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1.  脱出(1944) 《ネタバレ》 
ローレン・バコールの登場シーンの格好良さ。 「Anybody got a match?」というオフの声、既に咥え煙草で扉に寄りかかるバコール。 ハンフリー・ボガートが投げたマッチ箱を乱暴に受け取り、ボガートに一瞥くれて煙草に火をつける。 火の消えたマッチを後ろにぽいと投げ捨て「Thanks」と捨て台詞。 煙を吐き出し、マッチ箱をボガートにぽいと投げ返し消えていく。 これが映画の粋だ。かっこいい。痺れる。  この後も幾度となくボガートはバコールの煙草の火を付けてやるのだが、一度立場が逆転する。 客が払うべき金を踏み倒そうとしたことに気付いたボガートは、その客に詰め寄る。 その時に隣にいたバコールは、ボガートが煙草を口に咥えるか咥えないかの瞬間に、 それはその行動を読んでいたかの如く、マッチに火を付け、ボガートの顔前に出すのだ。 この行動の俊敏さ。かっこいい。  この映画の登場人物たちは皆活き活きとしている。もうそれだけでいい。 最後のバコールの腰振りダンス、ボガートに腕を掴まれた時の笑顔。泣ける。 そしてその後ろを鞄を持ったウォルター・ブレナンが、こちらもちょいとリズムを刻んでふたりに付いていく。  最高。
[映画館(字幕)] 10点(2015-01-07 03:52:15)(良:1票)
2.  ホーリー・モーターズ 《ネタバレ》 
最高に笑えるのだし、最高に泣ける。  終幕間際、リムジンが倉庫に続々と集まってくる。 そしてエディット・スコブは車を降りる前に仮面を被るのだ。 『顔のない眼』だ。なんというまさかのオマージュ。 そして彼女すらもスクリーンから消え去った後、彼らが遂に話始める。 「もう誰もモーターを望んでいない、行為を望んでいない」 自らをもうじき廃車になるのだと嘆いている。 そう、聖なる機械が、嘆いているのだ。 HOLY MOTORSとは、そういうことだったのではないかと思う。 日本では、舞台などでもそうだが、上手・下手と言うわけだが、 フィルムカメラは下手側にファインダー上手側にモーターがあって、 海外はファインダーとかモーターなどと言って方向の統一をするわけで、 モーターが駆動するように、この映画も駆動して人物の身体的躍動を撮らえるわけで・・ まぁ、そういうことは、本当にどうでもいいのだけども、 そういうことだと思えて仕方なく、ただ泣けてくるのだ。 冒頭の映画を観ている観客たちは果たして本当に映画を観ているのだろうか。 ただ眺めている、あるいは眠っている。 ミシェル・ピコリが言うだろう「観るひとがいなくなったら?」・・  ・・などと、そんな面倒くさいことなど考えることすらも放棄したい。 人物が動き、人物が喋り、カメラが動き、音が響き、 スクリーンに今まで見たこともない事実が投影され続ける。 そう、ゴジラの旋律に笑って、カイリー・ミノーグの歌声に涙する、 もうそれで充分過ぎるほどの映画だ。
[映画館(字幕)] 10点(2013-04-29 00:48:42)(良:1票)
3.  南部の人 《ネタバレ》 
唐突な話だが、ルノワールの『南部の人』は、死ぬ間際に観たい映画だと思った。 果たして死ぬまでに何本の映画を観るだろうか。勿論、本数の問題ではない。 ならば観るべき映画は観たのだろうか、観ずに死んで後悔する映画はもうないかと。 しかし、そんなことがどうでもよくなる映画、それが、ルノワールの『南部の人』だ。 もうこれを観たのだから、悔いはないだろう。 こんなにも幸福感に包まれた映画などこの世にはないのではないだろうか。 夫婦揃ってベッドで眠るショットにオヴァーラップする綿花畑の美しさや 滅茶苦茶すぎる街の酒場での乱闘シークエンスや なによりも登場人物の表情ひとつひとつの美しさ そして生命の力に満ち溢れているではないか。 あばら家に引っ越してきた時に初めて灯るストーブの火。 ここから物語が、この家族の新しい生活が始まる。この美しさに心を揺さぶられるではないか。 その時点ではこのシークエンスのみでの美しさなのだが ここにただならぬ何かを感じずにはいられない。勿論そこではそれが何かなどわからない。 映画は進み、嵐が畑を無に返す。男はもう無理だ、街へ出ようと決意する。 しかし家に戻ると妻は、「家は大丈夫、そしてストーブも直った」と言う。 そして再び灯るストーブの火。泣ける。泣けて泣けて仕方ないだろう。 冒頭のストーブの火に感じる魅力は生命の力だ。 ルノワールが描きたいこととはそういうことだ。 死の間際、幸福に包まれた生命の力を感じる映画を観る。 こんなにも安らかな最期などないはずだ。 そんなことを思わせる傑作である。
[映画館(字幕)] 10点(2012-09-09 00:32:23)(良:2票)
4.  イングロリアス・バスターズ 《ネタバレ》 
 大傑作。 スクリーンに映し出される多量の空薬莢とその前に積み上げられたナイトレイト・フィルム。 フィルムが発火し、スクリーンが燃え上がり、観客は撃ち殺され、映画館は爆破される。 映画そのものが燃えて、すべてが灰と化していくのだ。 映画への冒涜、あるいは尊崇。 崩壊していく館内、ショシャナの高笑いだけがサウンドトラックを通して響き渡る。 しかし映画は決して死なない。 やがてスクリーンがあった場所にかつては映画であった残骸たちが白煙となり舞い上がる。 そして蒼白な光が投影される。 そのショシャナの顔は幽霊そのものであるが、またそれと同時に優麗でもある。 これは彼女の復讐劇であり、映画の復讐劇でもある。 糞ったれた史実を、バット一本で完膚なきに滅多打ち、血生臭いフィクションをその上に張り付ける。 生と死の上に積み上げられた、新たなる歴史という名のフィルムは正に映画である。 間違いなくこれが彼の最高傑作。
[映画館(字幕)] 10点(2009-12-01 19:15:49)(良:4票)
5.  グラン・トリノ 《ネタバレ》 
俳優クリント・イーストウッドの死が、ベッドの上で静かに迎えられるのではなく、丸腰で無数の銃弾を撃ち込まれ地面に仰向けとなり(しかも十字架!)、それを俯瞰で撮らえるという形で迎えられるならば、それは最もふさわしい最期だ。  ウォルトはフォード社の自動車工場で働き、朝鮮戦争にも従軍し、年老いた今日では家の軒先で星条旗がはためいている、正にアメリカ栄光の時代を生きてきた男だ。だからこそ日本車に乗る息子も、次々と近所に越してくるアジア人も、何もかもを訝しく思う。 そんな彼が妻を亡くし、周囲を疎外することで、自らも疎外され、孤立することで自身の誇りや威厳を守ろうとする。 ある時ウォルトは、モン族のパーティーに招かれ、彼らの伝統を重んじ継承する精神に親近感を寄せるようになる。 それと同時に自身の死が近いことも悟り始める。 彼がやり残したこと、それは息子たちにすらしてやることが出来なかったこと、自分の魂を継承することだった。 やがてスーが暴行されるが、それは自分に原因があったと苦悶し涙する。彼は暗闇の中、椅子にどっしりと腰を据え無言のまま一点を見つめる。選択と決意の瞬間だ。 そして彼は立ち上がる。暴力の真の恐ろしさを知らない平和惚けした糞ったれの悪党どもに鉄槌を加えるのではなく、あえて彼らの暴力を噴き上がらせることにより、己の暴力を抑制し自らに鉄槌を加えることで贖罪とするのだ。だから十字架なのだ。  戦争を知らない世代にも罪はなくとも責任はある。罪は個人に関わり、責任は集団に関わるからだ。ウォルトがタオに継承したグラン・トリノは正にその責任だ。アメリカ栄光時代の魂としてのグラン・トリノ。これは人種的問題や血縁的問題などということを超越したところで感染する魂の継承だ。そしてそれは大きな責任の継承でもある。 タオがハンドルを握りしめ走り抜ける海岸線沿いの道、グラン・トリノの後ろを何台もの日本車(あるいは他国の車も含まれているだろう)が走り抜けていく。多民族国家アメリカは、真のアメリカの魂さえ継承され続けるならば、もはや白人の国である必要はないのだ。  俳優クリント・イーストウッドは死んだ。ではもし彼がスクリーンに帰ってくることがあるのならば、それは果たしてどの様な姿として戻ってくるのだろうか。彼のしゃがれ声が、まるで幽霊の歌声の如く劇場内に響き渡っていた。
[映画館(字幕)] 10点(2009-04-26 12:14:04)(良:7票)
6.  チェンジリング(2008) 《ネタバレ》 
「ママに会いたかった、パパに会いたかった、家に帰りたかった」という台詞だけでもう十分すぎるほどに心を撃ち抜かれた。そしてそれをガラス越しに見つめるアンジーが、まるでスクリーンを見つめる我々観客のようで、そのイーストウッドの客観性に追い打ちをかけられ震え上がった。 そして「希望」を口にするアンジーの赤く染まった口元の優しさ、これほどまでの愛情・・思い出すだけでも感慨深いものだ。 もちろん真のアメリカ映画は昔からアメリカや社会と戦ってきた、しかしこの映画はそれだけのアメリカ映画ではない。それはロス市警の不正を徹底的に追及する映画ではないし、ましてや殺人狂への遺恨を描いた映画でもないからだ。 息子と映画を見る約束を仕事の忙しさから果たすことが出来ず、家を後にするアンジー、そして家に取り残された息子。この時の描き方が、既にこの親子は二度と再会することはないという永遠の別れを物語っている。窓越しに母を哀しく見つめる息子をキャメラがトラックバックしていく、これがあまりにも決定的だ。 更には仕事が長引いてしまった彼女がようやく帰路に着こうとするのだが、赤い路面電車は彼女に車体を幾度となく叩かれるも、そんな彼女の左手など触れてもいないかのように知らぬふりを決め込み走り去ってしまうのだ。そして彼女が「なんてこと・・」というような表情を浮かべた時の少し望遠気味のショット、先ほどの路面電車を正面から捉えていたのが縦位置だとすれば、横位置に回ったショット、この瞬間こそが、彼女の表情から不安感を滲み出させ、後戻りなど出来ない道へと踏み出してしまったと告げているのだ。 この導入部を見れば、これこそが真の映画であると気付くのだし、登場人物の視線、キャメラの視線ということの重大さ、強さ、そしてその真意にはっとさせられるのだ。 アンジーの潤んだ視線や憤りを露にした視線の先には、不正や殺人狂などを越え、いつも必ず息子ウォルターがいるのだ。 「チェンジリング」は圧倒的な視線劇で、徹頭徹尾、愛情を描き貫いている。
[映画館(字幕)] 10点(2009-02-24 23:08:57)(良:3票)
7.  残菊物語(1939) 《ネタバレ》 
悲しくも、恐ろしく美しい。 西瓜をふたりで食べようとする、勝手場での長回しのワンショットに心が震え上がる。 これは映画を見ていくと、後に、菊之助とお徳が離れ離れとなり、 菊之助が、昔ここでふたりで西瓜を食べたということを思い返すシーンとして、 前述の勝手場のワンショットと全く同じ構図が反復される。 ただその勝手場にはお徳の姿はなく、菊之助だけが、ひとり佇んでいるのだ。 回想シーンが挿入されるわけでもなく、同構図で反復されるというだけで、 あのふたりで食べた西瓜の時を菊之助は思い出しているのだろうと 我々観客は気付くのだが、もう涙なくして、佇む菊之助を直視することは出来ない。 しかしその後々に反復されるという事実を知らずとも、 もはや西瓜を食べようとしているショットの時点で深く心に響いてくるのは何故か。 それはやはりこのショットが後のふたりの運命を喚起していたからなのか。 或は、溝口健二の馳せた想いが、後に反復するこの構図から、 スクリーンを通して滲み出てきていたのだろうか。 だからか、菊之助が「お徳、ちょっと持っておくれ」などと言うだけで、 切なさが溢れ出し、涙が頬を伝うのだ。 そう、つまりこれは全て溝口健二によって仕組まれた周到な仕掛けだ。 この仕掛けは台詞ではない、身振りでもない、構図だ、ショットの持つ強さだ。 そしてショットの反復は他にも繰り返される。舞台袖だ。 映画の冒頭、父は舞台袖で菊之助の至らなさに腹を立てる。 この舞台袖での件というのは映画が進んでも幾度となく登場する。 そして菊之助がとことん落ちぶれた後に、東京への再帰をかけた舞台が終わった時の、 その舞台袖でのあの感動はなんなのであろうか。 更に、菊之助がいた二階の安下宿。ここに菊之助と離れ離れになったお徳が戻ってくるとき。 昔、鏡台を二階に運ぼうとしたときと全く同じ構図、そう階段上からのあの俯瞰のショットが、 それも空ショットとして挿入されたとき、お徳の悲しさ、寂しさ、そして優しさに心を打たれる。  そして映画はいつまでも鳴り止まぬ声援に手を上げ答える菊之助、 そして静かに息を引き取るお徳、このあまりにも悲し過ぎる対比で幕を降ろす。 しかし、美しい。この美しさは作品の持つ悲しさを破綻させるほどの恐ろしい美しさだ。
[映画館(邦画)] 10点(2008-10-14 00:01:04)(良:2票)
8.  ヒストリー・オブ・バイオレンス 《ネタバレ》 
ラストシーンのあまりの素晴らしさ。 愛情の欠片もない無慈悲な兄との関係を、暴力によって断ち切った(かの様に見える ─ というのは暴力は暴力を生むというこの映画の法則に従えば、ここで断ち切ったとは言い切れない)トム・ストールは、愛情の消えかけた(かの様に見える ─ この後の展開がそうでなかったことを明白にしている)我が家に辿り着く。キッチンのテーブルの上には3人分の食事が用意されており、妻と子供ふたりが夕食をとっている。誰も何も語ろうとはしない。そこに苦悩するトムが帰ってくる。妻エディはうつむき、息子ジャックは戸惑う。トムは項垂れつつもキッチンに入ってくる。沈黙。エディはうつむいて、ジャックは戸惑っている。ここで、娘のサラがふと席を立ち上がり、後ろを向く。そしてふいとサラがこちらを向いたとき、(恐らくエディが用意しておいたであろう)真っ白な大きな皿とフォーク、ナイフが、か弱い手にしっかりと握られているではないか。サラはそれらをそっとテーブルの上に置き、席に着く。それを見たジャックは、大皿に盛ってあったチキンか何かをその真っ白な皿によそってやるのだ。この子供たちの愛情に答えるかのように、トムは静かに席に着く。そして目線の先にいるのは、勿論うつむいたままのエディだ。ここからは純粋な切返しが始まる。やがてエディの顔は上がり、二人は見つめ合う。そしてふと何かを見つけたという顔のトムのショットでこの映画は幕を下ろす。  「君の目を見たときに好きだということがわかった」トムはチアガール姿のエディを抱いてそっと呟く。つまりラストのトムが見つけたものは「それでもまだ愛している」というエディの愛情のまなざしだったのだろう。だからこの映画のラストに台詞は必要がないわけだし、この切り返しだけで、映画になっている。  ただしかしこの結末が、安易に愛情の安堵感だけで締め括られているとは到底思えない。この映画の根底には暴力は暴力である、暴力は暴力を生む、ということがあるからだ。暴力を愛で乗り越える映画では決してないのだ。ただエディのまなざしには「許し」が存在する。それは暴力の中にあるのではなく、やはり愛の中にあるのだ。許すこと。
[映画館(字幕)] 10点(2008-10-02 01:49:05)(良:3票)
9.  鴛鴦歌合戦 《ネタバレ》 
こんなに楽しい映画はない。そして何度見ても、何度見ても楽しいのだからしょうがない。 ファーストショットを見ればもう一目瞭然、水玉模様の傘をさした娘、それを取り巻く男たち、彼らが橋からやってくる時の、あの得体の知れぬような浮遊感。彼らは歩いちゃいないし、スキップしちゃいない。ましてや走ってなどいない。どう考えても彼らは浮いてる。または現実的に置換えてみるならば、そう彼らは浮かれている。 浮かれているのは、何も恋した米屋や酒屋や炭屋だけではないだろう。ここでは殿様ですら浮かれている。彼は突如に歌いだす殿様なのであって、笑顔を絶やすことなどはひと時もない。終いには女の子を軽く骨董品扱いしだす始末だ、酷い。  ならばと地面一面に並べられた傘はどうだろう。だがむしろこの丸みを帯び、柔らかさもを感じさせる色とりどりの傘こそが一番の浮かれ記号なのだからしょうがない。つまり冒頭でさしている水玉模様の傘、これがもう今にも娘をどこかに飛んでいかせてしまいそうに見えて仕方がない。  だが中盤、お春はその浮かれ気分に業を煮やしてか、傘を滅多打ちにしてしまう。つまりあの娘など浮かせて堪るか、更に言えば、片岡千恵蔵演じる礼三郎すらも浮かせて堪るかという想いからの滅多打ちなのだろう。そんな愚痴しか言わない市川春代演じるお春。台詞のおよそ八割が愚痴だ。しかもたまに「ちぇっ」とか舌打ちをしたときには、生意気さをも飛び越えて愛らしくて仕方がない。  ただこの映画は浮かれてはいるが、浮かれ過ぎてはいない。それが最大の魅力だ。殿様は結局のところ浮かれ損。麦こがしの壺も一千両と聞けば浮かれるが、選ぶは心の清らかさ。さぁさ、今日も傘を広げましょう、と、観客はラスト、宮川一夫の見事なクレーンショットに乗っかって空へと浮き上がってしまうのでした。
[映画館(邦画)] 10点(2008-09-22 13:58:43)(良:2票)
10.  ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド 《ネタバレ》 
ただの映画ギークだったクエンティン・タランティーノが、いよいよアメリカ映画界の巨匠になろうとしている。  『イングロリアス・バスターズ』では、糞ったれた史実を、バット一本で完膚なきに塗り替えてしまう、という傑作を見せつけたが、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』に於いては、映画史に刻み込まれてしまった狂った殺人事件を、もう単純に家を間違えるというだけで、これもまた塗り替えてしまうのだ。平たく言えば嘘つきだ。所詮、映画は絵空事だ。 だがしかし、こんなにも優しい嘘はない。 まさかタランティーノの映画を観て、最後の最後で泣きそうになるなんて。 しかもその直前までは笑いまくってたのだから。 最後の最後まではずっと壮大なフリだ。もうぎりぎりまでフリ続ける。 ハリウッドをレオナルド・ディカプリオでフリ、マンソンファミリーをブラッド・ピットでフリ、 そしてマーゴット・ロビーが自分の映画を観るという件がまたサスペンスを高めるフリだ。 そして岐路は単純。そう家を間違えるというだけ。 そこからのブラッド・ピットの怪演とタランティーノ得意のゴアなバイオレンス描写がもう笑えてくる。 ここで、事実を捻じ曲げて、さあどうするタランティーノ、どう決着をつけるというふうになる。 しかし誰もが納得するだろう。 現代ハリウッドの象徴と言って過言でないレオナルド・ディカプリオとシャロン・テートを抱擁させる。 彼女をスクリーンの中で生き続けさせること。 そしてタイトル Once Upon A Time in ... Hollywood それがしたかったのか。泣ける。優しいよ、タランティーノ。 これは史実に対する復讐である。 糞ったれた史実を犬に噛み千切らせ炎で焼き尽くし、血生臭いフィクションを張り付ける。 生と死を描いて辿り着く先は、優しい抱擁、これこそ正に映画である。 またしても傑作。  さて、帰路に着いてふと思い出したが、『イングロリアス・バスターズ』の最後、クリストフ・ヴァルツは、ブラッド・ピットによって額にナイフで鉤十字を刻み込まれるんだ。実はここから既に壮大なフリだったのか。まさかそんなわけがあるまいな。
[映画館(字幕)] 9点(2019-09-07 00:28:01)
11.  LOGAN ローガン 《ネタバレ》 
父と子供、暴力、ロードムービー、つまりアメリカ映画だ。 ジェームズ・マンゴールドの巧さは、ひとの生き様やその深度を描くことだと感じる。 また彼の作品群には視線劇という印象が強く、今作も殆ど喋らないローラの視線が強烈に描かれる。 しかしある時を境に彼女は突如喋り出すのだが、これは仕方がないことだ。 恐らくながら、マンゴールドは複雑な構造ではないシナリオにしている。 つまり敢えて典型的なシナリオを書いていて、誰かが死んでこうなるという予感などは裏切らないわけで、 だからローラが喋るという行為自体も都合だ。何故ならローラはずっと喋らなくたって良いわけだ。 しかしチャールズの死後、そうでなきゃ物語を転がせられないからで、 だがそれは物語上の些細な都合だし、それは転がすだけの装置でしかない。 だから別にそんなことは大した問題でもなくて、ローガンを動かす何かをちゃんと描いてるから巧いのだ。 矢鱈と語らせるわけでもなく、必要最低限の台詞に留め、風景と役者の芝居と視線で描ききる。 そして愛は暴力を生み出すのだけども、また暴力に勝るものは愛でしかないというアメリカ映画の根底的主題。 それやこれやを積み重ねていき辿り着く最後は、観ていて途轍もなく身体が熱くなるアクションとドラマを畳み掛ける。 それは無論カタルシス的な何かであって、ここまでの蓄積がある故に、それが典型的なフォーマットだろうが、 そこへ落し込む力、それを納得させるという巧さがあるから、泣ける。兎に角、泣ける。 過去の自分の化身と満身創痍で戦うのだが、その化身の息の根を止めるのが、今の自分ではなく、 娘であるローラだというところが泣ける。それの意義たるや泣ける。 そして十字架を傾け、Xの文字になったとき、誰もが詠嘆するだろう。 それはきっと、あれだけであるひとりの男の人生がそこに一気に立ちあがってしまうという、 マンゴールドのひとの生き様やその深度を描くことの巧さなのだろう。 素晴らしい。
[映画館(字幕)] 9点(2017-06-02 01:55:22)(良:1票)
12.  サンドラの週末 《ネタバレ》 
マリオン・コティヤールがとある出来事で傷付いて、 (と言ってもこの映画内ではずっと傷付いているんだけども) 車に乗り込んで、買ったばかりのミネラルウォーターのキャップを夫に開けてもらい、 一心不乱に身体に水分を流し込み、走る車の車窓から傾げた首で風を切り光を浴びる。 苦しさを解き放つ為に。 ああこのワンショットはちょっと力強過ぎて凄いなと思って泣けた。 マリオン・コティヤールの芝居と、決してフレームの中で動くことのない車体と、 それとは逆に車窓外を流れ続ける街並みとが、サンドラという女性の風景だなぁと。 まぁよくわからんけど、そんな感じだ。 ダルデンヌ兄弟の芝居を引き出す能力は本当に凄いものだ。   エンドロールを眺めながら、この映画を端的に表現している曲をふと思い出した。  自分の幸せを願うことはわがままではない 私の涙が乾くころ あの子が泣いてる このまま僕らの地面は乾かない 誰かの願いが叶うころ あの子が泣いてる みんなの願いは同時には叶わない 小さな地球が回るほど優しさが身に付く もうー度あなたを抱き締めたい できるだけそっと  というやつだ。まぁそういうことだと思う。 弱者であるとかそんなことじゃなくて、感情を有する人間の本質と だからこそ平等とか平和なんてこの世には存在し得ないという糞哀しい真理。 ならばせめてものってことだ。 君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる、という言葉選びの素晴らしさをも思い出した。   曲と言えば、ダルデンヌ兄弟があんなところでヴァン・モリソンなどを流し、 なにやら感傷的なドラマを生み出したことには少し驚いた。こんなことも出来んのかと。
[映画館(字幕)] 9点(2015-06-06 01:18:32)
13.  ブラックハット 《ネタバレ》 
マイケル・マンがハッカーであるとかサイバーであるとかそんなことに最後まで執着するひとではないことくらいは当然皆が知っている。クリス・ヘムズワースが釈放された時にタン・ウェイが向ける眼差しをこれでもかとショット割いて描くのは、この映画はこのふたりの映画であるという説明でしかない。その後もマイケル・マンは物語の中心に据えた男女を取り巻く社会の巨大さを空撮やらインサートショットやらで説明し続ける。司法や権限という社会の内部構造という障壁に呑み込まれるふたり。やがてその障壁は外側からこじ開けられる。復讐心と一縷の望みとを抱え、その大きな風穴から外部へと抜け出す。この瞬間の輝く大都会とトワイライトの天空、狭い飛行機の中で抱き合う男と女。ここでもう充分に満足してしまった。マイケル・マンかっこいいって。ただ勿論、映画は続く。外側へ出たふたりであるからこそ、物語はより荒唐無稽さを増し、マイケル・マンの描き方も行動と結果しか描かなくなる。観客は殆どの瞬間でふたりが何をしようとしているのかという点で置いてきぼりを食らうだろうが、それでいい。そしてすべてが集約されるラストだが、これがまたとんでもなく良い。実行ボタンを押すだけで光るマクロな基盤の中を高速で駆け抜ける情報などというサイバーな戦いなど放り出し、松明の炎が揺れる群衆の中を相手を追い掛けて拳銃と刃物で物理的に殺しあう。映像が共振する。復讐譚として最も相応しい。やっぱりマイケル・マン、めっちゃかっこいいっす。
[映画館(字幕)] 9点(2015-05-11 21:22:25)(良:1票)
14.  とらわれて夏 《ネタバレ》 
ケイト・ウィンスレットのどうしようもないくらいの中肉中背具合に、 あのぼろぼろのブロンドの巻き髪が包む疲れきった表情、 昔は美人であっただろうという、いかにも田舎の年増の女具合が絶妙なんだな。 それというのも、あの冒頭の寝起きに息子と一緒に鏡に映り込んだ姿が、その息子との対比もあってか、 やけに浮き彫りとなって、ああ正にそれだと思わせる。 そしてジョシュ・ブローリンは、髭を蓄えて登場する最初は、 いかにもアウトロー感があるが(登場の仕方が好い)、 別人が演じている回想を抜きに想像しても、いかにも堅く誠実な男を思わせる匂いを放ち、 また髭を剃り落とし、髪の毛も整えれば、正にその通りの男になる(その登場も好い)。 しかもだ、てきぱきと料理を作り、タイヤの交換をし、日曜大工仕事までも難なくこなす。 そしてまるで実の息子のようにヘンリーと打ち解ける。これらの描写がもう絶妙なんだな。  ジェイソン・ライトマンは、こういう人物が放つ、その人物の匂いみたいなもんを的確に導き出し、 そして切り取ることに非常に長けているんだろうな、きっと。 そのライトマンの冴え渡り方は、別に人物描写だけではなくて、冒頭のタイトルバックからの、 横移動でのあのボロ一軒家の見せ方ではっきりわかる。 この家で起こる何かというサスペンス性が確実にある、あのショットは。 的確なショットと的確なモンタージュは映画の「リズム」を作る。 「リズム」を刻めば映画は兎に角弾んで面白い。 3人でピーチパイを作るシーンの得体の知れない感動は後々になり再び呼び起こされる。 アデルの「A」、時間を越えて、必然か偶然か、想いは伝わる。 これが映画の「リズム」だと思うのだ。 これはアメリカ映画それもメロドラマの正統な継承であるというところだろうか。 更には繊細な視線劇でもあって、特に息子ヘンリーの視線、 大人への憧憬が繊細かつ見事に描かれているわけで、 というかヘンリーが軸なわけで、まぁ好い。 好いというか、もう感嘆した。素晴らしい。
[映画館(字幕)] 9点(2014-05-04 22:44:47)(良:1票)
15.  ゼロ・グラビティ 《ネタバレ》 
全くの無音から無線音への音のグラデーション、 相変わらずのレンズ前に付着させる水滴、 客観から主観への移り変わり、 これらは映画であるということの証明であり、 また圧倒的な映像力で見せる長回しは、 時間を断絶させないリアリティへの追求。 全くもって事実ではないことを尤もらしい事実のように描ききる巧みさ、 これがアルフォンソ・キュアロンの映画である。 サンドラ・ブロックの涙は無重力空間で水滴の塊となり浮遊する。 浮遊する水滴の塊は徐々に彼女から離れる。 フォーカスは水滴に送られる。 この現実的ではあるが(宇宙空間という舞台が現実的かどうかはさて置き)、 これはカメラが撮っている映画である ということへの固執こそがキュアロンであり、 このショットは、この映画は3Dで観なければならない ということを最も訴えているだろう。  なによりもこれはサンドラ・ブロックが「掴む」映画だ。 必死に生きようとするために掴む。 ジョージ・クルーニーとを結ぶロープを、 宇宙船の外壁を、突起物を、消化器を。 何かを掴み、何としてでも生きようとする。 そして彼女が最後に掴むもの、それは土、地球の地面の土。 やっとの思いで水中から陸地へと這い上がり土を掴み握り締める。 そして立ち上がろうとする。 しかし重力に屈する。 しかし彼女は笑うだろう。 何故ならば重力を感じているからだ。 生きて地球に帰ってきたという証だからだ。 そして再び立ち上がろうとする。 そして地球の大地を二本の脚で踏みしめる。 そしてタイトル「GRAVITY」
[映画館(字幕)] 9点(2013-12-14 00:32:40)(良:7票)
16.  孤独な天使たち 《ネタバレ》 
主人公が蟻塚を買って地下に引き籠るという、蟻塚を見つめる主人公の視線と、 そんな主人公を見つめる観客の視線というところで、 最後のストップモーションが、見ているものは見られているで、 スクリーンという隔たりを一気に乗り越えてくるので、とても愛おしく泣ける。 無論、David Bowieの名曲"Space Oddity"のイタリア語版 "Ragazzo Solo, Ragazza Sola"(こんなものがあったなんて初めて知った)が 流れ、歌い出す瞬間なども、泣けてしょうがないわけだ。 歌詞の内容もさることながら、ふたりを撮らえるカメラの動きも良く、 ああ切ない、と思わせる見事な作りにまんまと泣かされる。 齢70を越え、車椅子に座っている写真を見たことすらあるベルトルッチが、 若者ふたりを主人公に据え、こんなにも潤った映画を撮ってしまうのだから驚嘆せざるを得ない。 それは若者が出ているから若々しく見えるのか、とは言え、巨匠の手捌きは熟練されているのだし、 なんともひとつで二度美味しいというか、若くもありながら成熟もされている映画だ。
[映画館(字幕)] 9点(2013-05-27 00:52:59)
17.  骨までしゃぶる 《ネタバレ》 
あのぼろぼろのチラシが捲られる瞬間に涙ぐむ。 それは書いてある内容とはまったく関係なく、 あの紙きれ一枚の存在、しかもそのぼろぼろさに泣かされる。 そのぼろぼろさというのは、姉さんとか他の女郎たちの思いだからだ。  やはり、加藤泰といえば橋のひとだけども、 そう簡単に渡れる橋など加藤泰の映画には存在していないわけで、 この映画でも、雨の中、橋を渡れず連れ戻される女郎もいる。 しかし、最後、お絹は、晴れた日に橋を悠々と小走りで渡っていくわけで、 それはやはり、お絹が自分自身で仕合せをつかみ取った証なんだなと牜nああ、またそこが泣けてくるわけで、もうしょうがない。
[映画館(邦画)] 9点(2013-05-07 00:00:51)
18.  ザ・マスター
毛皮の女の長回し、まるで水が静かに流れているかの様な躍動。 そしてただただバイクが疾走するだけの躍動。 それらがスクリーンに投影されている。 それを観ているだけで思わず涙しそうになる。 もうそれだけで、この映画は充分に素晴らしいだろうと。 映画とはそういうものだと思うからだ。  なんだか久し振りにこんなにも映画を観ながら熱を帯びて痺れてしまったもので、何よりも最高の光をフィルムに定着させている。あの絶妙な薄暮の中を走る船であるとか、本当に見事なまでに豊かな映画であったと思う。 そして、何よりも、ホアキン・フェニックスがフィリップ・シーモア・ホフマンを睨むように見つめ微笑むあの顔の美しさったらない。彼の熱や精気が徐々に失われ、顔面の脂も抜けて、ただの骨と肉と魂の塊へと姿を変えていく美しさよ。そんな骨と肉と魂の塊が彷徨い、両の眼を涙でギラつかせ、口許を歪ませているだけのクローズアップ、そしてその陰影。  映画は、物語などを超えて、観るという体験として身体に刻み込まれるものだ。
[映画館(字幕)] 9点(2013-04-22 01:16:46)(良:2票)
19.  危険なメソッド 《ネタバレ》 
水面すれすれを微速に進むカメラと、引画の中に本当に小さく、 でも凛として立っているキーラ・ナイトレイに泣きそうになる。 どのショットにしても、とても厳格で美しい構図とライティングと 天候環境で撮れているという贅沢さに満ち溢れているだろう。  そして役者の顔と彼らが発する台詞、その芝居を、 最も理想的であると思われるフレームで切り取り、 それを繋げることで物語を作り出すという 単純な作業だけで映画を成り立たせている。 最後の背を向けあって座っての 越しのカットバックの素晴らしさよ。 クローネンバーグは会話劇を巧みな役者を集めて、 緊張感あるフレーミングで描くのに長けている。  キーラ・ナイトレイが最後に動く何か乗って泣くだろう という予測は、もう冒頭から出来るわけだ。 それというのは、隔離からの解放は絶対に描かれるからで、 ただ馬車から自動車へ変わるという時代の移ろいも含め、 すべてを丁寧に描くクローネンバーグに感動した。
[映画館(字幕)] 9点(2012-11-30 15:07:33)
20.  過去を逃れて 《ネタバレ》 
やっぱりジャック・ターナーは凄い。とにかく女優を綺麗に魅せる。 ファムファタール、ジェーン・グリアが綺麗過ぎて、息が詰まる。  ジェフがアンに打ち明ける回想明けで、 ジェフが車を降りてアンとのクロースアップのカットバックになるのだが、 このカットバックの秀逸さたるや唸る。 もうこの撮らえ方が、ああこのふたりは絶対に結ばれることなどないのだと思わせる。  ジェフとキャシーが初めて結ばれる夜、 ジェフが投げ出したタオルがランプシェードにぶつかり、 ランプシェードは倒れ、部屋は暗くなり、嵐で扉が開き、その扉に向ってトラックイン。 愛が交わるという素晴らしい演出だけでなく、ここがすべての破滅の始まりとも見える。  そしてラスト、アンは聾唖の少年に「ジェフは本当に彼女と逃げたの?」と尋ねる。 少年は戸惑い何も答えないが、アンの「そうなの?」という更なる問いかけに最後には軽く頷く。 そして彼女は去り、少年はジェフの名前が書かれた看板に、これで良かったろ?と挨拶するのだ。 つまり、アンに真実を告げれば彼女はジェフのことを想い、新たな幸せな人生を迎えられない。 そんなことは彼も望まない。例え彼が悪者になろうとも、彼女のことを想うから、 彼女が幸せになれるならば、それはそれで良いのだということだ。 それがあの少年の選んだ決断だ。これで良かったろ?と。泣ける。
[映画館(字幕)] 9点(2012-11-08 10:26:49)
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