1. 金星
《ネタバレ》 金星に人類が行くとか地球に何か来るという話ではなく視覚障碍者に関わるドラマである。なお制作側は「障碍者」の表記を使っている。 主な登場人物は視覚障碍者2人(少年・少女)と介助者2人(妹・兄)であり、これに途中で出た男2人を加えれば、日本社会の大部分をカバーしている印象がある。 登場人物のうち、介助者2人は普通に良心的な人々の代表と思われる。うち妹は今回の件で少年への向き合い方を変えていたが、兄の方は終始一貫した態度で安定感があった。カメラの記憶媒体?について少年が「そんなのいらない」と言い放った場面では、この兄が脇から手を出して受け取ったのが適切な行動で安心できた。煙草のマナーはひどい男だったが、これは完璧な人間などいないことの表現か。 また途中の男2人は特に良心など期待できない連中だが(少し差はあったが)、それでも自分に支障のない範囲で他人を助け、自分が世話になれば礼を言う、まずいことをやれば謝るというのを常識にしていて、これで日本の平和な市民社会の構成員に一応なっている。少年も今回は謝ることが大事と受け入れたようだった。 ところで終盤のエピソードで、少年と介助者(妹)が同じ星を見た(見ようとした?)ことの意味はよくわからない。そもそも全天の天体のうち、何で制作側が金星を選んだのかが不明だが(夜中は地平線下で見えないわけだが)、これは金星Venus→愛と美の女神→劇中少女とつながるのなら、発想に飛躍はあるが意味はわかる。 映画のキャッチコピーによると「きれいなもの」がテーマの一つだったようだが、具体的に何を表現したかったのかは疑問である。見せたくないものが見えないことを少女が利用したというのは意図として理解できるが、見たいものを心の目で見ればきれいだ、とまでこの映画が言いたいとすれば観念論の綺麗事に思われる。最初から見えないのなら、きれいかどうかも最初から問題にしない話でなければならないのではないか。終幕時に、人の容姿がきれいかどうかをまともに問うような表現があったのは素直に受け取れない。 真摯な制作姿勢とは認めるが、全部が全部納得できる話ともいえなかった。 出演者では、少年役の演者は熱演だったが少し演技(演出?)過剰ではないか。また少女役の岸井ゆきのという人は当時本当に高校生年代と思うが、ラストで少年に「きれい?」と聞いた顔がきれいというか上から目線の冷ややかな感じで(クラムスコイの「見知らぬ女」風)、このガキんちょが、と見下したようだと思うと少し可笑しい。役者としては少年役より年上だが(学年で4つ)、劇中人物としてもお姉さんとして面倒見てやる立場になるか。 [インターネット(邦画)] 5点(2025-02-08 13:35:44)★《新規》★ |
2. みぽりん
《ネタバレ》 前から名前が目についていたので見るかと思っていたが、見ないうちに何となく見づらい雰囲気になってしまった。映画と直接関係ないが、2024.12.6に逝去された中山美穂氏に哀悼の意を表する。 実際見ればそれほど変な映画でもなくアイドル論を語っているのかと思ったが、終盤に至ると物語の全部が崩壊したようになる。しかし全部が崩壊したようでもアイドル論は残ったので、要はアイドル論の映画として筋が通っていたと解される。 自分としては全部が崩壊すること自体を面白がることはできないので、これは全部が崩壊した後に残ったものを際立たせるための趣向だったと思っておく。登場人物もふるいにかけられたようで、最後まで残ったのが本当の重要人物だったと見える。 アイドル論としては、いわゆる「会いに行けるアイドル」より前の古風なアイドル観がボイトレ講師にはあったらしい。変質した現代のアイドルには嫌悪を感じていたようだが、その元凶になったものを象徴するのが劇中の秋○プロデューサーかも知れない。物語の崩壊というよりアイドル観の崩壊の話だったか。 ボイトレ講師は昔からの夢だったアイドルを最後に演じて本望だったろうが、実はそれは自分の信じたアイドル観の崩壊が前提だったのではないか。例えば声優アイドルは配偶者がいてもなおアイドルだったが、ボイトレ講師の場合は年齢の上限なくアイドルたりうることの表現になってしまっている。本人のアイドル観に反してまで(多分)人生の望みを果たしたわけで、それで最後は自分の信念に殉じる形で自決したと思っておく。 全体として、何で今どきアイドルの話かとは思うが意外にそれほどバカ映画でもなかった。 その他個別事項 ・公式サイトによれば、劇中のアイドルグループは声優アイドルユニット「Oh!それミーオ!」だそうである。主な出演者は大阪の「澪(みお)クリエーション」という声優・俳優プロダクションの所属だが、ここは声優寄りの事務所のようで、この映画にもボイストレーナーや声優アイドルが出るのはその関係かと思った。 ・低予算の自主制作だが役者はちゃんとして見える。登場人物では、個人的にはこずえちゃん推しだ(演・合田温子)。関西のオバちゃんも笑った。 ・ボイトレ講師の台詞で2023年末の紅白の放送事故を思い出したが浜辺美波さんを悪くいうつもりはない。 ・市民税の話がやたらに出ていたのは、芦屋は市民税が高いという噂?冗談?がこの周辺地域で語られているからではないか。本当かどうかは芦屋市公式サイトのFAQに書いてある(最終更新2024年11月15日)。 [インターネット(邦画)] 5点(2025-01-25 20:39:09) |
3. あまのがわ
《ネタバレ》 福地桃子という人の初主演映画とのことで見た。いい表情を見せている場面が多く、太鼓の叩き方もかなり様になっている。 屋久島が舞台なので現地の風景がいろいろ出るが、個人的には石置き屋根が珍しかった(うちの地元にも昔は多かった)。ペンション「マリンブルー屋久島」の沖に見えたのは隣の口永良部島と思われる。船の行き帰りに映していたのは薩摩の開聞岳か。 また隣の種子島も話題に出して、屋久島は丸い/自然の島/主人公/生命を守る医師、種子島は細長い/技術の島/相手の男/工学オヤジという対応関係を作っている。「技術の島」というのが種子島宇宙センターかと思ったら鉄砲伝来だったのは意外だった。 ほかロボットはなかなかよくできていると思ったら、分身ロボット・OriHimeとして既に製品化されているとのことで、そのプロモーション的な意味のある映画だったらしい。ロボットがAIでないのに母親がAI研究者という設定なのは変だが、これは母親との関係でAIと思い込んだからこそ主人公も心を許せたと解される。 物語としては、定型的な人物設定とか都合よすぎる展開はあるが個別に心打たれる箇所もある。主人公がロボットを飛ばしたいと言ったところでは、なるほどそれはいいことだと単純に嬉しくなった。また相手の男が「自分だからこそできることがある」と言ったのは、そうだそうだと思って少し感動した。なお親友が捨て石のように終わったのは残念だった。 マイナス面は結構あるが、福地桃子さんの存在感と心優しい登場人物のおかげで全体の印象は悪くなかった。 ところで最大の疑問点は、映画の構成要素である①太鼓、②分身ロボット、③屋久島、④天の川(織姫・彦星)が、どういう必然性をもって一つの映画に入っているのかわからないことである。これに関してクラウドファンディングの目論見書を見ると、構想に至る経緯により当初から②と③④がセットになっていたようで、①はその後に追加した要素らしい。 また劇中で各種さまざまな思いが語られるのも雑多な印象だが、その中で個人的には特に、孤立せずに他者とのつながりを作るのが大事と言いたいのかと思った。一方で目論見書では「新しい世界に踏み出」せというメッセージを伝えたかったとのことで、どちらも主に上記②関係のようだが、完成した映画では①にも関わるようにして辻褄を合わせていた。これで全体構造が何となくわかった気はする。 その他雑談として、浜辺で天の川を眺める場面では「夏の大三角形」が映っていたが、この映画としてはヴェガとアルタイルが重要なはずなのに画面の下の方に寄っていたのは変だ。一方で上に見えるデネブには言及がなかったが、深読みすれば上の方から2人を(主人公寄りで)見守っている人物がいたということで、個人的には水野久美さんの演じる祖母がこれに当たると思っておく。 [インターネット(邦画)] 6点(2025-01-18 20:31:03) |
4. 大怪獣グラガイン
《ネタバレ》 監督が大学3年の時に撮った自主製作映画だが、全体構成が面白いことと特撮を頑張っていること、及び怪獣映画への愛が感じられたことで悪くないと思った。こんな素人映画が現在まで残ってAmazonプライムビデオで公開されているのもわからなくはない。 ドラマ部分の撮影場所は、博多のカメラ専門店や九州大学が出ていたので福岡市ということになる。劇中の「神ヶ崎市」は製鉄都市とのことで北九州市、大学のある「岩城市」が福岡市に相当するらしい。なお九州大学には工学部と別に芸術工学部というのがあるそうで、なかなかユニークな人材を育成しているようである。 内容としては、ゴジラ型怪獣の襲来から後日談に至る一連の出来事が、レベルに差のある2系統で表現されている。 ①劇中の大学生が学園祭用に制作したフィルム おふざけレベルの演技と特撮(ミニチュア+パペット)、ただし怪獣の動きはけっこう生き物っぽく作ってある。 ②劇中で実際に起きた出来事の描写 普通に素人レベルの演技と頑張った特撮(3DCGなど)、ここはリアルに作ろうとしている。力の入ったビルの倒壊映像と、山中から煙の上がる風景はなかなかいい。怪獣場面はほとんど夜で暗いのでよく見えないが、ディスプレイを明るくするとそれなりにできているのが見える。怪獣の足音とともに車を揺らしていたのもちゃんとできている。 全体構成としては導入部が前記①、本編が②、エンディングがまた①となって、なるほどそういうことだったかという感慨を残す。ドラマ的には、大学生4人は故郷の街(福岡市に相当)を守るために実際やれそうな範囲で奮闘したが、その功績が世間に知られることはなく、せめて①により記録に残した形になっている。怪獣対策の実行役ではなくカメラ担当の記録係を主人公にしたのは、怪獣よりも映像制作の方が重要テーマだったことの表れに思われる。 その他、映像に出た国土地理院の地図はなぜか高知県安芸市の山間部だったが(何で?)、ここはせっかくなので犬鳴トンネル(名所!)の辺の地図を使えなかったか。また夜の車中で、怪獣の足音が迫っているのにバカ話をしているのは本当にバカかと思ったが、これは恐怖を紛らわすためにあえてやっていたらしいことが結果的にわかった。好意的に読み取ってやろうとすることが大事だ。 [インターネット(邦画)] 5点(2025-01-11 13:24:46)(良:1票) |
5. ミテハイケナイ都市伝説 ~闇に葬り去られた人間失格者達~<OV>
《ネタバレ》 10話オムニバスである。題名からして安手ホラーの印象だが、脚本・監督が「口裂け女2」(2008)と同じなので若干期待される。 【オープニング】 暗いので見えない。 【1 廃人生活】 こういう洒落にならないのは見たくない。 【2 撮ってはいけない写真】 特に面白くない。ボルトカッター(ボルトクリッパ、東邦工機製)で何をどこまで切れるか試している。 【3 殺人マニア】 意味不明だが、富士の樹海などには他殺体も多いと言われていることが背景になっているのか。 【4 占いの村探し】 占い師が日本に何人いるかというのはフェルミ推定の問題のようだが、これは「占い師を占う場所」の需要がどれだけあるかということにつながるのかも知れない。最後が突然終わるが続きは8話で語られる。 ちなみになぜか山梨県にある実在の村の名前が出ていたが、こんな話ではロケ地PRになりそうもない。2013年製作なので、2019年の「山梨キャンプ場女児失踪事件」とは関係ないと思われる。 【5 終電後の帰り道】 単純ヒトコワ、特に裏はなさそうに見える。東京は夜も明るい。 【6 新しいヴォーカル】 これも単純な話だろうが最後のぶった切り方は悪くない。POVで音楽業界の現場感を出しているとはいえる。 【7 生まれつき見えている人】 脚のきれいな生保レディが、個人宅に呼ばれて危ないことになるかと心配したが話の通じる相手で安心した。相手のドライな割切りがいい。 【8 ウィルス女】 特に面白くない。4話の後日談が入っていて、山梨県に行った記者がけっこう誠実な男だったらしいことがわかった。 【9 かごめかごめ】 まだ有名でなかった頃の趣里が、祖母を気遣う感心な女子高生役をやっている。意味不明だが題名からすると、祖母は行方不明の児童を自宅に囲い込んでいたということか。まさか祖母または孫が殺害したのではないだろうと思っておく。 【10 ありふれた嫉妬】 屋上の場面で見ると黒い女も主人公と同じ52番だったようだが、顔つきの違いが激しすぎて素直に同じ人物とは受け取れない。 全体的にヒトコワ系が多いが心霊系もある。題名通りの都市伝説というよりも、都市伝説に発展する前の元ネタのレベルに見える。全体として面白くはなく、話の仕掛けが受け取りにくいところもあるが雰囲気としては嫌いでない。 [DVD(邦画)] 4点(2024-11-23 19:11:47) |
6. バーバリアンズ セルビアの若きまなざし
《ネタバレ》 2008年のコソボ共和国独立宣言の時点で、独立された側のセルビア共和国にいた若者を主人公にした映画である。公式サイトのコメントでは、当時「欧米のリベラル派を中心とした文化人によるセルビア人に対するヘイトクライムが確かに存在」し、「セルビアが世界の孤児にされていた」と書いてあるが、この映画自体にそういう説明はないので背景事情ということである。 原題Varvari(Barbarians)に関しては、この映画では地元サッカーチームのサポーターの呼び名がこれだったようで、そうすると主人公を含むこの連中が野蛮人ということになる。一方で冒頭に出ていた文章は、近代の詩人による「野蛮人を待つ」という詩の一部とのことで、これは為政者が外敵の存在に頼って内政を疎かにすることを表現したものらしい。この映画でいえばセルビア政府がコソボ問題により国民の目を内政から逸らそうとしているという意味になるか。 この当時、政府が国民に独立反対デモへの参加を呼びかけたのが事実とすれば、単に国内の不満を逸らすだけでなく普通に対外アピールの意味もあったのではと思うが、それでも結局はサポーター連中が暴動を起こすのと同じ結果になるようだった。主人公の仲間などはデモに参加する気もなくいきなり掠奪を始めていたが、それが当時現地にいた監督の目に見えた実態だったと思っておく。 主人公のドラマとしては、自分が見た限りでは社会がどうこういうより主人公の個人レベルの問題にしか見えない。邦題では「若きまなざし」などと書いて美化しているが、個人的には特に共感できるものはなかった。荒れてますねと言うしかない。 ただ不満のはけ口を方々に求めても徹底せず、解消の手がかりもないのはやはり社会の問題と解すべきか。公式サイトによれば出演者は現地の不良少年から選んだそうだが、主人公役と友人役はこの映画に出た後で映像・演技の道に進んだとのことで、少なくとも配給側としてはそういうことに希望を見出したいようだった。 なお人種差別された黒人選手はわりといい奴だったようで、主人公よりよほど円満な家庭だったらしい。どこの国の出身か不明だが、一応平和で安定的な社会に生まれ育ったようではある。 追記:他のレビューサイトに、主人公の人物像と現実のセルビアに関する非常にいい解釈があってなるほどと思った。人々も国々もVarvariだらけだが、袋叩きにされてもとりあえず前を向いていようという意味だったか。 [DVD(字幕)] 5点(2024-10-19 20:33:04) |
7. SHOT/ショット
《ネタバレ》 南米ウルグアイのホラー映画である。映画宣伝では「新たなるP.O.V.の衝撃!」と書いてあるが、劇中人物視点で撮ったという意味のPOVでは必ずしもない。それよりワンシーン・ワンショット(ワンカット)で全編連続の長回しに見えるのが最大の特徴点で、その後にリメイクされて「サイレント・ハウス」(2011米仏)の名前で公開されている。なお原題の「La casa muda」は英題の「The Silent House」と同じ意味だが(単語としてはmuda(mudo)=muteらしい)、邦題のショットというのは映画の撮り方からついた名前ということになる。 ワンショットといっても画面が黒くなる場面で適当に繋いでいた可能性もあるが、確かに終盤まで一連でつながっていたように見える。役者にとっては一幕の舞台劇のようなものかも知れないが、室内だけでなく外で走ったり車に乗ったりするのでカメラは忙しそうだった。鏡に人物を映す場面が多いことや、人物がいったん視界から外れてカメラの後を回って反対側から視界に入る、といった趣向があったのは面白くもなくもない。 話の展開はよくわからなかったが、最後に真相はわかるので途中はどうでもいいかという気もする。完全に幻覚の場面もあったようだが、実際の出来事を変形してみせていたようなところもあり、最後の真相から遡れば大体こういうことかと思わなくもなかった。ホラーとしては家で見た限りそれほど怖くもなかったが、ワンショットの撮影で時間経過とともに主人公の体験を共有しているようで、いわばリアルタイム感という意味で悪くなかったかも知れない。 なお映画冒頭では「実話に基づいたストーリー」と字幕が出ていたが、監督インタビューによると実在の事件ではあるが結果の事実がわかるだけで詳細は発表されておらず、当時の新聞記事も互いに矛盾していたりして真相不明だったため、原語のクレジットでは「実際の出来事にインスピレーションを受けた」(inspirada en hechos reales)と書いたとのことだった。要は映画で文章説明に出ていた程度のことが実話相当の部分であって、真相部分は架空のものだと思っておけばいいらしい。 [DVD(字幕)] 5点(2024-10-12 13:32:54) |
8. 恐怖ノ黒電波
《ネタバレ》 原題のBinaは建物とかビルの意味、英題はアンテナであってそれぞれ別の所に着目しているが、日本向けには「電波」で正解かも知れない。 ホラー映画というより社会派映画のようで、同時期の「返校 言葉が消えた日」(2019)を思わせる。世評などでは現在のトルコで進む情報統制に直接関連付ける傾向もあるが、この映画はトルコで2つの映画祭に出品されて一般公開もされているので、この映画自体は特に弾圧されてはいないようである。監督インタビューによれば、この映画での政府とメディアの関係は、現代の先進国では企業とメディアの間でも生じているとのことだったので、あまり批判対象を限定せず、なるべく広い視野で見ることが求められているらしい。 疑問点として、この映画に出るのがテレビ・ラジオ・新聞といったオールドメディアだけで、いわば古典的な情報統制のイメージなのはなぜかということがある。現実のトルコ政府が問題視しているのは主にソーシャルメディアだろうが、インターネットやモバイル通信が全く出ないのでは現代に通じる問題として受け取りにくい。しかしこれは逆に、現代の具体的な問題提起というより一般論として警鐘を鳴らす体にするために、あえてジョージ・オーウェルを思わせる時代がかった世界にしたと取るのが普通かも知れない。これも同時期の「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」(2019)に通じるものがあり、世界的に同時並行で全体主義への恐怖が語られていたことになる。 内容に関して、見た目としてはホラーっぽいところもあるが、超常現象というより実在の脅威を象徴的に映像化したダークファンタジーのようである。個々の場面がいちいち長いが、台詞はあるので話の意味は大体わかる。冗長ではないかと思いながらも、「深夜公報」への期待感もあって一応見ていられた(期待外れだったが)。黒液体にはこれからの社会に適合しない者を排除する機能が備わっていたようで、毎日外で働いて美容に気を使う単身女性や、いわゆる家父長制的な支配に抵抗する女性が排除されていたのは実際の現地事情の反映と思われる。 映像面では、寒々しい風景や特徴的な構図や突然の異界感など、どこかで見たようなものもあるが悪くない。テレビモニターなど古くさい表現に見えるところがあるのも「1984年」のような雰囲気を出すためかと思っておく。映像的には結構印象のいい映画だった。 [インターネット(字幕)] 6点(2024-09-14 10:31:16) |
9. 恐怖ノ白魔人
《ネタバレ》 松竹配給の「恐怖ノ」シリーズだが、今回は邦題の「白魔人」がちゃんと実態に即している(白い)。年齢の関係からか布団に潜りたい欲求があったらしい。股間の造形には少し感心した。 原題の「Aux yeux des vivants」は若干意味不明だが、要は映画の最後の一言がこれのようだった。 当初は陰惨な場面から始まるが、その後はのどかな田園風景が心を和ませる。これからクソガキ3人組の冒険ファンタジーとか、夏休みの思い出を作る物語が始まりそうな雰囲気があり、これはもしかして3人とも生き残るのかと思ったらそうでもなかった。しかし終盤ではまた花火を上げてしみじみした家族ドラマの風情になったりして、これは一体何の映画だったのかと思わせる。 一方で白魔人の場面は残虐で悲惨なのでファミリー向けとも思えない。性質の異なる2つの流れが並行する変な構成かと思ったが、これは最後に家族愛のある一家と、家族を欲しても得られない男との対比を際立たせる意図とは思われる。どちらかというと家族を欲していた男の悲哀を描くのが映画としての本筋かも知れないが、個人的には別に共感もしなかった。 そのほか背景設定に関して、例えば「ランボー」(1982)のような帰還兵の問題や、化学兵器に関わる事件がフランスでもあったのかと思ったが、実際どうなのか確認できなかった。どちらかというと化学兵器より劣化ウラン弾のイメージに近いだろうが、そのように世界のどこかで起きたことをネタにして、何らかの社会批判を込めたようでもあったがよくわからない。 いろいろ微妙なところはあるが、娯楽性の面では面白くなくもない映画だった。 その他、廃校とか廃病院でなく廃映画撮影所を隠れ家にしていたことや、「人生は映画だ」というのは制作側の映画愛の表現か。またクソガキ2人の家で見ていた白黒映画は多分「蜂女の恐怖」(1959米)である。この手の映画を愛するスタッフがいたらしいが人にお勧めするようなものでもない。 [インターネット(字幕)] 5点(2024-09-14 10:31:11) |
10. 恐怖ノ黒鉄扉
《ネタバレ》 69分しかないとわかっていても、もういいからみな死んで早く終われと思っていた。点数は2点くらいかと思っていたが、終盤になって話の意味がわかって急に評価を上げた。中間部のほとんどはどうでもいいが、最初と最後がつながって効果を出している映画だった。どうしようもない俗悪映画のようでもちゃんと最後まで見なければならないということだ。 [以下説明] 英題にはApril Foolsと書いてあるが、実際は4/1ではなく12/28の「幼子殉教者の祝日」(聖イノセンテの日)を題材にしている。スペインではこの日がエイプリルフールのように嘘や悪ふざけの許される日だそうで、人型の紙を他人の背中に貼ってはやし立てるとか、他愛ない嘘で人を騙すなどして「イノセンテ~!」と言って笑う習慣があるとのことだった。この映画では、この日の悪ふざけが度を越して死者が出た事件が全ての発端だったという設定だが、人型の紙がこの日を象徴することはスペイン系の観客でないとわからないので、あまり世界向けとはいえない映画である。 また原題のLos inocentesとは “イノセンテな人々” という意味である。スペイン語のinocenteは英語のinnocentに当たる言葉で、形容詞としては「無罪の」「無実の」「悪意のない」「無邪気な」「純真な」「お人よしの」といった意味であり、また名詞として子ども・幼児を指すこともある。12/28の祝日名には名詞としての「幼子」が出ているが、原題の方は登場人物が形容詞の意味に当てはまる人々であることを意味している。こういうことも英語やラテン系言語以外の話者にはわかりにくいと思われる。 視聴時には当然ながら日本語字幕を見ていたが、原語の台詞でこのイノセンテが多用されていることに終盤で気づいた。「引っかかった、引っかかった、ホントにバカだね」のイノセンテは12/28の他愛ない悪ふざけのレベルだが、過去の事件に関して「奴らに悪気はなかった」と言った箇所でもこの言葉を使っていて、また最後の「私、何もしてない」でも「無実」という意味で言っていた(Soy inocenteか)。さまざまな意味のイノセンテにこだわった映画のようである。 これにより全体的には、ガキのやらかす凶悪犯罪を「無邪気な」おふざけとして「無罪」にしてしまう現代社会への皮肉を込めていたと取れるので、日本的感覚でいえば少年法関連の映画ということになる。ガキと違って世間一般の常識はちゃんとわかった大人が、あえて "こんなクソガキ連中は全員死刑だ" と無邪気に放言してみせた感じの映画になっていた。 ただしラストの出来事は、悪意がなければ警察が無実の人間を射殺してもいいのか、という別方向からの指摘のようでもある。なかなか考えた映画だと思った。 [DVD(字幕)] 6点(2024-09-14 10:31:08) |
11. 恐怖ノ黒洋館
《ネタバレ》 ホラーとしては、家の雰囲気や出来事に不気味さはある。しかしその辺に掲示した警句がいちいち現実化するとか、「男でも女でもない」ものが正体不明だといった個別の趣向は、物語に直接関係ないこけ脅しだったようでもある。 森のケモノに関してはストーリー上の存在意義もあったようで、終盤でドアの隙間から邪悪な目が覗いた場面はわずかながら本当に怖かった。また本編の最後に暗転したところで、黒いバックに母親の姿だけが残ったのも印象的だった。 物語としては親子の関係を扱っている。今回の件で、息子は外部とのつながりも使ってそれなりに対処できたようだが、母親の方が息子も信仰も失った後の孤独は他人事ながら切なかった。死者の魂が残っても、生者と心が通じないのではどうにもならない。 ところで全体のテーマは宗教に関することだったらしい。現地の教団は、昔の新聞では「Angel Cult」と書いてあり、集団自殺事件を起こしたとんでもないカルト教団かと思い込んでいたら、外部情報によれば死んだのは父親だけだったらしい(記事のMember'sも単数)。主人公宅が変な造形物であふれていたのもカルトだからでなく、主人公が収集したものを母親がまとめて入手したからということになる。人を集めて奇跡を起こしてみせるとか、閉鎖的なコミュニティとかはいかにも新興宗教的で怪しいが、監督の話によれば意外にも、カルトというより宗教一般(主にカトリック)を問題にしていたらしい。 宗教の意義と弊害は社会面・個人面でそれぞれあるだろうが、この映画では信仰があったために家族が解体する一方、信仰をなくしたことで母親が絶望的な孤独に陥った、という両面が出ていたように取れる。教団のいう「DESPAIR IS THE AFFLICTION OF THE GODLESS」は、母親に関しては正しかったということかも知れない。 その他のことに関して、家を売りに出した不動産屋はトロントに実在したもののようで変に現実味がある。また警備保障のサイトにつなぐと監視カメラ映像が見られるなど、古い屋敷のイメージを裏切る現代性が出ていたのは面白かった。 登場人物では、「アンナ」は真夜中の電話にもちゃんと応対する寛容で冷静な人物のようだったが、これは(元?)恋人とか友人というより医師としての職業意識からだったかも知れない。かつて宗教が果たしていた役割の一部を今は精神医療が担っていると言いたいのではないか。「アンナ」が天使だったということだ。 [DVD(字幕)] 7点(2024-09-14 10:31:04)(良:1票) |
12. 恐怖ノ黒電話
《ネタバレ》 地味な印象だった。サイコスリラーかと思うと心霊系に見えるところもあったが、どうせ結局全部が妄想だろうと思っていたらそうでもなく、過去からの電話という前提は最後まで通したようでもある。それで全部辻褄が合うのかわからないが考えても仕方ないということにする。 なお途中と最後に出た "Bobby Shaftoe's gone to sea" という歌はイギリス民謡(マザーグースの一曲)らしいが、どういうニュアンスでこれを出したのかも不明だった。海で死んでもう帰って来るなという意味か、生まれ変わったら結婚してやるということか。 ちなみに主人公の住所だった「Falansterio, Puerta de Tierra」とはアメリカ領プエルトリコの首都サン・フアンにある公営の集合住宅である。1937年に建設され、現在はアメリカの歴史遺産(国家歴史登録財)になっているそうなので古くて当然である。場所がプエルトリコということで屋外ではラテン系の風景も少し見えていたが、物語上の必然性があったかは不明だった。 [DVD(字幕)] 5点(2024-09-14 10:30:59) |
13. 膨らみ
《ネタバレ》 画面いっぱいに模様が映るのは古風な風呂敷のイメージで悪くない。ブーという音も意味不明で悪くない。 体育座りと姿見にいたのが正体だろうが白い手は出なくてもよかった。個人的な好みとしては正体不明の「布団の怪」だった方が妖怪っぽくてよかったと思うが、制作上の意図としては一人の人間の内面的な出来事という想定かも知れない。毎日部屋に置き去りにしていた本当の自分の一部が反逆してきたなど。 [インターネット(邦画)] 5点(2024-09-07 20:01:34) |
14. 私の夢
《ネタバレ》 テンポよくまとまっていてコメディのようでもある。 第一志望かと聞かれれば第一志望と言うだろうし、また特定の会社に落とされたのが致命的というよりも、何十社受けても駄目だった痛手の蓄積が限界を超えたと思うべきではないか。集団で押しかけて来るほど何人も死んだわけもなく、要は面接官の方が病んでいたということだ。こういう災難が世間の人事担当者に広がりそうで嫌な世の中だ。 [インターネット(邦画)] 4点(2024-09-07 20:01:31) |
15. 友達の家
《ネタバレ》 冒頭のアサガオと民家が静止画らしいのは残念感があった。続いて出た屋内の年代感とも合っていない。 冒頭民家の印象からすると、子ども時代の怖い記憶が残っているが今となっては事実だったかわからない、といったノスタルジックな回想談のようなものを想像したが実際そうでもない。映像そのままの出来事が起きたとすれば主人公がこのまま失踪してしまったかのようで、幼い子どもに体験させるには悲惨すぎる。あからさまなバケモノなど出さずに雰囲気だけで感じさせてもらいたかった。 [付記]何が起きたかはっきりしないのが不快なので自分で適当に考える。 まず「おまじない」を友達の両親は本気にしていなかったようなので、この家のしきたりというより友達個人のマイルールと思われる。友達は前から家の中にいる心霊の存在を察知していて、その活動を制約するには「おまじない」が効果的だと経験的に知っていたかも知れない。主人公も自分で心霊の存在に気付いていたので、ちゃんと「おまじない」をやっていれば難を逃れた可能性もある。 しかし友達の両親は心霊がいるとまでは認識していなかったようでもあり、またそもそも大人なので「おまじない」をやってもやらなくても影響なかったかも知れない(例:やらないと心霊が二階まで上がって来て、家鳴りさせるとか金縛りに遭わせたりするが大人は心霊現象と思わないなど)。家族の中で友達しかしていなかった「おまじない」は、大人に見えないものを見てしまう子どもらの間でだけ通用するものだったとも思われる。 この出来事で主人公が失踪したなどというとかなり大変なことになってしまうが、結果的には大事に至らず、夢オチのように終わったのが映像では省略されていたと思っておく(例:階下で寝ていて起こされたなど)。かつて友達にも同じ体験があったのかも知れないが、それでも大したことなく今に至っているということは、逆に主人公も結果的に無事だったということだ。本来はその程度の怪奇現象だったにも関わらず、よくある月並みなホラー表現をそのまま使ったために大げさになって破綻が生じているのではないかと思った。 たった5分の短編であるのに面倒くさいことを考えさせられたのが腹立たしいので思い切り点数を下げておく。 [インターネット(邦画)] 2点(2024-09-07 20:01:30)(良:1票) |
16. 新感染 ファイナル・エクスプレス
《ネタバレ》 原題を漢字で書くと「釜山行」だが邦題が「新感染」とは、新幹線というものに長年親しんできた日本らしい発想である。邦題を褒めたくなるのは珍しい。 レールムービー風ゾンビ映画ということで、基本は列車内で追いつめられる展開になるが、大田駅での途中下車や東大邱駅での乗換えで変化を出している。釜山に行きつかないで終わりになるのではと心配したがそうでもなく、終幕のアロハオエは少し感動的だった。ドラマ性も盛り込んだ出来のいい映画に思われる。 なお列車内の惨事ということからは「大邱地下鉄放火事件」(2003.2.18)を思い出すが、この映画では運転士がまともな人物でよかった。また序盤の動画で、ヘリコプターがゾンビを攻撃するのでなく、逆にゾンビが降って来たのは爆撃のようで新鮮味があった。 ドラマ的には、特に自他の優先順位が問題にされていたのかと思った。運転士が職業上の使命感から、乗客第一を実践していたのは普通に適切な行動である。またホームレス風の男は、例えばこれまで自分だけが損を押し付けられてきたとの思いがあったかも知れないが、さすがに妊婦と子どもが自分より優先ということはわかっていたらしい。人としての基本が何かを押さえた映画になっていて、それが世界共通かは別にしても、少なくとも日本と共通認識があるらしいことはわかる。 またしぶとい悪役は、極端な自分本位で人としての基本がわかっていないようだったが、これはもしかするとわかっていないというよりも、倫理を度外視するほど極端な怖がりだったのかと思った。外見は普通に見えても地がそういう人物というのはいなくもない。 ほか個人的に印象深かったのは大邱に行く予定の老姉妹で、日本でいえば倍賞千恵子・美津子姉妹のイメージだったが、妹は外見的には佐々木すみ江氏に見える。その妹が「昔なら全員とっ捕まえて」と言ったのは、戦後の荒っぽい時代を生きた強気さを思わせる。また姉がポケットからアメちゃんを出したのは、日本でいえば大阪のおばちゃんのような行動様式だった。この姉が「いつも周りの人のことばかり心配してた」というのがちょっと泣かせる言葉で、こういう日本の感覚からみても古風な人物がいるのかと思わされた。 また女子高生の「ここの方が怖い」という台詞も少し印象的だった。社会が殺伐としているとの感覚は向こうにもあるかも知れないが、悪徳商売人の娘については母親がちゃんとした人だったらしい。母親は釜山で心配しながら待っていたと思いたい。 [インターネット(字幕)] 7点(2024-08-17 09:36:09) |
17. エスコバル 楽園の掟
《ネタバレ》 南米コロンビアで麻薬王といわれたパブロ・エスコバルに関する映画である。さすがに現地では撮れなかったのか撮影場所は隣国パナマだった。税制優遇のインセンティブがあったとエンドクレジットに書いてあったが風俗や景観も似ているかと思われる。 映画の内容としては面白くなくもない。前半では平穏な導入部から徐々に不安が増していき、全体の半分に当たる転換点から危機感が一挙に高まって、後半のスリリングな展開を経て終幕に至る流れを作っている。娯楽映画としてはそれなりだった。 娯楽以外の面では、特に何かにいいたいことがあったかわからない。物語としてはカナダ人が主人公だろうが、その範囲内で麻薬王の人物像を描写しようとした感じもあって重点がはっきりしない。 麻薬王に関しては、いわばファミリーのような身内とそれ以外の境界をはっきりさせて内部の結束を高めていたようだが、状況によってその境界が大きく変わって来るので安心できないらしい。民衆の味方のように見せていてもその民衆を簡単に犠牲にしていたのは、要は自分本位で守る範囲を決めていただけということか。 また、麻薬王が神の存在を信じていたからにはキリスト教世界の住人なのは間違いないとしても、神からの見返りが少ないことに不満を感じて決別を宣言したらしい。いわば神さえも取引相手や抗争相手の扱いなのが不遜だという意味かも知れないが、それが実際の麻薬王に即した描写なのかはわからず、そうですかで終わりである。 カナダ人のドラマに関しては、最後にオチがついているが特に面白くない。最初に来た時の思いがちゃんと説明されていないようで、最後だけ適当に格好つけたようでもある。そもそも行く先々で若い女性に手を出す性癖が禍を招くのではないかということもあるわけだが、麻薬王の姪が可愛い人だったということは認める。 その他雑記として、カナダ人が派遣されたイトゥアンゴItuangoは山岳地域の標高千六百メートル程度の尾根上にある町で、市街地人口としては七千人くらいのようである。映画では、お宝の隠し場所へ向かう途中で町を遠望する場面があったが実際こういうイメージらしい。本物の町の様子をGoogleストリートビューで見ると(2013年10月)、小銃で武装した兵隊(国家警察?)が街角で警戒しているのが写っていてヤバさを感じさせる。コカの栽培が増えているとか車に爆弾がしかけられたとかで危険視されていた場所とのことだった。 [インターネット(字幕)] 5点(2024-08-03 09:12:44) |
18. ウクライナ・クライシス
《ネタバレ》 原題の「Іловайськ 2014. Батальйон Донбас」は「イロヴァイスク2014:ドンバス大隊」である。2014年に起きたドンバス戦争中の「イロヴァイスクの戦い」を映画化したもので、登場するのは主に義勇軍のドンバス大隊だが、ほかに正規軍や有名なアゾフ大隊、また「極右セクター」も参加していたらしい。戦う相手は分離主義者の「ドネツク人民共和国」(自称)の軍隊で、一部にロシア軍も出ている。 英題Beshootはドンバス大隊の指揮官だった主人公のコールサインである。この指揮官は実在の人物であり、映画ではなんと本人が本人役を演じている。その他、実際の戦いに参加した人々が多く出ているとのことだが誰がそうなのかわからない。 なお日本語字幕は2022年以降の政治的に正しい地名表記には必ずしもなっていない。ドネツクはともかく首都の名前がキエフと書いてあったりするが、そもそもイロヴァイスクからして「イロヴァイシク」が正しいのではないか。 映画全体としては2014年の戦いの悲劇を記憶するとともに、そこで戦った人々を顕彰しようという体裁になっている。2022年以前の時点では、まだこの辺の問題が世界に注目されていないとの問題意識が背景にあったかも知れない。またドンバス大隊が「死の部隊」扱いされていたことに関する汚名返上の意図も見える。 しかし話としては全く面白くない。極悪ロシアの非道の証拠とされる「人道回廊」への攻撃がクライマックスかと思えばそうでもなく、その場にいなかった主人公の動きを追って消え入るように終わる。主人公が負傷して匿われてから脱出したという流れ自体は本当のことらしいが、それと直接関係のないサイドストーリーが派生するのは結果的に意味不明だった。とりとめなく続くTVドラマを短縮した感じだが、あっちの方ではこういうのを映画と称する例がけっこうある気がする。 政治的な面では、まず当然ロシアに対して肯定的ではないが、遠方のキエフにいる「お偉方」にも反感を示していたらしい。過去20年間何も変わらないことが本当の問題だ(=中央政府が無為無策?)と劇中アメリカ人が言ったのは、この映画自体の主張を代弁していたかも知れない。その他全編を通じて必ずしも祖国=政府ということはなく、またロシア系住民にとっても分離主義者が必ずしも味方でないことが表現されている。 登場人物は親ウ・親ロその他が入り混じり、また地域住民としての感覚と政治的立場の食い違いもあったりして敵味方が曖昧な状態になっている。ただし元教員のエピソードは住民間の分断が進みつつあることの表現だったかも知れない。また個人的な憎しみはなかったにもかかわらず、身内を失ったことで復讐心が嵩じていく様子も見せていた。なお主人公を匿ったのはロ系の一般庶民だったようだが、一方で個別の悲劇を引き起こしたのは全てロ側の国家権力につながる者(ロ軍・分離主義者・プ支持者)だったという形で整理をつけていた。 見るのに忍耐を要する映画だが、2022年以降にウ=正義、ロ=悪で単純に分ける意識が定着する前の状況を、ウ側の立場から表現したことに価値がありそうなので悪い点にはしない。 [インターネット(字幕)] 5点(2024-07-13 10:00:19) |
19. バルカン・クライシス
《ネタバレ》 1999年のコソボ紛争に関わる戦争アクション映画である。迫力のある戦闘場面は冒頭のほか後半にまとまっていて、その間は戦いの原因になった現地情勢が紹介される。また全編を通じて、現地の紛争に関するこの映画としての姿勢も表現されている。 副次的要素としてはロシア人とセルビア人のロマンスも入れてある。2人の様子を狙撃手が上から見ていて感想を述べたのと、ラストに出たタクシー運転手の雰囲気はよかった。また人物としてはコソボにいた警察署長が立派だった。 けっこう政治色の濃い映画だが、娯楽映画として単純に見れば悪くなかった。 政治的な面に関しては、冒頭でロシア連邦文化省とセルビア共和国文化情報省のロゴが出るので両政府の支援があったと思われる。IMDbのユーザーレビューを見た限り、英語のわかる人々の間ではプロパガンダ映画と思われているらしい。 この映画での直接の敵は「コソボ解放軍」という実在した武装集団だが、さらにその背後にはなぜかセルビアを目の敵にするNATOがいたことになっている。西側自由世界では常にセルビアやロシアを悪として扱うが、反対側の視野からはこう見えるということだ。一方で味方にもアルバニア人やイスラム教徒を入れることで、そういった人々全部を敵視しているわけではないことも示している。単なるバカ映画ではない。 なおスイスから来た医師がコソボ解放軍に内通していたというのは、この当時からあったとされる臓器売買に加担していた設定と思われる。2008年以降、この臓器売買への疑念が西側世界でも広がったことが製作の背景にあったかも知れない。 ところで味方の8人は、国籍はロシアとセルビアだろうが民族は全員違っていて、ロシア人は主人公だけ、ほかはタタール人・イングーシ人・ベラルーシ人・セルビア人・アルバニア人・ウズベク人とのことだった。あとの1人は不明だったが、これは両親の出身民族が違うなどの理由で特定できず、ソビエト連邦時代ならソビエト人と言えばよかったが、その言い方ができなくなったので不明というしかなかったと思われる。 旧ユーゴスラビアでも民族が特定されない人々をユーゴスラビア人と称したわけだが、それ以外にもさまざまな民族が一つの政治体制のもとで融和して暮らしていたにも関わらず、その体制が崩れて各民族が争い始めたことへの嘆きが物語の背景にあったと思われる。民族不明のソビエト人が昔は平和だったと言っていたのは、旧ユーゴと同様に旧ソ連諸国でも争いが生じているからと思われる。 旧ユーゴでも政治・行政上の区域分けはあったにせよ、実際はその内外で混在していた人々が今は民族単位で線引きされ、結果として人と人の間にも線が引かれて分断されてしまったことが原題で表現されていたと思っておく。娯楽性とメッセージ性を備えた出来のいい映画だと思ったが、劇中武装集団がTOYOTA車を使っていたのが気に障ったので報復として点数は低くする。 [インターネット(字幕)] 3点(2024-07-13 10:00:17) |
20. セルビア・クライシス
《ネタバレ》 第一次世界大戦の開戦から「大撤退」(The Great Retreat)に至るセルビア王国の戦いの映画である。序盤は迫力のある戦闘場面だが、後は退却ばかりで最後は八甲田山のようになり、戦争映画としての価値は何ともいえない。しかしやたら多数の国が参戦した第一次大戦が、もともとオーストリア対セルビアの戦いだったことを思い知らされるとはいえる。 原作付きの映画であり、公開後にはTVドラマ(11回)も放映されたそうで、映画はその総集編というか予告編のようでもある。最初は勝っていたのに何で敗走しているのか、台詞に説明は入っていたが急展開すぎて感覚的につながらず、また登場人物のドラマも断片的でわけがわからなくなっている。なお軍隊に同行した少年が実在の人物(1906-1993)というのは少し驚かされる。 物語としては、国王が戴冠式で誓った通りにできているかを元首として常に内省する姿を映している。またそれとは別に人として「私も何か役に立ちたい」と言っていたのは共感できる。「この本が役に立ってよかった」というのもいい台詞だった。 映像的にはプリズレンの城塞(現コソボ共和国)と、最後の軍艦4隻の端正な姿が目を引いた。防護巡洋艦のようだが実在したものかは不明だった。 ところで娯楽以外で何か政治的な意味がこの映画にあるかに関して、まず物語中に愛国心は感じられるが特に拡張主義的な主張があるようには見えない。この大戦では国王が味方につけた連合国側が勝ったことで、戦後はセルビアを中心にして周辺地域や国を統合した南スラブ人の王国ができ(1929以降はユーゴスラビア王国)、王国としては領土拡大を果たしたことになる。これはそもそも大戦のきっかけを作った大セルビア主義の立場からも歓迎されたとのことだが、しかしこの映画ではそこまで範囲を広げておらず、あくまでセルビアの枠内にとどめた形で作っている(ただしコソボはセルビアに含めている)。 それよりは当時の国王が元首として、また人としていかにまともだったかをアピールしていたように見える。このことに関しては現在、主人公の曾孫に当たる人物がセルビア国内に住んでいて、セルビアでの立憲君主制復活を提案しているとのことである。地元週刊誌Libertateaのインタビュー(2022.3.5)では「ノルウェー・スウェーデン・イギリス・日本・カナダといった高いレベルの民主主義、人権と自由、社会正義を備えた国でも立憲議会君主制が採用されていて、セルビアでも役立つ可能性がある」と語り、その上で、立憲君主というのは民主主義・継続性・安定性・統一の保証人であり、政治・宗教その他に関係なく全ての国民のためにいる、といった、この映画のテーマにつながりそうな記事にまとめてあった。 現地の世論調査(2013と2021)でも議会制君主主義は評判が悪くないようで、そういった世相を背景に、いわば立憲君主制の意義を訴えた映画のようにも取れる。日本も褒められる側に入っていたようだ(笑)。ちなみに第一次大戦で日本はセルビアの味方だった。 [インターネット(字幕)] 5点(2024-07-13 10:00:13) |