1. 失われた週末
精神的不具や肉体的障害といったテーマに対してアカデミー賞は下駄を履かせすぎる(甘すぎる)と、淀川御大がどこかの本で苦言を呈していました。確かに、「これがオスカーかいな?」との疑問がないわけではないです。ワイルダー作品に関する世間的ランクとしても、さほど人気作とはいえますまい。ただ、アル中一歩手前の自分としては、R・ミランドの心理がよーーーく分かります。酒が欲しいとか飲みたいとか、最早そういう次元の話ではないんですよね。とにかく体内に入れないことには、呼吸することさえ苦しい、視野に入るものすべてに腹が立つ、といった精神的圧迫感なんです。以前、引っ越しをした時の話ですが、片付けを一段落させた後に「さて、一杯いくか」と思ったところ、冷蔵庫に何もないことに気づき、慌てて近所のコンビニに走ったものの酒を置いていないクサレ店であることが判明、鬼のような形相で周囲500メートル四方を駆けずり回り、その道中では、すれ違う際に肩がぶつかった人を殴りつけ(その時の人、スイマセンデシタ…)、角からいきなり無灯火で飛び出してきた自転車を突き倒し(本当にスイマセン…)、閉まっていた酒屋のシャッターを数度にわたり蹴り上げ(重ね重ねスイマセン…)、文字通りの一大騒動でした。そして、ようやく手にしたブツを食道に注入した時の快感ときたら…すいません、どうでもいい話でした(苦笑)。 7点(2004-05-22 11:49:59) |
2. 郵便配達は二度ベルを鳴らす(1942)
《ネタバレ》 【STING大好き】さんも仰せの通り、一般には、ネオレアリズモの先駆的作品とされていますが…確かに、オールロケという形式や中・下層大衆的日常生活の描写という点ではそうなのでしょうけれども…しかし、不倫はともかく、そこから偽装殺人に飛んでいってしまうあたりの心理は、イタリア同時期の他作と違い、どうにも共感を覚えづらいんですよね…。ただし、夫殺し以降の細部の描写にはリアリティが宿っており、いちいち心に引っかかるものがあります。入り乱れる愛憎と殺人の秘匿状況とが織りなす不安定な心理・言動・表情は、分かりやすくも卑俗にならず、巧みに描かれてあります。特に、ジーノがふと呟いた台詞――「想像していたのとは違う…」――に、思わず膝を打った男性諸氏は少なくないのでは? 8点(2004-05-03 15:42:35) |
3. オール・ザ・キングスメン(1949)
《ネタバレ》 ヒトラーなどに代表されるように、大衆煽動の基本といえば、敵を明確にした勧善懲悪的な主張を、誰にでもわかるシンプルな論理構成で仕立て、喜怒哀楽を表に出しながら、言葉はもちろんイメージなどビジュアル面でも訴える形で、何度も何度も繰り返す、というものです。そこに、庶民性をからませれば、なおよし。そして、政治で問われるべきは、手段や動機よりも結果(有権者の要求実現)だとする近代政治の大原則。さらには、一度でも権力の旨みを味わった人々は、たとえ「悪」と分かってはいても、権力の中心・周辺から容易に離れようとはしないという現実。それらをあわせて考えると、本作では、まさに政治の基本というものが忠実に描かれているといえるでしょう。この時期に、このような作品がアカデミー作品賞に輝いているという事実は誠に興味深い。第二次大戦中から戦後にかけて、ファシズム批判や研究が政界や学会を席巻したわけですが(現在でこそファシズムは民主主義の中から出現するものであるということが常識中の常識となっているものの)、当時はファシズムと共産主義とが(ともに民主主義の亜種であるにもかかわらず)全体主義という観点から、民主主義の対立項として同一視される風潮もありました。赤狩りもあった時代背景を考えると、本作=反ファシズム=反全体主義=反共=素晴らしい作品、という評価だったのでしょうか?(誰か知っている方、教えてください)それはともかく、本作で描かれる表面的な政治的汚職や全体主義政治批判が、すべてデモクラシーそのものに対する懐疑に直結するという事実は、決して看過されるべきではないでしょう。 8点(2004-04-04 09:44:39)(良:1票) |
4. 群衆(1941)
《ネタバレ》 実に簡潔かつ要領を得た邦題です。特段何らかの信念に基づくわけでもなく、その時々の世論やムードに流されて衝動的に行動する人々。マスコミによって捏造された偶像(=G・クーパー)を求めて、全国各地から大した思慮もないままに勢いだけで集まってくる様は、まさに「群衆」です。抽象的イメージに容易に扇動されてしまう「群衆」。クーパーに心酔する彼らの合言葉は「隣人愛」であり、一見具体的な活動目標にみえるものの、その言葉に酔いしれるだけでは単なる抽象的なお題目にすぎない。クーパーを貶めるようなちょっとした揺さぶりによって、いとも簡単に愛から憎悪へと態度を豹変させる「隣人愛」。「群衆」的行動の底の浅さが、悲しくも滑稽に描かれます。現代においても、一部の市民運動のごとく、こうした皮相な「群衆」は掃いて捨てるほど存在するでしょう。「群衆」は極めて現代的な概念であり、近代以前には存在しえなかった。「群衆」を巧みに利用した上で成立するのが「独裁」であることは、もはや常識以前のこと。では、そんな「群衆」に救いはないのでしょうか。決してそうではありません。本作のラストで、スタンウィックがクーパーに愛をうちあける行為に象徴されるように、また、最後までクーパーを信頼してくれたのが隣人愛を現実に実行した人たちであったように、抽象的題目や想像上の人間関係ではない、地に足のついた具体的な人間関係こそが、信頼や愛情・友情を育むということでしょう。そこにこそ、現代にまで続く「群衆」的世の中に対する答えがあると思います。 8点(2004-03-07 00:47:21) |
5. カサブランカ
似たような体験の後に観てしまったので(もちろん映画ほどにはカッコよくないけれど)、ボガートの心境がある程度分かり(全部分かるなどと大それたことは申しません)、ラストは胸が痛くて仕方ありませんでした。心から愛する女性。その人のことを真剣に思えばこそ…。ツラくなったので、このくらいで。(苦笑) 8点(2004-02-29 15:56:01) |
6. 素晴らしき哉、人生!(1946)
《ネタバレ》 幸福を培養するものは「フェイス・トゥ・フェイス」の関係であるということを、家族や地域などの濃密な人間関係を舞台にして描いてあります。ニヒリスティックな個人主義でもない、いけいけドンドンのナショナリズムでもない、個人と国家の中間にある具体的対人関係を等閑にしては、幸福の実感など夢のまた夢――。個人主義の極たる守銭奴のポッターはいうまでもなく、国民的英雄たる撃墜王の弟でさえ、決して幸福を実感させる描写とはなっていません(単なる主人公の引き立て役)。100%完全に孤独の人間など、この世にはいない(生まれてくること自体、独力ではないのですから)。いかなる人も、生かし、生かされ、自立し、依存し。自らを取り巻く重層的な人間関係の束(それは時としてウザイものだけど)から生じる瑣末な人生の断片にしか、天使は降臨しない(幸福は宿らない)のでしょう。そして、いかにツラい現実があろうと、そこから目をそむけることなく、冷静に受け止め、肯定する姿勢こそが、幸福の第一歩であるのでしょう。 9点(2004-02-27 23:54:56) |