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 > 鉄腕麗人 さん
鉄腕麗人さんのレビューページ[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2322
性別 男性
ホームページ http://yaplog.jp/awoi-sekai/
年齢 38歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  ゴジラ キング・オブ・モンスターズ 《ネタバレ》 
ゴジラ映画ファンとして先ず断言したいが、本作が映し出すビジュアルはとんでもなくエキサイティングであり、世界中総てのゴジラ映画ファン、怪獣映画ファンは、必ず映画館で見なければならない。 それが決して言い過ぎではないくらいに、映像的には本当に“どえらいもの”を見せてくれる。それは間違いない。  その妥協の無い映像的クオリティーは、この映画の製作陣が、日本が生んだ“ゴジラ映画”を心から敬愛し、尊敬してくれていることの紛れも無い証明であり、そのことについては、日本のゴジラ映画ファンとして心底嬉しく思う。  と、5年前の前作とほぼ同じ、いやそれ以上の「満足感」を得られたことは否定しない。 しかし、だ。その「満足感」と同時に、決して看過できず、拭い去れない「拒否感」を覚えたことも否めなかった。 前作鑑賞時と同様に、エンドロールを見送りながら、“神妙な面持ち”を崩すことができなかった。  「拒否感」の正体はもはや明確である。“核の取扱い”只々この一点に尽きる。 ストーリーテリングにおける“それ”についての「意識」の違いさえ無ければ、僕は前作も含め、この“ハリウッド版ゴジラ”を大絶賛することを惜しまなかっただろう。 だが、残念ながら、前作に続き本作においても、「核兵器」という人類が生み出した最凶最悪の脅威に対する“意識の違い”というよりも、むしろ明確な「無知」が、大きく分厚く障害として立ちはだかった。  その「無知」は、致し方ないものとも思える。 世界で唯一の被爆国として、この国の子どもたちは、核兵器の脅威とそれがもたらした悲劇に関する情報を、教育の中で蓄積し、潜在意識レベルで認識している。 いかなる場合であっても、核兵器は「否定」の対象であり、その象徴が、脅威としての「ゴジラ」なのだ。 一方、かの国の子どもたちにとって、「ゴジラ」とは“核が生み出したヒーロー”であり、その認識を変えることは極めて難しいことなのだろうということを、前作と本作を観て痛感した。 歴史も、文化も、価値観も違えば、それは当然のことだろうし、こと「核兵器」に関する経緯においては、日本とアメリカの立場は全く両極にあったわけだから、その「乖離」は殊更であろう。  ただ、そのように俯瞰して見れたとしても、本作における核兵器のあまりに軽薄な取り扱いは、この映画が「ゴジラ映画」だからこそ認めるわけにはいかない。 衰弱したゴジラに対し、核爆弾をあたかも“カンフル剤”のように爆発させ、復活する様を仰々しく映し出し、本作随一の名場面のように仕上げた様には、怒りを覚えるというよりも、唖然としてしまった。 我らが渡辺謙の熱い見せ場には申し訳ないが、日本のゴジラ映画ファンにとっては、あのシーンが最も「不適切」で「不要」だった。   でもね……。 これがアメリカ人が愛し、アメリカ人が観たい「ゴジラ映画」であれば、それがすべてであり、娯楽映画として本作の在り方を否定する余地は無い。と、本心から思う。(立ち位置が定まらないようで申し訳ないが)  実際、僕自身、前作同様にゴジラの巨躯に感動し、キングギドラが醸し出す絶望感に更に感動し、あの“新兵器”の登場や、“小美人”オマージュなど、一つ一つの要素に興奮した。そして、伊福部テーマ全開の劇伴には、高揚感と共に感謝が溢れた。  詰まるところ、僕はこの映画が大好きなのだ。だからこそ、“嫌い”な部分が我慢ならないのだと思う。
[映画館(字幕)] 7点(2019-06-01 23:30:00)(良:1票)
2.  空母いぶき
どこかの阿呆のように、どんな事でも、浅はかに「曲解」しようと思えばいくらでも出来るわけで。 今現在の、この世界の複雑さと、愚かさを伴った在り方は、いつだってその“危機”を孕んでいる。 「日本」は、そういう危機感に対して、時に老獪に、時に臆病に、結論を避け、蓋を閉め続けてきた。 それは決して、一方的に非難すべきことでも、賞賛すべきことでもなく、極めて難しい選択肢の中で、苦慮をし続けてきた結果なのだろう。 ただし、そういう危うさに対して、いつまでも避け続けるわけにもいかないし、もう蓋をしようにも閉め切れない時勢に至っていることも明らかだ。 この国は、何らかの形で、この「局面」を超えなければならない。この映画の主人公が発した「ハードル」とは、まさにそういうことだ。  ならばどうするのか。 無論、その答えは一つであろうはずもないし、何が正しいかなど実際分からない。 大切なことは、導き出した方向性に対して、誠実に「覚悟」を示せるかということ。 この映画の登場人物たちは、自衛隊員も、政治家も、官僚も、ジャーナリストも、みなそれぞれに強い意思を示し、「覚悟」を示す。 その彼らの有様と、この映画で描き出されることは、あくまでも一つの価値観に端を発する「理想」であり、「空想」に過ぎないかもしれないけれど、その“姿勢”の示し方自体は、とても有意義だったと思う。  演者の部分的な演技プランのみをピックアップして無責任な難癖をつける阿呆は論外だが、しっかりと鑑賞した上で、この映画で描き出されていることと、自分自身の価値観を鑑みて、「否定」することは大いに結構だと思う。 どこまで意図的かは分からないけれど、この映画は、鑑賞者の思想や意識によって如何様にも「見え方」が異なるように仕上がっている。 この映画を鑑賞することで、避けられない「局面」を迎えているこの国の国民として、今一度自分自身の立ち位置を見極める良い機会にになり得るのではないか。   映画作品として、「完成度の高い映画だ」とは正直言いがたい。 登場人物たちに青臭く語らせすぎだし、所々再現映像のようなチープ描写もあり、映画表現としては稚拙だと言わざる得ない部分も多い。 だがしかし、製作費が限られているであろう中で、何とか苦心して映し出された海上での戦闘シーンは、きちんと緊迫感を備えていたし、日本独自のミリタリー映画として成立していたと思える。 そして、その海上の緊迫感は、日本政府の苦悩ともリンクし、この国だからこそ表現し得たポリティカルサスペンスとしても見応えがあった。  最後に、中井貴一の呑気なコンビニ店長役に違和感を感じた人も多いかもしれないが、これは海上護衛艦を舞台にした2005年の映画「亡国のイージス」を鑑賞した映画ファンならば、なかなか感慨深いギャップを孕んだキャスティングのはずだ。 本作には、「亡国のイージス」原作者の福井晴敏が企画として名を連ねており、随所にかの映画を彷彿とさせるキャスティングや設定が見受けられる。 原作自体に関連性は無いので、ストーリー性が別物であることは当然だが、同じ日本の領海上を舞台にしたポリティカルサスペンスでありながら、十数年の時を経て、自衛官や政治家たちの立ち位置が微妙に変化していることも興味深い点だった。
[映画館(邦画)] 8点(2019-05-30 23:28:20)(笑:1票) (良:1票)
3.  ガーディアンズ 《ネタバレ》 
ロシア版「アベンジャーズ」というよりは、「ファンタスティック・フォー」に近いだろうか。 所変われば、ヒーロー像も変わる。映画としての善し悪しはまず置いておいて、興味深い映画であったことは認める。 はっきりとチープな部分も多々あるが、ビジュアル的に美しい描写もあり、映画としてのルックは思っていたよりもちゃんとしていたという印象。  だがしかし、そういったフォローポイントを圧倒的に凌駕する稚拙なストーリー展開が、ストーリーが進むにつれ加速するように酷い。 まず、人体改造されたヒーローたちの出自と現在の立ち位置、宿敵との関係性が絶望的に分かりづらい。 そこから描き出されるストーリーも、思わず「下手くそか!」と声を上げたくなるくらいに話運びがぐだぐだで、合うべき焦点がまったくもって合っていない。 最初のうちは、お国柄ゆえの“ハズし”なのかと好意的に見ていたが、段々とすべての登場人物たちが「バカ」にしか見えなくなってくる。  ヒーローたちのキャラクター性自体がMARVELやDCをはじめとする数多の有名ヒーローたちのパクリであることは別にいい。 ただロシアで生まれたヒーローである以上、かの国だからこそ生じる葛藤や苦悩をキャラクターたちに反映して欲しかった。  MCUを表面的になぞって、ユニバースの拡大を狙ったラストのシークエンスをドヤ顔で見せられても、食指はピクリとも動かない。
[CS・衛星(字幕)] 3点(2019-05-20 00:09:06)
4.  シャザム!
「何かラスボス的なこと言ってる?」 子どもをスーパーヒーローにしちゃあいかん。楽しすぎる。
[映画館(字幕)] 7点(2019-05-10 23:23:46)
5.  クレヨンしんちゃん 新婚旅行ハリケーン 〜失われたひろし〜
昨年に続き、クレヨンしんちゃん映画を我が子と、友人父子らと連れ立って鑑賞。 昨年の「爆盛!カンフーボーイズ〜拉麺大乱〜」は、想定を大いに超えた素晴らしい作品だった。 このアニメならではの“おバカ”コメディを全面に繰り広げつつも、しんちゃんをはじめとする子どもたちの目線を通じて「正義」という概念のこの世界でのあり方を問うという、物凄くクオリティーの高いストーリーテリングに感嘆した。  そんなわけで昨年よりも鑑賞前の期待値が上がった今作も、“クレしん映画”ならではの「時代」を映すテーマ性は盛り込まれていたと思う。 今作のテーマは、母親であり、妻であり、一人の女性である“みさえ”によるずばり「女性讃歌」だ。  数年遅れのハネムーンの地で、母親であることの苦闘、妻であることの葛藤、それらをひっくるめて一女性としての強さと弱さを等しく全面に押出しながら、アドベンチャーを繰り広げる“みさえ”の姿が眩しく、愛おしい。 今作においては、主人公であるしんのすけは、めずらしく子どもらしいポジションにおさまっており、みさえとひろしの父母の活躍に振り切った構成も中々潔い。  それはまさに、この映画を子を連れて鑑賞しているであろうすべての母親たちにスポットライトを当てるべく用意されたストーリー展開だった。  この映画の焦点とその意図はよく理解できる。ただし、“クレしん映画”としてちゃんと面白かったかというと、少々疑問は残る。 個人的には、「母親」や「女性」といったターゲットに対する焦点の当て方が、少しあざとすぎたんじゃないかと思える。 主人公・野原しんのすけの存在感が“大人しく”見えたことに顕著に表れているように、「子ども」の存在をもう少し意義深く描き出すべきだったのではないかと思う。  「クレヨンしんちゃん」の主人公は、当然ながらしのすけである。 今作でも彼はいつものようにおバカに暴れまわってくれてはいるが、どこかその言動にいつものような“熱さ”を感じなかった。 “クレしん映画”の過去作をいくつも観ているわけではないので、どうしても前年との比較になってしまうが、声優の交代も少なからず影響しているのではないかと思う。声色的に違和感はあまり無かったが、この国民的キャラクターが内包する根本的な「熱量」を、まだ新しい声優は表現し切れていないのかもしれない。  まあとはいえ、僕の横で子どもたちはちゃんと笑い、ちゃんと泣いていたようなので、変な言いがかりをつけるべきではないのかもしれないが。
[映画館(邦画)] 5点(2019-05-06 20:40:56)
6.  何者
「就職活動」というものをしたことがない。 今現在職に就いているわけだから、正確にはそれをしたことがないというのは間違いかもしれないが、この映画のメインストリームに描きつけられている、いわゆる“新卒採用”向けの活動をしなかったという意だ。 ただし、だからと言って、この映画が表現する鋭利で毒々しい「棘」が突き刺さらないわけがなかった。  観よう、観ようと思いつつ、長らく逃げ続けてきた映画だった。 もしも、もう少し若い頃にこの映画を観たならば、この作品から飛び出してくる棘は心の奥底まで突き刺さり、僕は、もっと分かりやすくボロボロになっていたことだろう。 今、このタイミングでこの映画を鑑賞し、あまりに辛辣な描写に痛みを覚えながらも、まだ平静を保っていられることは、幸か不幸かどちらだろうか。  少し、自分自身の話をしたい。 高校を卒業して、大学には行かず、東京の専門学校に進学した。「映画製作」の職に就きたいという夢を持ち、それを実現させるための進路だった。専門学校に2年間通い卒業したが、映画製作の現場には就職しなかった。業界の特性上、明確な就職活動的なプロセスは無かったし、映画製作の現場の猥雑で古臭い価値観は自分には合わないと思った。フリーターとニートで数年過ごし、その間に地元に帰り、今の会社に就職したのが13年前。 思い返せば、僕にとっての「20代」は、本当に地獄のような日々だった。 自分がやりたいことと、やったほうがいいことと、やらざるを得ないことが、バラバラで全く一致せず、体が動かず、結局「何も」行動することができなかった。 只々、朝が来る恐怖の中で眠り、その日一日を何とか自分の中で誤魔化して、生きてきた。  先に、「就職活動をしなかった」と記したが、既にここにも、自分自身に対する誤魔化しを孕んでいる。 就職活動をしなかったのではなく、“できなかった”のだ。映画業界に就職しなかったのではなく、“できなかった”のだ。 当時、SNSはまだ普及していなかったので、僕は、日々の自己満足と逃避の理由を、日記やブログに書き連ねていた。  愚かだったとは思う。でも、今となっても、その日々を否定することはできない。当時の僕にとっては、本当にそれが精一杯だったからだ。 そして、その上に、今の自分の人生が展開しているということも否定しようがないからだ。  この映画に登場する4人の若者(就活生)は、四者四様に痛々しく、愚かしい。正直、見ていられない。 でも、僕は、この4人の誰のことも、上からの目線で否定することなんてできない。間違いなく、彼らは僕自身だからだ。 こうすればいいのに、こう考えればいいのに、と今の僕が、当時の僕(=彼ら)に意見することは、まったくもって無意味だと思う。 「青春」という言葉で表現するには、あまりにビターで世知辛いが、かけがえのない若き煌きが存在するように、取り返しのつかない若さゆえの「闇」も確実に存在するということ。 そして、その闇にとりつかれ、押しつぶされることすらも、若者の特権なのだと思う。  登場人物の心情のみならず、鑑賞者の心情までも“丸裸”にする、とても危険な映画である。ただ、「就職活動」という経験の有無など関係なく、すべての“大人”に観てほしい映画でもあった。  たとえ地獄のような日々でも、それでも何とか生き続けてみれば、「悪くないな」と思える日がくる。そのことだけは、当時の自分自身に言ってやりたい。
[インターネット(邦画)] 10点(2019-05-05 18:12:26)
7.  クリミナル 2人の記憶を持つ男 《ネタバレ》 
まず断言したいのだが、この映画は、かつてのハリウッドの大スター俳優が惰性で出演している安易なアクション映画では決してない。 主演のケビン・コスナーは、60歳を超えてなお新境地を切り開くべく、精力的な役づくりに挑み、不幸な幼少時代に脳障害を受けた凶悪死刑囚を熱演している。  その主人公の凶悪犯に、死亡したCIAエージェントの記憶を埋め込み、世界の危機を救うミッションに挑むというプロットは、字面だけをみれば馬鹿馬鹿しく思えるが、そこから生まれたドラマ性はなかなかどうして見応えがあった。  断片的な記憶を辿りながら絶体絶命のミッションを繰り広げていくというような「ボーン・アイデンティティ」的なスパイアクションの二番煎じなのだろうと想定していた。 しかし、そうではなくこの映画は、ある種「障がい者」でもある凶悪犯が、強制的な脳手術により図らずも“人間らしさ”を得て、自分が置かれた立場との狭間で苦悩する人間ドラマを主軸に据えていた。そのストーリー展開は、非常に悲しく、新鮮でもあった。  また、その物語の構図は、ダニエル・キイスのSF小説「アルジャーノンに花束を」を彷彿とさせ、深い感慨を孕んでいたと思う。  と、想定よりもずっと面白い映画であったことは間違いないのだが、ラストの顛末があまりにモ惜しい。 主人公は、世界を陥れようとするテロリストに見事に打ち勝ち、世界を危機から救う。そこまではエンターテイメントとして爽快でとても良い。 ただ、その後、埋めつけられたCIAエージェントの記憶と人格が定着し、遺族である家族たちと懇意になるという“ハッピーエンド”は、いささか安直で都合が良すぎると感じてしまった。 更には、非人道的に彼を利用するだけして使い捨てるつもりだったに違いないゲーリー・オールドマン扮するCIA支局長(無能)も「スカウトしよう」とか言い出す始末……。  せっかく「アルジャーノンに花束を」のような感慨深いドラマ性を孕んでいるのだから、最後の最後まで、あの物語性を踏襲してくれたなら、相当に感慨深い余韻を残す傑作に仕上がっていたに違いない。 束の間の“人間らしさ”が夢だったかのように霧散し、再び監獄に戻っていくケビン・コスナーの後姿を妄想しただけで、涙が出てくるのに。
[インターネット(字幕)] 7点(2019-05-04 23:50:54)
8.  ジュマンジ ウェルカム・トゥ・ジャングル
ロビン・ウィリアムズが存命ならば、たとえカメオ出演だったとしても、小気味良い存在感を放ってくれただろうなと、今は亡き名優を偲ばずにはいられなかった。 1995年の「ジュマンジ」は、劇場鑑賞以来、幾度も観返しているが、毎回色褪せぬエンターテイメントを与えてくれる傑作だ。 児童向けの絵本を原作としたファミリームービーには違いないが、映し出される魅力的なファンタジーとアドベンチャー、それらと共存するダークでビターなテイストが何とも味わい深く、忘れ難い余韻を生んでいる。  実世界と同じく、20余年後を舞台にしたこの続編も、今の時代に相応しい娯楽性を生み出しているとは思う。 恐ろしいゲーム世界を通じて、自分自身を見つめなおし成長していくという根底のテーマ性は前作から継承されているもので、それに加えて、時代を越えて顕著になった個人の多様性やそれを相互に理解しあうという追加要素はとても現代的だと思った。 そういうテーマ的な観点としては、現代社会に即した意義を持った良いリメイクだったと思うし、ドウェイン・ジョンソンやジャック・ブラックをキャスティングし、質の高いアクション・コメディに振り切った作品の方向性は全く間違っていないと思う。  ただし、オリジナル映画の大ファンとしては、大いに物足りなさを感じてしまったことも否定できない。 “ジュマンジ”の世界と現実世界を繋ぐ「媒体」が、ボードゲームからビデオゲームになったとはいえ、その中身は同じハズ。であれば、もう少し前作に登場したイベントやキャラクターを踏襲したゲーム世界を映し出して欲しかった。 かろうじて“サイの暴走”は出てきたけれど、巨大蚊や不良猿、人喰い植物、底なし沼など、娯楽性に溢れたあの漫画的な数々のイベントを、ロック様をはじめとする新しい登場人物たちが、ゲーム世界の中で目の当たりにする様を見てみたかったと思う。 そういう意味では、この続編で描き出されたゲーム世界はあまりに凡庸で、ゲームとしては“クソゲー”のレッテルを貼られても致し方ないだろう。  繰り返しになるが、ロビン・ウィリアムズが生きていれば、悪党ハンター・ヴァン・ペルト役で特別出演が実現したかもなあと、叶わぬ空想は膨らみ続ける。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2019-05-04 20:08:10)
9.  トレイン・ミッション 《ネタバレ》 
この監督×主演俳優コンビの映画を観るのもこれで3作目。実際は通算4回目のタッグであり、余程この両名は気が合うのだろうと思う。 そして、毎度のことながら、このタッグによる映画、掴みは良い。 過去、「アンノウン」「フライト・ゲーム」と観てきたが、導入部分、特に冒頭シーンのシークエンスは両作とも白眉だった。主演リーアム・ニーソンの持ち前の物憂げな表情と、不穏を煽るビジュアルセンスが相まって、一気に引き込まれる。 今作では、老サラリーマンの日々の出勤前のシーンが幾年分も折り重なるように映し出され、このオープニングの数分間の描写で、主人公の男が積み重ねてきた「日常」の価値と、それと表裏一体の鬱積めいたものが伝わってくる。  ああ、何か良質なサスペンスが観られるかもしれない。と、期待は最高潮となる。 が、そんな期待感は、ストーリー展開と共に、アクション性が暴走し、事の真相が詳らかになると共に、徐々に確実に「脱線」していく……。  さすがに4度も共に仕事をするだけあって、この監督と主演俳優の相性自体は決して悪くはない。 ジャウマ・コレット=セラ監督のビジュアルセンスは長けているし、どんなにアクション俳優化したとしてもリーアム・ニーソンが名優であることは揺るがない。両者が表現者として持つ繊細な波長はよく合っていると思える。  となると、致命的なのはやはり脚本のまずさだろう。過去作も含めて、ストーリー展開がチープでお粗末だ。 同じようなジャンル映画であっても、もう少しだけ気の利いた脚本が備わっていれば、正真正銘に「面白い」映画になり得ると思う。現状でも充分に「観れる」娯楽映画ではあるだけに、勿体無い。  阿呆な陰謀チームの肩を持つわけじゃないけれど、最終的にそこまで無茶苦茶するんなら、ごちゃごちゃと面倒でリスキーなことをせずに、最初から“脱線プラン”でいけよという話だ。 まあその場合、主演俳優はリーアム・ニーソンではなく、スティーヴン・セガールになってしまうがね。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2019-05-04 17:25:54)
10.  ジオストーム
予告編からひしひしと伝わってくる愛すべき“B級感”から、「劇場鑑賞すべき」という嗅覚は利いていたのだけれど、結局見逃してしまったことを只々後悔。  90年代からの災害パニックムービー(ディザスター映画)ファンとして断言できるが、これは良い災害パニックムービーだ。 作り手は、この手のジャンル映画の何たるかをよく分かっている。と、思えば、監督はディーン・デヴリンか。 90年代にローランド・エメリッヒ監督とのコンビで、「インデペンデンス・デイ」「GODZILLA」を生み出したこの映画人であれば、今作の良い意味で馬鹿馬鹿しくて大仰な災害パニックの構築は激しく納得できる。  また、エド・ハリス、アンディ・ガルシアら90年代に活躍したスター俳優のキャスティングもツボを心得ている。 そして主演のジェラルド・バトラーが異常気象並みの熱波を発しつつ、剛健な主人公像を体現している。  ムンバイでの大寒波に始まり、地震、火山噴火、巨大竜巻、巨大雹害、雷災害、巨大津波、と世界中のあらゆる都市で、通常は気候的に起こりえない大災害のオンパレード。それはまさに、“天変地異”のオールスター映画である。 その一つ一つの災害シーンを決して手を緩めることなく、とことん大袈裟に、とことん絶望的に映し出してくれる。 その様を見ているだけで災害映画として満足するしかなく、更にはそこにアメリカ政府の陰謀論と、宇宙空間からの絶体絶命のサバイバル劇まで、ストーリーの具材を盛りに盛ってくる。  いやあ、これは頭を空っぽにして、映画館の大スクリーンで鑑賞すべきだったとつくづく思う。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2019-05-04 17:25:01)
11.  ランペイジ 巨獣大乱闘
「rampage」の意味は「大暴れ」。なんと端的で潔いタイトルだろうか。  ひねりも変化も無いドストレートなタイトルそのままに、巨大化した動物たちが、“主演俳優”と共に、大暴れする。 まさに“B級モンスター映画”の最前線。この系譜の最新作において、ドウェイン・ジョンソンの主人公へのキャスティングとそのハマりぶりは、豪華で、あまりに相応しい。 超高層ビル郡を所狭しと暴れまわる猛獣たちの間に割って入り、果敢に立ち向かう動物博士(&元特殊部隊員)なんて役どころを大真面目(?)に演じられるのは、今やロック様をおいて他にないだろう。  昔からビデオスルー(DVDスルー)される“Z級映画”のパッケージには、絶対に本編には映し出されることはない仰々しいイラストビジュアルがプリントされているものだが、今作はそれを地でいく馬鹿な大仰さが、モンスター映画ファンとしては嬉しい。  ただどうせならもっと馬鹿馬鹿しさ全開で、多数の巨大化猛獣たちの大乱闘を見たかったとは思う。 「巨獣大乱闘」という日本語サブタイトルに対して、登場する巨獣が計3頭なのは少々物足りない。  結局、味方の白ゴリラは巨獣のまま強引なハッピーエンドを迎えているので、是非ロック様とのバディを継続した続編を、ライオン、カバ、サイ、ヘビ、ワシ……の動物園猛獣オールスターでお送りして欲しい。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2019-05-03 23:07:00)
12.  アベンジャーズ/エンドゲーム 《ネタバレ》 
トニー・スタークがアイアンマンになって10余年。僕たちは、彼が幾つもの眠れぬ夜を過ごしてきたことを知っている。 そのトニーの姿を一番近くで見続けていたのは、他の誰でもなくペッパー・ポッツだったということ。 だからこそ、ポッツは、遂に“闘い終えた”トニー・スタークに対して、努めて穏やかに「眠って」と言葉を送ったのだ。  もうね、涙が止まらなかった。高揚感、喪失感、そして多幸感と感謝、涙の理由は多層的に渦巻き、正直なところ初回鑑賞時には感情の整理がつかなかった。 そして、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)が、「アイアンマン」からこの「エンドゲーム」に至るまで描き連ねてきたものは、“ヒーロー”という宿命を背負った者たちの自らの「運命」に対する抗いと享受の物語だったということを痛感した。 MCUのヒーローたちは、自らの運命を憂い、おびただしい傷を負いながら、藻掻き苦しむ。 時に混乱し、対立し、選択を見誤ることもあるけれど、決して彼らは諦めない。再び立ち上がり、強大な敵=運命に“Avenge(復讐)”する。 その姿に、僕たちは憧れ続ける。それは必ずしもスーパーヴィランに打ち勝つスーパーヒーローだからではない。 彼らは皆、ヒーローであると同時に一人の人間だ。その一人の人間としての弱さや脆さすらもひっくるめた強さに憧れるのだ。  この一つの「時代」を築き上げたヒーロー映画シリーズの最終局面である本作には、“市井の人々”は殆ど映し出されない。 必然的に、ヒーローたちが市民の危機を救うシーンは皆無だ。巷ではそのことに対して批判的な論評もあるようだが、僕は異を唱えたい。 本作に限っては、アベンジャーズが僕たち一般人を救い出すシーンなど必要ないと思う。 なぜなら、「彼らは、僕ら」だからだ。  スーパーヒーローの一人ひとりが、時に弱く脆い一人の人間であることと同時に、我々一人ひとりの人間が、時に強く勇敢なスーパーヒーローにもなり得るし、そうでなければならない。ということを、このエンドゲーム の“大合戦”はありありと映し出していた。 遂にスーツを纏い、夫と背中合わせで戦うペッパー・ポッツは勿論、テレパスのマンティスやシュリ(プラックパンサーの妹)など、非戦闘員のキャラクターたちが、名だたるヒーローたちの先陣を切るようにしてサノス軍に立ち向かっている。 クライマックスにおいて画面いっぱいに映し出されたこの異様な迫力に溢れた「構図」が表す意味は明らかだ。 もはやこの局面において、スーパーヒーローかそうでないかなど関係ない。強大な悪と理不尽な暴力によって大切なものを奪われた全ての者たちが、「正義」の名の下に復讐に挑む。 それは、溜めに溜めたキャップの「Avengers Assemble」の一声と共に、ヒーローたちのみならず我々人類全員が「アベンジャーズ」となった瞬間だった。 だから、この映画に限っては、ヒーロー映画であっても“救う”シーンは必要なく、全員で“戦う”シーンで占められているのだ。  と、まあ初鑑賞からかれこれ日数が経っても、熱くならずを得ず、また語り尽くせぬ。 10年以上に渡り、この類まれな映画体験を享受できたことを、只々幸福に思う。  70年遅刻のデートを果たしたスティーブ・ロジャースに祝福を。 “不完全燃焼”のソーには、まだ何千年も残っているであろう人生に敬意(と密かな期待)を。 そして、Thank you Tony. Thank you Avengers,3000.
[映画館(字幕)] 10点(2019-04-27 00:09:40)(良:1票)
13.  ブラック・クランズマン
愚かな憎しみと、悲しみ、怒り、その蓄積と連鎖。 もはや、レイシスト(人種差別主義者)を非難して、否定すれば済む問題でもなければ、そんな時代でもないのではないか。 映画の中のブラックジョークが、全く冗談になっていない今現在の現実社会を想起して、言葉が無かった。  こういう映画を観て、“分かったつもり”になること程愚かなことはない。 スパイク・リー監督による映画的なバランスを度外視したメッセージ性は強烈に突き刺さる。が、だからと言ってそれを一方的に丸呑みすることも違うだろうと思う。 「アメリカの闇」なんて便利な言い回しで片付けるのも違うし、「闇」と言うならば、これは世界中全ての国と人間が共通して孕む暗部であろう。 対岸の火事と客観視できるわけもなく、まずは突きつけられたこの現実を直視するしかないと思う。まさにアメリカの国民に限らず、全世界に対して「目を覚ませ!」ということなのだろう。  映画内では、白人のレイシストたちがおぞましく、滑稽に、糾弾すべき対象として描かれているけれど、同時に彼らの悲哀も炙り出されている。 教養もなく、富もなく、ステイタスもない“団体”の面々は、せめて自らの存在価値を繋ぎ止めるために、必死になって創り上げた差別意識と被害妄想の中でしか生きる意義を見出だせない。 なんて悲しいのだろう。 差別される黒人の悲しみを越えて、差別をする白人の悲しみが描き出されているように見える。そんな愚の骨頂を目の当たりにして、結局、どちらが本当の意味で“可哀想”なのか分からなくなった。  主人公を含む刑事たちは「KKK」への潜入捜査を“一応”成功させる。 しかし、痛快なラストの顛末も束の間、主人公は「闇」の果てしなさを垣間見せられる。 結局、何も解決していないし、長い年月の中で闇雲に広がった憎しみは、虚無的に増殖し続けている。   映画の最後には、現実社会の悲痛な実映像が映し出される。 この実映像挿入の是非については議論の余地がある。個人的にも、こういう形で最後に実映像を加えてくる作品は、映画表現としてアンフェアなような気がしてあまり好きではない。 ただし、本編撮影終了後に実社会で起こったあの事件の実映像を、映画的なバランスを崩してでも挿入した、いや挿入せざるを得なかったスパイク・リーの意図もよく分かる。 それは即ち、この映画が、70年代のノンフィクションを題材にした実録映画ではなく、「現在」の映画であることの“宣言”なのだろう。 映画史における将来的な評価よりも、今この瞬間に対する問題提起と怒りを示すことの重要性と必要性を、スパイク・リー監督は最優先にしたかったのだと思う。  差別意識の問題は、アメリカ社会に限らず、全世界の現代社会における最重要課題だ。 それは社会に蔓延しているよりも、私達人間の一人ひとりの内面に蔓延る病原菌のようなものだと感じる。 根本の解決策などその存在の有無すら懐疑的だけれど、これまでとは違うアプローチが必要なのは明らかだ。  そういう意味で、この確固たる「娯楽映画」が、エンターテイメントの中で表現してみせたことは、この先の時代に向けて意義深い。
[映画館(字幕)] 8点(2019-04-18 09:45:24)
14.  64/ロクヨン 後編
通り一辺倒ではない様々な感情と思惑が、時代の流れと共に入り混じったストーリーは、流石に横山秀夫原作らしい。 概ね精力的に映画化に臨んでいるとは思うが、いかんせん演出が稚拙だ。
[インターネット(邦画)] 5点(2019-04-02 17:03:37)
15.  64/ロクヨン 前編
もうすぐ「平成」が終わる。そんな頃合いに、7日間しかなかった昭和64年に起きた誘拐殺人事件をめぐる群像サスペンスを描いた今作を観たのも、何かのめぐり合わせかと思う。  たった7日間の昭和最後の年に取り残された人々の悲しみと傷みはドラマチックだった。 佐藤浩市演じる主人公に与えられたキャラクター設定と人生模様が、創作とはいえ少々ハードモード過ぎるだろと思ってしまったが、そういった俯瞰すると過剰に見えるストーリー構成や、それを体現する各俳優たちの演技プランも、オールスターキャスト映画に相応しいとも思え、楽しめた。  前後編に分かれたサスペンス映画の前編は必然的に尻切れトンボになってしまうもので、今作においてもそれは否定出来ないけれど、ストーリー展開の焦点を過去の事件のあらましと、主人公が公私において抱える苦悩、そして県警内部の極めて普遍的でだからこそ根深く、愚かで見苦しい“人間模様”に集約することで、興味深い物語を構築できていたと思う。 中途半端にサスペンスの本筋に踏み込まないまま前編の終幕を迎えるので、それほど宙ぶらりんな感覚は無かったと言える。  オーバーアクト寄りな演技も、安直な回想シーンの連続も、音楽の使い方も、ベタベタで「新鮮味」なんてものはまるでないけれど、そのあざとさも含めて、この手のオールスター映画の味わいだとも思う。 後編は、いよいよサスペンス映画としての展開が加速するような雰囲気だが、さてどういった帰着を見せるのか。 一つの映画を前後編に分ける手法はあまり好きではないのだけれど、たまにはこういう楽しみ方も良い。
[インターネット(邦画)] 7点(2019-03-31 22:55:51)
16.  キャプテン・マーベル
感情的で何が悪い? 怒り、悲しみ、泣き、笑い、「女」は何度だって立ち上がる。 彼女の圧倒的な無双ぶりに高揚感が止まらない。ニック・フューリーが最後の最後まで隠し持った“切り札”はとんでもなかった。
[映画館(字幕)] 8点(2019-03-23 13:18:42)
17.  ちはやふる 結び
スポ根映画としても、青春映画としても、最高クラスの作品として文字通り“結んでいる”。見事な三部作だった。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2019-03-21 18:33:56)
18.  スパイダーマン:スパイダーバース
アメコミ映画最盛期の現在において、「スパイダーマン」こそがそのムーブメントの発端だったと思う。 2002年のサム・ライミ監督による「スパイダーマン」の成功を皮切りに、数多のコミックのスーパーヒーローたちが実写化され、それぞれの物語が映画文化の中で綴られてきた。 「スパイダーマン」自体は、この十数年に渡るムーブメントの中で、実に三度リブートされ、いずれも絶妙に異なったキャラクター造形と共に、それぞれが「親愛なる隣人」の魅力的な活躍を描き出してきた。  つまるところ、我々はこの十数年間の中で、知らず知らずのうちに“スパイダーマンたち”が織りなす多元世界を「体験」していたと言えるのではないか。 トビー・マグワイア演じるピーター・パーカーも、アンドリュー・ガーフィールド演じるピーター・パーカーも、トム・ホランド演じるピーター・パーカーも、みなパラレルワールドの中で同時に存在する“スパイダーマン”なのだという認識が今となってはしっくりくる。  無論、各シリーズの映画企画においてそんな相互意識は存在しないのだけれど、結果的に殆ど間髪入れずに製作された三様の「スパイダーマン」シリーズの根底には、この愛すべきスーパーヒーローがそもそも携えていた“多様性”が存在していたのだと思える。 その“多様性”が具現化したものこそ、並行世界(=パラレルワールド)の“スパイダーマンたち”を描くという“アイデア”だったのだろう。  あらゆる領域と世界観を超えて展開されるストーリーテリングが素晴らしい。 それは即ち現実社会においても並行して存在するコミック文化の融合でもあり、様々なアニメーション手法を縦横無尽に行き来するような自由闊達な表現が脳内を駆け巡る。  “ボーダーレス”の実現を掲げ、それ故の軋轢の拡大が止まらない現代社会において、この映画が「表現」するものの価値は大きく、だからこそ今この映画が生まれた理由もよく分かる。 どんなに孤独で苦しい闘いを強いられていたとしても、「一人ではない」ということに気づくだけで、大きな勇気を得られる。そして、声援を送ってくれる「隣人」は必ず存在する。 このクールでセンセーショナルに見えるアニメーション映画が伝えるものは、あまりにも普遍的で熱い真っ直ぐなメッセージだった。
[映画館(吹替)] 8点(2019-03-21 18:31:54)
19.  アントマン&ワスプ
前作「アントマン」は、「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」と「シビル・ウォー」の狭間で公開され、両作の色々な意味で“重い”作風に対して、一服の清涼剤となるような良い意味でライトで痛快無比な最高のヒーロー映画だった。 続編となる今作もその立ち位置は変わっていない。あの「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」の重苦しい“悲劇”の直後のMCU作品として、“清涼剤”としての役割は前作以上に大きかったことだろう。  キャストとスタッフが概ね続投されていることもあり、映画のクオリティやテイストに大きな変化はなく、前作同様ヒーロー映画として十二分に楽しい作品に仕上がっていると思う。  ただし、前作ほどのフレッシュさは流石に薄れている。 美しく強い“ワスプ”は魅力的で、表題に割って入ってくるのも納得だけれど、アントマンとのパートナーとしての関係性自体は、前作時点で既に築かれていたものなので、安心感はあるものの特段目新しさは無かった。 アントマンの“巨大化”のくだりも、「シビル・ウォー」で“ネタ見せ”してしまっているのでインパクトに欠けていた。 ストーリーの肝である量子世界への突入についても、既に前作で帰還に成功しているわけだから、新たな緊迫感を生むには至っていないと思う。  それでも前作同様の娯楽性を担保できているのは、やはり登場するキャラクターとそれを演じるキャスト陣が魅力的だからだろう。 アントマンことスコット・ラングを演じるポール・ラッドをはじめ、ワスプ役のエヴァンジェリン・リリー、ハンク・ピム博士役のマイケル・ダグラス、そしてなんと言っても悪友ルイス役のマイケル・ペーニャらのパフォーマンスが安定している。そんなレギュラーメンバーたちの掛け合いを見ているだけで楽しい。 またスコットの娘ちゃんは健気で可愛いし、普通の映画だったら憎まれ役になりがちの娘の“継父”すらも端役ながら最高なキャラクター性を見せてくており、ほっこりさせてくれる。  というわけで結果的には、前回と同じく“清涼剤”の役割をしっかりと果たしてくれていることは間違いない。 が、「覚悟」はしていたけれど、MCUにおいて痛快無比なこの作品においても、あの無慈悲な“チリ”を舞わせるとは……何とも容赦ない。 でもね、アベンジャーズの超人オールスター勢の中で、スパイダーマンでも、ブラックパンサーでも、ドクター・ストレンジでもなく、スコット・ラングという「小物」が生残されたことは、きっと“大きな”意味を持つと期待せずにはいられないよね。
[インターネット(字幕)] 7点(2019-03-21 18:27:49)
20.  日本で一番悪い奴ら
いやいやいやいや、まったく笑えない!なのに、笑えて笑えて、困る!! 実際の警察不祥事事件をモチーフにしたこの犯罪映画は、想像以上に胸クソが悪くて、想像以上に面白くて、とても困った映画だった。  こういう“感覚”を、日本の映画ファンが体感する機会は少ない。 その理由は明確で単純だ。こういう映画があまりにも少ないからだ。 現代社会において実際に巻き起こった事件、事故、スキャンダルを映画の「題材」とすることはあっても、それらを真正面から捉えた上で“エンターテイメント化”する文化的土壌が、この国の映画業界には備わっていない。 その昔は、そういうことをまかり通すだけの肥えた土壌があったのかもしれないけれど、今はすっかり痩せ衰えていると言わざるを得ない。 それは何も映画業界だけの問題ではないだろう。この国の文化的な民度とリテラシーそものもが矮小化し、弱体化してしまい、許容し得る度量がないのだ。  そんな中で、今作と、これを描いた白石和彌という映画監督は、明らかに特異な存在と言えよう。 事実を事実として捉えた上で、「娯楽映画」としての暴力性、可笑しさ、エロさ、猥雑さ、それらすべてをひっくるめたエンターテイメント性から逃げない姿勢が先ず素晴らしい。  日本の映画業界と比較し、映画文化の土壌が肥えているハリウッドでは、作品の善し悪しは別にしてこの手の映画作品で溢れている。 マーティン・スコセッシの映画などはその頂点の一つであろう。決して過言ではなく、今作は、かの巨匠の作品の空気感を彷彿とさせた。近年の作品で言えば、序盤の主人公が悪徳メンターと交流するシーンをはじめ、「ウルフ・オブ・ウォールストリート」に映画的な展開と性質がすごくよく似ていると思えた。  看過できない社会性と、直視しづらいほどの毒性、そして観る者を釘付けにするエンターテイメント性の混在。 それはまさに映画的「快楽」であり、日本でもこういう映画が作られるようになったことがとにかく嬉しい。   公開当時から観たい作品の筆頭であったが、劇場鑑賞の機会を逃したまま、期待値が高まるあまり鑑賞のタイミングを掴みそこねてきた。 ようやく鑑賞に至った動機は、この国の映画ファンにとってあまりに悲しい「ピエール瀧の逮捕」だった。 ピエール瀧が俳優としての類まれな存在感と価値を爆発させた最大のきっかけこそ、白石和彌監督の「凶悪(2013)」だったと思う。 今作においても、彼は序盤の少ない登場シーンで、前述の悪徳メンター役を嬉々として見事に演じ切っている。  無論、彼が犯した罪を擁護する気持ちは毛頭ない。一報を聞いたとき、一ファンとして、憤りと悲しみで打ちひしがれそうになった。 「作品に罪はない」という意見は概ね正しいと思うが、それがイコール「作品の価値が下がらない」ということではない。ピエール瀧の逮捕後に今作を観て、少なからず彼の演技を訝しく観てしまったことは否めなかったし、それはたとえ“過去作”であっても、この映画にとって決して小さくないマイナス要因だった。  ただそれでも、この映画がエネルギーに満ち溢れた良作であることは揺るがないし、今作に限らず、一人の演者の罪によって作品自体が蔑まされたり、日の目を見ないなんてことは間違っていると思う。 詰まるところ、重要なのは我々受け手一人ひとりの「意識」のあり方なのだ。 先に呈したこの国全体の文化的リテラシーの低下にも関わることだけれど、この社会の文化意識そものもがもっと成熟しなければならない。 その上で、「現実」と「作品」との境界線をきちんと認識し、個々人が適切な判断と評価をするべきだ。 そうでなければ、アグレッシブでオリジナリティに溢れた創造活動などできるわけもなく、結果本当に面白い映画なんて生まれるはずもない。  これからも、今作のように「現実」を「娯楽」で笑い飛ばすような映画が生まれ続けてくれることを切に願う。
[インターネット(邦画)] 8点(2019-03-17 11:48:18)
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