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1.  ダイ・ハード3
ところで、立川シネマシティはルーカス・サウンド・システムと称して音響が素晴らしく、凄い音が右に左に縦横無尽に飛び交う。映画の内容は、前半は第1作を上回るほどでなかなかよいが、後半は余りに無稽な展開で型に嵌まってあほらしい。これではバットマンの世界。連れ出した娘は前半は結構怖がっていたのに、後半はぐうぐう寝てしまった。だいたい「ダイハード」(絶対死なないタフガイ)と言っても、あれじゃいくら何でもひどすぎる。端っこの方からおばさんが「あんなに血を流してどうして死なないんだ?!」と大声で叫んでいた。同感。クライマックスでも、定番の超人的で構図的な返し技もなく、最後は決まらずに見栄を切る場面がないままに、だらだらと映画は終わった。スペクタクルの極限を贅肉たっぷりに映像化し羅列しているのに、シネマトゥルギーとしてのスペクタクルは殊に後半に欠けて、映画として締まらなくなった。皆がこのような派手な映画ばかり観ていると、時間の止まった映画など誰も観なくなってしまうのだろう。最新の音響システムを有する映画館で、例えば『ノスタルジア』は、あるいは『秋日和』はどう映るだろう?恐らくは誰も観にこないだろう。『ダイハード』は映画ではなく、臨場感を味わうゲームである。映画館はゲームセンターであり、『ダイハード』はたっぷり2時間のゲームである。これで1800円は安いと言える。
6点(2003-01-06 23:54:54)
2.  パブリック・アクセス
『ユージュアル・サスペクツ』ほどには驚愕させられる心理サスペンスではないが、私には大変面白い映画である。ことに前半のテレビ番組場面の作り方が楽しい。室内の気だるい熱さは『バートン・フィンク』を思わせる。ブルースターの町にどこからともなくワイリーがやって来た。彼は視聴者制作番組用チャンネル8に、自らがホストをつとめる番組を放送し始めた。さながら公開討論番組であり、電子会議室といったところだ。害虫である蛾を集める街灯、ゆっくりと回る扇風機となって、町の人々の醜いコミュニケーションの実態を採集し始める。ところがバブリック・アクセスであるにもかかわらず、現実にはプライベート・アクセスに終始した。その余りの醜悪さに、彼の美学は嘔吐した。彼はふたりを殺害した。ひとりは町長の悪口を言う元高校教師ジェフだ。ここで音楽はペールギュントとなる。これは絶妙で、キューブリック『2001年宙の旅』以来のエレガントな使用法だ。もうひとりはヘンリーの教え子で、ワイリーの恋人レイチェルだ。ワイリーは町長のために町の「害虫」ヘンリーを殺害するが、彼はことの真実をレイチェルから教えられ、町長の実態を知ってしまう。それなのにレイチェルをも殺害した。やり過ぎたと内心は軽く省みつつも、事の流れに乗って(町長支持に託つけて)レイチェルを殺害して、ブルースターから爽やかに消えて行った。大家であり元町長であるボブは、かつてのワイリーの部屋に入り、天井の扇風機を止めて、放心したように座り込んだ。主題歌は皮肉にも『レイチェル・マイ・ディア』で、「わたしをひとりにしないと約束して」という文句で終わる。この不思議な寓話は何だろう?まるで昔話のように、コミュニケーションの曖昧さを示している。昔話は基礎付け作用が小さいので、それだけコミュニケーションのことを語りやすいのであろう。ワイリーとは何者か?元町長のボブが信じたエイリアンと思えなくもない。理想郷を思い描くエイリアン=ワイリーは、ピカレスクの含み笑いとともに、人々のコミュニケーションに巣くう蛾々=害虫を採集摘出していく。シーンの繋げ方は大変にうまい。不良青年の死体を発見して警官が慌てて走ってくるシーンと、パーティでおどけて子供が飛び跳ねるシーンを映像的に同一化させ、これを共通分母として場面を滑るように転換させていく。殺害というショッキングなテーマをあざ笑うかのように、すぐにパーティのふざけた音楽で悪意をもって見る者に襲いかからせる。何とも言えぬ悪魔的な諧謔にぞくぞくとさせられる。結局、ワイリーはラストシーンで子供に語る「ストレンジャー」なのだろう。彼はブルースターのために派遣されたメディシィンマンなのだろう。ブルースターの真実のために、皮肉にも真実を語る者を殺害し(不良少年も)、嘘を言う者を支持した。こうしてひとつの真実を探りだす渦巻き運動は去っていった。綺譚めいたブルースター神話であり、神様の間違った計らいのようである。見当違いの天使であり、捜査を誤ったターミネーターである。
10点(2003-01-06 23:41:51)
3.  憎しみ
かつてのこと、私はようやくこの映画について語る時を持てた。それというのも私は詰まらぬ仕事で、ほとんど墓穴を掘りそうな状況下にいたからだ。私は悪意ある相手に対して全く無防備だ。無防備が美点であるとすれば、徹底して無抵抗を貫いたガンジーは地上を歩いた天使というべきであろう。きわめて崇高な思想の体得者でありながら、危険に身を挺せず、単一に純化された行動類型に徹した。だが何かが欠けていた。それが憎しみだ。私は憎しみにとらわれていた。この映画を観たのも、もの凄い形相で拳銃を発砲しようとするヴァンサン・カッセルのスチール写真が眼に飛び込んできたからだ。タイトルそのものが、私の求めていたものであった。憎しみは向こうから微笑みかけてきた。私とこの映画は荒々しく手を結んだ。憎しみは私の中と外を自由に往復した。観客は数名、これこそ映画館だ。映画は『ストーカー』の引用から始まった。深い井戸を落下する火。高層ビルから飛び降りた男の話だ。落下しつつ、1階毎に「まだ大丈夫、まだ大丈夫。……大事なのは落下ではなく、着地だ」という。これが彼らの生活態度における落下の隠喩であることが語られる。あとは拳銃をぶっ放す直前の異様な緊張感が間となって、暗くそして唐突に続いて行くばかり。ゴダールのロードムービー『気狂いピエロ』の紛れもない盗作。フィルムノワールの伝統にある『汚れた血』、人種差別に抗議する『ドゥ・ザ・ライト・シング』など、いくつかの映画が兄弟である。驚くべきことに、ドストエフスキーまで登場する。高層ビルから飛び降りた男の話は、『白痴』で語られる断頭台のエピソードに酷似する。絶望的な瞬間へ向けて、いよいよ意識は鮮明となる。最後の4分の1秒となっても、まだ耳は聴いている。頭が身体から切り離される瞬間へ向けて、死の瞬間へ向けて、頂点へ向けて、異様な成熟を作り出していく。これは本来的な時間の成熟、つまり時熟である。そして同時に引き算の無限分割が、アキレスと亀のような無限時間を錯覚させる。それが落下であり浮遊である。落下する天使、これが堕天使だ。ショットのつなぎ方も抜群に心地よい。拳銃がぶっ放されていなくとも十分に映像と音とで効果的に撃たれてしまう。撃たれることの享楽に偏執的にとらわれてしまう。最期の互いに拳銃を頭に付け合うシーンは鮮烈だ。私はこれと同じシーンを見た。それは何と、子供たちが互いの頬をつねるジャンケン遊び「ブルドック」であった。
10点(2003-01-06 22:37:35)
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