称被害者でベンにフラれたクリシーの名前があったので「母親はベンが襲った幼女のリストアップだと思ってガーンってなったんだな」程度でスルーしてしまい。  しかしあれは、ベンの”赤ちゃんが女の子だったらつけたい名前リスト”だったと、二度目で気づいた。  なぜなら日本語字幕では省略されていた”クリスタル”という名前が、後で登場するベンの娘の名前としてつけられていたから。 その上で再度そのリストを読み解けば、最後に書かれていた「クリシー、クリシー・デイ」というのも  「クリシーは年下すぎて犯罪になるから恋人にはなれなかったけど、もし赤ちゃんにクリシーって名づけたら?ボクの名字とくっつけて、クリシー・デイ・・・うん、わるくないかも?」  みたいな気持ちで書いたものだったと分かる。 自分の気持ちを抑えてきたけど、心の中ではやっぱりずっと好きだなんて、ピュアすぎるよベン。 しかもひっかかる女がみんな金持ちヤサグレ娘ばっかりだなんて、ピュアもいいとこだよベン。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2017-08-08 10:14:51)
163.  砂上の法廷 《ネタバレ》 
キアヌリーブス&レニーゼルヴィガーの法廷モノ。被告人の冤罪かそれとも・・・?だなんて、普通に期待値は高かった。  ところが いざ蓋をあけてみれば、オイタをしていたママでもかばってあげたいマザコン息子といい、自分は不倫してもキアヌの不倫は許さない黒人弁護士女といい、私の個人的主観ではどう考えても”モテ”るキャラはキツイのに 息子だけでなく隣人の思春期小僧にもキアヌにもモテているレニーゼルヴィガーといい  さらには脇役のウソつきスチュワーデスといい、ウソつき警察といい、暴力夫といい  「だれひとりロクな奴がおらんのかーい!」  と大声で叫ぶ気力も萎えそうなほどの脱力映画であった。  最終的にキアヌとレニーが不倫関係解消するでもなく、キアヌが真犯人として訴えられることもなく、息子が父殺しの真半身がキアヌだと知っていたことを聞かされてキアヌがイスに座って どよ~ん・・・・とうなだれる場面からのエンドロールって、おいおい、私のほうがよっぽど どよ~~~~~ん・・・・だよ。
[CS・衛星(字幕)] 2点(2017-08-08 07:08:15)
164.  ファインディング・ドリー 《ネタバレ》 
ファインディング・ニモでは、歯医者の水槽の中の構造や特徴をよくもまぁ熟知したうえで魚たちの大脱走劇を描き上げたものだと関心した。 ニモが空気ポンプから脱走できるのかどうかの場面でも、よくもまぁこう発想するなと。きっとスタッフたちはいろいろな水槽グッズを勉強してアーダコーダと水槽の世界をいかにユニークに描きかつ物語りとして成立させるために利用するかと、話し合っていたに違いない。  そして今回は、歯医者の水槽よりもはるかに広い、海洋センターの水槽。 しかも、水槽の種類の多いこと多いこと。 回遊魚のいる巨大水槽、子供たちが”ハンド”できるフレアイ水槽、運搬用水槽、さらには、おみやげ屋さんのおもちゃのサカナを浮かべた水槽まで・・・(苦笑) 運命に流されるように、ドリーやニモらが、次々といろいろな水槽に入ることになり、あれよあれよといううちに場面がテンポよくきりかわり飽きさせない。   ジンベエザメやイルカらの水槽も小さなパイプでつながっており、さらにそのパイプはいくつもの水槽にまで枝分かれしていている場面は、アクションやサスペンス映画でよく出てくる、主人公が追っ手から逃れて地下水路を足早に走り抜けていくというありがちな”水路場面”と同じなのに、魚ゆえに「よくある水路シーンね」と思わせない。  いやむしろ私にはそれがパロディにさえ見えた。イルカのベイリーのエコロケーションでパイプの中に対象物だけがボンヤリと見える・・・みたいな画面も、アクション映画で敵と味方が建物の廊下を移動する様子を熱探知機カメラみたいなのでボンヤリした映像を出して監視してる・・っていう場面のサカナ版パロディだと。  こうした数々の水槽・水路の躍動感あふれる場面を描ききった今作は、明らかに前作を上回るスケールであることは間違いない。 (海より海洋センターのほうが閉鎖的であるにもかかわらず、このスケールの大きさを見せるというのがさすがピクサーの天才集団のなせるワザだ)  さてそれはそうとして、ドリーに注目してみれば、記憶障害以外にも、軽度の知的障害も見られると私は思う。 彼女は見た目サイズ(他のナンヨウハギと比べて)からして年齢的にあきらかに成人なはずだが、行動・発言が大人らしくないからだ。 これは私に療育手帳B2の知的障害の娘(21歳。ビネー式IQテストで精神年齢8歳と診断)がいるから察するのだが。  だから、小さいドリーが家の外にいた時、家にいた両親がドリーの将来を心配し「私達がいなくなったらあの子はひとりで生きているの!?」と泣く母親の気持ちに感情移入しホロっとくるし  その後何年かしてドリーがふとみつけた貝殻をたどり、その先に、ドリーはもう大人になっているはずなのにまるで幼児のために作ったような「どの位置からも貝殻を見つけられてたどれるように」という親の思いがこもっている、分かりやすすぎるいくつもの放射状に伸びた貝殻の道しるべが俯瞰の画面でダーンと出たときにホロホロとなるし  その後ドリーと両親が再会した時、親がドリーを抱きしめ喜ぶときの気持ちも痛いほど分かり(知的障害の子は成人になってもあどけない子供のようなのだ。だからあのときの両親は、まるで小さい幼稚園児の娘を見つけたときの気持ちなはずだ)わあ~んとなった。   一方でアクション映画が大好きな私は、タコのハンクのハンドルさばきでガケからトラックごと海に突っ込む場面のスローモーションは、アクション映画でよくある”危機一髪なところでスローモーション”という高所落下や爆発シーンなどでありがちな手法であるにも関らず、サカナゆえに、ありがち感が薄れ、サカナ版パロディに見えて大笑いしてしまった。  まさに、笑いあり涙ありである。  そしてエンドロールの後のギルたちが救出されるというエピソード。 前作のオチでギルたちが脱走できたものの「ビニール袋の中だからだめじゃん。このまま飢え死にか窒息死か」と、もやもやしたものを抱えたままだったひとは世界中にたくさんいたに違いない。 そのもやもやを13年後の今、スッキリさせてくれた。 設定としてニモ救出から1年後とされているが、あの場面だけは時系列が1年後ではなくせいぜい1週間後くらいの設定になっていると考えたい。  そしてヤシロアキ(笑)が「海洋生物研究所の役割は、魚たちを救出し、治し、海に返すことです」とアナウンスしていたことによって、われわれ見るものは 「あぁギルたちもビニールから出て海に返されるんだ」というハッピーエンドを想定できるだろう。
[映画館(吹替)] 8点(2017-07-01 16:46:08)(良:1票)
165.  イングロリアス・バスターズ 《ネタバレ》 
最後のほうで、ヴァルツとブラピの取引条件について了解する、電話ごしの司令部の人間の声(チョイ役)が、ハーヴェイ・カーテイル。ほんのちょっとだけ声の出演だなんて、なんてシブイんだ。そしてなんて贅沢なんだ。 「ゼロ・グラビティ」で宇宙飛行士が通信するNASAのひととのやりとりの声(チョイ役)がエド・ハリスだっていうことくらい贅沢だ。  あと心ひきつけられたのは、ショシャナがレストランに呼ばれて席についたときにグラスにつがれたもの、あと酒場でスバイ女優と落ち合ってた場面で、お店の人がグラスについだのが、ペリエのシャンパンだったってこと。  あのシャンパンの瓶、フランスのアール・ヌーボの時代にエミール・ガレがデザインしたアネモネが描かれてるんですがとっても美しくて、以前オークションでその瓶(カラの瓶のみ)を落札して家に飾ってあるくらい好きだったので、「あ、うちにあるのと一緒じゃんよ!」ってなんかうれしかった。  3デイズでワルのボスの家んちの壁紙がうちの居間のカーテンの柄と同じ、イギリスのアーツアンドクラフツ運動を牽引したウィリアム・モリスの「コンプトン」柄だったが「あ、うちにあるのと一緒じゃんよ!」ってうれしかったのと同じくらいうれしかった。  話を戻すと、最後の映画館焼却場面で、スクリーンが燃えきってなくなっているのに、火炎の煙が白くもくもくたちあがってて、その煙に、まだ映写機から送られてきているショシャナの顔が、煙に写り込んでたシーンは、いやもう、かっこよすぎる。タランティーノのセンスすごすぎる。  煙は不安定だから、映った顔があやしげにゆがむ、で、そのままヒトラーの顔面をドニーがうちまくって顔が崩壊していく画面にきりかわるんですが、不安定な煙にうつされて歪むショシャナの顔と、連射されて顔が崩壊するヒトラーの顔のリンクが最高に素敵。  映画館でナチス焼却計画実行する直前、ショシャナがドレスを着て赤い塗り頬紅をグイっとほっぺたに塗るシーンも好きです。 ちなみに「ショーガール」のノエミも、復讐に出かける前にドレスを身につけ鏡に向かって赤い口紅をグイっと塗りますが、赤は復讐の象徴なんでしょうか。  ショシャナの真っ赤なドレス、真っ赤な口紅。真っ赤な頬紅。それらの真赤な色は、彼女に想いを寄せる軍人に返り討ちにあって射殺されて倒れたときの顔に真っ赤な血ともリンクする。 血の魔術師タランティーノ、素敵すぎるセンス。  そして忘れてはならない、クリストフ・ヴァルツの存在。彼が登場人物とからむシーンはいちいち緊張感でいっぱいです。 フランス人農夫とのからみ、レストランでショシャナとのからみ、映画館でのアルドら4人とのからみ、そしてハマーシュマルクとのからみ・・・  そう、ハマーシュマルクの”靴が合えば疑いはない”の状況は、まるでバッドエンド展開のシンデレラてな具合で、さぐったポケットの奥に自分の靴を手の先に感じた彼女の悲壮感あふれる顔が忘れられません。  でも一番この映画を魅力的にしているのは、英語、ドイツ語、フランス語・・・が、登場人物の国籍そのままに使い分けられているところではないかと。 アメリカ映画においては、ナチを描く作品のほとんどが、ドイツ人でも普通に英語でしゃべるため、「イングロリアスバスターズ」のようにとことん登場人物の国籍と母国語をセットにした脚本は、この映画の設定や内容があまりにもブっとんでリアルさが時として失われがちなところに、みょうなリアリティを与えてくれる効果を有しているといえそう。  またこうした言語の使い分けがあるからこそ、冒頭のフランス人農夫とランダ大佐のフランス語→英語→フランス語のやりとりの面白さや、酒場でドイツ仕官に扮したイギリス人のドイツ語なまりがバレたなんだのシークエンスの緊張感、さらに映画館でランダ大佐とイタリア人に扮したアルドらのやりとりの滑稽さが描けるわけで。  ここまで各国語を玉手箱のようにちりばめた映画は、タランティーノ作品では類をみないし、また世界の映画作品全体をみても例がないのでは。 そういう意味では「イングロリアスバスターズ」は非常にユニークで、レアな作品だといえる。
[CS・衛星(字幕)] 10点(2017-06-20 14:25:15)
166.  グリーンマイル 《ネタバレ》 
スティーブンキングというと、ホラーか、あるいは「ショーシャンクの空」のような非ホラーのどっちかというイメージでもたれているのか、この映画を”ファンタジー”とか”おとぎ話”としてくくっている人達もいるようだ。  でもキングの作品は”超常現象”をけっこう多用しているところがあって、この映画のように、人知を超えた出来事を現実社会で普通に起こってます的な描き方がいかにもキングっぽさが出ていたと感じた。  この彼らしい世界観に素直に入っていけるかどうかが、この映画を楽しめるかどうかの分かれ道だと思う。  私は普通に入っていけたが、号泣したかといえばそれほどでもなく、少女殺しの真犯人でありジョンコーフィーを冤罪で死刑にさせた諸悪の根源ビリーザキッドが電気椅子で恐怖にまみえながら公開処刑されることなく、銃で瞬殺されちゃったあたりは「いや、ビリーこそデル並みの殺され方しないと!」と、すっきりしないところがあったりした。 (それはそれとしてビリーを演じたサム・ロックウェルのゲイリーオールドマンっぽいラリ顔はとてもワンダフル。)    ただ、痛烈に印象的だったのが、ジョンコーフィーが電気椅子に座らされて恐怖を抑えるように「I'm in heaven...I'm in heaven...」と何度も口づさむ場面。  字幕には「ここは天国だ・・・天国・・・天国・・・」と書かれていたのだけれど、これは彼が死刑前に望むことはと聞かれて「活動写真を見たことないから見てみたい」という願いにこたえて、看守達のはからいで深夜に彼に見せてあげた映画の一場面の歌。 恐怖を、あの朗らかで明るい映画の一場面を思い出すことで、払拭しようとしていたのであろう。  この歌は、冒頭でポールが老人ホームでたまたまTVにその場面が出てきて思わずジョンコーフィーを思い出し、いたたまれずに席を立ったという場面でも印象を強く残している。 フレッドアステアの有名な「トップハット」に出てくる「チーク・トゥ・チーク」という楽曲だが、「グリーンマイル」を見たあとは、このトップハットの場面が出てきたらついジョンを私も思い出してしまいそうだ。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2017-06-14 10:17:19)
167.  カサンドラ・クロス 《ネタバレ》 
この映画は、まがいもなくホロコーストを暗喩したもので、あちこちにホロコーストのメタファーが見られるところが興味深い。  そもそも、ヘルマン・カプランじいさんがユダヤ人だという設定や、列車が彼にとってかつて妻と子供を失ったユダヤ人収容所のあるポーランドへ向かうことになったというストーリーそのものが、「この映画で、ホロコーストをみなさんに思いこしていただきますよ」というメッセージだと言えるだろう。  たとえば、この列車そのものは、ユダヤ人を収容所へ運ぶ列車を思い起こさせる。 特に、乗客を閉じ込めて外に出られないように、外側から窓もドアも封じて外が見えにくくさせた結果、そもそも窓のない貨物列車のような状態になったあたり。目をはった。その貨物列車こそがユダヤ人輸送に使われた列車である。  列車が駅を通過したり、途中で停車する際、駅に銃をかまえたたくさんの兵士がものものしい雰囲気で列車を待ち構えている様子もまた、ユダヤ人輸送列車を待ち構えるドイツ軍兵士の姿そのものだ。  列車の中に”新鮮な酸素”ということで、装置を室内に入れて酸素をブファーっと吹き出させるが、ブファ~っときたとき、説明を受けていない乗客たちが「ヒェッ!これは何!?」とおびえる様子は、いうまでもなく、ガス室の暗喩ということだろう。  駅の周辺には、赤十字のマークがついたトラックがとまっていたが、それもナチスのカギ十字を思わせる。  辛くも橋の落下を免れた後部車両の乗客達が、助かった助かったと、列車から飛び出して列をなして草ぼうぼうの道をただひたすら歩き続けるサマも、ユダヤ人解放時によく見られた光景だ。  後部車両のひとたちは助かって、前の車両のひとたちは助からなかった・・・という設定も、”ナチス軍に対抗し収容所からの脱走を試みたユダヤ人→犠牲者は出ても助かるユダヤ人がいた”(=後部車両)と、”ナチス軍に対抗せず、ただ黙って収容所に向かう列車に乗り運命の流れるままにジっとしていたユダヤ人→死亡”(前部車両)という、コントラストと重なる。   それにしても、乗客たちは謎のウィルスに次々感染していったわけだが、主人公の医者ともあろう人間がチュウチョなく素手で感染者をベタベタさわるだけでなく、素人で無防備な乗客に感染者に付き添っているように指示したり、その他もろもろの荒すぎる脚本を書いたひとのほうがよっぽど謎ではある。  ただ、ホロコーストのメタファーをここまでちりばめた、ホロコースト映画ではない映画という意味では、実によくできた脚本だとも言えなくもない。  そしてカプランを演じたリーストラスバーグ自身もユダヤ人であることは興味深い。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2017-06-06 14:03:34)
168.  エイリアン2 《ネタバレ》 
エイリアンはシリーズ全て見たが、2が一番のお気に入りである。  それは、リプリーという女性像を一番ストレートに、正しく描いているから。  強い女、賢い女、勇気ある女・・・そんなイメージで見られるリプリーだが、彼女は何よりも、”母性の強い女”。その側面を鮮やかに描き出しているのが唯一「エイリアン2」である。  リプリーにはもともと1人娘がいたが、「エイリアン」の脱出後から50年以上宇宙をハイパースリープ状態で漂っていたため、救助された(「エイリアン2」の時点)2179年の2年前に娘は死んでしまっている。つまりリプリーは、愛する娘と再会することなく母として不完全燃焼のまま、強い母性が残されている女性という設定になっていて、それはこの映画を、シリーズの中で唯一”人間味あふれた作品”に仕上げるうえで非常に効果的なものになっている。  リプリーは、ひとり取り残された女の子ニュートを、彼女が幾度と無く直面する危機から救い出し、最後の最後まで守り抜こうとする。彼女はきっと失った娘とニュートを重ねあわせていたのではないだろうか。  まさに”子供を守る母”である。  一方、クイーンは、まさに”卵を守ろうとする母”。  「エイリアン2」ではリプリーの母性をより一層きわ立たせるために、悪役(=エイリアン)にも、クイーンというエイリアンの母を配置して、母性を持つもの同士のコントラストをつけている所も上出来である。    ラスト近くで武器がタマぎれになったリプリーが武器を捨て、クイーンと同じ背丈になれるパワーローダーを装着してクイーンと対決する場面は、まさに母VS母の等身大の素手によるガチバトル。こんな場面は、シリーズ前作を通して「エイリアン2」だけであろう。  ついにクイーンを倒したリプリーに、ニュートが走り寄り、彼女に抱きつきながら思わず叫ぶ。  「ママ!」  このたった一言が、「エイリアン2」が間違いなく母性を描いていることを証明している。  ちなみに「エイリアン4」の原題は「Resurrection」(復活)なのであるが、そのタイトルになったのは、リプリーがクローンで復活したということだけでなく、人間とエイリアンのハイブリッド種であるニューボーンがリプリーを見て母親だと思い込むとか、リプリーもニューボーンに対して自分の子供のような敵のような複雑な思いで接するという、”母性”をにおわせる設定が「エイリアン2」で描かれたテーマを”復活”したものだから・・・と深読みしてしまうのは私だけだろうか?
[CS・衛星(字幕)] 10点(2017-05-28 06:44:12)
169.  天使と悪魔 《ネタバレ》 
ユアンマクレガーが冒頭から既に”善良なふりをした真犯人”のニオイがぷんぷんだった。同じような意見をしているレビュアーの方々も多いようだ。 しかし、真犯人役に彼がキャスティングされたことは正しい。 なぜならユアンマクレガーが大好きな私は、もし「天使の悪魔」に彼がメインキャラに配役されていなければ、最後まで見ていなかったかもしれないから(笑)  それはさておき、「火、空気、水、土」という要素に従って4人の誘拐された次期皇教候補たちが、その要素に関係するスタイルで殺されていく流れは、どこか「セブン」の七つの大罪に沿って起きる殺人事件をほうふつさせたし、またそもそも「火、空気、水、土」といえば「フィフスエレメント」を思い出さないではいられない。  原作者はたぶん意識していなかっただろうけれど、どちらも私のお気に入りの映画だったので、雰囲気がかぶっているのが気になるところだった。  教授の口からマシンガンのように次々と放たれる専門用語はついていくのが大変だったが、それはいわばインドカレーのようなものかもしれない。 カレー鍋に名前も聞いたことのない特殊なスパイス類が、あれやこれやと次々と投入されたものを専門料理店でいただくと、普通のバーモントカレーよりリッチで奥深い味わいな気がするような気分になっちゃうのに似ていて、「なんか、ワタシ、すっごい知的な作品を見たような気がする」ような気分にならないでもないような気にさせる。  インドカレーに通じる錯覚作用に、ユアンの神々しい魅力と神父コスを足して6点。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2017-05-26 12:42:22)
170.  ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー 《ネタバレ》 
スターウォーズのイメージを二字熟語で表せば「快活」とか「爽快」である。  それに対しローグワンは暗く、重く、そして最後は全員死亡って、シェイクスピアの「ハムレット」か。  スターウォーズはそっち路線ではない。  EP3ではアナキンがダークサイドに堕ちてしまったので、ある意味悲劇だが、死んでないし、それに悪役誕生というある意味物語展開上、必要な悲劇要素だった。  アミダラ姫は死んだが、2人の重要キャラを産み、自ら名づけたあとの昇天であるがゆえ、それは安らかな死でもあった。  それに対してローグワンでの登場人物全員死亡は、救いがない。  当然、新キャラはEP4にはいないので、いたら困る、だから殺してしまえ、それは分かる。  だが、そんなことをしてまで、むりやり3と5の間の話をこねくりまわす絶対的必要性があったのかどうかと、どう考えてもスターウォーズブランドに乗っかりたい気持ちと、EP6で終わったあとにEP7で寝た子を起こすようなことをしたうえに失敗までしたので、だったら安全圏の3と4の間の話ならどうよという、調子のよすぎる動機しか見当たらない。  スターウォーズ1~6までを愛するものとしては、ローグワンの背景に見えるご都合主義は、ルーカスの一連のシリーズに対する侮辱にしか思えず、エンドロールをうつろな目で眺めながら嫌悪感しか沸かなかった。   こんなふうに主要人物がひとり死に、二人死に・・・と、どんどん死んでいく展開は、どっかの山奥の山荘で殺人鬼に追われて一人死に、二人死に・・・っていうB級ホラー映画にしか思えない。
[映画館(字幕)] 1点(2017-05-16 11:30:17)(良:3票)
171.  鑑定士と顔のない依頼人 《ネタバレ》 
ヴァージルはビリーの画家としての才能を否定しつつも、オークションに出品された名画をビリーに安価で落札させた上で買い取り、自らのコレクションを増やしていく。このシステムで沢山集めた女性の肖像画コレクション。それらは、そのビリーを主犯格としたヴァージルと関わる数名のキャラによってあっさりと奪われる。  しかし犯人ビリーは名画が欲しかったわけではない。名画を売り払い大金がほしかったわけでもない。単に”自分の画家としての才能をヴァージルに認めさせたかった”だけなのだ。ここ大事。  そして彼の期待どおり、実際ヴァージルは彼を認める事となる。それはかつて「才能ないよ」といったそのビリーが描いたただのサギ用アイテム”クレアの母親の肖像”(クレアにそっくり)を、ヴァージルが家を売り払っても手放さず、ずっと大事にするほど愛でる事になったことで証明される。  「ビリー天才!」と口にしたわけではない。でも彼の絵が手放せなかった事は、クレアへの思いが前提にあるとしても、彼女を描いた絵が彼の心に訴えかけ、魅了するものである以上、結果的にそうした絵を描いたビリーの才能を認めてる事になるのだから。  見終わった直後は「ヴァージルは皆に裏切られ名画も持ってかれ何も残ってないわ。救いのない悲惨なエンド」と思った。  だが、いや、待てよ。この映画の英タイトルは「the best offer」(最良の出品物)。  とすれば?そう、女の肖像画に囲まれて精神的自慰に浸って、生身の女に恋を抱くことすらなかった、ましてやその肌に手袋を外して触れることもなかった”二次元萌え”のオッサンが一生に一度の恋を味わえたのだ。  それがたとえウソだとしても、あの時の高揚館・・・花束やドレスやメイク品や指輪を、愛する人を想いながら選ぶ時のときめき・・彼女の自分への思いが愛なのかどうなのかヤキモキする感覚・・他に好きな人いるんじゃないのって嫉妬心に燃える感覚、そしてメイクラブした時のあの頭のてっぺんからツマサキまでジワ~ンとする感覚、やっぱり彼女はボクが好きだった!と実感しプロポーズ作戦大成功した時の感激・・・そうした数々の【恋でしか得られないモノ】は、金で何でも手に入れてきた彼が唯一手に入れられなかったもの。これをを得たことは、たとえウソだとしても、そんなバラ色の体験を与えてくれたクレアは、彼にとって  <the best offer>(最良の出品物)  だったのだという結論に到達できよう。  ヴァージルはクレアというニセモノの恋心を持った出品物を見てbid(入札)し、最終的に手に入れた。 ヤフオクでニセモノのヴィトンバッグを買っちゃった人のように、彼女の恋心がニセモノだと後で分かったが、手にしていた間は最高の思いができたのだ。(何百枚の名画の女は、彼に感動は与えることはできても、恋する者だけが得られるこれだけの感情を与えてはくれないのだ!)   年月が経つほどにヴァージルにとっては、彼女が彼を本当に好きかどうだったかなんて、もはや関係なくなっていったのかもしれない。相手が自分を好きだったかではなく、どれだけ自分が相手のことを愛したか。そこが、一生に一度の恋の重要ポイントであることもある。最高の恋愛ってのは、なにも両思いでなくてもいい。片思いでも振られた恋でもいい。いかに深く愛せたかが重要なのだ。  彼は絵を全部持ってかれた後も金はまだあった。引っ越し先の立地(観光名所広場のそば)や内装をオーダーでする余裕などを見れば分かる。まだ”2次元萌え”オッサンであれば改めてまた名画の女性を集め直していただろう。  しかし彼は、ビリーによるサギ絵(ヴァージルにとっては事実上クレアの肖像画)1枚だけで良かった。100年価値を認められ続ける名画の女どもより、二度と会えない思い出の女性のほうが彼にとって100年の恋だったのである。いってみれば  ”2次元萌え専門だったキモヲタおやじが3次元の美女との恋に目覚めちゃってリア充  ~もうあの頃には戻れないボク~”  といったコピーでもつけたくなるような映画である。絵画、オークション・・・といった崇高な世界が舞台になってるから気品あふれる雰囲気の中で進んでいく話だが、要はそういうことだ。(いい意味で)    『適当な恋の3つや4つはしても、心に深く残り続ける一生に一度の恋をしたことのないまま死ぬ人間もたくさんいる中で、金で買えない、プレシャスな恋。それを手に入れたヴァージルは、実は幸せものなんだよ(さぁ、あなたも一生に一度の恋をしましょうか?)』っていうのが、この「the best offer」という映画のメッセージなんじゃないかな。
[DVD(字幕)] 10点(2017-05-11 10:39:39)(良:2票)
172.  ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅
あれだけ動員数がありながらこのレビュー数の少なさは「ハリポタブランドならとりあえず見るか」という、だましのきく観客がほとんどだったからだろう。  結論からいえば、この作品はハリポタの”まずかったところ”を踏襲、いやむしろレベルをさらに下がった作品であった。  JKローリングの手法は、第一章のイントロダクションでは【目新しいものを台に並べて叩き売りした内容にさえすればOK】とする所。  でもストーリ-は実は稚拙で中身がカラッポ。 どこかで見聞きした、単純すぎる勧善懲悪。(オチが最初から分かる)  でもファンタジーというナンデモアリなジャンルがゆえに、それまで人々が見聞きしたことのない架空の物(組み分け帽子、動く階段、みぞの鏡、架空のスポーツ等)をズラズラダラダラとこれでもかこれでもかと垂れ流しっぱなし続けることで、目くらましのように、何か傑作のように錯覚させるのがJKローリングのやり方だ。  その目くらましから覚めた人達が、ハリポタシリーズの回を重ねるたびに生まれ、ハリポタ脱退者が増加。結果的にシリーズ8作品の国内興行成績は分かりやすいほどに右肩下がりをして終わった。  けして子役が大人になってしまったことだけが人気が落ちた理由ではない。 第一章でしつこいほど見せまくった”お話のイントロダクション的な珍しいもの”で客をひきつけるのには成功したが、2章以降は”イントロダクション的珍しいものの叩き売り”がなくなり、代わりにストーリーのほうで勝負をかける段階で、見事に失敗してきたからだ。   第一章ではバレなかったストーリーのからっぽさ加減が、2章以降でむきだしになって露呈したからなのである。  実際、「ファンタビが面白かった」と喜ぶ人達が挙げる良かったところが<かわいい動物たち>だの<コレコレなダレソレ>だの、登場する動物や人間がどういうものだったかにばかり終始している。 ストーリーも<ハラハラする><ワクワクドキドキする>という感情表現ばかりで、ストーリーそのものがどう面白かったかの説明ができないのは当然。  ものめずらしいものを見てハラハラドキドキ・・・なら見世物小屋と変わりない。   ちなみに私はファンタジーは嫌いなのではなく、たとえば「ロードオブザリング」シリーズは絶賛だ。 あのシリーズは、しっかりとストーリーをねりあげたうえで、話を進める中で少しづつ上手に”珍しい架空のもの”を見せている。 ストーリーが根幹としてしっかりしているからこそ、3作目がアカデミー賞史上初のファンタジー作品での<作品賞>でオスカーを得たのである。 (その他の部門含め11部門でオスカー取得は史上3作目の最多部門受賞) これぞホンモノの見るに値するファンタジーの作品である。  一方のJKローリンズは人気があるだけの目くらましがうまい稚拙な大衆作家に過ぎない。 (たとえるなら、パサパサで甘ったるいスポンジに、表側だけ豪華なクリームデコレーションとフルーツを盛っただけの安くて不味いケーキだ)  そんなわけで、ただでさえ稚拙なストーリーを”珍しい架空のもの”で隠してごまかすお話を書くJKローリングが、何を血迷ったかファンタビではいきなり脚本を書くのだから、この映画が駄作になるのはもう分かっていたとはいえる。  それでもあえて鑑賞したが、予想は的中。 ハリポタ第一章同様、これでもかこれでもかと、CGで架空の動物をあれやこれやとダラダラと登場させて観客を目くらましする手法で、実は中身がカラッポな内容を何かスゴイ作品に見せかけているだけであった。  私は子供の頃、つがいのハムスターが産んだ赤ちゃんを含めて10匹くらいのハムスターを1つのケージで飼っていたのだが、ある晩うっかり扉にカギをしめわすれ、一夜にして全員逃亡してしまったことがあった。 その時、ハムスターをつかまえるためにリビングにエサをまいておびきよせたり、本棚の中に棒を突っ込んで追い込んだりしていてイライラしながらグッタリした記憶があるが、ファンタビを見終わった後はまさにその時の気分に似ている。  ファンタビは全部で3作品作られるそうだが、ハリポタを下回る興行成績となり2作目以降はガーンと右肩下がりになることは間違いないと確信させる第一章であった。   最後に、主人公は魔法のカバンを持ち歩き、そのカバンにカバン以上のサイズのものが出入りする設定について。 そういう不思議カバンと、そのカバンを主人公のトレードマークにしていることそのものが「この設定おもしろでしょ!?」と押し付けがましい。  名作「メリーポピンズ」のメリーが持ち歩いていろんなものを取り出す魔法のカバンの二番せんじでしょうに。
[映画館(字幕)] 1点(2016-12-30 08:15:52)(良:3票)
173.  遥かなる大地へ 《ネタバレ》 
「Far and Away」というタイトルはまさにこの映画にふさわしい。  まず、アイルランド移民のジョセフとシャノンが、船でアメリカに着けば簡単に土地ゲットできるとおもいきや、そこからあれやこれやスッタモンダで、ずっとずっとはるか彼方西へ行くとになる。このアメリカ横断なスケールが実に”far away"(ずっと遠く)だからだ。  さらに彼らが「土地ゲットは簡単だ!」と思い込んでいたのが、現実は厳しかったこともまた”far and away”(思ったよりもはるかに)難しかったという話にもマッチする。  でも何よりも一番マッチしていた理由は  天国にいるジョセフの父親が、旗を立てる直前で死んだトムを生き返らせたという奇跡を物語る上で、"far away”(はるか遠く)空の上にいる死んだ父親の存在をこの映画の重要なものにしているからだ。  序盤でジョセフの父親が地主の手下のせいで事故にあうが、いったん死を迎えたのに、「なにがあっても土地こそすべてだ。おまえは私が叶えられなかった夢をかなえてくれ。土地が手に入ったら天国から祝福するから」と言い残すためにわざわざいったん生き返るというちょっとビックリなシーンがある。  なんだか奇妙な場面ではあったが、ラストの場面でジョセフが頭を打って血だらけで死んだにもかかわらず、父親の神パワーで彼が息を吹き返すミラクルが、コントでもなくジョークでもご都合主義でもなく、”必然”、”自然”に感じさせてくれるのである。  「ノーノー!あなたなしで土地なんていらない・・・(I don't want this without you・・・)」と、ツンデレお嬢様が彼が死んでようやくすすり泣きながらホンネを告白するという、こっちまでもらい泣きしそうな訴えをする場面では、カメラが次第に彼らを上から俯瞰するカタチでどんどん離れていき二人がどんどん小さくなっていく。  大きな大地に、死んだ彼と彼にすがりつく彼女。 あたりは暗く、ヒュ~ヒュ~~~という虚しい響きの木枯らしの音に、ジョン・ウィリアムスの切ない音楽が重なりながら、カメラはさらにどんどん二人から俯瞰のまま遠ざかる。  ロンハワードはきっと、これを、天国の父親目線だとしたのだろう。  天国の父が「おぉおぉ息子よ。せっかく土地とさらにそこで繁栄していくための嫁まで同時に手に入りそうだったところを。よしワシが生き返らせよう」という彼の言葉が聞こえるようである。  次の瞬間、カメラはまるで遊園地のフリーフォールの高速落下のようにトムのところに急降下。 そしてトムが目を覚ます。  どう考えてもこれは、天国の父から彼へ、命が、落とされた瞬間の描写だ。 救援用の飛行機が食糧の支援物資を空からストーンと落としていくように、父親は命を空から彼に落としたのである。 喜び抱き合うジョセフとシャノンに夕日を逆光にして優しく輝く髪の毛が美しく、この場面でこちらまで心からの幸せに満たされる。  そして彼らの後から追ってきて土地に旗をたてようと馬を駆る人達に気づいた二人は、落としたままだった緑の旗を一緒に掲げ、いっせーのせでブスっと土地にそれをブッ刺すところでは、夫婦の初めての共同作業であるケーキ入刀のようで、まるでほほえましかった。 そして私のハートに的があるなら、二人がブスっと旗を大地に刺した瞬間、的のド真ん中にこの作品がストライクしたのを感じた。  爽快なのは、そのブスっとしたあとバっと場面が暗くなり、その後に出てくるのが、”流れ始めるエンドロール”でもなく”タイトルの題字”でもなく、”The End”というクラシカルな文字だったことだ。  いきなりエンドロール開始だと味気なく、タイトル題字ならちょとドヤ顔な感じで引いていただろう。 それが、昔の映画ならよくあったが最近の映画ではとんと見なくなった”The End”を、クラシカルな題材を扱ったこの映画で用いたのは正しい選択である。  ・・・ということで、このラストのシークエンス数分だけで、ごはん3杯はいけちゃうんじゃないかというくらいの素晴らしいラストであった。  もちろんこの二人だけでなく、シャノンのオバカな両親や、クラブの踊り子、娼婦宿の女将と娼婦たち、ボクシング賭博のドン、スノッブなスティーブン・・・にくめないサブキャラや脇役も、無駄の無い脚本に支えられたストーリーの中で魅力にあふれていた。  若かりしトム・クルーズが、アクションや男くさい映画ではなく、このようなデキのいい壮大なロマン活劇で、無学なシャイで頑張り屋さんというとびきりキュートな役の作品を残してくれたことは、誠にラッキーで貴重なことである。
[DVD(字幕)] 10点(2016-11-30 10:11:40)
174.  ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション 《ネタバレ》 
今までのMIシリーズは、登場する女性キャラの方向性にブレはなかった。悪玉なら悪玉、善玉なら善玉である。  しかしながら、今回のイルサ。敵なのか味方なのか?ハントが好きなのか、ただ利用しているだけなのか?ハントも振り回されっぱなしなのに、まんざらでもない様子。  そんなイルサは、「ルパン3世」の不二子ちゃん、そのままである。 (イルサの手引きでハントがやっとの思いで盗み出したシンジケートの情報が入ったメモリを、スルリとイルサがもってっちゃった時なんてもう、イルサの顔が不二子ちゃんにしか見えなかった。)  となれば、ハントはルパン、おしゃべり心配性なベンジーは次元、そして無口めなテクニシャンであるルーサーは五右衛門そもの。 ハリウッド版ルパン三世にさえ見えてしまった今作は、残念ながら2作目や3作目に匹敵するような感触ではなかった。  映画は観客をドキドキわくわくさせるうえで”まさか”の意表をつく脚本が求められるけれど、こういった、”だましだまされ技法”は実に簡単に意表をつかせうことができ、言い換えれば安直な印象を与える。せいぜい2回までが使用限度だと私は個人的に思っているが、こうもしつこく何度も繰り返す展開はもう3度目あたりでオナカいっぱいだ。  もちろんアクション場面は相変わらず上手にハラハラさせてくれた。  特に序盤に登場するオペラ劇場での攻防も思わず「ワーーッ」と反応した。  ただ、そこで「ワーーッ」と感覚をつかさどる右脳が反応していると同時に、思考をつかさどる左脳のほうでは  「でも殺し屋が大きな音楽イベントに正装してやってきて、そこに来ていた要人を暗殺しようとするとか、銃を打つタイミングは楽譜をチェックして銃の音とかバレないように一番盛り上がる音譜のところにするとか、撃ったけど要人の急所が外れて現場はパニックとか、ヒッチコックの『知りすぎていた男』だよなぁ・・・」と冷静に考えている自分がいた。  余談だが、オペラの公演はプッチーニの「トゥーランドット」。でもそちらよりベンジーがオフィスでヘッドフォンをかけて聞いていたモーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」の序曲のほうが私としてはツボである。  「ショーシャンクの空に」では主人公が刑務所の関係者を締め出して、全館放送するオイタをする時に流した曲もそのオペラからの曲だったし、「ライフ・イズ・ビューティフル」で主人公が奥さんに聞こえるように収容所の放送室に忍び込んで流した曲もそのオペラからの曲だったし、なにかこの「フィガロの結婚」の楽曲は、映画関係者が思わず劇中で使いたくなっちゃうようなサブリミナル信号でも組み込まれているのかもしれない。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2016-11-02 12:40:37)
175.  ペイチェック 消された記憶 《ネタバレ》 
ベン・アフレックは、記憶が消されたものの、記憶を消したあげくペンも殺そうとしていたワルがいる企業へ乗り込み、自分が開発したマシーンの前でつぶやく・・・                                           「これ・・・おれが作ったのか・・・?」    そして、自分の未来を見ようと、おもむろにマシンの前に立つと、サクサクとボタン操作・・・              って、操作方法の記憶はばっちり残ってるんかーい!!w    あの占いマシーン、占うために、半球の透明の玉に両手を乗せるんですが、その球の内側からのショットで球の中で動く青い光が、その手のひらの生命線とか感情線とかをなぞって、ピカーンって反応してるんです。                                       最新のマシーンが、手相占い仕様なんかーい!!!!www                                      (まぁその伏線として、前半でこのマシンの開発話を受けるかどうかを決めかねているベンのいた部屋に、手相占いの手の置物があるので、手相つながりでちゃんと伏線拾ってるなとは思えるんですが・・・未来の地球の終りまで見通せるマシンが、手相仕様かーい!って、そこはすごい、ビックリしたw)    矛盾点やつっこみどころのない映画も良い作品といえますが、むりやり感があるのに、勢いで楽しませられる映画っていうのも、よい映画の性格なのかもしれません。何よりも、大好きなユマ・サーマン登場で、最初から最後までひきつけられました。
[DVD(吹替)] 5点(2016-10-29 14:35:34)
176.  ワイルドカード(2014) 《ネタバレ》 
ジェイソンステイサムが出てるアクション映画はほぼハズレなしかと思ってきましたが、今回初めてハズレに出会いましたw  ラスベガスを舞台にしてるといいながら、ぜんぜんラスベガスを感じさせません。  最初のほうは、ラスベガスの夜景をイメージビデオのようにいろいろ画面に出して「ここはラスベガスですよ!」と一生懸命アピールしてるんですけど、その後、地味で薄暗いなカジノがメインになり始めたあたりから、もうこれはどこの場末の賭博上だって感じになってきます。おそらく経費節減のため、屋内の撮影をベガス以外のロケ費用の安い地域ですませて、そうした映像がたぶんこの映画の8割くらいつかわれている。  とにかく”どーでもいい”画面作りが目立ちます。  物語が始まってまもなく、ステイサムは、ヤクザにレイプされた女に復讐の手伝いを頼まれ、助けないといいながら手助けするわけですが、特にその主犯格を探し出すのに時間も労力もかからず、滞在先のホテルで働いてる黒人メイドが「~号室の~~って人だよ」とサクっと教えてくれて解明できちゃうので面白くもなんともありません。  その後、ステイサムは主犯格の男にもとへ行って、主犯格の手下2名とお決まりの数分間の対決シーンを済ませたあとは、被害女性が後から登場して主犯格の男から札束とその男のペニスを手土産に早々に退散。  いってみれば、この映画の盛り上がりは始まって数十分のこのエピソードが一番の盛り上がりどころ(盛り上がりといっても、その盛り上がり具合は高さ3cm程度のお粗末さですが)であり、その後は、”どーでもいい”エピソードが延々と垂れ流されます。  ほめるところはほとんどなく、もちろんいつも通りステイサムはかっこいいのですが、作品によってガラリとキャラクターを変えてアカデミーノミネートも視野にいれたような渾身の演技をみせるハリウッド役者と違い、「どの映画のステイサムも、だいたい同じ」なので、つまりこの映画を見なくても、ほかの映画でも、この映画で見たようなステイサムが見られるので、つまりこの映画は見なくてもいいかもしれません、という悲しい結論をつけさせていただきます。
[CS・衛星(字幕)] 3点(2016-10-24 11:13:02)
177.  永遠の0 《ネタバレ》 
フグをそのまま食べると毒があって中毒死してしまうので、毒をぬいて食べて安全で美味しいところだけを出す。  この映画はまさにそのフグ料理である。  自民党の安倍首相と思想が近い文化人を呼んで行われている勉強会に講師として招かれ、「経団連を使って広告収入を締めあげ、沖縄の新聞を2社つぶせ」とか「基地の地主は六本木ヒルズに住んでいてお金持ち。沖縄は本当に被害者なのか」とかバクダン発言を連発した百田氏が「永遠の0」の原作者なので、当然ながら原作どおりのストーリーとメッセージをそのまま映画にすると危険きわまりない。  そこで、そのあたりは毒ヌキをし、やんわりと、夫婦愛を軸にした作品に仕上げられている。  私は太平洋戦争についてはかなりいろいろ調べているので、特攻がいかにムチャな捨て駒戦法だったかも分かっているし、実際の戦争末期にはゼロ戦すら特攻で使い果たし、練習用の、布ばりの翼のもろい飛行機に、特攻攻撃中に逃げ出さないように座席に縛り付けた状態で送り込んでいたという映画以上にさらに悲惨な状況だったことも知っている。  そこまでくると、もはや”日本人を殺したのはアメリカ人”ではなく”日本人を殺したのは日本人(の戦争責任者、上層部たち)”の域なのである。  毒ヌキしたフグ料理のようなこの映画「永遠の0」が、もしもっと「太平洋戦争で日本の軍事責任者たちが日本人(兵士や家族達)に何をしでかしてきたか」について知ろう&学ぼう&調べようとするきっかけになるのならば、この映画の価値はそこにあると思う。  特攻を含め、戦時中に愚かな日本の支配者達が、勝ち目のない戦争を”神がついているから負けるわけがない”とか”日本が負けるわけがない”という意味不明な理由で戦争続行したことについてもっと調べたいと思うきっかけになるなら、この映画は見る価値があるはずだ。  あるいは原爆を落したいがためにあえて昭和天皇の戦後の処遇については記さなかったアメリカを中心に作成されたポツダム宣言のワナ(天皇の処遇が分からないと、受諾できないだろうというワナ)にまんまとひっかかり、広島に原爆を落とさせるスキを与え、しかしなおその原爆のニュースすら戦争続行をするために国内で一斉に報道禁止にし、天皇の周辺のわずかな人間達が「昭和天皇が守られるようにするにはどうしよう!?どうしよう!?」とオロオロ勝ち目のない作戦をしぼりだそうとしているうちに長崎にまで原爆を落とされるスキを与えた、戦争責任者らの内情をもっと調べたいと思うきっかけになるなら、この映画は見る価値があるはずだ。  もしくは作者の百田氏が「被害者じゃない」という沖縄の人たちが戦時中にどんな目に遭わされていたかをもっと調べたいと思うきっかけになるなら、この映画は見る価値があるはずだ。 (日本兵士たちに、隠れていた狭い壕を追い出されて戦火の中で爆死させられたり、壕に兵士と一緒に隠れていたところ赤ちゃんが泣き出し、「声を出させるな!殺せ!」と言われて親たちが赤ちゃんの口をふさいで殺させられたこと数知れず・・・。年寄りや女子供は”斬り込み”という、バクダンを背負って竹やりだけ持たされてアメリカの車の下にもぐって自爆攻撃を強要された。こうした沖縄人たちが、戦争続行を押し進める日本人たちにされた数々の出来事はまだまだたくさんある)  さてところでラストシーンについて一言。  宮部が敵の船につっこんでいく手前の瞬間の顔のドアップが、ばーんと写って「いよいよつっこむかー」ってとこで突然画面が黒くなり、そしてその黒い画面に   永遠の0   と、明朝体のタイトルロゴがドーンっと出てくる。   この、最後に画面を黒くしてドーンってタイトル出す手法は、海外映画でよく見ますけど、さらにそこに畳みかけるようにかかる、サザンのテーマソングの熱唱。  「なあーみぃだーみせぬよぅーーにぃーーーえええがああーーおーーーでさよなぁらうぉーーー・・・・♪♪」   な・・・なんかこういうね、主人公が命を散らして信念貫きました系の映画の最後にミディアムテンポの熱唱系テーマソングって、アルマゲドンのエアロスミスくさいというか、いやアルマゲドンにエアロスミスはすごくフィット感ありましたが、こちらのサザンは、コレジャナイ感がいっぱいでしたよ。  この監督、CGのドラえもんの監督もやったそうです。が、最後のエンドロールでピクサーがよくやるアニメキャラだけどまるで人間の役者が撮影したんですよという設定のキャラによるNG場面を入れる手法を、ドラえもんでやっちゃってたみたいで、どうもこの監督、ハリウッドをリスペクトしすぎではないでしょうか!?
[CS・衛星(邦画)] 6点(2016-07-12 15:29:10)(良:1票)
178.  死霊館 《ネタバレ》 
家に棲みついて悪さをしてるのは、子供を悪魔にいけにえにした結果魔女裁判にかけられ恨みを家に遺して自殺した魔女。  でもどうも、その本丸である魔女よりも  「彼女がやらせたのォー!」といってリストカットした手首を見せたと思ったらいきなりガーっと飛び出してきてドツいてくるメイドの幽霊とか、「かくれんぼしよう~♪」っていきなり真っ暗闇の地下室にひきずりこんで電気割って暗闇から手をのばしてくる少女の幽霊とか、ボヨ~ンと主人公一家の子供の背後に立ってちゃっかり写真に写りこむローリー少年の幽霊とか、魔女より幽霊のほうがなんかチョイチョイ たちの悪い怖がらせをしてくるやんって感じで  「魔女がこわいのか、彼女の犠牲者の幽霊がこわいのか、どっちかにせい!」とツッコミをいれたくなる展開であった。  さらにいえば、主人公一家の妻が魔女にとりつかれて暴れ出したので、神父がくるまで待てないってことでエドがとりいそぎ悪魔ばらいをすることになったが  最終的に魔女を追い出す方法が、十字架や聖水や悪魔ばらいのセリフなどではなく  魔女にのっとられた妻本人に「がんばれ!もどってこい!家族の思い出をさぁ思い出して!魔女を追い出して!」とみんなで励まし  エスパーなエド夫人がハンドパワーで、主人公一家が海辺でワハハハと笑い転げ走るステキな思い出の記憶を注入!  最終的に”妻VS魔女”という、妻ボディの内側におけるガチバトルを妻が制して魔女を追い出す・・・という  「だったらもうこれからは、バチカンの許可もらってエクソシストの神父を出張させて 十字架だの聖水だのといった小道具や”神と子と精霊の名において・・・”なんてまどろっこしい悪魔ばらいをしなくたって のっとられた本人をみんなで励まして思い出のアルバムの写真なんかを体にペタペタはりつけて、本人と悪魔を戦わせる手法でええやん」  と思わせるような、<悪魔ばらい師不要論>が噴出しそうな、ぶっとんだ内容であった。   そして何よりも、個人的にいわせていただければ、悪魔憑依の作品は、バッドエンドでなくてはならない。  そうでなければ、ハッピーエンドにみせかけて、最後の場面で「まだまだ悪魔健在ですよ・・・フフフ」というワンカットを入れて、エンドロール・・・でなくてはいけない。  この作品については、個人的には、主人公一家が救われたものの、魔女がエド夫人に移動してしまいエド夫人が娘の背後にハサミをもってしのびよる・・・みたいなラストシーンであってほしかった。  (そう、だいたいエクソシストが登場する作品では、悪魔と奮闘したエクソシストのほうが最終的に被害こうむって終わるっていうのが王道だ)  でも実話であるなら、それ以上は言うまい。  実話の映像化としては、きちんと基本をおさえて上手に撮られた作品ではある。そして、ファーミガ女史のあのなんともいえない、崩れていそうで崩れていない絶妙な均衡で美しさを構築している古典的な顔だちは、この時代のエスパー女として、当たり役であることは間違いない。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2016-07-12 10:34:34)(笑:1票)
179.  エリジウム 《ネタバレ》 
この作品でひっかかったのが、マックスの幼馴染の女性の、白血病にかかった娘が「森に住んでる強い動物が木の上のエサを全部食べちゃって、小さな動物が死にそうになったけど、カバの背中に乗って木の上のエサを食べることができたのよ」って思わせぶりにマックスに話す場面。   弱った小動物=自分  カバ=マックス  といいたいのだろうが、マックスがそれを自覚して「カバは何のトクがある?」ときくと「友達になれたわ」と答える娘。   てことはなんだオイ、娘は「さぁさぁ私を助けなさい。そうすれば私が友達になってあげるわよ?さぁどうなの?フフッ」って言いたいわけか。 なんたる、こまっしゃくれた娘(笑)   血さえつながってはいないものの、今まで一緒に遊んだよとか、昔娘に助けてもらった恩があるよとかならともかく ついさっき会ったばかりで言葉も交わしていない間柄なのに、マックスの包帯をマキマキしてあげてマックスに純真そうな上目づかいでカバ話をすれば、無料でエリジウムに連れてってくれて病気を治してもらえると思ってのことなら、なんとまぁ計算高い娘よ(笑)  ゆえに、マックスが自爆ボタンとなるキーボードのエンターキーをポチンと押してカクンとなっても、「命無駄にしたな」としか思えない残念な展開。  そもそも主人公を自爆させるってのは、映画的にはハイリスクハイリターンだ。   オチのネタバレになるのでタイトルは伏せるがジャン・レノ主演のアレとか、ブルース・ウィリス主演のアレで描かれた”自爆して愛するものを救う!”は、私てきには、しっかりとしたプロットのおかげでハイリターンになっていると思っている。  ということで、それなりの脚本・映像・音楽を主人公のために用意ができないままマックスを自爆させちゃったのは最大の誤算。   ・・・といいつつ、「第9地区」を思い出させるホコリくさい画面に引き込まれたのも事実(自爆)
[CS・衛星(字幕)] 6点(2016-04-11 22:05:26)
180.  コンスタンティン
この映画、大天使ガブリエルのティルダ・スウィントンと、ルシファー(サタン)のピーターストーメアの2人だけが記憶に残った。  この二人はキワモノ演じさせたら、ドンピシャリな役者だ。  人間離れしたお顔のティルダは「ザ・ビーチ」の怪しい集団のリーダーや、「オンリーラヴァーズレフトアライヴ」のスタイリッシュなドラキュラや、「スノーピアサー」のクレイジーなおばさんといった、ミョウチキリンな役が本当にピッタリだ。  そして今回は、ゲスな大天使役で私の心をわしづかみである。さらに目をひいたのはそのファッションだ。  初登場シーンでは180cmの長身にマニッシュなブラックのパンツルックでモード系なガブリエルかと思いきや 終盤で表れたときの彼女は、病院で患者の腕につけるリストバンドを何連にもつけレースアップのパンツのすそとクラッシュ加工のオフホワイトのタイトな衣装が終末感漂うポスト・アポカリプティック系なガブリエルだったり。  なんともファッショナブルなガブリエルで、お洋服が大好きな私にはかなりのツボである。  そもそもガブリエルは聖書でも男か女かはニュートラルなキャラなので、中性的なティルダにはまさにピッタリだ。  そしてサタンのピーター・ストーメア。彼も「マイノリティ・リポート」の怪しすぎる眼科医や、「8mm」の怪しすぎるAV監督のように、ちょろっと数分出ただけでもうその存在感が主役さえ圧倒するキョーレツな個性の役者だ。  そんな彼、期待を裏切ることなく、今回も数分間だけの登場でキアヌの存在感すら圧倒する怪しすぎるサタンを演じきってくれた。  正直、ガブリエルとサタン以外は、憑依モノによくある流れなのでどうでもよく、実際、CS放送で録画したこの作品を見終わったあと、”編集”を使ってガブとサタンの登場シーン以外は削除した。  ガブ&サタンのPV映像としてこれからもたまに見て楽しむ。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2016-03-16 19:12:05)
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