1. 喜劇 駅前温泉
《ネタバレ》 森繁と伴淳が、全編にわたって丁々発止と渡り合う。しかもそこに、三木のり平やフランキー堺がからみ、淡島千景や淡路恵子、池内淳子(若いのに、何という艶っぽさ!)、そして実におちゃっぴいな司葉子らのキレイどころが華を添え、森光子や沢村貞子、菅井きんなどの名女優が脇をしめる。いやはや、これほどまでに贅沢なキャストの映画が、クレイジーキャッツ主演作の“添え物”として2本立て公開だったとは! この事実だけでも、当時の日本映画の凄さ豊かさが実感できるというものだ。 撮影所内に組まれた室内セットでの撮影を中心に、時折はさみ込まれる屋外ロケシーンのみずみずしさ。当時でも「田舎」だったろうその山あいの温泉街のたたずまいからは、単なる郷愁や“古くささ”といったものとはちがう“匂い”が漂ってくる。それは、菅井きんと幼い娘が扮する「乞食母子」の存在に象徴される、1960年代前半の「昭和」という時代の“貧しさ”であり、それでも人と人とが“情”によってつながり得た時代の風景であり、匂いであるだろう。 そして久松静児という監督は、常にそういった時代の“貧しさ”や人々の“情”というものを見つめ、丁寧に映像へとすくい取りながら映画を撮ってきたのだった。一方で「三助コンクール」なる場面のようなドタバタ風の味付けをはさみながら、また一方で、夏木陽介演じる青年のごとく若い世代への“判断停止”ぶりをあからさまにしながら(古い価値観にとらわれないというより、ここでの彼は単なる傍若無人で無神経な、若大将ならぬ“バカ大将”でしかない)、変貌しつつある時代への哀惜と諦観をにじませてしまう。それが、本来なら他愛なくも明朗な人情喜劇でしかないはずの本作に、どこかそれ以上の陰影を与えることになったのだと思う(・・・結婚して旅立つ娘・司葉子を乗せた汽車と、それを遠くから見送る森繁のラスト場面など、そこにあるのは単なる感傷というよりもっと深い諦観と「悲しみ」だ・・・)。 それを、いかにも「保守的」な後ろ向きの郷愁に過ぎないというのは、たぶん正しい。また、これが歴史に残る名作でも何でもなく、むしろ歴史に埋もれてしまうたぐいの映画であるだろうことも承知している。けれど、それでもやっぱりこの映画と、そういう映画の作り手としての久松静児監督を、ぼくはこれからもつつましく愛し続けるだろう。 [CS・衛星(邦画)] 7点(2009-11-25 12:16:56) |
2. 死霊の盆踊り
《ネタバレ》 ・・・たぶん作り手たちの主眼は、まだ当時メジャーの作品では御法度だった女性のハダカを、これでもかこれでもかとスクリーンに映し出すこと、それに尽きるものだったはずだ。その点では、堂々10名ものダンサーを次々と“競艶”させる大サービスぶりこそ、彼らが考える本作の「商品的価値」だった。つまりこれは、あくまで「プレイボーイ」誌なんかの映像版、“動くヌード・グラビア”のはずだった。 ただこの映画は、単なるストリップショーのライブをフィルムにおさめるのではなく、あくまで“劇映画”としての体裁をとってしまう。それゆえ「ハダカを見せる」だけ以上の付加(負加?)価値を求められることになり、そっち方面でのあまりの低レベルぶりが、本作を「史上最低の駄作」ということで、良くも悪くもカルト化させてしまったのだった。しかし、どうしてただのストリップ映画が「ホラー」(と、言えるならだが・・・)であらねばならなかったのか? そこにぼくは、原作・脚本・共同製作エド・ウッドの映画への“愛”を見たく思うのだ。 映画の冒頭近く、三流小説家の男が婚約者に「他は全然ダメだけど、ホラー小説だけは売れるんだ」と自嘲気味(にしては、ちょっと得意気)に語る。あきらかにあれは、ウッド自身の投影であり、彼の心の声だろう。そしてウッド映画のお馴染みクリスウェルが口にする大仰でバカバカしい(だが、いたって大真面目な)与太からもまた、ウッドの「ホラー」ジャンルへの自負やら思い入れが伝わってくるじゃないか。ここに欠けているのは、そういう「(ホラー)映画への愛」を表現するための演出であり、スタッフであり、役者たちであるだろう。逆に言うなら、ここには「愛」(と、女のハダカ)だけがあって他には何もないのである・・・。 それでもぼくは、ここでのブーイングと失笑の嵐(と、一部の“倒錯”した絶賛)にもかかわらず、この作品の徹底した「無意味さ」と、それゆえ透けて見える「エド・ウッド魂(!)」に、ひそかなエールをおくることにしよう。【はちーご=】さんも書かれていたと思うけれど、あの政治的・社会的に混沌とした1960年代半ばにあって、ここまで「無意味」に徹しきれることもひとつのラディカルさに他ならないのだし。だから、点数は「0」でも、個人的には「10」です。あしからず。 [ビデオ(字幕)] 0点(2009-05-25 16:38:00)(良:5票) |
3. 火星人地球大襲撃
《ネタバレ》 【なにわ君】さん、ぼくはかなり以前に見たっきりですけど、この映画が大好きなんです! 地下鉄工事現場で謎の宇宙船が発見され、触れた者は奇怪な幻覚に錯乱状態になるという序盤から、何となく『ミミック』を想わせるサスペンスフルな趣にもうワクワク・ドキドキ。やがてその幻覚が火星人の「思念パワー」によるもので、宇宙船の中から巨大な昆虫型の火星人の死骸が現れ、博士が火星での「最終戦争」のカタストロフィを“幻視”するあたり、「ああ、エメリッヒの『インデペンデンス・デイ』でもこの設定を頂戴していたっけ」と、もう完全にストーリーに没入。そして火星人の思念パワーが全開となり、ロンドンの街に邪悪なエネルギーが実体化して人々を狂乱させるクライマックスは、トビー・フーパーの『スペース・バンパイア』と同じじゃん! と大興奮でありました。何より、あのゆらゆらとそびえるエネルギーの塊の、実に「悪魔」的な視覚イメージの卓抜さ! そう、このたいして予算もかかっていそうにないSFスリラーは、前述の通り、その後に作られた数々の大作映画の「原典(オリジン)」として、未だその魅力を喪っていないとぼくは思っています。いわゆる「侵略ものSF」でありながら、エイリアンを未知の怪物とせず、“攻撃本能”と“憎悪”の感情の増幅されたもの、とするあたり、これがまぎれもないH・G・ウェルズの『宇宙戦争』の、巧妙な翻案であることを証明するものでありましょう。そしてウェルズの小説が、戦争と破壊の「黙示録的世紀」だった20世紀への予言と警鐘として読み得るように、この映画もまた、ひとつの「アポカリプス」の現前化として創られていることを、ぼくは信じて疑いません。 …クライマックスで、あの巨大なエネルギーの塊を「アース線」の原理で“消滅”させるあたりも、戦いの神「マルス(=火星)」に対する地球(=アース)の勝利を謳う《寓話》としてお見事! 怪奇ゲテモノ映画専門のハマー・フィルム製作であるこの作品、なかなかどうしてスミに置けない小さな大傑作だと思いますですよ。 8点(2005-03-23 14:16:52)(良:1票) |
4. 渚のたたかい
見たのはもう随分と大昔で、しかもテレビ放映だったけれど、今なお忘れ難い「(ぼくにとっての)永遠の名作」です。ノルマンディ上陸作戦を背景にした第二次世界大戦ものの戦争映画だけど、決して『史上最大の作戦』や『プライベート・ライアン』なんかのように大上段に「歴史」だの「悲劇」だのを描くものじゃない。派手な戦闘シーンもほとんどない。むしろ一編のメルヘン(!)めいた、不思議な余韻を残す「反戦」ならぬ「反=戦争映画」とでも言いましょうか…。 クリフ・ロバ-トソン扮する軍曹率いるアメリカ軍小隊が、沿岸近くの村人やドイツ兵捕虜を、安全な連合軍キャンプまで引率しようとする。が、ようやく連れてくると司令官に「もう一度村へ連れ戻せ!」との命令。仕方なく再び来た道を戻ったものの、まだ砲弾が飛んでくる危険な状態。軍曹は、今度こそとキャンプへ彼らを連れていくが、またまた拒絶されてしまう。そして一行は、今度も村への道のりをてくてくと…。 と書くと、何だか風刺っぽいコメディみたいだ。けれど映画は、村と連合軍キャンプを行きつ戻りつする彼らの中で次第に芽生えていく連帯感やら心のふれあいを、ただ丁寧にスケッチしていく。食べ物を分け合ったり、楽器を演奏したり、時にはいがみあったり砲弾を喰らったりするものの、まるでピクニックのような気分。そのへんてこな“珍道中”を通して、「悲惨な戦争時にも、こんな風に普通の人々は笑ったり、泣いたり、恋したりして生きてきたんだ」という実感を、見ているぼくたちはしみじみと噛みしめるといった次第です。ほんと、すべてを“白か黒か・正義か悪か”と単純化するアメリカ映画にあって、この良い意味での「ゆるさ」は、実に新鮮なオドロキをもたらしてくれることでしょう。 最後、仲良くなった村人たちと分かれて、戦争という非日常的な「日常」へと戻っていく軍曹と彼の小隊。その美しいラストを含めて、“そして、人生は続く”ことをかくも詩情豊かに描いた本作を、ぼくはいつまでも愛し続けたいと思います。DVD、出ないのかなぁ。 9点(2004-11-04 17:24:01)(良:1票) |
5. 女は夜の匂い(1962)
もう30年近く前(いやはや…)にテレビ放映で見て、その後10年ほど前にビデオで再見。以来、見直す機会に恵まれないものの、今なお小生には忘れ難い作品のひとつです。日本でのタイトルはレレレだけど(検索すると、まっ先に日本の小林旭主演作『ネオン警察・女は夜の匂い』だの、洋画ピンク作だのがヒットする…悲しい)、とっても小ジャレたフレンチ版赤川次郎(?)とも評すべきライトなロマンチック・ミステリーであります。 もっとも、何人もの女性と同時に付き合っているものの、一度も真剣に愛したことのないプレイボーイが主人公。コイツが女のひとりに偽証され、殺人犯として追われるものの、いつも女たちに匿われて救われる…というストーリーにゃ、思わず「ケッ!」とくる御仁も多いことでしょう。しかし映画は、そんなお調子者の男のスッタモンダを描きつつ、ちっともイヤミじゃない。むしろ、こんな男を好きにならずにはいられない女性たちの「愚かさ」を、むしろ“女ゆえの「可愛さ」”としてユーモアたっぷりに描いている。このあたり、監督のミシェル・ドヴィルと女性脚本家ニナ・コンパネーズの才気が光っています。 そして主人公は、逃亡と真犯人探しの中で、はじめて女性に心奪われる。けれどそれは人妻で、いくら彼が生まれてはじめての“純粋な愛”を捧げても、彼女の心は夫のものだと悟らされてしまう。その時、主人公は、鏡に映る彼女の後ろに立ち、彼女の顔を両手で包み込みながら「ほら、これが笑っている時のきみ。これは泣きベソ顔のきみ、おこりん坊のきみ、(目尻を吊り上げて)中国人のきみ…」と、百面相(?)ごっこのイタズラをするんだけど、そこには、はじめて女性を好きになったのに、どうしようもない男の悲しみとあきらめが痛いほど感じられる。そう、ぼくはこれほどロマンチックで、洒落ていて、でも切なくて、叙情的なシーンを、今にいたるまで見たことがない。だからこそ、このほとんど語られることのない映画のことが、未だ忘れられないのであります。 ヌーベルヴァーグ全盛の頃に作られながら、いかにもフランス的なコケットリーとソフィスティケ-トを持った、むしろ「古い」タイプの映画には違いない。けれど、ぼくはこんな「おフランス」な味わいも心から愛していきたい。…自分にゃ縁のないものだから、いっそうのこと(笑) 8点(2004-11-01 13:45:04) |
6. 暁の用心棒
アメリカから渡ってきた売れない役者のトニー・アンソニーは、イタリア西部劇ブームの恩恵で何とか主役の座を得る。が、それは、スペインの僻地で細々と撮られた低予算のBマイナス・ランクの代物。彼自身の弁によれば、クライマックスなど単なるビルか何かの工事現場で、ブルドーザーをどけて撮影されたものだったという。 しかし、アメリカ政府がメキシコに貸与するドル金貨を巡り、盗賊一味と流れ者ガンマンが渡り合う映画は、マカロニ特有のサディズムだけではない、ある奇妙な「詩情(!)」を漂わせることとなった。…もちろん、それは“狙った”ものじゃあるまい。けれど、どんなに安っぽいものであろうと、その「詩」は、間違いなく作品を忘れ難いものにした。 …この映画には、科白が極端に少ない。主人公はほとんど喋らないし、誰かが何かしゃべっても、それだけで終わってしまう。つまり、「会話」がないのだ。 代わりに、拳銃やライフルの発射音、馬のいななきや蹄の音、鞭が風を切り肉を裂く音…など、ここには殺伐とした「音」が満ち満ちている。特にクライマックスの、ガトリング銃(ほら、『ラスト サムライ』で政府軍が撃ってた機関銃っす)を乱射する盗賊のボスと、トロッコで弾をかわしつつショットガンでボスを追いつめるガンマンの対決など、廃虚内に響きわたるガトリング銃とトロッコの軋む音の二重奏がほとんど「官能的」ですらあるだろう。この、沈黙と音の〈異化効果〉が、観客を「超現実的(!)」な世界へといざなっていく…。 そして、低予算ゆえにエキストラを雇えずほとんど人間のいない町や、貧相なセットが、逆にやはりシュールな異様さを画面に与えることになったということもある。人物の極端なクローズアップが多いマカロニものにしては、引き(ロング)の画の多いことも、超現実感をより強調していることも指摘しておきたい。例えるなら、それはパゾリーニの『奇蹟の丘』と同じ効果を作品にもたらしている… いったいこれは、監督の才能ゆえなんだろうか。それとも、単なる偶然? …いずれにしろ、「酷い・汚い・どうでもいい」代物がほとんどのマカロニ・ウエスタンにあって、これはそのすべてにあてはまりつつジャンルを超越するに至ったものだと、少なくとも小生は信じている。 この名もない1本は、ささやかだけれど、「奇蹟」を実現した映画だ。 8点(2004-10-01 17:16:02)(良:1票) |
7. クマのプーさん(1965)
先日、近所の公民館で東映アニメの『西遊記』と2本立で上映。息子(小3)と一緒に見ました。 A.A.ミルンの原作は昔から大好きで、今でも時々、もうボロボロになった本(『くまのプーさん』と『プー横丁にたった家』)を読み返したりしています(息子は興味を示しませんが…)。そこには、ミルンの「人生の慰めをめぐるささやかな省察と啓示」が、慎ましく投影されている。プーと仲間たちの、“目の前にあるささやかな幸せ・不幸せ”に対する素直な反応には、どんどん複雑なものになってしまった我が「人生」を顧みずにはいられない。 そして、ディズニーによるアニメ映画化のこれが第1作目なんですよね? ぼくが見たのはこれ以外だと長篇の『ティガー・ムービー プーさんのおくりもの』だけなんですが、正直言ってどんな国の、どんな物語であろうと同じ「世界観」に改編するディズニ-・アニメにあって(それは、紛うことなき〈文化帝国主義〉だ)、この『プーさん』シリーズは、まだしも原作の味わいが残されているのではないかなあ。まあ、あまりにもキュートで「可愛いすぎる!」ってのは確かだけど… 何はともあれ、ぼくはあの、「あれ、ぼくなにをかんがえてたんだっけ?」と考えるプーさんの、片目をちょっとしかめる表情が大好きです。あれだけは、ディズニ-版の最大の魅力だと思う。この映画を見てからそのマネばかりやって、家族のヒンシュクを買っています(笑) 8点(2004-07-28 19:10:33) |
8. 西遊記(1960)
近所の公民館で上映会があったので息子(小3)を連れて、30数年ぶりに再見。でも悟空につくす健気な少女猿リンリンや、小鬼の小竜が角をアンテナにして通信するあたりは、ハッキリと覚えてました。 でも何より興味深かったのが、手塚治虫的キャラクターや描き方と、当時の東映アニメ調のキャラクターや描き方が“水と油”状態であること。「手塚治虫」の部分が、そのスピード感といい、モダンなセンスといい(中国のお話しにJAZZやらディズニーやフライシャーのアニメ映画のタッチを持ち込むあたり、まさに手塚治虫ならでは!)、まるで無意味(だからこそ、笑える)なギャグといい、作品中から“突出”している。その他の部分ではいかにも東洋風の色彩や絵柄だのに、突然ガラリと「別の作品」が紛れ込んだかのような印象なんですねぇ。特に牛魔王のアジトでのクライマックスは、確実に手塚治虫ならではの躍動感に満ち満ちて、それはいいんだけど、明らかに全体のトーンから浮いているのです。 たぶん、作品としてはマズイことなのかもしれない。けれど今見ると、だからこそ「面白い」し貴重なんだと言える。手塚治虫をはじめ当時のスタッフが、試行錯誤を繰り返しつつこの長篇アニメを作っていっただろうことが、画面からありありと見えてくるような気がするんです。それはそれで、作品以上にスリリングで感動的なのでした。 そしてひとつ告白すると、ぼくは手塚がリードして手掛けたいかにも「モダン」で才気にあふれた部分を面白く見つつ、実のところ古めかしくも端正な東映スタッフ部分の方こそが魅力的に思えた(中でもあのリンリンの愛らしさ!)。映画に限らず芸術表現というのは、この天才をもってしても常に「新しい」部分からまっ先に古びていくものだ…という〈真理〉を、噛みしめた次第です。 もっとも、息子や居合わせた他の子どもたちには、圧倒的に「手塚パート」の方が受けていましたが…。やっぱ、小生の“見方”が歪んでるのん? いやはや。 7点(2004-07-28 16:24:26) |
9. ピンクの豹
免許証なるものを1枚も持っていない(あ、教員免状は確か持ってます。…何の役にもたたんが)者を受け入れてくれた街の弱小レンタルビデオ店の片隅で、日に焼けて文字通りピンク色になったパッケージを発見。「うわぁ、昔テレビで見たよなぁ。懐かしい~」と早速借りて見ましたです。 で、あらためて知ったのは、この映画が決して「ピンク・パンサー」シリーズの第1作じゃないってことでした。だって、クル-ゾ-警部のキャラが、ここでは「自分じゃ有能で頭がいいと思っている単なる“オロカ者”」でしかない。あの、遂には上司を精神病院行きにさせた狂騒的かつ破壊的な“デタラメぶり”とは、まだ無縁なのだから。 代わりに、作品はかなりスマートで「オッシャレー」なソフィスティケイテッド・コメディをめざそうとしております。それは、キャストを見ても明らか。怪盗ファントム演じるデビッド・ニーブンとロバート・ワグナーの新旧二枚目コンビ、そこにクラウディア・カルデナーレの王女と怪盗一味のキャプシーヌという美女連が絡んで、クルーゾーは言わば時々物語を逸脱させ、活性化させる「トリックスター(道化)」的扱いなんですね。ほら、ブレイク・エドワ-ズ監督は『ティファニーで朝食を』でも、ミッキー・ルーニー扮する珍妙な「日本人」を登場させていたけど、あれと同じ手です。 そう思って見ると、お堅いカルデナーレの王女がシャンパンで酔っぱらった時の素晴らしくコケティッシュでチャーミングな姿といい、ニーブンとワグナーが金庫をはさんで堂々めぐりする、マルクス兄弟の『我が輩はカモである』を再現してみせたシーンといい、さすが才人エドワーズ! という感じで小生的には十分楽しめました。 さあ、ではクルーゾーがいよいよ「クルーゾーらしさ」を発揮した(らしい)次作『暗闇でドッキリ』を…と思ったら、ビデオがありませんでした。トホホ。 7点(2004-07-27 15:05:11) |
10. 少年(1969)
強い者が弱い者を虐待・搾取し、虐待・搾取された者は自分より弱い者を虐待・搾取し…。延々と繰り返されるこの関係性が《権力》の構図だとするなら、その最底辺に「少年」がいる。 親に「当り屋」を強要され、逃げ出して故郷の祖母のところへ行こうにもお金がなくなり、見知らぬ町でひとりぼっちで泣く少年。自分が稼いだお金なのに、父親から「好きなものを食え」と言われても一番安いメニューをおずおずと選ぶ少年。いじめられている子に声をかけようとしたら、その子に、大切にしていたジャイアンツの野球帽を泥水に叩き付けられた少年。幼い弟に、「いつかアンドロメダ星人がやって来て、ぼくたちを地球から連れていってくれるんだ」と何度も何度も語りつづける少年。… 大島監督がこの作品に託した「国家」と「権力」という観念的なテーマ以上に、あまりにも理不尽な“受難”を受け続ける少年の心の痛みが、見る者の心にも突き刺さる。それは「いじめ」や親の虐待といった、今日なお切実な問題をぼくたちの前に突きつけてくるだろう。が、何よりもこの少年のつらさや悲しみの深さが(↓の方も書かれている通り、少年を演じる子役のあの眼差し…)、ストレートにぼくたちの心を撃つことで、単なる「問題提起」だけではない切実さを与えるのだ。 ぼくは見るたび、この映画の中の少年に涙する。しかし、それは決して同情や憐憫からじゃない。この映画を見ている間、ぼくは「少年」そのものになっている。そう、あの少年は「ぼく自身」だ。だから少年が泣く時、ぼくも泣く。少年がこの世界に押しつぶされそうになるのをひとりで耐えている時、彼の代わりにぼくが涙を流す。…『少年』は、ぼく自身の「物語」となるのだ。 それは、たぶん、間違いなく、あなたにとっても。 10点(2004-07-21 20:27:23)(良:1票) |
11. カラビニエ
1960年代(少なくとも『中国女』までの)のゴダールって、結局のところアンナ・カリーナへの“愛”と、それ以上の“絶望”に囚われていたことは、間違いない。盟友トリュフォーが「(ゴダールの)アンナ・カリーナへの愛は、死に至る病だから…」とつぶやいたというけれど、そういう天才でありながら「モテない男」だったゴダールの歓喜と苦悩が、『気狂いピエロ』を頂点とした数々の傑作を産んだことに、才能もないただの「モテない君」である我々はただナミダし、以後のゴダールがいかに「難解」で「前衛」として突っ走ろうと、やはり「応援」せずにはいられないのだ(よね、ご同輩?)。 そんなゴダールの60年代初期作品にあって、一連のメロドラマ(!)的な“情念”から唯一解放された映画が、たぶんこの『カラビニエ』なんじゃあるまいか。 監督自身が「これはひとつの寓話である」と定義する、この映画。その名もミケランジェロとユリシーズというナイーブな兄弟が戦地に赴いて繰り広げる、呆れるぐらいに愚かで残酷で滑稽な従軍記だ。もちろん、“寓話”なのだから、教訓はある。映画は、かつてないほど単純明快に「戦争」というものの愚劣にして残虐さを、一見あの史上サイテ-監督エド・ウッド作品(!)みたくデタラメな展開の中に展開していくんである。…その、愚劣にして残虐な兄弟たちを通じて。 それにしても、この映画の何というすがすがしいまでの「自由さ」だろう! ここでゴダールは、喜々として映像という“素材(マテリアル)”によって「観念」を表象することを楽しみ、淫している。それは、まさに1980年代以降のゴダールの「唯物主義(マテリアリズム)」を予告…というか、彼の才能の行方を告げるものだ。そう、この「おもろうてやがて哀しき戦争(についての)映画」には、この天才の「可能性の中心」のすべてがある。 10点(2004-07-14 20:31:45) |
12. 黄線地帯
石井輝男カントクの映画に漂う、あの一種独特の“いかがわしさ”。犯罪活劇であろうが、エロ・グロものであろうが、この人が撮るとどこか怪しく(=妖しく)、うさん臭い、英語でいう“ビザール”という語がピッタリなものになるんである。 それは、どこか「見世物」小屋風の味わいと言ったらいいだろうか。おどろおどろしい看板と口上で見物客を呼び込み、たいていはコケオドシや安っぽい出し物にすぎないのだけど、何故か惹き付けられてしまう。あの奇妙に「官能的(!)」ですらある(今やノスタルジーの対象でしかない)縁日の見世物小屋こそ、石井ワールドに最も近しいものではあるまいか。 倒産寸前の頃の新東宝で脚本・監督した本作。アラン・ドロンの『サムライ』を先取りしたかのようなニヒルでストイックな殺し屋(天知茂)が、依頼主に裏切られ、その復讐のため偶然出会ったダンサーを人質に神戸へと向かう。セットで造られた、ほとんどカスバのような無国籍的「神戸」には、これまた日本人ばなれした怪人物やら、明らかに白人女性の顏を黒く塗った「黒人女」やら、「ババァじゃないよ、マダムと呼びなっ!」と凄む安ホテルの女主人やらがゾロゾロご登場。…この、どこまでもバタ臭く、戦前のフランス映画(中でも、デュヴィヴィエの『望郷』だろう)を気どった暗黒街ドラマは、あたかも味噌汁を「ブイヤベース」だと言われて飲まされたような(?)トホホ感に満ち満ちているのだ(きっと、少し意地の悪い観客なら「失笑」の連続でありましょう。確かに、滑稽ではあるし…)。 しかしこの、すべてにチープでキッチュ(まがい物)ないかがわしい「フランス犯罪映画もどき」には、天真爛漫なコケットリーを見事に体現したダンサー役の三原葉子の素晴らしさを筆頭に、不思議な「愛嬌」にあふれている。そして、作り手たちの「本気」が確かに伝わってくる。見世物小屋で「生きた本物の人魚」を見たら、ただの水着を着たオバサンだった(笑)…という風のインチキみたいな作品だけれど、その涙ぐましい「サ-ビス精神」だけは、どんなにエライ監督の映画やそこいらの「A級」大作なんぞより持ってるぜ! という心意気がほとばしっている。 そんな作品を前に、映画ファンなら誰が愛さずにいられようか。 8点(2004-06-15 17:33:47)(良:1票) |
13. 驚異の透明人間
《ネタバレ》 上映時間は、たった60分たらず。まるでテレビの『トワイライト・ゾーン』あたりの1エピソードじゃないか…と思わされたりもする、すべてにチープな典型的B級SFスリラーには違いない。けれど、おそらく最低の予算をしか与えられなかっただろうこの映画には、その一方で実に“豊かな”としか形容し得ない充実感が随所にみなぎっている。たとえば、冒頭で主人公が刑務所を脱獄するくだり。最低限のセット(壁、監視塔の見張り台部分のみ!)を宵闇でカバーし、サーチライトによる光と闇のコントラストだけで見事に「刑務所」をシンボリックに表現してみせるあたりの鮮やかさはどうだ! そしてこの、金庫破りのプロである主人公が透明人間にされるのだけれど、その実験室の扉は、いかにも「放射性物質」を扱っているのだとわかるよう、分厚い鉛製になっている。そんな細部ひとつで、画面にリアリティがうまれることを、この映画の作り手は熟知している。さらにもうひとつ、主人公が実験室の別の部屋に行こうとして、計画の首謀者の軍人に「その部屋には入るな!」と制止される。それだけで、何の変哲もないはずの閉ざされたドアが、「この向こうには何が…」というサスペンスを醸し出すんである! ラストは、ほとんどロバート・アルドリッチの怪作『キッスで殺せ』を想わせる“核爆発(!)”により、ジ・エンド。いや、その爆発の後に、人間の透明化を実現した共産圏からの亡命科学者が科学と核の暴走の脅威を(カメラ目線で!)説くのだった。いずれにしろ、どこまでも荒唐無稽かつ安っぽいSFジャンクでありながら、ディテールの充実によって画面に驚くほどの「説得力」をもたらしている。…それは、カネがなくても、映画は作り手の創意によってかくも輝くことを、あらためてぼくたちに教えてくれる(…一方で、エド・ウッドは逆にその徹底した「創意のなさ」ぶりが、不思議な“愛嬌”を産むのだけど)。何でも、本作の監督自身が戦前のドイツからの亡命者なんだとか。ドイツ表現主義と呼ばれる“光と影”、さらには大胆に省略されたセットという技法が、低予算の映画づくりにこそ有効であることを実証してみせたその数々のB級映画は、もはやカルト化しているという。その真価は、この、必ずしも代表作とは言われていない作品にあってすらはっきりとうかがえる。…エドガー・G・ウルマーという名前は、あなどれません。 9点(2004-05-18 13:24:53)(良:1票) |
14. 港祭りに来た男
マキノ雅弘の映画は、いつも「にじんで」いる。笑いがにじんでいる。涙がにじんでいる。情感がにじんでいる。諦観がにじんでいる。まごころがにじんでいる。優しさがにじんでいる。人の強さが、弱さがにじんでいる。日本らしい風景がにじんでいる。…それは、外国人がオズやミゾグチの映画に見出す「日本」とはちがう、はるか昔から連綿と受け継がれてきた「日本(人)そのもの」がそこにあるのだ、と言っていいだろうか。オズやミゾグチは確かに“汎世界的(!)”に偉大だろう。けれど、マキノは何より“日本のこころ”そのものとして、真に偉大な存在なのだと思う。…たとえば、この映画だ。藩主に愛する女性を奪われた漁師が、彼女を取り戻そうと、居合い抜きの達人となってふたたび故郷に戻ってくる。しかし待っているのは、愛する者たちの「死」でしかなかった…という笠原和夫の脚本は、まるで西洋の騎士道ロマンスもののように直線的な「悲劇性」に貫かれている(同じく彼の脚本作『総長賭博』が、まさしくそうだったように)。しかし、この映画を見る者は、そこに荘重な劇的展開ではなく、祭りの囃子の物悲しい調べや唄声を、主人公たちの伏し目がちな所作を、牽牛と織女のように(題名の「港祭り」とは七夕祭りのことだ)主人公たちはあの世で結ばれたのだと自分に言い聞かせるかのような“なぐさめ”を見て、感じて、ただ涙するばかりだろう。…こういう映画を前にすると、本当に素晴らしい作品は、才能でも技術でもなく、作り手と観客との〈間〉で成立する「魂の共鳴作用」ゆえに成立するのだと、ぼくなどは確信する次第です。ビデオがあるかどうかは知らないけれど、テレビででも放映することがあるならぜひご覧になってください。もちろん、他のすべての「マキノ作品」も同様に。 10点(2004-04-06 21:16:42)(良:1票) |
15. ジョアンナ
《ネタバレ》 サイケでアナーキーでレボリューションでフリー(・セックス)な、1960年代スウィンギング・ロンドンにやって来た女の子が繰り広げる、“本当の「自分」と「愛」探し”。…なんて言うと、何だか当時のありがちな〈トンでる若者(笑)の無軌道な青春像〉を描いたシロモノと受け取られかねないなあ。でも、主人公のジョアンナは、たとえばロンドンという“不思議の国”に迷い込んだアリスのようでいて、実のところ、彼女の方が「ワンダー」なんだ。階級も、人種も、何もかもを超えて、すべてを受け入れるジョアンナ。恋人の黒人青年が殺人を犯しても、彼の子どもを宿した彼女はそれすら受け入れるんだから。そんなジョアンナを優しく見守るかのような映画の眼差しに、いつしか観客のぼくたちの眼差しが同化してしまう。このブッとんでいる“自然体”な女の子を、限りなく愛しく慈しんでいる自分に気づくんだ。…確かに、「好き・嫌い」がハッキリ分かれるタイプの映画かもしれない。けれど、素ッ晴らしいナンバーの数々(そう、これは一風変わったミュージカルとしても見ることができる)や、映像以上に音にこだわり、様々なサウンドトラックをコラージュしてみせる演出の「才気」も微笑ましい、これは心から愛すべき1本であります。少なくとも、ぼくの中では未だ「彼女」は輝き、生き続けている。…ジョアンナ、まだトンでるかい! 9点(2004-04-06 19:31:46) |
16. 恐怖の48時間
↓サイケデリコンさんの「サンテレビ映画路線(とは、関西圏でしか通用しないっすね)」に限りない連帯意識を持つ者ですが、この映画への低評価は悲しいなぁ(笑)。だってこれ、テレビで放映されるたびに何故か見てしまう“ひそかなお気に入り”なんです…。狂犬病の犬に噛まれたメキシコの寒村の医者が、発症の恐怖と闘いながら、血清のある遠い町へと向かう。その協力者に、出発を遅らせてまで難産を救ったメキシコ女の夫と、ステラ・スティーブンス扮する気のいい姐御! …途中、『恐怖の報酬』みたいなシーンあり、“水”をめぐるサスペンスあり(狂犬病に冒されると、水を怖がるってことを、この映画から教わりました)、お約束の車の故障(あ、ガス欠でしたっけ)ありと、単純なストーリーながら、低予算ながらあの手この手と工夫を凝らす姿勢が実に好ましいじゃありませんか。監督のギルベルト・ガスコンは未知の人物なれど、サスペンスとヒューマンな感動のさじ加減などなかなかの職人ぶりです。さあ、皆さんも次のテレビ放映を待とう! 7点(2004-03-03 14:52:44) |
17. 姿なき殺人(1967)
サーカス内で繰り広げられる、残虐な連続殺人! …いや~、この設定にソソられるのは、やはり『怪物團/フリークス』の頃からのホラーとサーカスという組み合わせの“相性の良さ”ゆえでしょうか。ジョーン・クロフォードが女団長で、その娘がジュディ・ギーソン。わき役でマイケル・ガフやダイアナ・ドースというあたりの面々が出演しているのも、ポイント高し。殺人場面も今日的には「牧歌的(?)」ですらあるけど、それなりにサディスティックな興奮に満ちているのは↓サイケデリコンさんのご指摘通りです。最後の「意外」な犯人出現も、確かに唐突だけど、観客に「えっ!」と思わせたとたんにエンドというのは、それなりに悪くないんじゃないでしょうか。…しかし、万事に四角四面なお国柄の英国で、一方じゃどうしてこんな「悪趣味」が好まれてきたんでしょうね? そのへんの「文化論」を、どなたか説いていただけませんかねぇ。 6点(2004-02-16 16:54:56) |
18. 宇宙船X-15号
たぶんビデオ・DVDは存在せず、今じゃ滅多なことで、TV放映もないと思うのですが、あえて紹介させていただきます。日本未公開でTVでのみ見られたこの映画、映画史的にはあのリチャ-ド・ドナ-監督の劇場映画デビュー作として知られるのみ。題名に「宇宙船」とありますが、これは新型戦闘機のテストパイロットを描いた、ほとんど『ライトスタッフ』の元ネタみたいな内容であります。多分テレビ局が大幅にドラマ部分をカットしたからでしょうか、テストパイロットたちの飛行シーンばかりがあたかも記録映画のように淡々と描かれ、その緊張と恐怖に打ち勝とうとする彼らの精神状態が実にリアル。その一方で、成層圏のどこまでも蒼い空(クライマックスでは、あまりに高く飛行したために、星すらが見えてくる…その詩的なこと!)を切り裂いて飛ぶテスト機の姿は、一種官能的なまでに美しい。思えばドナ-監督は、やたら建物をブッ壊すとともに、「飛行するもの」を好んで作品に登場させるのですが、その“原型”的なイメージがほとばしっているあたり、やはりデビュー作ならではの興味深さがあります(もっとも、この「単なる娯楽映画の担い手」ぐらいにしか思われていないドナーに、いったいどれだけの人が「作家性(!)」を求めるのか疑問ですが…)。テストパイロットのひとりに、あのチャールズ・ブロンソン。途中で事故死するけれど、儲け役です。そして若き日のメリー・タイラー・ムーアが、パイロットの妻役で出演しているのもうれしいところ。ともあれ、リチャード・ドナーを「実は偉大な映画作家」とひそかに信じている小生にとっては、ズタボロのカット・吹き替えのテレビ版であろうと忘れ難い1本なのです。 8点(2004-01-29 15:52:08)(良:2票) |
19. はなればなれに
小生が初めて見た映画館(というか、ホールでしたが)では、途中の1巻を抜かしたまま上映し、エンドタイトルが出た後に改めて抜けた巻から上映し直したワケです。明らかに映写ミスなんだけど、小生を含め、観客のほとんど(たぶん)がそれを「おお、これもゴダールの手法か?」と思いつつおとなしく見ていた(笑)…という、恥ずかしくもお粗末な思い出の作品。一見すると学生の自主映画に毛がはえた程度の、ユル~イ犯罪&青春悲喜劇なんだけど、初期ゴダ-ル作品中でも最もナイーヴな「あやうさ」と、だからこその「みずみずしさ」に溢れているっていうか。特にアンナ・カリーナの時代を超越した素晴らしさには、現代のスレッカラシな(失礼!)青少年のハートすらわしづかみすること必至でありましょう。ホントっすよ! 小生的には、あの美しすぎる列車内でのシーンに、もうメロメロにさせられたものです。トリュフォーの『突然炎のごとく』のごとく”男2人・女1人”の三角関係ドラマも、若きゴダールが撮ればこんなにも遊びと内省とに満ちた「ポップ」な作品になる。どちらがいいと言うんじゃない、どちらも素晴らしい。 9点(2003-12-03 18:56:29)(笑:2票) (良:1票) |
20. X線の眼を持つ男
小生もTV放映で初めて見たクチです。自分の眼がX線の透視能力を身につけた科学者が、最初の内は女のハダカなんかを楽しんでいたのに、だんだんとその能力がエスカレートしていくうちに恐怖と狂気にとらわれていく様はなかなかの迫力だったと記憶しております。特に分厚い鉛(?)の眼鏡をかけても、ビルが鉄筋だけしか見えないとか、人間も骸骨にしか見えないとか、そりゃあノイローゼにもなるわなあ。結局、科学者が最後に選んだ手段は、まあ、ある程度予想通り。けれど、さすがロジャー・コーマンらしく、初見だと結構ビビらせてくれますヨ。 6点(2003-11-25 12:55:21) |