1. 6時間 (2019)
《ネタバレ》 冒頭に映画学校のロゴが出る。日本国内では2020年の「なら国際映画祭」の学生映画部門で上映されているので学生が作ったものらしい。題名以外の文字情報は英語/ラテン文字で書かれて世界向けになっている。 最初に姉(レナ)が何を考えていたかはよくわからないが、一応の説明としてはスラブ人の慣習である「戦士の葬式」をすると死に対する姿勢が変化するという噂があり、これを信じて決行したことになっている。例えば姉は都会で働くビジネスパーソン(経営者?)で、さらなるステップアップを目指した自己改革の試みというようなことだったか。 しかし実際やってみたところがそういう結果というよりは、妹(字幕はオリガ、台詞では愛称のオーリャ)との人間関係が劇的に改善されて終わっただけに見える。これで所期目的が達成されたのかは不明だが、自分本位で人を振り回すタイプだったのを見直すきっかけにはなったかも知れない。個別の映像の意味も不明だが、例えば尿の温かさは生きている証拠、松の若木は新しい人生の始まりの象徴だったとか。 なおホテルで妹のいる部屋と隣室の窓を並べて見せていたのは少し面白かった。隣室の2人が姉妹の本来望まれる姿を表していたようでもある。 登場人物としては、姉は顔だけ見ると細身そうな感じだが、実は皮下脂肪が厚いようで寒さに強いのではと思った。ただ寒いは寒いだろうから腹を出して寝るなと言いたくはなる。また妹は、姉に名前を呼ばれて何!(Что! / Shto!)とドスのきいた声で答えたのは少し笑ったが、その後に眠れずそわそわしている姿は印象的だった。朝の場面では、姉をどつく前に一瞬溜めを作っていたのも面白かった。 ほか現地の風景はいい感じだった。土が凍っているというのはツンドラかと思わせるが、姉妹がいたホテルは首都中心部から南西100km程度の場所にあり、極北の地というわけでもなく大都市圏の郊外である。このHOTEL “PINE RIVER”は、現地語ではダーチャホテルという触れ込みなので、都市住民の別荘である「ダーチャ」の気分で泊まれるコテージということかも知れない。 [インターネット(字幕)] 7点(2025-04-26 13:40:43)★《新規》★ |
2. 6時間 (2015)
《ネタバレ》 南米チリの映画である。場所は首都サンティアゴで大都市らしい高層ビルも映る。原発事故の映画ということで、短時間だが派手な映像効果も入っていた。原発は首都のすぐ近くにあるという想定だったようだが、チリは幅が狭いので隣国も大変なことになりそうだ。 なお劇中ビデオ映像の右上に出ていたのは日付だろうが、26-04-13と27-03-15の二通りあるのは意味があったのかわからない。チリの習慣では日・月・年の順だとすると2013年または2015年の話ということか。 ドラマとしては、原発の爆発時刻が迫る中での人間模様と主人公の心境変化を描写していたらしい。しかし特に何ということもない話が延々と続き、しょうもない場面を背景音楽で盛り上げようとするのは冷める。また何かと唐突な展開で、特に瀕死だったはずの男がいきなり性暴力というのでは真面目に見るのがアホらしくなる(「恋空」の病人か)。そういうのはもういいから結末だけ見せろという気分だった。 そもそも基本設定からして適当な感じで、何をどうすればそういうことが起きるかまともに考えたのかも怪しい。印象が似たものとしては2014年公開の核実験の映画があるが、この映画では核実験と原発事故を区別する気がないようでもある。秒単位でカウントダウンしていたのは、6時間前の時点で秒単位の予測ができていたという意味なのか。 結果的に南米チリの映画を見たという意義はあったが、それ以外はほとんど得した気がしない映画だった。関係ないが「大阪最後の日」(2013)でも見た方がいい。 ちなみに実際はチリに原発はないらしい。今世紀初めに導入を検討したことがあったが、2011年の東京電力の原発事故を受けて国民の反発が高まった結果、2012年の世論調査では国民の84%が原発に反対という記事もあった。この映画もそのような世情を背景にした社会派的な意味があったと考えられなくはない。 [インターネット(字幕)] 3点(2025-04-26 13:40:42)★《新規》★ |
3. 怪獣の日
《ネタバレ》 YouTubeにもあるがU-NEXTで見た。世間ではシン・ゴジラとの関係で受け取られているようだが、単純に怪獣映画として見た場合に問題なのは、劇中政府にとって保管施設の建設に何の得があるのか不明なことである。また主人公が、怪獣であるからにはどういう危険があるかわからない、という点にひたすらこだわっていたのもあまり説得力がない。 しかし見ている側が頭の中で、怪獣→原発と完全に読み替えれば言いたいことはよくわかるので、要は怪獣映画の形を借りた社会批判の映画という方が実態に合っている。製作時点ではまだ2011年の原発事故が記憶に新しかっただろうから、こういう映画を作るのはけっこう度胸が必要だったのではないか。 この映画では「原発」を「怪獣」の姿にした上で、地方に突然降ってきた原発立地の話を海洋生物の漂着(ストランディングstranding)に喩えている。悪くないと思ったのは地元民の描写であって、突然国から押し付けられたことへの対応をめぐり、立場や考えは違ってもみなそれなりに地域社会のことを考えていたが、住民が何を言っても考えても結局は落ちるところに落ちるしかないという無力感も出していた。町長も気の毒な立場だったように見える。 また「建屋」という言葉が原発事故の報道でよく出ていたこともあり、個人的には単純に原発の新設を扱った話なのかと思っていたが、しかしU-NEXTの映画紹介を見て、なるほど高レベル放射性廃棄物の処分地選定でも今後こういうことがありうるわけだと気づかされた。候補地の皆さんは心してこの映画を見た方がいい(「100,000年後の安全」(2009)も見た方がいい)。 なお2025年の現在でいえば、地域環境への影響が懸念される大規模な再エネ発電施設(洋上風力含む)も同様ということになる。グローバルな社会正義が武器にされるのは困ったものだ。 [付記1]動物の死体は「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」第6条の2第1項の規定により市町村が運搬、処分しなければならない。怪獣ともなると劇中の町単独では厳しい負担だろうが、劇中政府はその費用について同法第22条などにより町を支援するわけでもなく、代わりに交付金(原発の立地交付金のようなもの)を餌にして迷惑(有害)施設を押し付けたらしい。いわゆる飴と鞭ということだ。 ちなみに、ただのクジラの場合なら2023年の大阪市による処理費用が8019万(海洋投棄)、2024年の大阪府の費用が1507万(埋設)という事例があるが、大阪市が高すぎだと批判されていた。 [付記2]単純に怪獣映画として見た場合、この映画の怪獣はクジラに手足がついたようなものだったらしいが、これは1954年のゴジラが「海棲爬虫類から陸上獣類に進化しようとする中間型の生物」だという説明の「爬虫類」を「哺乳類」に変えたようでもある。 [インターネット(邦画)] 7点(2025-04-19 12:55:17)(良:1票) |
4. スペルズ/呪文
《ネタバレ》 「ミラーズ 呪怨鏡」(2015)に続く「スペードの女王」シリーズ第二弾らしいが主人公は可愛くない。今回も邦題はどうでもいい感じで付けてあるが、英題と原題には前作と同じQueen of Spades/Пиковая дамаが入っている。監督は前作と代わっているが劇中設定は引き継いでいるので続編的な印象もある。一応ホラー映画だが、前作と同じく特に怖いところはない。 前作は子どもの遊びを題材にしただけの映画だったが今回は少しスケールを拡大し、歴史的に続いてきた呪いの物語に発展させている。呪いの起源になった没落貴族の事実関係を深掘りしているが、通説(前作と同じ)・別の説・校長の見解という3通りの説明が出るので戸惑わされる。ただ最終的に要はこうだろうという結論に落ちるので、その過程を追ったミステリー的な展開ともいえる。 なお今回はその没落貴族(伯爵夫人)の住んでいた屋敷を主な舞台として呪いの発祥地の秘密を暴く形だが、その屋敷が今は寄宿学校になっているという設定にして、少なくとも序盤ではハリー・ポッターシリーズを若干意識していた。いわゆるアナベルのようなのもいて欧米寄りの雰囲気を出している。 物語に関して、今回は「スペードの女王」の召喚目的を「願い事」に絞り、登場人物それぞれの願い事と報いがどうなったかを考えさせる形になっている。「誰かを犠牲にして人は救えない」というのが重要事項だったようで、他人を犠牲にしようとした地味男は、伯爵夫人と同レベルに落ちそうになったが結果的に救われたらしい。一方で自分を犠牲にして人を救った主人公よりも、伯爵夫人が得したかのような結末は残念だったが、これは現実社会の理不尽さの反映ということか。 登場人物に関しては、食欲を減らしたい人物の結末がなかなか印象的だった。現地で米食の習慣があるのか不明だが、白米のようなものと異物(動く)の混ぜご飯という趣向は悪くない。トリの頭も面白かったが、この人本人はけっこうかわいそうだったので面白がるのは気の毒だ。ほか地味男の祖母の件は、もう少し切なさを強調してもらいたかった。 全体として、少し面倒くさいところもあるが娯楽性がなくもなく、見どころもなくはないので悪くなかった。ちなみに宮崎アニメなら最後に全員出て来てハッピーエンドになっただろうが当然そうはならない。 [インターネット(字幕)] 5点(2025-04-12 19:57:49) |
5. ミラーズ 呪怨鏡
《ネタバレ》 日本でいうコックリさんとかエンジェルさんのようなものを若い連中がおふざけでやっていたら、鏡の中から「スペードの女王」という魔物が出てきて大変なことになったという映画である。ホラーとしては特に怖くもなく、そもそも何が起きたかわからない場面が多かったが、全体的にそれほど悪い印象はなかった。 個人的に気になったのは題名の意味である。邦題は無視でいいとして、英題と原題にある「スペードの女王」(Queen of Spades/Пиковая дама)は19世紀のプーシキンの短編小説、及びそれを原作としたチャイコフスキー作曲の歌劇の名前と同じだが、この映画はそれと全く関係なさそうに見える。 小説の「スペードの女王」は、トランプの「スペードのクイーン」が悪意を象徴するという程度の意味づけだと思うが(岩波文庫版では「悪しき下心」)、一方で現地ではカードの人物が一人歩きする形で、鏡の中から出て来る魔物として語られているらしい(※注)。その実態を単純に取り入れたホラーなのかも知れないが、それにしても世界的に有名な「スペードの女王」を題名に入れておいて、本当に小説と無関係なのかというのが根本的な疑問点だった。 これに関して思ったのは、最後に出た縦長の鏡をトランプのカードに見立てると、そこに顔が映っていた人物(見ていた本人は除く)の「悪しき下心」を鏡が映していたのではないかということである。つまり現地の俗説に合わせてトランプのカードを鏡に変え、その上で小説の意味づけも生かしたのかと思った。 そうだとすると、ラストで主人公はティーンエイジャーになって大人の世界に近づいたが、これまで姉のように思っていた友人が、今後また両親の間を裂く原因になっていきそうなことにどう対応するかが問われる、というようなことか?? わかりにくいが考えさせられる話ではあった。 ※注:子どもたちの「召喚」(ウィキペディア「Детские «вызывания»」などによる) この映画の直接の元ネタは、現地の児童文化として伝わる「召喚」という魔法かゲームのようなものである。これは魔物とか童話の登場人物とか歴史的人物などを現世に呼ぶもので、「スペードの女王」は魔物の代表例らしいが、ほかにシンデレラとかバーバ・ヤガーとかプーシキンとかスターリンなど多種多様なキャラクターが召喚されるそうである。向こうの感覚としては日本の「トイレの花子さん」と同種類似のものということになるらしい。 召還の目的はスリルを楽しむとか、単に存在確認するとか(日本なら家に座敷童がいるか調べるようなもの)、将来のことを尋ねるとか(何歳で結婚できますか、など)、願い事をするなどして面白がることらしい。主に小学生年代の女子グループがやるものだそうなので、この映画でかろうじて該当するのは主人公だけになり、あとの連中は完全に悪ふざけと思われる。さすがに21世紀には廃れ気味のようだが、昔懐かしい風習を改めて思い起こそうとする映画だったか。 ちなみに「スペードの女王」を召喚する場合、扉と階段を鏡に描くというのはこの映画のとおりである。女王が階段を降り切らないうちに階段を消せば来ないそうだが、この映画ではやらなかったので来てしまったことになる。少女の真似して«Пиковая Дама, приди!»と言ってみたくなるが怖いので言わない。 [インターネット(字幕)] 5点(2025-04-12 19:57:48) |
6. おるすばんの味。
《ネタバレ》 何ということもない話だが悪くない。自分がシングルマザーに育てられたわけではなく、誰かをシングルマザーにしたわけでもないがこういう話には弱いかも知れない。 母親との関係は悪くなかったようだが、しかし一つだけ主人公の心に刺さっていた棘が今回抜けたという感じのことだったか。主人公も自分の子どもを育てることが世代を越えた恩返しだというようなことを言いたくなるが、しかし現代では少子化が進むと同時に、次の世代のために生きようという価値観も通用しにくくなってきているようなのはつらいものがある。 なお同僚がカーネーションを放り投げた場面では、それを主人公が持って帰る展開なのかと一瞬思ったが、なるほど主人公の場合は白でなければならなかったと最後に思い出した。確かに赤白の区別はそういう意味だった。これを見なければ死ぬまで忘れていたかも知れない。ちなみに白いカーネーションの花言葉は「尊敬」「私の愛情は生きている」だそうである。ラッピングを外して花瓶に立てた方がいい。 [インターネット(邦画)] 6点(2025-04-05 16:06:39)(良:1票) |
7. 午後3時の悪魔
《ネタバレ》 古びた感じの映像は意味不明だが悪くない。ろくな説明もなしに何となく進んでいくのも悪くないと思っていたが、最終的にはわけがわからなすぎだった。 事実関係については仮に次のように思っておく。 ・公園で寝ていた男は多額の借金があってとても全部は返せないので、とりあえず本当に世話になったと思った世田谷区の大澤という人物にだけ返済し、あとは踏み倒した。 ・警備員風の男は別件の取り立てで公園に来たが、金を主人公に取られたと思って追って来た。 ・外国人の男はただその辺にいただけ。当世風のイケメンだったので、主人公は歩道橋上なら目立たないかと思って立ち止まって眺めていたら、向こうが気づいて目が合ってしまい、気まずくなってその後は避けていた。 また主人公の物語に関しては、次のようなことを少し無理して考えた。 ・主人公は、一度は彼氏から金を取り返そうとしてやめていたが、代わりに他人の金を盗んだのでは人の道を外してしまうことになる。結果的にそうならないで済んだのは、いわゆる天の配剤か何かとすれば外国人の男が天使だったとか(根拠なし)。彼氏はまだ返す気があったようだが、取り返しがつかなくならないよう無理のない範囲に止めておけ、という天の警告だったかも知れない(不明)。 ・何となくの不安感が続く展開だったが、最後に登場した母親は呑気な感じで一応安心した。怪我させた相手のことより金の心配ばかりするのはわりと適当な人物の印象もあるが、娘としては嫌いでなかったらしい。あんな彼氏を母親が認めるかどうか不明にしても、娘としてはとにかく見せたかったと思われる。母親もああいう曲は案外好きかも知れない。 そのように一応考えたがやはり全体として意味不明で困る。同監督の新作映画が公開されたようだが、長編でこういう面倒くさいことをやられるのはつらいので見ない。 その他、製作は「九段下プロ」とのことで、映画もその周辺でローカルに展開していたらしい(クソガキの場所は別)。外国人の男の正体を適当に考えると、例えば「ロケーション協力」の二松学舎大学が招聘した研究者であって、しばらく滞在の予定だったが初日は大学周辺をふらついていて主人公とすれ違う場面が多かったなど。 [インターネット(邦画)] 5点(2025-03-29 20:00:15) |
8. 狭霧の國
《ネタバレ》 基本は怪獣特撮映画のようだが、ドラマ部分を俳優が演じるのでなく人形劇にしたのが特徴ということらしい。着ぐるみやミニチュア、また人形の顔が極めてリアルに作ってあり、手書きアニメや現地ロケの映像も組み合わせた独特の劇中世界ができている。 怪獣特撮の部分はなかなか圧巻で、盆踊り会場とか古風な伝統家屋を怪獣が襲うのは、個人的には東宝映画「地球防衛軍」(1957)を思い出す。室内や地面に視点を置いた臨場感にこだわっていて、また人のいる高い塔に怪獣が迫るのは「ゴジラ」(1954)以来の趣向と思われる。なお人間側の反撃で自衛隊が来るわけはないとして、代わりに帝國陸軍とかではなく一般人が怪獣を砲撃するのはやりすぎかと思ったが、これは花火の応用ということだったか。 物語としては悪人の悪人ぶりが単純すぎるとか、盲目の人物が失明に至った経過がむごすぎるといった難点はあるが、何より最後は観客が期待したい結末にちゃんと落としたのが好印象だった。全てが終わってエンディングテーマの「守りも嫌がる…」が始まったところは正直感動した。 また登場人物がそれまでの暗く閉ざされた世界からいきなり未来が開ける一方、怪獣はもといたところに帰るだけというのも安心した。工事がどうなるかの心配はあるが、同じく山中の湖にいた「大怪獣バラン」(1958)の頃とは違って、明治時代ならしばらくは棲家に安住していられるかも知れないという気はする。 ほか全体テーマとしては、外見にとらわれずに本質を感じろという考え方も出ていたようだった。 なお映画の舞台は大分県とされていたが、具体的には監督が幼少時に住んでいた竹田市とのことで、話に出ていた「犬飼」という地名も近くに実在する。終盤の石橋は市内に2つある「石拱橋」(せっこうきょう)がモデルのようで、2つあるうち「鏡石拱橋」(かがみせっこうきょう)が完成したのが明治42年だそうだが、劇中年代をこの年にした理由がそれだったかはわからない。 またエンディングテーマの「竹田の子守唄」も竹田市関係に見える名前だが、実は京都府の民謡だそうで誤解を招く選曲ということになる。しかしこの歌本来の由来からすると、劇中で疎外され迫害されていた人物のためにあえて選んだとも考えられなくはないと思った。 [インターネット(邦画)] 7点(2025-03-08 22:33:38)(良:1票) |
9. ひとりぼっちの人魚
《ネタバレ》 Amazonプライムビデオで公開されている。10分なので時間的には負担にならないが、見て困惑したくない人は見ない方がいい。 見た目としては昭和の素人ビデオのようだが製作年は2016となっている。関係者は全員素人かと思ったが、出演者に関しては新潟のシンガーソングライターや地元アイドルなのでプロの印象がないのも当然である。ちなみに千葉県のTVで放送されたこともあるらしい。 話の内容は全部適当に作ったものではなく、エンディングのURLに出ている地元の伝説をもとにして人物の性別などを変え、最後にオリジナルのオチを付けた形である。「人魚塚伝説之碑」は新潟県上越市に実在するもので、わざわざ佐渡から通ってきていた設定なのはその伝説がそうなっているからである。なお関係ないが佐渡汽船のフェリーは佐渡と上越市の直江津港の間でも運行しているそうで、映像に出ていた船が多分それだと思われる。 オチの部分はいろいろ意味不明だが、まず人魚側の意図としては、題名からすると普通に主人公を道連れにしたと解される。主人公の「あれっ!?」は素っ頓狂な感じだったが、ここは死んでしまってからやっと不審点に気づいたことの若干コミカルな表現か。 また特に水死者を人魚扱いする意味がわからなかったが、これは水死者というより人を海中に引き込んで死なせるものという、どちらかというと西洋的な人魚観によるものか。もとの「人魚塚伝説」からして登場人物と人魚の関係性が不明瞭だったりするので、そこに少し独自色を加える余地があったかも知れない。ほかにも不明な点があるが長くなるので省略。 なお褒めるところは特になかったが、全体を黄色くした映像の中で、水色のクレヨンが鮮やかに見えたのは特に意図したことかと思われる。 ほか出演者として、「新潟痛車フェス」オフィシャルキャラクターの「越後姉妹Geeks」(2017.6.16解散)のメンバーが人魚役などで出ている。そういえば2014年に新潟市に行ったら古町でそういうイベントをやっていたのを見かけて、これは何をやっているのかと思った覚えがあった。だから何だということもないが個人的思い出ではある。 [付記]その後、ここの「人魚塚伝説」をもとにしたといわれる童話「赤い蝋燭と人魚」をわざわざ読んだ。物悲しく怖い話だった。 [インターネット(邦画)] 1点(2025-02-22 22:38:35)(良:1票) |
10. 豚首村
《ネタバレ》 「風鳴村」(2016)に続き、邦画「恐怖の村シリーズ」と紛らわしい邦題をつけた映画の第2弾で、配給も同じくアメイジングD.C.である。前回は「犬鳴村」(2020)の真似だったが、今回は「牛首村」(2022)に便乗した形になっている。なお豚の首は映像に出ない。 内容的には、山中の怪しい村にたまたま来た男女が殺されていくだけの話である。結果的にどうでもいい会話や無意味なこけ脅しが多かったが、終盤での救いのなさというか呆気なさが一つの特徴かも知れない。笑ったのは砂嵐包帯男が1人目を誤射した後に、すぐまた2人目を誤射した場面だったが、これも呆気なさの例ではある。 そのように少し思うところもなくはないが基本的にはしょうもない映画だった。下品なので良識人が見るものではない。 以下その他雑記: ①舞台はスペインのカタルーニャ州であり、言語はスペイン語でなくカタルーニャ語とされている。スペイン映画というよりカタルーニャ映画ということになるか。 ②現地では実際に「サンマルティ祭」の時期にブタを潰す習慣があったとのことだが、映画紹介ではこれを「現在は禁止されている風習」と書いて、何やら変なことをしていた印象を出している。しかし今はともかく昔ならそれ自体が変とは思われず、また広くスペインやポルトガルで行われていたようでカタルーニャ限定でもない。 これに関して有名なスペインの諺に「全てのブタに聖マルティンの日が来る(A cada cerdo le llega su San Martín)」というのがある。要は悪い奴にも最後の時が来るといった意味のようだが、一応この映画でも外来のクソ連中は処分して当然という雰囲気を出していた。 ③エンドロールの役名に出ている「Home del Sac」とは袋の男という意味で、英語でいうブギーマンに当たる言葉である。これは子どもを袋に入れて誘拐する怪人を意味しており、現地では屋外で子が親から離れないよう脅す時に使う言葉らしい。劇中では目出し袋の男のことかと思うが、袋に入れるというより車で犠牲者を集めていたと思えばいいか。 カタルーニャの中心都市バルセロナでは19世紀に、袋の男がさらった子どもの脂肪が鉄道列車の潤滑油にされているとの噂が立ったことがあるそうだが、それは商売敵の駅馬車業者によるネガキャンだったらしい。そういう地元に根づいた記憶による登場人物だったかも知れない(Wikipediaカタルーニャ語版「Home del sac」、バルセロナのメディアbetevéの2018.11.26記事などによる)。 [インターネット(字幕)] 3点(2025-02-15 19:31:34) |
11. 金星
《ネタバレ》 金星に人類が行くとか地球に何か来るという話ではなく視覚障碍者に関わるドラマである。なお制作側は「障碍者」の表記を使っている。 主な登場人物は視覚障碍者2人(少年・少女)と介助者2人(妹・兄)であり、これに途中で出た男2人を加えれば、日本社会の大部分をカバーしている印象がある。 登場人物のうち、介助者2人は普通に良心的な人々の代表と思われる。うち妹は今回の件で少年への向き合い方を変えていたが、兄の方は終始一貫した態度で安定感があった。カメラの記憶媒体?について少年が「そんなのいらない」と言い放った場面では、この兄が脇から手を出して受け取ったのが適切な行動で安心できた。煙草のマナーはひどい男だったが、これは完璧な人間などいないことの表現か。 また途中の男2人は特に良心など期待できない連中だが(少し差はあったが)、それでも自分に支障のない範囲で他人を助け、自分が世話になれば礼を言う、まずいことをやれば謝るというのを常識にしていて、これで日本の平和な市民社会の構成員に一応なっている。少年も今回は謝ることが大事と受け入れたようだった。 ところで終盤のエピソードで、少年と介助者(妹)が同じ星を見た(見ようとした?)ことの意味はよくわからない。そもそも全天の天体のうち、何で制作側が金星を選んだのかが不明だが(夜中は地平線下で見えないわけだが)、これは金星Venus→愛と美の女神→劇中少女とつながるのなら、発想に飛躍はあるが意味はわかる。 映画のキャッチコピーによると「きれいなもの」がテーマの一つだったようだが、具体的に何を表現したかったのかは疑問である。見せたくないものが見えないことを少女が利用したというのは意図として理解できるが、見たいものを心の目で見ればきれいだ、とまでこの映画が言いたいとすれば観念論の綺麗事に思われる。最初から見えないのなら、きれいかどうかも最初から問題にしない話でなければならないのではないか。終幕時に、人の容姿がきれいかどうかをまともに問うような表現があったのは素直に受け取れない。 真摯な制作姿勢とは認めるが、全部が全部納得できる話ともいえなかった。 出演者では、少年役の演者は熱演だったが少し演技(演出?)過剰ではないか。また少女役の岸井ゆきのという人は当時本当に高校生年代と思うが、ラストで少年に「きれい?」と聞いた顔がきれいというか上から目線の冷ややかな感じで(クラムスコイの「見知らぬ女」風)、このガキんちょが、と見下したようだと思うと少し可笑しい。役者としては少年役より年上だが(学年で4つ)、劇中人物としてもお姉さんとして面倒見てやる立場になるか。 [インターネット(邦画)] 5点(2025-02-08 13:35:44) |
12. みぽりん
《ネタバレ》 前から名前が目についていたので見るかと思っていたが、見ないうちに何となく見づらい雰囲気になってしまった。映画と直接関係ないが、2024.12.6に逝去された中山美穂氏に哀悼の意を表する。 実際見ればそれほど変な映画でもなくアイドル論を語っているのかと思ったが、終盤に至ると物語の全部が崩壊したようになる。しかし全部が崩壊したようでもアイドル論は残ったので、要はアイドル論の映画として筋が通っていたと解される。 自分としては全部が崩壊すること自体を面白がることはできないので、これは全部が崩壊した後に残ったものを際立たせるための趣向だったと思っておく。登場人物もふるいにかけられたようで、最後まで残ったのが本当の重要人物だったと見える。 アイドル論としては、いわゆる「会いに行けるアイドル」より前の古風なアイドル観がボイトレ講師にはあったらしい。変質した現代のアイドルには嫌悪を感じていたようだが、その元凶になったものを象徴するのが劇中の秋○プロデューサーかも知れない。物語の崩壊というよりアイドル観の崩壊の話だったか。 ボイトレ講師は昔からの夢だったアイドルを最後に演じて本望だったろうが、実はそれは自分の信じたアイドル観の崩壊が前提だったのではないか。例えば声優アイドルは配偶者がいてもなおアイドルだったが、ボイトレ講師の場合は年齢の上限なくアイドルたりうることの表現になってしまっている。本人のアイドル観に反してまで(多分)人生の望みを果たしたわけで、それで最後は自分の信念に殉じる形で自決したと思っておく。 全体として、何で今どきアイドルの話かとは思うが意外にそれほどバカ映画でもなかった。 その他個別事項 ・公式サイトによれば、劇中のアイドルグループは声優アイドルユニット「Oh!それミーオ!」だそうである。主な出演者は大阪の「澪(みお)クリエーション」という声優・俳優プロダクションの所属だが、ここは声優寄りの事務所のようで、この映画にもボイストレーナーや声優アイドルが出るのはその関係かと思った。 ・低予算の自主制作だが役者はちゃんとして見える。登場人物では、個人的にはこずえちゃん推しだ(演・合田温子)。関西のオバちゃんも笑った。 ・ボイトレ講師の台詞で2023年末の紅白の放送事故を思い出したが浜辺美波さんを悪くいうつもりはない。 ・市民税の話がやたらに出ていたのは、芦屋は市民税が高いという噂?冗談?がこの周辺地域で語られているからではないか。本当かどうかは芦屋市公式サイトのFAQに書いてある(最終更新2024年11月15日)。 [インターネット(邦画)] 5点(2025-01-25 20:39:09) |
13. あまのがわ
《ネタバレ》 福地桃子という人の初主演映画とのことで見た。いい表情を見せている場面が多く、太鼓の叩き方もかなり様になっている。 屋久島が舞台なので現地の風景がいろいろ出るが、個人的には石置き屋根が珍しかった(うちの地元にも昔は多かった)。ペンション「マリンブルー屋久島」の沖に見えたのは隣の口永良部島と思われる。船の行き帰りに映していたのは薩摩の開聞岳か。 また隣の種子島も話題に出して、屋久島は丸い/自然の島/主人公/生命を守る医師、種子島は細長い/技術の島/相手の男/工学オヤジという対応関係を作っている。「技術の島」というのが種子島宇宙センターかと思ったら鉄砲伝来だったのは意外だった。 ほかロボットはなかなかよくできていると思ったら、分身ロボット・OriHimeとして既に製品化されているとのことで、そのプロモーション的な意味のある映画だったらしい。ロボットがAIでないのに母親がAI研究者という設定なのは変だが、これは母親との関係でAIと思い込んだからこそ主人公も心を許せたと解される。 物語としては、定型的な人物設定とか都合よすぎる展開はあるが個別に心打たれる箇所もある。主人公がロボットを飛ばしたいと言ったところでは、なるほどそれはいいことだと単純に嬉しくなった。また相手の男が「自分だからこそできることがある」と言ったのは、そうだそうだと思って少し感動した。なお親友が捨て石のように終わったのは残念だった。 マイナス面は結構あるが、福地桃子さんの存在感と心優しい登場人物のおかげで全体の印象は悪くなかった。 ところで最大の疑問点は、映画の構成要素である①太鼓、②分身ロボット、③屋久島、④天の川(織姫・彦星)が、どういう必然性をもって一つの映画に入っているのかわからないことである。これに関してクラウドファンディングの目論見書を見ると、構想に至る経緯により当初から②と③④がセットになっていたようで、①はその後に追加した要素らしい。 また劇中で各種さまざまな思いが語られるのも雑多な印象だが、その中で個人的には特に、孤立せずに他者とのつながりを作るのが大事と言いたいのかと思った。一方で目論見書では「新しい世界に踏み出」せというメッセージを伝えたかったとのことで、どちらも主に上記②関係のようだが、完成した映画では①にも関わるようにして辻褄を合わせていた。これで全体構造が何となくわかった気はする。 その他雑談として、浜辺で天の川を眺める場面では「夏の大三角形」が映っていたが、この映画としてはヴェガとアルタイルが重要なはずなのに画面の下の方に寄っていたのは変だ。一方で上に見えるデネブには言及がなかったが、深読みすれば上の方から2人を(主人公寄りで)見守っている人物がいたということで、個人的には水野久美さんの演じる祖母がこれに当たると思っておく。 [インターネット(邦画)] 6点(2025-01-18 20:31:03) |
14. 大怪獣グラガイン
《ネタバレ》 監督が大学3年の時に撮った自主製作映画だが、全体構成が面白いことと特撮を頑張っていること、及び怪獣映画への愛が感じられたことで悪くないと思った。こんな素人映画が現在まで残ってAmazonプライムビデオで公開されているのもわからなくはない。 ドラマ部分の撮影場所は、博多のカメラ専門店や九州大学が出ていたので福岡市ということになる。劇中の「神ヶ崎市」は製鉄都市とのことで北九州市、大学のある「岩城市」が福岡市に相当するらしい。なお九州大学には工学部と別に芸術工学部というのがあるそうで、なかなかユニークな人材を育成しているようである。 内容としては、ゴジラ型怪獣の襲来から後日談に至る一連の出来事が、レベルに差のある2系統で表現されている。 ①劇中の大学生が学園祭用に制作したフィルム おふざけレベルの演技と特撮(ミニチュア+パペット)、ただし怪獣の動きはけっこう生き物っぽく作ってある。 ②劇中で実際に起きた出来事の描写 普通に素人レベルの演技と頑張った特撮(3DCGなど)、ここはリアルに作ろうとしている。力の入ったビルの倒壊映像と、山中から煙の上がる風景はなかなかいい。怪獣場面はほとんど夜で暗いのでよく見えないが、ディスプレイを明るくするとそれなりにできているのが見える。怪獣の足音とともに車を揺らしていたのもちゃんとできている。 全体構成としては導入部が前記①、本編が②、エンディングがまた①となって、なるほどそういうことだったかという感慨を残す。ドラマ的には、大学生4人は故郷の街(福岡市に相当)を守るために実際やれそうな範囲で奮闘したが、その功績が世間に知られることはなく、せめて①により記録に残した形になっている。怪獣対策の実行役ではなくカメラ担当の記録係を主人公にしたのは、怪獣よりも映像制作の方が重要テーマだったことの表れに思われる。 その他、映像に出た国土地理院の地図はなぜか高知県安芸市の山間部だったが(何で?)、ここはせっかくなので犬鳴トンネル(名所!)の辺の地図を使えなかったか。また夜の車中で、怪獣の足音が迫っているのにバカ話をしているのは本当にバカかと思ったが、これは恐怖を紛らわすためにあえてやっていたらしいことが結果的にわかった。好意的に読み取ってやろうとすることが大事だ。 [インターネット(邦画)] 5点(2025-01-11 13:24:46)(良:1票) |
15. ミテハイケナイ都市伝説 ~闇に葬り去られた人間失格者達~<OV>
《ネタバレ》 10話オムニバスである。題名からして安手ホラーの印象だが、脚本・監督が「口裂け女2」(2008)と同じなので若干期待される。 【オープニング】 暗いので見えない。 【1 廃人生活】 こういう洒落にならないのは見たくない。 【2 撮ってはいけない写真】 特に面白くない。ボルトカッター(ボルトクリッパ、東邦工機製)で何をどこまで切れるか試している。 【3 殺人マニア】 意味不明だが、富士の樹海などには他殺体も多いと言われていることが背景になっているのか。 【4 占いの村探し】 占い師が日本に何人いるかというのはフェルミ推定の問題のようだが、これは「占い師を占う場所」の需要がどれだけあるかということにつながるのかも知れない。最後が突然終わるが続きは8話で語られる。 ちなみになぜか山梨県にある実在の村の名前が出ていたが、こんな話ではロケ地PRになりそうもない。2013年製作なので、2019年の「山梨キャンプ場女児失踪事件」とは関係ないと思われる。 【5 終電後の帰り道】 単純ヒトコワ、特に裏はなさそうに見える。東京は夜も明るい。 【6 新しいヴォーカル】 これも単純な話だろうが最後のぶった切り方は悪くない。POVで音楽業界の現場感を出しているとはいえる。 【7 生まれつき見えている人】 脚のきれいな生保レディが、個人宅に呼ばれて危ないことになるかと心配したが話の通じる相手で安心した。相手のドライな割切りがいい。 【8 ウィルス女】 特に面白くない。4話の後日談が入っていて、山梨県に行った記者がけっこう誠実な男だったらしいことがわかった。 【9 かごめかごめ】 まだ有名でなかった頃の趣里が、祖母を気遣う感心な女子高生役をやっている。意味不明だが題名からすると、祖母は行方不明の児童を自宅に囲い込んでいたということか。まさか祖母または孫が殺害したのではないだろうと思っておく。 【10 ありふれた嫉妬】 屋上の場面で見ると黒い女も主人公と同じ52番だったようだが、顔つきの違いが激しすぎて素直に同じ人物とは受け取れない。 全体的にヒトコワ系が多いが心霊系もある。題名通りの都市伝説というよりも、都市伝説に発展する前の元ネタのレベルに見える。全体として面白くはなく、話の仕掛けが受け取りにくいところもあるが雰囲気としては嫌いでない。 [DVD(邦画)] 4点(2024-11-23 19:11:47) |
16. バーバリアンズ セルビアの若きまなざし
《ネタバレ》 2008年のコソボ共和国独立宣言の時点で、独立された側のセルビア共和国にいた若者を主人公にした映画である。公式サイトのコメントでは、当時「欧米のリベラル派を中心とした文化人によるセルビア人に対するヘイトクライムが確かに存在」し、「セルビアが世界の孤児にされていた」と書いてあるが、この映画自体にそういう説明はないので背景事情ということである。 原題Varvari(Barbarians)に関しては、この映画では地元サッカーチームのサポーターの呼び名がこれだったようで、そうすると主人公を含むこの連中が野蛮人ということになる。一方で冒頭に出ていた文章は、近代の詩人による「野蛮人を待つ」という詩の一部とのことで、これは為政者が外敵の存在に頼って内政を疎かにすることを表現したものらしい。この映画でいえばセルビア政府がコソボ問題により国民の目を内政から逸らそうとしているという意味になるか。 この当時、政府が国民に独立反対デモへの参加を呼びかけたのが事実とすれば、単に国内の不満を逸らすだけでなく普通に対外アピールの意味もあったのではと思うが、それでも結局はサポーター連中が暴動を起こすのと同じ結果になるようだった。主人公の仲間などはデモに参加する気もなくいきなり掠奪を始めていたが、それが当時現地にいた監督の目に見えた実態だったと思っておく。 主人公のドラマとしては、自分が見た限りでは社会がどうこういうより主人公の個人レベルの問題にしか見えない。邦題では「若きまなざし」などと書いて美化しているが、個人的には特に共感できるものはなかった。荒れてますねと言うしかない。 ただ不満のはけ口を方々に求めても徹底せず、解消の手がかりもないのはやはり社会の問題と解すべきか。公式サイトによれば出演者は現地の不良少年から選んだそうだが、主人公役と友人役はこの映画に出た後で映像・演技の道に進んだとのことで、少なくとも配給側としてはそういうことに希望を見出したいようだった。 なお人種差別された黒人選手はわりといい奴だったようで、主人公よりよほど円満な家庭だったらしい。どこの国の出身か不明だが、一応平和で安定的な社会に生まれ育ったようではある。 追記:他のレビューサイトに、主人公の人物像と現実のセルビアに関する非常にいい解釈があってなるほどと思った。人々も国々もVarvariだらけだが、袋叩きにされてもとりあえず前を向いていようという意味だったか。 [DVD(字幕)] 5点(2024-10-19 20:33:04) |
17. SHOT/ショット
《ネタバレ》 南米ウルグアイのホラー映画である。映画宣伝では「新たなるP.O.V.の衝撃!」と書いてあるが、劇中人物視点で撮ったという意味のPOVでは必ずしもない。それよりワンシーン・ワンショット(ワンカット)で全編連続の長回しに見えるのが最大の特徴点で、その後にリメイクされて「サイレント・ハウス」(2011米仏)の名前で公開されている。なお原題の「La casa muda」は英題の「The Silent House」と同じ意味だが(単語としてはmuda(mudo)=muteらしい)、邦題のショットというのは映画の撮り方からついた名前ということになる。 ワンショットといっても画面が黒くなる場面で適当に繋いでいた可能性もあるが、確かに終盤まで一連でつながっていたように見える。役者にとっては一幕の舞台劇のようなものかも知れないが、室内だけでなく外で走ったり車に乗ったりするのでカメラは忙しそうだった。鏡に人物を映す場面が多いことや、人物がいったん視界から外れてカメラの後を回って反対側から視界に入る、といった趣向があったのは面白くもなくもない。 話の展開はよくわからなかったが、最後に真相はわかるので途中はどうでもいいかという気もする。完全に幻覚の場面もあったようだが、実際の出来事を変形してみせていたようなところもあり、最後の真相から遡れば大体こういうことかと思わなくもなかった。ホラーとしては家で見た限りそれほど怖くもなかったが、ワンショットの撮影で時間経過とともに主人公の体験を共有しているようで、いわばリアルタイム感という意味で悪くなかったかも知れない。 なお映画冒頭では「実話に基づいたストーリー」と字幕が出ていたが、監督インタビューによると実在の事件ではあるが結果の事実がわかるだけで詳細は発表されておらず、当時の新聞記事も互いに矛盾していたりして真相不明だったため、原語のクレジットでは「実際の出来事にインスピレーションを受けた」(inspirada en hechos reales)と書いたとのことだった。要は映画で文章説明に出ていた程度のことが実話相当の部分であって、真相部分は架空のものだと思っておけばいいらしい。 [DVD(字幕)] 5点(2024-10-12 13:32:54) |
18. 恐怖ノ黒電波
《ネタバレ》 原題のBinaは建物とかビルの意味、英題はアンテナであってそれぞれ別の所に着目しているが、日本向けには「電波」で正解かも知れない。 ホラー映画というより社会派映画のようで、同時期の「返校 言葉が消えた日」(2019)を思わせる。世評などでは現在のトルコで進む情報統制に直接関連付ける傾向もあるが、この映画はトルコで2つの映画祭に出品されて一般公開もされているので、この映画自体は特に弾圧されてはいないようである。監督インタビューによれば、この映画での政府とメディアの関係は、現代の先進国では企業とメディアの間でも生じているとのことだったので、あまり批判対象を限定せず、なるべく広い視野で見ることが求められているらしい。 疑問点として、この映画に出るのがテレビ・ラジオ・新聞といったオールドメディアだけで、いわば古典的な情報統制のイメージなのはなぜかということがある。現実のトルコ政府が問題視しているのは主にソーシャルメディアだろうが、インターネットやモバイル通信が全く出ないのでは現代に通じる問題として受け取りにくい。しかしこれは逆に、現代の具体的な問題提起というより一般論として警鐘を鳴らす体にするために、あえてジョージ・オーウェルを思わせる時代がかった世界にしたと取るのが普通かも知れない。これも同時期の「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」(2019)に通じるものがあり、世界的に同時並行で全体主義への恐怖が語られていたことになる。 内容に関して、見た目としてはホラーっぽいところもあるが、超常現象というより実在の脅威を象徴的に映像化したダークファンタジーのようである。個々の場面がいちいち長いが、台詞はあるので話の意味は大体わかる。冗長ではないかと思いながらも、「深夜公報」への期待感もあって一応見ていられた(期待外れだったが)。黒液体にはこれからの社会に適合しない者を排除する機能が備わっていたようで、毎日外で働いて美容に気を使う単身女性や、いわゆる家父長制的な支配に抵抗する女性が排除されていたのは実際の現地事情の反映と思われる。 映像面では、寒々しい風景や特徴的な構図や突然の異界感など、どこかで見たようなものもあるが悪くない。テレビモニターなど古くさい表現に見えるところがあるのも「1984年」のような雰囲気を出すためかと思っておく。映像的には結構印象のいい映画だった。 [インターネット(字幕)] 6点(2024-09-14 10:31:16) |
19. 恐怖ノ白魔人
《ネタバレ》 松竹配給の「恐怖ノ」シリーズだが、今回は邦題の「白魔人」がちゃんと実態に即している(白い)。年齢の関係からか布団に潜りたい欲求があったらしい。股間の造形には少し感心した。 原題の「Aux yeux des vivants」は若干意味不明だが、要は映画の最後の一言がこれのようだった。 当初は陰惨な場面から始まるが、その後はのどかな田園風景が心を和ませる。これからクソガキ3人組の冒険ファンタジーとか、夏休みの思い出を作る物語が始まりそうな雰囲気があり、これはもしかして3人とも生き残るのかと思ったらそうでもなかった。しかし終盤ではまた花火を上げてしみじみした家族ドラマの風情になったりして、これは一体何の映画だったのかと思わせる。 一方で白魔人の場面は残虐で悲惨なのでファミリー向けとも思えない。性質の異なる2つの流れが並行する変な構成かと思ったが、これは最後に家族愛のある一家と、家族を欲しても得られない男との対比を際立たせる意図とは思われる。どちらかというと家族を欲していた男の悲哀を描くのが映画としての本筋かも知れないが、個人的には別に共感もしなかった。 そのほか背景設定に関して、例えば「ランボー」(1982)のような帰還兵の問題や、化学兵器に関わる事件がフランスでもあったのかと思ったが、実際どうなのか確認できなかった。どちらかというと化学兵器より劣化ウラン弾のイメージに近いだろうが、そのように世界のどこかで起きたことをネタにして、何らかの社会批判を込めたようでもあったがよくわからない。 いろいろ微妙なところはあるが、娯楽性の面では面白くなくもない映画だった。 その他、廃校とか廃病院でなく廃映画撮影所を隠れ家にしていたことや、「人生は映画だ」というのは制作側の映画愛の表現か。またクソガキ2人の家で見ていた白黒映画は多分「蜂女の恐怖」(1959米)である。この手の映画を愛するスタッフがいたらしいが人にお勧めするようなものでもない。 [インターネット(字幕)] 5点(2024-09-14 10:31:11) |
20. 恐怖ノ黒鉄扉
《ネタバレ》 69分しかないとわかっていても、もういいからみな死んで早く終われと思っていた。点数は2点くらいかと思っていたが、終盤になって話の意味がわかって急に評価を上げた。中間部のほとんどはどうでもいいが、最初と最後がつながって効果を出している映画だった。どうしようもない俗悪映画のようでもちゃんと最後まで見なければならないということだ。 [以下説明] 英題にはApril Foolsと書いてあるが、実際は4/1ではなく12/28の「幼子殉教者の祝日」(聖イノセンテの日)を題材にしている。スペインではこの日がエイプリルフールのように嘘や悪ふざけの許される日だそうで、人型の紙を他人の背中に貼ってはやし立てるとか、他愛ない嘘で人を騙すなどして「イノセンテ~!」と言って笑う習慣があるとのことだった。この映画では、この日の悪ふざけが度を越して死者が出た事件が全ての発端だったという設定だが、人型の紙がこの日を象徴することはスペイン系の観客でないとわからないので、あまり世界向けとはいえない映画である。 また原題のLos inocentesとは “イノセンテな人々” という意味である。スペイン語のinocenteは英語のinnocentに当たる言葉で、形容詞としては「無罪の」「無実の」「悪意のない」「無邪気な」「純真な」「お人よしの」といった意味であり、また名詞として子ども・幼児を指すこともある。12/28の祝日名には名詞としての「幼子」が出ているが、原題の方は登場人物が形容詞の意味に当てはまる人々であることを意味している。こういうことも英語やラテン系言語以外の話者にはわかりにくいと思われる。 視聴時には当然ながら日本語字幕を見ていたが、原語の台詞でこのイノセンテが多用されていることに終盤で気づいた。「引っかかった、引っかかった、ホントにバカだね」のイノセンテは12/28の他愛ない悪ふざけのレベルだが、過去の事件に関して「奴らに悪気はなかった」と言った箇所でもこの言葉を使っていて、また最後の「私、何もしてない」でも「無実」という意味で言っていた(Soy inocenteか)。さまざまな意味のイノセンテにこだわった映画のようである。 これにより全体的には、ガキのやらかす凶悪犯罪を「無邪気な」おふざけとして「無罪」にしてしまう現代社会への皮肉を込めていたと取れるので、日本的感覚でいえば少年法関連の映画ということになる。ガキと違って世間一般の常識はちゃんとわかった大人が、あえて "こんなクソガキ連中は全員死刑だ" と無邪気に放言してみせた感じの映画になっていた。 ただしラストの出来事は、悪意がなければ警察が無実の人間を射殺してもいいのか、という別方向からの指摘のようでもある。なかなか考えた映画だと思った。 [DVD(字幕)] 6点(2024-09-14 10:31:08) |