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1.  ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド 《ネタバレ》 
ただの映画ギークだったクエンティン・タランティーノが、いよいよアメリカ映画界の巨匠になろうとしている。  『イングロリアス・バスターズ』では、糞ったれた史実を、バット一本で完膚なきに塗り替えてしまう、という傑作を見せつけたが、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』に於いては、映画史に刻み込まれてしまった狂った殺人事件を、もう単純に家を間違えるというだけで、これもまた塗り替えてしまうのだ。平たく言えば嘘つきだ。所詮、映画は絵空事だ。 だがしかし、こんなにも優しい嘘はない。 まさかタランティーノの映画を観て、最後の最後で泣きそうになるなんて。 しかもその直前までは笑いまくってたのだから。 最後の最後まではずっと壮大なフリだ。もうぎりぎりまでフリ続ける。 ハリウッドをレオナルド・ディカプリオでフリ、マンソンファミリーをブラッド・ピットでフリ、 そしてマーゴット・ロビーが自分の映画を観るという件がまたサスペンスを高めるフリだ。 そして岐路は単純。そう家を間違えるというだけ。 そこからのブラッド・ピットの怪演とタランティーノ得意のゴアなバイオレンス描写がもう笑えてくる。 ここで、事実を捻じ曲げて、さあどうするタランティーノ、どう決着をつけるというふうになる。 しかし誰もが納得するだろう。 現代ハリウッドの象徴と言って過言でないレオナルド・ディカプリオとシャロン・テートを抱擁させる。 彼女をスクリーンの中で生き続けさせること。 そしてタイトル Once Upon A Time in ... Hollywood それがしたかったのか。泣ける。優しいよ、タランティーノ。 これは史実に対する復讐である。 糞ったれた史実を犬に噛み千切らせ炎で焼き尽くし、血生臭いフィクションを張り付ける。 生と死を描いて辿り着く先は、優しい抱擁、これこそ正に映画である。 またしても傑作。  さて、帰路に着いてふと思い出したが、『イングロリアス・バスターズ』の最後、クリストフ・ヴァルツは、ブラッド・ピットによって額にナイフで鉤十字を刻み込まれるんだ。実はここから既に壮大なフリだったのか。まさかそんなわけがあるまいな。
[映画館(字幕)] 9点(2019-09-07 00:28:01)
2.  LOGAN ローガン 《ネタバレ》 
父と子供、暴力、ロードムービー、つまりアメリカ映画だ。 ジェームズ・マンゴールドの巧さは、ひとの生き様やその深度を描くことだと感じる。 また彼の作品群には視線劇という印象が強く、今作も殆ど喋らないローラの視線が強烈に描かれる。 しかしある時を境に彼女は突如喋り出すのだが、これは仕方がないことだ。 恐らくながら、マンゴールドは複雑な構造ではないシナリオにしている。 つまり敢えて典型的なシナリオを書いていて、誰かが死んでこうなるという予感などは裏切らないわけで、 だからローラが喋るという行為自体も都合だ。何故ならローラはずっと喋らなくたって良いわけだ。 しかしチャールズの死後、そうでなきゃ物語を転がせられないからで、 だがそれは物語上の些細な都合だし、それは転がすだけの装置でしかない。 だから別にそんなことは大した問題でもなくて、ローガンを動かす何かをちゃんと描いてるから巧いのだ。 矢鱈と語らせるわけでもなく、必要最低限の台詞に留め、風景と役者の芝居と視線で描ききる。 そして愛は暴力を生み出すのだけども、また暴力に勝るものは愛でしかないというアメリカ映画の根底的主題。 それやこれやを積み重ねていき辿り着く最後は、観ていて途轍もなく身体が熱くなるアクションとドラマを畳み掛ける。 それは無論カタルシス的な何かであって、ここまでの蓄積がある故に、それが典型的なフォーマットだろうが、 そこへ落し込む力、それを納得させるという巧さがあるから、泣ける。兎に角、泣ける。 過去の自分の化身と満身創痍で戦うのだが、その化身の息の根を止めるのが、今の自分ではなく、 娘であるローラだというところが泣ける。それの意義たるや泣ける。 そして十字架を傾け、Xの文字になったとき、誰もが詠嘆するだろう。 それはきっと、あれだけであるひとりの男の人生がそこに一気に立ちあがってしまうという、 マンゴールドのひとの生き様やその深度を描くことの巧さなのだろう。 素晴らしい。
[映画館(字幕)] 9点(2017-06-02 01:55:22)(良:1票)
3.  ハドソン川の奇跡 《ネタバレ》 
一言で言えば無難だ。  回想と妄想が物語を多層化させることでより良くなるというよりは、 実際の出来事の短さを物語として成立させる為の無難な肉付というところもあり、 簡潔さの申し子とも言えるであろうイーストウッドらしくないとも感じる。 その一方でランタイムが100分をきっているという事実もある。  別にシナリオが悪いわけではない。無難だが寧ろ面白い。 墜ちないでくれと思わせる現実と墜ちてしまえと思わせるシュミレーションを、 時間差で観客に叩きつけてくるわけだ。何たる語りの構造。 ただしかしイーストウッドが撮る為のシナリオに感じない。  乳飲児を預る隣席の男の慎ましさ、親父と息子の電話での会話に迸る熱量、 この映画を締めくくる副操縦士の一言など、細部にこそ映画の良さは宿るが、 エンドクレジットを見ればわかる通り事実の延長線上でしかないと感じざるを得ない。 無論、イーストウッドにそんなものは求めてない。  角張った石も転がり続ければ丸くなってしまうということだろうか。 あと最近、ステディショットが多過ぎるのではないかと危惧している。 これは撮影上の効率化なのか、芝居を撮ることを優先する為なのか。
[映画館(字幕)] 7点(2016-09-26 22:39:19)(良:1票)
4.  サンドラの週末 《ネタバレ》 
マリオン・コティヤールがとある出来事で傷付いて、 (と言ってもこの映画内ではずっと傷付いているんだけども) 車に乗り込んで、買ったばかりのミネラルウォーターのキャップを夫に開けてもらい、 一心不乱に身体に水分を流し込み、走る車の車窓から傾げた首で風を切り光を浴びる。 苦しさを解き放つ為に。 ああこのワンショットはちょっと力強過ぎて凄いなと思って泣けた。 マリオン・コティヤールの芝居と、決してフレームの中で動くことのない車体と、 それとは逆に車窓外を流れ続ける街並みとが、サンドラという女性の風景だなぁと。 まぁよくわからんけど、そんな感じだ。 ダルデンヌ兄弟の芝居を引き出す能力は本当に凄いものだ。   エンドロールを眺めながら、この映画を端的に表現している曲をふと思い出した。  自分の幸せを願うことはわがままではない 私の涙が乾くころ あの子が泣いてる このまま僕らの地面は乾かない 誰かの願いが叶うころ あの子が泣いてる みんなの願いは同時には叶わない 小さな地球が回るほど優しさが身に付く もうー度あなたを抱き締めたい できるだけそっと  というやつだ。まぁそういうことだと思う。 弱者であるとかそんなことじゃなくて、感情を有する人間の本質と だからこそ平等とか平和なんてこの世には存在し得ないという糞哀しい真理。 ならばせめてものってことだ。 君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる、という言葉選びの素晴らしさをも思い出した。   曲と言えば、ダルデンヌ兄弟があんなところでヴァン・モリソンなどを流し、 なにやら感傷的なドラマを生み出したことには少し驚いた。こんなことも出来んのかと。
[映画館(字幕)] 9点(2015-06-06 01:18:32)
5.  ブラックハット 《ネタバレ》 
マイケル・マンがハッカーであるとかサイバーであるとかそんなことに最後まで執着するひとではないことくらいは当然皆が知っている。クリス・ヘムズワースが釈放された時にタン・ウェイが向ける眼差しをこれでもかとショット割いて描くのは、この映画はこのふたりの映画であるという説明でしかない。その後もマイケル・マンは物語の中心に据えた男女を取り巻く社会の巨大さを空撮やらインサートショットやらで説明し続ける。司法や権限という社会の内部構造という障壁に呑み込まれるふたり。やがてその障壁は外側からこじ開けられる。復讐心と一縷の望みとを抱え、その大きな風穴から外部へと抜け出す。この瞬間の輝く大都会とトワイライトの天空、狭い飛行機の中で抱き合う男と女。ここでもう充分に満足してしまった。マイケル・マンかっこいいって。ただ勿論、映画は続く。外側へ出たふたりであるからこそ、物語はより荒唐無稽さを増し、マイケル・マンの描き方も行動と結果しか描かなくなる。観客は殆どの瞬間でふたりが何をしようとしているのかという点で置いてきぼりを食らうだろうが、それでいい。そしてすべてが集約されるラストだが、これがまたとんでもなく良い。実行ボタンを押すだけで光るマクロな基盤の中を高速で駆け抜ける情報などというサイバーな戦いなど放り出し、松明の炎が揺れる群衆の中を相手を追い掛けて拳銃と刃物で物理的に殺しあう。映像が共振する。復讐譚として最も相応しい。やっぱりマイケル・マン、めっちゃかっこいいっす。
[映画館(字幕)] 9点(2015-05-11 21:22:25)(良:1票)
6.  脱出(1944) 《ネタバレ》 
ローレン・バコールの登場シーンの格好良さ。 「Anybody got a match?」というオフの声、既に咥え煙草で扉に寄りかかるバコール。 ハンフリー・ボガートが投げたマッチ箱を乱暴に受け取り、ボガートに一瞥くれて煙草に火をつける。 火の消えたマッチを後ろにぽいと投げ捨て「Thanks」と捨て台詞。 煙を吐き出し、マッチ箱をボガートにぽいと投げ返し消えていく。 これが映画の粋だ。かっこいい。痺れる。  この後も幾度となくボガートはバコールの煙草の火を付けてやるのだが、一度立場が逆転する。 客が払うべき金を踏み倒そうとしたことに気付いたボガートは、その客に詰め寄る。 その時に隣にいたバコールは、ボガートが煙草を口に咥えるか咥えないかの瞬間に、 それはその行動を読んでいたかの如く、マッチに火を付け、ボガートの顔前に出すのだ。 この行動の俊敏さ。かっこいい。  この映画の登場人物たちは皆活き活きとしている。もうそれだけでいい。 最後のバコールの腰振りダンス、ボガートに腕を掴まれた時の笑顔。泣ける。 そしてその後ろを鞄を持ったウォルター・ブレナンが、こちらもちょいとリズムを刻んでふたりに付いていく。  最高。
[映画館(字幕)] 10点(2015-01-07 03:52:15)(良:1票)
7.  忘れじの面影(1948) 《ネタバレ》 
リザは寝室を抜け出し、母がいるリビング前をぴょんぴょんとすり抜け、玄関を出る。 そしてステファンの部屋の扉のちょっと上の小窓をこっそりと開けて彼のピアノの音色を聴くのだ。 小窓から音と共に流れ出すささやかな風が彼女の髪の毛を揺らす時、 ああ、映画の美しさとはこういうことかと感じるだろう。  同構図による時間経過後の反復は、同意義である一方でそこには決定的な差異があって、 その差異こそがそのショットの狙いなわけだけど、そもそも反復される前の元のショット自体に なんだか強い力みたいのがあって、そこで先ず一発喰らわされて、 そして後に更にまた一発喰らわされるという、恐ろしい仕掛けだと熟思う。 この作品での同構図反復は、先ず、階段上からのリザひっかけの階段下を見た俯瞰ショット。 そこにステファンと別の女が帰って来て、ふたりが階段を上ってくるのにつけて、 徐々に軽くトラックバックしていき、リザはフレーム右端の壁にそっと隠れる。 二度目はそのワークそのままなのだが、リザがステファンと階段を上ってくるのだ。 最初にリザが隠れていた壁もしっかりとフレーム内に収めてはいるけれど、 そこはいい具合に暗闇になっていてこれが好い。 隠れて見ていることしか出来なくて泣いて帰ったリザが、 今はあの時自分が見た光景の様に、その憧れの男と一緒に階段を上っているという美しさだ。 あのときはこの暗い壁のところに隠れていたのだ。これが同構図反復の強さだと思う。  この映画はそのような流麗なカメラワークは勿論、あのアパート(特に階段)であったり、 冬の夜の遊園地であったりする完璧なまでの美術セットも素晴らしいだろう。  そして最後の扉前の合成の見事さったらないよね、って思った。 正に、忘れじの面影、素晴らしい邦題。
[映画館(字幕)] 8点(2014-07-18 03:38:12)
8.  とらわれて夏 《ネタバレ》 
ケイト・ウィンスレットのどうしようもないくらいの中肉中背具合に、 あのぼろぼろのブロンドの巻き髪が包む疲れきった表情、 昔は美人であっただろうという、いかにも田舎の年増の女具合が絶妙なんだな。 それというのも、あの冒頭の寝起きに息子と一緒に鏡に映り込んだ姿が、その息子との対比もあってか、 やけに浮き彫りとなって、ああ正にそれだと思わせる。 そしてジョシュ・ブローリンは、髭を蓄えて登場する最初は、 いかにもアウトロー感があるが(登場の仕方が好い)、 別人が演じている回想を抜きに想像しても、いかにも堅く誠実な男を思わせる匂いを放ち、 また髭を剃り落とし、髪の毛も整えれば、正にその通りの男になる(その登場も好い)。 しかもだ、てきぱきと料理を作り、タイヤの交換をし、日曜大工仕事までも難なくこなす。 そしてまるで実の息子のようにヘンリーと打ち解ける。これらの描写がもう絶妙なんだな。  ジェイソン・ライトマンは、こういう人物が放つ、その人物の匂いみたいなもんを的確に導き出し、 そして切り取ることに非常に長けているんだろうな、きっと。 そのライトマンの冴え渡り方は、別に人物描写だけではなくて、冒頭のタイトルバックからの、 横移動でのあのボロ一軒家の見せ方ではっきりわかる。 この家で起こる何かというサスペンス性が確実にある、あのショットは。 的確なショットと的確なモンタージュは映画の「リズム」を作る。 「リズム」を刻めば映画は兎に角弾んで面白い。 3人でピーチパイを作るシーンの得体の知れない感動は後々になり再び呼び起こされる。 アデルの「A」、時間を越えて、必然か偶然か、想いは伝わる。 これが映画の「リズム」だと思うのだ。 これはアメリカ映画それもメロドラマの正統な継承であるというところだろうか。 更には繊細な視線劇でもあって、特に息子ヘンリーの視線、 大人への憧憬が繊細かつ見事に描かれているわけで、 というかヘンリーが軸なわけで、まぁ好い。 好いというか、もう感嘆した。素晴らしい。
[映画館(字幕)] 9点(2014-05-04 22:44:47)(良:1票)
9.  襤褸と宝石 《ネタバレ》 
映画を観ていると、何気ないことがふと気にかかるときがある。 その瞬間というのは大概が、後々に、ああ、成る程ということになるもので、 そういう反復、連鎖、というものが描かれる映画はやはり面白い。 この言わずと知れたスクリューボールコメディの傑作『襤褸と宝石』にもそんな瞬間がある。 それは冒頭、ゴミ処理場で暮らすある男のところに上流階級然とした女と男がやってくる (この時のその男の後ろに車が滑り込んでくるワンショットも凄く好い) ところであるが、その男の汚い手を最初に躊躇いもなくしっかりと握る妹という、 このちょっとした何でもないことが、何故だかふと気になるのだ。 あんな汚い男の手をあんな身なりの綺麗な女が躊躇わずに握りしめる。 姉などは近付きたくもないというような振る舞いであったではないか。 そういったことが気になるのは、まぁごくごく普通のことだろうが、 それは何故かこの映画の忘れられない瞬間となる。 この瞬間は、この映画の先を読める瞬間でもある。 話は進み、映画も終幕間際である。 男は成功するわけだが、そこにその妹は転がり込んでくる。 勿論、そこはあのゴミ処理場の跡地である。 そしてラストショット、その妹はしっかりとその男の手を握り締めているのだ。 しかも、それは婚約の誓いとしてだ。ああ、成る程なと。 これが映画であると信じている。
[映画館(字幕)] 8点(2014-01-04 03:16:25)(良:1票)
10.  ゼロ・グラビティ 《ネタバレ》 
全くの無音から無線音への音のグラデーション、 相変わらずのレンズ前に付着させる水滴、 客観から主観への移り変わり、 これらは映画であるということの証明であり、 また圧倒的な映像力で見せる長回しは、 時間を断絶させないリアリティへの追求。 全くもって事実ではないことを尤もらしい事実のように描ききる巧みさ、 これがアルフォンソ・キュアロンの映画である。 サンドラ・ブロックの涙は無重力空間で水滴の塊となり浮遊する。 浮遊する水滴の塊は徐々に彼女から離れる。 フォーカスは水滴に送られる。 この現実的ではあるが(宇宙空間という舞台が現実的かどうかはさて置き)、 これはカメラが撮っている映画である ということへの固執こそがキュアロンであり、 このショットは、この映画は3Dで観なければならない ということを最も訴えているだろう。  なによりもこれはサンドラ・ブロックが「掴む」映画だ。 必死に生きようとするために掴む。 ジョージ・クルーニーとを結ぶロープを、 宇宙船の外壁を、突起物を、消化器を。 何かを掴み、何としてでも生きようとする。 そして彼女が最後に掴むもの、それは土、地球の地面の土。 やっとの思いで水中から陸地へと這い上がり土を掴み握り締める。 そして立ち上がろうとする。 しかし重力に屈する。 しかし彼女は笑うだろう。 何故ならば重力を感じているからだ。 生きて地球に帰ってきたという証だからだ。 そして再び立ち上がろうとする。 そして地球の大地を二本の脚で踏みしめる。 そしてタイトル「GRAVITY」
[映画館(字幕)] 9点(2013-12-14 00:32:40)(良:7票)
11.  真夏の方程式 《ネタバレ》 
傘、冒頭の落下と終盤の浮遊の見事さ。 赤から青へ。 そして電車は同構図の中で来て帰る。 それだけで素晴らしい。  西谷弘が視線劇をしっかりやってくるのはいつものことだが、 終盤の杏と風吹ジュンのカットバックはもうとんでもない。 見つめ合って黙っているのだけどもカットバックの間に回想を挟み、 ふたりの視線と回想で会話させている。 そして何より、マジック・ミラーを介した杏と前田吟の件などは、 視線劇を飛び越えて、もう何がふたりを会話をさせているのだろうか、 ああ、それは愛情か、血は繋がらないけども愛情だろう、やはり。 そしてシーンバックの見事な連鎖を起こさせるペットボトル・ロケットの件は、 勿論、お見事過ぎるのだし、あのペットボトルの中に仕込まれた携帯電話の動画機能、 これもまた、ある意味での視線によるカットバックをしているわけだ。  『アマルフィ』や『アンダルシア』では、ただの説明過多の回想シーンであったが、 この映画での回想はしっかりと物語として機能している。 それは、謎を解く、説明する回想ではなく、ひとを描く回想になっているからだろう。  現在の日本で唯一、シネコンで上映される大作娯楽映画を見事なまでに撮り上げてしまえる監督、 それが西谷弘であって、『真夏の方程式』は間違いなく西谷弘、ここまでの最高傑作。
[映画館(邦画)] 8点(2013-07-15 23:44:41)(良:2票)
12.  リアル 完全なる首長竜の日 《ネタバレ》 
映画なのだから、現実であろうと頭の中の世界であろうと、 そんなことはまったくもってどうでも良いことで、 その境目は物語のための説明でしかない。 物語の整合性であるとか、登場人物への感情移入などは、 映画に於いては本当に無駄な足掻きであって、 カットが変われば時間すら飛んでしまう出鱈目な映画に どうやって真っ直ぐ延びた一本道を敷けるのだろうか。 敷けない。敷く必要がない。何故なら敷かない方が面白いからだ。  いつも通りのホラー、まったく解決しないがどこか漂うミステリー、 走って落ちる活劇、まさかのジュラシック・パーク、 そしてまったく感動出来ないラブストーリー。 こういう連続的転換はスピルバーグの『宇宙戦争』を思い起こさせる。 感情から言葉を発して行動をするのは佐藤健と綾瀬はるかだけであり、 他の登場人物たちはすべて物語を形成するだけの役割だ。 そんな他の登場人物たちが退場し、 ふたりと首長竜だけしか出て来ないラストなんぞは、 物語はもう身も蓋もない状況になる。 綾瀬はるかの世界だと思って見ていた観客は、 ひっくり返ったことで実は佐藤健の世界だったと気付き、 それは綾瀬はるかがセンシングによって見ていたものと 同じものを観客が見ていたことになるわけだ。 まぁその辺の解釈はどうでも良くて、問題はそのひっくり返り後だ。 つまりは綾瀬はるかが走り出す瞬間ということだ。 それは『トウキョウソナタ』で小泉今日子が車をオープンカーにして 走り出す瞬間と同じ感動を味わえる。決意だ。 しかも、それは主役が佐藤健だったのが、 ひっくり返ることで、唐突に綾瀬はるかが主役になり、 そのままラストまで怒濤の如く雪崩れ込んでいくという 勢いを黒沢清はやりたかったんじゃないかと思う。 この物語を置き去りにする、継続性ではない連続性というのは、 どこからだろうか、恐らく『ドッペルゲンガー』からだろう。 そういった面で、この作品は黒沢清のひとつの集大成だと思う。 まぁ、それにしても、泳ぐ首長竜を俯瞰で撮らえたあの水面の美しさたるや、 固唾を呑んで見入ってしまった。
[映画館(邦画)] 8点(2013-06-03 23:45:14)(良:2票)
13.  孤独な天使たち 《ネタバレ》 
主人公が蟻塚を買って地下に引き籠るという、蟻塚を見つめる主人公の視線と、 そんな主人公を見つめる観客の視線というところで、 最後のストップモーションが、見ているものは見られているで、 スクリーンという隔たりを一気に乗り越えてくるので、とても愛おしく泣ける。 無論、David Bowieの名曲"Space Oddity"のイタリア語版 "Ragazzo Solo, Ragazza Sola"(こんなものがあったなんて初めて知った)が 流れ、歌い出す瞬間なども、泣けてしょうがないわけだ。 歌詞の内容もさることながら、ふたりを撮らえるカメラの動きも良く、 ああ切ない、と思わせる見事な作りにまんまと泣かされる。 齢70を越え、車椅子に座っている写真を見たことすらあるベルトルッチが、 若者ふたりを主人公に据え、こんなにも潤った映画を撮ってしまうのだから驚嘆せざるを得ない。 それは若者が出ているから若々しく見えるのか、とは言え、巨匠の手捌きは熟練されているのだし、 なんともひとつで二度美味しいというか、若くもありながら成熟もされている映画だ。
[映画館(字幕)] 9点(2013-05-27 00:52:59)
14.  クロユリ団地 《ネタバレ》 
兎に角、冒頭から伏線張り巡らしまくるのだが、とりあえずすべて回収している。 100分ちょいでこれだけやるわけだから、流石中田秀夫だというところ。 手持での主観と客観の切り替えという伏線の張り方は上手いが、 そこから更に台詞の反復があり、しかも何度も、流石にあざとすぎるだろう。 分かり易さとか、ましてや観客が望むのや期待しているのものへと媚び売る作りは 作品の質を落とすだけでまったく効果的ではない。 わからないやつなど放っておけば良いのだ。 誰でもわかるように作る必要性などない。 そんなものはテレビの子供番組くらいにしておけば良いのだ。 であるからこそ、公園での前田敦子と子供の会話が全部アフレコなのは 完全なる見事な伏線であり、あんなものは気付かないひとは気付かない。 しかし、どこかおかしいという違和感を覚える。 その違和感こそが映画を映画館で観る面白さだろう。 それにしても手塚里美の登場シーンの数々には笑えた。 あれこそがホラー映画の醍醐味というかなんというか。 霊を祓うなどという無力さが炸裂し、最後は吐血するという見事な出来栄え。 幽霊なんて、結局最後は暴力でしか解決できないからね。 この映画ではそういうものが一切ないのだが、 これはなんだか主役を替えて続編でも作ろうとする企画力なのか、 秋元康といえば『着信アリ』とかもあるわけで、ふーんと思った。
[映画館(邦画)] 6点(2013-05-25 01:47:49)
15.  骨までしゃぶる 《ネタバレ》 
あのぼろぼろのチラシが捲られる瞬間に涙ぐむ。 それは書いてある内容とはまったく関係なく、 あの紙きれ一枚の存在、しかもそのぼろぼろさに泣かされる。 そのぼろぼろさというのは、姉さんとか他の女郎たちの思いだからだ。  やはり、加藤泰といえば橋のひとだけども、 そう簡単に渡れる橋など加藤泰の映画には存在していないわけで、 この映画でも、雨の中、橋を渡れず連れ戻される女郎もいる。 しかし、最後、お絹は、晴れた日に橋を悠々と小走りで渡っていくわけで、 それはやはり、お絹が自分自身で仕合せをつかみ取った証なんだなと牜nああ、またそこが泣けてくるわけで、もうしょうがない。
[映画館(邦画)] 9点(2013-05-07 00:00:51)
16.  ホーリー・モーターズ 《ネタバレ》 
最高に笑えるのだし、最高に泣ける。  終幕間際、リムジンが倉庫に続々と集まってくる。 そしてエディット・スコブは車を降りる前に仮面を被るのだ。 『顔のない眼』だ。なんというまさかのオマージュ。 そして彼女すらもスクリーンから消え去った後、彼らが遂に話始める。 「もう誰もモーターを望んでいない、行為を望んでいない」 自らをもうじき廃車になるのだと嘆いている。 そう、聖なる機械が、嘆いているのだ。 HOLY MOTORSとは、そういうことだったのではないかと思う。 日本では、舞台などでもそうだが、上手・下手と言うわけだが、 フィルムカメラは下手側にファインダー上手側にモーターがあって、 海外はファインダーとかモーターなどと言って方向の統一をするわけで、 モーターが駆動するように、この映画も駆動して人物の身体的躍動を撮らえるわけで・・ まぁ、そういうことは、本当にどうでもいいのだけども、 そういうことだと思えて仕方なく、ただ泣けてくるのだ。 冒頭の映画を観ている観客たちは果たして本当に映画を観ているのだろうか。 ただ眺めている、あるいは眠っている。 ミシェル・ピコリが言うだろう「観るひとがいなくなったら?」・・  ・・などと、そんな面倒くさいことなど考えることすらも放棄したい。 人物が動き、人物が喋り、カメラが動き、音が響き、 スクリーンに今まで見たこともない事実が投影され続ける。 そう、ゴジラの旋律に笑って、カイリー・ミノーグの歌声に涙する、 もうそれで充分過ぎるほどの映画だ。
[映画館(字幕)] 10点(2013-04-29 00:48:42)(良:1票)
17.  フライト 《ネタバレ》 
改めてロバート・ゼメキスの映画作りの上手さを思い知らされる。 ゼメキスの素晴らしいところは、すべてきっちりと画で説明するところで、 役者もそういう芝居をしなければならないし、 そういうものが撮らえられている映画は、やはり問答無用で面白いのだ。 冒頭からの墜落シーンのカット割や編集が卓越され過ぎていて、もう参った。 そして墜落の瞬間を客観で見せる上手さ。 墜落している瞬間の同時進行の中では決して見せない。 テレビの中、結婚式だかをやっていた誰かが偶然撮影した映像、 そして何よりもあのタイミングだということだ。 墜落の瞬間を、その飛行機を操縦していたパイロットが見るのと、 時を同じくして観客も初めて見る、そこに大きな意味がある。 冒頭も女のケツをやたらと舐め回すようなショットを撮り続けているわけだが、 それだって最後の最後でのデンゼル・ワシントンの決断への伏線であり、 冒頭の女の印象を強く残すことでの、あの決断なわけである。 ああ、そしてホテルでの酒の小瓶を手にする瞬間のハイスピード撮影の上手さよ。 置く、小瓶、そして手が入る、取ってフレームアウト、このワンカットのサスペンス。 なんて素晴らしいのだろうか。 飛行機の墜落と人生の墜落、勿論あの薬物中毒の女のことも含まれているわけだ。 一機の旅客機を不時着させた男は、二度と飛ぶことは許されないわけだが、 人生における新たなフライトが始まるストップモーション。 今は亡きトニー・スコットとの作品といい、デンゼル・ワシントンには、 ストップモーションでの終幕が本当に良く似合う。
[映画館(字幕)] 8点(2013-04-23 02:13:54)(良:1票)
18.  ザ・マスター
毛皮の女の長回し、まるで水が静かに流れているかの様な躍動。 そしてただただバイクが疾走するだけの躍動。 それらがスクリーンに投影されている。 それを観ているだけで思わず涙しそうになる。 もうそれだけで、この映画は充分に素晴らしいだろうと。 映画とはそういうものだと思うからだ。  なんだか久し振りにこんなにも映画を観ながら熱を帯びて痺れてしまったもので、何よりも最高の光をフィルムに定着させている。あの絶妙な薄暮の中を走る船であるとか、本当に見事なまでに豊かな映画であったと思う。 そして、何よりも、ホアキン・フェニックスがフィリップ・シーモア・ホフマンを睨むように見つめ微笑むあの顔の美しさったらない。彼の熱や精気が徐々に失われ、顔面の脂も抜けて、ただの骨と肉と魂の塊へと姿を変えていく美しさよ。そんな骨と肉と魂の塊が彷徨い、両の眼を涙でギラつかせ、口許を歪ませているだけのクローズアップ、そしてその陰影。  映画は、物語などを超えて、観るという体験として身体に刻み込まれるものだ。
[映画館(字幕)] 9点(2013-04-22 01:16:46)(良:2票)
19.  ミッドナイト・イン・パリ 《ネタバレ》 
アレンの映画について書くときのいつものインサートのことから。 アレンは殆ど物のインサートを撮らない。 今回はイヤリングをプレゼントされるシーンが分かり易い。 大概の映画がイヤリングの寄りのインサートを撮る。 こんなイヤリングだ、という説明のショットだ。 アレンはこういったショット恐らく好んでいないであろう。 それはここで描きたいものはイヤリングをプレゼントするという行為だからだ。 インサートが入り行為そのものの流れに淀みが出来ることが嫌なのだ。 行為そのものの素敵さとイヤリング自体の素敵さは、 このシーンではほぼ無関係なのだから。  さて、そんなアレン映画の根底にある主題とはと考えると、 今を生きているということは決して幸せなことではない、 という正にこの映画がストレートに描いていることな気がする。 しかしそれでも今を生きるしかない 生きているからこそに見つけられる幸せ それはたとえ雨の中でも自分の脚で歩いて見つけるしかない 現在への虚無感と過去への憧憬。 憧憬の中で生きようとも、それはいずれ虚無へと変貌を遂げる。 「過去は死んでないんだ、それは過去ですらないんだ」 今を生きることを選んだ男の最高の未練だ。 素晴らしい。
[映画館(字幕)] 8点(2012-12-04 05:16:42)
20.  危険なメソッド 《ネタバレ》 
水面すれすれを微速に進むカメラと、引画の中に本当に小さく、 でも凛として立っているキーラ・ナイトレイに泣きそうになる。 どのショットにしても、とても厳格で美しい構図とライティングと 天候環境で撮れているという贅沢さに満ち溢れているだろう。  そして役者の顔と彼らが発する台詞、その芝居を、 最も理想的であると思われるフレームで切り取り、 それを繋げることで物語を作り出すという 単純な作業だけで映画を成り立たせている。 最後の背を向けあって座っての 越しのカットバックの素晴らしさよ。 クローネンバーグは会話劇を巧みな役者を集めて、 緊張感あるフレーミングで描くのに長けている。  キーラ・ナイトレイが最後に動く何か乗って泣くだろう という予測は、もう冒頭から出来るわけだ。 それというのは、隔離からの解放は絶対に描かれるからで、 ただ馬車から自動車へ変わるという時代の移ろいも含め、 すべてを丁寧に描くクローネンバーグに感動した。
[映画館(字幕)] 9点(2012-11-30 15:07:33)
010.86%
121.72%
221.72%
343.45%
465.17%
586.90%
61412.07%
71613.79%
83025.86%
92420.69%
1097.76%

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