1. 女が階段を上る時
《ネタバレ》 成瀬監督の映画はどうしてこんなに面白いのだろう。邦画の三巨匠のように明確なスタイルがあるわけではないのだが、ただただ映画を撮るのが(物語、あるいは感情をフレームの枠内に綺麗に収めるのが)巧いのだ。そんな成瀬監督が高峰と組んで生み出した良質な作品群の中でも、本作は最良の出来といえる。高峰演じる主人公が、群がる男たち(現実に疲れ、汚れた顔の男たち)を掻き分けて力強くも儚く生きていくというストーリーは、古典的ではあるが一人の現実の女性を創出することに成功している。特に終盤で仲代達也が高峰に言い寄るシーンでの、男と女の空間的・精神的距離感と、剥き出しになった生身の台詞の応酬は、痛ましいとさえ思えるほど人間という生物の核心を突くものだった。話は変わるが、本作の題名にあるように主人公が階段を上っていく象徴的なショットが幾つかあるのだが、あれがどうも鼻につくというか、安牌な映像表現のように思えて少し残念。 [DVD(字幕)] 7点(2012-12-31 01:50:45) |
2. 夜
《ネタバレ》 アントニオーニの危うい哲学(鋭い視点と足りない探求)がフィルムに美しい幾何学模様を描いた彼の最高傑作。これ以降、彼は観念に引きづられる格好で完成度の低い(それでも大いに魅力的な)作品達を残していくことになる。無機物と有機体の対等性、存在と非存在の境界の消失といった彼の根底を流れる思想と、彼の愛をめぐる普遍体験が最良の形で映画の枠内に収められた本作は、映画史における到達点の一つといえる。特に、平面と直線により構成された都市空間をジャンヌ・モローが放浪する前半部分は、全てのショットが完璧と言いたくなるほどだ。物質も生命も同じ法則によって貫かれているのだ、と感じさせてくれる映像空間の構築により、愛の普遍劇に観点の多様性と豊穣な味わいを与えている。後半、張り詰めたセンスによって支えられていた映像がやや緩みだすが、至高のラストシークエンスが所々にあいた空隙を埋めるピースとなり、この作品に傑出した完成度を纏わせている。ゴルフ場に愛の枯れた夫婦が二人。遠景では木立が水墨画のようにたゆたう。愛を含む一切の感情がこの広大な空白に飲み込まれ色褪せていく。起死回生を狙う夫の悪あがきだけが画面の片隅でうごめいている。モローとマストロヤンニの演技、ガスリーニの演奏も素晴らしい。同じ題材でこの映画を超えることは不可能とさえ思えてしまう、アントニオーニの内的世界が見事に結実した大傑作。 [DVD(字幕)] 9点(2012-12-08 14:56:36) |
3. 軽蔑(1963)
《ネタバレ》 まずモラヴィアの書いた原作小説がある。これは男女間の混沌とした感情を確かな筆致で描出した素晴らしい小説であったが、芸術観・人間観において驕りを見せる主人公をモラヴィアは否定するどころか擁護した、という重大な欠点がある。そしてその欠点を見事に解決したのがゴダールである。映画監督役にラングを起用することにより、主人公より上の境地に達している人物を配置でき、主人公の横暴さを包み込む役目を果たさせたのだ。ラングの「非論理が論理に反するのは論理的である」「死は結末となりえない」などといった台詞は主人公を、より上位の次元から絶えず牽制した。主人公の滑稽さを認めたゴダールはやはり信頼に値する映画監督だ。さらに、凄まじいまでの魅力を放つバルドー(その肉体、笑顔、瞳……!)や、愛の幕引きという軽石のように空虚な絶望を画面に定着させることに貢献した色彩と音楽には、手放しの賞賛を送りたい。そしてなによりゴダールの映像表現力だ。小説ではなく映画でなければならない、という必然性を感じさせるシーンの数々に思わず顔がほころぶ。映画の終盤、カミーユという魔性ともいえる女が死ぬ。「愛ある笑顔よ」と優しく笑うカミーユ。その直後「本当はもう愛してないの。もう無理なのよ」とカプリの断崖を思わせる拒絶を見せるカミーユ。しかしカミーユは魔性の女ではなく、自立した意識体系を持つ一人の人間にすぎない。それを理解できなかったのがピッコリ演じるポールである。最後に一言、ランボーの「永遠」はこの映画のラストにこそ挿入してほしかった! [DVD(字幕)] 8点(2012-12-06 21:56:02)(良:1票) |
4. リバティ・バランスを射った男
《ネタバレ》 ジョン・フォードの切り取る風景は、大地が草木が青空が一丸となったような深く穏やかな息吹を感じさせる。この映画においては冒頭と最後の鉄道を走る列車のショットがそれだ。おそらく静止画であればこれほどまでの感動は得られないであろう構図だが、モーションピクチャになった途端に命が吹き込まれ、その有機的なエネルギーが画面から溢れ出すのだ。映画の内容としてはジョン・フォードの他作品同様、心地よく観続けていられる滑らかなショット繋ぎと安定した物語により、安心して楽しめる内容となっている。この監督の思想、視点の高貴さは疑いがなく、一見どんなに凡庸または偏見に満ちた物語に思えたとしても、よくよく観ていけばそれらの疑念は霧散してしまうのだ。ゆえに安心して観ていられるし、二度目以降の観賞においても飽きることなく楽しめてしまう。……リバティ・バランスの撃たれ方が格好良い。 [DVD(字幕)] 6点(2012-12-03 02:25:11) |
5. バルタザールどこへ行く
《ネタバレ》 ブレッソンの映画は、映像が身体に染み入るように流れてくる。それはカットのリズムと劇的さの排除によるところが大きい。この「バルタザールどこへ行く」においてもその二つの要素がもちろん基底にはあるが徹底はされてない印象だ。素晴らしくリズミカルなシークエンスもあれば、もたついた鈍い足取りの場面もある。乾いた物音だけが響く心地よい静寂もあれば、べとつくように甘いシューベルトの音楽が流れもする。しかし驚くほどに高精細なモノクロ画面や、光量の高い画面作りなどブレッソン映画のなかでも特筆すべき点もある。高精細なのにどこか靄がかかったように幻想的な画面なのだ。特にヴィアゼムスキー演じるマリーの横顔を捉えた素晴らしく美しいショットには眼が釘付けになった。このショットはストローブ=ユイレの絵作りにも影響を与えたのではないか、とひそかに推測している。 [DVD(字幕)] 6点(2012-12-02 19:43:52) |
6. 女は二度生まれる
《ネタバレ》 10点はこの映画を超えるものに出会うまでとっておきたい。裏を返せば、この映画は私にとって限りなく理想に近いものだということだ。川島雄三が大映で撮った三本はいずれも映画史に残る傑作といって差し支えないが、とりわけこの「女は二度生まれる」は川島の漲る才気とキャストとスタッフの力が最高潮の地点で組み合わさった、およそ完璧といえるほどに堅固な作品なのだ。まず俯角と仰角の鋭いショットでもって全編を構成することにより、この映画に研ぎ澄まされた質感とリズムをもたらしている。このことが観客の集中力を促し、時間の経過を忘れさせる要因となる。これは監督だけでなくカメラマンの村井博の力量によるところが大きい。川島は構図に関しては無頓着な方だったが、村井の助言により絵画的な構図を志向するようになったという本人の証言がある。少々狙いすぎの気もあるが、それでも感服せざるをえない構図の連続である。カラーの乾いた感触や池野成の画面を補足するような魅惑的な音楽も手伝って、画面作りにおいては非の打ちどころがないと断言してもいい。次にキャストの話をしたい。もちろん若尾文子の話だ。他の俳優陣も確かな力量の持ち主であることは言うまでもないが、この映画はやはり若尾文子の、いや小えんの物語なのだ。この映画において若尾の魅力が爆発していることに異論を唱えるものはおそらくいないだろうが、それは若尾全盛の美貌のおかげだろうか、はたまた身振りや口調表情など、つまりは演技のおかげだろうか。私はこの映画における若尾を評して名演だったとは言いたくない。小えんという一個の人間がフィルムの上に確かに生きていたのだ。この映画において若尾は紛れもなく小えんだったのだ。川島は小えんという人間の生活をその卓抜な演出手腕により構築し、映画の最後の場面、25秒に渡るフィックスショットにより、小えんのこれから歩むであろう人生をも提示した。フィルムに映ったものは小えんの人生にとってほんの数場面に過ぎない。しかし川島雄三は小えんという人間についての無限の情報をこのフィルムに刻んだのだ。 ただし幾つかの欠点もある。反戦の思いを込めたであろう靖国神社のシーンはこれ見よがしで冷笑を誘うし、路地裏を映した凡庸な数ショットに興醒めする瞬間もある。しかしこれらは些細な欠点だ。未見の方は是非とも観てください。ツタヤに置いてあるし、旧作だから百円だ! [DVD(邦画)] 9点(2012-12-02 19:12:45)(良:2票) |