1. ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング
シリーズ全8作品を包括した、イーサン・ハントの決断と、その功罪が織りなす集大成。 彼が、果敢に挑み、積み上げてきたもの、その結果として存続したこの「世界」は、果たしてあるべき姿だったのか。 そして、この二部作では、その決断と功罪を、主人公に限らず一人ひとりのキャラクターに課し、ストーリーを紡いでいたのだと思う。 [映画館(字幕)] 7点(2025-05-25 21:48:27) |
2. 教皇選挙
疑念と確信。人間の歴史、そして信仰の歴史は、常にその狭間で揺れ動き、人間はその“揺らぎ”から抜け出すすべも無く右往左往し続ける。 教皇選挙、すなわち“コンクラーベ”を描き出した本作が表したものは、そういう人間の「本質」だったと思う。 奇しくも、2025年4月に現実世界のローマ教皇フランシスコが亡くなられた。 しきたりに沿って行われるコンクラーベの状況が、国際ニュースで伝えられる中、「これは観なければならない」と思い、公開中だった本作を観るために隣町の映画館に足を伸ばした。 無宗教の日本人にとっては、教皇選挙も、ローマ教皇の存在自体も、遠い世界、縁遠い文化のものであるという感覚は否定できない。 ローマ教皇という存在とその言動が、世界各国の人々の思考や行動に影響をもたらすものであるということは理解してはいたけれど、教皇を頂点とするカトリック教会という組織の全体像と、それがこの世界の仕組みに対してどのように影響し、歴史的背景を孕んでいるのか、よく分かっていなかった。 本作を鑑賞したからといって、そういったカトリック教会自体の歴史的背景や、現実の国際社会における影響力の実態を、理解できるわけではない。 でも、フィクションとはいえ、その組織の本質的な性格を象徴する教皇選挙の“裏側”をつぶさに描き出した本作は、カトリック教会自体が孕んでいる功罪、その価値と過ち、そして「懺悔」を、雄弁に物語っていた。 その映画世界は、「宗教」に縁遠い者にとっても、とても興味深く、ある意味エキサイティングだった。 人種も国籍も異なる百数十人の枢機卿が集まり、様々な価値観、思惑がせめぎあい、入り乱れる様は、愚かしくも見えるが、まさにこの世界の縮図のようにも見える。 ある者は他者を陥れ、ある者は他者を利用し、ある者は野心を抱き、ある者は秘めた真相を貫く。 カトリック教会の枢機卿という、一つの確固たる信仰の頂点に存在する集団でさえ、この様相なのだから、無数の価値観の人間が“巣食う”この世界が混沌とすることは、そりゃあ必然なのだろう。 劇中の台詞にもあった通り、信仰は常に“疑念”と“確信”の間に存在し、苦悩と共に漂うように揺れ動く。 きっとそれは、必ずしも「信仰」という概念に限ったことではないだろう。人間の存在と社会そのものが、疑念と確信の狭間で苦悩し続けていることは、今この瞬間の混迷極まる世界を観ても明らかだ。 “コンクラーベ”は、ラテン語で「鍵がかった」という意味を持つ言葉らしい。 閉鎖された薄暗い“部屋”の中で、世界の方向性を左右しかねない物事を決めるには、もはやこの多様性に溢れる世界は広く複雑になりすぎている。 ときに“鍵”は必要かもしれないけれど、行き詰まり、息が詰まるのならば、“窓”を開けて、風と光を通さなければ、人間は疑念と確信の狭間で、埋もれて、潰れてしまうのではないか。 本作のクライマックスで映し出された幾つかの描写とその帰結は、そんな全世界の人間たちに向けたメッセージを孕んでいた。 [映画館(字幕)] 9点(2025-05-18 14:46:56)★《更新》★ |
3. サンダーボルツ*
MCUの反撃開始となるか。偉大な“姉”亡き後の、フローレンス・ピューの“妹感”がキュートで良い。 [映画館(字幕)] 7点(2025-05-18 14:45:49) |
4. マッシブ・タレント
映画の“ジャンル”には、数多くの種別やゾーニングが存在する。アクション映画、サスペンス映画、SF映画といった大きな区分もあれば、スパイ映画、ゾンビ映画、動物映画、乗り物映画といった、より細分化されたジャンルもあるだろう。 その細分化されたジャンルの末端に、明確に存在しているものがある。
それが、“ニコラス・ケイジ映画”である。 本作は、究極の“ニコラス・ケイジ映画”であり、唯一無二のハリウッドスターである彼の矜持と魅力が詰まり、溢れ、爆発している。そんな熱狂的な娯楽映画であった。 「ニコラス・ケイジが、ニコラス・ケイジとして登場する」という大前提のプロットだけで、「ああ、これはおかしな映画に違いない」と、映画ファンなら容易に“感づく”ことができるだろう。
れっきとしたハリウッドスターでありながら、金策と仕事選びに日々悩み続ける主人公――というか本人そのものの設定が、すでに面白い。 プロデューサーやエージェント、そして家族からも、半ば愛想を尽かされ、呆れられているこのハリウッドスターの悲哀が、冒頭から“ダダ漏れている”。
ニコラス・ケイジ本人が、本人を演じているのだから、それは当たり前のようにも思えるが、実はそう単純ではない。 他人が創造したキャラクターを演じたり、実在の人物を演じることは、多くの俳優にとって「仕事」として容易なことかもしれない。
でも、うらぶれた“自分自身”を映画の主人公に据え、それを当たり前のように演じきるという行為は、実のところとんでもなく難しいことではないだろうか。
劇中では、飄々と楽しんで演じているように見えるが、そこには(曲がりなりにも)アカデミー主演男優賞を受賞した俳優、ニコラス・ケイジの「俳優力」がほとばしっていたと思える。 「営業仕事」として、とある大富豪の誕生日パーティーに参加するという設定も、非常にリアルである。
日本の映画ファンには強烈な記憶があるかもしれないが、かつて彼は日本のパチンコ屋の、ややイカれたCMに出演していた。彼なら報酬次第でどんな仕事にも応じるに違いないと確信してしまう。 さらに本作の魅力を高めているのが、その誕生日パーティーで待ち受ける大富豪“ハビ”の存在。
彼は筋金入りの“ニコラス・ケイジ・マニア”であり、その異様なキャラクター性を、演じるペドロ・パスカルがこれまた爆発させている。
世界的なハリウッドスターでありながら、小馬鹿にされ、侮られることに苦悩するニコラス・ケイジにとって、ハビはまさに“世界一の理解者”であり、一夜にして「親友」となる。 俳優としての“異様さ”を体現するニコラス・ケイジと、ファンとしての“異様さ”を発揮するハビ。
そのふたりが入り混じり、意気投合し、関係性を深めていく様は、あまりのも滑稽でありながらも、どこか感動的ですらあった。 この“スター✗ファン”の構図にこそ、ニコラス・ケイジがなぜ唯一無二なのかという“理由”が明確に示されていたと思う。
フランシス・F・コッポラを叔父に持つ名門に生まれ、アカデミー賞を獲得しながらもギャンブルに溺れ、借金苦に陥り、結婚と離婚を繰り返す――そんな人生の中で、節操なくB級・C級作品にも出演し続けた彼。 一部からは嘲笑されながらも、30年以上にわたりフィルモグラフィーを積み重ねてきたその姿には、一種の「中毒性」がある。
たとえどんなに退屈で、明確に面白くないC級映画でも、主演がニコラス・ケイジであることで、「何か普通じゃない映画」に見えてしまうという或る種のマジック。
結果的に映画作品に満足できなかったとしても、「ああ、ニコラス・ケイジは今回もニコラス・ケイジだったな」と、不思議な安心感を覚えてしまう――この中毒性こそが、彼の絶対的な魅力なのだ。 ペドロ・パスカル演じる“ハビ”が、ついにニコラス・ケイジと邂逅し親睦を深める過程に見せる“ラリったような表情”こそが、その中毒性を雄弁に物語っていた。 こんな「中毒者=ファン」が世界中に存在する限り、ニコラス・ケイジはニコラス・ケイジであり続けるだろう。そして、これからも“ニコラス・ケイジ映画”というジャンルは、その異様な作品群を生み出していくことだろう。 [インターネット(字幕)] 8点(2025-05-11 13:33:24) |
5. マインクラフト/ザ・ムービー
久しぶりに子どもたち二人を連れたって観に行った『マインクラフト』は、姉弟にとっては初めての実写映画の劇場鑑賞作品となった。 もちろん日本語吹替版での鑑賞を選んだが、一映画ファンの父親としては、子どもたちと共に、ジェイソン・モモアやジャック・ブラックが出演するハリウッド映画を鑑賞できたことは重要なトピックスであり、嬉しい体験だった。 私自身は、『マインクラフト』というゲームをほぼプレイしたことはなかったけれど、中2と小5の姉弟は、数年前からこのゲーム世界のプレイを楽しんでいた。特にゲーム世界の中での“モノづくり”に興味関心が高い息子は、一時期すごくハマっていた印象がある。 私は、一度どんなものかとプレイしてみたことはあったけれど、他のビギナー向けゲームと比較して、プログラミング言語が表層に露出する独特なゲーム構造に対して、うまく馴染めず、没入することができなかった。 “ゲーム”というものに対してどのように関わってきたかによって、『マインクラフト』の世界にのめり込むかどうかできるかどうかの“線引”があるように思えた。 そして、その境界線は、この映画化作品にもおいても明確に存在していたと感じる。 結論を言うと、私自身はこの映画作品に対して「満足」を得ることはできなかった。 “マイクラ”のゲーム世界を再現して、キャラクターたちが奇想天外なアドベンチャーを繰り広げる楽しい映画だとは思うが、ストーリーテリングにおいてはあまりにも工夫が無く、整合性の乏しいチープなストーリー展開だったと言わざるを得ない。 映画オリジナルで登場する“人間”のキャラクターたちに、あまり魅力がなく、取ってつけたようなドラマ性と、彼らの言動が、想定以上にゲーム世界の中の“異物”として目に余った印象だ。 特異なゲーム世界を舞台にした、“負け犬たちのワンスアゲイン”を描きたかったのは重々承知だが、そのためにはもっと真っ当な成長譚や、キャラクターたちの本質的な魅力が必要だったと思う。 特に問題だったのは、スターキャスティングのジェイソン・モモアとジャック・ブラックのキャラクター描写だろう。彼らのスター俳優としての華や、ビジュアル的なインパクトは、この映画を彩る娯楽性の一つだったけれど、この二人の言動やそのプロセスの描かれ方があまりにも軽薄でチープだった。 文字通りの“客寄せパンダ”としてしか機能しておらず、映画ファンとして落胆したことは否めない。 主人公の姉弟のキャラクター的な雰囲気や立ち位置はまだ良かったので、この姉弟を軸にしたもっと真っ当な家族ドラマが展開されていたならば、個人的には、隣で共に鑑賞する我が子たち(姉弟)とも重なって、感動できたのではないかと思えた。 ただし、だ。 その一方で、一緒に鑑賞した子どもたちは存外に満足した様子で、やや驚いた。 二人が言うところでは、ゲーム世界のギミックや設定が上手く反映されていて面白かった、とのこと。 なるほど、それならば“ゲームの映画化”として充分に「成功」と言えるのかとも思う。 プログラム言語をダイレクトに触り、作り込むゲーム世界同様に、この映画世界自体が、粗削りで、ナンデモアリの世界観を表現していたのかもしれない。 “ゲーム”の世界観に対してどう対峙し、“ゲームの映画化”という題材をどう捉えるか。 そこがこの手の映画を判別する大きなポイントであり、映画作品としての満足感の可否に直結する要因だと思う。 [映画館(吹替)] 5点(2025-05-11 13:31:51) |
6. 新幹線大爆破(2025)
日本人は、最後の最後まで偶発的な「奇跡」を信じないし、頼らない。 どんなに危機的な状況であっても、まず確認し、準備し、試して、実行する。 だから、その“危機”を回避し乗り越えた瞬間も、大仰に歓喜に湧いて抱き合ったりしない。ただ静かに安堵し、握手を交わすだけだ。 それは、日本人という民族の美徳でもあり、脆さでもあろう。 ただ、「シン・ゴジラ」同様に、そんな日本人の性質、特に日本社会の中の体制的な組織に所属する人たちの“葛藤”と“闘い”を描き出した本作は、この国が生み出すべき真っ当な娯楽映画だったと思う。 「新幹線大爆破」がNetflixで“リメイク”されるという報を聞いたときは、キャストやスタッフの情報を得るよりも前に、即座に高揚した。 1975年のオリジナル版は、20年以上前に鑑賞していて、鑑賞当時すでに30年前の国産娯楽映画の圧倒的なパワフルさに対して、興奮と嫉妬を同時に感じたことをよく覚えている。 もうこの先、こんなにもスリリングでエキサイティングなパニック映画は、日本では製作されないのではないかと、落胆めいた感情を覚えるほどだった。 その落胆は、かつて1954年の「ゴジラ」第一作が孕む絶対的な畏怖や絶望感を、もう感じることはできないのだろうなと諦観していた頃の感情によく似ている。 そして、その“諦め”が、「シン・ゴジラ」の誕生によって見事に払拭された経緯にも、本作鑑賞後の感情はよく似ている。 無論、1975年版の豪胆でエネルギッシュなエンターテインメント性と、本作の性質は異なる。 だが、それに勝ると劣らない「現代」のアプローチによって、この映画は今の時代にふさわしいエンターテインメントと、この国の社会性を存分に反映してみせている。 多くの鑑賞者が頭に思い浮かべた通り、まさに本作は“シン・新幹線大爆破”と呼ぶに相応しい意欲作だったと断言したい。 オリジナル版の鑑賞者としてまず驚いたのは、本作が“リメイク”ではなく、正当な「続編」であったということ。 ほぼオリジナル版と同じ設定でありながらも、50年の歳月を経た地続きの物語であったことが、この映画の世界観に重層性を生み出していると思える。 国鉄がJRに様変わりしたことも含め、時代は大きく移り変わり、様々な物事や常識が変わった社会の中で、繰り返された大事件には、この国が辿った道程に伴う様々な軋轢やひずみが内包されていた。 1975年の「新幹線大爆破」で、高倉健演じる主人公・沖田哲男が引き起こしたあの大事件が孕んでいた、時代や社会に対する怒りと悲しみ。 その執念と怨念が入り混じった感情は、彼らの死によって潰えたはずだったけれど、50年が経っても変わらないこの国の本質的な“愚かさ”に対して、世代を越えて再び彼らの憤りが地の底から湧き上がり、一人の少女に集約されたような印象を覚えた。 昭和の大スター高倉健が、その顔面で牽引し、当時のオールスターキャストが揃った超大作であった前作と比較すると、文字通り脂汗が滲むような演者たちの「熱量」という観点では、本作はどうしても薄くは感じてしまう。 ただそれは致し方ないことだろう。本作で主演の草彅剛が演じるのは新幹線に乗務する車掌であり、ストーリーテリングのアプローチそのものが全く異なっている。 あくまでもJRという組織の一員として、懸命に自分自身の“仕事”を全うする姿こそが、本作が目指したドラマ性であり、冒頭で記した通り、現代社会の「日本人」を表現する上で適切なストーリーテリングだったとも思える。 オリジナル版と異なり、JRの全面協力を得られた要因もまさにこのストーリー性だったからこそだろう。 そして、JRの全面協力を得ることで、本作の映像的なクオリティーとスペクタクルは、オリジナル版を大いに凌駕するクリエイティブを実現している。 ノンストップの“はやぶさ60号”を舞台にした、息もつかせぬスペクタクルシーンの連続は、特技出身の樋口真嗣監督の真骨頂であろう。 オリジナル版では、現場刑事の荒唐無稽な案として一笑に付せられた“後部車両切り離し作戦!”が、本作においては見事採用され、中盤の最大の見せ場として展開されたことも、メタ的要素も孕んだ胸熱なポイントだった。 兎にも角にも、映画企画としては「大成功」と言って間違いない作品だったと思う。 惜しむらくは、この国産大スペクタクル映画を劇場のスクリーンで観られなかったことか。 Netflix映画ならではのジレンマはことさらに強く残った。 [インターネット(邦画)] 9点(2025-04-28 00:14:47)(良:1票) |
7. 片思い世界
ネタバレ 冒頭から映し出される美しい“三姉妹”の「生活」が、ただただ愛おしい。 三人の表情や佇まいはもちろん、衣服も、家具も、食器も、ご飯も、彼女たちが暮らす空間のすべてが美しくて、丁寧で、“大切”に織りなされていることが伝わってくる。 その空間は、「完璧」だと言っていい。ただ、だからこそ、そこには何か言いようのない“違和感”が、映画のはじめから生じていた。 とても、美しくて、完璧だけれど、何かがおかしい。 彼女たちが当たり前のように出かけ、社会での日常生活が映し出されると、その違和感はより一層顕著になってくる。「あれ?」「え、何だいまの描写は?」と、疑問符は積み重なり、この“三姉妹”の世界の真相が明らかになったとき、冒頭から感じ続けてきた違和感が、映画的な妙味となってくっきりと正体を現した。 美しい“三姉妹”の、とある世界のお話。 12年前のある出来事を契機として、擬似的な三姉妹生活を積み重ねてきた彼女たちが抱える真相は、とても辛く、悲しく、重くて、仄暗い。 でも、本来そこにあるはずの陰鬱さや不穏さを完全に廃して、美しい煌きを全面に映し出すことで、同時に存在する“陰”を表現した映画世界が、本当に素晴らしかった。 彼女たちの生活空間が完璧だったのは、それが彼女たちが必死に想像し築き上げたものだったから。 3人が織りなす空気感が暖かく慈愛に溢れているストーリーテリングが深まるほどに、彼女たちにとってはこの場所が“すべて”であり、そうするしかなかった切なさが心に突き刺さって抜けなかった。 この映画世界で描かれたものは、悲痛を遠く越えた先で迎えた、新たな悲しみと、抱擁だった。 本作は、単純な幽霊モノ、異世界モノのファンタジーではない。 現実世界の事件の痛みや、社会の悲劇を礎にして、その数々の痛みや悲しみに対して真摯に向き合った作劇だったと思う。 無論突飛な世界観ではあるけれど、科学的な考察も引用し、「本当はそうなのかもしれない」と思わせるストーリーテリングは、現実の悲痛と共に生きる人たちにも寄り添うものだった。 設定のアイデアに主眼を置かず、その設定の中で確実に“生きている”人物たちの会話や葛藤でドラマを綴った構成は、坂元裕二脚本の真骨頂だったとも思える。 そんな当代随一の脚本が織りなす物語の中で、息づき、華やかな彩りを見せた三人の若き女優がやはり素晴らしい。 広瀬すず、杉咲花、清原果耶、トリプル主演としてこの三人が揃うこと自体が、もはや奇跡的なことにも思えるが、それを更に超える奇跡的な人間描写をそれぞれが体現している。 設定が設定だけに、どうしても完全な整合性やリアリティをストーリー上に生み出すことは難しかったろうけれど、三人の女優が織りなす文字通りの“アンサンブル”が、それを優しく包み込み、映画表現として昇華していたと思える。 鑑賞から数日経ち、公式SNSから流れてくるショート動画で、本作のシーンに触れるたびに、心に残り続ける余韻がたなびいている。この三姉妹の言葉の一つ一つ、動きの一つ一つが、想像以上に自分の中の価値として深まっていることに気づく。 私は、この先何度も、この映画の“世界”に浸りにゆくだろうと思う。 もし何年か後に叶うならと、この映画世界を礎にしたドラマシリーズを想像する。 湖畔のとある“幽霊屋敷の三姉妹”の日常を、観たい。 坂元裕二はきっと脚本構想を進めているに違いない。 本作には、敢えてまだ描ききっていない要素も多分にある。“ラジオ男”の出し惜しみも、その伏線に違いない。 [映画館(邦画)] 9点(2025-04-20 11:28:08) |
8. 名探偵コナン 水平線上の陰謀(ストラテジー)
ずさんで場当たり的な犯罪計画と、大仰でメチャクチャな子どもたちのアクション。 [インターネット(邦画)] 2点(2025-04-20 11:26:12) |
9. HERE 時を越えて
自分自身、結婚をして、子どもが生まれて、ちょうど10年前に家を建てた。 “家”の中で家族で過ごす時間は、あまりにも有り触れていて、普段その価値を見出すことはなかなかできないけれど、最近ふとした瞬間に「ああ、これが幸せというものかもしれないな」と感じることがある。 その瞬間はあまりにも唐突で何気なく訪れるため、映像や写真に残ることもなく、ただただ過ぎ去っていく。 逆に、最も長く過ごす場所だからこそ、家族に対して怒ることもあるし、さみしい思いをしたり、悲しくなったりもする。 “コロナ禍”を経て、全世界単位で「自宅時間」が増えた経緯を持つ今だからこそ、有り触れた一つの場所で織りなされる“営み”の価値を、再発見した人たちも多いことだろうと思う。 そんな時代に生み出された御大ロバート・ゼメキスの最新作は、時を越えて、幾つもの世代の「家族」の、めくるめく“営み”を、ただ一点の視点で俯瞰しつづけた意欲作だった。 数十億年に渡る時の流れを“定点映像”で映し出し続けるという映画的なダイナミズムと、その中で描き出されるとても普遍的で、繊細な人生模様。 そこには、七十歳を越えて、いまなお映画表現におけるチャレンジングな姿勢が衰えない大巨匠の真骨頂が示されていた。 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」をはじめとして、「フォレスト・ガンプ」、「コンタクト」、「キャスト・アウェイ」、近年も「フライト」、「ザ・ウォーク」、「マリアンヌ」と、あらゆるジャンル、あらゆる題材で、映画史そのものを彩り続けるゼメキス監督の創造性は、まだまだ色褪せないようだ。 本作で描き出される、いや“映し出される”家族像や物語は、決して特別なものではない。アメリカに限らず、どの国、どの時代においても、どこにでもある普通の家族の普通の人生像であろう。 それなのに、ただ一つの視点で、形容しがたい情感を生み、スクリーンに釘付けにする。そして、気がつくと涙が溢れ出ていた。 それぞれの世代の家族同士の会話や結びつきに“ドラマ”が生まれることは、ある意味当然だろう。しかし、この映画は、映し出されている或る家のリビングの中にあるソファやテーブル、掃除機、壁紙、窓の外の風景に至るまで、ドラマを感じさせる。 本作が特異で素晴らしいのは、まさにその部分であろう。 スクリーンの“四角”で切り取られた視界の隅々に散りばめられているその家族の生活の「証」のすべてから何かしらの“感情”が生まれ、それらすべてが一つになって「人生の物語」となっている。 時代や世代が切り替わるタイミングでは、常に映像の中の一部がコマ割りで残った状態で次の場面へとブリッジされる演出も、まさに一つひとつのモノやコトに物語が内包されていることを示す巧みな映画表現だったのだと思う。 映画のラスト、トム・ハンクスとロビン・ライトが演じる老夫婦が、共に思い出した記憶が、本作のテーマを雄弁に物語る。 夫の母親が選んだ趣味の悪いソファの下に、娘が大切にしていた無くしたリボンが見つかり、彼女が大喜びをしたという、とてもとてもささやかな思い出―― 義両親との同居も、ソファも、このリビングも自分の人生における「不満」の象徴だったはずだけれど、すべての美しく眩い記憶は“ここ(HERE)”で生まれていたということ。 帰宅すると、いつもと変わらず妻と子供たちが、リビングの食卓についていた。 その変わらない視界も、この先時間の経過と共に、様々な感情を生み続け、そして「過去」となっていくのだろう。 それは、少しさみしくて、不安でもあるけれど、とても愛おしいことなのだと思う。 喜びも、悲しみもひっくるめて、私も“ここ”を大切にしていきたい。 [映画館(字幕)] 9点(2025-04-10 23:00:51) |
10. ミッキー17
ずばり結論から言ってしまうと、「失敗作」だったと思う。「駄作」ではなく、あえてそう言いたい。
昨年トレーラーを初めて観た段階から、2025年再注目の作品の一つであることはもちろん、個人的には「No.1」候補の筆頭だったのだけれど、結果的に総じてインパクトに欠ける作品だったことは否めない。 近未来、社会のド底辺に生きる主人公が、“生きる”ためにクローン生成された自分自身を「消耗品」としてブラック企業に提供し続けるという、文字通りのブラックコメディ。
『スノーピアサー』『オクジャ』、そして『パラサイト 半地下の家族』へと、世界共通の現代社会の闇を、シニカルで乾いた“可笑しみ”を満載にして描き出してきたポン・ジュノ監督らしい作品世界であり、本作の“導入部”から醸し出されるテーマ性は、手塚治虫の『火の鳥』のような深淵な哲学性をビンビンに放っていた。
ただ、その予感や期待感はストーリー展開に伴って深まることなく、あまりにも類型的な顛末に終始してしまっていたと言わざるを得ない。
何やら面白そうなテーマを手に取ってみたはいいものの、ストーリーテリングや着地点を整理しないまま進めてしまい、結局昇華しきれずに、映画づくりそのものを「妥協」してしまったような、そんな印象を覚えた。 端的に言えば、ストーリーテリングが上手くなく、お話自体も凡庸だったと思う。
主人公が生活と人生に窮し、自らをクローン検体として捧げるしかなくなったという起点は、極めてSF的ではあるものの、見方を変えれば現代社会の困窮をダイレクトに表しており、社会風刺としてとても面白いアイデアだった。
だがしかし、そこから展開される物語に特筆すべき発見やユニークさがあまりなかった。 SF映画の系譜の中で“クローン”を描いた作品は数多あり、アイデアとして出し尽くされていることも、その一因だろう。
一体ずつ生成されるはずのクローンが、ある事故に伴い二体存在してしまい、本人同士の対立やそれによる混乱が生じるという“転回”は、決して目新しいものではなく、その後の顛末においても本作ならではの視点や発展を感じることができなかった。 重複して存在してしまうこととなった“ミッキー17”と“ミッキー18”は、同一人物でありながら性格が少し異なるキャラクターとして描かれるが、その性格の差異が生じている理由も曖昧で、展開に違和感を禁じ得なかったし、その状況をわりとすんなり受け入れる恋人のキャラクター性にも整合性を感じられなかった。 映画全体を通じて、主人公をはじめとして諸々の個性的なキャラクターが登場するけれど、その一人ひとりのキャラクター性がどこか定まっておらず、ふわふわと描かれているので、ほぼすべてのキャラクターがストーリー展開の中で活かされていないことも大きな弱点だったと思える。
マーク・ラファロを筆頭にキャスト陣は、特異な映画世界の中でトリッキーな存在感を放ってはいるけれど、創造されたキャラクター自体が曖昧なので、人間模様全体が空回りしているようだった。 アカデミー賞を制した後初めてのポン・ジュノ作品だったので、個人的にも、世界的にもその期待値は最高潮だったことは間違いない。
それに伴う重圧や軋轢が大いに影響したことも想像に難くないが、ある意味で見事な失敗ぶりだったと思う。 無論、この一つの失敗で、アジアを代表する映画監督への信頼が揺らぐことはないが、次作では今一度彼しか創造し得ない映画世界を期待したい。 [映画館(字幕)] 4点(2025-03-30 18:13:22) |
11. あんのこと
週末深夜、先刻までエンドロールが流れていたテレビの光が消えて、暗い部屋の中で思わず天井を仰いだ。「つらい…つらいな」と、一人何度もつぶやきながら、静かに寝床に就いた。 気がつくと、その夜から一週間が経っていた。なかなか、この映画に対する行動を起こすことができなかった。これほど“ダメージ”を負った映画鑑賞は久しぶりだった。 その間も、本作で若手実力派俳優の筆頭となった主演女優は、幾度も数々のCMに登場し、その都度そのCMで見せる彼女の笑顔とはあまりにも遠くに存在する“あんのこと”が思い起こされて、またつらくなった。 「つらい」と感じた一番の理由は、とても悲しくて、残酷で、愚かしいこの物語が、すなわち主人公“あん”の一生が、決して特別な絵空事ではない「現実」であることだった。 今この瞬間も、毒親に虐げられ、貧困にあえぎ、虚無的に、もしくは盲信的に、過酷な日常を過ごしている子どもたちが、この国には確実に存在しているということ。 陰鬱で、目を背けたくなるシーンが何度も訪れる映画だったけれど、それは今この国に生きるすべての“大人”が直視すべき事実であり、ゆえに多くの人が鑑賞すべき作品だと思った。 “親ガチャ”や“環境ガチャ”、“国ガチャ”という言い回しは軽薄で好きではない。けれど、事実としてそれは確実に存在し、生まれて育った「環境」によって、人生の幸福度は勿論、人格形成そのものが大きく左右されてしまう現実が、本作のような不幸を無数に生み出している。 新聞の小さな三面記事で伝えられた或る事実から着想し、描き出された本作は、ひたすらに問い続けていた。 おぞましいまでの毒親の元に生まれ落ちた子どもは、絶対にその支配下で生き続けなければならないのか。 介護を要する家族を持つ若者たちは、自らの機会と可能性を摘んで献身し続けなければならないのか。 学ぶ機会、働く機会を失った者は、いつまでもこの社会の底辺で息を潜めるように生きなければならないのか。 国と国の争乱の中で生活している者たちは、常にその生命をさらして、絶望に埋め尽くされなければならないのか。 人の世は本質的に不平等なものだし、人が生きていく上で「運」は多分に必要だけれど、それでも看過すべきではないそんな無数の不幸に対して、この社会が今本当にすべきことは何なのだろうか? 僅かな光を手繰り寄せて、更生の道を歩み始めていた主人公は、小さくて儚い「希望」を確実に手にしていた。でも、それはするりと彼女の手からこぼれ落ちていった。 客観的に見れば、それは彼女の人生においてそれほど大きな悲劇には見えない。もっと大きな苦痛の中を彼女が生き抜いてきたことを知っているから。 だがしかし、自分の人生に初めて「希望」を感じたからこそ、彼女は初めて拭い去れない「絶望」を感じてしまったのだろう。 “コロナ禍”がその「絶望」へのきっかけを生んだことは間違いないとは思う。 でも、本質的な原因はもっと根源的なこの社会の機能不全なのだと思う。 主人公の母親が毒親であったことが彼女の不幸の本質ではなく、その毒親を生み出して負のスパイラルを生じさせたこの社会の経緯こそが不幸。 素行不良の刑事が自らの地位を利用して、更生者の女性を手籠めにしていたことが問題の本質ではなく、彼しか薬物依存者の更生に真剣に向き合う人間が存在しなかったことこそが問題なのだ。 この映画の最後の顛末では、主人公が生きた意義を“救い”と共に映し出しているように見えるけれど、私はそこに“救い”があったとは思わない。 彼女は、結局救われなかった。それが事実であり、現実だ。 本当に、もう少しだったと思うし、彼女と同じような道程で更生し、過去から脱却し、自ら幸せを掴み取った人たちも数多くいるのだろう。 でも、彼女は、“あん”は、救われなかった。 この社会に生きる一人ひとりが、その事実“あんのこと”に対する怒りと悔しさを、歪めず、直視することこそが、この映画の願いだと思うのだ。 [インターネット(邦画)] 8点(2025-03-22 17:37:43) |
12. フォールガイ
バスター・キートン、チャールズ・チャップリンの時代から、アジアではジャッキー・チェン、そしてトム・クルーズに至るまで、「映画」とは“アクション”の歴史だ。映画の撮影時に「アクション!」という号令と共に撮影が開始されることからも、それは明白だろう。 そして、その映画製作の系譜において、銀幕に大映しになるスター俳優と同等以上に実は重要な存在が、“スタントマン”であり、彼らの存在と研鑽がなければ、映画という娯楽は成熟しなかったと言っても過言ではないだろう。 この映画のすべては、溢れ出る“スタントマンリスペクト”と、映画製作そのものにおける“アクション愛”。 あらゆるアクション映画を観続けてきた世界中の映画ファンにとって、愛すべき娯楽映画だったと思う。 鑑賞前は、もっと単純なアクション描写に振り切ったコメディ映画だと思っていた。もちろんその側面も確実にあるのだが、この映画の面白さは、その“多層性”だろう。 表面的には主人公であるスタントマンが、自身が生業とするアクション映画さながらに大活躍するエンターテイメント。だがそれと同時に、彼が現在進行形で関わる映画製作の現場や、もっとマクロ的な映画界の性質自体が、入れ子構造となり、ユニークでエキサイティングなストーリーテリングを生み出している。 想像以上に色濃く描かれるラブコメ要素や、類型的な悪役像も、そのストーリー構造を踏まえた“狙い”によるもので、映画ファンであれば必ず感じる「既視感」が、本作のメタ的要素を引き立て、その上でプラスαの娯楽を生み出していたのだと思う。 同様に、あえて大仰に、大雑把に見えるアクションシーンの意図も明確だ。 ライアン・ゴズリング演じるスタントマンの男が、この映画の中で繰り広げるアクションシーンのすべては、“スタントマンの仕事”そのものであり、普通の映画であれば大味で不自然に見えるアクションの数々が、それを際立たせていた。 当然ながら、本作でもライアン・ゴズリングの代わりに危険で高度なアクションを担うスタントマンが存在しているわけで、そのことをあえて観客に感じさせる数々の描写が、この映画の本質を突いていたと思える。 スタントマンリスペクトを掲げる一方で、主人公をはじめとするキャラクターは魅力的に描き出され、ライアン・ゴズリング、エミリー・ブラントらスター俳優の魅力も存分に引き出している点も、本作の愛すべき要素だろう。 ライアン・ゴズリングは独特の存在感と人間味で、主人公のスタントマンを違和感なく好演していた。溢れ出るスター性を醸し出しながらも、どこか人間的な脆さや滑稽さを感じさせるこの俳優にとって、本作の役どころはまさにはまり役だったと思う。 主人公の元恋人&アクション映画監督役を演じるエミリー・ブラントも素晴らしかった。どちらかと言うと硬派な女性像を演じることが多く、元々の大好きな女優の一人だったけれど、本作ではその元来の性質を活かしつつも、とてもキュートで魅力的な女性像を体現していて、益々好きになった。クライマックスで突如としてそのアクション性を開眼させる描写も最高だった。 アクション、コメディ、ロマンスが入り混じり、時に特異な強度でいろいろな要素が飛び出てくるびっくり箱のような映画だ。 自身がスタントマン出身であり、スタントコーディネーターを経て、今やアクション映画監督のトップランナーであるデヴィット・リーチだからこそ描くに相応しい、いや描かずにはいられなかった映画世界に対して、力強く“サムズアップ”を示したい。 [インターネット(字幕)] 9点(2025-03-16 10:55:58) |
13. カンバセーション・・・盗聴・・・
ネタバレ ジーン・ハックマン追悼鑑賞。盗聴の専門家が大企業の陰謀を暴く〜的な話かと思いきや、信仰心が深いくたびれた中年男が、自身の生業に対する罪悪感に苛まれて、精神をすり減らしていくという極めて地味な映画だった。 [インターネット(字幕)] 6点(2025-03-13 16:32:09) |
14. ファーストキス 1ST KISS(2025)
自分自身、結婚をして丸々15年が経過した。主人公たちの年齢設定や結婚生活の期間は、ほぼ自分の現在地点と重なり、“夫婦ドラマ”としてとても感情移入しやすかった。 この映画の主人公たちほどは、自分たちの夫婦関係はすれ違っていないつもりではあるけれど、彼らが織りなすその関係性の変化とそれに伴う悲喜劇は、それでもダイレクトに突き刺さる部分が多かった。 こんな悲しみや苦痛を背負うくらいなら、むしろ最初から出会わなければ良かったのに、という思いは、その程度は様々だろうけれど、きっと世界中の“夫婦”が必ず抱えるジレンマだろう。 松たか子演じる主人公は、「離婚」をするその日に夫を亡くし、様々な感情の行場を見失ったまま、虚無な日々を過ごしていた。 すでに心が離れていた夫の死を悲しんでいるのか、それとも離婚できぬまま“夫婦関係”を続けざるを得なくなってしまったことに苛立っているのか、彼女自身その心情の“正体”を見いだせず、静かな絶望を抱えているように見えた。 そんな折、3年待った取り寄せ餃子をものの見事に焦がしてしまったことで、この世界の堰が、文字通りに崩れ落ちる。そして彼女は、夫と出会った15年前の夏の日をループする――――。 15年後の夫の死(列車事故)を回避するために、主人公が画策するあれやこれがとても間が抜けていて面白い。 肉屋に立ち寄らせないために若き夫をコロッケ嫌いにさせようとしたり、本屋に予約していた学術書を未来から持ってきて混乱を招いたり、緊急停止ボタンの存在を刷り込んで別の大惨事が起こる未来を生み出しそうになったりと、彼女は奔走するけれど、どれも上手くいかない。 幾度もタイムリープを繰り返し、途方に暮れる主人公は、ある決意にたどり着く。 そう、そもそも結婚なんてしなければいいのだ、と。 15年後の妻と15年前の夫が、繰り返し紡ぐ数時間のラブストーリーは、とても眩くて、ユニークだった。 他愛もない会話劇で上質なドラマを創出している点においては、「最高の離婚」「大豆田とわ子と三人の元夫」等数々の名作夫婦劇を生み出してきた坂元裕二ならではの作劇だったと思う。 主演の松たか子は、「大豆田とわ子と三人の元夫」でもそうだったように、阿吽の呼吸で坂元裕二が生み出したキャラクター像を体現し、魅力的な存在感を放ち続けていた。 その一方で、タイムリープものとしてはいささか詰めの甘さが目立っていたようにも思える。 そもそも主人公が15年前にタイムスリップしてしまう経緯がとても強引だし、その後本人の意思で簡単に時間移動を行えてしまうストーリー展開は流石にチープすぎやしないか。 また、タイムリープを行っている主人公は15年前の夫との“デート”を繰り返しているわけなので彼に対しての距離感が縮まっていくことに理解できるけれど、反対に松村北斗演じる若き夫は、常に初対面なわけであり、双方の距離の縮まり方に違和感を禁じ得なかった。 最後の“告白”後のくだりも、いくら学者の卵とはいえ理解が速すぎないかと思わざるを得ないし、そのまま恋に落ちるというのは、ラブストーリーとしてもややチープに感じた。 若き夫が真相を知るクライマックスの展開についても、あまりにも直球過ぎたなと感じる。 自らの未来の悲劇を、あれほどダイレクトに説明されて、それでもその未来に突き進んでいくというのは、流石に非人間的ではないか。 彼が真相に触れる経緯については、主人公が落とした“付箋”のみで薄っすらと感づく程度に留めたほうが良かったのではないかと思う。 自らの死を頭の片隅では感じ取りつつも、それでも眼の前に現れた愛しき人と過ごす時間を選ぶ。そういうバランスのほうが、この映画が描き出した“夫婦愛”がもっと際立ち、映画的なマジックも生まれたのではないか。 ただし、それでもこの映画が坂元裕二ならではの会話劇と夫婦劇で、作品としての品質を保っていることは間違いない。 結局、“未来”は変えられなかったけれど、主人公の奔走により、15年間の夫婦生活は幸福なものになった。それは決して現実を歪曲したわけではなくて、この映画の妻と夫が、本来歩むはずだった生活を取り戻したという帰着だったのだと思う。 夫の死をちゃんと悲しみ、ちゃんと泣くことができた日、取り寄せ餃子が届く。 今度の餃子はきっと上手く焼けたに違いない。 [映画館(邦画)] 7点(2025-03-02 23:17:10) |
15. しん次元! クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦 〜とべとべ手巻き寿司〜
人気アニメシリーズやゲームの“3Dアニメ化”という企画がしばしば実現し公開されるが、「その需要は一体どこにあるのだろう?」と、非常に懐疑的に思う。 多くの場合、慣れ親しんだアニメのビジュアルに対して、3D化されたキャラクターの造形にまず違和感を覚え、それはすぐに嫌悪感や気味悪さにまで発展することが多い。まともに鑑賞していないが、「STAND BY ME ドラえもん」などはその最たる例だろう。 そんなわけで、「クレヨンしんちゃん」の3Dアニメ化である本作も、まったく観るつもりは無かったのだけれど、ある休日の午後、暇を持て余した小4の息子がリビングで観始めたので、仕方なく遠目で鑑賞した。 結果的に、懸念していた3Dアニメに対する違和感や嫌悪感を覚えるには至らなかった。なぜなら、3Dアニメの造形に、オリジナルのアニメのキャラクター造形と比較して、それほど大きな差異が無かったからだろう。 無論、声優陣も同一なので、3Dアニメを観ているという感覚自体が薄かったように思う。 が、それならば、ということである。 それならば、何も3Dアニメにする意味があったのか?ということであり、詰まるところ「誰得?」という印象に着地する。 “超能力”を題材にして、ファンタジックでスペクタクルなストーリー展開は用意されていたけれど、元々「クレヨンしんちゃん」映画といえば、映画ならではのエキサイティングな世界観を展開させることが売りでもあるので、特に今作のみが特筆してエンターテイメント性が高まっているというわけでも無かった。 確かにクライマックスにおける、“特撮的対決”シーンには、3Dによる立体感やダイナミックなカメラアングルが効果を発していたのかもしれない。 でも、その点においても、クレしん映画においては、縦横無尽なアニメーション表現によりエキサイティングなアクションやアドベンチャーを創出し続けているので、特別さを感じるには至らなかった。 むしろ、3Dアニメ化による“労力”が通常よりも嵩んでいるのか、他作よりもストーリーテリングにおいては平坦で類型的だったと感じざるを得なかった。 監督は、Netflixドラマ「地面師たち」の記憶も新しい大根仁。 ラブコメからシリアス、アニメまで守備範囲の広さは、堤幸彦や秋元康のもとでキャリアを積んだこの監督ならではの特性であろう。 ただその一方で、ある種の節操の無さや、各作品における拭い去れない軽薄さみたいなものも、しっかりと受け継いでいるなあと感じる。 [インターネット(邦画)] 4点(2025-02-15 08:15:57) |
16. ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー
「スター・ウォーズ」シリーズにおける人気キャラクターであり、映画史上における“アウトロー”の代名詞でもあるハン・ソロの前日譚映画として、真っ当な冒険活劇だった。 彼のアウトローとしてのキャラクター性の確立、そして本編を侵害しないキャラクター造形等、ロン・ハワード監督らしい誠実で、職人監督らしい堅実な仕事ぶりに好感を持てる。 [インターネット(字幕)] 7点(2025-02-09 10:26:41) |
17. 愛にイナズマ
とてもバランスが悪くて、本当に伝えたいメッセージを上手くは表現しきれていない映画。でも、愛さずにはいられない映画。 [インターネット(邦画)] 8点(2025-02-08 09:27:27) |
18. 真実の行方
ネタバレ 主演のスター俳優を、複層的な意味で“食らう”新人俳優の怪演に面食らう。 がしかし、本作を1996年公開当時に観られていたならば良かったが、既に“エドワード・ノートン”という俳優の地位が確立されてしまっている今観てしまうと、その衝撃が半減とまでは言わないが、目減りしてしまうことは否めない。 [インターネット(字幕)] 7点(2025-02-02 10:08:45) |
19. E.T.
現在43歳、自分が1歳の時に公開された映画史上においてあまりにも有名で、世界中から愛されるSF映画を、初めて鑑賞することになった。 年末年始、地方のスクリーン事情では、あまり目ぼしい劇場公開作品が無くて、特別上映されていた本作が2025年最初の劇場鑑賞作品にもなった。 何よりも、この映画の“初鑑賞”を劇場で、しかもIMAXで体験できたことは、個人的な映画ライフのトピックスになり、とても幸福なことだったと思える。 多感な少年が、迷い込んだ異星人と出逢い、友情を育み、大人たちの干渉から逃れ、自転車で宙を駆け、感動的な別れに至る──そんな物語。 “初鑑賞”とはいえ、真っ当な映画ファンのはしくれとして、本作がどういう作品なのかという「情報」は、ほぼ熟知してしまっていたと言っていい。 おおよそその“知識”通りに映画は展開され、様々な場面で何度も目にしたことがある有名な数々のシーンを、映画鑑賞として初めて観た。 分かりきった展開、見覚えのあるシーンの連続であるにも関わらず、映画そのものへの愛おしさに溢れる世界観と、クライマックスの高揚と感動に対して涙が滲んだ。 CG以前のクリエイティブによる異星人の造形は、文字通りに“魂”を吹き込んでいる。 決して生命を表現する物体としてリアリティがあるわけではないし、精巧なわけでもない。 それでも、少年と出逢い、心を通じ合わせる“E.T.”には、キャラクターとしての息吹があり、この映画のテーマをちゃんと成立させている。 今や、実際は存在しないものを映像世界の中で息づかせ、“登場人物”として成り立たせることはあたり前のことであり、“人間”の造形すらCGやAIに取って代わろうかという時代だけれど、その映画史的な文脈の発端には、この映画が確実に存在するのだろう。 スティーヴン・スピルバーグの映画の中でも、特にファンタジー性に溢れ、どちらかというとウェットな映画世界に見える。子どもから大人まで楽しめるファミリームービーであることは間違いない。 けれど、少し俯瞰して作品を振り返ると、やはりそこにはスピルバーグ監督ならではの少しドライな“視点”も含まれていたように感じる。 特に印象的だったのは、作中での“大人”の描かれ方だ。 本作では、終盤に至るまで、主人公の母親以外の“大人”は「表情」が映し出されない。迷い込んだ異星人の足跡を追う者たちや、学校の教師など、確実に意図的にその顔を映すこと無く描かれている。 それは、子どもたちの視点から見た大人たちに対する不穏さや、ある種の恐ろしさを表現すると同時に、子どもたちも、大人や社会に対して理解せず、狭い世界観の中で生きているということを表していたように思える。 表情を隠された大人たちの言動は、一方的で横暴なように映っていた。しかし、終盤に入り、彼らの表情が見えてくると、当然ながら彼らもそれぞれの理念や信念を持って対応しているということが伝わってくる。 主人公をはじめとする子どもたちは、異星人との交流と同時に、大人たちの「表情」から伝わる葛藤や苦悩にも触れ、成長をしていく。それは本当の意味で、“未知なる世界”へと視界が広がったことへの証明だったのだろう。 子どもたちと大人たちの関係性を一方的で類型的な描写に留めず、客観的な視点によって描き出した様が、とても印象的だった。 それはまさに、先日鑑賞したばかりの「フェイブルマンズ」で描かれた、スピルバーグ本人が自身の家庭環境を俯瞰して捉える様に通じていたと思える。 ストーリー展開的には全体的に大雑把で、なぜそういう展開になったのかと疑問符が生じる場面も多々あったことは否めない。 ただそういう粗削りな側面も含めて、大巨匠が映画史における新たな時代を作り出そうとする黎明期の作品であることを感じさせた。 あ、あと主人公の妹役のドリュー・バリモアが天才少女すぎた。 [映画館(字幕)] 8点(2025-01-27 17:37:23) |
20. エイリアン:ロムルス
リドリー・スコット監督が生み出した「エイリアン」は、言わずもがなSFホラーの金字塔であり、いまなお世界中の映画ファンやクリエイターを虜にし続ける傑作である。時代を越えて、映画表現そのものが刷新されていくほどに、その価値は高まり、映画史に深く刻みつけられている。 その稀代の人気シリーズの最新作は、御大リドリー・スコットが監督ではないものの、オリジナルの世界観と恐怖感をきちんと継承し、エンターテイメントとして上質で精度の高い作品に仕上がっていた。
1979年の「エイリアン」と、ジェームズ・キャメロンが監督した「エイリアン2」の間の時間軸として描かれるストーリーと映像世界は、リドリー・スコットが生み出した美術デザインや空間デザインのエッセンスが色濃く反映されていた。敢えて粗い粒子感を持たせた映像美も、オリジナルのルックへの敬意が表れており、地続きの世界線であることを丁寧に表現していたと思う。 個人的には、リドリー・スコット自身が監督した“前日譚”である「プロメテウス」と「エイリアン:コヴェナント」のその後のストーリー展開を待ち望んでいたため、今回の最新作がまた別の時間軸であることにがっかりし、劇場鑑賞をスルーしてしまった。
だが、実際に本作を鑑賞してみると、そのストーリーテリングにおいて、「コヴェナント」や「プロメテウス」が紡ぎ出したストーリーの要素も少なからず盛り込まれており、本作が決して安易なリブートではなかったことに納得した。 「エイリアン:コヴェナント」では、新たな“創造主”になろうとするアンドロイドが、「生命」そのものに対する“レイプ”を犯す。その顛末は、「エイリアン」と冠されたSFシリーズの前日譚としてはあまりにも異質で、禍々しく、一部のファンにとっては大いなる失望を招いた。
しかし、それは「エイリアン」という映画が、実は生命そのものの抗いと、純粋な暴力、それに伴う圧倒的な恐怖を描き出した作品であったことを追求した結果だったようにも感じた。 この最新作においても、そのテーマを踏襲するかのように、異なる生命体による“レイプ”とその“産物”が、さらに禍々しく描き出される。
非常にショッキングでえげつないその展開は、またしても多くのシリーズファンを失望させたかもしれないが、「エイリアン」という映画世界が孕む「真意」に対して、相応しいストーリーテリングだったと思えた。 「生命」そのものが犯した“禁忌”を目の当たりにしながら、生き延びた新たなヒロインは、先の見えないあまりにも不確かな旅を続ける。その先に待ち受けるものは何か。かつて創造主が宇宙の星々に撒いた企みなのか、それとも創造主に憧れたアンドロイドが作り出した新たな世界なのか。
分岐し広がった「エイリアン」が織りなす宇宙観が、一つの場所へ収束していくような期待感と、まだ見ぬ恐怖感が同時に押し寄せてくるような新章に感嘆した。 [インターネット(字幕)] 8点(2025-01-27 08:32:49)(良:1票) |